第55話 いのちだいじに
「……はいぃ? 霧隠、知らないの?」
才子ちゃんはかなり困惑しているようだ。表情の変化が極めて少ない彼女の眉が寄っている。そしてとても悲しげだ。なんだ? 何があるんだ霧隠。
「さ、さぁ。僕は訳あって、色々と新参者だから、ちょっとね。あ、でも霧隠ってかっこいい名前だね。うん。うらやましいよ」
僕はここで、ビアンカを見た。僕は本当にこの世界に来たばかりだからね。
あとは頼んだ。
「うっ」
「ええーっと、ごめんなさいね。その知らないってことじゃないのよ。ただ、何だったかなぁーなんて……」
ビアンカも動揺している。なぜか一方的に敵視されていたとはいえ、さすがに『知らない』とは言えないようだ。
才子ちゃんは悲しさと悔しさが入り混じったような顔で、じと目に涙を溜めている。
ビアンカがこっちを見る。
僕は首を横に振る。
僕ではこれ以上は無理なんだ。すまない。
ビアンカは不意に六休さんを見た。まさか、大丈夫か?そこはおそらく地雷の荒野。
「六休さんは知ってるの?」
ビアンカは、すがるように六休さんに話を振った。耐えられなかったか……。だが、ここからは未知の世界だ。これで六休さんが知らない場合、ただの『知らない』では終わらないだろう。そして知っていたとしてもそれはそれでわからない。この人は地雷だけを踏んで進む可能性がある。
「もちろん知ってますよ。2人とも本当に知らないんですか?」
六休さんは目をパチクリさせている。あれ?こんな表情だったっけ?まぁいい。知っている方で来たか。なるほど。しかしここからだ。油断はできない。
僕とビアンカの目が合う。お互いに頷き、彼の言葉を待った。
「霧隠とは、この飛騨国の、いや、それにとどまらず、この日ノ本全体で見ても、随一の隠密の家。その里は京都帝国にありながら、飛騨国にも深く関わっている。かなり異質な権力を持つ一族です。特に、先々代の才蔵という方は圧倒的な実力者だったようです。そのうち、お寺にある隠密の適性像も、いずれ才蔵様をかたどったものになるのでは、なんて話も出るくらいです」
おおーーー。
なんだそのキラーワードの玉手箱みたいな説明はっ!六休さんやればできるじゃないですか。
「現当主は、確か今はもう70歳を過ぎておられるはずです。その後継者候補は各地にいると聞きます。もしかすると、才子さんのお父様は、その後継者候補の一人、あの戦神として名高いグラディウス様の影として、行動を共にしていた方ではありませんか?」
なんとーーっ!! さらに、キラーワードの追いガツオが来るとは!すごい。すごすぎるぜ六休さん。まさか、ここにきて、あの村長さんまで出てくるとは!
「ふ。そうね」
才子ちゃんは、少しだけ胸を張った。
「わが父は、グラディウス様を陰から支え、この飛騨国をどこにも負けない一流国家へと押し上げた。その功績によって、隠密の次期里頭の最有力候補と言われているわ」
そこまで言うと才子ちゃんは、じと目のまま、こちらを見据えてきた。
「そして私は、その娘として隠密に生き、次世代の女くのいちの筆頭と目されている霧隠才子。なおくん、わかってくれたかしら?」
「え? う、うん」
いや、あの、すごいんだけどね。あの霧隠でしょ?ご先祖様はかの有名な霧隠才蔵さんなんでしょ? でも全然響かないっていうか、それより気になることがあるというか。
女くのいち?
『頭痛が痛い』、もしくは『馬から落馬する』的な?突っ込んだ方がいいのかな?
