第1話: 最高の嘘告と、最高で最後の夏休み
「はぁ……」
うだるような夏の暑さが、コンクリートの非常階段にねっとりとへばりついている。
私は膝を抱えたまま、ぼんやりと錆びた手すりの向こう側に広がる青空を見上げていた。入道雲が遠くで真っ白に輝き、耳障りなほどの蝉時雨が降り注いでいるというのに、私の心には何の感情も湧き起こらない。ただ、息をするのすら面倒くさいというひどい疲労感だけが全身を支配していた。
遠橋那奈。高校二年生。
クラスでは所謂「モブ」であり、流行りのメイクやファッションにも無頓着。持っているスマホは画面の端がひび割れた型落ちの古い機種だ。地味で貧乏くさくて、少し鈍臭い。だから、クラスの中心人物たちからすれば、ちょっとした「弄られポジ」に収まっている。
でも、そんなスクールカーストや周囲からの評価なんて、今の私にはどうでもよかった。
ほんの数ヶ月前まで、私には大好きな家族がいた。
女手一つで昼夜問わず働いて育ててくれた優しい母と、小学生でバレー部に所属している元気な妹の羽奈。三人で古いアパートに身を寄せ合い、決して裕福ではなかったけれど、休日の夜には一つの小さなケーキを三人で分け合って笑い合うような、ささやかで温かい日々があった。
母は日中はスーパーのレジ打ち、夜はファミレスで働き詰めだったけれど、いつも笑顔で「那奈と羽奈がいればお母さんは幸せだよ」と言ってくれた。羽奈は買ってもらったばかりのバレー部のユニフォームを自慢げに見せびらかして、狭い部屋の中でトスの練習をしては母に怒られていた。
夕方になれば、アパートの部屋にはカレーや肉じゃがの美味しそうな匂いが漂う。そんな、どこにでもある普通の幸せがずっと続くのだと、疑いもしなかった。
それが、理不尽な交通事故で唐突に奪われた。
居眠り運転のトラックが、青信号を渡っていた母と羽奈をまとめて轢き殺したのだ。
あの日、警察からの電話で駆けつけた病院の、酷く無機質で冷たい霊安室。ツンと鼻を突く消毒液の匂いの中、白い布の下で眠る二人の顔は、まるでただの悪い夢のように綺麗だった。すり傷一つない穏やかな顔立ちで、今にも「お姉ちゃん」と起きてきそうだった。でも、どれだけ揺さぶっても、名前を叫んでも、二度と目を開けてくれることはなかった。警察官の事務的な状況説明すら、耳鳴りのように遠くで響くだけだった。
お葬式では、遠い親戚たちがヒソヒソと多額の保険金の噂話をするばかりで、誰も私を引き取ろうとはしなかった。加害者からの血塗られた大金だけが冷たい数字となって通帳に振り込まれ、アパートの部屋に私一人が取り残された。
線香の匂いだけが立ち込める薄暗い部屋で、泣き叫び、喉を枯らし、絶望し――やがて、私の心は完全に死んだ。
何もする気が起きない。食べることも、眠ることも苦痛だった。ただ、何もしないで暗い部屋に一人でいると、「今すぐ後を追って死にたい」という強烈な衝動に駆られてしまうから、それを防ぐために惰性で学校に来ているだけだった。
『夏休みが終わったら、死のう』
そう決めた。それまでの時間潰し。消化試合のような毎日。
クラスメイトたちの楽しそうな笑い声や、「夏休みどこ行く?」という浮き足立った会話と、自身の底知れぬ温度差に耐えきれず、こうして終業式当日のホームルーム前の時間をサボって、非常階段でうずくまっているのだ。
「やっぱり、今日死のうかな……。お母さんに、羽奈に会いたいな……」
虚無感に包まれながらぽつりと呟いたその時、下の階からドヤドヤと複数の足音が近づいてきた。
ビクッとして、私は咄嗟に階段の踊り場の、使われなくなった古いロッカーの陰に身を潜めた。
「あはは! マジでウケるんだけど! 絶対やばいってそれ!」
「声デカいって、美緒。一応ここ、内緒の話する場所なんだからさ。誰かに聞かれたらマズいだろ」
聞こえてきたのは、クラスのヒエラルキーの頂点に君臨する陽キャグループの声だった。時田隆志、木下浩二、榊美緒、三上かなめ、根津桃香……。
そして、もう一人。彼らに囲まれるようにして歩いているのは、私と同じようにクラスの男子の中ではパシリのような弄られポジにいる、木戸一樹だった。
「で? 木戸ぉ。お前、ちゃんとやるんだろうな?」
リーダー格の木下浩二が、ニヤニヤと意地悪い、ヘドロのように濁った笑みを浮かべて一樹に詰め寄る。
「……っ、でも、やっぱりあんまりじゃないか? いくらなんでも、嘘告なんて遠橋が可哀想だろ……。そんな酷いこと、俺にはできない……」
……嘘告? 私に?
