最後の一年は薬草園で。
いつも読んでいただきありがとうございます。
他にも作品がありますので読んでもらえたら嬉しいです。
宜しくお願いします。
最後の一年、薬草園で
「余命一年」
医師の冷たい宣告が、十四歳の私の世界を白黒に染めた。
魔力欠乏症――生まれた時から少しずつ、確実に魔力が失われていく不治の病。
王家の一員として、将来の王子妃として育てられてきた私に、残された時間はたったの三百六十五日。
「レイラ様、今日の宮廷礼法の授業は――」
「キャンセルして」
私は侍女の声を遮り、窓辺に立った。下界を見下ろす高塔の部屋からは、王都の華やかな街並みが広がっている。これまで私は、この部屋で王子妃としての教育を受け、三つの楽器を習い、生徒会長として学校を導いてきた。すべてが「将来のため」だった。
でも、私に「将来」はない。
「おばあ様の薬草園に行かせてください」
両親は驚いた。
祖母は王家から離れ、森の奥でひっそりと薬草を育てている変わり者だ。
宮廷ではほとんど話題に上らない。
「でも、レイラ、あなたにはまだやるべきことが――」
「もう十分です」
私の声には、年齢不相応な諦めがにじんでいた。
***
祖母の薬草園は、王都から馬車で半日かかる森の奥深くにあった。
石造りの小さな家と、無数の区画に分かれた畑。
そこには宮廷の華やかさは微塵もなく、ただ土の香りと草花の匂いが漂っていた。
「来たのかい」
祖母は腰をかがめて何かの草を摘んでいた。
銀髪は乱れ、作業服には土がついている。
宮廷の貴婦人たちなら眉をひそめるような姿だ。
「手伝わせてください。一年間だけ」
祖母はゆっくりと立ち上がり、深い緑色の目で私を見つめた。
「魔力欠乏症か」
「はい」
「ふむ」
それだけ言うと、祖母は小さな鎌を私に手渡した。
「まずはミントの収穫から始めてごらん。根元から三センチ上のところを切るんだよ。魔力を使うんじゃないよ、手の感覚だけを頼りにしなさい」
私は鎌を握った。
今までなら、こんな作業は一瞬の魔法で済ませたはずだ。
でも今、私の体内の魔力は砂時計の砂のように確実に減り続けている。
無駄には使えない。
最初はぎこちなかった。
指はすぐに土で汚れ、鎌の扱いも拙かった。
でも次第に、土の感触、植物の生命力、風の温度を感じられるようになってきた。
「これはセージ。記憶を助ける」
「ローズマリー。集中力を高める」
「カモミール。心を落ち着かせる」
祖母は一つひとつの薬草に物語があるように教えてくれた。
魔法のように瞬時に効果を発揮する宮廷の魔法薬とは違い、ここで育てられる薬草は時間をかけてゆっくりと効く。
日が経つにつれ、私は薬草園のリズムに慣れていった。
朝は夜明けと共に起き、露に濡れた草を摘み、午後は乾燥させ、夜は薬草の特性を学んだ。
生徒会長としてスケジュールを管理していた頃の効率性とは対極の、ゆったりとした時間が流れていた。
ある雨の日、私は温室で珍しい青い花の世話をしていた。
その花は「星の涙」と呼ばれ、十年に一度しか咲かないという。
「その花を見てどう思う?」
背後から祖母の声がした。
「美しいけど、儚いと思います。十年かけて咲いて、すぐに散ってしまうなんて」
祖母は小さく笑った。
「十年かけて咲くからこそ、美しいんだ。
瞬時に咲く魔法の花より、時間をかけて育つものには深みがある」
その言葉が、私の胸にゆっくりと染み込んでいった。
***
秋が深まり、私の魔力はさらに衰えていた。
以前なら簡単に灯せた明かりさえ、今では不確かで揺らめく。
でも不思議と、焦りは消えていた。
「レイラ、これをごらん」
祖母が小さな瓶を渡してきた。
中には乾燥した黄色い花びらが入っている。
「サンフラワーの花びらだよ。これを煎じて飲むと、体が温まる。
