こんな洞窟で終わるわけにはいかない
全力で走り始めた。
視界はぼやけ、身体はこれまでにないほどの速さで動いていた。
それでも、抑え込まれていた熱が身体の内側からせり上がり、今にも動きを止めてしまいそうだった。
そのとき、不意に目の前に通知が表示された。
[スキル「生存意志」には限界があります。]
[長くは持続しません。]
俺はその文字をしばらく見つめた。
自分の置かれている状況を、すぐに理解した。
確かに、良い知らせとは言えない。
だが少なくとも……自分に残された時間が限られていると分かったことで、少しだけ安心した。
一瞬、沈黙する。
――安心した?
俺は目の前を呆然と見つめた。
――何を言ってるんだ、俺は!?
こんな状況で、どうやったら安心できるんだ!?
とにかく、急いで行動しなければならない。
さっき、この短剣で奴を攻撃してみた。
だが、まったく効かなかった。
これ、ただの飾りじゃないのか!?
一体どうして、こんなものを贈り物だと言えるんだよ!?
まるで誰かに新品の、しかも最高にイカしたスマホを買ってやったのに、
箱を開けてみたら、中に入っていたのはただのガラクタだった――
そんな感じだ。
これを世間では、悪い冗談って言うんだろ!
その瞬間――
ドゴォォン!
背後の地面が激しく揺れた。
――まずい!
さっきとは違う……。
何が起きてる!?
どうして地面がひび割れてるんだ!?
――おい、おい、おい……追いかけられるより、さらに最悪じゃないか!
何が起きているのか理解するより早く、周囲の地面が大きく裂けた。
そして、その裂け目から何かが凄まじい勢いで突き出してきた。
――なんだ、これ!?
巨大な杭のように見える……。
だが、それは石でできていた。
俺は慌ててその場から離れようとした。
しかし、足元の地面が激しく揺れた。
――あああっ!
突然、足が滑った。
次の瞬間――
一本の石の杭が、俺の手を貫いた。
――ああああっ!
俺は地面に倒れ込み、負傷した手を強く握りしめた。
――俺の手が……。
激痛が走った。
息が途切れるほどの、激しい痛みだった。
――くそっ……なんだよ、この痛み……!
本物だ……。
この世界の中だけで感じるような、仮初めの痛みじゃない。
完全に、本物の痛みだ。
それに、「意識の覚醒」が、こういう種類の痛みまで軽減してくれるとは思えない……。
そのとき、再び目の前に表示が現れた。
[ユーザーの身体が限界に達し始めています。]
[任務は継続中です。]
――くそっ、この任務も……この場所も全部……!
俺は歯を食いしばりながら叫んだ。
――俺は自分の命を懸けて必死にやってるんだぞ、分かってるのか!
前方を見る。
そこには、高くそびえる岩壁があった。
あの上まで登ることができれば、少なくとも奴から距離を取れるかもしれない。
俺は短剣を岩に突き立てた。
ザクッ!
刃が、驚くほど簡単に突き刺さった。
俺は一瞬、動きを止めた。
――待て……。
短剣を見つめる。
この短剣は、石すら簡単に貫ける……。
それなのに、あの化け物の毛皮にはまるで歯が立たなかった?
俺は不満そうに短剣を睨んだ。
――ついさっきまで、人間のほうがあんな動物より上だって得意げに考えてた俺は、一体なんだったんだ……。
負傷した手を、苦痛に耐えながら引き抜いた。
電流が身体を駆け抜けるような痛みが全身に広がり、手足が震える。
そして、岩の上に血が数滴落ちた。
――ああっ……。
俺は顔を上げた。
――行け……俺。
右手で短剣を強く握りしめる。
――こんなところで死ぬなんて、この世界に引きずり込まれたことよりも最悪だ……。
拳に力を込める。
そして、身体を上へと引き上げ始めた。
ゆっくりと。
必死に。
右手の動きに、身体そのものを合わせなければならない。
正直に言えば……。
身体の力と耐久力を高めるスキルがあったとしても、疲労そのものが少しずつ思考にまで影響を及ぼし始めていた。
その先に何が待っているのかなんて、考えたくもなかった。
もし今でさえ、これほど苦しいのなら……。
このスキルの効果時間が切れたら、一体どうなる?
きっと、今よりずっと酷いことになる。
それでも、登り続けた。
そして、ようやく頂上まで辿り着いた。
俺は地面に倒れ込み、激しく息を切らした。
――はぁ……はぁ……はぁ……。
顔を上げる。
その次の瞬間――
熊が跳んだ。
――え!?
俺は慌てて後ろへ飛び退いた。
――熊って、いつからこんな跳び方ができるようになったんだよ!?
