第13話:繰り返す映画と、浅ましい私が夢見た残酷な未来
【那奈 視点】
スクリーンに、ゆっくりとエンドロールが流れ始めた。
館内に響き渡る壮大なオーケストラの音楽と、暗闇の中で繋がれた右手から伝わってくる、一樹の確かな体温。
「……やっぱり、すげー良い映画だったな。でも、本当に良かったのか? これ、夏休みの最初の方にも一回観たやつだろ。どうせなら新しいの観ればよかったのに」
劇場が明るくなり、席を立ちながら一樹が少し不思議そうに聞いてきた。
私は彼の手をぎゅっと握り返し、微笑んで首を振る。
「ううん。これが良かったの。私、この映画すごく好きだから」
それは本心だった。けれど、本当の理由はそれだけじゃない。
始業式まで、あと二日。
私の命のタイムリミットが、もう目の前まで迫っていた。
新しい物語を見つけて、新しい感情を知ってしまえば、この世界に未練が残ってしまう。だから私は、もう新しいものを自分の中に取り入れたくなかったのだ。
今までに一樹からもらった、たくさんの宝物のような思い出。それを一つ一つ丁寧に反芻して、綺麗な箱にしまって、天国へ持っていくための『手土産』を完璧な状態に仕上げたかった。
ショッピングモールの広い通路を、二人で手を繋いで歩く。
冷房の効いた館内には、家族連れやカップルの楽しそうな笑い声が溢れていた。
ショーウィンドウに映る私たちは、どこからどう見ても、普通の幸せな高校生の恋人同士だ。
一樹の歩幅はいつも私に合わせてくれているし、すれ違う人とぶつかりそうになれば、彼がさりげなく私を庇ってくれる。
「ちょっと座ろっか。飲み物、買ってくるよ」
吹き抜けの広場にあるベンチに私を座らせると、一樹はいつもの優しい笑顔でそう言い、自動販売機の方へと歩き出した。
彼のがっしりとした広い背中を、私は愛おしい気持ちで見つめていた。
* * *
【一樹 視点】
那奈の視界から外れる太い柱の影に隠れた瞬間。
俺の顔から、貼り付けていた「笑顔」がボロボロと剥がれ落ちた。
「……っ、ふぅ……」
壁に手をつき、深く息を吐き出す。
眉間に深い皺が寄り、胃袋が雑巾のようにねじり上げられるような痛みが走った。
始業式まで、あと二日。
夜の公園で「明日からも全力で夏を楽しもう」と誓ったあの日から、俺は那奈の前では絶対に暗い顔を見せないと決めていた。頼りがいのある、彼女を心から楽しませる彼氏でいようと。
でも、本当は限界だった。
彼女の笑顔を見るたびに、これが永遠に失われてしまうカウントダウンなのだという現実が、俺の首をギリギリと締め上げる。
ここ数日、まともに眠れていない。食事だって、何を口に入れても砂を噛んでいるみたいに味がしなかった。それでも、那奈の前でやつれた姿を見せて心配させるわけにはいかないから、吐き気を堪えて無理やり喉の奥に飯を押し込んでいる。
(どうすればいい。どうすれば、あいつを止められる……?)