魔力は補えないが、体力は維持できる」
私はその花びらを手に取った。
魔法ではない、自然の力で。
「なぜこんなにたくさんの薬草を知っているのですか?」
ふと、私は質問した。
祖母は遠い目をして答えた。
「昔、私も魔力欠乏症の者を看取ったことがあんだよ。魔法では治せない病でも、自然の恵みで苦しみを和らげられることがある」
その言葉に、私は初めて、この薬草園の真の意味を理解した。
冬が来た。雪が薬草園を覆い、多くの植物が休眠期に入った。
私の体もまた、確実に弱っていた。
歩くのもやっとの日が増え、魔法はほとんど使えなくなった。
「レイラ、最後の仕事だよ」
祖母は温室の奥から小さな鉢を持ってきた。
中には、一つの種が埋められていた。
「これを植え、春まで育ててごらん。何の種かは教えない。自分で確かめてごらん」
その種は、何の変哲もない小さな茶色い粒だった。
私はそれを丁寧に土に埋め、水をやり、日当たりの良い場所に置いた。
日々、私はその種を見守った。
魔法を使わず、ただ自然のリズムに任せて。
時々、生徒会長だった頃のことを思い出した。
効率と結果が重視されたあの日々。
でも今、この小さな種が芽を出すのを待つ時間に、かつてない充実感を覚えていた。
***
年が明け、私の十五歳の誕生日が近づいた。
医師の宣告から十か月が経過していた。
ある朝、温室に入ると、あの種から小さな緑の芽が出ていた。
双葉はまだ小さく、もろそうだったが、確かにそこに生命があった。
「おめでとう」
祖母がそっと肩に手を置いた。
「これは『希望の芽』と呼ばれるものだ。
魔力欠乏症の者が真心を込めて育てると、芽を出すという。魔法ではない、自然の神秘だ」
私はその小さな芽を見つめ、涙がこぼれた。
これまで私は、魔力が失われることを「自分が無価値になること」だと思っていた。
でもこの十か月で学んだ。
価値は魔法の有無ではなく、自分が何を育て、何を残すかにあるのだと。
春が訪れる頃、私の体はさらに弱った。
でも心はかつてないほど穏やかだった。
私は薬草園の日誌を書き始めた。
これまで学んだ薬草の知識、育て方、効能。
魔力がなくても役立つ自然の知恵を、一冊の本にまとめた。
「これを、次の魔力欠乏症の子どもたちに渡してください」
完成した日誌を祖母に手渡す時、私は静かに微笑んだ。
最後の日、私は温室のベンチに座り、満開の「希望の芽」の花を見ていた。
その花は淡い金色に輝き、まるで小さな太陽のようだった。
「おばあさま、ありがとうございました」
「ありがとうはこっちだよ、レイラ。君が来てくれたおかげで、この園は十年ぶりに『希望の芽』を咲かせることができたわ」
祖母の手が私の髪を優しく撫でた。
夕日が温室をオレンジ色に染める頃、私はゆっくりと目を閉じた。
魔力は完全に消えていたが、私の心は満ちていた。
王子妃でも、優秀な生徒でもなく、ただ一人の少女として、最後の一年を全力で生きた。
そして知った――最も儚い命ほど、深く輝くことを。
薬草園には、私が残した日誌と、金色に輝く一輪の花が、次の春を静かに待っていた。
奇跡が起きた。
それは雷鳴のような劇的なものではなかった。
誰もが息を呑むような光でも、天からの声でもない。
ただ――
温室の空気が、ふっと揺れた。
満開になった「希望の芽」の花が、かすかに震えたのだ。
祖母が眉をひそめる。
「……おかしい」
花びらが、ゆっくりと開ききる。
淡い金色だった花の中心が、柔らかな光を放ち始めた。
それは魔法の光とは違っていた。
宮廷で見てきたどんな魔法よりも、静かで、温かく、そして――生きていた。
「レイラ」
祖母の声が、わずかに震えた。
「手を出してごらん」
私は言われた通り、震える手を花へと伸ばした。