まあ……。
誰も答えてくれるわけじゃない。
だが、その答えなら、この世界に来た瞬間から分かっていた。
――そもそも、この世界は普通じゃない……。
荒い息を吐いた。
――はぁ……はぁ……はぁ……。
すると、新たな表示が目の前に現れた。
[スキル「生存意志」の持続時間終了まで、残り2分です。]
目を見開いた。
――あと2分……?
決して、良い知らせとは言えない。
だが、もう一つ理解できないことがあった。
あの熊……。
確かに、あいつは俺を殺そうとしている。
なのに、俺があいつを傷つけたり、挑発したりすることに成功しても、奴は近づいてきて、とどめを刺そうとはしなかった。
むしろ、後退する。
そして、こちらを観察している。
まるで、俺が自分から力尽きるのを待っているかのように。
最初の攻撃を思い出した。
あのとき、奴は俺をもう一度攻撃する必要すらなかった。
俺の身体に毒を流し込み……。
あとは、その毒に任せた。
俺は奴を見上げた。
――あれほど自分の勝利を確信していたのか?
おそらく、毒だけで俺を倒せると思っていたのだろう。
そして、それならもう一つのことにも説明がつく。
奴の直接攻撃は……。
それほど多くなかった。
そして、俺が周囲の状況をほとんど把握できないほど消耗しているときにしか使わなかった。
それ以外の時間は……。
遠距離から使えるスキルに頼っていた。
俺は奴の爪を見る。
そして、分厚い毛皮へと視線を移した。
――もし、本当に俺を直接殺したいのなら……。
短剣を握りしめる。
――どうして、そうしない?
俺は一瞬、黙った。
そして、あることに気づいた。
もしかすると……。
その必要がないからだ。
奴は、すでに自分が勝ったと思っている。
もしそうなら……。
もう一つ、何かあるのかもしれない。
『獣の恍惚』。
そして、俺自身のスキルを思い出した。
『自信の騎士』。
この二つには、何か関係があるのだろうか?
片方の力が、その持ち主の状態によって影響を受けるような……そんな仕組みが。
確信はなかった。
だが、もう確信を得るための時間も残されていなかった。
時間は過ぎていく。
痛みは増していく。
このまま逃げ続けるか……。
それとも、奴に近づくか。
俺は短剣を掲げた。
――おい、この醜い熊!
熊が立ち止まった。
俺を見つめる。
――そこで突っ立ったまま、俺を攻撃しないつもりか!?
動かない。
ただ、俺を見ている。
俺は小さく笑った。
――なるほど……。
毒が回るのを待っているなら……。
俺がお前に、その作戦を変えさせてやる。
長く息を吐いた。
――ふぅ……。
そして、さらに深く息を吸い込んだ。
身体中の筋肉を感じる。
その一つ一つが、痛みに悲鳴を上げていた。
だが、もうそれを無視している余裕はない。
――筋肉の力を、もっと引き出さなきゃならない……。
一瞬、目を閉じた。
ただ身体を使うのではなく、自分の身体そのものを感じたかった。
どう動いている?
どこに力が集まっている?
そして、どこで力が失われている?
どうすれば、身体全体を一つのものとして動かせる?
呼吸を意識した。
胸へ。
腕へ。
脚へ。
身体の隅々へ。
その瞬間――
[新たなスキルを獲得しました。]
目を開く。
[内的感知。]
目の前に情報が表示された。
[このスキルは、使用者が自身の筋肉を認識し、その内部にある力をより正確に配分することを可能にします。]
俺は表示を見つめた。
そして、笑った。
――なるほど……。
この世界は、理解しようとする者にさえ報いてくれるのか。
短剣を握りしめる。
――今度は、逃げない。
踏み込んだ。
ただ速いだけではない。
身体全体が、同じ瞬間に動いていた。
両足。
腰。
肩。
腕。
そして、呼吸さえも。
俺たちの間にあった距離が消えた。
熊の顔から笑みが消えた。
何が起きたのか理解したときには、すでに遅かったらしい。
カッ!
短剣が毛皮にぶつかった。
貫けない。
だが、止まらない。
カッ!
横から。
カッ!
下から。
キィン!
爪が攻撃を受け止めた。
カッ!
俺は半歩だけ後退し、すぐさま踏み込む。
この至近距離なら、俺のほうが速い。
強いわけじゃない。
耐久力が上なわけでもない。
ただ……。
俺のほうが、決意している。
――いけ!
あらゆる方向から攻撃を仕掛ける。
熊は巨大な爪で、そのいくつかを防いだ。
それ以外は、毛皮をかすめるだけだった。
まともな傷は一つもない。
ほとんど、奴を傷つけることすらできていなかった。
だが、別の変化が起き始めていた。
熊が後退している。
一歩。
そして、もう一歩。
唸り声を上げた。
――グオオオッ!
――今さら吠えたって、無駄だ!
再び攻撃する。
カッ!
後退する。
続けて、横から斬り込む。
キィン!
