第93話 その石、一旦止めろ(挿絵有)
良樹たちは、偶然そこにいたわけではなかった。
時間は、少しだけ遡る。
亜人の集落で、ロブからその言葉を聞いた瞬間、良樹たち四人の空気が変わった。
「心当たりというか」
「次は、あんたらの町へ行くって言ってたぜ」
ロブは、そう言った。
良樹は一瞬だけ黙った。
リシアの表情が固まる。
カレンが胸元で手を握る。
クラリスの目が細くなる。
若い男。
人間の姿になれる魔石。
リナ。
そして、次の行き先。
それが、自分たちの町。
良樹は、短く息を吐いた。
「まずいな」
「ええ」
リシアが低く答えた。
「このまま普通に戻っていたら、向こうが先に着くかもしれないわ」
「そうだ」
良樹は胸元に魔導盤を展開した。
いつもの斥候盤。
魔導レーザースキャナを回し、周囲の距離と動きを拾うための盤。
だが良樹は、それをそのまま使わなかった。
盤の線がほどける。
索敵用の流路が消える。
スキャナの回転線が落ちる。
距離を拾うための処理が閉じられていく。
代わりに、脚力補助の線が太くなった。
「……何やってんだ、良樹」
ロブが眉をひそめた。
「行かなくていいのか」
「すぐに行く」
良樹は盤から目を離さずに答えた。
「だから今、移動特化盤を組んでる」
「移動、特化……?」
ロブは意味が分からず、助けを求めるようにリシアたちを見た。
リシアは、小さく息を吐いた。
「……あれが良樹の能力なの」
「能力?」
「万能なんてものからは程遠いわ」
「見て、組んで、繋いで、止めて、また組み直す」
「そういう面倒な力よ」
ロブは、もう一度良樹を見た。
良樹は、ほとんどロブたちを見ていなかった。
斥候盤を崩す。
使わない機能を捨てる。
脚力補助に容量を回す。
背中側に、半透明の支持フレームを組む。
両腕の外側に、打撃腕を小さくしたような補助腕を形成する。
派手な光ではない。
神々しい奇跡でもない。
線を引き、負荷を逃がし、支える場所を決めている。
クラリスが、良樹の背中を見ながら言った。
「今回は時間との勝負になるかもしれません」
「良樹くんの負担は、私が和らげます」
カレンは、良樹の手元を見つめていた。
怖がっている。
けれど、目は逸らしていない。
「でも、ああいう時の良樹さんは」
「きっと間違えません」
ロブは、その言葉を聞いて、良樹を見た。
英雄と呼ばれる男の能力が、これだった。
神の雷でもない。
すべてを斬る剣でもない。
万能の奇跡でもない。
必要なものを見て。
不要なものを捨てて。
間に合わせるために組み直す。
こんな能力で。
いや。
こんな能力だからこそ、この男は英雄と呼ばれるところまで行ったのか。
ロブは、知らず呟いていた。
「……おまえ、凄いやつだったんだな」
良樹は盤から目を離さずに答えた。
「そんな大層なもんじゃねえよ」
「ただの現場屋だ」
やがて、良樹は短く息を吐いた。
「よし」
「テストをしてる時間はねえが、ほとんどは実証試験済みの構成で組めた」
良樹は顔を上げた。
「悪いが、俺たちは行く」
「ありがとう、ロブ」
「……ああ」
良樹は移動特化盤を起動した。
「三人とも、乗れ」
リシアが背中のフレームへ身体を預ける。
カレンが右側へ入り、補助腕に支えられる。
クラリスが左側へ寄り、同じように良樹へ身体を預ける。
その瞬間。
背中に、ぽよん。
右に、ぴとっ。
左に、ふにふに。
良樹の顔が、少しだけ赤くなった。
「……仕方ねえだろ」
「移動のためだ」
集落の若い男たちは、一斉に同じ目をした。
そして、声が揃った。
「「「爆発しろ」」」
「……おい、お前ら」
良樹が低く言う。
リシアは背中で少しだけ顔を赤くし、カレンは右側で固まり、クラリスは左側で清楚に微笑んでいた。
