第11話: 絶望の底と美尋の鉄拳、走り出した先にある答え
【一樹 視点】
USJでの、美しくて残酷な夜から、数日が過ぎ、俺の心は、完全に壊れていた。
朝起きて、息をして、夜眠る。ただそれだけの生物としての機能すら、ひどく億劫だった。
食事は喉を通らず、母親が心配して部屋に置いていくおにぎりやパンも、手をつける気になれずにゴミ箱へ捨てた。
那奈には「ちょっと夏風邪引いたみたいで」と誤魔化し、夜の公園で少しだけ顔を合わせるか、LINEで短くやり取りをするだけ。彼女の顔をまともに見るのが怖かった。あの時の、幸せの絶頂から俺を突き落とした『彼氏だった』という無邪気な笑顔がフラッシュバックして、吐き気がこみ上げてくるのだ。
愛し合った。心も体も、すべてを通い合わせた。
それでも、彼女の死への歩みは止まらない。俺という存在は、彼女を生かす理由にはなれなかった。
その絶対的な無力感が、重い鉛のように全身にまとわりつき、俺の思考を暗い泥の底へと沈めていく。
「……クソが」
真夜中。
俺はふらふらと家を抜け出し、目的もなく駅前の繁華街を歩いていた。
ネオンの光が目に痛い。すれ違う同年代の男女の笑い声が、耳障りだった。世界中で俺だけが、永遠に終わらない地獄の底に取り残されているような錯覚に陥る。
歩きスマホをしていた俺の肩が、前から歩いてきた柄の悪い男とぶつかった。
「あ? どこ見て歩いてんだよ、ガキ」
舌打ちをして凄んでくる男。普段の俺なら、平謝りして逃げ出すところだ。
でも、今の俺は違った。
「……うるせえよ。どけ」
空っぽの目でそう言い返した瞬間、男の拳が俺の頬にめり込んだ。
コンクリートの地面に倒れ込み、容赦のない蹴りが腹や背中に降ってくる。痛い。苦しい。口の中が切れて、鉄の味が広がる。
それでも、俺は抵抗しなかった。
むしろ、この理不尽な暴力による身体的な痛みが、心の痛みをほんの少しだけ忘れさせてくれる気がして、気味が悪いほど安堵すら覚えていたのだ。
「チッ、気持ちわりぃ野郎だな」
何度か蹴り飛ばされた後、男は唾を吐き捨てて去っていった。
俺はふらつく足で立ち上がり、近くのコンビニで缶ビールを買った。
未成年だというのに、店員は俺のボロボロの顔を見て関わり合いになりたくなかったのか、何も聞かずに売ってくれた。
人通りのない路地裏に座り込み、プシュッと缶を開ける。
苦くて不味い液体を胃に流し込み、ただ虚空を見つめていた。
「なにやってんのよ、あんた」
頭上から降ってきた聞き慣れた声に、俺はゆっくりと顔を上げた。
そこには、眉を吊り上げ、怒りに震える美尋ちゃんが立っていた。バイト帰りだったのだろう。彼女の視線は、俺の腫れ上がった顔と、手にある缶ビールを交互に睨みつけていた。
「美尋ちゃん……奇遇だね」
「奇遇じゃないわよ! あんた、何日もまともにご飯食べてないっておばさんから泣きつかれて、ずっと探してたんだから! その顔、どうしたの!? それに、お酒なんか飲んで……!」
「いいじゃん、別に……」
俺は自嘲気味に笑い、もう一口ビールを飲んだ。
「もう、全部どうでもいいんだよ。俺なんかに、あいつを救うことなんて最初から無理だったんだ。二十万も借りて、バカみたいに張り切って……結局、俺はあいつの思い出作りの道具でしかなかった」
口から滑り出るのは、情けない愚痴ばかり。
アルコールが回った頭で、俺は最悪な言葉を吐き出した。
「もう疲れたよ……いっそのこと、美尋ちゃんにしようかな。美尋ちゃんなら、俺のこと裏切らないし、どこにも行かないだろ……?」
最低だった。
自分でも何を言っているのかわからなかった。ただ、傷ついた自分を甘やかして欲しくて、一番身近で優しい彼女に、甘えて、寄りかかろうとした。
バチィィンッ!!!!
