第56話 克服の鍵
才子ちゃんは突如現れた『変態黒仮面』という言葉に完全に時が止まっていた。無理もない。おそらく、少女にとって自慢の父。そのあだ名が変態黒仮面なのだ。むごい。あまりにもむごい仕打ちだ。
「ちょっと、六休さん。なによそれ。それはその、本当なの? そんなあだ名……。あんまりだわ」
ビアンカはあまりのむごさに顔をこわばらせながら、何とかフォローに入った。
やはりビアンカはやさしい。さっきまで、まさに自分が総攻撃されていたというのに。
そんな彼女の横で、僕は空気に徹することしかできない。
何もできない自分が憎い。
「父が、あの厳格な父がそんなあだ名で呼ばれるわけないでしょうっ!!」
才子ちゃんのジト目には、熱い怒りが宿っている。
「いけませんっ。これ以上の詮索はよした方がいいっ!」
六休さんは才子ちゃんをしっかり見返しながら言った。
その予想外の返答に、才子ちゃんは、『何なの?』と言いたげな、混乱したジト目になっている。才子ちゃんは抗議したっていうか、拒否したっていうか、いたって自然な反応をしただけだと僕は思う。間違っても詮索したわけではない。そんな当たり前のことすら、言ってあげられない。
僕が、僕が空気でさえなければ……。
自分の無力さにこれほど腹が立ったことはない。
「うかつでした。隠密業とは、非道の道を進むのもまた仕事。それは、あまりにも過酷。必要とはいえ、時に泥にまみれ、時にへつらい、時にムチ打たれ、時に女装し、時に犬となり、時に赤ちゃん言葉で……。これ以上、私の口からは言えません」
六休さんは目を固くつむり、首を振りながら嘆いている。
いやいやいや、もう手遅れなところまで全部喋っておいて何ですか!
後半部分!!
完全に、隠密業とは別方向の過酷さに聞こえましたけど!
というか、濃いめのプレイにしか聞こえませんでしたけど!
もっと違う過酷さがあるでしょうに!
ただ、気づけば六休さんは泣いていた。
そうですか。
あなたも、あなたなりにつらかったんですね。
そうですよね。
あなたには、いつだって悪意はない。
あるのは、いつも善意だ。
隠密。
確かに、己を捨てる覚悟は必要な職業ですよね。
僕も静かに涙ぐんでしまう。
「そ、そんな……」
「もし、もしそうだとするなら……」
「やはり、あれは……」
突然、才子ちゃんがうろたえ始める。
あれはって何?
何か見てしまったの??
才子ちゃんっ! それ以上は、それ以上は思い出してはいけないっ!
「確かに、あの夜、お母様は目元だけを覆った仮面を……。そしてその手には……ムチらしきものと、蝋燭らしきものが……」
だめだ。
幼いころ、才子ちゃんは見てしまっていたんだ。
し、しかも、お母様まで。
ふ、夫婦でなのか。
それはあまりにも……。
いや、しかしだ。
見方によれば、それはとても円満な、幸せな夫婦ということもあるわけで。
ねぇ。そうだろうビアンカ。
何とかフォローしてあげてよっ!
女同士。君ならできるっ!
そう願う気持ちを込めて、僕はビアンカを見た。
しかし、ビアンカは手で口元を押さえ、顔を真っ赤にしてぷるぷる震えていた。
さすがのビアンカでも、刺激が強すぎたようだ。
「あのおしとやかで、常に優しかったお母様も、隠密の道を歩んでいらっしゃったのね」
才子ちゃんの目は遠く、そしてとても静かだ。
「内助の功。お母様あってのお父様だったのね」
ええ??
なに? 今なんと??
才子ちゃんの目に、誇らしげな光が宿っている。
なぜだ? 見えている世界が違うのか?