クリスは、とうとう耐えきれなくなったように肩を震わせて笑った。
だが、その笑みには、ただのからかいだけではないものがあった。
人間。
亜人。
英雄。
集落の若者。
施療院の者。
今この瞬間、その場にあったのは、差別でも、怯えでも、断絶でもなかった。
ただ、いい女三人を抱えて走ろうとする男に対する、男たちの当然すぎる怨嗟だった。
それが少しだけ、クリスには嬉しかった。
「良い光景だね」
「どこがだ」
良樹が顔を赤くしたまま返す。
クリスは笑いながら言った。
「少なくとも今ここには、差別などない」
良樹は一瞬だけ黙った。
それから、短く息を吐く。
「……行くぞ」
良樹の両腰に、半透明の魔導モーターが具現化した。
最初にこの世界へ来た時、止め方も知らずに直入れで回してしまった脚力補助。
あの時とは違う。
腰の左右に浮かぶ魔導モーター。
そこから太腿、膝、足首へ落ちる補助線。
その手前には、魔導インバータが噛んでいる。
回転数を上げる。
ただし、跳ねさせない。
加速を段階で切る。
膝へ入る負荷を逃がす。
足首の返りを拾う。
背中と両腕に乗せた三人分の重さを、姿勢制御側へ渡す。
走るための盤ではない。
三人を落とさず、潰さず、連れて帰るための盤だった。
「行くぞ」
良樹が地面を蹴った。
次の瞬間、景色が後ろへ流れた。
飛矢のように、良樹は走り出す。
背中でリシアが息を呑み、右腕側でカレンが良樹の服を掴み、左腕側でクラリスがそっと良樹の身体へ回復と負荷軽減の魔法を重ねた。
風が鳴る。
集落の柵が後ろへ飛んでいく。
土の道が細い線のように流れる。
木々の影が、横へ裂けていく。
だが、良樹だけではなかった。
隣に、白い影が並んだ。
クリスだった。
白法衣の裾を風に揺らしながら、何食わぬ顔で走っている。
足元には淡い強化魔法の光。
腕や胴ではなく、脚力だけを引き上げている。
良樹は横目で見た。
「器用なもんだな」
クリスは涼しい顔で笑った。
「何、君ほどではないさ」
余裕のある声だった。
走っている。
かなりの速度で走っている。
それなのに、息が乱れていない。
良樹は、改めてクリスを見た。
顔立ち。
物腰。
喋り方。
クラリスの兄という立場。
妙な余裕。
どう考えても、自分より年上に見える。
「お前、何歳なんだ」
クリスが答える前に、左腕側のクラリスが言った。
「兄様は、私よりひとつ年上ですよ」
「年下かよ!」
良樹の声が、走る風の中で跳ねた。
リシアが背中で小さく笑う。
「良樹、今さら?」
「いや、今さらも何もあるか!」
「こいつのこの兄貴面とキザ男面で年下は詐欺だろ!」
クリスはまったく悪びれず、涼やかに微笑んだ。
「良樹君」
「他人を年齢で判断することなんて、僕はしないのさ」
「俺はするわ!」
「少なくとも今はする!」
カレンが右腕側で、少し困ったように笑った。
「あ、あの……でも、クリスさんは落ち着いていますから……」
「落ち着きすぎなんだよ」
「年下の出力じゃねえ」
クラリスは、左側から穏やかに言った。
「兄様は昔からああです」
「昔からあれなのか」
「はい」
「施療院の教育どうなってんだ」
クリスが笑う。
「良い教育だよ」
「少なくとも、走りながら義弟君をからかえる程度にはね」
「義弟君をやめろ!」
良樹は叫びながら、さらに出力を一段上げた。
腰の魔導モーターが、低く唸る。
魔導インバータが回転を整える。
脚が地面を噛む。
白法衣の兄は、当然のように隣を走っていた。
良樹は前方を見たまま、横を走るクリスへ声を投げた。
「クリス」
「悪いが、そっちを見てる余裕はねえ」
カレンが怖い場所を見る。
リシアが風を整える。
クラリスが身体を見る。
良樹は盤と脚力補助を見る。