魔力は、もうほとんど残っていない。触れたところで何も起きないはずだった。
けれど。
花の中心から、ひと粒の露のような雫が落ちた。
それは私の指先に触れ――
すうっと、肌に溶けた。
次の瞬間。
胸の奥で、何かが灯った。
「……え?」
消えかけていたはずのもの。
もう二度と感じないと思っていた感覚。
それが、確かにあった。
魔力。
小さく、弱く、でも確かに。
「奇跡」
祖母が息を呑む。
「そんなはずは……」
私の胸の奥で、微かな光が揺れている。
それは昔のような強大な魔力ではない。
だけど、確かに「生きている力」だった。
私は震える声で言った。
「……おばあさま」
祖母はゆっくりと花を見つめた。
「これは……」
長い沈黙のあと、祖母はぽつりと言った。
「伝説は本当だったのかもしれん」
「伝説?」
祖母は温室の窓を見た。
雪が溶け始め、森の奥から春の匂いが流れ込んでくる。
「昔の薬草書に、こう書いてあった」
祖母はゆっくり言葉を紡いだ。
「『希望の芽は、魔力を持つ者が育てる花ではない、魔力を失った者が、それでも生きようとした時にだけ咲く』」
私は花を見つめた。
「つまり……」
祖母は私を見た。
深い緑の瞳が、優しく細くなる。
「魔力は失われたんじゃない」
祖母は言った。
「形を変えただけだ」
私の胸の奥で、温かい光がゆっくりと広がる。
それは魔法の力ではなかった。
けれど。
土の匂い。
草の香り。
風の流れ。
この一年で覚えたすべてが、体の中で静かにつながっていく。
私はそっと手をかざした。
温室の隅のミントの葉が、かすかに揺れた。
魔法ではない。
命の流れに、ほんの少し触れただけ。
祖母が小さく笑った。
「なるほどね、レイラあなたは薬草師の魔力を手に入れたらしい」
私は驚いて祖母を見る。
「そんな魔力があるのですか?」
祖母は肩をすくめた。
「正式な名前はない。宮廷の連中はそんなものを魔法と認めないからな」
祖母は土のついた手で私の頭を軽く叩いた。
「だがな」
「森は認める」
その瞬間。
温室の外で、雪の下から小さな芽がいくつも顔を出した。
春だった。
私は、気づく。
余命一年。
そう言われた日から、ちょうど一年が経とうとしている。
でも――
胸の奥の灯りは、まだ消えていない。
祖母がぽつりと言った。
「さて」
「これから忙しくなるぞ、レイラ」
「魔力欠乏症の子どもたちは、王国中にいる」
祖母はにやりと笑う。
「お前の本を読ませるだけじゃ足りない」
「実際に教えてやらないとな」
私はゆっくりとうなずいた。
もう、怖くなかった。
たとえ寿命が短くても。
たとえ宮廷に戻れなくても。
この森で。
この薬草園で。
私は、何かを育て続けられる。
温室の中央で、「希望の芽」の花が春の光を受けて輝いていた。
小さな太陽のように。
そしてその日――
私は初めて、自分の未来を思い描いた。
春が森に満ちてから、数週間が過ぎていた。
雪はすっかり消え、薬草園は新しい芽であふれていた。
ミント、セージ、カモミール。
そして温室の中央には、あの「希望の芽」が静かに輝いている。
私は木の机で薬草を刻んでいた。
魔力は相変わらず小さな灯りほどしかない。
けれど、不思議なことに植物に触れると、その力がほんの少しだけ強くなるのを感じていた。
「レイラ」
祖母が外から声をかけた。
「客がきたようだ」
「客?」
こんな森の奥に来る人などほとんどいない。
私は外に出た。
そこには、見慣れない豪華な馬車が止まっていた。
紋章を見ると、王国のものではない。
祖母が低い声で言う。
「隣国の紋章だ」
馬車の扉が開き、重そうな鎧の騎士が降りてきた。
その後ろから、豪華なドレスの女性――しかし顔は青白く、今にも倒れそうな少女が支えられて現れた。
