第一章 前日の原稿
予行の殿下は、三度とも私の名前を正しく読んだ。
婚礼の前日、大神殿には参列者の代わりに侍従と女官と神官たちが散らばっていて、誰もが自分の持ち場の段取りだけを確かめていた。花を飾る係は花の位置を、楽師はオルガンの入りを、侍従は参列席の札を。私と殿下は祭壇の前に並び、神官長の合図で、明日と同じ言葉を明日と同じ順に口にした。
誓いの言葉は暗唱する決まりだから、本番の祭壇には何も持ち込めない。予行だけは原稿を見てよいことになっていて、殿下の手には、私が書いた一枚の紙があった。一か月前まで王宮文書院の写字官だったので、字には少し自信がある。読み違えのないよう、名前のところだけを大きく書いた。イレーネ、と。
「わたくし、レオンハルトは、神の御前にて、イレーネを妻とし、生涯を共にすることを誓います」
一度目は紙を見ながら。二度目は、ときどき紙に目を落としながら。三度目の殿下は、ほとんど紙を見なかった。
「よろしいでしょう」と神官長が言った。「明日は、このとおりに」
殿下は原稿を折りたたみ、上着の内側にしまった。その手つきが丁寧だったので、私は嬉しかった。たかが紙一枚だけれど、自分の書いたものを人がどう扱うかは、写字官を四年もやっていると、つい目に入る。
予行が終わると、大神殿の中はまた段取りの声で満ちた。花の係が通路の両脇を行ったり来たりして、楽師が退場曲の頭だけを何度もさらっている。父は侍従長と明日の馬車の順番を話していた。私は女官に連れられて控えの間へ戻るところだった。
「イレーネ」
呼ばれて振り向くと、殿下が祭壇の段を降りてくるところだった。
「少しいいか」
女官が心得た顔で一歩下がった。
私はたぶん、期待した。明日のことでも、明日のあとのことでもいい。三年の婚約のあいだ、殿下と二人で話した時間を全部足しても、たいした長さにはならない。殿下はいつも忙しかったし、私もそれを知っていた。だから、こうして呼び止められると、それだけで何か話があるのだと思ってしまう。
殿下は上着の内側から、さっきの原稿ではない、もう少し厚い紙の束を出した。
「式のあとの挨拶なんだが、どうも読みにくい。君に見てもらえないかと思って」
披露の宴で、殿下が来賓に述べる挨拶だった。書いたのは殿下付きの書記官だろう。きちんとした文章だった。きちんとしすぎていた。
「声に出して読んでいただけますか」
殿下は一段目を読んだ。二段目の途中で、舌が引っかかった。
「ここだ。いつもここで詰まる」
「『本日の佳き日の両国の友誼の』……『の』が四つ続いております」
「そうか。四つか」
殿下は感心したように紙を見直した。気づいていなかったらしい。
私は女官からペンを借りて、祭壇脇の書見台の上で紙を広げた。殿下は文の頭で息を吸い、語尾をはっきり言い切る話し方をする。長い修飾がつくと、途中で息が足りなくなる。だから一文を二つに分け、「の」を二つ減らし、礼の言葉を後ろへ回した。それから、殿下がよく使う言い回しを一つだけ足した。各国の使節の名前の読みを、細い字で上に添えた。
「もう一度、お願いします」
殿下は読んだ。今度は止まらなかった。
「さすがだ」
殿下は紙から顔を上げて笑った。
「君に頼むと間違いがない。書記官が三日かけたものを、君は立ったまま直してしまう」
「書記官殿の文章がしっかりしていたからです。骨組みはそのままです」
「謙遜しなくていい。助かった」
助かったと言われて、私は素直に嬉しかった。字を褒められるのも、文を褒められるのも、仕事のうちだ。けれど殿下が、自分の口に合う言葉を見つけて得意そうに読み返すのを見るのは、仕事とは別の嬉しさだった。
それで、今なら言える気がした。
前から聞きたいことがあった。式が済んで、宴も、使節への挨拶回りも終わって、少し落ち着いたら、二人で食事ができるだろうか。大げさなものでなくていい。殿下が何を好んで食べるのか、私はまだ、半分くらいしか知らない。
前にも一度、聞こうとしたことがある。婚約して一年ほど経ったころ、殿下の誕生祝いの夜だった。口を開きかけたところで侍従が来て、殿下は「また今度」と言った。今度は来なかった。来なかったことに、私も気づかないふりをした。
「殿下」
「うん」
「式が済みましたら――」
そこまで言ったところで、殿下の肩越しに侍従の姿が見えた。大神殿の柱の陰に立って、こちらの話が切れるのを待っている。手には書類挟みを抱えていた。次の用件だ。婚礼の前日に、王太子の次の用件がないはずがない。
殿下は私の言葉の続きを待っていた。待ちながら、目の端で侍従を見ていた。
「いえ」と私は言った。「何でもございません」
殿下は首を傾げ、それから、分かったという顔をした。
「明日のことが心配なんだな」
「……はい。いくらか」
「心配はいらない」
殿下は私の肩に軽く手を置いた。
「三度とも読めただろう」
そう言って、殿下は侍従の方へ歩いていった。書類挟みが開かれ、殿下の声が事務的なものに戻るのが、通路の半ばまで聞こえていた。
私は書見台の上に残ったペンを女官に返した。
「よろしかったのですか」と女官が小さく尋ねた。何のことかは言わなかった。
「ええ。明日からは、聞く機会はいくらでもあるでしょうから」
口に出してみると、本当にそう思えた。明日からは同じ宮に住む。朝の挨拶も、夕食も、たぶん同じ食卓になる。一度聞きそびれたくらいで、何も困ることはない。
大神殿を出るとき、楽師がまた退場曲の頭をさらっていた。さっきから同じところでつかえて、そのたびに最初からやり直していた。明日は間違えなければいいけれど、と私は思った。
*
大神殿の天井は高く、神官長の声はいったんそこまで上ってから、ゆるやかに降りてくる。
「新郎は、神の御前にて誓いの言葉を」
ヴェール越しに、レオンハルト殿下の横顔が見えた。整った顎の線が、ステンドグラスの青を受けている。三年見てきた横顔だけれど、こんなに近くでこんなに長く眺めるのは初めてかもしれなかった。
昨日は何もなかった祭壇の両脇が、今日は白い花で埋まっている。参列席には王族、諸侯、各国の使節。昨日、侍従が札を並べていた席の一つ一つに、今日は人が座っている。祭壇の脇では記録係の神官が台に紙を広げ、ペンを構えていた。四年間、毎日すぐそばにあった姿勢だった。
原稿は、今日はない。昨日、殿下が丁寧に折りたたんで上着の内側にしまったきりだ。
殿下が息を吸う。参列席の衣擦れが止んだ。ここにいる全員が、これから口にされる言葉を待っている。
「わたくし、レオンハルトは、神の御前にて、マリエルを妻とし、生涯を共にすることを誓います」
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