四人で走っている。
だからこそ、隣を走るクリスまで細かく見る余裕はなかった。
「大丈夫か」
クリスは、白法衣の裾を風に流しながら、涼しい顔で笑った。
「おやおや」
「義弟君は心配性のようだね」
「義弟君をやめろ」
「そうだね」
「なんと言えば安心させられるだろうか」
かなりの速度で走りながら、クリスは本当に少し考え込むような顔をした。
息は乱れていない。
足運びも崩れていない。
自らにかけた強化魔法は、脚力だけを引き上げている。
胴や腕に余計な力は入れていない。
走るために必要な場所へ、必要なだけ通している。
良樹はそれを横目で見て、少しだけ眉を寄せた。
器用だ。
そして、怖いくらい無駄が少ない。
その時、クリスがぱっと顔を上げた。
「――これならどうだろう」
「何だ」
「僕は父上の息子で」
「クラリスの兄だよ」
クリスは、相変わらず涼しい顔で言った。
「これでも心配されてしまうかな?」
良樹は一瞬だけ黙った。
フィル。
クラリスの父。
白法衣を着た、僧侶という単語を物理で粉砕するような男。
クラリス。
清楚な顔で、拳と杖と回復魔法を同じ線上に置く女。
その父の息子。
そのクラリスの兄。
良樹は前を向いたまま、短く言った。
「……いや」
「説得力があるな」
背中でリシアが少し笑った。
「納得するのね」
「するだろ」
「あの親父さんとクラリスの間に挟まって育った男だぞ」
「普通なわけがねえ」
左側のクラリスが、少しだけ不満そうに言った。
「良樹くん」
「私を判断基準にするのは、少し失礼ではありませんか」
「褒めてる」
「本当ですか」
「たぶん」
「たぶん、なのですね」
クリスは楽しそうに笑った。
「では、安心してもらえたところで」
「もう少し速度を上げてもいいのではないかな」
良樹は前方を見る。
道はまだ続く。
町までは距離がある。
アルフたちがどれほど先へ進んでいるかは分からない。
良樹は息を吐いた。
「なら――」
「もう少し速度を上げる」
腰の魔導モーターが、さらに回転を上げた。
ただし、跳ねさせない。
インバータが立ち上がりを整える。
リシアの風が後ろへ流れ、カレンが次の怖い場所を告げ、クラリスが膝と腰の負荷を見る。
クリスも、隣で脚の光をわずかに強めた。
「ああ」
白法衣の兄は、涼しい声で言った。
「疾く目指すとしようか」
良樹たちは、さらに速度を上げた。
◇
町へ戻った良樹たちは、そのままギルドへ向かった。
移動特化盤は、町の手前で解除している。
さすがに、妻三人を抱えたままギルドへ突っ込めば、別件で騒ぎになる。
騒ぎになるだけならまだいい。
良樹の精神的な被害が大きい。
ギルドの扉を開けると、受付近くにいたニルが顔を上げた。
「あ、兄貴」
「お帰りなさいっす」
「何か分かったっすか?」
「ああ、ニル」
「ガレスは?」
「奥にいるっす」
「呼んできますか?」
「頼む」
ニルは頷きかけて、そこで良樹たちの後ろにいる男へ目を向けた。
白い法衣。
整った顔立ち。
柔らかく流した髪。
妙に優雅な立ち姿。
クリスだった。
「……あれ」
「見かけない人がいるっすね」
「どこかで見たような気も……」
クリスは、胸に手を当てて軽く頭を下げた。
「お初にお目にかかるよ、ニル君」
「僕はクリス」
「そこにいるクラリスの兄さ」
「おおー……」
ニルは、クリスとクラリスを交互に見た。
「そう言われると似てるっす」
「クラリスさんとクリソツっす」
「美人のクラリスさんが男になったらって感じのイケメンっす」
クラリスが、少しだけ目を伏せた。
「ニルさん」
「ありがとうございます」
「ですが、少し表現が軽いです」
「す、すんませんっす」
クリスは楽しそうに笑った。
「ははは」