「突然の訪問をお許しください」
騎士が深く頭を下げた。
「私は隣国アルディアの公爵家の騎士です」
少女を見た瞬間、私は胸がざわついた。
魔力の流れが、異常だった。
まるで――
「魔力欠乏症ですか?」
私は思わず呟いた。
騎士が驚いて顔を上げる。
「ご存知なのですか!?」
祖母が腕を組んだ。
「この子も同じ病だったのですよ。」
騎士の顔に、希望が浮かぶ。
「どうか助けてください。公爵令嬢エリシア様です」
少女――エリシアは弱々しく頭を下げた。
「無理を言っているのは分かっています」
声はか細かった。
「宮廷の魔導師も、隣国の賢者も、誰も治せませんでした」
私は彼女を見つめた。
昔の自分を見ているようだった。
諦めかけている目。
残り時間を知ってしまった人の目。
私は静かに言った。
「温室へ来てください」
⸻
エリシアは温室のベンチに座った。
呼吸が浅い。
私は彼女の手を取る。
冷たい。
魔力が、ほとんどない。
「余命は?」
騎士が答える。
「半年と宣告されました」
祖母が小さく息を吐く。
私は少し考えた。
そして温室の中央へ歩いた。
「……希望の芽」
満開の花が、静かに光っている。
祖母が眉を上げた。
「レイラ、それを使うつもりかい?」
「使うんじゃないの」
私は言った。
「育ててもらうの」
エリシアが困惑した顔で私を見る。
「私が……?」
私は小さく笑った。
「はい」
「魔法じゃありません」
私は土の入った鉢を持ってきた。
そこに、小さな種を置く。
「毎日水をあげてください」
「土を触ってください」
「太陽を見てください」
エリシアは戸惑う。
「それだけで……?」
「はい」
私は静かに言った。
「この花は、魔力では育ちません」
「生きたいと思う人が育てるんです」
温室は静かだった。
外で風が吹く。
エリシアはしばらく種を見つめていた。
やがて――
震える手で土をかけた。
「やります」
小さな声だった。
でも確かに言った。
「私、まだ……」
涙がこぼれる。
「生きたいです」
その瞬間。
温室の空気が、ふっと動いた。
私は感じた。
エリシアの中で、消えかけていた何かが揺れた。
祖母がぼそっと言う。
「面白くなってきましたね」
騎士は戸惑っている。
でも私は確信していた。
奇跡は魔法では起きない。
種が芽を出すように。
時間をかけて、ゆっくりと起きる。
私はエリシアに言った。
「ようこそ」
「薬草園へ」
そして――
その日から、隣国の公爵令嬢の
「もう一つの余命一年」 が始まった。
エリシアが薬草園に来てから、二週間が過ぎた。
彼女は毎朝、温室に来るようになった。
豪華なドレスはもう着ていない。
祖母が貸した簡素な作業服を着て、小さなスコップを握っている。
「今日は土が少し乾いていますね」
エリシアが言う。
「水を多めにした方がいいでしょうか?」
私は土に触れた。
「ううん、少しだけで大丈夫。根が呼吸できなくなるから」
彼女は真剣な顔でうなずく。
最初に会った時の、諦めた表情はもうない。
まだ体は弱いけれど、目に光が戻ってきていた。
小さな鉢の中では、あの種が芽を出していた。
まだ双葉だけの、小さな命。
「芽が出た……」
エリシアは何度もそれを見つめていた。
「私にも育てられるんですね」
私は微笑んだ。
「もちろん」
祖母は遠くからそれを見ていたが、なぜか難しい顔をしていた。
その夜。
私は祖母に呼ばれた。
「レイラ、少し来てごらん」
祖母は温室ではなく、薬草庫にいた。
棚には古い薬草書がぎっしり並んでいる。
祖母は一冊の分厚い本を机に置いた。
「エリシアの腕を見たかい?」
「腕?」
「左の手首だ」
私は首を傾げた。
「見ていません」
祖母はページを開いた。
そこには古い図が描かれていた。
