第115節 献身
ようやく君の容態を把握できたらしいチユ殿が天を仰いでふうと息を一つ吐くと、吉報を期待する我らに向き直り教えてくれた。
「頭は平気。」
「そうなのか。」
チユ殿の報告を聞いたわしは、その言葉を直ちに受け入れる気になれず聞き返していた。
頭部の傷は慎重であるべきなのだ。
それを知っていたわしは、受け取りようによっては不信とも取れるような不躾な言い方で聞き返していた。
しかしチユ殿はそんな慎重さあらわにするわしに気分を害することもなくコクリと頷いて答えた。
「頭の骨に異常はない。」
「そうか。」
わしは安心した。
考えてみれば確かに額の出血も既に止まっているし、であれば少し擦りむいた程度のことだったのか。
この調子であれば君は大事に至っていないのでは。
少しばかりの希望を見いだせたわしは次の吉報を待った。
「……でも肩が外れて……あと背中……。」
「そうか……。」
しかし淡い期待も束の間のことで、続けてもたらされた凶報がわしだけでなく皆の表情にも影を落とした。
(やはりわしのせいか。)
わしは悔やんだ。
無理を押して櫓を登ってわしとの約束を果たし、そしてそこで力尽きて落下。肩から地に叩きつけられた。
ヒラタの証言に照らし合わせてみても、やはりそんなところなのだろうと思われた。
そうして俯き見れば、彼女のただれた背中がこんなことになってしまった償いをせよ。と責めているような気がして、わしは握ったこぶしを力なく戦慄かせていた。
(彼女を巻き込まなければこんなことには……。)
どうしてもそこを間違えた気がして、ついにはありもしない時を戻す手段などにまで思いを馳せる。
すると、心の隅でそんなわしを厳しく叱咤し激励しようとするもう一人のわしが現れて言った。
(馬鹿者!今やるべきは目の前にいる君を救うことだろう!)
わしはガツンと殴られて目が覚めた思いがして弱気を振り払った。
そうだ。今は後悔している時ではない。
そのような感傷は彼女を救ってから、いくらでもやりたいだけやればよいのだ。
わしは改めて君の背中を見た。
(むう、これは……。)
見れば見るほどに絶望という言葉しか出て来ないような酷い傷だ。おそらくわしの知識や業では彼女を救ってやることは叶わぬであろう。
しかし、下女殿が信頼を置くチユ殿の力ならばあるいは君を救けてやれるやも知れぬ。
(いや。きっとできる。)
弱気のおのれを放逐したわしはそう思い定めると、面を上げてチユ殿の指図を期待した。
しかしチユ殿はまだ報告に続きがあったのか、口を開きそうで開かないという状態が続いていた。
「……。」
その様子から彼女がどうやら難しいことを言おうとしているのが分かった。
なればこそ、我らも根気強く彼女の言葉を待ち続ける。
「……それに……。」
どうにか絞り出されたチユ殿の声が震えていた。
それだけで彼女が言おうとしているのが今まで以上の凶報であることが容易に窺がえた。
わしが直ちに彼女の口元に手をかざしてその言葉の続きを制止すると、チユ殿がこちらを向いた。
その目には涙が浮かんでいるのだろうか。松明の灯りを受けた瞳が必要以上に揺らいでいた。
「……。」
わしは、それ以上は言わないでよい。とかぶりを振って教えてやった。
チユ殿が下女殿を見やると、下女殿もまたわしに同意するように頷いた。
それを見たチユ殿は小さく頷いてから目尻を拭うと、あらためて気合を入れ直して君の治療へと直ちに取り掛かった。
「サヨ。」
「うん。」
あらかじめ任されていた酒甕と布をチユ殿へすかさず渡したのはサヨ嬢だった。
この娘はこの状況にあってただ一人、肩で息をしてどうにも落ち着かない様子だった。しかし、それでも何とか力になろうとして懸命になってこの場に踏み止まっているではないか。
(む。頑張れよ。)
わしはこの幼げな少女の健気な姿に微笑ましさを覚えたものの、また同時にどうしても拭えない果敢なさもを感じてもおり、しかし今のわしの立場からかけるべき適当な言葉も見つからずに、ただ心中で応援するに留めていた。
そんなわしを尻目に、キュッと口を結んだチユ殿はサヨ嬢から受け取った布をさっと酒に浸すとその布で君の背の傷を洗い清めてゆく。
もし意識があればのたうつほどに沁みるであろうその処置にも、しかし君は呻き声一つ漏らすことはなかった。
