第二章 誓いません
祭壇の脇で、記録係の神官のペン先が止まった。止まって、それから紙の上を走りだした。四年間、毎日すぐそばで聞いてきた音だった。大神殿の中で、その音だけがしていた。誰かが息を呑み、参列席の空気が後ろの方へ一斉に流れていく。私は振り返らなかった。その名前の人がどのあたりに座っているかは、振り返らなくても知っていた。殿下の声に淀みはなかった。予行のどの回よりも滑らかで、私が一度も向けられたことのない、柔らかい声だった。
自分ではない名前で誓われた花嫁が、そのあと何を言えばいいのか。典礼の式次第には、どこにも書かれていなかった。私は黙って立っていた。
殿下の顔に何かに気づいた色が浮かんだのは、少し遅れてからだった。殿下はわずかに笑って、私に向き直った。
「すまない。もう一度」
そう言って、神官長の方へ手を上げかける。
私は、自分の手が手袋の中で握りしめられていることに気づいた。指を一本ずつほどいて、それから微笑んだ。
「神官長様」
殿下の手が宙で止まった。
「神の前で誓った言葉は、取り消せるのでしょうか?」
答えは知っていた。知っていて尋ねた。あれを「もう一度」の一言で、何事もなかったように流されるのは、どうしても嫌だった。
神官長は白い眉ひとつ動かさなかった。
「取り消せません。口にされた誓いは、口にされたとおり、すでに記録に書き留めました。その方が神殿で誓いを返されぬ限り、婚姻としては何の効力もございません。ただ、記録からは消えません。なお、王家の婚礼は、成るも成らぬも、その次第を記録の写しとともに諸侯と各国の宮廷へお知らせする定めです」
殿下が参列席の方へ顔を向けた。苦笑を作るのが、少しだけ遅かった。
「緊張していたんだ。ただの言い間違いだよ」
私にではなく、参列席に向けた言葉だった。
「殿下は、わたくしの名を間違えたことは一度もございません」
殿下がこちらを見た。
「原稿があるときは」
後ろの方で、誰かが咳払いをした。咳払いにしては、少し長かった。
殿下の頬から苦笑が抜け落ちた。殿下は神官長に向き直った。
「記録を書き直せ。王太子として命じる!」
「神殿の記録には、王のお名前でも線を引きません」
即答だった。
写字官だったころ、古い婚礼記録の写しを作ったことがある。百年ほど前の、どこかの伯爵家のものだった。新郎の誓いに書かれた名前が花嫁の名と違っていて、その下に、誓い直した言葉が並んでいた。その夫婦がその後どうなったのかは、記録には書かれていなかった。
「では」殿下の声が、いつもの穏やかさを取り戻そうとしていた。「誓い直せばいいのだろう」
「誓い直しは禁じられておりません」と神官長は答えた。「誓いが乱れたときは、誓い直しの前に、双方のご意思を伺います。双方が望まれるなら、新郎が改めて誓い、花嫁が誓いを返されれば婚姻は成ります。先のお言葉は消えず、記録にはその下に並びます」
殿下の肩から力が抜けるのが見えた。道がある、と分かった人の顔だった。
神官長が私の方へ向き直るより先に、殿下は身を寄せて囁いた。
「聞いただろう。君が誓えば済む話だ」
それから殿下は顔を上げ、神官長と参列席に向けて、よく通る声で言った。
「望むとも。重ねて誓う。君も誓う。それでいいだろう」
そして私の返事を待たずに、殿下は祭壇へ向き直った。誓い直しの言葉を始めるために、息を吸うのが聞こえた。
そこへ重なるように、最前列から低い声が私を呼んだ。
「イレーネ」
父の声だった。
大神殿の中で、誰も何も言わなかった。神官長はまだ、私に何も尋ねていなかった。
今朝、控えの間で、父は私のヴェールを直しながら言った。今日からお前は王家の人間だ。この家に、もうお前の戻る部屋はない。叱るときの声ではなかった。決まったことを知らせるときの、穏やかな声だった。
手袋の下で、右手の中指が疼いた。四年も写字官を続けると、中指の第一関節の横に硬いペンだこができる。着付けの侍女はそれを見つけて、「お隠ししますね」と手袋をきつめに整えてくれた。私はそれを、少し惜しいと思った。一か月前に片付けた文書院の机のことを思った。窓際から三つ目の、午後になると光が斜めに入る机。文書院も王家の機関だ。王太子の婚礼をここで壊した者を、もう一度あそこへ座らせる理由は、どこにもない。
誓えば、少なくとも帰る場所はある。誓わなければ、家にも、あの机にも戻れないかもしれない。そう考えると、怖かった。
あの名前を聞いたとき、私は傷ついた。それでもまだ、飲み込むつもりでいた。この三年間、いくつもそうしてきたように。けれど今度のものは喉の手前で止まって、どうしても降りていかなかった。腹が立っていた。
殿下の唇が、誓い直しの最初の言葉の形に開いた。それが声になる前に、私は殿下に向き直った。