黒い蔦のような紋様が、腕に絡みついている。
私は息を呑んだ。
「……これ」
祖母が静かに言う。
「呪いだ」
「え?」
「魔力欠乏症じゃない」
私は固まった。
祖母は続ける。
「似ているんだ。症状がかなり」
「だが違う」
ページの文字を指さす。
「生命吸収の呪い」
「対象の魔力を少しずつ吸い取り、やがて命を奪う」
背筋が冷たくなった。
「誰がそんな……」
祖母は肩をすくめた。
「公爵家の娘だぞ」
「敵はいくらでもいるでしょう」
その時。
温室の方から、小さな悲鳴が聞こえた。
「レイラさん!」
エリシアの声。
私は走った。
温室に入ると、彼女が床に座り込んでいた。
顔が青い。
腕を押さえている。
「どうしました!?」
私は彼女の手を取った。
その瞬間。
見えた。
手首の内側。
黒い紋様。
細い蔦のような模様が、皮膚の下でうごめいている。
祖母の言葉が頭に響く。
――生命吸収の呪い
エリシアが震えて言う。
「最近、夜になると、これが痛くて……」
彼女は袖をめくった。
紋様は、以前より広がっていた。
騎士が顔色を変える。
「そんな……!」
私は歯を食いしばった。
これは病気じゃない。
誰かがかけた呪いだ。
そして――
このままなら半年どころか、もっと早く命を奪う。
私は温室の中央を見る。
「希望の芽」の花が、強く光っていた。
まるで何かを警告するように。
祖母がゆっくり言う。
「レイラ」
「その花はな、呪いにも反応するようだね」
私は振り返る。
「解けるんですか?」
祖母は首を振った。
「簡単じゃないよ」
「この呪いは、かなり古い魔術だ」
「普通の魔導師じゃ無理だろうね」
温室は静まり返る。
エリシアの顔が青ざめていく。
私は彼女の手を強く握った。
そして言った。
「大丈夫です」
彼女が驚いて私を見る。
私は「希望の芽」を見つめた。
「薬草園には、まだ使ってない薬草がたくさんあります」
祖母が片眉を上げる。
「ほう」
私は静かに言った。
「呪いが魔法なら」
「自然の力で、壊せるかもしれない」
祖母がゆっくり笑う。
「面白い」
「やる価値はありそうね」
私はエリシアを見る。
「一緒に戦いましょう」
エリシアの目に、涙が浮かんだ。
「……はい」
その瞬間。
温室の中で「希望の芽」の花が、
今までで一番強く輝いた。
まるで――
呪いの主に、宣戦布告するように。
エリシアの腕に浮かぶ黒い紋様は、日を追うごとにわずかずつ広がっていた。
薬草園の朝は静かだった。
鳥の声、露に濡れた草、ゆっくり昇る太陽。
けれど温室の中だけは、張り詰めた空気に包まれていた。
私は机の上に薬草を並べていた。
「セージ、ローズマリー、白樹皮……」
祖母が腕を組んで見ている。
「呪いを弱める薬湯か」
「完全には消せなくても、進行は遅らせられるはずです」
エリシアは椅子に座り、静かにその様子を見ていた。
左手首の紋様は、薄く脈打つように動いている。
騎士が低い声で言った。
「……本国でも、ここまで詳しく調べられませんでした」
祖母が鼻を鳴らす。
「宮廷魔導師は魔法ばかり見る」
「自然を見る目がない」
私は薬湯をカップに注いだ。
「苦いですよ」
エリシアは小さく笑う。
「覚悟してます」
一口飲んで、顔をしかめた。
「……本当に苦いです」
温室に、少しだけ笑いが広がった。
その時だった。
外から、蹄の音が聞こえた。
騎士が振り向く。
「誰か来ます」
祖母は眉をひそめた。
「こんな森の奥に?」
私は外に出た。
薬草園の入り口に、黒い馬が三頭止まっていた。
乗っているのは、見慣れない鎧の兵士。
そして中央に――
一人の若い男。
長い黒髪。
深い青の外套。
胸には、見覚えのある紋章。
エリシアが後ろから息を呑んだ。
「お兄様」
私は振り返る。
「兄?」
