第96話 見に戻れ(挿絵有)
良樹の言葉に、アルフは立ったまま固まっていた。
何でも切れるようにしたナイフは、鞘ごと切って持ち主の脚に刺さった。
水が湧き続けるようにした井戸は、水害を起こし、集落の人たちは毎日何度も水を川へ捨てる重労働を強いられている。
良かれと思って人の姿に変えた亜人たちは、人間の世界で元亜人と差別され、元の姿にも戻れないまま、自分で自分を裏切り者だと責めている。
その後。
良樹は、それを見てきた。
アルフは、見ていなかった。
「……そんなはず、ない」
アルフの声は、掠れていた。
「僕は、助けたんだ」
「苦しんでいる人たちを、助けたんだ」
「それを……そんな風に言われても……」
「ああ」
良樹は、静かに頷いた。
「そこは否定しねえ」
アルフが、顔を上げる。
「お前の善意は否定しねえ」
「助けられた奴がいることも、否定しねえ」
「間違っても、そこは否定しねえ」
アルフの表情が揺れた。
否定されると思っていたのだろう。
断罪されると思っていたのだろう。
自分のしてきたことを、すべて悪だと言われると思っていたのだろう。
だが、良樹はそこを否定しなかった。
否定しないからこそ、逃げ道が狭くなる。
良樹は、アルフの背後にいる少女たちを見た。
「この中に、リナって子はいるか」
一人の少女が、びくりと肩を揺らした。
人間の少女に見える。
けれど、その顔色は一瞬で変わっていた。
「……私がそうよ」
リナは一歩前へ出る。
まだ敵意を消していない。
けれど、声の奥には明らかな怯えが混ざっていた。
「私にも何か言いたいわけ!?」
「違う」
良樹は首を振った。
「お前の兄貴から、伝言を預かってる」
「兄貴……?」
「ああ」
「ロブって男からだ」
リナの唇が震えた。
その名前は、今のリナにとって、避けてきたものだったのかもしれない。
捨ててきたものだったのかもしれない。
帰れないと決めつけて、見ないようにしていたものだったのかもしれない。
良樹は、短く息を吐いた。
「帰れるって」
リナの目が見開かれた。
「兄貴は怒ってねえ」
「心配してる」
「だから、帰ってこいって」
「そう伝えてくれ」
リナは、言葉を失っていた。
良樹は、リナから目を逸らさない。
「ロブとの約束だ」
「確かに伝えた」
「……嘘」
リナは小さく呟いた。
「だって、私……」
「勝手に、人間になって」
「集落を出て」
「兄貴のことも、皆のことも……」
「怒ってねえって言ってた」
「そんなわけない!」
リナの声が跳ねた。
「そんなわけ、ないじゃない!」
「私、勝手に出ていったのよ!」
「皆のことを、捨てたみたいに……!」
「怒ってねえ」
良樹は繰り返した。
「心配してた」
「帰ってこいって言ってた」
リナの目に、涙が浮かぶ。
良樹は、そこへ安易な慰めを重ねなかった。
「前と同じに戻れるかは知らねえ」
「そこは、俺が軽く言っていいことじゃねえ」
リナが息を呑む。
「でも」
「帰ってこいって言ってる奴がいる」
「怒ってねえ」
「心配してる」
「帰ってこいって言ってる」
良樹の声が、少しだけ低くなる。
「そこまで、無かったことにすんな」
リナは何も言えなかった。
その横で、アルフが拳を握りしめる。
「リナは……」
声が震えていた。
「リナは、僕が助けたんだ」
「リナは、僕と一緒にいることを選んでくれた」
「それまで否定するんですか!」
「否定しねえ」
良樹は即答した。
アルフが止まる。
「だが、リナはいい」
「……え?」
「お前といれば」
「この先、何かあっても、どうにかなるのかもしれねえ」
「少なくとも、こいつは今、お前の隣に立ってる」
「お前を信じて」
「お前を守ろうとしてる」
良樹はリナを見た。
「そこまで、俺が外から否定する気はねえ」
リナは俯いた。
