第91話 戻り線のない救済(挿絵有)
ギルドの奥部屋で、ガレスは一枚の報告書を机に置いた。
良樹は、その紙を見る前にガレスの顔を見た。
いつもの雑な座り方ではある。
だが、目だけは少し硬い。
「北東の山裾にある施療院から報告が来た」
ガレスは低く言った。
「近くに亜人の集落がある」
「そこで、妙な魔石が出回ってるらしい」
リシアが眉を寄せる。
「妙な魔石?」
「ああ」
「使うと、亜人が人間の姿になるそうだ」
部屋の空気が、わずかに止まった。
良樹は目を細める。
リシアは口を閉じた。
カレンは胸元で両手を握る。
クラリスだけが、わずかに指先を固くした。
良樹はそれに気づいた。
「クラリス?」
クラリスは、静かに顔を上げた。
「はい」
「知ってるのか」
「その施療院は」
「私の実家です」
今度こそ、全員が止まった。
リシアが振り向く。
「待ちなさい」
「クラリスの実家って、モンクの家系だって話じゃなかった?」
「はい」
「モンクの家系です」
カレンが、おずおずと手を上げる。
「あ、あの……でも、今、施療院と……」
「はい」
「施療院です」
良樹は、数秒だけ黙った。
「モンクの家系で、施療院なのか」
「はい」
「なんで言わなかった」
「聞かれていませんので」
良樹は天井を見た。
「出たな」
「クラリスの、聞かれていませんので」
リシアが額に手を当てる。
「あなた本当に、そういうところあるわよね」
クラリスは、まったく悪びれずに微笑んだ。
「回復魔法を使う者が、危険な場所へ行くために体術を学ぶ」
「そのための家です」
「ですから、施療院であり、モンクの家系です」
「矛盾はありません」
良樹は少し考えた。
「……いや、矛盾はねえ」
「矛盾はねえけど、情報の出し方がクラリスだな」
クラリスは、少しだけ目を伏せた。
いつもの清楚な微笑みはある。
だが、指先はまだ固い。
良樹はそれを見た。
「クラリス」
「はい」
「行くか」
クラリスは、一拍だけ遅れて頷いた。
「はい」
「行かせてください」
「これは、私が見なければならない話です」
ガレスは、報告書を良樹へ滑らせた。
「使った奴」
「使おうか迷ってる奴」
「親や周囲に使わせられそうな子」
「人間の姿になった後に体調不良を起こした奴」
「使わないことで責められ始めた奴」
ガレスは、短く息を吐いた。
「施療院に何人も駆け込んでる」
「向こうのフィルさんとクリスが診て、聞き取りをして、ギルドへ報告してきた」
「施療院だけで抱える話じゃないって判断だ」
良樹は報告書を見た。
人間になれる魔石。
その文字が、妙に軽く見えた。
軽い。
軽すぎる。
身体の形を変えるという話なのに。
その石は、まるで便利な道具のように書かれていた。
「分かった」
「行く」
良樹は立ち上がった。
「本対策の前に、まず現場確認だ」
◇
北東の山裾にある施療院は、思っていたより静かな場所にあった。
小さな礼拝堂。
施療室。
中庭。
井戸。
そして、裏手。
良樹は裏手を見て、足を止めた。
「……僧侶の実家だよな」
「はい」
「裏手に訓練場があるんだが」
「ありますね」
「ありますね、じゃねえ」
そこには、踏み固められた土の広場があった。
木製の打ち込み台。
丸太。
吊るされた砂袋。
足運びの跡。
明らかに、祈りだけで済む施設ではない。
カレンが、小さく呟く。
「訓練場……」
リシアも半眼になる。
「本当にモンクの家系なのね」
「はい」
「言いました」
「言われたけど、思ってたより実物が強いのよ」
クラリスは、どこか懐かしそうに訓練場を見た。
「父様と兄様に、よくここで稽古をつけていただきました」
良樹は、地面に残る打撃跡を見た。
深い。