僕はビアンカを見る。
ビアンカは目を細めて首を横に振る。
そうだね。ここはスルーだよね。
「それで? そんな霧隠様が、なんでわたしたちをいきなり攻撃してきたの?」
ここでビアンカは、大本の疑問に戻る一言を発した。
「わたしたち? 何を言っているの? 私がなおくんを攻撃するわけないでしょ? 私はあなたを攻撃したのよ? なんてずうずうしいのかしら」
才子ちゃんの目は一気に冷たくなった。ジト目に冷気が宿ると、これほどまでに寒いのか。そして新事実。僕は対象外だったのか。そうか。
ならばビアンカ。
改めて後は頼んだ。
「ず、ずうずうしいって……」
ビアンカはさすがに常識人だ。診療所の待合室で喧嘩を始めたりはしないだろう。だが、かなりご立腹の様子。
僕が警戒することは1つだ。才子ちゃんの謎発言から、ビアンカが『どういうことなのナオ?』と鬼の方向転換をして、僕が標的になってしまわないこと。
ここからは細心の注意を払って、出るとこは出て、ビアンカをフォローする。機嫌を取る。そのあとは気配を消す。これしかない。
「私はまだ、あなたがなおくんを誘拐しようとしたことと、精神攻撃を仕掛けたことを忘れていないわよ」
才子ちゃんのジト目は、限界まで湿度を帯びた状態でビアンカを睨んでいる。
「だから、なんで私がナオに精神攻撃するのよ」
「そうだよ、才子ちゃんそれは違うよ。僕は本当に、その、立ち眩みというか、そうだ!少し飲み過ぎたのが回ってきちゃっただけだよ」
うむ。黒歴史のトラウマが原因とは言えない。
「本当? なおくん、言わされてない?」
「ないわよっ」
「……ないです……」
僕は一応答えたが、その声はビアンカの怒りを含んだ声に、ほとんどかき消されていたはずだ。我ながら見事だ。このまま空気に同化していこう……。
「じゃ、誘拐の方はどう説明するつもり?あれは現行犯よ。あんな破廉恥な。さっきの話が本当なら、酔ったなおくんに破廉恥色仕掛けで連れ去ろうとしてたわけね」
「だから、なんで誘拐なのよ。同じ宿に帰ろうとしてただけでしょ」
「ひぃぃぃっ」
「お、同じ宿にですって!!」
「な、なんて女なの。まさかここまでひどいとは……。もう話すことはないわ。この女狐!……いや、痴女狐っ!」
才子ちゃんの顔は完全に引きつっている。かわいいジト目には破廉恥行為への嫌悪の色がはっきりと見える。
「才子殿。落ち着きなさい。一休様の容態を待つ今、ここでこれ以上、事を荒立てることは、この私が許しませんよ」
「うるさいわ。聞いたでしょ。このけだものをこれ以上野放しにはできない」
「確かに。話を聞いているとビアンカ殿は、ゆゆしき変態。この私もかなり引いております」
「な、わ、わたしが何をしたって言うのよ……」
ビアンカに勢いがない。そして顔は真っ赤になっている。やはり多少、思うところがあるようだ。
「ですが、それはそれ。今は一休様の容態回復を祈るのみです。騒ぎを起こして容態に響いてはいけない」
「わたしは霧隠才子。本気になれば音なんて立てないわ」
「はぁ。話になりませんね。そういうことではないのです。今は一休様の容態回復を静かに祈る時だと言っているのです」
「それができないというのであれば、ここを出ましょうか。この六休がお相手して差し上げましょう」
「一休様の一番弟子であらせられる三休様の弟子の筆頭、この六休がね」
「くっ……」
才子ちゃんがひるんだ。六休さんはそれほどなのか。それにしても、一休さんのお弟子さんの三休さんのお弟子さんの六休さん。まともとは思えないが、みんなそこには反応なしだ。普通なのか。
「それに私はあなたを尊敬しているのですよ。あの体術、さらに隠密として生きてこられたとあれば、すさまじい鍛錬を己に課してきたのでしょう」
「さらにお父上は優秀とはいえ、あの変態黒仮面とあだ名されている方。こんなかわいい少女の父が、あの変態黒仮面とは……。つらかったでしょう。よく家を飛び出さなかったものです。心中お察しします」
「な、何それ?」
第55話 完
【ナオえもん: 生存戦略コンサルとして独立を目論む男のリザルト】
〇ツッコミをも捨てた空気化への決意:85
(『女くのいち』という頭痛が痛い構文に続き、『一休の一番弟子の三休の弟子の六休』という休み方の法則がわからない師弟の系譜も黙ってスルー。命の前では、国語・算数など意味はない)
〇修羅場の防災マニュアル完成度:98
(才子ちゃんの謎発言からビアンカの怒りが自分に飛び火するのを防ぐため、即座に気配を遮断。怒声に紛れ込ませた『……ないです……』は、もはや忍術)
〇『いのちだいじに』度:99
(『痴女狐』『ゆゆしき変態』と認定され、顔を真っ赤にするヒロインを静かに見守り通す。愛より先に、まず生存を選んだ冷徹な政治的判断に間違いはない)




