第8話:貢ぐ素質のある従姉と夏を駆けるための二十万と西への切符
遠橋那奈との「嘘の恋人」としての時間が長くなるにつれ、俺の前に現実的かつ、とてつもなく巨大な壁が立ちはだかっていた。
それは、『デートの資金問題』である。
彼女は、両親と妹を事故で亡くしている。詳しい事情は聞けないが、おそらく保険金や遺産などで、少なくとも彼女自身の生活費や遊ぶお金には困っていないようだった。
映画館のチケット、カフェでの食事代、東京までの電車賃。彼女は決して裕福さをひけらかすことはないが、当たり前のように自分の分をスッと支払う。
一方の俺は、ごく普通の、いや、親父が死んで母親がパートで生計を立てている、どちらかといえば貧乏な高校生だ。
この夏休みに入るまで、女の子と出かけたことなんて一度もなかった。普段の小遣いは微々たるもので、貯金は底をつき、コツコツ貯めていたブタの貯金箱を叩き割ってみても、中から出てきたのは五百円玉や小銭ばかり。全部合わせても、せいぜい一万数千円だった。
これでは、あと数回のデートで底をつく。
「金がないから、出かけられない」
そんなこと、死んでも言えるわけがなかった。
彼女は、この夏休みを全力で駆け抜けて、最高の『アオハル』の思い出を作ってから、死のうとしているのだ。俺の財布の事情で、彼女の限りある時間を停滞させるなんて絶対に許されない。
夏休みが終わったら、九月からは死ぬ気でバイトをして稼ぐ。でも、それでは間に合わない。俺には『今、この夏休みの間』に使えるまとまったお金が、どうしても必要だった。
俺は、自室の机の引き出しの奥から、分厚いバインダーを取り出した。
中には、小学生の頃から大切に集めてきたレアなトレーディングカードが、一枚一枚丁寧にスリーブに入れられて収まっている。中には、現在では数万円のプレミアがついているものもある。
そしてそのページの一番最初には、親父が死ぬ少し前、俺の誕生日に無理をして買ってくれた、特別なキラカードが入っていた。
このバインダーは、俺の宝物だった。
「……親父、ごめん。でも俺、これを使わなきゃならないんだ」
俺はバインダーをリュックに詰め込むと、真夏の太陽が照りつけるアスファルトの道を、駅前のカードショップへと向かって走り出した。
* * *
駅前のアーケード街を歩いていた美尋は、ふと視界の端に映った見覚えのある背中に足を止めた。
「あれ……一樹?」
スパイキーなショートヘアに、シルバーのメッシュ。少し大きめのストリート系の服。
間違いなく、二歳年下の従弟である木戸一樹だった。彼は今、駅前で一番大きなカードショップの階段を、思い詰めたような顔で駆け上がっていくところだった。
(……あんな切羽詰まった顔して、どうしたのよ)
美尋の胸に、ざわちりとした胸騒ぎがよぎる。
少し前、一樹の妹である加奈子から、「兄貴に彼女ができたから、服のプロデュースを手伝って!」と泣きつかれた日のことを思い出す。
あの時、美尋は内心、激しく動揺していた。
一樹にとっては、自分はただの『二歳上の頼れる姉貴分』だろう。だが、美尋は昔から、この不器用でお人好しで、どこか放っておけない従弟のことがずっと好きだった。
だが、今はまだ告白する時ではないと、自分の気持ちに蓋をしたのだ。高校生同士の恋愛なんて、どうせ些細なすれ違いで簡単に別れたり、大学に入って環境が変われば自然消滅したりするものだ。だから今は、玉砕覚悟で気持ちを伝えるよりも、一番身近で何でも相談できる『姉貴分』というポジションをキープしておくのが賢い。
そう自分に言い聞かせながら、血の滲むような思いで一樹をカッコよくイメチェンさせたのだ。
その一樹が、彼女とのデート中ではなく、一人でカードショップに駆け込んでいる。
美尋は彼の後を追い、そっと店内に足を踏み入れた。
ショーケースが並ぶ奥の買取カウンター。そこに立つ一樹の手元を見て、美尋は息を呑んだ。
「ちょっと、一樹!」
美尋は思わず声を上げ、一樹の肩を掴んで自分の方へ振り向かせた。
「美尋ちゃん!?」
「あんた、それ……」
カウンターの上に置かれていたのは、一樹が子供の頃から宝物のように抱えていたカードバインダーだった。開かれたページには、一樹の父親が遺した、あの特別なカードが輝いている。
一樹がこのカードをどれほど大切にしていたか、美尋は痛いほど知っている。それを売ろうとしているだなんて、ただ事ではない。
「一樹、外に出なさい」
「えっ、でも査定が……」
「いいから!」
美尋は半ば強引に一樹の腕を引っ張り、夏の熱気が籠る路地裏へと連れ出した。
* * *
「……どういうことなの? 一樹、どうしても理由は話せないの?」
路地裏の自販機の横で、美尋ちゃんは厳しい目で俺を問い詰めた。
彼女の怒りは当然だ。あの親父のカードを売るなんて、俺自身が一番やりたくなかったことなのだから。でも、そうするしかなかった。