そして古い。
「……お前の初対面時の動きの理由が、だいぶ分かってきた」
「護身術です」
「護身の出力じゃねえって、何度でも言うぞ」
その時だった。
「買いかぶってくれるな、クラリス」
豪快な声が、訓練場に響いた。
施療院の奥から、一人の男が出てきた。
大柄だった。
白い法衣を着ている。
だが、その法衣の下にある身体は、明らかに僧侶という言葉だけでは収まらない。
分厚い肩。
太い腕。
だが、無駄な重さはない。
歩き方に、妙な静かさがある。
「父様」
クラリスが頭を下げた。
男、フィルは、口元を大きく緩める。
「久しいな、クラリス」
「元気そうで何よりだ」
「はい」
フィルはクラリスを見て、次に良樹を見た。
「そして」
「お主が婿殿か」
良樹は背筋を伸ばした。
「上村良樹です」
「うむ」
「聞いておる」
フィルは、良樹を上から下まで見た。
値踏みではない。
だが、ただの挨拶でもない。
見ている。
姿勢。
呼吸。
足の置き方。
目の逃げ方。
肩の力み。
良樹は、自然と右手を軽く開いた。
「婿殿」
「はい」
「一手、よろしいかな」
リシアが即座に眉を上げる。
「一手?」
カレンも目を丸くした。
「えっ」
フィルは豪快に笑った。
「娘が見初めた婿殿を見定めるのも、父の務めでな」
「それには、これが手っ取り早い」
良樹はクラリスを見た。
クラリスは、申し訳なさそうに、けれど止める様子もなく言った。
「良樹くん」
「打撃盤を出してください」
「……正気か、クラリス」
「はい」
クラリスは頷いた。
「父様は、下手をしなくても」
「あの時の良樹くんですら、止められるかもしれない方です」
フィルは笑った。
「買いかぶってくれるな、クラリス。ハッハッハ」
「ただしまあ、まだ錆び付いてはおらんつもりだがな」
良樹は、もう一度クラリスを見た。
クラリスは静かに言う。
「ああいう方なのです」
「ごめんなさい、良樹くん」
「少しだけ、父様のわがままに付き合ってあげてくれませんか」
良樹は短く息を吐いた。
「……分かった」
その時、別の声がした。
「やぁ、久々じゃないか、クラリス」
礼拝堂の影から、白法衣を着た若い男が歩いてきた。
優男だった。
顔立ちは整っている。
柔らかく流した髪。
無駄のない姿勢。
歩き方に妙な優雅さがある。
だが、軽いだけではない。
良樹は、その男の足運びを見て、少しだけ目を細めた。
静かだ。
足音が薄い。
重心がぶれない。
「兄様」
クラリスが少しだけ表情を緩めた。
「結婚したそうだね。おめでとう」
「ありがとうございます」
「父上も泣いて喜んでおられたよ」
「男手ひとつで育てた娘が、立派になったとね」
「父様が泣いたのですか」
「ああ」
「その後、裏庭で丸太を三本ほど砕いていたけれど」
「父様らしいです」
良樹は、今の会話の後半を聞かなかったことにした。
クラリスの兄、クリスは、良樹を見た。
「で、あちらがクラリスの運命の相手かい?」
「はい」
「なるほど、良い目をしているね」
「で、こちらの可愛いお嬢さんお二人は?」
リシアが一歩前に出た。
「リシアよ」
「可愛いお嬢さん、なんて呼ばれ方をする歳でも立場でもないわ」
「良樹の妻」
「それから、クラリスの家族よ」
カレンも、少し緊張しながら頭を下げる。
「あ、あの……カレンです」
「私も、良樹さんの妻です」
「それから、クラリスの……家族、です」
クラリスは、静かに嬉しそうに微笑んだ。
「はい」
「私の、大切な家族です」
クリスは、胸に手を当てて軽く頭を下げた。
「おっと、僕としたことが」
「他の男性の妻を口説いてしまうところだったよ」
リシアが半眼になる。
「今の、口説いてた自覚はあるのね」
