第三章 二十三通
袖覆いさえつけてしまえば、あとは働けると思っていた。
インク壺の蓋を開け、ペン立てから一本抜いて、ペン先の具合を指で確かめる。一か月触っていなくても、手は順番を覚えていた。机の引き出しを開けると、空だった。片付けたのは私だから当然だ。
「何か写すもの、ありますか」
私が言うと、隣の机のクララが、ペンを止めずに答えた。
「その前に、足もと」
見下ろすと、婚礼衣装の裾が、机の下から通路を越えて、向かいの机の脚にまで届いていた。向かいの机の若い写字官が、裾を踏まないように椅子を引いたまま、中途半端な姿勢で固まっている。その奥の席の人も、書庫へ行こうとして立ち上がったところで、どこに足を下ろせばいいか分からずにいた。
「……ごめんなさい」
「着替えなさい。それじゃ誰も通れない」
「着替えがないの」
「あるわよ」
クララはようやくペンを置き、壁際の更衣棚から自分の仕事着の替えを出してきた。写字官はインクをこぼしたときのために、たいてい一着、文書院に替えを置いている。私の棚は一か月前に空にしたけれど、クララの棚は空になったことがない。
宿直室で着替えようとして、背中に並ぶ小さなボタンに手が届かないことに気づいた。着せてもらうときは侍女が三人がかりだった。脱ぐときのことは、誰も考えていなかったらしい。
クララが後ろに回って、一つずつ外していった。
「いくつあるの、これ」
「知らない。数えなかった」
「三十二」
外し終えたところで、クララは呆れたように言った。
借りた仕事着は袖が長く、手首のところで二回折った。婚礼衣装は宿直室の寝台の上に広げると、寝台からはみ出した。クララはそれを見て、何か言いかけて、やめた。
「お腹は」
言われて、朝から何も食べていないことを思い出した。婚礼の朝食は出たけれど、着付けのあとでは水を飲むのがやっとだった。
「すいてる」
「じゃあ、夕方まで写して、そのあと何か買ってくる」
写字室へ戻ると、私の机の上に、目録の束が一つ置かれていた。誰が置いたのかは聞かなかった。私は目録を写した。蔵書の題と、巻数と、棚の番号。インクの匂いがして、ペンが中指のペンだこに馴染んだ。三つ目の項目で、自分の字が少し震えているのに気づいたけれど、四つ目からは震えなかった。
*
夕方、クララは一度自分の部屋へ戻り、包みを二つ抱えて宿直室へ来た。一つには寝間着と、櫛と、手拭いと、私の足には大きすぎる室内履きが入っていた。もう一つは屋台の包みで、焼いた腸詰めと、黒パンと、酢漬けの野菜だった。
宿直室には小さな卓と椅子が一つある。クララが椅子に座り、私は寝台の端に座った。寝台は、院長の言ったとおり硬かった。
「固い」
「言ってたでしょう」
「言ってた」
腸詰めは塩が強くて、パンは酸っぱかった。おいしかった。朝から空っぽだった腹に、屋台の塩がよく効いた。
クララは、私がいない一か月のことを話した。北棟の雨漏りがとうとう書庫の一番下の棚まで来て、全員で一日がかりで古い勅許状を運び出したこと。新しく入った若い写字官が、ペン先を毎朝きっちり同じ角度で削ってくること。院長がその削り方を見て、「よろしい」と一回だけ言ったこと。
「一回だけ?」
「一回だけ。あの子、その日一日、顔が赤かった」
「私は四年で三回しか言われてない」
「あなたは字がきれいすぎて、言うところがないのよ。院長は、直したところを褒める人だから」
そんなものだろうか、と思いながら、私は腸詰めをもう一本取った。
「クララは何回」
「数えてない」
「数えてるでしょう、絶対」
「……七回」
私が笑うと、クララは黒パンをちぎって私の方へ押しやった。
話しているうちに、昔の失敗の話になった。私が一年目の秋に、王家の狩猟記録を写していて、鹿の頭数の桁を一つ間違えたことがある。原本では三十頭だった。
