【回想】 秋の終わり、その日のルシウス ~「悪いのはあなた」
「――私が、そんなに悪かったのか?」
ええ。あなたが悪いのです。
その同じ日、学院の回廊で珍しくルシウスの方から普通にオウレリアに話し掛けて来た。彼が婚約者に攻撃的でないのは、久しくないことだった。
どうやらフィオレンティーナを帰した少し後だったらしい。
きっと他に誰もいなかったに違いない。あまりに後味が悪くて、デレクやエクトルも何も言ってくれなかったそうだから。
チェスの対戦。目も当てられない失言。
オウレリアの耳に、いち早く事の次第は届いていた。
「オウレリア……教えてくれ。私はそれほど酷いことをしたか?」
あそこは黙っていればよかったのだろう。
もしくは、オウレリアは無言でただ首を振るだけでもよかったのだ。
何がダメでどういけなかったのか、どういうところが問題だったのか。
ルシウスも頭では理解はしていたのだと思う。
この明くる日には、ルシウスは急遽王宮へ呼び戻されている。
速やかに報告が行ったし、エルンスト辺境伯家からも抗議を受けて、簡潔でもきっちり事実確認が行われていた。王太子とて申し開きようもなかったろう。
そして父王御自らが息子を叱ってくれた。懇々と諭されたそうだ。
だから何も、オウレリアが憎まれ役を買って出る必要はなかった。
「私は、蛮族の奇異な風習を語ったに過ぎない」
――蛮族?
あれを蛮族と呼ぶのだろうか?
わたくし達を圧倒する歴史と文明を持つ、あの巨大な帝国を?
粋を凝らした工芸で他国を魅了し続け、爛熟した文化が諸国をひれ伏させるあの東方の大国を。
それに彼の国では、皇帝は絶大な権勢を誇っている。
暴虐の限りを尽くしても、それを押し通せるだけの強大な権力がある。
それはブルグにも、ユベールにもエドナにもないものだ。
だからこそ――時として狂った君主が誕生しても、歯止めが効かない。
正気でなくとも皇帝になれば、私情一つで皇室直属の精鋭部隊を動かせた。
即位前に泣く泣く手離した愛妾を、地の果てまで探させることもできた。
とうに再縁した彼女を、力ずくで攫って来させる荒業も可能だった。
事実、狂帝は精鋭達に命じて、かつて愛した女が新しく築いた家庭を壊滅させている。彼女の家族は、一人を除いて惨殺されてしまったのだ。フィオレンティーナの双子の弟達は、まだ二歳にも満たなかったはずだ。
さらに念を入れて、小さな集落をも丸ごと殲滅させてから、精兵達は去った。
赤子に至るまでの皆殺し。まさか帰りの駄賃だとでも思っていたのだろうか?
虐殺は証拠も証人も残さなかったから、国境地帯での惨劇が発覚したのは数日後だ。修羅場慣れしている領主家エルスントの騎士団員達が目を覆う程、無惨な有り様だったという。
――わたくし達の王権は、あんなに強くない。
宰相がいて大貴族がいて、貴族議会もある。
各種の組合が機能していて、新興富裕層までいる。
圧政が容認されない仕組みが工夫されている。狂人を玉座に就け難くするための構造を、あえてわたくし達は選んだのだ。あるのはその違いだけに過ぎない。
「貴妃の殉死は……皇国なら皆知ることだ。何も秘密ではないではないか」
いいえ。そういう問題ではない。論点はそこではなかった。
大使に外交筋、大商人達。各層複数の話を総合したから、事実であるのは間違いない。だが商人達でさえ、積極的には流布させなかった。あまりに痛ましい内容だったから。それほど血腥い情勢だったから。
狂帝の急逝も不穏なら、新帝継承前後でも夥しい血が流されている。
貴妃の殉死が狂帝の遺言なのか、皇后の意趣返しなのかは知らない。
けれど諸々の事情を勘案して、陛下は消極的にも詳細を伏せることを指示された。
「どうせいつかは知ることだ。そうだろう?」
いつかは。わかること。
「――けれど、それは今日ではありませんでした」
オウレリアは落ち着いていた。ここは沈黙する方が利口な場面だった。
だが言わずにはおれなかった。
「オウレリア……?」
