第9話: 無邪気なエスコートと男の子の純情、半分大人の君の覚悟
【一樹 視点】
「母さん、わりぃ。急なんだけど、明日から一泊で友達と大阪に行ってくるわ」
夕食の片付けをしている母親の背中に向かって、俺はなるべく平坦な声を作ってそう告げた。
「えっ、大阪? 友達って……中学の時の子たち?」
「お、おう。あいつら急にUSJ行こうぜとか言い出してさ。旅費は俺が自分で貯めてたお年玉とか使うから、心配しないでいいよ」
木下たちの父親の会社で、毎日遅くまでパートをして俺たち兄妹を育ててくれている母親。そんな母さんに嘘をついてまで、女の子と外泊の旅行に行く。その強烈な罪悪感で、胃がキリキリと痛んだ。
でも、ここで引き下がるわけにはいかない。
俺の手元には、美尋ちゃんが自分の全財産を叩いて貸してくれた二十万円という、高校生には不釣り合いな大金がある。那奈に最高のアオハルをプレゼントするために、この夏休みで一番大きな勝負に出るんだ。
自室に戻り、ボストンバッグに荷物を詰め込む。
スマートフォンの画面には、新幹線のチケットの予約完了画面と、USJのすぐ近くにあるオフィシャルホテルの予約メールが表示されていた。部屋は、ツインルーム。
「……っよし」
俺は両手で自分の頬を思い切りバチン! と叩いた。
同じ部屋で、好きな女の子と一泊する。健康な男子高校生として、どうしても変な想像が頭をよぎってしまって、さっきから動悸が止まらない。
でも、絶対にダメだ。
俺は彼女の純粋な「彼氏」じゃない。最低な罰ゲームから始まって、彼女の貴重な命の残り時間を奪っているだけの、卑怯な偽物だ。
だから、俺はあくまで彼女のエスコート役に徹する。ナイトとして、彼女に最高の思い出を作ってもらうためだけに全力を尽くす。
絶対に、指一本触れない。手を出したりなんかしない。
俺は鏡に映る自分に向かって、そう固く、ガキみたいに真っ直ぐな誓いを立てた。
* * *
【那奈 視点】
「遠橋さん、今日はどうしますか? 結構伸びてきましたね」
「毛先を少し整えて、あとは……トリートメントをお願いします」
美容室の鏡越しに美容師さんと会話しながら、私は自分の髪がツヤツヤになっていくのを静かに見つめていた。
明日は、一樹とUSJへ行く。
彼から「USJに行かないか」とLINEが来た時は、本当に驚いた。関東から大阪への旅行。当然、日帰りなんてできるはずもなく、私たちはホテルに一泊することになった。
「どこかお出かけですか? 夏休みですし」
「ふふ、はい。すごく大切な……思い出作りに」
一樹は、木下君たちからの罰ゲームで、始業式まで私の彼氏を演じなければならない。
でも、いくら罰ゲームとはいえ、高校生が新幹線に乗ってUSJに行き、ホテルに泊まるなんて、どう考えても彼のお小遣いでやりくりできることじゃないはずだ。彼なりに、一生懸命無理をして、私を楽しませようとしてくれているのが痛いほど伝わってきた。
(優しいな、一樹は)
その優しさが、胸の奥をチクリと刺す。
美容室を出た後、私は駅ビルのランジェリーショップに立ち寄った。
色とりどりの華やかな下着が並ぶ店内で、私は一つ一つデザインを確かめながら歩く。普段の私は、白や淡いピンクの、飾りのない地味なものばかり着けていた。
でも、今日は違う。
私は、少し大人びた、ネイビーの繊細なレースがあしらわれたセットを手に取った。
明日の夜、ホテルの部屋で、一樹は私を抱くのだろうか。
嘘の告白から始まった関係。それでも、彼は私に最高のアオハルをくれて、クレーンゲームでぬいぐるみを取ってくれて、下の名前で呼んでくれた。
もし、一樹が望むなら。
一樹になら、私の『初めて』を全部あげてもいい。
どうせ私は、夏休みが終わったら死ぬのだ。大人になることのない私の体が、灰になって消えてしまう前に。彼が少しでも喜んでくれるなら、私は喜んで彼に抱かれよう。
それはきっと、天国の羽奈に持っていく、最高のお土産になるはずだから。
レジで綺麗に包んでもらった紙袋を受け取りながら、私は静かな覚悟と共に、ほんの少しだけ大人への階段を上った気がした。
* * *
【一樹 視点】