「おみごと」
「その一瞬の心の切り替え。まさに隠密の極み」
「あれほどの衝撃を、瞬時に誇りへ変えるとは。霧隠家には代々伝わる必殺の奥義があると聞き及んでいます」
「今のでわかりました。その奥義は己の精神制御にあったのですね。なるほど。霧隠家が他の隠密を圧倒するわけです。さすがです」
「ふふふ。忍法、トラウマ畳返し」
そうつぶやいた才子ちゃんはさっきまでの少女の顔ではなかった。完全に隠密の顔になっていた。
な、なんということだ。
今の僕に一番必要なものは、まさにそれだ。
あの黒歴史を、誇りへと昇華させる技。
才子ちゃんは、僕がスパイラル蒼空剣を乗り越えるための術を持っている。
「あなた、六休だったわね。我らは隠密。私の父を知る者だけでも限られている。まして、『変態黒仮面』などという呼び名まで知る者となれば、なおさらだわ。いったい何者なの? どこでそれを聞いたの?」
才子ちゃんからの問い。
ここでの嘘は、たぶん命に関わる。
「京都帝国です」
「やはり」
才子ちゃんは、小さくつぶやいた。
「どうやら、私も京都帝国へ行かなくてはならないようね。結局、グラディウス様が言っていた通り……」
なになに? どうなってるの? どういう話が繋がってるの?
「わかったわ。ここはひとまず引き上げます。一休殿なら、おそらく問題はないでしょう。目を覚まされたら、よろしくお伝えください」
「なおくん? しばらく離れるけど、大丈夫? テント生活はやはり体によくないわ。背中が痛いのか、寝返りが一晩に平均38回。熟睡できていないわ。そして、寝返りのたびに掛け布団をはいじゃうから、私が掛け直しても、掛け直しても、体温は下がり気味。私がいないと風邪を引きそう。ほんとうに気を付けてね」
そう言って、才子ちゃんは窓から姿を消した。
「ちょ、ちょっと待って。僕には君が必要なんだ!」
僕は才子ちゃんを追いかけようと、彼女が消えた窓辺に駆け寄った。
だが、もう窓から彼女の姿は見えなかった。
「ナーオ?」
あれ? 殺気?
「君が必要ってなにかしら?」
うわぁっっ!
振り返ると、怒りを押し殺そうとしているのに、全身が震えているビアンカがいた。
「いや、違う。忍法だよ」
「寝返り? 布団はいじゃう? いったい何の話なのかしら……」
マズイ。まずい。まずすぎる!
知らん知らん知らん!
「い、一度、落ち着こう。 ねっ!」
ここは診療所の待合室。場所が場所だけに、いきなり戦闘にはならないはずだ。最初の、最初の一言が重要だ。ビアンカにはどんな言葉が届く?
「忘れてたわ」
窓の外から、才子ちゃんがひょっこり顔を出した。
「変態女狐。次また、なおくんに変態的ちょっかいを出したら、今度こそ、本気でいくわよ」
「……ブスっ」
そう言い残すと、今度こそ、気配が完全に消えた。
「だ、だ、だれがブスですってぇーー!!」
「あーんのっ、小娘ぇぇっっ!!」
「ぐぎっ。ぐぎぎぎ、ぐぬぬぬぬ……」
キッ!
ビアンカの怒りの顔が僕に向く。
「ぬわーーお??」
「いったい全体、どーいうことなの???」
「ひぃぃぃぃぃっ!」
ち、ちがう!僕は何も悪くない。
何も知らないし何もしていない。
ほんとのほんとなんですぅ!!
ろ、六休さんっ。
「無」
第56話 完
【ナオえもん:診療所の待合室で無差別に被弾した男のリザルト】
〇空気化努力度:95
(才子ちゃんの父母に関する危険すぎる話題を前に、ひたすら空気として存在。助け舟を出すと、自分も沈むと本能で察知)
〇忍法トラウマ畳返し必要度:120
(幼き日に見てしまった家庭内の衝撃映像を、才子ちゃんは隠密の誇りへと変換。その見事な荒技は、今の僕にとって最も必要な術)
本人より一言:師匠。こんなところにいたんですね。
〇才子ちゃんの「枕元ログ取得度」:100
(寝返り回数、掛け布団、体温低下まで、もはやストーカー界の上位危険種。枕元潜伏系守護霊)
〇ビアンカ爆発5秒前度:100
(寝返り、布団、「僕には君が必要なんだ」、そして最後の「ブスっ」。怒り原子が診療所の待合室で核融合中)
〇六休さん救援期待値:0
(助けを求めた先にいたのは、すべての気配を消した僧侶。人は本当に困った時、仏にすら見放されることがある)