「ニル君は若いのに、お世辞が上手だね」
「いや、本当に似てるっすよ」
「なんか、こう……清楚っぽい顔の系統っす」
良樹は、そこで眉間を押さえた。
「ニル」
「はいっす?」
「気をつけろ」
「あいつは、女性なら本当に千差万別なしに褒めて口説く男だ」
クリスが涼しい顔で良樹を見た。
「良樹君」
良樹は止まらなかった。
「お前の彼女も口説かれるかもしれねえ」
ニルの顔色が変わった。
「――なっ」
「危険人物っす!」
受付周辺にいた冒険者が、何事かとこちらを見る。
クリスは、困ったように肩をすくめた。
「良樹君」
「僕への風評被害をばら撒くのはやめてくれないか」
「事実だろ」
「僕は美しいものを美しいと言っているだけだよ」
「それを口説いていると受け取られるのは、少々心外だね」
リシアが半眼で言った。
「受け取られる言い方をしている自覚はあるのね」
「礼儀の範囲さ」
「範囲が広すぎるわ」
カレンは、少し困ったように笑っていた。
「で、でも……褒められて嫌な気持ちはしないと思います」
良樹はカレンを見た。
「カレン」
「そういうところに騙されるな」
「だ、騙されるんですか?」
「口がうまい男は危ない」
クリスが微笑む。
「義弟君」
「君もなかなか口説き文句は強いと思うけれどね」
「義弟君をやめろ」
「あと俺は口説いてねえ」
リシア、カレン、クラリスの三人が、ほぼ同時に良樹を見た。
良樹は沈黙した。
「……何だよ」
「別に」
「いえ、何でもありません」
「良樹くんですから」
「やめろ」
「その三方向からの沈黙が一番効く」
ニルは一歩引き、真剣な顔でクリスを見た。
「とにかく、俺の彼女には近づけないっす」
「おや」
「大切な人を守る目だね」
「良いことだ」
「褒めても駄目っす!」
クリスは、今度こそ楽しそうに笑った。
そうしているうちに、奥の扉が開いた。
ガレスが姿を見せる。
いつものように雑な歩き方。
だが、目はすでに仕事のものだった。
「戻ったか、良樹」
「ああ」
ガレスは、良樹たちの顔を順に見た。
リシア。
カレン。
クラリス。
そして、クリス。
一瞬だけ眉を動かしたが、今はそこを掘らない。
「何か分かったのか」
良樹は、さっきまでの軽い空気を切り替えるように、表情を戻した。
「ああ」
「まずいことが分かった」
◇
ギルドの奥部屋で、良樹は亜人集落で見たことをガレスに伝えた。
人間の姿になる魔石。
使った者の身体感覚のずれ。
元に戻れない者がいること。
人間の町へ行っても、元亜人だと知られて追い出された者がいること。
そして、その魔石を配った若い男たちが、次はこの町へ向かうと言っていたこと。
ガレスは黙って聞いていた。
途中で口を挟まない。
眉間に皺を寄せ、机の上で組んだ指だけが、わずかに動いている。
良樹が話し終えると、ガレスは短く息を吐いた。
「そうか」
「分かった」
それだけで、部屋の空気が少し重くなった。
「あの集落から出発したなら、早ければ今日中にはこの街に着くかもしれん」
ガレスは良樹を見た。
「良樹」
「帰ってきたばかりで悪いが、やってくれるか」
良樹はすぐに答えた。
「――そのつもりだ」
迷いはなかった。
ロブから言葉を預かった。
リナのことを聞いた。
市場の付与品、井戸、亜人の魔石が同じ線で繋がっている可能性も高い。
ここで止めなければ、町の中に入る。
入ってからでは遅い。
ガレスは小さく頷いた。
「助かる」
そこで、クリスが一歩前に出た。
白い法衣の胸に手を当て、丁寧に頭を下げる。
「お初にお目にかかります、ガレス殿」
「父、フィルの代理で馳せ参じました」
「クリスと申します」
ガレスは、そこでようやくクリスをまじまじと見た。
整った顔。
柔らかな物腰。
