第15話:奇跡の産声と「生きてください」という誓い、そして……
【那奈 視点】
「どけっ!! まだだ那奈、諦めるな!!」
絶望の泥沼に沈みかけていた私の肩を、一樹の大きな手が強引に退けた。
彼は血走った目のままアスファルトに膝をつき、ピクリとも動かなくなった赤ちゃんの小さな胸に、二本の指をそっと、しかし確かな力強さで当てた。
「一、二、三……ッ!」
スマートフォンの画面に張り付いて頭に叩き込んだのだろう。一樹は、乳児用の心肺蘇生法を無我夢中で開始した。
小さな胸を一定のリズムで圧迫し、祈るように、自分の命を分け与えるように、赤ちゃんの口と鼻をすっぽりと覆って、そっと息を吹き込む。
炎天下の駐車場。茹だるような熱気の中で、一樹の額から大粒の汗がボタボタとアスファルトに落ちていく。
私と、加奈子ちゃんと、美尋さんは、ただ息を呑んでその光景を見守ることしかできなかった。
「頼む……戻ってこい……ッ! 頼むから!!」
一樹の悲痛な叫びが響く。
彼は決して諦めなかった。私が「また奪われた」と絶望して勝手に諦めかけたその命を、彼は必死の形相で現世に繋ぎ止めようとしていた。
永遠にも思えるような、数分間。
――けほっ。
微かな、本当に微かな咳き込む音が聞こえた。
一樹の手がピタリと止まる。
「おぎゃあぁぁぁぁぁぁっ!!!」
次の瞬間、真夏の青空を突き抜けるような、大きくて力強い産声が響き渡った。
青紫色だった唇に赤みが戻り、小さな手足がバタバタと宙を掻く。
命の音が、再び力強く動き出したのだ。
「……っ、あ……あぁぁ……!」
張り詰めていた糸が、プツンと切れた。
私は、血まみれになった両手で顔を覆い、せきを切ったように声を上げて泣き出した。
よかった。生きてる。奪われなかった。
私はアスファルトにうずくまり、まるで迷子になった小さな子供のように、ただただ「わあぁぁぁっ」と大声で泣きじゃくった。
そんな私を、一樹の大きな腕が力強く抱きしめた。
「よくやったな、那奈。お前が窓を割ってくれたから、間に合ったんだ」
汗と涙でぐちゃぐちゃになった顔で、一樹が笑っていた。
彼は、私の血まみれになった腕を痛まないようにそっと包み込み、真っ直ぐに私の目を見つめた。
「那奈」
「……いっ、き……」
「俺は、お前を天国になんて絶対に行かせない」
一樹の声は、震えていたけれど、どこまでも澄み切っていた。
「俺と一緒に、生きてください」
高校生が口にするには、あまりにも重すぎる言葉。
でも、それはどんな愛の言葉よりも、私の心の奥底に真っ直ぐに突き刺さった。
嬉しい。たまらなく、嬉しい。私も、この人と一緒に生きたい。大人になって、おばあちゃんになるまで、ずっと一緒に。
溢れ出す喜びにまた涙がこぼれる。けれど――その想いを肯定しようとした瞬間、私の胸の奥で、またあの暗い感情が鎌をもたげた。
「……でも、いいのかな」
私は、一樹の胸にすがりつきながら、震える声でこぼした。
「私だけ、一樹とこんなに幸せになって……羽奈とお母さんを置いて、私だけが生きて、幸せになっていいのかな……っ」
生きたいと決めた。それでも、どうしても拭いきれない罪悪感。
私がその呪いの言葉を口にした、その時だった。
「羽奈ちゃんはそんな事思わないよ」
ずっと後ろで見守っていた加奈子ちゃんが、ツカツカと歩み寄り、私を見下ろした。
その目は少し赤く潤んでいたけれど、同じ『妹』としての、強い光を放っていた。
「羽奈ちゃんは、いつもお姉ちゃんの自慢をしてたよ。 あの子が『自分が死んだからお姉ちゃんも不幸になって』なんて、絶対に言うわけないじゃない!」
加奈子ちゃんの言葉が、雷のように私の胸を打つ。
「きっと羽奈ちゃんは、今ここで笑ってるよ。『お姉ちゃんが助かってよかったな。生きててよかったな。幸せでよかったな』って、絶対にそう言ってる!」
「……あ……」
目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
頭の中で、ずっと私を縛り付けていた真っ黒な鎖が、音を立てて砕け散っていく。
『お姉ちゃん、大好き!』
いつかの、羽奈の無邪気な笑顔がフラッシュバックした。
そうだ。あの子は、そんな残酷なことを願うような子じゃない。私のお母さんも、私が死ぬことなんて絶対に望んでいない。
私が勝手に作り上げた『呪い』は、加奈子ちゃんのその言葉で、完全に消え去った。
「一樹……っ」
「那奈」
私は、自分でも信じられない行動に出た。
一樹の首に両腕を回し、そのまま思い切り彼を引き寄せて、重なり合うように唇を塞いだのだ。
汗と、涙と、ほんの少しの血の味が混ざった、生きたキスの味。
私の世界は今、間違いなく光に満ち溢れていた。
「……ちょ、ちょっと! あんたたち!!」
突然、美尋さんの慌てたような声が響いた。
ハッとして唇を離し、周囲を見渡した私は、全身の血が沸騰するような羞恥に襲われた。
「あ……」
いつの間にか、私たちの周りには何十人もの人だかりができていた。
モールの店員さん、買い物客、そしてサイレンを鳴らして駆けつけた救急隊員や警察官まで。
皆、赤ちゃんの無事を確認してホッとした顔をした後、血まみれの男女が情熱的なキスをしているのを、生温かい……いや、完全にニヨニヨとした笑顔で見守っていたのだ。
「ひぃっ……!」
「な、那奈、顔真っ赤だぞ……って、俺もだけど……!」
一樹も顔を真っ赤にしてパニックになっている。
そこへ、一人の年配の警察官が、呆れたような、でもどこか優しい笑顔を浮かべて近づいてきた。
警察官は、赤ちゃんの無事を確認するように軽く頷いた後、ビシッと綺麗な敬礼をして言った。
「人命救助、見事だった! ……だが、節度あるお付き合いをしてくれよ」
ドッ、と周囲から温かい笑い声と拍手が巻き起こる。
私は恥ずかしさのあまり一樹の胸に顔を埋め、一樹は「す、すみません!!」と真っ赤な顔で何度も頭を下げていた。
真夏の狂乱と絶望は、呆気ないほど温かくて、少しだけ恥ずかしい日常へと溶けていった。
私の心の中で、止まっていた時計の針が、確かな音を立てて未来へと動き始めていた。




