後編
数ある作品の中から本作をお選びいただき、ありがとうございます。
拙い部分もあるかと思いますが、最後までお楽しみいただければ嬉しいです。
誰にも侵されない、私だけの領土
和也と聖良の消息が、風の噂ですら聞こえてこなくなった頃、私の人生にはかつてないほどの穏やかで濃密な時間が流れるようになっていました。
朝、誰よりも早く起きる必要はありません。アラームが鳴る前に、カーテンの隙間からこぼれる柔らかな陽光で目を覚ます。隣に、不機嫌そうな顔をして、脱ぎ散らかしたシャツを放置する男はもういません。シルクのシーツはパリッと乾き、私の肌にだけ優しく寄り添っています。
キッチンに立ち、自分のためだけに豆を挽き、コーヒーを淹れます。かつて和也に急かされながら作っていた朝食ではなく、今は自分がその日の体調と相談して選んだ、彩り豊かなサラダと焼き立てのクロワッサンが食卓に並びます。新聞を開いても、そこにあるのは無機質な活字の羅列ではなく、私が手がけた広告キャンペーンが社会を動かしているという確かな手応えだけです。
広告会社での私の立場は、あの騒動を経てさらに強固なものとなりました。
私を裏切り、利用しようとした者たちを冷静に、かつ徹底的に排除したあの手腕は、皮肉にも「危機管理能力」と「勝負強さ」として業界内で高く評価されることになったのです。
手がけるプロジェクトはどれも大規模なものになり、私の出すアイデアひとつで街の色が変わっていく。その全能感は、かつて家事の分担で揉めていた矮小な日々を、遠い過去の異国の出来事のように感じさせました。
夜、オフィスを出るときの足取りは軽く、充実感に満ちています。
自分のお金で、誰の目も気にせず、欲しかったデザイナーズブランドのバッグを買い、最高級のエステに通う。自分の身体を慈しみ、磨き上げることが、これほどまでに心を豊かにするとは知りませんでした。
鏡に映る私は、以前よりもずっと若々しく、そして何より「自由」という最高の宝石を纏って輝いています。
友人たちとの関係も、より純粋なものに変わりました。
札幌でいち早く異変を知らせてくれた小夜とは、今では月に一度、お互いの仕事の成功を祝うために贅沢な旅行を計画しています。
「ねえ、あの時、電話して本当によかったわ」
そう笑い合う小夜の横で、私は心から頷きます。
かつての私は「妻としての役割」という呪縛に縛られ、友人たちとの時間さえどこか後ろめたさを感じていました。しかし今は違います。自立した一人の人間として、尊敬し合える仲間と共に過ごす時間は、何物にも代えがたい宝物です。
週末には、新しく趣味で始めた陶芸の教室に通っています。
土の感触に集中し、形のないものに命を吹き込んでいく作業。そこには、他人の顔色を窺う必要も、裏切りを恐れる必要もありません。ただ自分の感性だけを信じ、形を整えていく。焼き上がった不揃いな器たちは、私の新しい人生そのもののように、力強く、どこか愛らしく見えました。
ある晩、一人でテラスに出て、シャンパンを片手に夜景を眺めていました。
かつては、この煌めく光のひとつひとつに、自分と同じように家庭の重圧に耐える誰かがいるのだと考えて、胸が締め付けられることもありました。
しかし今の私は、ただその美しさを享受しています。
誰かに依存し、誰かに尽くすことでしか自分の価値を見出せなかった頃の私は、もうどこにもいません。
誰にも邪魔されず、自分の時間を、自分の感情を、自分の人生を。
そのすべてを自分でコントロールできること。
明日、何を食べ、誰と会い、どこへ行くかを自分だけで決められること。
「私は、今、本当に幸せだわ」
心からの言葉が、夜風に溶けていきました。
あの「ざまぁ」という瞬間に感じた爆発的な快感は、あくまで通過点に過ぎませんでした。本当の勝利とは、彼らのことなど一分一秒も思い出さないほどに、自分の人生を輝かせることだったのです。
私はグラスを置き、静かな寝室へと戻ります。
明日の朝もまた、私を祝福する太陽が昇ることを、私は確信しています。
私の物語は、ようやく始まったばかり。
この静かで力強い幸福は、二度と、何者にも奪わせはしない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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