攻撃を弾かれる。
だが、それでも奴はまた後退した。
俺は奴を見つめた。
身体には傷一つない。
だが……。
その表情は……。
変わり始めていた。
そこに、あの絶対的な自信はもうなかった。
その瞬間――
[スキル「獣の恍惚」の効果が弱まっています。]
俺は動きを止めた。
そして、笑った。
――へぇ……。
やっぱり、間違ってなかった。
問題は、ダメージじゃない。
別の何かだ。
自信だ。
俺が立ち続けるほど……。
攻撃を続けるほど……。
獲物として振る舞うことを拒み続けるほど……。
奴は何かを失っていく。
俺は笑った。
――お前は、俺に毒を入れた時点で、自分が勝ったと確信していたんだな。
自分の身体を見つめた。
痛み。
幻覚。
疲労。
そのすべてが、まだそこにあった。
それでも……。
俺はまだ立っていた。
――だが、お前は一つ、間違えた。
俺は短剣を掲げた。
――俺に、自信を取り戻す時間を与えたことだ。
静寂が訪れた。
すると、新たな表示が目の前に現れた。
[「自信の騎士」の発動条件を満たす可能性が確認されました。]
目を見開いた。
――本当に……!?
それ以上考えるより先に――
[警告。]
[ユーザーの身体が完全に力を失うまで、残り50秒です。]
[任務は引き続き有効です。]
――50秒……。
俺は熊を見た。
そして、笑った。
素早く後退する。
熊との間に距離を取った。
奴は今、怒っていた。
ただ怒っているだけじゃない……。
困惑している。
俺は手の中で短剣をくるりと回した。
そして、笑った。
――アハハハハハ!
短剣を奴へと向ける。
――この負け犬の熊め……。
俺は笑った。
――今度は怖くなったか?
熊が唸る。
――まさか、ただの人間が怖いなんて言わないよな……。
俺は傷ついた自分の身体へ目をやった。
――しかも、こんな怪我をした人間だぞ!
奴の動きが、すべてを物語っていた。
もう、しっかりと立ってはいない。
もう、待ってもいない。
戦いを終わらせようとしている。
そして今……。
それこそが、俺の望んでいたことだった。
――どうした?
俺は笑った。
――自分の最強のスキルが、俺には通用しなかったから……自信を失ったのか?
――チッ……チッ……チッ……。
俺は首を横に振った。
――なんてつまらないんだ。
そして、短剣で奴を指し示した。
――まあ、無理もない。
――お前が俺のほうが強いと感じているうちは……。
俺は手で奴を指した。
――ここから逃げるのを許してやる。
手をひらひらと振る。
――ほら、シッシッ!
――行けよ、小熊ちゃん。俺に殺される前に隠れてろ!
熊が動きを止めた。
そして――
その巨体が震え始めた。
ドゴォォォン!
熊が跳び上がり、両拳を地面へ叩きつけた。
洞窟全体が揺れる。
俺は笑った。
――そうだ……。
短剣を掲げる。
――それだ。
[残り10秒。]
もう、奴と戦う必要はない。
必要なのはただ一つ……。
奴に俺を攻撃させることだ。
10……。
俺は短剣を掲げた。
――来いよ、熊……。
9……。
熊が立ち止まった。
身体を低くする。
そして、攻撃態勢を取った。
8……。
俺は足をしっかりと踏み固めた。
――俺はここだ。
7……。
熊が俺へ向かって突進してきた。
6……。
――来い……。
さらに近づいてくる。
5……。
奴の足元から伝わる振動で、地面が揺れる。
4……。
凄まじい速度で距離を詰めてくる。
俺は笑った。
――もっとだ……。
3……。
奴の爪が近づいてくる。
もう、すぐそこまで迫っている。
2……。
――今だ!
俺は残された力をすべて使って跳び上がった。
負傷した脚が痛みに悲鳴を上げる。
それでも、無理やり動かし続けた。
短剣を掲げる。
俺の真上――。
そこには、巨大で鋭く尖った石柱が、洞窟の天井から吊り下がっていた。
熊を攻撃する必要はない。
必要なのはただ……。
奴を、正しい場所に立たせること。
1……。
俺は石柱を支えている一点へ、短剣を突き立てた。
パキッ!
支えが外れた。
石柱が落下する。
そして、まさにその瞬間――。
熊が、俺が立っていた場所の真下を通り抜けた。
0……。
時間切れ。
石柱が落下する。
そして、熊が方向を変えるよりも早く――
ズガァァァァァァァン!!
凄まじい轟音が、洞窟の奥深くまで響き渡った。
壁が激しく揺れる。
砂埃が四方へと舞い上がる。
すべてが、分厚い灰色の幕の向こうへと消えた。
そして……。
静寂。
残ったのは、荒い自分の呼吸音だけだった。
――はぁ……。
――はぁ……。
俺は砂埃の向こうを見つめた。
この洞窟に入ってから初めて……。
俺には、どちらが勝ったのか分からなかった。