涼しい笑み。
けれど、その立ち方には隙がない。
「……フィルのとこのクリス坊か」
ガレスの口元が、ほんの少しだけ動いた。
「でかくなったな」
クリスの眉が、わずかに上がる。
「父のことをご存知で?」
「――ああ」
「昔、ちょっとな」
それ以上、ガレスは言わなかった。
だが、その短い言葉だけで、ただの知り合いではないことは分かった。
良樹は少しだけガレスを見る。
ガレスとフィル。
冒険者ギルドの男と、施療院のモンク僧。
どう考えても、若い頃に何かあった顔だった。
ただ、今掘る話ではない。
クリスも、それを察したように微笑んだ。
「父から、伝言を預かっております」
「聞こう」
クリスは、少しだけ姿勢を正した。
そして、声色をわずかに変える。
豪快で、太く、どこか不器用な男の声を真似るように。
「すまん、ガレス」
「ワシが近くにおりながら、止められなんだ」
「代わりに、息子と婿殿に任せる」
クラリスの目が、わずかに揺れた。
父の言葉だった。
クリスは続ける。
「事が片付いたら――」
「久々に、酒でも飲むか」
部屋に、少しだけ沈黙が落ちた。
ガレスは目を閉じた。
怒るでもない。
笑うでもない。
ただ、昔の何かを一瞬だけ思い出したような顔だった。
やがて、低く笑う。
「アイツらしいな」
ガレスはクリスを見た。
「まあ、アイツがそう言うなら」
「クリス坊も一端になったってことか」
クリスは、涼しい顔のまま頭を下げた。
「父にそう伝えれば、喜ぶと思います」
「いや」
「調子に乗るから伝えるな」
「では、控えめに伝えておきましょう」
「それもやめろ」
「あいつは控えめでも調子に乗る」
クラリスが小さく目を伏せた。
「父様ですから」
良樹は思わず呟いた。
「どういう親父なんだよ」
クラリスは、清楚に微笑んだ。
「良い父です」
「そこは疑ってねえよ」
「情報量の方向がおかしいだけで」
ガレスは、ふと良樹を見た。
「そういや良樹」
「お前、あそこからどうやってここまで戻ってきた」
「脚力特化盤を組んで、三人を抱えて走ってきた」
ガレスの顔が、何とも言えないものになった。
「また無茶を……」
そこで一度、言葉が止まる。
ガレスは良樹を見た。
リシアを見る。
カレンを見る。
クラリスを見る。
三人は、妙に自然な顔で頷いていた。
「まあ」
「お前が今までやった無茶に比べれば、まだ軽い方か」
三人が、うんうんと頷いた。
「おい」
「そこは否定してくれよ」
良樹が言うと、リシアが半眼になる。
「否定できると思う?」
「できません」
カレンが真面目に答えた。
「良樹くんの無茶の中では、比較的安全側でした」
クラリスまで静かに続ける。
「比較対象がおかしいだろ」
良樹は眉間を押さえた。
ガレスは短く息を吐く。
「クラリス」
「良樹を回復してや――」
「それは僕に任せてもらおう」
ガレスの言葉を遮るように、クリスが一歩前へ出た。
白い法衣の袖を軽く払う。
いつもの涼しい笑み。
けれど、その目は真面目だった。
「クラリス」
「君は温存しておくんだ」
クラリスの表情が、わずかに変わった。
「兄様」
「それは私の役目です」
「分かっているよ」
クリスは柔らかく微笑んだ。
「だからこそ、今は譲ってくれないかな」
「これから君は、良樹君の隣に立つ」
「彼の身体を見る役目も、彼の無茶を止める役目も、君にしかできない」
クラリスは黙った。
クリスは続ける。
「それに」
「僕も少し、義弟君と話したいことがあるのでね」
「ここは譲ってくれないか」
「ね?」
クラリスは不服そうに目を伏せた。
「……はい、兄様」
「ありがとう」
「義弟君はやめろ」
良樹が低く言った。
クリスは聞こえなかったように、良樹の前へ立つ。
