第10話:届いた告白と『過去形』の彼氏。天国へ持っていくための残酷な夜
【一樹 視点】
部屋の明かりは、少しだけ落としてあった。
ホテルのツインルーム。シャワーを浴び終えた那奈は、備え付けの白いガウンを羽織り、大きな窓の前に立って外を見下ろしていた。
濡れた髪から、ホテルの備え付けのシャンプーの甘い香りが微かに漂ってくる。
俺は部屋の隅の小さなソファに座ったまま、ガチガチに緊張して身動き一つ取れずにいた。目を逸らそうとしても、夜景の光に照らされた彼女の横顔が、痛いほど綺麗で、どうしても視線を外すことができなかった。
「……綺麗だね。ずっと向こうまで、光の海みたい」
窓ガラスに額をこすりつけるようにして、那奈がぽつりと呟く。
「ああ。……すげぇな」
俺は気の利いたことも言えず、ただ短く相槌を打った。
無言の時間が流れる。エアコンの微かな駆動音だけが、密室の沈黙を埋めていた。
このまま、何事もなく朝を迎えればいい。俺はソファで丸くなって眠り、彼女に指一本触れず、誠実な「エスコート役」としてこの旅行を終わらせるんだ。そう自分に何度も言い聞かせていた。
けれど。
「帰りたくないな……」
窓ガラスを見つめたまま、彼女が落としたその小さな呟きが、俺の心臓を鷲掴みにした。
帰りたくない。
それは、この楽しい旅行を終わらせたくないという普通の女の子の我儘なのだろうか。それとも、現実に戻りたくないという悲鳴なのか。あるいは――天国へ行きたくないという、彼女の奥底に眠る生への執着の現れなのか。
わからない。でも、その震えるような細い声を聞いた瞬間、俺の中で張り詰めていた「エスコート役」としての理性の糸が、音を立てて千切れた。
気がつけば、俺はソファから立ち上がっていた。
ふかふかの絨毯を踏みしめ、窓際に立つ彼女の背中へと歩み寄る。
「……一樹?」
気配に気づいて振り返った彼女の肩を、俺は衝動のままに、両手で強く、強く掴んだ。
「えっ……」
「帰さない」
喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
彼女が驚いて目を見開く。その瞳の中に、情けない俺の顔が映っていた。
最低な罰ゲームから始まった。保身のために彼女を利用し、傷つけ、貴重な時間を奪った。俺に彼女を抱きしめる資格なんてない。そんなことはわかっている。
でも、もう止められなかった。
「嘘告から始まった最低な俺だけど……でも、今は違う。今は、本気で那奈のことが大好きなんだ。失いたくない」
「一樹……」
「俺を、本当の彼氏にしてくれないか。……生きて、ずっと俺のそばにいてくれ」
みっともないくらい必死だった。
俺の全部だ。罪悪感も、自己嫌悪も、なにもかもをかなぐり捨てて、ただ彼女に生きてほしいという願いと、愛だけをぶつけた。
これが俺の、正真正銘の、本当の告白だった。
* * *
【那奈 視点】
肩を掴む一樹の手は、小刻みに震えていた。
まっすぐに見つめてくる彼の瞳からは、痛いほどの熱と、切実な思いが流れ込んでくる。
『今は、本気で那奈のことが大好きなんだ。失いたくない』
その言葉が耳に届いた瞬間、私の心の中で、何かがパァンと弾けた。
罰ゲーム。そう、彼は私に嘘の告白をした。だからこの優しさも、USJに連れてきてくれたことも、全部が彼の罪悪感からくるものだと思っていた。
でも、違ったのだ。
彼は今、私を一人の女の子として、心から愛してくれている。私のために震えて、私を失いたくないと泣きそうな顔をしてくれている。
「一樹……」
嬉しかった。どうしようもないくらい、胸の奥から温かいものが溢れ出して、視界が涙で滲んだ。
私みたいな、死んだように生きてきた空っぽのモブを、こんなに真っ直ぐに愛してくれる人が現れた。
「……嘘告じゃなくて、本当の彼氏になってくれるの?」
「ああ。本当の彼氏だ」
「……嬉しい。すごく、嬉しい」
私は彼に向き直り、その広い胸にそっと顔を埋めた。
トクトクと、彼の早い心音の音が聞こえる。
「私も……私も、一樹のことが好き。大好きだよ」
私の言葉に、一樹は弾かれたように顔を上げ、そして、壊れ物を扱うようにそっと私を抱きしめ返してくれた。
彼の顔が近づき、唇が重なる。
初めてのキス。涙の味がして、不器用で、でもたまらなく優しくて温かかった。
両想いになれた。本当の恋人同士になれたのだ。
ああ、なんて幸せなんだろう。私はなんて恵まれているんだろう。
こんなに最高の幸せを手に入れたのだから。
私は、この世界に、もう何の思い残すこともない。
「……私、こんなに好きな人がいたんだって、お母さんにこっそりいうの」
唇を離し、私は涙で濡れた顔のまま、心からの満面の笑みを浮かべて彼を見上げた。
「羽奈にはね、私にはこんなにカッコいい『彼氏だった』んだよって、最高のアオハルだったんだよって、いっぱい自慢するね」
天国で待つ、大好きなお母さんと羽奈に。
この最高の思い出を持っていけば、きっと二人とも「お姉ちゃん、良かったね」って一緒に笑ってくれるはずだ。
* * *
【一樹 視点】
「…………え?」
那奈の口から紡がれた言葉の意味が、頭の中で処理しきれず、俺は間抜けな声を出して固まった。
『彼氏だった』。
過去形。
俺の腕の中で、彼女は本当に心の底から幸せそうに、涙を流しながら笑っている。
その笑顔を見た瞬間。
俺の心臓は、まるで氷の刃で串刺しにされたように、完全に機能を停止した。
(違う。……違う、そうじゃない……!)