「お名前を違えられただけでしたら、まだお待ちできました」
殿下が瞬きをした。
「けれど殿下は今、わたくしに尋ねもせずに、わたくしの誓いまでお決めになりました。――もう一度誓っていただく必要はございません」
殿下の唇が動いたが、言葉にはならなかった。殿下のために言葉を足す人は、この大神殿のどこにもいなかった。
神官長はしばらく私を見ていた。それから、典礼の文言を読み上げるときと同じ声で言った。
「花嫁は、婚姻を望まぬと申し出られました。典礼に従い、誓いの言葉をもってお答えください」
私はヴェールの縁に指をかけ、自分の手で上げた。
殿下の顔が、まっすぐに見えた。
「わたくし、イレーネ・アルトマイヤーは、神の御前にて、レオンハルト殿下を夫とし、生涯を共にすることを、誓いません」
記録係のペンが、今度は止まらずに走った。
神官長は表情を変えなかった。
「双方の誓い、そろわず。よって、この婚姻は成らぬものとする」
ペンの音が、私の言葉も神官長の言葉も、一字残らず紙に移していく。私の名前も、殿下の名前も、あの人の名前も、同じ紙の上に並んでいく。
「イレーネ」
今日初めて、殿下は私の名を正しく呼んだ。
「はい、殿下」
写字官が名を確かめられたときと同じように、私は答えた。それ以上は何も言わなかった。
祭壇に向かって一礼し、それから振り向いた。
入ってきたときは、父の腕に手を置いて歩いた通路だった。今は一人で歩く。
通路は長かった。両側の席から、いくつもの顔がこちらを見ていた。目を逸らす顔も、扇の陰で何か言いかける顔も、ただ口を開けたままの顔もあった。私はうつむかなかったし、走りもしなかった。裾が石の床をこする音が、自分の耳によく聞こえた。
背後で、オルガンが鳴りはじめた。退場曲だった。奏者の手が、習慣で動いたのだろう。二小節目で音が揺れて止まりかけ、それから、何事もなかったように続いた。
最前列で、父の前を通った。父は立ち上がらなかった。私は足を止めずに、父にだけ小さく頭を下げた。父は目を逸らした。
通路の中ほどで、来賓席に見知った顔を見つけた。文書院長だった。招待状を送ったことは覚えていたのに、祭壇を向いている間、一度も思い出さなかった。院長は何も言わず、小さく頷いた。私は歩く速さを変えずに、その前を通り過ぎた。
後ろの方の席に、一つだけ空きがあった。誰が座っていたかを、私は知っている。いつ立ったのかは見ていない。
扉の外は、春の光だった。
石段の下に、白い花で飾られた馬車が止まっていた。二人で乗るはずだった馬車だ。御者が、私と、私の背後の誰もいない石段とを見比べた。
「文書院へ」
御者は何か言いかけて、やめた。私は一人で乗り込み、白い裾を二人分の座席いっぱいに広げた。馬車が動き出すと、窓から入った光が裾の上を滑っていった。
*
文書院の写字室には、午後の光が斜めに入っていた。
扉を開けると、机に向かっていた写字官たちのペンが、いっせいに止まった。大神殿で記録係のペンが止まったときと、よく似た音の消え方だった。違うのは、誰かが小さく「えっ」と言ったことくらいだ。
誰も何も聞かなかった。聞けなかったのだと思う。私も何も言わなかった。婚礼衣装の裾が、床に古くからあるインクの染みをかすめた。
窓際から三つ目の机は、一か月前に片付けたときのまま空いていた。インク壺も、ペン立ても、誰も使っていない。まだ座ってよいと言われていないので、私は机の前に立ったまま待った。
どれくらい立っていたのか分からない。廊下に足音がして、文書院長が入ってきた。大神殿からまっすぐ来たのだろう。来賓用の外套のまま、少し息が上がっていた。
院長は私を見て、机を見て、言った。
「席はそのままにしてあります」
返事をしようとして、言葉がすぐには出てこなかった。
「……ありがとうございます」
「父の家には、戻る部屋がございませんので」
口にしてみると、思っていたより普通の声が出た。院長は眉ひとつ動かさなかった。
「宿直室が空いています。寝台は硬いし、朝は早い。それでよければ」
寝台は硬い、と聞いたところで、肩から力が抜けた。今朝からずっとそこに力を入れていたのだと、抜けてから知った。
「はい。それで」
私は手袋を外した。右手の中指に、ペンだこがあった。
隣の机から、袖覆いが一組、黙って差し出された。クララだった。彼女は何も言わず、差し出した手をそのまま引っ込めて、自分のペンを取り直した。
白い婚礼衣装の上から袖覆いをつけて椅子に座ると、写字官たちのペンが、ひとつ、またひとつと動き出した。
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