路地裏に、乾いた破裂音が響き渡った。
俺の顔は横に吹っ飛び、持っていた缶ビールが地面に転がって泡を吹く。
頬が火のように熱い。
美尋ちゃんは、俺の胸ぐらを両手で力任せに掴み上げ、信じられないほどの力で引き寄せた。
「ふざけんじゃないわよ!!」
彼女の目は、真っ赤に充血し、大粒の涙が溢れ出していた。
「あんた、 私からお金借りて、幸せにするって誓ったんじゃないの!? それを、ちょっと自分の思い通りにならないからって、こんな所で酒飲んで、逃げて、私に甘えて……!!」
彼女の叫びが、夜の空気を震わせる。
俺は、彼女のそんな激しい感情を、涙を、今まで一度も見たことがなかった。
「アタシが好きだった一樹は……ッ! 好きな女、絶対に諦めないよ!!!」
その言葉は、脳天をハンマーで殴りつけたように貫いた。
『好きだった』。
過去形に込められた彼女の想い。姉貴分として俺をずっと見守り、俺の恋を応援して背中を押してくれた彼女の、隠されていた本当の気持ち。
彼女は、こんな俺のことが好きでいたくれたのだ。
それなのに、俺のために自分の全財産を貸してくれて、俺を送り出してくれた。
俺は、どれだけの人間の想いを踏みにじっているんだ。
「……っ!」
美尋ちゃんの手が離れ、俺はその場にへたり込んだ。
涙が、溢れて止まらなかった。
自分はなんて最低で、クソみたいな人間なんだ。那奈が死ぬことよりも、自分が傷つくことから逃げていただけじゃないか。
「……ごめん。ごめんなさい、美尋ちゃん……ッ!」
俺はアスファルトに額を擦りつけるようにして、泣きじゃくった。
美尋ちゃんは鼻をすすり、乱暴に涙を拭うと、いつもの『姉貴分』の厳しい声で言った。
「……行きなさい。あんたが今、一緒にいなきゃいけないのは、私じゃないでしょ」
「……うん」
俺はふらつく足で立ち上がった。
頬の痛みも、体の痛みも、もうどうでもよかった。
逃げない。もう絶対に、逃げない。
俺は美尋ちゃんに深く頭を下げ、夜の街へと駆け出した。
* * *
【那奈 視点】
暗い部屋の中で、私はスマートフォンの画面をぼんやりと見つめていた。
『今から会えないか。いつもの公園で』
一樹からの短いメッセージ。
時刻は深夜を回っている。私はベッドから起き上がり、カーディガンを羽織って家を出た。
夜風が生ぬるい。
一樹がここ数日、ひどく落ち込んでいることはわかっていた。
顔色も悪かったし、無理をして笑っているのも見え透いていた。USJでのあの夜から、彼の心は確実に折れてしまっていた。
(……バカみたい)
私は、自分の内側に渦巻く醜い感情を持て余していた。
一樹は、私が死ぬことを悲しんでくれている。それは痛いほど伝わっている。
でも、心のどこかで私はひどく冷めた目で彼を見ていたのだ。
『最初から、こうなるってわかってたじゃない』
『私が夏休みが終わったら死ぬって、最初から伝えてたのに。なんで今更、こんなに絶望してるの?』
私たちは愛し合った。でも、それは私が天国へ持っていくための『思い出』であって、生きる理由にはならない。
一樹は、愛があれば私が生きることを選ぶとでも思っていたのだろうか。
結局のところ、彼も同じなのだ。
私が死ぬことに対する悲しみよりも、「自分には彼女を救えなかった」という無力感、「自分を置いていかないでほしい」という彼自身のエゴが優先されているだけ。
私の抱える、お母さんや羽奈に対する途方もない罪悪感になんて、彼は本当の意味で寄り添うことなどできない。
「……私って、本当に嫌な女」
ぽつりとこぼした呟きは、夜の闇に吸い込まれて消えた。
こんな風に、自分を愛してくれた人のことを冷たく分析して、勝手に失望している自分が底知れず浅ましく思えた。
でも、もうすぐ終わるのだ。
夏休みが終われば、私は死ぬ。彼も、この苦しみから解放される。それでいい。
公園の街灯の下。
ブランコに座って待っていると、遠くから荒い足音が近づいてくるのが聞こえた。
「那奈……ッ!!」
暗闇から飛び出してきた一樹を見て、私は息を呑んだ。
顔は赤く腫れ上がり、唇の端が切れて血が滲んでいる。服は泥だらけで、全身汗だくで、信じられないくらいボロボロだった。
「一樹!? その顔、どうしたの……っ」
「那奈……!」
彼は私の言葉を遮るように、まっすぐに駆け寄ってくると、そのまま私を力強く抱きしめた。
汗の匂いと、微かな血の匂い、そしてアルコールの匂い。
泥臭くて、みっともなくて、バカみたいに必死な、私の彼氏。
「俺は……俺はまだ、君を止められてない。君の抱えてる重いものを、半分持ってやることもできてない」
耳元で、彼が荒い息を吐きながら叫ぶように言った。
その声は震えていたけれど、数日前のような絶望の色は消え去り、確かな熱を帯びていた。
「でも、君への気持ちは絶対に止まらないんだ! 君がどれだけ俺を過去形にしようとしても、俺は今、ここで君を愛してる!」
「一樹……」
「だから……明日からも、夏を楽しもう! 俺と、全力でアオハルしてくれ!」
真っ直ぐすぎる言葉だった。
理屈も何もない。ただの感情の塊だった。
さっきまで私が頭の中でこねくり回していた、冷たい分析や、浅ましいエゴ。
『結局は自分の気持ち優先だ』『最初からわかっていたことだ』。
そんな氷のような私の思考が、彼のこの圧倒的な熱量に触れた瞬間、跡形もなく溶けて、吹き飛んでしまった。
ズルい。本当に、ズルい男だ。
こんなにボロボロになって、汗だくで私を抱きしめる彼が。
私みたいな空っぽの人間を、こんなに力強く繋ぎ止めようとする彼が。
どうしようもなく、愛おしくて、愛おしくて、たまらなく大好きなのだ。
――なのに、私は、この人を置いていかなければならない。
その残酷な運命に、私は引き裂かれるような痛みを感じながら、彼の背中に腕を回した。
視界が涙で滲む。
私は、彼の胸の中で、声を出して泣きながら、それでも顔を上げて、精一杯の笑顔を作った。
「うん……っ! 二人で、最高の夏にしよう!」
それは、私のエゴと愛が入り混じった、泣き笑いの誓いだった。
私たちは夜の公園で、不格好に抱き合ったまま、残されたわずかな夏休みの時間を、狂ったように走り抜ける覚悟を決めたのだった。