アルフも、何も言えなかった。
良樹は、そこで声を沈める。
「だが」
空気が変わった。
「お前がやったことの後から」
「今、苦しんでる奴らがいる」
アルフの喉が、小さく動いた。
「ナイフで脚を刺した奴がいる」
「湧き続ける井戸の水を、毎日何度も川に捨ててる集落がある」
「人間の姿になったせいで、人間にも亜人にも戻りきれず」
「自分を裏切り者だと責めながら暮らしてる奴らがいる」
良樹は、アルフをまっすぐ見た。
「お前は」
「これを聞いても」
「何も思わねえのか」
「……僕は」
アルフの顔が歪む。
「僕は、そんなつもりじゃ……」
「だろうな」
「僕は、助けたかっただけで……」
「だろうな」
「なら!」
アルフが叫んだ。
「なら、どうすれば良かったんだよ!」
それは怒りだった。
悔しさだった。
恐怖だった。
認めたくないものを突きつけられた若者の、行き場のない叫びだった。
「僕は助けたかっただけだ!」
「苦しんでいる人を見捨てたくなかった!」
「誰かに必要だって言われたかった!」
「それの何が悪いんだよ!」
「どうすれば良かったんだよ!」
良樹は、少しだけ黙った。
それから、低く言った。
「やる前に考えろ」
「簡単に実行するな」
「やった後は、必ず確認しろ」
アルフの声が止まる。
「俺は、親父にそう叩き込まれた」
「失敗するたびに拳骨を食らった」
「そうやって覚えた」
良樹は、右腕を上げた。
打撃腕。
魔導工場から伸びる巨人の腕が、ゆっくりと拳を作った。
アルフの身体が強張る。
リナたちも息を呑む。
だが、良樹はその拳を見て、すぐに止めた。
大きすぎる。
重すぎる。
これは、教える拳ではない。
壊す拳だ。
「――っと」
良樹は、打撃腕の拳を開いた。
「こっちじゃ、ただじゃ済まねえか」
「なら、こっちだ」
良樹は打撃腕を下ろす。
代わりに、左手を握った。
ただの拳。
魔法でも、魔導工場でも、打撃腕でもない。
上村良樹自身の拳。
その拳を、アルフの頭へ落とした。
ごつん。
「――っ!」
アルフは頭を押さえた。
痛かった。
魔法でもない。
付与でもない。
殺意でもない。
ただの拳骨だった。
それなのに、痛かった。
「……っ、う……」
アルフの目から、涙がこぼれた。
良樹は、その顔を見て少しだけ眉を寄せた。
「……すまん」
「そんなに強くしたつもりは無かったんだが」
アルフは頭を押さえたまま、何も言えない。
涙だけが勝手に落ちていた。
「まだ痛えか」
「弱ったな」
良樹は後ろを振り返る。
「クラリス」
「アルフに回復魔法」
「はい」
クラリスは、静かに前へ出た。
白い法衣の裾が揺れる。
リナたちは一瞬、身構えた。
だが、クラリスの手に集まった光は、攻撃のためのものではなかった。
柔らかな回復魔法の光が、アルフの頭に触れる。
痛みが、少しずつ引いていく。
けれど、涙は止まらなかった。
アルフは泣いていた。
良樹の拳骨が痛くて。
アルフは泣いていた。
恥ずかしくて。
悔しくて。
情けなくて。
アルフは泣いていた。
もう何年も、こんなにも真剣に叱られたことが無かったから。
誰かに否定されるのは怖かった。
役立たずと言われるのは怖かった。
必要ないと言われるのは、もっと怖かった。
だから、感謝される場所へ行った。
助けてくれてありがとうと言われる場所へ行った。
必要だと言ってくれる人のところへ行った。
その言葉は、確かに嬉しかった。
だが、誰も止めてはくれなかった。
誰も、間違っているかもしれないと言ってはくれなかった。
誰も、自分の頭へ拳骨を落としてまで、やる前に考えろと、やった後は確認しろと、そう叱ってはくれなかった。
良樹は、左手を開き、ゆっくり下ろした。
「……悪い」
「泣かせるつもりじゃなかった」