「うわああああっ! 一樹、すごいすごい! 本当に魔法みたい!」
真夏のUSJ。
照りつける太陽の下で、那奈はハリーポッターのエリアの城を見上げて、子供のように目を輝かせて飛び跳ねていた。
お揃いで買ったスヌーピーの耳のついたカチューシャが、彼女の白い肌とサラサラの髪にめちゃくちゃ似合っていて、見ているだけで心臓がバクバクする。
「よし、次はあっちのライド乗ろうぜ!」
「でも、百二十分待ちって書いてあるよ……?」
「大丈夫。ほら、これ!」
俺は得意げに、スマートフォンの画面を提示した。
美尋ちゃんから借りた軍資金の暴力、『エクスプレス・パス』だ。
数万円の課金と引き換えに、長蛇の列を横目に専用レーンをスイスイと進んでいく。那奈は「えっ!? なんで!? お金持ちのVIP待遇みたい!」と驚きながらも、俺の手をぎゅっと握って嬉しそうに笑っていた。
(美尋ちゃん。本当にありがとう)
心の中で深く感謝しながら、俺はただ無邪気に彼女をエスコートし続けた。
チュリトスを食べさせ合ったり、ミニオンのハチャメチャなパレードでずぶ濡れになったり。
彼女の笑顔を引き出すためだけに、俺は全力を注いだ。彼女が笑うたびに、俺の心は満たされていくと同時に、「絶対に死なせたくない」という思いが強烈に膨れ上がっていく。
この笑顔を、夏休みが終わってもずっと隣で見ていたい。
そのためなら、なんだってする。
* * *
【那奈 視点】
夢のような時間は、あっという間に過ぎていった。
夕闇がパークを包み、色鮮やかなネオンが点灯し始める。遊び疲れた足を引きずりながら、私たちは夜のUSJを後にした。
「あー、めちゃくちゃ楽しかったな!」
「うん。一樹、今日は本当にありがとう。全部エスコートしてくれて、私、お姫様になったみたいだった」
心地よい疲労感と、甘い余韻。
私たちはパークから歩いてすぐの場所にある、巨大で豪華なオフィシャルホテルへと足を踏み入れた。
チェックインを済ませ、ふかふかの絨毯が敷かれた廊下を歩きながら、私は自分の心臓の音が少しずつ早くなっていくのを感じていた。
服の下には、昨日買ったネイビーのレースの下着を着けている。
一樹の少し後ろを歩きながら、彼の広い背中を見つめる。彼は、どんな風に私に触れるのだろう。痛いのは少し怖いけれど、彼の手なら、きっと優しいはずだ。
「ここだ。714号室」
カードキーをかざし、電子音が鳴る。
重厚なドアが開き、私たちは部屋の中へと足を踏み入れた。
* * *
【一樹 視点】
ガチャリ、と。
背後でドアが閉まり、オートロックの重い音が響いた瞬間。
さっきまでの遊園地の開放的な空気が嘘のように消え去り、部屋の中に「男女が二人きりの密室」という、逃げ場のない圧倒的な緊張感が充満した。
「うわぁ……! すっごく綺麗な部屋!」
那奈は歓声を上げ、窓際に駆け寄った。
大阪の夜景が一望できる大きな窓。そして、部屋の中央に鎮座する、真っ白なシーツがかけられた二つの大きなベッド。
(落ち着け、俺。落ち着け……!)
心臓が肋骨を突き破りそうなほど暴れている。
同じ部屋で、一晩を明かす。彼女のシャワーの音を聞き、パジャマ姿を見て、同じ空間で眠るのだ。意識しないなんて、健康な男子高校生には絶対に不可能だ。
でも、俺は誓ったんだ。絶対に手を出さないと。
俺は、ガチガチに緊張したロボットのような動きで、部屋の隅にある小さな一人掛けのソファに自分のバッグを置いた。
「お、俺さ! 寝相悪いから、今日はこのソファで寝るわ!」
「えっ?」
那奈が、目を丸くして振り返った。
「そんなの悪いよ。ベッド、ちゃんと二つあるんだし」
「い、いや! ほら、男ってなんか色々あるし! とにかく俺はここで寝るから、那奈はベッド二つとも自由に使ってくれ!」
「……? 変なの」
彼女はくすっと笑い、バッグをベッドの端にそっと置いた。
その落ち着き払った、どこか大人びた微笑みが、どうしようもなく俺の心を掻き乱す。
無邪気にエスコートするだけだった時間が終わり、ここから先は、俺のピュアな純情と決意が試される、長く、そして切ない夜の始まりだった。




