第2話: さよならのためのアオハルを、君と。(一樹視点)
――ピコン。
ベッドの上に放り投げたスマートフォンが、短い通知音と共に画面を光らせた。
木戸一樹は、その眩しい光から逃げるように両手で顔を覆い、深い溜息を吐いた。
『ううん、木戸君とお話しできるだけで嬉しいよ!』
『今日は少し体がだるいって言ってたけど、大丈夫? 無理しないでゆっくり休んでね!』
画面に表示されたのは、「彼女」になったはずの遠橋那奈からのメッセージだった。
嘘告をしてから数日。お互いに異性と付き合った経験のない底辺モブ同士、デートに誘うような器用な真似ができるはずもなく、二人の関係はもっぱらLINEでのやり取りに終始していた。
だが、一樹にとっては、そのLINEすらも針の筵だった。
自分は、親の事情を盾に取られたとはいえ、彼女を騙している。夏休み明けの始業式には、彼女をクラス全員の前で笑い者にするという残酷な罰ゲームの片棒を担いでいるのだ。
罪悪感で胸が押し潰されそうになり、気の利いた返信など到底打てなかった。「うん」「ごめん」「そうだね」という、自分でも嫌になるほど素っ気なく、逃げ腰な短い文章。
それなのに、遠橋那奈という少女は、そんな一樹の態度を責めることもなく、根気よく明るいメッセージを返し続けてくれた。くだらないテレビの話に付き合ってくれ、一樹が罪悪感からの疲労で「今日は少し体がだるい」とこぼせば、自分のこと以上に心配してくれる。
メッセージから滲み出る、彼女の優しくて誠実な人柄。
それが、一樹の良心をこれでもかと削り取っていく。
「……俺、最悪だ……」
彼女の優しさに触れれば触れるほど、自分のしでかした事の悍ましさに吐き気がする。いたたまれなさに画面を見つめたままフリーズしていると、バンッ、と無遠慮に自室のドアが開いた。
「おっ、兄貴。またじっと携帯見てんの? さては彼女か?w」
ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて入ってきたのは、小学六年生の妹、加奈子だった。日焼けした肌にショートヘアの彼女は、今日もミニバスの練習帰りらしくスポーティな格好をしている。
「……っ、ノックくらいしろよ加奈子。お前には関係ないだろ」
「えー、いいじゃん見せろよー! 兄貴に彼女とか奇跡なんだからさ!」
ベッドに飛び乗ってきた加奈子と揉み合いになり、「やめろって!」と腕を振り払った拍子に、一樹の手からスマートフォンが滑り落ちた。
フローリングの床に落ちたスマホの画面には、煌々とLINEのトークルームが表示されている。一番上の相手先には、『遠橋那奈』という名前。
「あ」
「こら、勝手に見るな!」
慌てて拾い上げようとした一樹だったが、画面を覗き込んだ加奈子の口から、思いがけない言葉が飛び出した。
「あれ? 遠橋那奈って……羽奈ちゃんのお姉ちゃん?」
「……え?」
一樹の動きがピタリと止まる。
遠橋那奈は、一樹と同じ高校の同級生だ。小学生の加奈子が知っているはずのない名前だった。
「な、なに……お前、遠橋のこと知ってんの?」
「あ、いや……隣のコートで練習してるバレー部の子でさ、遠橋羽奈ちゃんって子がいて。一ヶ月くらい前に、交通事故で、お母さんと一緒に亡くなったんだよね……」
ドクン、と。
一樹の心臓が、嫌な音を立てた。
「遠橋って珍しい名字だし、那奈と羽奈で『奈』の字も一緒だからさ。お葬式の後、お姉ちゃんだけが残されたってコーチたちが話してるの聞いたんだ。そっか、兄貴の高校の人だったんだね……」
加奈子の言葉が、一樹の脳内でエコーのように反響する。
交通事故。母親と妹が死亡。一人だけ残された。
『――お前みたいな底辺が、あの貧乏くさい陰キャモブ女に嘘告して、向こうが本気になっちゃうとか傑作じゃん!』
陽キャたちのヘドロのような嘲笑がフラッシュバックする。
彼女は、あの時。たった一人の家族を同時に失い、孤独と絶望のどん底にいたあの時。自分からの最低な「嘘告」を、どんな気持ちで受け入れたというのか。