男はゆっくり馬を降りた。
その目は冷たかった。
「久しぶりだな、エリシア」
騎士が青ざめる。
「殿下……」
私は理解した。
彼は隣国の王族だ。
男はゆっくりこちらへ歩いてきた。
「探したよ」
エリシアは震えている。
「どうして……ここが……」
男は笑った。
その笑みは、温度がなかった。
「呪いをかけた本人が、居場所を分からないと思うか?」
空気が凍った。
騎士が叫ぶ。
「なっ……!」
私は一歩前に出た。
「あなたが……?」
男は私を見る。
「君が噂の薬草娘か」
祖母がぼそっと言う。
「王子様ですか?」
男は軽く頭を下げた。
「アルディア王国第一王子ルシアンだ」
エリシアが叫んだ。
「どうして……!」
王子――ルシアンは肩をすくめる。
「簡単な話だ、公爵家は王位継承に影響力を持つ」
静かに言った。
「君が死ねば、父上は弱る」
「公爵家は政治力を失う」
騎士が怒鳴る。
「狂っている!」
ルシアンは笑う。
「政治とはそういうものだ」
私は拳を握った。
エリシアの腕の紋様が、強く脈打った。
ルシアンがそれを見る。
「まだ生きていたか、だがもう長くない」
その瞬間。
温室の中で、強い光が弾けた。
全員が振り向く。
「希望の芽」の花が、激しく輝いている。
まるで怒っているように。
祖母が小さく呟く。
「ほう……」
ルシアンの目が細くなる。
「面白い花だな」
私はエリシアの前に立った。
「この呪い、解きます」
ルシアンは笑った。
「不可能だ、これは王家の禁術だ、宮廷魔導師でも解けない」
私は温室の光を見る。
胸の奥の小さな魔力が、ゆっくりと動く。
「魔法じゃありません」
私は言った。
「自然の力です」
ルシアンが初めて、わずかに眉を動かした。
祖母がにやりと笑う。
「さて王子様うちの園を甘く見ない方がいいぞ」
その瞬間。
温室の周りの草が、風もないのに揺れ始めた。
ルシアンの笑みが、ほんの少しだけ消えた。
「……何だ?」
私は静かに言った。
「あなたが呪いを使うなら」
「私は命を育てます」
森の奥で、春の芽が一斉に顔を出していた。
戦いが、始まった。
温室の中で、「希望の芽」の花が強く輝いていた。
淡い金色の光が、まるで呼吸するように脈打っている。
ルシアン王子はその光をじっと見つめた。
そして、ゆっくりと口元を歪めた。
「……なるほど」
祖母が眉をひそめる。
「何がおかしい」
王子は小さく笑った。
「まさか、こんな所で見つかるとは思わなかった」
私はエリシアの前に立ったまま言った。
「何のことですか」
王子は温室の中央を指した。
「その花だ」
「それはただの薬草じゃない」
祖母の目が細くなる。
「ほう?」
王子はゆっくり歩き、温室の入口まで近づいた。
だが、それ以上は入らない。
まるで見えない壁があるかのように。
「その花の名前を知っているか?」
私は答える。
「希望の芽です」
王子は首を振った。
「違う」
静かな声で言った。
「世界樹の幼木だ」
温室が静まり返った。
騎士が呟く。
「世界樹……?」
祖母が低く言う。
「……伝説の?」
王子は頷く。
「世界の魔力を生み出す根源」
「千年に一度しか芽吹かない」
「本物の世界樹」
私は花を見た。
小さな金色の花。
でも今、その光は温室全体を満たしている。
「そんな……」
祖母がゆっくり言う。
「だからか」
「この森の魔力が、最近おかしいと思った」
王子は笑う。
「その通り」
「世界樹が芽吹けば、周囲の生命は強くなる」
彼はエリシアを見る。
「そして」
「呪いに対抗する力も生まれる」
私は理解した。
だから王子はここに来た。
エリシアを殺すためだけじゃない。
「……世界樹を奪うため」
王子は拍手した。
「正解だ」
騎士が剣を抜く。
「殿下!それ以上近づけば――」
