第3話:見逃した打ち上げ花火と、二人だけの線香花火
うだるような熱気がアスファルトから立ち上る、夏の東京。
行き交う人々は皆、雑誌から抜け出してきたように洗練されていて、キラキラとしたオーラを放っている。お洒落なカフェ、流行りのスイーツ、そしてこれから向かう予定の、大規模な花火大会。
高校生らしい「輝くアオハル」を那奈に体験させるため、一樹は気合を入れてこの東京デートを計画していた。
だが、現在。原宿のど真ん中を歩く二人の足取りは、ひどく重かった。
「……なんか、すげぇ疲れるな、ここ」
「うん……。すれ違う人、みんな綺麗すぎてHP削られる……」
二人は肩を落とし、ため息をついた。
無理もない。彼らは生粋の「モブ」なのだ。
一樹は今日のデートのために、手持ちの小遣いを握りしめてGUに駆け込み、マネキンが着ていた無難な服をそのまま一式買ってきた。足元はディスカウントストアで買った安いニューバランスのスニーカー。見事なまでに量産型の、没個性的な男子高校生がそこに完成していた。
だが、問題は一樹ではなく、隣を歩く那奈の方だった。
彼女の今日の服装は、一言で言えば「大事故」だった。
淡いピンクの可愛らしいブラウス。なぜかその上から、くたびれたグレーのパーカーを羽織り、ボトムスはひらひらとした花柄のフレアスカート。そして足元は、ゴツいナイキのスニーカー。
フェミニンとスポーティとカジュアルが、最悪の形で大喧嘩をしている。アイテム単体で見れば決して悪くないのに、組み合わせのセンスが壊滅的なのだ。
(お母さんがいたら、絶対に怒られてたな……)
ショーウィンドウに映る自分のヤバい姿を見て、那奈は心の中で苦笑した。
以前の那奈も、ファッションには無頓着だった。だが、これまでは出かける前に必ず、母や妹の羽奈がストッパーになってくれていた。
『那奈、そのブラウスにパーカーは絶対おかしいって! ヤバい奴になっちゃうよ!』
『お姉ちゃんダサすぎー! こっちのカーディガンにしなよ!』
そうやって笑いながら、毎朝彼女の服を選び直してくれていた温かい手。
でも、今朝。鏡の前に立った那奈を止める声は、どこからも聞こえなかった。静まり返った部屋で、適当に目についた服を着ても、誰も笑ってくれない。その圧倒的な静寂と喪失感から逃げるように、那奈はこのちぐはぐな服のまま家を飛び出してきたのだ。
「でも、パンケーキ、美味しかったね」
「あ、ああ。生クリームすげぇ量だったけどな」
気を取り直すように笑いかける那奈に、一樹も優しく微笑み返す。
初めてのお洒落なカフェでのパンケーキや、原宿のクレープ。慣れない場所で気疲れはしたものの、那奈の顔には確かに嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
『羽奈、こういうのテレビで見てずっと食べたがってたんだ。天国に行ったら、いっぱい自慢してやらなきゃ』
そう言って笑う彼女の横顔を見るたび、一樹の胸はギュッと締め付けられた。彼女が笑う理由はいつだって「死んだ後の土産話」のためなのだ。
だからこそ、一樹は今日、絶対に彼女を楽しませなければならなかった。この世界に少しでも未練を持たせるために。
「そろそろ花火大会の会場、移動しよっか」
「そうだな。結構混んできてるし、はぐれないように……ほら」
一樹が不器用に差し出した手を、那奈が少し照れくさそうに握る。
少しだけ彼氏と彼女らしい空気を纏いながら、二人は花火大会の会場へと向かった。
* * *
夕闇が迫る河川敷の会場は、すでに身動きが取れないほどの人で溢れ返っていた。
屋台の立ち並ぶ通りを、那奈は片手に買ったばかりのホットチリ味のケバブを持ちながら、一樹に手を引かれて歩いていた。
あと少しで花火が上がる。場所取りをしようと人混みを縫って歩いていた、その時だった。
「あ、痛っ」
ドンッ、と強い力で肩をぶつけられ、那奈は体勢を崩した。