「ええ。いつかは、何処からか知ることでしょう。けれどそれは今日、通りすがりの部外者から伝えることではなかったのです。絶対に」
辺境伯家は既に事情を把握していた。
国境地帯にある辺境領だから、情報収集は王宮よりも早い。
義姉のロザリンデまでが承知していたのかはわからない。
だがおそらく複数の人間達が生き残りのフィオレンティーナを慮り、いつ誰がどう伝えるべきかを悩んでいたのだ。或いは伝えるか否か、生涯口を噤むべきかを。
だから絶対に。あんな風に暴いていい話ではなかった。絶対に。
無神経な第三者から不意打ちのように、殴りかけるべき事柄ではなかったのだ。
絶対に。
「オウレリア……」
「殿下は今日、大きな過ちを犯されました。取り返しの付かないことをなさったのです。もうなかったことにはできません」
「そんな……」
ルシウスは項垂れた。
「そんなつもりではなかった。決して」
この方は覚悟が足りない。
そして、自身を善良だと信じ切っている。
オウレリアは己が清廉潔白ではないのを知っていた。
最後の審判の日に、煉獄の火にくべられるかもしれないことも。
だが必要なればこそ。オウレリアは覚悟している。
大貴族の一人として、王族に加わる者として。
光も影も栄誉も汚辱も、すべてを引き受ける。
今現在もこれからも、自分は意図して多くの人間を踏み潰すだろう。
だからこそ、無自覚に他者を踏み躙ることだけはあってはならない。
「容易く埋め合わせはできません。この償いは、殿下がこれから先の人生をかけてお考えになるべきです」
「………」
何を大袈裟な、とでも言いたげにルシウスは眉を顰めた。
まだ足りないのか。
「――なら、こうしてはどうだろうか」
「……?」
「あの子には異父弟妹がいるかもしれないだろう? 側室第一位の貴妃なんだ。
皇子を上げている可能性だってある。それを探してやるのはどうだ?」
通じない。ひとつも。通じていない。かけらも。
同じ国に生まれて、同じ時代に育って。同じ言語を話しているはずなのに。
「そうすれば、あの子もきっと喜ぶ――」
「殿下」
喜ぶ?
世間話でもするように胸を抉っておいて、次はお茶でも飲むようにグリグリ胸を掻き惑わす?
傷痕がさらに深くなるだけではないか。
「殿下は今日、あの少女のあえかな望みを粉々に打ち砕いてしまわれました。
生き別れの母親がもうこの世のどこにもいないと、率先して教えてしまった。
それも異国で非業の死を遂げた。しかも殺されたのだと」
わかっていた。これ以上は言い過ぎだ。だが止まらなかった。
「教える必要がありましたか? 聞かれもしないことを無理無体に。まだ大人ではない相手に。惨い事実を強いて知らせる必要が、いったいどこにありましたか?」
フィオレンティーナは許すまい。たとえルシウスが万の言葉を尽くしても。
わたくしなら、たとえ死んでも赦しはしない。
「王家の者が慈しむべき国民の一人に、他ならぬ殿下がむごい仕打をなさったのです。これは王族がなさることではありません」
「………」
あの少女にとって、東の皇帝とルシウスは同類だ。
母と家族の命を奪ったのは驕慢な皇族。無作為に不用意な言葉で彼女の心臓をひと突きにしたのは高慢な王族。フィオレンティーナには同じことだ。
ルシウスは自覚していない。
意識していないなら、それは未必の悪意だ。
他人に害意を抱かせるには、それだけで十分なのに。
傲慢で、人の気持ちに無頓着。
似たような生まれ育ちだから、オウレリアにも同じ素養があるのは否めない。
けれど習わなくともわかる。
人の世には致命的に言ってはならないこと、してはいけないことがある。
相手の反応を注視してさえいれば、一目瞭然なのに。
「――君は、どこまでも私の味方をしてはくれないのだな……」
ルシウスのこういうところが、オウレリアは心底嫌いだった。
互いの真意が通じ合える日は、永遠に来ないだろう。
――これがわたくしの婚約者。夫にしなければならない相手。
黄金の心が氷のように冷えていくのを、オウレリアは感じていた。