「では、少し失礼するよ」
クリスの手が、良樹の肩へ軽く触れた。
次の瞬間、柔らかな魔力が流れ込む。
クラリスの回復魔法とは少し違った。
クラリスの魔法は、深く見る。
痛んだ場所を見つけ、そこへ細く手を入れ、壊れたものを丁寧に戻す。
クリスの魔法は、少し外側から包むようだった。
筋肉の熱を抜き、関節の軋みを逃がし、魔力回路の表面に残ったざらつきを薄く撫でていく。
治しすぎない。
だが、動けるところまで戻す。
良樹は、少しだけ眉を上げた。
「……器用だな」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「褒めてる」
「たぶん」
「たぶん、か」
「義弟君は手厳しいね」
「だからやめろ」
クリスは笑った。
しかし、すぐに声を落とす。
「良樹君」
「僕は、彼らとは直接対峙しない」
良樹はクリスを見た。
「万が一があった時、周囲の住人たちを安全な所へエスコートする」
「言い方はキザだが……」
良樹は短く息を吐く。
「頼む」
「任されたよ」
クリスは、魔力を流しながら続けた。
「それに」
「僕は、義弟の舞台に上がり込むような無粋な真似は嫌いでね」
「義弟じゃねえ」
「事実は、言葉にしたところで変わらないよ、良樹君」
「……くそ」
クリスは楽しそうに笑った。
だが、その胸の奥では、別のことを考えていた。
ロブ。
亜人の集落。
怒り。
疑い。
恐れ。
そして、妹を託した男を見定めようとする目。
その中で、良樹は話を通した。
短い時間で。
相手を被害者とも、加害者とも決めつけず。
怒りを受け止め、伝言を預かり、町へ戻ってきた。
クリスは、静かに目を細める。
――何より、あの短時間でロブ君たちの心を開かせた君でなければ、ね。
それは口に出さなかった。
言えば、良樹はたぶん否定する。
そんな大層なものじゃない、と言う。
ただ話を聞いただけだ、と言う。
だから、言わない。
代わりにクリスは、回復魔法をもう少しだけ丁寧に流した。
「良樹君」
「何だ」
「君は君のやり方で行くといい」
良樹は、少しだけ目を細めた。
「……ああ」
「そのつもりだ」
ガレスは、そこで話を切るように机を叩いた。
「よし」
部屋の空気が、仕事へ戻った。
「門に話を通す」
「騒ぎにしすぎるな」
「だが、町の中には入れるな」
良樹は頷いた。
「ああ」
「まず止める」
「話を聞く」
「それで止まるなら、それでいい」
「止まらなかったら?」
ガレスが聞いた。
良樹は、静かに答えた。
「その時は、潰す」
リシア、カレン、クラリスが良樹を見る。
良樹は続けた。
「魔石の配布を」
「危険な付与の拡散を」
「必要なら、そいつの“人を救っている”って前提ごと」
ガレスは、しばらく良樹を見ていた。
そして、短く頷いた。
「分かった」
「任せる」
良樹は立ち上がった。
「行くぞ」
三人の妻が、当然のように続いた。
◇
良樹たちは、町の門へ向かった。
門番たちには、ガレスからすでに話が通っている。
門前の人の流れは、いつもより少しだけ整理されていた。
完全に止めているわけではない。
騒ぎにしすぎれば、相手を刺激する。
だが、何かあればすぐに閉じられるよう、門番たちはそれぞれの位置についていた。
良樹は門番の一人へ近づいた。
「悪い」
「もしもの時があったなら、逃げてくれ」
門番は一瞬だけ目を丸くした。
それから、少しだけ笑った。
「英雄様の言葉です」
「はい、と言いたいところですが……」
門番は槍を握り直した。
「我々は門番です」
「この街の入口を守るのが仕事ですので」
良樹は、その目を見た。
怖がっていないわけではない。
状況の重さを分かっていないわけでもない。
それでも、逃げるとは言わなかった。
