第118節 落露
――月は決してその場に留まることを知らず、益々高いところに昇っては我らを見下ろし続けていた。
目を覚まさぬ君の容態を祈るよう之な気持ちで見守り続けて皆が押し黙ってからどれだけの時が経ったのだろうか。
今では時折誰かが洟をすする音と松明が爆ぜる音が聞こえるばかりで、重々しく沈みこんだ空気が辺りに立ち込めている。
そして柵の向こう側に広がる森では、そこに住まうと思われる夜鳥の鳴き声が一つだけ。この場所にまで届いたその声は、我らの心の中を表すかのように虚しく響いていた。
(神様じゃない。)
わしは君を見つめながら、チユ殿の悲痛なまでに当たり前の告白を胸の内で繰り返していた。
それはそうだ。
我らは超常の神ではなく、ただの人に過ぎぬ。そして人のなせる業には限界がある。
目の前にあるような人の手に余るほどの重い傷を負った者をどうやって癒すことができようか。
今の君の姿を見てもなお救ってやれると思える者がいるとしたら、それは一体どのような人物なのか。
狂人か妄人か。いや。さもなければ、それこそ超常の力を持った神そのものに他ならぬではないか。
「いつまでもここに寝かせておくわけにはいきませんね。」
沈黙を打ち破って君を部屋に運ぼうと提案したのは下女殿だった。
彼女は年嵩らしく、悲嘆に暮れてはいてもそういった気遣いのできる女だったようで、わしに先んじてそう言うと意見を求めて皆を見回した。
(そう。確かにそうすべきだ。)
わしは黙って下女殿に同意していた。
今、君にしてやれることはすべてやったのだ。
このまま冷たい地べたの上に寝かせておいても、君が快方に向かうことはないし、君の体にとっても毒というものだろう。
少しでも早く君をこんな殺風景な土の上などではなく、温かな部屋の中で静かに寝かせてやる方がよいに決まっているではないか。
だが――そう分かってはいてもこの体はどうしても動こうとはしなかった。
弱気とも違うもっと別の感情がとあることに気付いてしまい、わしの体を動かそうとはしてくれなかったのだ。
(さあ動けよ。)
君を想うのであれば君のために動くのだ。と、わしは思うに任せなくなっていたおのれの体を叱咤した。
しかしどんなにそのことを否定しようとも、君の体に直に触れるという行為の恐ろしさに気付いているおのれがいる限り、わしは彼女を部屋まで運んでやることだけはどうしてもできそうになかった。
見ればチユ殿もまた既にそのことに気付いていたようで、うつむいたままここから動こうとはしていなかった。
下女殿の提案を肯定も否定もしようとしないその姿は、彼女がいかに全霊を以て君を救おうとしていたのかが伝わってきて、わしは彼女を見ることが憚られて視線を外した。
そのチユ殿の隣では、いまだに君の傷を押さえたままのサヨ嬢がいた。この娘は何も疑うことなく下女殿の言葉を受け入れているようだったが、ふと何かに気付いたようで驚きの声を上げた。
「あ、れ……ひ、ひいちゃん?……ひいちゃんが……。」
「っ!」
ついに気付いてはならぬことに気付いてしまったサヨ嬢の声が耳に飛び込んできて、皆の体がピクリと震えるのが伝わって来た。
「言わないで!」
一番に悲鳴のごとき制止の声を上げたのはチユ殿だった。
その声に驚き飛び上がったサヨ嬢は、しかしこればかりは絶対に譲れぬことと分かっているが故に反抗の声を上げた。
「だって、ひいちゃんが!」
「言わないで。」
まだ救けられるから。諦めないで。と、何も知らなかったサヨ嬢が気色ばんで食い下がったが、チユ殿はそんな抗議も今となっては受け入れられぬこととしてただ虚しく否定していた。
「でも……。」
「言わないで。お願い……。」
「……。」
それきりサヨ嬢が黙り込んだ。
うつむき影にかくれたチユ殿の表情は、ついに誰にも窺い知ることができなかった。
「嗚呼……オオミカミ様、ツクヨホシ様……。どうか……どうか……。」
下女殿が天を仰いで昼と夜の神に祈りを捧げる声が否応なしにわしの耳にも届いてきていた。
そうして年長の二人がこらえきれずに嗚咽を漏らし始めると、残された年少の娘もそれにつられたかのようにさめざめと涙をこぼし始めていた。
(……これまでだというのか。)
それはいつのころからだったのか。誰もが気付かぬふりをして、それでも懸命に取り戻そうとしていた物がすでに失われていることが皆の知るところとなってしまった。
そして、同じことを知ってしまったことで皆が認めてしまったのだ。彼女が……「ひいの君」の生命がすでに失われていることを。
失われたことを認めてしまった生命は、もう還ってくることはない。
ついに彼女を救ってやることができなかった。
我らがどれだけ必死になって手を尽くそうとも、彼女の生命は儚くも露となりこの現世から消えてなくなった。
(わしのもう少しだけ療治の心得があれば。)
そうすれば、きっと君を救けられた。と、わしはおのれの無知を悔やみ――いや、分かっていた。本当は分かっていたのだ、手を尽くすなど言ってみたところでそんなことは所詮は欺瞞に過ぎぬことが。
わしがこの場所に来てすぐ、彼女を抱きかかえた時、彼女は……既に……。
「うおああああああああっ……!」
わしは天を仰いで喉が裂けんばかりに吼えた。
そうして見上げた月は我らの祈りを聞き入れようとはしてくれないのか、無情なまでに満ち足りて仄白い輝きを我らに燦燦と降り注がせているばかりだった。




