【最後の回想】 挑む白薔薇、ロザリンデ(2)
このブルグ王国の前身は、大公国だった。
旧い歴史を紐解けば、何百年かは隆盛を極めたとある大国の、その王弟が建てたいわば分家国だ。ちなみに現状ブルグ・エドナと共に大陸三王国の一角をなしているユベール王国は、その大国「北の王国」の末裔を名乗って興された国である。
そしてその大公国時代に唯一人、平民出身の正妃が実在していた。
名をエステル。彼女こそはその昔、若き大公シオンが巡り遭った『真実の愛』。
『無為無策無能な彼が無謀な貴賤結婚をした』相手だと、今に伝わっている。
一時的にも直系の血筋を途絶えさせた稀代の暗君の、哀れな花嫁となった町娘のエステルは、こんな逸話を残していた。
『あなたが、別れてください』
彼女エステルは、大公の婚約者であるナターシャ様にそう直談判に及んだという。公都の町娘ごときが大公妃になる予定の正当な婚約者、しかも筆頭侯爵家令嬢にどうやって会えたのか。ツッコミどころは満載だが、当事者であるナターシャ様の直筆手記に書かれているくらいだから、事実ではあるらしい。
――あれは、男の方に問うのが筋だった。
当時は大陸でただ一箇所、女性側からの公的離婚申立機関だった聖ソフィア女子修道院。『駆け込み聖堂』として音に聞こえたその聖ソフィアの初代院長に就いたナターシャ様が、そう記されていたそうだ。
『大公位か自分か、どちらを取るか』。エステルは、シオンにこそその選択を迫るべきだったと。
(心なんて――存外、簡単に奪えるのかもしれないわ)
きっと奪うこと自体は可能なのだ。あまり難しくはない。
いっそ無作為でも成り立つ所業で、何なら容易い技なのだろうか。しかし簒奪後も同じ状態を維持するとなれば、それはもう別の能力になってくる。
現実の戦争でも同じだろう。勝つことそのものよりも、勝利を得た後の占領・統治の方が余程大変で、遥かに難しい。
『哀れな』エステルには政治能力はなかった。その末路は無惨だったようだ。
推測するしかないのは、婚姻後の彼女の消息が先細り、やがては公記録からほぼ消えてしまうからである。わかっているのは没年だけだ。
慣れない公宮で、平民出の娘がうまく立ち回れたとは思えない。
むしろ針の筵だったろう。正妃エステルは、周囲から存在を黙殺されていた。
確かに居たはずなのに、あたかも居ないかのように扱われた。
側妃を正妃に昇格すべきだと進言した記録が幾つも残っている。
正妃が存命の為に叶わないのが誠に残念だという文章だけが、何度も出て来る。
そこに正妃本人への言及は一切ない。
『大公シオンの時代、若い女性が玉の輿にのるお伽話は流行らなくなった』
同時代の民間記述で彼女の人生を辿れる部分は、それくらいしかない。
エステルは、生きながら葬られていたのと変わらなかった。
――でも。あまり知られた話ではないわ。
ロザリンデは、どこでエステルの直談判のくだりを聞いたものか。
だが仮に見聞きしたとすれば、その事後をも承知していて然るべきなのに。
それとも。オウレリアには別の推論が浮かんだ。
彼女は王太子に代償を払わせようとしているのだろうか。
ルシウスが、彼女の恋する殿下が彼女の愛する妹を酷く傷付けたから。
王太子の身分を捨てる。
それは、ルシウスには甘美な誘惑かもしれない。つまり強烈な毒薬。
そんな夢を見せてどうする?
王族の誇りだけが、彼の背骨だった。
いずれ王冠を戴く者になる。その矜持だけが彼を支えて来た。
そのために色んなものを諦めた。儚い夢では慰められない程の時間と質量で。
正統な血を受け継ぐ第一王子であること。それ自体がルシウスの根幹をなしている。最早分離不能だ。
仮に、もしすべてを投げ出せたとして。
王太子でなくなった後の長い人生。その余生を耐え抜ける程、おそらくルシウスは強くない。
(第一、あの側妃が放っておくわけがない……)
王位継承権を放棄したルシウスが、天寿を全う出来る保障はどこにもなかった。
異母弟を産んだ側妃、継母の背後には野心的な実家の勢力が付いている。
逆の立場にあったなら、自分でも捨て置かないだろう。けれど。
――この場だけは、捨て置こう。
オウレリアは彼等の会話のその先を聞かなかった。結果はわかりきっていた。
万に一つも、ルシウスはロザリンデの懇願には添えない。
それは、命を捨てることと同義だからだ。