俺はうつむいたまま、正直に答えた。
「うん……これは俺だけの事じゃないから、美尋ちゃんという頼れる姉貴分にでも、言うわけにはいかないんだ」
「……」
美尋ちゃんは少しの間黙り込み、それからさらに一歩、俺に詰め寄った。
「誰かに脅されたり、騙されたりしてるわけじゃないのね?」
「それはない。絶対にないよ」
俺は顔を上げ、彼女の目を真っ直ぐに見返した。
「夏休みが終わったら、九月からは死ぬ気でバイトでも何でもする。でも、どうしても『夏休みの今』いるんだ。俺がしでかした最低なことの落とし前をつけるため……やりたい事のために、どうしてもお金がいるんだ」
脳裏に、白いワンピースを着て笑う那奈の姿が浮かぶ。
『その時まで、私を一樹の彼女でいさせてね』と笑った、あの儚い顔が。
「父さんが買ってくれたカードも……これを売ってその金を使うなら、父さんも絶対に『よくやった』って褒めてくれる。そういう理由なんだ」
俺の決意のこもった言葉を聞いて、美尋ちゃんは大きくため息をついた。
そして、俺の顔をじっと見つめる。今まで見たこともないような、どこか寂しげで、それでいてひどく優しい目だった。
「……そう。一樹、ついてきて」
「……? どこに?」
美尋ちゃんは何も言わず、歩き出した。
連れて行かれたのは、駅前のコンビニエンスストアだった。
冷房の効いた店内で、美尋ちゃんは無言のままATMの前に立ち、バッグからキャッシュカードを取り出した。ピピピッ、と電子音が鳴り響き、機械が紙幣を数える生々しい音がする。
やがて、美尋ちゃんはATMから出てきた紙幣の束を封筒に入れ、振り返ってそれを俺の胸に押し付けた。
「美尋、ちゃん……?」
「二〇万。私のバイト代の貯金」
あまりの金額に、俺は声が出なかった。大学生の彼女にとっても、二〇万は大金のはずだ。
「今は事情は聞かないし、おばさんたちにも言わない。だから、九月になったらちゃんとバイト始めて、少しずつでいいからお金返しなさい」
「でも、こんな大金……!」
「その代わり、これは没収」
美尋ちゃんは、俺が持っていたバインダーをひょいっと奪い取った。
「おじさんのカードは、絶対に売っちゃダメ。それまでは、私がこれを担保として預かっておくから」
「美尋ちゃん……」
その不器用で、圧倒的な優しさに、俺は胸が熱くなって泣きそうになった。
「あと、全部終わったら、ちゃんと事情を聞かせなさいよ」
「……美尋ちゃん、すいません。ありがたく、お借りします」
俺は封筒を強く握りしめ、深く頭を下げた。
「正直、事情は俺自身がバカ過ぎて、あまり話したくないような情けない話だけど……それでも、聞いてくれるかな?」
俺がそう尋ねると、美尋ちゃんはふっと口角を上げ、いつもの『姉貴分』の顔で笑った。
「うん。『《《お姉ちゃん》》』だからね、ちゃんと聞いてあげるよ(笑)」
「うん……! じゃあ、行くね!」
「なんか知らないけど、頑張りなさいよ」
「……きっと、何とかしてみせるよ。ありがとう!」
俺は美尋ちゃんに背を向け、自動ドアを抜けて外へと走り出した。
リュックの中にはないバインダーの代わりに、手にした封筒が命の重さのようにずっしりと熱かった。
* * *
走り去っていく一樹の背中を、美尋はコンビニの窓越しにずっと見つめていた。
あの頼りなかった背中が、いつの間にか見違えるほど広くなっている。自分の知らないところで、彼は一人の男として、誰かのためにあんなに必死な顔をするようになっていた。
たぶん、その『誰か』は、彼にできたというあの彼女なのだろう。
好きな男の子が、他の女の子のために走っていくのを、自分の全財産をはたいて応援してしまうなんて。
「……こりゃ、私も貢ぐ女になる素質あるなぁ」
自嘲気味に呟いた美尋の頬を、一筋の涙が伝って落ちた。
それは、失恋の痛みと、立派に成長した彼への愛おしさが入り混じった、自分でもよくわからない感情の雫だった。彼女はそれを指先で乱暴に拭い去り、手元に残された重いバインダーを抱きしめて、反対の道へと歩き出した。
* * *
夏の空の下。
俺は、息を切らして走りながら、ポケットからスマートフォンを取り出した。
手元には、美尋ちゃんが貸してくれた二十万円という、俺にとっては途方もない大金がある。これなら、彼女の「最高のアオハル」を飾るにふさわしい、最高の思い出のピースを買いに行くことができる。
近所の公園の線香花火でも、地元のショッピングモールでもない。
彼女を、俺たちのこの狭い世界から連れ出してやるんだ。
俺は、立ち止まって荒い息を吐きながら、画面をタップして那奈へのメッセージを打ち込んだ。
『那奈。――USJって、いってみないか?』
送信ボタンを押す。
西へ、俺達の夏へ向かう切符を手に入れた俺は、もう二度と迷わないと、真っ青な夏の空を見上げて強く誓った。