一樹は顔を真っ青にさせ、必死に抵抗しようとしていた。彼の声は微かに震えている。根が真面目で大人しい彼にとって、人の心を弄ぶような行為は本能的に受け入れがたいのだろう。
しかし、木下は鼻で冷たく笑い飛ばした。
「はぁ? 冗談通じねぇ奴だな。ただの罰ゲームじゃん。それとも何? お前、俺の頼みが聞けないって言うの? お前の母ちゃん、うちの親父の会社で事務やってんだろ? シングルマザーで必死に働いてるんだっけ? ……ちょっと俺から親父に言えば、お前の家の生活がどうなるかわかってんの?」
「……っ!」
一樹が悔しそうに唇を噛み、ギリッと拳を握りしめるのが隙間から見えた。一樹の母親は、木下の実家の会社で働いているらしい。その絶対的な権力関係を盾に取られれば、彼に逃げ道はない。
「ほら、木戸。さっさと腹くくれよ。この後のホームルームが終わったら、クラス全員がいる教室で遠橋に告白する。で、夏休みの間適当に彼氏ヅラして付き合ってやってさ。二学期の始業式、HRの後に『ごめーん、あれ罰ゲームの嘘告だから!』ってバラしてやるの! 絶対おもしれーから!」
三上かなめが、ケラケラと悪びれもなく笑いながら言う。
「お前みたいな底辺が、あの貧乏くさい陰キャモブ女に嘘告して、向こうが初めての彼氏に舞い上がって本気になっちゃうとか傑作じゃん! 最高の夏休みの暇つぶしになるわー!」
彼らは肩を組み、ゲラゲラと下劣な笑い声を非常階段に響かせた。
一樹は深く俯き、自身の無力さに絶望したかのように、ついに小さく頷いた。
「……わかった。やるよ……」
「よし! さすが木戸! そうこなくっちゃな! 楽しみにしてるぜ!」
満足した陽キャグループは、一樹の背中をバンバンと叩きながら、再び廊下へと戻っていった。
静寂が戻った非常階段で、私はゆっくりと立ち上がった。
嘘告。罰ゲーム。始業式での公開処刑。
普通なら、自分に向けられたその悪意と残酷な計画を知れば、ひどく傷つき、絶望し、怒り、涙を流すだろう。
でも、私の心には悲しみすら湧かなかった。ただ、ひんやりと冷え切った心が、ほんの少しだけ違うリズムで脈打つのを感じた。
『遠橋に告白する。で、夏休みの間適当に付き合ってやってさ』
その言葉が、頭の中で何度も何度もリフレインする。
「……嘘告、かあ」
ぽつりと呟いた声は、自分でも驚くほど平坦だった。
私と木戸君。底辺同士の、他人の悪意から始まる偽物の恋。
本来なら軽蔑すべきその関係が、今の私には酷く魅力的なものに思えたのだ。
どうせ、死ぬつもりだった。生きる意味も、明日への希望も、何もかも事故の日に置いてきた。
でも、もしこのモブで垢抜けない私が、死ぬ前の最後の夏休みに「彼氏」を作れたら。
一瞬だけでも、普通の女子高生みたいな輝くアオハルを味わうことができたら。
天国にいる羽奈に、『お姉ちゃんにも彼氏ができたんだよ。夏休みにね、一緒にこんなところに出かけたんだよ。お祭りに行って、花火を見て、いっぱい笑ったんだよ。優しくてかっこいい人だったんだよ』って、少しは胸を張って土産話ができるかもしれない。
ずっと地味で、男の子と手を繋いだこともなかった私に、神様が最後にくれたチャンスなのかもしれない。
夏休み明けの始業式には、これが嘘告だったとバラされて、クラス全員の前で笑い者にされることになっている。
なら、その公開処刑が終わってから死のう。
普通なら耐えられない屈辱も、今の私にとっては、身の丈に合わない青春を味わうための正当な『対価』に思えた。
木戸君が彼氏になってくれるなら、彼や陽キャたちの罰ゲームを最後まで見届けてから、この世を去ろう。