良樹は小さく息を吐く。
「……そういうのは嫌いじゃねえ」
門番の表情が少しだけ緩む。
だが、良樹は続けた。
「けど、本当にやばい時は頼む」
「逃げてくれ」
その声は、さっきより低かった。
「門を守るために、人が潰れたら意味がねえ」
「閉められるなら閉めろ」
「下がれるなら下がれ」
「俺が逃げろと言った時は、意地を張るな」
門番は、良樹を見た。
英雄と呼ばれる男が、逃げるなとは言わない。
死んでも守れとは言わない。
本当に危ない時は逃げろと言う。
門番は、ゆっくり頷いた。
「分かりました」
「本当に危ない時は、ですね」
「ああ」
「頼む」
良樹は短く返し、門の外へ視線を向けた。
リシアは少し後ろ。
カレンは右寄り。
クラリスは左寄り。
四人とも、武器を抜いてはいない。
だが、何かあれば即座に動ける位置だった。
そうして、いくらかの時が経った。
門前の空気は、静かに張り詰めていた。
人の流れは完全には止まっていない。
だが、門番たちはいつでも動ける位置にいる。
ガレスから話は通っている。
門の内側では、クリスが少し離れた場所に立ち、周囲の人の流れを見ていた。
良樹は門の外を見ていた。
そして。
街道の先に、若い男女の一行が見えた。
男が一人。
その周囲に、若い女たちが数人。
旅装。
荷物。
そして、ひとり。
少女。
亜人ではない。
少なくとも、見た目は人間の少女だった。
だが、良樹はその姿を見た瞬間、ロブの言葉を思い出した。
妹だ。
名前はリナ。
帰れねえと思ってるなら、伝えてくれ。
兄貴はまだ怒ってる。
それでも帰ってこい。
帰れるって。
良樹は、目を細めた。
容貌、一致。
パーティ構成、一致。
リナと思われる少女、確認。
良樹は、低く言った。
「リシア」
「ええ」
「あそこから、あの魔石に近い魔力を感じるか」
リシアは目を細め、街道の先を見た。
風がわずかに揺れる。
魔力の流れをなぞるように、リシアの杖先がほんの少しだけ動いた。
やがて、リシアは静かに頷いた。
「……ええ」
「間違いないと思う」
良樹は次に、右側へ声を向けた。
「カレン」
「はい」
「どうだ」
カレンは、街道の先をじっと見ていた。
怖い場所を見る目。
危険そのものではなく、危険になり得るものを見る目。
その目が、少しだけ細くなる。
「同じ、です」
カレンは小さく言った。
「嫌な感じではないです」
「でも、怖さは感じます」
「同じ、です」
良樹は頷いた。
嫌悪ではない。
悪意でもない。
だが、怖い。
つまり、ロブの集落で見たものと同じ。
善意の顔をした、止め方のない怖さ。
良樹は最後に、左側を見る。
「クラリス」
「はい」
「準備は」
クラリスは、穏やかに微笑んでいた。
だが、その目はもう施療院の娘の目ではない。
良樹の身体を見る妻の目。
いざとなれば、相手も、良樹も、止める者の目だった。
「止める準備はできています」
クラリスは静かに言った。
「ご随意に、良樹くん」
良樹は、短く息を吐いた。
相手が悪人かどうかは、まだ分からない。
だが、危険かどうかは分かっている。
だから。
まず、止める。
良樹たちは、街の門の前で若者たちの前に立ちはだかった。
武器は抜いていない。
怒鳴ってもいない。
だが、通す気もなかった。
門番たちは後ろにいる。
リシア、カレン、クラリスは良樹の背後に控えている。
そして良樹は、若い男の手元を見ていた。
腰の袋。
そこから漏れる、薄い魔力の気配。
リシアが見た。
カレンが怖さを感じた。
クラリスが止める準備を終えた。
なら、あとは良樹の役目だった。
良樹は一歩前へ出た。
「その石」
低い声だった。
「一旦止めろ」
若い男――アルフの足が、そこで止まった。