例えそれが呻き声であろうとも彼女の口から聞かれる声であればどれだけ安心できたことか。
「あっ――」
チユ殿が、あまり彼女には似つかわしくない声を上げるとピクッと手を止めた。
どうやら何かの拍子に君の傷が開いてしまったと見えて、君に当てた酒布がたちまち赤く染まってゆくではないか。
一体どうすればよいのか。
わしは不意の出血に驚いて判断が付かなかった。
「代わって。」
「はい。」
しかしわしとは違い、チユ殿は慌てていない様子で、そしてそんなチユ殿の指図に即座に入れ替わって傷を抑えたのはやはり微塵もジタバタする様子を見せていない下女殿だった。
この二人は如何にも呼吸の合った様子で慌てず騒がず速やかにすべきことを判断し、そして動いていた。
「火を。」
「お、おう。」
一方で、チユ殿の要求に一息遅れて応えたのはこのわし。
わしが言われるままに松明を差し出すと、彼女はわしから松明を取り上げておもむろに懐から取り出した短刀の刃を火で焙り始めていた。
ぱちっと松明から爆ぜた火の粉が顔にかかるのにも構わずに彼女は己の持つ短刀が火に炙られている様をじっと睨み続けて動こうとはしなかった。
まだ動かない……。
まだ動かない……。
まだ……。
その微動だにしない彼女の様子を見つめていると、随分と長い時が流れているように感じられた。
そして彼女はもう十分と見ると、覚悟を決めたように動き出した。
「どいて。」
「はい。」
チユ殿の指示に下女殿が離れると、チユ殿は血が溢れ出している箇所にその焼けた短刀を躊躇なく押し当てた。
十分に熱された刃を当てられた部分から肉の焼ける音と匂い、それに煙が辺りに漂った。
「うわあ……。」
サヨ嬢が悲鳴を上げた。
無理もないことだ。
その音だけでも処置の苛烈さの生々しく感じられて仕方がないというのに、のみならず煙と共に鼻に入ってくるその香ばしい匂いは、わしですら顔をしかめて背けたくなるほどの不吉でありながら、それでいてどこかで食欲をそそるような何とも厭らしいものだったのだ。
決して思ってはいけないような不謹慎な感情が我らを責め立てるのだ。
「我慢。ひいちゃんはもっとつらい。」
「うぅぅ……。」
そう言って顔をしかめながらも淡々とした口調でサヨ嬢を諭すのは、やはりチユ殿だった。
彼女が短刀を握る手もよく見てみれば赤く腫れているようで、さらには小刻みに震えてもいた。
あれだけ小さな刀を松明で直に炙り続けていれば、それを持つ手も無事では済まないだろうとは思っていたが、やはり彼女の手は酷く焼けてしまっているようだった。
それでも彼女は少しの躊躇いもなくそれをやって退けたのだ。
(胆力。献身。何という娘か。)
先ほどからこのチユ殿と言い、サヨ嬢と言い……。勿論、熱い湯に手を突っ込んでは布を洗うというとんでもない苦痛を伴うことを黙々とやって退けるタエ殿も含め、これほどまでに己が身を犠牲にして君を助けようとしてくれる彼女らの心胆の強さはどこから来るのだろうか。
そして――焼き刃を押し当てるなどという荒療治。その甲斐あって出血は止まった。
「これ、あとになっちゃう?」
恐る恐る聞いてきたのはやはり何度も取り乱しては、その都度すぐに立ち直って見せるサヨ嬢だった。
この少女はいつの間にか肩で息をすることも忘れ、ただただ君のことが心配でならないといった様子だった。
「うん。」
「そっか……。」
命には代えられない。それが分かっているのかサヨ嬢がこの処置についてそれ以上追求することはなかった。
しかし、そうして何かと騒がしくなってしまう幼いサヨ嬢とは対照的に、焼き刃を押し当てられたにもかかわらず悲鳴一つ上げないのは君だった。
わしは彼女のその姿を見るにつけ、君がいっそう憐れに思われてならなかった。
(サヨ嬢は君に代わって声を上げてくれているのだ。)
どうしても居たたまれなくなっていたわしはサヨ嬢の無邪気さをそのように解釈した。
そうやって君の代わりに声を上げてくれる者がいれば、君は生きようとすることだけに気持ちを集中させることができるだろう。だから……。
(だから……。どうして目を覚まさぬのか。)
わしはおのれの無力さに何かを殴りつけたいような気持ちになりながら、ただ彼女らの処置を見守ることしかできぬ自身を嘆いた。