アルフは、涙を拭おうとして失敗した。
「でも」
良樹は、アルフを見た。
「叱るつもりはあった」
アルフの肩が震える。
「お前が悪人だからじゃねえ」
「まだ戻れると思ったからだ」
リナが、アルフを見る。
アルフは泣いていた。
まるで、置き去りにしてきたものが、今になって一気に胸へ戻ってきたように。
良樹は、短く息を吐いた。
「……俺も、ここに来てから何度も失敗した」
アルフが、涙に濡れた目で良樹を見る。
「分かったつもりで動いた」
「助けたつもりで、余計なものを背負わせた」
「守るつもりで、暴走しかけた」
「三人を、何度も悲しませちまった」
良樹は、ほんの少しだけ後ろを見る。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人は何も言わなかった。
リシアは、良樹の背中を見ている。
カレンは、剣に添えた手を少しだけ緩めている。
クラリスは、アルフに回復魔法をかけ終えた手を静かに下ろしていた。
「ひょっとしたら」
「今も、そうかもしれねえ」
良樹は、アルフへ視線を戻した。
「だから、あいつらに頼む」
「だから、あいつらを頼る」
良樹の声は低かった。
「俺ひとりじゃ、何もできねえ」
「間違える」
「見落とす」
「抱え込む」
「止めるべきところで、止まれなくなる」
良樹は続ける。
「だから」
「俺が間違えた時は、止めてくれって頼んでる」
「苦しい時は、苦しいって言うようにしてる」
「見えてねえところは、見てくれって頼んでる」
アルフは、何も言えなかった。
「好きだから全部正しい、じゃねえ」
「助けたから全部許される、でもねえ」
「自分が善意でやったから、後は知らねえ、でもねえ」
良樹は、アルフをまっすぐ見る。
「ひとりで正しいままでいられる奴なんか、いねえんだよ」
アルフの手が震えていた。
涙はまだ止まっていない。
だが、先ほどまでの怒りだけではなかった。
悔しい。
恥ずかしい。
情けない。
怖い。
それでも、耳を塞いではいなかった。
「……謝りに行って」
アルフは、小さく言った。
「許されなかったら」
「どうするんですか」
「許されるために行くんじゃねえ」
良樹は答える。
「自分がやったことを見るために行くんだ」
「……怖いです」
「だろうな」
「僕は、また……」
アルフの声が震える。
「いらないって言われるかもしれない」
「ああ」
「……ああ、って」
「言われるかもしれねえ」
「怒鳴られるかもしれねえ」
「殴られるかもしれねえ」
「許されねえかもしれねえ」
良樹は、一拍置いた。
「でも」
「見に戻らなきゃ、何も始まらねえ」
アルフは俯いた。
「勘違いすんな」
「今ここで泣いたから、終わりじゃねえ」
「謝るって言ったから、許されるわけでもねえ」
良樹の声は、冷たくはなかった。
だが、甘くもなかった。
「お前が変わったかどうかなんて、俺にはまだ分からねえ」
「俺が決めることでもねえ」
「この後、お前が何を見るか」
「見た後、何をするか」
「それでしか分からねえ」
アルフは、涙を拭った。
拭っても、すぐにまた滲んだ。
「俺も同じだ」
良樹は言う。
「偉そうなことを言って」
「次に同じ間違いをしたら、何も変わってねえ」
「だから、俺はあいつらに見てもらってる」
「ガレスにも報告する」
「間違えたら、止めてもらう」
良樹は、アルフに言った。
「お前もそうしろ」
「ひとりで正しい顔をするな」
その時だった。
「……アルフ」
リナが、震える手を伸ばした。
その手が、アルフの袖を掴む。
アルフは、涙に濡れた顔でリナを見た。
「リナ……」
「行こう」
リナの声も震えていた。
「私も、兄貴に会う」
「怖い」
「帰ってこいって言われても」
「どんな顔をすればいいか分からない」