王子は手を軽く振った。
次の瞬間。
地面から黒い影が噴き出した。
「呪霊兵だ」
祖母が舌打ちする。
影は人の形を作り、温室を囲んだ。
エリシアが震える。
「兄上……」
王子は冷たく言う。
「君はここで死ぬ」
「そして世界樹は私のものになる」
その時だった。
温室の中央で、世界樹の幼木が強く光った。
金色の光が、床を走る。
そして――
土の下から、根が伸びた。
祖母が目を見開く。
「……守っている」
根が温室の床を突き破り、壁のように広がる。
呪霊兵が近づくと、触れた瞬間に崩れた。
王子の表情が初めて変わった。
「自動防衛……?」
私は幼木の前に立った。
胸の奥の小さな魔力が、温かく揺れる。
そして気づく。
この木は――
私と繋がっている。
祖母がゆっくり言った。
「レイラ」
「お前……」
「世界樹に選ばれたな」
王子の目が鋭くなる。
「なるほど」
「だから芽吹いたのか」
私は王子を見る。
「あなたには渡しません」
王子は静かに言った。
「それは世界を支配する力だ」
「小娘が持つものじゃない」
私は首を振る。
「違います」
温室の中の草が一斉に揺れた。
「これは命を育てる力です」
世界樹の光がさらに強くなる。
そして――
エリシアの腕の呪いが、初めて弱く光った。
王子が息を呑む。
「……何?」
祖母が笑う。
「どうやらこの森は、お前を歓迎してないらしいな」
外で、森の木々がざわめいた。
世界樹の根が、地面の奥へ奥へと広がっていく。
その日。
小さな薬草園は――
世界を揺るがす場所になった。
ルシアンが森を去ってから三日が過ぎた。
薬草園は、表面上はいつもの静けさを取り戻していた。
鳥が鳴き、風が草を揺らす。
けれど温室の空気は張り詰めていた。
世界樹の幼木は、以前よりも大きくなっている。
幹は指ほどの太さになり、金色の葉がいくつも芽吹いていた。
そしてその前には――
守護騎士。
白い樹木の鎧をまとった騎士は、微動だにせず立っている。
祖母が腕を組んで言った。
「さて、王子の呪いだが」
机の上には、エリシアの腕から写し取った呪いの紋様が描かれている。
黒い蔦のような模様。
祖母はそれを指で叩いた。
「これ、ただの吸収呪いじゃない」
私は顔を上げた。
「違うんですか?」
祖母は笑った。
「繋がっている」
「呪いをかけた術者にな」
騎士が低く言う。
「術者と対象の魔力回路を結ぶ呪術ですね」
祖母がうなずく。
「そうだ」
エリシアが不安そうに言った。
「それって……」
私はゆっくり言う。
「つまり」
「この呪いを逆に流せば」
祖母がにやりと笑う。
「その通り、呪い返しだ」
温室の空気が少しだけ重くなる。
エリシアが驚く。
「で、でも……王子に?」
祖母は肩をすくめる。
「向こうが先に仕掛けた」
「文句は言えん」
私は世界樹を見る。
金色の葉が揺れている。
守護騎士が言った。
「世界樹の魔力なら可能です」
「呪いの流れを逆転できます」
祖母が笑う。
「ただし派手になるぞ」
私はうなずいた。
「やります」
エリシアが私の手を掴む。
「レイラさん……」
私は優しく言った。
「大丈夫」
「これはあなたを守るためです」
⸻
その夜。
温室の中央に、呪いの紋様が描かれていた。
薬草の粉。
白樹皮。
月光花。
自然の力で作られた術式。
エリシアが中央に立つ。
私はその前に立った。
祖母が呟く。
「始めてごらん」
私は世界樹の幹に手を置いた。
胸の奥の魔力が、静かに広がる。
守護騎士が剣のような枝を地面に突き立てた。
金色の光が走る。
呪いの紋様が浮かび上がった。
エリシアの腕の黒い蔦が、強く光る。
そして――
一本の黒い線が、空へ伸びた。
祖母が言う。
「見つけた、術者の位置だ」
私は静かに言った。
「返します」