前から歩いてきた、ガラの悪いカップルだった。腕にタトゥーの入った威圧的な男と、露出の多い服を着た派手な女。
ぶつかった拍子に、女が持っていたプラスチックカップのジュースが、那奈の淡いピンクのブラウスにバシャリと零れ落ちた。
「アーごめんごめんw 前見てなかったわー」
女は全く悪びれる様子もなく、ヘラヘラと笑いながら薄っぺらい謝罪を口にした。
シミになってしまったブラウスを見て、那奈が戸惑って何も言えずにいると、一樹が一歩前に出た。
「あのさ、ぶつかるのは人混みだから仕方ないにせよ、ちゃんと謝ったらどうですか。服、汚れてるんですけど」
一樹の正論に、タトゥーの男がチッと舌打ちをしてガンを飛ばしてきた。
「あぁ? 謝っただろうが。ガタガタうっせぇな、陰キャが」
「そうそう。てかさー」
女が、那奈の壊滅的にダサい服装を上から下までジロジロと舐め回すように見て、鼻で笑った。
「そんなダサい服、汚れたって別にいいじゃん。またママにでも買ってもらえよ、ブス」
――ママに買ってもらえ。
その言葉が耳に入った瞬間、那奈の肩がビクッと跳ねた。
もう、お母さんはいない。一緒に服を選んでくれる人も、買ってくれる人も、笑い合ってくれる家族も、この世界には誰もいないのに。
那奈はギュッと唇を噛み締め、ひどく哀しそうに目を伏せた。
その那奈の表情を見た瞬間。
一樹の中で、何かが完全にブチ切れる音がした。
「……何がブスだよ」
地を這うような、冷たくて低い声だった。
一樹は、ヤカラ女を真っ直ぐに睨み据え、堰を切ったように言葉の弾丸を浴びせ始めた。
「お前の方が絵の具みたいに化粧して塗りたくって、よっぽど気持ち悪いんだよ。ついであんた、さっきからすげぇ臭いよ。香水か柔軟剤か、ヘアクリームか、どれか一つにしろ。それとも風呂入ってなくて、どこか臭いの誤魔化してんのか?」
一瞬、周囲の音が消えた。
あまりにも容赦のない、そして解像度の高い悪口の連射に、ヤカラカップルも、周りにいた見物客たちも唖然として固まっている。普段は大人しくてモブな一樹の口から出たとは到底思えない、苛烈な怒りだった。
真っ赤になった女が「はぁ!?」と金切り声を上げる。
「てめぇ、ぶっ殺すぞ!!」
激高した男が、太い腕を振り上げて一樹に殴りかかろうとした。
一樹が咄嗟に身構えた、次の瞬間。
ベチャッ!!
「ぐあぁぁぁッ!!? め、目がぁぁぁッ!!」
男が顔を押さえて、その場にうずくまって絶叫した。
見れば、男の顔面には、那奈が持っていた『ホットチリ味のケバブ』が、具材から激辛ソースまで余すところなく綺麗に直撃していた。
「えっ」
「逃げるよ、木戸君!!」
呆然とする一樹の手を、那奈がガシッと掴む。
スパイシーな匂いと男の悲鳴が響き渡る中、二人は手を強く握り合い、人でごった返す会場を全速力で駆け出した。
もう花火どころではない。怒り狂ったヤカラから逃げるため、二人は息を切らし、夜風を切り裂いて走り続けた。
恐怖よりも、なぜか胸の奥から湧き上がってくるおかしさに、二人は走りながら、どちらからともなく声を上げて笑い合っていた。
* * *
「あー……死ぬかと思った……」
「ごめ、あははっ! あの人、ケバブまみれで……っ!」
帰りの空いた電車の中。
二人は座席にへたり込み、息を整えながらまだクスクスと笑い合っていた。
「遠橋さん、思い切り良すぎだろ。激辛ソース、絶対目に入ってたぞ」
「だって、木戸君が殴られそうだったから! ……でも、ありがとう。あんな風に怒ってくれて、すごく嬉しかった」
「……俺、あんな口悪かったっけな。自分でもびっくりした」
照れくさそうに頭を掻く一樹。
ふと、窓ガラスに映る自分たちの姿を見て、二人は同時にため息をついた。
「やっぱりさ、無理してお洒落な東京なんかに行っても、今の俺たちじゃ戦力不足だったな」
「うん、HPも足りないし、装備も間違ってたね。お洒落とか、好きじゃないって言う前に……まずは二人で、ちゃんとした服の組み合わせとか、髪型とか、研究して見直そうか」