俺の告白は、届かなかったわけじゃない。
彼女は確かに俺の愛を受け取り、喜び、俺を愛していると答えてくれた。完全に、心は通じ合っていた。
それなのに。
俺の愛も、俺の存在も、彼女にとっては『生きる理由』にはならなかったのだ。
彼女の魂は、俺の愛というこの上ない極上の手土産を受け取って、そのまま真っ直ぐに、天国にいる妹たちの元へ向かってしまった。
「なんで……」
絶望だった。
拒絶されるよりも、はるかに残酷な絶望だった。
俺が彼女に与えられるものなんて、もう何一つ残されていない。俺の愛のすべてを注ぎ込んでも、彼女の死への歩みを一歩も、ただの一歩すらも止めることはできなかった。
圧倒的な無力感が、全身の血を凍らせ、俺からすべての言葉を奪い去った。
腕の中にいるはずの彼女が、もう、手の届かない遥か遠くの空へ消えてしまったように感じて、俺はただ立ち尽くすことしかできなかった。
「一樹……?」
固まったまま震える俺の頬に、那奈の温かい手がそっと触れた。
彼女は、俺の絶望に気づいているのか、いないのか。ただ、聖母のように優しく、慈しむような瞳で俺を見つめていた。
「わたし、一樹だったら……ううん、一樹が良いの」
彼女はそう言うと、俺の首に腕を回し、背伸びをして再び俺の唇に触れた。
今度は、先ほどの不器用なキスとは違う。彼女の方から、深く、すべてを委ねるような口づけだった。
「私に、最高のアオハルで、最高の思い出をください」
それは、死へ向かう彼女からの、残酷すぎる最後のお願いだった。
俺は、彼女を救えない。
この細い体を抱きしめても、彼女の心は妹の元にある。それでも、俺は彼女を愛している。愛してしまった。
彼女が望むなら、俺はもう、自分の身を切り裂いてでも、彼女の望む『過去の思い出』になるしかなかった。
「……っ、那奈……」
俺は嗚咽を漏らしながら、彼女の体を強く、壊れるほどに抱きしめ返した。
彼女の羽織っていた白いガウンがはらりと床に落ちる。
その下には、昨日まで彼女が着ていたような飾りのない下着ではなく、少し大人びた、ネイビーの繊細なレースがあしらわれた勝負下着が隠されていた。
今日この日のために。彼女は初めから、俺にすべてを捧げて、天国へ持っていくと決めていたのだ。
そのあまりの純粋さと狂気に、俺はもう抗うことすらできず、ただ涙を流しながら彼女の肌に触れた。
部屋の明かりを、消す。
窓から差し込む夜景の青い光だけが、二人の体を薄暗く照らしていた。
肌と肌が触れ合い、一つになる。
結ばれる悦びと、永遠に失う絶望。
温かい彼女の体温を感じるたびに、これが冷たく灰になってしまう日が来るのだという現実が、俺の心をズタズタに引き裂いた。
それでも彼女は、「嬉しい」「幸せ」と何度も俺の名前を呼びながら、優しく俺の背中を撫でてくれた。
愛し合っているのに、少しも救われない。
お互いのすべてを捧げ合ったのに、心は決定的にすれ違ったまま。
それは、俺たちにとっての『初めて』であり。
この世で最も綺麗で、最も悲しく、そして残酷な夜だった。