どんな思いで、素っ気ない自分のLINEに、あんなに優しくて明るいメッセージを返し続けていたのか。
「…………ッ!」
「あ、兄貴? どうしたの、顔真っ青……」
心配そうに覗き込んでくる加奈子を置き去りにして、一樹は弾かれたように立ち上がった。
スマートフォンだけを鷲掴みにし、靴もろくに履かずに家を飛び出す。
LINEを交換した時、住所と電話番号も聞いていた。彼女の家は、ここから自転車で走って十分ほどの古いアパートだ。
夜の生ぬるい風を切り裂きながら、一樹は全速力でペダルを漕ぐように走った。
息が上がり、肺が焼け付くように痛むが、足は止められなかった。
アパートの近くにある小さな児童公園に転がり込むと、震える手でスマートフォンを取り出し、LINEの画面を開く。
『いま、家のそばの公園まで来てるんだけど。……出来れば、会いたい』
送信ボタンを押す指が、ぶるぶると震えていた。
* * *
電気も点けていない真っ暗な部屋で、私は一人、窓の外をぼんやりと見つめていた。
網戸越しに聞こえる虫の音だけが、この部屋がまだ世界と繋がっていることを教えてくれる。
母と羽奈がいなくなったこの部屋は、広すぎて、静かすぎて、息をしているだけで黒い泥の中に沈んでいくような感覚に陥る。
瞳に光は宿っていない。ただ、ベランダの手すりを見つめながら、「あそこから落ちれば、すぐに二人に会えるかな」と、そんなことばかりを考えていた。
――ブッ、ブッ。
静寂を破り、テーブルの上の古いスマホが振動した。
無機質な動作で画面に目を落とすと、そこには木戸君からのメッセージが表示されていた。
『いま、家のそばの公園まで来てるんだけど。……出来れば、会いたい』
その文字を見た瞬間。
私の死んだような瞳に、カッと鮮やかな光が灯った。
「っ……!」
弾かれたように立ち上がる。
心臓がトクトクと早鐘を打ち、冷え切っていた頬に熱が集まっていくのがわかった。
「夜の公園に……彼氏からの呼び出し……っ!」
それは、少女漫画やドラマの中でしか見たことのない、まさしく『アオハル』の一場面だった。
嘘告だとわかっている。罰ゲームなのも知っている。それでも、私にとっては人生で初めての、そして間違いなく最後の「彼氏からの夜のお誘い」だった。
「あ、これが彼氏に呼ばれる彼女の気持ちなんだ……!」
私は暗闇の中で弾むように声を上げ、急いでクローゼットを開けた。
普段なら絶対に着ないような、少しだけフリルがあしらわれたお気に入りのブラウスを引っ張り出し、鏡の前で念入りに寝癖を直す。
どうせ夏休みが終われば、嘘告をバラされて私は死ぬのだ。
だからこそ、この夏の間だけは、普通の女子高生みたいにキラキラ輝く、ときめくアオハルを全力で過ごすって決めている。
天国の羽奈に、最高の土産話を持っていくために。
いそいそと身支度を整え、私はアパートを飛び出した。
* * *
街灯の薄暗い光だけが照らす、夜の児童公園。
ブランコの前に立つ一樹の姿を見つけた那奈は、小走りで彼に駆け寄った。
「ごめんね、待たせ――」
嬉しそうに声をかけようとした那奈の言葉は、一樹の顔を見た瞬間に止まった。
彼の顔は幽鬼のように青ざめ、目には痛々しいほどの悲痛な色が浮かんでいる。今にも泣き出しそうに歪んだその表情を見た瞬間、那奈は全てを悟った。
(あー……こりゃ、良心に負けて事情を打ち明けに来たんだな)
真面目で不器用な彼のことだ。LINEのやり取りだけで、罪悪感の許容量を超えてしまったのだろう。
「遠橋……さん……」
「木戸君、あのね――」
これ以上彼を苦しめたくなくて、那奈が明るい声で誤魔化そうとした、その時だった。
ザッ。
鈍い音を立てて、一樹が砂利の地面に両膝を突いた。
「えっ……?」
「ごめんなさいッ!!」
額が地面に擦り付けられる。
嘘偽りのない、完全な土下座だった。
