第四章 休日の買い物
文書院の休みは十日に一度で、その朝、クララは約束の刻限より早く宿直室の扉を叩いた。
「起きてる?」
「起きてる。朝が早いのは、宿直室の決まりだから」
「決まりなんてないわよ。院長がそう言っただけでしょう」
クララは私の格好を上から下まで眺めた。私はクララの仕事着の替えを着て、クララの古い靴を履いていた。靴のつま先には、反故紙を詰め直してある。
「今日で全部返してもらうからね」
「そのつもり」
出かける前に、私は給金の袋を二つに分けた。一つは今日使う分。もう一つは部屋のために残しておく分で、こちらは宿直室の引き出しの奥にしまった。持って出る袋は軽かった。けれど普段着を二着と、靴と、下着と、細かな物をそろえるには足りるはずだった。足りるように、昨夜のうちに書き出しておいた。
市場通りは、休日の人出でにぎわっていた。
私は買い物が早い。何が要るかを先に決めておけば、あとは店に入ってそれがあるかないかを確かめるだけだ。古着屋では、袖の長さと、膝の当たる生地の厚さと、インクの染みが目立たない色だけを見た。紺と、灰色がかった茶を一着ずつ。試しに羽織って、袖を確かめて、値を聞いて、それで終わった。
「早くない?」とクララが言った。
「要る物は決まってるから」
「せめて鏡くらい見なさいよ」
「見た。袖の長さは合ってた」
「袖しか見てないじゃない」
靴屋では、少し時間がかかった。足に合う靴を探すのは、服より難しい。クララは店の棚を端から見て、私が履いた靴に「それ」「それはだめ」「それ、さっきのと同じでしょう」と順番に判定を下した。他人の買い物になると、クララは迷わない。三足目で決まった。古い靴から反故紙を抜くと、くしゃくしゃになった紙に、昔の目録の写し損じが書いてあった。
下着と、手拭いと、櫛と、小さな裁縫道具。書き出した物を一つずつ買って、袋の中身を一度だけ確かめた。思っていたとおりの額が残っていた。
それで終わるはずだった。
通りの角に毛織物を扱う店があった。店先に肩掛けが何枚か吊るしてあった。その中の一枚が目に留まった。
深い青だった。夜になる前の空のような色で、端に細い房がついていた。触ってみると、薄いのに温かかった。
値札を見た。残っている額で買える。買えるけれど、買えば袋はほとんど空になる。部屋の分は別にしてあるのだから、本来は何の問題もない。ただ、引き出しの奥の袋のことが頭のどこかで勘定を始めていた。もし今月、何か思いがけない物が要ったら。もし前金が思ったより高かったら。
私はしばらく肩掛けの前に立っていた。しばらく、のつもりだったが、気づくとクララは店の戸口の柱にもたれて、通りを行く人を数えていた。
「似合う似合う」とクララが言った。こちらを見ずに。
「まだ肩にかけてもいないけど」
「かけたら似合う」
「さっき、帽子屋の前でも同じこと言ってた」
「帽子も似合ってた」
「帽子屋の前を通っただけで、帽子は見てないでしょう」
「通ったときに見たの。似合ってた」
「クララ。疲れたでしょう」
「疲れてない。あなたが肩掛けの前に立ってから、通りを馬車が十一台通っただけ」
私は肩掛けを外してもらい、肩にかけた。店の主人が鏡を向けてくれた。鏡の中で、紺の服の上に深い青が重なっていた。
部屋のことを考えた。窓があって、机があって、壁に掛け釘があって、そこにこの肩掛けが掛かっているところを考えた。まだどこにもない部屋だった。
「これを、ください」
店の主人が肩掛けを畳むあいだ、クララは何も言わなかった。代わりに、包みを受け取った私の腕を、肘で軽く小突いた。
*
市場通りの外れに、焼き菓子の店がある。文書院の写字官なら、たいてい一度は来たことがある店だった。
「一つずつ買って帰ろう」とクララが言い、ガラスの棚の前に立った。
それから、立ったまま動かなくなった。
杏の焼き菓子と、蜂蜜とクルミの焼き菓子が並んでいた。クララの目は、杏から蜂蜜へ、蜂蜜から杏へ、行ったり来たりしていた。
「どっちにするの」
「待って」
私は待った。店の主人も待った。後ろに並んだ子どもも待った。
「杏は、甘酸っぱいでしょう。でも蜂蜜は、クルミが入ってるでしょう」
「入ってるね」
「今日は、蜂蜜の気分。でも杏は、この季節しかないの」
「じゃあ杏」
「でも蜂蜜は、前に来たとき売り切れてたの」
さっき、私の靴を三足並べて、三つ数えるあいだに一足を選んだ人だった。
「私の靴は、すぐ決めたのに」
「靴は要る物でしょう。菓子は楽しむ物なの。楽しむ物は、どっちも欲しいのよ」
後ろの子どもが、母親の袖を引いた。
私は店の主人に、杏を一つと、蜂蜜とクルミを一つ、と言った。クララは「え」と言ったが、止めなかった。
文書院へ戻る道の途中、川沿いの低い石垣に腰かけて、二つを半分ずつに割った。
杏の方を一口食べて、私は思わず顔をしかめた。
「甘い」
「甘いのがいいんでしょう」
「酸っぱいと思ってた」
「甘酸っぱいって言ったじゃない。甘いが先なのよ」
蜂蜜とクルミの方は、クルミが香ばしくて、蜂蜜が控えめで、ちょうどよかった。私がそう言うと、クララは蜂蜜の方をかじって、首を振った。
「物足りない。これ、蜂蜜が足りてない」
「足りてるよ」
「足りてない。あなた、甘いものの味が分かってないのよ」
「クララは甘ければ何でもいいんでしょう」
「何でもよくはない。甘ければ甘いほどいいの」
結局、クララが杏の残りを全部食べ、私が蜂蜜とクルミの残りを全部食べた。最初からそうすればよかったのだ、とクララは言った。それなら最初から一つずつ選べばよかったのだ、と私は言わなかった。言わなくても、クララには聞こえていたと思う。
*
文書院の門が見えるところまで戻ってきたとき、クララはまだ菓子の話をしていた。
「次は、杏が終わる前にもう一回来ないと。あそこ、夏になると桃の――」
門の前に、馬車が一台止まっていた。
黒塗りの車体に、見慣れた紋章がついていた。剣と麦の穂。子どものころから、屋敷の門で、食器の縁で、手紙の封蝋で、毎日のように見てきた紋章だった。
御者台にいるのは、家の古い御者だった。私が小さいころ、膝に乗せて手綱を持たせてくれた人だ。御者はこちらに気づくと、帽子に手をかけ、何か言いたそうな顔をして、やめた。
「――桃の焼き菓子が出るのよ。それがまた、杏とは別の甘さで」
クララは私の顔を見て、それから門の前を見た。それで、話が止まった。
「……あれ」
「父の馬車」
自分の声が、思ったより平らだった。
父がここへ来るとは思っていなかった。婚礼の日から、家からは何の知らせもなかった。来るとしたら手紙で、手紙が来るとしたらもっと先のことだと思っていた。
「一緒に行こうか」とクララが言った。
「ううん」
私は抱えていた包みを、クララの腕に預けた。紺の服と、灰色がかった茶の服と、新しい靴と、深い青の肩掛けが入った包みだった。
「先に戻ってて。宿直室の寝台の上に、置いといてくれる?」
「分かった」
クララは包みを抱え直し、通用口の方へ歩いていった。途中で一度だけ振り返ったけれど、何も言わなかった。
私は門をくぐった。
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