世界樹が輝く。
金色の光が、黒い線を逆流した。
⸻
同じ頃。
隣国アルディア王国。
王城の高塔。
ルシアン王子はワインを飲んでいた。
「世界樹か」
彼は笑う。
「面白い」
その時だった。
腕に、チクリと痛みが走った。
「……?」
袖をめくる。
そこに――
黒い紋様。
ルシアンの顔が凍る。
「……は?」
紋様が、ゆっくりと広がる。
エリシアにかけたのと、同じ呪い。
彼は立ち上がる。
「馬鹿な!!」
魔力を流して消そうとする。
だが。
呪いはびくともしない。
むしろ強くなる。
耳元で、声が聞こえた気がした。
静かな少女の声。
「返します」
ルシアンが叫ぶ。
「ふざけるな!!」
机を叩く。
だが呪いは止まらない。
彼は理解した。
世界樹の力。
自然の魔力。
自分の呪術より、格上。
その瞬間。
黒い蔦が、腕を締め上げた。
ルシアンが床に膝をつく。
「ぐっ……!」
息が苦しい。
魔力が吸われる。
彼は初めて恐怖を感じた。
「……あの小娘……!」
遠くの森。
薬草園の温室で、世界樹が静かに光っていた。
祖母が笑う。
「成功したみたいね」
エリシアの腕の呪いは、ほとんど消えていた。
私は深く息を吐く。
守護騎士が言う。
「呪い返し完了」
祖母が肩を叩いた。
「見事だ、レイラ」
私は世界樹を見上げた。
小さな葉が風に揺れている。
遠い王城で、ルシアンは床に膝をついたまま震えていた。
彼は理解する。
自分が遊び半分で呪った少女と薬草園が――
本物の怪物だったことを。
春が深まる頃。
薬草園の世界樹は、幹の太さが大人の腕ほどになり、金色の葉が枝いっぱいに広がっていた。
光は森全体に反射し、周囲の草木も力強く芽吹き、花々が咲き乱れている。
温室の中で、守護騎士は立っていた。
白樹皮の鎧は光を反射し、まるで森そのものが具現化したかのようだった。
「レイラ」
祖母が静かに言う。
「ここからは、お前の世界だ」
私は深呼吸した。
胸の奥の魔力が、世界樹と一体化する感覚――
それは、かつて感じたことのない、生き物としての力強さだった。
「森の守護者として」
守護騎士が膝をつく。
「命を育てる者よ、我が力はあなたのもの」
その時、遠くから隣国アルディア王国の騒ぎが聞こえてきた。
ルシアンは失脚したまま、王位も失い、軍も手元から消えた。
森の膿を出した世界樹の力が、隣国の権力構造をも変えていたのだ。
「この森は、もう誰のものでもない」
私は世界樹に手を置く。
光が手から全身に伝わる。
枝葉が揺れ、周囲の薬草も光に応じて成長した。
「新しい国を作る」
祖母が微笑む。
「森の国だ」
薬草園は、ただの小さな庭ではなくなった。
森全体が生き生きと呼吸し、世界樹を中心に、人々を守る領域となった。
エリシアは私の隣で微笑む。
「レイラさん、森の国……」
「はい。ここが、私たちの守る場所です」
守護騎士が金色の瞳で森を見渡す。
「これからは、森の全てを守ります」
森の中では、動物たちが集まり、植物が急速に繁茂する。
隣国からの侵入者も、世界樹の防衛機構によって自然に弾かれた。
森の国は、人間と自然が共存する新たな王国として姿を現し始めた。
春風に乗って、世界樹の光が遠くの空まで届く。
それは、未来への希望の光――
魔力に頼らずとも、命と自然の力で世界を守れる証だった。
「さあ、これからだ」
祖母の声。
「世界樹と共に歩む、新しい物語の始まりだ」
私は深く頷き、光に包まれる。
守護騎士の影が私を守るようにそびえ立つ。
世界樹の力で、この森は永遠に生き続ける。
薬草園から始まった小さな奇跡は、
今、森の国という壮大な命の王国となった。
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