「そうだな。次リベンジする時は、モブなりにもう少しレベルアップしてからにしよう」
そんな反省会をしているうちに、電車は最寄り駅へと到着した。
駅からの帰り道、すっかり暗くなった夜道を歩きながら、那奈がふと空を見上げる。
「結局、打ち上げ花火、見れなかったねぇ」
「……ごめん。俺が余計なこと言ったから」
「ううん! すっごく楽しかったよ。最高のアオハルだった!」
那奈は笑って首を振ったが、ジュースを被ったブラウスが肌に張り付いて気持ち悪そうだ。
「ジュースでベタベタするから、帰って早く着替えたいな」
「……遠橋さん。シャワー浴びて着替えたら、一緒に近くの公園に行こう」
「え?」
「俺、ちょっとコンビニ行ってくるから! 着替えたら公園で待ってて!」
一樹はそれだけ言うと、返事も待たずに駅前のコンビニへ向かって全力で走り出していった。
* * *
アパートでシャワーを浴び、Tシャツにショートパンツというラフな部屋着に着替えた那奈が公園に向かうと、街灯の下で一樹が待っていた。
彼の手には、コンビニのレジ袋と、水の入ったバケツが握られている。
「はい、これ」
一樹が袋から取り出したのは、数百円で買える手持ち花火のセットだった。
「公園で二人で花火しようよ。東京のでっかい花火もいいけど……こういうのも、青春っぽいだろ?」
「木戸君……」
一樹の不器用で真っ直ぐな優しさに、那奈の胸の奥がじんわりと温かくなる。
誰もいない夜の児童公園。
二人はベンチの前にしゃがみ込み、小さなろうそくに火を灯した。
シュパパパッ!と、赤や緑の鮮やかな光が噴き出し、火薬の匂いが夏の夜の空気に溶けていく。
「わあ、綺麗! 見て見て木戸君、色が変わった!」
「危ねぇよ、振り回すなよ遠橋さん」
東京の空を彩る数万発の打ち上げ花火には敵わないかもしれない。でも、笑い合いながら楽しむこの小さな花火の光は、二人の距離を確かに近づけていた。
やがて、袋の中の花火も残り少なくなり、最後に残ったのは数本の線香花火だけだった。
二人は並んでしゃがみ、細い火花にじっと見入る。
チリチリと音を立てて燃える、儚くも美しいオレンジ色の光。
「……俺達って、こういうので良い人間かもな」
線香花火を見つめながら、一樹がぽつりとこぼした。
無理して背伸びをした都会のデートより、こうしてジャージや部屋着で、近所の公園でひっそりと笑い合っている時間。それが、自分たちの身の丈に合った幸せなのだと。
「そうだね。人それぞれで……私は、この花火が好きだよ」
那奈は、線香花火の優しい光に照らされながら、心からの笑みを浮かべた。
その穏やかな横顔を見て、一樹の胸に、どうしようもないほどの切実な願いが込み上げてくる。
始業式が来れば、この関係は終わる。彼女は、死んでしまう。
でも、もし許されるなら。
「……いつまでも、こういう時間、続けばいいのに」
無意識のうちに、本音がこぼれ落ちていた。
それは、ただのデートの感想ではない。「生きて、ずっと俺のそばにいてほしい」という、一樹の魂からの叫びだった。
しかし、那奈は花火から目を逸らすことなく、静かな、けれど残酷なほどに透き通った声で答えた。
「楽しくても、いつか終わるの」
ポトリ、と。
那奈の持っていた線香花火の赤い火玉が、寿命を迎えて暗い地面へと落ちた。
ジュッと小さな音を立てて、光が消える。
「……消えるから、キレイなんだよ」
暗闇に溶けた火玉を見つめながら、那奈は優しく微笑んだ。
それは、花火のことでもあり、彼女自身の命のタイムリミットのことでもあった。夏の終わりに消えるからこそ、このアオハルは美しく輝いているのだと、彼女は最初から受け入れているのだ。
夜の公園に、遠くの蝉時雨だけが響く。
「…………っ」
一樹は、何も言えなかった。
気の利いた言葉も、彼女を説得する正論も、今の自分には持ち合わせていない。ただ、自分の手元でチリチリと燃え続ける線香花火の光が、滲んで見えなくなるのを必死に堪えることしかできなかった。