「あの年、王家は鹿を三百頭仕留めたことになりかけたのよね」
「なりかけただけ。確かめのときに気づいたもの」
「確かめたのは私でしょう。隣の机だったんだから」
「……そうだった」
「院長に見せる前に直してあげたのに、あなた、お礼に何くれたか覚えてる?」
「覚えてない」
「何もくれなかったのよ」
「今日の腸詰めで返す」
「これ、私が買ったんだけど」
言い返す言葉がなかったので、私は腸詰めを食べた。
クララは婚礼のことを何も聞かなかった。私も話さなかった。何から話せばいいのか、まだ分からなかった。
クララが帰ったあと、宿直室には、借りた寝間着と、借りた室内履きと、寝台からはみ出した婚礼衣装が残った。私の物と呼べるのは、婚礼衣装と、手袋と、ヴェールだけだった。どれも明日から使う予定のない物ばかりだ。
硬い寝台に横になると、背中がまだ、締め付けられていた形を覚えていた。
本当なら今夜は、王太子宮の寝室で眠るはずだった。どんな部屋なのか、私は一度も見せてもらったことがなかった。今さら見たいとも思わないけれど、見ないまま終わったことを、天井を見上げながらしばらく考えた。
それから、明日の朝が早いことを思い出して、目を閉じた。
*
翌朝、院長は写字室の入口で私を見て、「おはようございます」と言った。それだけだった。復職の手続きは、その日の昼までに済んだ。書類が一枚と、署名が一つ。給金は、その月の働いた日数の分から出ることになった。
手続きの終わりに、受付係が書庫の奥から木箱を一つ出してきた。退職のとき私が私物を詰めて、引き取りに来ると言ったまま置いていった箱だった。中には、使い古しの袖覆いと、予備のペン先が数本と、退職の日に受け取った最後の給金の袋が入っていた。家へ持ち帰るはずだった袋は、婚礼の支度の騒ぎのなかで、箱ごと文書院に残っていた。
それから、数日、私は目録を写した。
四日目の朝、神殿から使いが来た。
使いは院長に包みを渡し、院長は包みを開いて中を確かめ、それから私の机まで来た。手には、神殿の印の押された紙の束があった。
「大神殿から、婚礼記録が届きました」
院長は記録を私の机に置かず、手に持ったまま言った。
「通知に添える写しを作る仕事です。ほかの者に回しましょうか」
「名前を間違えない者が写した方がいいでしょう」
院長はそれ以上何も言わず、記録を置いていった。
一枚目を開くと、記録係の神官の字があった。速く書くための字だ。けれど崩しすぎてはいない。読み手のことを考えて書く人の字だった。
日付。場所。立会人として神官長の名。新郎、レオンハルト。新婦、イレーネ・アルトマイヤー。
それから、誓いの言葉が始まる。
わたくし、レオンハルトは、神の御前にて、マリエルを妻とし。
自分が聞いた言葉を、他人の字で読むのは妙な感じがした。耳で聞いたときより、ずっと短かった。あのとき大神殿の空気が後ろへ流れていった時間も、殿下が何かに気づくまでの間も、紙の上にはない。名前が一つ、違う場所に書いてあるだけだった。
神の前で誓った言葉は、取り消せるのでしょうか。
自分の言葉を他人の字で読むのは、もっと妙だった。私はこんなふうに言ったのか、と思った。言ったとおりに書いてあるのだから、言ったとおりなのだろう。
原稿があるときは。
その次の行は、殿下の「記録を書き直せ」だった。あいだにあったはずの咳払いは、どこにも書かれていなかった。記録係は、口にされた言葉しか書かない。咳払いは言葉に数えられなかったらしい。
私は最後まで読んだ。それから、一通目の写しに取りかかった。
一通目は、王家に送る分だった。送り先の一覧の一番上に、そう書いてあった。
余白を取り、表題を書き、日付と場所を書く。新郎の名。新婦の名。自分の名前を、いつもの写字官の字で書くのは、いつもと同じ作業のはずなのに、ペン先が紙に触れる前に一度止まった。止まったのは一度だけだった。
