第14話:砕け散ったガラスと血まみれの夢。また奪われる絶望と慟哭
【那奈 視点】
冷房の効いたショッピングモールから一歩外に出た途端、暴力的な熱波が全身に襲いかかってきた。
真夏の太陽がアスファルトを容赦なく焼き焦がし、広大な駐車場の空気は陽炎でぐらぐらと歪んでいる。呼吸をするだけで、喉の奥が焼け焦げそうに熱かった。
一樹と手を繋ぎ、駅へ向かって歩き出そうとした時だった。
「……え?」
微かな、本当に微かな音が耳に届いた。
猫の鳴き声? いや、違う。これは……。
音の出所を探して視線を巡らせると、炎天下の駐車場の中央付近にぽつんと停められた、一台の軽自動車があった。サンシェードもされておらず、殺人的な直射日光をまともに浴びている。
その、後部座席。
窓越しに見えたのは、チャイルドシートの中で真っ赤な顔をして、泣き叫んでいる赤ちゃんの姿だった。
「嘘、赤ちゃん……! 一樹、どうしよう、赤ちゃんが!」
「はっ!? マジかよ、親は!? くそっ、鍵開いてねぇ!」
一樹が駆け寄り、ドアノブを何度も乱暴に引くが、無情にもロックがかかっている。
親の姿はどこにもない。窓は完全に閉まりきっている。この気温だ、車内はすでにオーブンの中のような異常な温度になっているはずだった。
窓の向こうで、逃げ場のなくなった熱気の中で苦しそうに顔を歪める赤ちゃんの姿。
その瞬間、さっきモールの中で見た幻覚――『一樹との間に生まれるはずだった未来の子供』の姿が重なった。
それだけじゃない。
理不尽に命を奪われて、苦しみながら死んでいったであろうお母さんと羽奈の姿と重なったのだ。
ブツン、と。
私の中で、何かが完全に弾け飛んだ。
「……いやだ」
もう、奪わせない。
私の大切なものを、大切な命を、これ以上理不尽に奪われてたまるか。
「那奈!? 何して……!」
一樹の制止の声など、耳に入らなかった。
私は無我夢中で拳を握りしめ、車の窓ガラスを思い切り殴りつけた。
ゴッ!! という鈍い音と共に、拳の骨が軋む激痛が走る。でも、そんなものはどうでもよかった。割れない。なら、これならどうだ。
私は駐車場の花壇のそばにあった、手頃な大きさの石を拾い上げた。
「開けぇぇぇぇっ!!」
絶叫と共に、狂ったように石を窓ガラスに叩きつける。
ガシャァァァンッ!!
鋭い音を立てて、ガラスが粉々に砕け散った。
飛び散った破片が私の腕や頬を切り裂き、生温かい血が吹き出す。痛覚は完全に麻痺していた。私は血まみれになった腕を窓から突っ込み、鍵のロックを解除した。
ドアを引き開け、熱風が吹き出す車内から、ぐったりとした赤ちゃんを抱き出す。
「お兄ちゃん!!」
「一樹! 那奈ちゃん!?」
背後から、悲鳴のような声が響いた。
振り返ると、そこには息を切らして走ってくる加奈子ちゃんと綺麗な女性の姿があった。
「加奈子!? 美尋ちゃん!? なんでここに……」
「お兄ちゃんがここ数日ずっとおかしいから、美尋お姉ちゃんに泣きついて後をつけてたのよ! それより、その子……!」
驚愕する一樹をよそに、加奈子ちゃんはすぐに事態を察して動いた。
「日陰に運んで! 私、冷感タオルと水持ってる!」
「私も保冷剤持ってるわ! 首と脇の下を冷やすのよ!」
私と加奈子ちゃん、美尋さんという女性の三人で、赤ちゃんをモールの入り口付近のわずかな日陰に寝かせ、必死に応急処置を始める。加奈子ちゃんが持っていた水をかけ、美尋さんが保冷剤を当てて体を冷やす。
「お願い、生きて……っ、お願いだから……!」
私は血まみれの手で、祈るように赤ちゃんの小さな手を握りしめた。
その間、一樹は私たちの輪から一歩下がり、血走った目でスマートフォンの画面を凄まじい勢いでスクロールしていた。
三人で物理的な冷却をしている間に、彼にしかできない救命の手順――赤ん坊の心肺蘇生法を、必死に頭に叩き込んでいるのだ。
けれど。
無情な現実は、どこまでも残酷だった。
「……ひぐっ、あ……」
微かに痙攣するように泣いていた赤ちゃんの声が。
ふっ、と途絶えた。
真っ赤だった顔色から急速に血ののけぞり、チアノーゼで唇が青紫色に変わっていく。
そして、ピクリとも動かなくなった。
命の音が、完全に止まった。
「あ……あぁ……」
私の口から、乾いた絶望の音が漏れた。
まただ。
また、助けられなかった。私の腕の中で、未来の夢が、小さな命が、失われてしまった。砕け散ったガラスのように、私の心は完全に粉々に崩れ落ちた。
「あぁぁぁぁぁっ……!!」
血まみれの腕で顔を覆い、私はアスファルトに泣き崩れた。
どうして。どうして私から、全部奪っていくの。私はやっぱり、何も救えない罪人なんだ。
底なしの絶望の泥沼に、頭まで沈み込もうとした、その時。
「どけっ!! まだだ那奈、諦めるな!!」
スマートフォンの画面から顔を上げた一樹が、獣のような叫び声を上げて、赤ちゃんの元へ膝をついた。




