そして、冬 ~騎士エクトル、その剣は誰がために?
「こんにちは。ご苦労様、エクトル」
――どうぞ呼び捨てになさってください。
そう言い出したのはエクトルからである。
ほんの数日前のことだ。オウレリアが姉の主になるからという理由だった。
卒業まで一週間を切っていた。
彼の敬愛する姉カミーユは、滞りなくフォン・エーレ侯爵家での面接を済ませていた。出仕は来週から。オウレリアが本格的に実家に戻るのに合わせて、護衛騎士としての勤務を始める予定になっていた。
「これは、オウレリア様――」
恭しく礼をしつつ、エクトルは扉の内側を気にしていた。
学長室の中にはルシウスがいる。今日は卒業式典の打ち合わせだ。
中にはデレクと入れ替わりに来た、もう一人の護衛騎士が入っていた。
学生達の成績の話題も出ているから、エクトルは学長室の扉の前で控えている。
「ああ。殿下に用事があるのではないの」
ルシウスは卒業生代表として謝辞を述べる予定である。
それは最終的に年間首位の成績を勝ち得たオウレリアが、その栄誉をルシウスに譲ったからだった。もちろん計算済みだ。
案の定、期末考査での王太子の成績はさんざんだった。
心の動揺が試験結果に直結するあたり、残念未熟だと言わざるを得ない。
学院最後の首位は、ありがたくオウレリアが頂戴した。
もう婚約者の成績に合わせて手を抜いてやる義理はなかったし、一位常連のデレクもいなかったからだ。ルシウスの評した鋼の心臓。オウレリアの方は、言い掛かりに罵られる理不尽くらいで動じるわけがなかった。
――こんな廊下で、立ち話にしたい内容ではないけれど。
扉は少しだけ開いている。オウレリアは中から見えない角度に立った。
本当ならゆっくり語りたいところだが、もう機会がない。
エクトルがルシウスに張り付いていない、貴重な時間はおそらくこれが最後だ。
「どうしてもあなたに御礼が言いたくて。お姉様のこと、口添えをしてくれてありがとう」
エクトルが目に見えて恐縮した。
「あなたも聞いてくれたでしょう? 来週から、あなたのお姉様がわたくしの護衛に付いてくださるの。とても嬉しいわ」
「――私もです」
エクトルも笑った。普段は鋭い、その目だけで。
いっそこういう笑い方こそが好ましい。
無邪気な笑顔は魅力的だが、同じだけ無防備でもある。つまり危うい。
「あなたは王太子殿下の騎士。さらにお姉様がわたくしの騎士になってくださる。これほど頼もしいことはないわ」
エクトルの頬が紅潮した。
彼は王宮で近衛になる。彼の自慢の姉と共に。姉弟揃って近衛騎士。
晴れがましいと、目が誇らかに輝いている。
「では。楽しみにお待ちしていると、あなたから伝えて」
上出来だ。エクトルにこんな表情までさせられれば。
カミーユを護衛騎士に起用するのは、オウレリアの前からの構想だった。
周到に根回しをして、王家の許可も取れていた。実家のフォン・エーレ侯爵家の方も事前に了承済だ。
ただ、いつ言い出すのかだけをオウレリアは見計らっていた。
おそらく。この時期が最適だったのだ。
それもエクトル以外に人を介さず、ほぼ直に自分の意向を伝えるのが。
これでエクトルはわたくしを裏切らない――決して。
エクトルは生粋の騎士である。
それが王宮近衛になる。ルシウスの友ではなく、王家に仕える騎士になるのだ。
いずれルシウスの個人的な要請のために、無茶をして体を張る人間ではなくなるはずだ。
栄えある王宮近衛。
その名誉を重んじる限り、愚かな企てには加担しないだろう。
以降はルシウスに友人として何事かを持ち掛けられたとしても、弟エクトルが逡巡すれば、必ず姉カミーユ経由でオウレリアの耳まで入って来る。
マルタン姉弟の絆は固い。
ここまで計算してはいなかったけれど、今後カミーユがオウレリアに齎してくれるものは予想外に多そうだった。オウレリアが王家の望ましい嫁でさえあれば、彼等姉弟は誇り高くも忠実な騎士達なのだ。
――たぶん育ち方が重要なのだわ。
血の絆だけではないのだろう。容易には説明し切れない、姉弟の強い繋がり。
それはルシウスには最も縁遠かったものだ。決して得られなかったものであり、これから先も得られないであろう種類の関係。
侯爵家の一人娘、オウレリアには兄弟姉妹はいない。不運だと感じたことはない。いとこ達と育ったせいもあるだろう。
だがルシウスには、いとこもいなかった。
子のない不幸、子のある不幸とはよく耳にするが、おそらく逆もあるのだ。
それは、兄弟姉妹にも同じことが言えるのかもしれない。
特に王家を、そしてルシウスを見ているとつくづくそう思う。




