第52話 女狐と謎の少女
僕は、ビアンカと腕を組んだまま、ロボット歩行で10歩ほど進んだ時だった。
「待ちなさいっ」
低く、怒りを押し殺したような声が、背中に突き刺さった。
「ひぃっ」
僕とビアンカはほぼ反射的に腕を離した。
そして僕は、さらに反射的に後ろを振り返り、言い訳を始めていた。
「いえ、違うんです。僕からじゃないんです。でもビアンカも悪くなくて、偶然に偶然が重なったというか、腕と腕が、こう、自然界の摂理みたいな感じで……」
そこに立っていたのは、見たことのない少女だった。
黒髪のショートカット。
黒い装束を身にまとっている。
体型は少し細めで、背は普通くらい。
全身が黒で包まれているせいか、白い肌が妙に際立って見える。
目はわりとジト目で、全体的にはかわいいと思う。
少女は両手をぎゅっと握りしめていた。
肩が小さく震えている。
怒りなのか、悔しさなのか、よくわからない。
ただ、僕とビアンカを見ている目だけは、完全に敵を見る目だった。
僕とビアンカは少女に警戒しながら、お互いに少し顔を近づけて小声で話す。
「知ってる子?」
僕はビアンカの方を見る。
ビアンカは首を振った。
「知らない。でも……どこかで見たことがあるような気もする」
「なんか怒ってるよ?」
「そうみたいね。でも、わたし知らないわよ。ナオが何かしたんじゃないの?」
「僕が? いつ?」
「この女狐。ついに正体を現したわね。しかも、こんな往来で堂々と。破廉恥極まりない……」
「え? なに? わたし?」
ビアンカは自分を指さし、少し遅れて眉をひそめた。
「お前に決まってるでしょこの女狐っ」
「な、なんなのよ?いきなり女狐女狐って!」
ビアンカが抗議する。
「黙りなさい」
「羞恥心。お前には羞恥心ってものがないのっ?」
「べっ、別にそんな、そんな悪いことしてないでしょ」
ビアンカが後手に回っている。いつもの勢いもない。どうやら、自分でも腕を組んでいたことに何か思うところはあるらしい。
「あ、あなた、それで一体なんなのよ。誰?」
「ふん、往来で破廉恥する女狐に、名乗る名前などない!」
「な、ナオ? なんか危ないわよ、あの子」
ビアンカが小声で言う。その顔は完全に引きつっている。
完全に同意だ。
僕にもわかる。
一目見て危ないし、発言内容も思いっきり危ない。
月明かりを背にした少女の影が、こちらへ細く伸びている。
その影からも、まとわりつくような暗い怒りの気配がじわじわと漂っていた。
「そ、そうだね。関わらない方がよさそうだね。しれっとこの場から逃げよう」
「そうね。行きましょう」
ビアンカが僕の袖を掴もうとした、その時だった。
「させるかーー」
少女が、一瞬で間を詰めてきた。
速い。
そう思った時には、もう跳び蹴りが放たれていた。狙いは、僕の袖を掴もうとしていたビアンカの腕。
ビアンカはとっさに半歩引き、体を捻りながら手を引いてかわす。
「うわっ」
僕は、思わず後ろにのけぞり、そのまま尻もちをついた。
遅い。
僕だけが、明らかに遅れている。
狙いがビアンカの腕でなければまともに蹴りを食らっていただろう。
少女の跳び蹴りは空を切った。
だが、それは想定内だったようだ。
彼女はそのまま僕とビアンカの間へ割って入るように着地すると、さらにビアンカに蹴りを繰り出した。
ビアンカはそれを、下がってかわす。
少女は、僕に背を向け、ビアンカの方を向いている。
思いっきり背を向けられている。
僕は完全に戦力として考えられていないといったところか。
く、くやしい。
ビアンカは下がってかわした直後、一息つくこともなく、瞬時に後ろ回し蹴りを放って反撃した。
これも速い。
下がった勢いを、そのまま回転に変えている。
体の軸がまったくブレない。
すごい。
なんだそのバランス感覚。
少女は斜めにのけぞりながら、かろうじてそれをかわした。本当に紙一重だった。
さすがに体勢は崩れている。
しかし少女は、その勢いを殺さず、側転するように後ろに跳んだ。
少し距離が開く。
この子もまた、すさまじい動きをする。
しかし、そこへビアンカが踏み込み、容赦なく突きを放つ。
少女はそれも何とかかわしたが、さらに後ろに下がらされた形だ。
ビアンカの放った今の2撃は、どちらもかわされた。だが、少女を僕から引き離し、ビアンカ自身はしっかり僕の前に立っていた。
2人は攻撃しながら、目まぐるしく僕を守る位置を奪い合っている。
ビアンカはわかる。しかしなぜこの少女もそんな動きをするのか。
少女が反撃の態勢を取る。
ビアンカも、重心を低く落として構える。
「ナオ、危ないわ。下がって」
「この子、かなりできる」
ビアンカは、僕の前から一歩も退く気がない。
か、かっこよっ!