ずっと考えている。でも、答えなんてどこにもない。俺の愛ごときで、彼女の抱える途方もない罪悪感と家族への想いを覆すことなど、できないのだと身をもって知ってしまったから。
自動販売機に硬貨を放り込み、冷たいお茶を二本買う。
ペットボトルの冷たさで、ほんの少しだけ熱くなった頭を冷やした。
「……よし」
俺は自分の両頬をパチンと軽く叩き、再び『無邪気な彼氏』の完璧な笑顔を顔面に貼り付けた。
あと二日。泣いても笑っても、俺にできるのは彼女を笑わせることだけだ。
俺は深く深呼吸をしてから、彼女の待つベンチへと足を踏み出した。
* * *
【那奈 視点】
一樹が戻ってくるのを待つ間、私はぼんやりと広場を行き交う人々を眺めていた。
その時だった。
「あははっ、ほら、パパの顔見てごらん」
「ちょっと、あんまり変な顔しないでよ。泣いちゃうでしょ」
すぐ目の前を、若い夫婦が通り過ぎていった。
ベビーカーに乗った小さな赤ちゃんを、二人が愛おしそうに覗き込んで笑い合っている。赤ちゃんはキャッキャッと声を上げて、宙に向かって小さな手を伸ばしていた。
その光景を見た瞬間。
私の脳裏に、強烈な『幻覚』がフラッシュバックした。
――数年後の、未来。
私は、今よりも少し大人びた服を着ていて、隣には、背が伸びて少し顔つきの男らしくなった一樹がいる。
私の腕の中には、小さな小さな、温かい命。
『ほら、一樹。この子、目元が一樹にそっくり』
『マジかよ。でも、笑った顔は絶対に那奈に似てる。……すげぇ可愛い』
『ふふっ。親バカだね』
『当たり前だろ。俺たちの宝物なんだから』
休日のショッピングモール。家族三人で手を繋いで歩く。
一樹と結婚して、彼と同じ苗字になって。
一緒にご飯を作って、同じベッドで眠って、歳をとって、おばあちゃんとおじいちゃんになるまで、ずっと彼の隣で笑って生きていく。
そんな、ありふれた、でも奇跡のように眩しい『未来の空想』。
「…………あっ」
息が、詰まった。
無意識のうちに、私の目からポロポロと涙がこぼれ落ちていた。
生きたい。
嫌だ、死にたくない。もっと一樹と一緒にいたい。
夏休みが終わっても、彼と同じ教室で笑い合いたい。大人になって、彼のお嫁さんになって、彼との子供を産んで、彼と一緒に生きていきたい。
ずっとずっと、彼のそばにいたい――!!
私の一番深い所に隠していた、ごまかしのきかない生々しい『本音』が、堰を切ったように溢れ出した。
けれど。
その温かい空想は、次の瞬間、黒く濁った猛毒のような『呪い』によって、粉々に叩き割られた。
『……何、考えてるの?』
頭の中で、もう一人の冷たい私が、私自身を嘲笑った。
私は、お母さんと羽奈を置いて、自分だけが生き残ってしまった罪人だ。
アパートの祭壇で、二人は今も私を待っている。天国でずっと待たせているのだ。
一樹に嘘の告白をされた時、私はそれを「天国へ持っていくための最高の思い出作りに利用しよう」と決めたはずだ。
一樹の夏を奪い、彼のお金を遣わせ、彼の心をぐちゃぐちゃに振り回して、自分の死を美しく彩るための『お土産』を作らせた。
それなのに。
ここにきて「やっぱり死にたくない」「彼と未来を生きたい」だなんて。
「……最低だ」
自分のあまりの浅ましさに、吐き気がした。
なんて醜いんだろう。なんて利己的で、傲慢なんだろう。
一樹の愛情をさんざん貪っておいて、今度は自分の罪を忘れて幸せな未来まで欲しがるなんて。
許されるはずがない。
私は、絶対に生きてはいけない。お母さんと羽奈との約束を破って、私だけが幸せになるなんて、絶対に、絶対にダメだ。
死ななきゃ。
夏休みが終わったら、私はちゃんと終わらなければならない。
それが、一樹の心を弄んでしまった私にできる、唯一の償いなのだから。
「……死ななきゃ……ちゃんと、死ななきゃ……」
喉の奥から、呪詛のような言葉が漏れる。
心臓が冷たい手で鷲掴みにされたように痛い。息がうまく吸えなくて、視界がぐらぐらと揺れる。
生きたいと願う本音を、死ななければならないという強迫観念が、鋭いナイフで何度も何度もメッタ刺しにしていく。
「那奈? 待たせたな。はい、お茶……って、どうした!? 顔色すげー悪いぞ!」
小走りで戻ってきた一樹が、私の顔を見て慌ててしゃがみ込んだ。
私の顔を覗き込む彼の瞳には、痛いほどの心配と、深い愛情が満ちていた。
その優しさが、私の胸をさらに深く抉る。
「……ううん」
私は、震える唇を必死に持ち上げて、笑った。
絶対に、この汚い本音を彼に悟られてはいけない。
私は、彼が愛してくれた『綺麗な彼女』のまま、この世界から消えなければならないのだから。
「なんでもないよ。ただ……一樹と一緒にいられて、すごく幸せだなって思ってただけ」
「……そっか。俺もだよ」
一樹は少しだけ安堵したように笑い、私の隣に座って、冷たいペットボトルを私の頬にそっと当てた。
彼の温かい手と、凍りつくような私の心。
見えない絶望をひた隠しにして、お互いに無理に笑い合う。
幸せなモールの喧騒の中で、私たちだけが、深く暗い死の淵へと一歩ずつ引きずり込まれていた。