誓いの言葉を写す。マリエル、の四文字を、記録係の字と同じ位置に、同じ大きさで書く。大きくも小さくもしない。私が写字官になった日から、名前はいつもそう書いてきた。
殿下の言葉を写す。私の言葉を写す。神官長の言葉を写す。誰が何を思ってそう言ったのかは、どこにも書かない。原本に書かれていないことを、写しに書く写字官はいない。
隣の机から、クララの声がした。
「一通目?」
「一通目」
「あと何通」
「二十二」
クララは「そう」とだけ言って、自分の仕事に戻った。少しして、私の机の端に、削ったばかりのペンが一本置かれた。
*
宿直室で暮らし始めて、十日ほどが過ぎた。
朝は早かった。院長の言ったとおりだった。写字室の誰よりも早く起きて、窓を開け、インク壺の蓋を確かめる。夜は、写字官たちが帰ったあとの写字室で、一人で目録の続きを写すこともあった。不満はなかった。むしろ、気楽だった。
院長は一度だけ、廊下ですれ違いざまに言った。
「宿直室は、いつまで使ってもかまいませんよ」
「ありがとうございます」
院長はそれ以上何も言わずに行ってしまった。本当に、いつまででもいいのだと思う。宿直室を使う当番は、今はほとんどない。
その夜、借りた寝間着を畳もうとして、襟の裏に縫い付けられた小さな布に気づいた。クララの名前が刺繍してあった。寝台の毛布の端には「文書院備品」と墨で書かれた布が縫い付けられていて、卓の上の水差しの底にも同じ字が焼き付けてあった。椅子の裏を覗くと、そこにもあった。
部屋の中で、誰の物とも書いていないのは、私と、婚礼衣装だけだった。婚礼衣装は、あれから一度も袖を通していないし、これからも通さない。
不満があるわけではなかった。宿直室の寝台は硬いけれど、眠れる。クララの寝間着は袖が長いけれど、温かい。それでも、私は自分の物を置ける場所が欲しいと思った。自分で選んだ水差しと、自分で選んだ毛布と、名前の書いていない椅子がある場所が。
私は宿直室の引き出しから、受付で返してもらった木箱を出し、給金の袋を取り出した。
四年分の給金のほとんどは、家の決まりで父の家令に預けてあった。嫁入りの支度に回すことになっていたから、今ごろは支度の一部になっているのだろう。手元にあるのは、この一袋だけだった。
袋の中身を数えた。文書院の近くで部屋を借りるなら、前金にいくら要るかは、写字官の誰かが部屋を移るたびに聞いていたから、だいたい分かる。数え終えて、もう一度数えた。
足りなかった。暮らしながら前金も払うには、もうひと月分の給金が要る。今月の分が出るのは、月の終わりだ。
すぐには借りられない。でも、待てば借りられる。
私は袋の口を縛り直して、引き出しにしまった。
*
翌日の昼、写字室の裏の中庭で、クララと並んでパンを食べながら、私は言った。
「部屋を借りようと思う」
クララは、パンを噛んでいた口を止めた。
「宿直室、出るの」
「すぐじゃないけど。給金が出たら」
「いつ探しに行く?」
「だから、給金が出たら」
「見るだけならお金はかからないでしょう。借りる前に見ておかないと、いざ借りるときに困る」
クララは指を折って何か数えた。
「次の休みは服を買う。いつまで私の服着てるの、袖が余ってるわよ。その次の休みに部屋を見る。決まり」
「決まりなの」
「決まり。あなた、自分のことになると、ずっと『そのうち』って言うから」
言い返そうとして、言い返せなかった。私は「そのうち」と言うつもりだった。
「……じゃあ、その次の休みに」
「その前の休みに服ね。靴も。その靴、私のでしょう」
足もとを見ると、クララの古い靴のつま先に、丸めた反故紙が詰めてあるのが、少しだけ覗いていた。
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