なんて、かっこいいんだ、ビアンカさん!
それ、まさに僕がやりたかったやつです!!
僕が夢見たシーンはこれなんです。
僕を守ろうとするビアンカの動き、そして言葉に、猛烈に胸が熱くなっていた。その技の完成度もステキ。さらに、キリっと迷いのない横顔、蹴りを放つ脚の線の美しさに、ほれぼれしてしまう。
認めたくはないが、僕は今、完全にヒロインだ。
その瞬間。
あの言葉、スパイラル蒼空剣が頭の隅をかすめた。
くっ。
なぜ今、あれを?
頭の奥で、何かが開いた。
開いてはいけない箱が、勝手に開いた。
確かにこれは、僕の奥底に眠る黒歴史の中にあった場面だ。
正確にはビアンカじゃなくて、僕がかっこいい側なんだけど。
思い出すな。
顔が一気に熱くなった。
く、苦しい。
鼓動が早くなり、空気が肺に入ってこない。
こ、こんな時に……。
世界が、ぐわんと遠くなった。
尻もちをついたままの僕だけが、景色から切り離されていく。そんな感覚だった。
まずい。
これは、普通にまずい。
笑ってごまかすやつじゃない。
「え? ナオ? どうしたのっ」
ビアンカが、異変に気付き、肩越しに僕を見る。
構えは崩していないが、意識は完全に僕へ向いている。
同時に、少女も僕の異変に気付いたようだ。
さっきまで細められていたジト目が、わずかに開いていた。
彼女の意識もまた、完全に僕へ向いていた。
ビアンカへ向けられていた敵意は、抜け落ちていた。
次の瞬間。
「ちょ、なおくん、どうしたの!?」
少女は、ビアンカへの警戒などどこかへ置き去りにしたまま、無防備でこちらへ詰めてくる。
驚きで、戦闘中だということが、頭から吹き飛んでしまったらしい。
今までの動きから、少女はかなりの手練れだということがわかる。だが、今の動きは違う。
ビアンカが止めようと一歩動く。
しかし少女は、ビアンカの動きをいっさい気にせず、その横をすり抜けて、僕の目の前に滑り込んできた。そして僕をしっかり抱きかかえた。
「なおくん、大丈夫っ!?」
その声も、さっきまでの怒りに震えた声とはまるで違っていた。
やけに優しく、やけに必死だった。
「全身の気が乱れてる。精神攻撃を受けたのね」
「大丈夫。落ち着いて、なおくん」
「まずはゆっくり息を吐いて。ゆっくりよっ!」
「ほら、ふぅーって」
空気が肺から出ないし、入らない。
「は、ぐ、あ……」
視界がひび割れるように細かく揺れ、意識が遠くなりかけた時、僕は自分を抱きかかえている少女と目が合った。
あれ? 君が? なんで僕を?
僕を締め上げていた黒歴史から、少しだけ意識がそれる。
なおくん?
ナオじゃなくて、なおくん?
僕のこと?
「ゲフッ」
その驚きで、僕は少しだけ我に返った。胸の奥に詰まっていた空気が、ようやく動き始める。呼吸が戻る。全身の強張りも少しずつ解けていった。
ビアンカは、呆然とこちらを見ている。
少女は、僕の呼吸を確かめるように、じっと顔をのぞき込んだ。
「はぁ……良かった。戻った。危なかったわ。かなり強い精神攻撃を受けたみたいね」
その声は、本当に安心しているように聞こえた。だが、その平穏な雰囲気は長く続かなかった。
少女は、ゆっくりと僕から顔を離す。
まだ少し不安そうに僕の様子を見てから、小さく息を吐いた。
そして。
視線が、ゆっくりとビアンカへ向く。
少女の気配がまた、最初の怒りのものに変わっていく。
いや、最初より怒気が強い。
「こーのー女狐――っ」
「都合が悪くなったからって、ここまでするとは!!」
「もう本気で許さないわっ」
「え? ちょっと、わたしは何も……」
ビアンカの声には、完全に力がなかった。
魂が、半分くらい抜けている。
「待って。ビアンカは違うよ」
僕は起き上がりながら、少女の腕をつかんだ。
「大丈夫よ、なおくん。ここは私に任せて」
彼女はこちらを見ないまま言った。
ビアンカは、時間が止まったみたいに固まっていた。
「ねぇ。なおくんって何なの……」
第52話 完
【ナオえもん:公道で「二人のヒロイン」に挟まれた男のリザルト】
〇前世の黒歴史への精神耐性:0
(スパイラル蒼空剣の単語一つで即座に呼吸困難に陥る脆弱性)
〇謎の少女の過保護フィルター:99
(ナオくんの不調にわが身を顧みず意識全振り。その後、その原因を躊躇なく女狐のせいにする猛進型守護者)
〇ビアンカの「聞いてないんですけど」度:120
(「お父さん公認彼氏」と腕を組んだ数分後、目の前で別の女が『なおくん♪』と看病している展開に魂がエクトプラズム)