「俺っ、最低なことした……! あの告白、嘘なんだ……! 罰ゲームで、時田たちに無理やりやらされて……っ!」
地面に額を擦り付けたまま、一樹は嗚咽交じりに叫んだ。
母親が木下の会社で働いていること。逆らえば生活が脅かされる恐怖があったこと。その事情は震える声で口にしたが、それは決して自己弁護のためではなかった。
ただ事実を伝え、自分の弱さと卑劣さを晒し出し、誠心誠意、彼女の尊厳を傷つけたことを謝罪するためだった。
「遠橋さんが……家族を亡くして、あんなに辛い思いをしてる時に……俺は、取り返しのつかない残酷なことをした……! 本当に、本当にごめんなさい……ッ!」
ボロボロと地面に涙を落としながら謝り続ける一樹。
那奈は、その震える背中を静かに見下ろしていた。
あんなに嬉しかったアオハルの夢が、あっけなく終わってしまった。でも、不思議と彼に対する怒りや恨みは湧いてこなかった。
「……知ってたよ」
那奈の静かな声に、一樹の肩がビクッと跳ねる。
ゆっくりと顔を上げた一樹の目に映ったのは、絶望でも怒りでもなく、ひどく穏やかで、達観した那奈の微笑みだった。
「嘘告だってことも、始業式にバラされることも。非常階段で、全部聞いてたから」
「……え……?」
「木戸君が、本当はあんなことやりたくなくて、必死に断ろうとしてくれてたことも、知ってたの」
一樹が、息を呑んで目を見開く。
「ごめんね、私の方こそ騙してて。……どうせ死ぬつもりだったから、最後にJKらしい夏を過ごしてみたくて。木戸君の優しさを利用しちゃった」
「し、死ぬって……そんな……!」
「でも、もう終わりだね。短い間だったけど、彼氏ができたみたいで、少しだけ夢見れて嬉しかったわ。……ありがとうね、木戸君」
あんなに残酷に傷つけた相手から。家族を失って絶望の底にいるはずの少女から、「ありがとう」と微笑まれた。
一樹の頭は完全に真っ白になり、言葉を失った。
「それじゃあね」
未だ地面に座り込む一樹を残し、那奈は踵を返した。
暗い夜道に向かって、細い背中が遠ざかっていく。
一樹は、その背中を見送っていた。
だが、本能が警鐘を鳴らした。
このまま彼女を帰せば。あの暗闇の中へ一人で戻してしまえば、彼女は本当に、二度と戻らないところへ行ってしまう。
彼女は、死んでしまう。
(止めなきゃ……!)
だが、どんな言葉で?
自分は彼女を騙し、嘲笑の的にしようとした最低の屑だ。そんな人間に、「生きてくれ」なんて綺麗な言葉を吐く資格があるはずがない。
真っ直ぐに彼女を止める権利など、どこにもない。
それでも。それでも――!
「遠橋――ッ!!」
一樹は無我夢中で立ち上がり、駆け出して、暗闇に溶けようとしていた那奈の細い手首をガシッと掴んだ。
「……っ!?」
驚いて振り返る那奈。その瞳の端には、隠しきれなかった涙がキラリと光っていた。夢が終わってしまった悲しみの涙。
それを見て、一樹の胸は張り裂けそうになった。
本当は、「俺と本気で付き合ってほしい」と言いたかった。
でも、傷つけた自分にそんな資格はない。だから、一樹は自分が最も軽蔑する、あの「残酷な計画」を盾にするしかなかった。
彼女の命を、この世界に繋ぎ止めるための、不器用で必死な嘘。
「嘘告は……っ、始業式のHRの後に、あいつらがバラす予定なんだ!」
「木戸、君……?」
「だから……それまでは! 始業式の日までは、俺が君の彼氏だ!」
一樹は、那奈の手首を握る手にギリッと力を込めた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、必死に彼女の瞳を覗き込む。
「だから……それまでは、全力で二人で夏を楽しまないか……ッ!?」
それは、最悪の嘘告の延長戦。
死ぬための思い出作りを求める那奈と、彼女を死なせたくない一樹の、痛々しいほどに不器用なすれ違い。
夜の公園で繋がれた手から。
世界で一番優しくて切ない、夏休み限定の『共犯関係』が、今、本当の意味で幕を開けたのだった。