木戸君には少し悪い気もするけれど、彼も自身の母親や生活を守るために私を騙すのだから、お互い様だ。
「うん……夏休みの間だけ、木戸君とお付き合いしよう」
私は小さく微笑んだ。家族を失ってから、初めて自然と口角が上がった気がした。
彼が嘘の愛を囁くなら、私はそれに騙される哀れで純情な彼女を演じきってやる。手を繋いで、お祭りに行って、花火を見て、普通の恋人同士がするような馬鹿みたいに甘い時間を過ごすのだ。なんならキスだってするかもしれない。
狂っているのかもしれない。でも、冷え切った暗闇の中で、その残酷な「嘘」だけが、私の背中をそっと押してくれたのだ。
数時間後。一学期の終業式が終わり、ホームルームも解散となった放課後の教室。
いつもならそそくさと帰るはずの生徒たちが、なぜか今日は教室のあちこちに残り、チラチラとこちらを窺っていた。
時田や木下、三上かなめたち陽キャグループは、教室の後ろでスマホをいじるフリをしながら、ニヤニヤと笑いを堪えている。
見世物小屋の哀れな主役にでもなった気分だ。
私は自分の席に座ったまま、帰り支度をするフリをして彼を待った。
「と、遠橋さん……」
震える声。顔を上げると、そこには青ざめ、今にも吐きそうな顔をした木戸一樹が立っていた。
教室の空気が、一瞬でピンと張り詰める。窓の外から聞こえる蝉時雨だけが、異常に大きく響いていた。
「木戸君? どうしたの?」
私は何も知らないフリをして、小首を傾げた。
一樹の目は激しく泳ぎ、額には嫌な汗が浮かんでいる。ギュッとズボンの裾を握りしめた手は、可哀想なくらい小刻みに震えていた。呼吸も浅く、今にもその場に倒れ込んでしまいそうだ。
罪悪感と恐怖。母親の仕事を守るためとはいえ、何の罪もないクラスメイトを騙して笑い者にしようとしているのだ。本来は真面目で不器用な彼にとって、それは身を切り裂かれるような苦痛なのだろう。
(無理しなくていいのに)
心の中でそう呟きながら、私は彼が言葉を紡ぐのをじっと待った。
「あ、あのさ……!」
一樹が、ギュッと目を瞑り、教室中に響き渡るような大声を出した。
「俺、ずっと遠橋さんのことが……好きでした! もしよかったら、俺と、付き合ってください!」
教室の空気がピタリと止まる。
後ろの席から、プッという吹き出すような小さな笑い声が聞こえた。
惨めな告白。滑稽な茶番劇。
でも、私にとっては違う。
これが嘘だと知っている。罰ゲームだと知っている。夏休みが終われば、彼らは私を嘲笑い、そして私は死ぬ。
けれど、この夏休みだけは。
このたった一ヶ月の期限付きの時間だけは、彼は私の「彼氏」になってくれる。
天国の羽奈に自慢できる、最初で最後の私の青春。
だから、私は心からの感謝を込めて。家族が死んでから一度も人に見せたことのない、とびきりの笑顔を作った。
「うん……! ありがとう」
一樹が、驚いたように目を見開く。
「私でよければ、はい。よろしくお願いします」
私がそう答えると、一樹は信じられないものを見るような、それでいて深い絶望に突き落とされたような顔で固まった。
教室の奥からは、陽キャたちのクスクスという隠しきれない嘲笑が聞こえてくる。
誰も知らない。
騙されている哀れな女子高生に見える私が、実は彼らを一番利用していることを。
罪悪感に震える一樹の心を知りながら、最期の思い出作りのために彼を共犯者に引きずり込んだことを。
(ごめんね、木戸君。君の優しさも罪悪感も、全部私が天国に持っていくから。本当にありがとう。私にとってこれは、神様が最後にくれた『最高の嘘告』だよ)
こうして、嘘告から始まる、私と木戸君の歪で、ひどく切ない夏休みが幕を開けた。