リナは唇を噛む。
「でも」
「見に行こう」
「あなたがしたことも」
「私が選んだことも」
「ちゃんと、見に行こう」
アルフは、何かを言おうとして、失敗した。
リナは続ける。
「私、あなたが間違ってないって言いたかった」
「今でも、助けてくれたことは嘘じゃないって思ってる」
リナの指に力が入る。
「でも」
「見に行こう」
「私も一緒に行くから」
アルフは、声を出さずに泣いた。
カレンが、小さく息を吐く。
「……止められましたね」
クラリスが、静かに頷いた。
「はい」
「好きな人を、ちゃんと」
リシアは、アルフとリナを見た。
「これで終わりじゃないわ」
「でも、始める場所には立ったわね」
良樹は、勝った顔をしなかった。
むしろ、少し疲れたように息を吐いた。
魔導工場は、まだ展開したままだ。
打撃腕は下ろしている。
だが、三人への接続は細く残している。
信用したわけではない。
終わったわけでもない。
ただ、ここで潰すべき相手ではないと判断した。
良樹は、アルフを見る。
「アルフ」
「……はい」
「悪いが、監視だけはさせてもらう」
アルフが顔を上げる。
「監視……」
「ああ」
良樹は、リナたちも含めて見た。
「じゃねえと、事を知ってる奴らは」
「お前らが町に入ることを、納得できねえかもしれん」
アルフは言葉を詰まらせた。
当然だった。
今まで通り、助けた人たちに感謝されながら町へ入る。
そういう流れでは、もうない。
自分たちがしてきたことを知る者がいる。
その後で苦しんでいる者がいる。
そして、その者たちを見てきた者がいる。
その事実を無かったことにはできない。
良樹は続ける。
「俺は、お前らを敵として連れていくつもりはねえ」
「だが、何も知らねえ顔で自由に歩かせるわけにもいかねえ」
アルフは小さく頷いた。
「だから、俺が監視する」
「今夜は宿に泊まれ」
「明日、ガレスに報告する」
少し間を置いて、良樹はアルフに問う。
「それでいいか」
アルフは、すぐには答えなかった。
涙で濡れた顔のまま、リナを見る。
リナは、まだアルフの袖を掴んでいた。
他の少女たちも、戸惑いながらアルフを見ている。
アルフは、唇を噛んだ。
「……分かりました」
声は小さかった。
それが反省なのか。
恐怖なのか。
諦めなのか。
良樹には、まだ分からない。
分かるのは、一つだけだった。
アルフは、逃げなかった。
リナも、逃げなかった。
なら、まずはそこからだ。
良樹は、魔導工場を少しずつ畳む。
リシアへ伸びていた飛翔翼の輪郭が消える。
カレンの形状可変剣が通常の剣へ戻る。
クラリスの手甲の光が薄れる。
打撃腕も、空気に溶けるように消えた。
ただし、良樹は完全に力を抜かなかった。
「逃げたら、次は止める」
アルフの肩が震える。
「今度は、話じゃ済ませねえ」
「……はい」
アルフは頷いた。
良樹は、町の門を見る。
門は、まだ完全には開いていない。
だが、閉ざしたままでもない。
ガレスへ報告しなければならない。
フィルとクリスにも話を通す必要がある。
ロブにも、リナにも、亜人たちにも、まだ何も終わっていない。
ナイフ。
井戸。
人間の姿に変えられた亜人たち。
見に戻るべきものは、多すぎる。
それでも、最初の一歩を踏ませるしかない。
良樹は短く言った。
「行くぞ」
「まずは宿だ」
「明日、ガレスに報告する」
アルフは、泣き腫らした目で小さく頷いた。
リナは、その袖を掴んだままだった。
良樹は前を向く。
変わったかどうかは、まだ分からない。
分かるはずもない。
この後、何を見るか。
見た後、何をするか。
それでしか分からない。
だから、見る。
だから、見届ける。
上村良樹は、町の門へ向かって歩き出した。
アルフたちは、逃げずにその後をついてきた。