「美しい女性を褒めるのは礼儀だよ」
「ただし、相手の夫に喧嘩を売る趣味はない」
良樹は眉を寄せた。
「……苦手なタイプだ」
クリスは微笑む。
「それは残念だ」
「僕は君のことを、なかなか好ましく思っているんだけどね」
「そういうとこだぞ」
クリスは涼しい顔のまま、フィルを見た。
「父上」
「もう始めるのですか」
「うむ」
「相変わらず手が早い」
「見るべき時は、早い方がよかろう」
「否定はしません」
クリスは良樹へ視線を戻した。
「僕も、妹が見初めた男の力は見てみたいね」
良樹は顔をしかめた。
「……あんたもか」
「もちろん」
「兄だからね」
◇
良樹は訓練場の中央に立った。
フィルは、正面に立つ。
リシアとカレンは、少し離れたところで緊張した顔をしていた。
「ほ、本気で」
「生身で、良樹さんの打撃腕と一手交えられるつもりなんですか……?」
カレンの声は震えていた。
「良樹さんの打撃腕は、小型のモンスターくらいなら――」
「父様もそれくらいします」
「父上もそれくらいするよ」
クラリスとクリスが同時に言った。
カレンが固まる。
「……え」
良樹は、すぐに二人を見た。
「待て」
「それくらい、の基準がおかしい」
リシアも声を上げる。
「それに!」
「今はちゃんと制御できてるけど、暴走したことだってあるの!」
「いくら何でも危ないわよ!」
「父様もいつも暴走します」
「父上もいつも暴走するよ」
リシアの目が細くなった。
「……あなたたち」
「それ、止める側の言葉じゃないわよね?」
「止める側の言葉です」
「むしろ、止める側だからこその言葉だね」
兄妹は、妙に静かに頷いた。
良樹は、ゆっくりクラリスを見た。
「クラリス」
「はい」
「お前の家、想像の三倍くらい危ない」
「失礼ですね」
「父様は、とても優しい方です」
「優しい人間がいつも暴走してたまるか」
クリスが微笑む。
「優しいから暴走するんだよ、良樹君」
「いい話っぽくまとめるな」
フィルは、そんなやり取りを楽しげに見ていた。
「婿殿」
「はい」
「全力でよい」
良樹は、顔を上げた。
「いいんですか」
「本当に」
「なめるなよ、小僧――」
「いや、婿殿」
フィルは拳を構えた。
「お主の拳打程度、避けるにしても造作もないわ」
「だから、遠慮するな」
「撃て」
良樹は歯を噛んだ。
「……知りませんよ」
「知るために撃つのだろう」
「来い」
「娘が見初めた男の、全力を見せてみろ」
良樹は打撃盤を展開した。
胸の奥に盤が立ち上がる。
打撃腕。
出力制限。
戻り線。
停止条件。
暴走ではない。
憎悪でもない。
守れなかった怒りでもない。
自分で選び、自分で握り、自分で止め方を持った拳。
青白い魔力光をまとった腕が、良樹の右腕に重なるように顕現する。
半透明というより、魔力で形を与えられた異形の腕だった。
黒鉄の装甲にも似た輪郭。
その内側を、青い術式の光が血管のように走っている。
良樹は息を吐いた。
「いきます」
「来い」
打撃腕が、全開で撃ち出された。
空気が唸る。
青白い魔力をまとった異形の拳。
対するは、生身の拳。
二つの拳が、空中で激突した。
轟音。
土が跳ねる。
空気が揺れる。
リシアとカレンが思わず身構える。
だが。
拳は、静止していた。
良樹の打撃腕は、フィルの拳に止められていた。
押し返されているわけではない。
砕かれているわけでもない。
ただ、止まっている。
全開の拳が、そこから一寸も進まない。
「……マジかよ」
良樹の口から声が漏れた。
フィルは笑った。
「大マジだ」
「人の身だけでも極めれば、こうなれる」
「訳の分からぬ力に溺れなくとも、な」
良樹は息を忘れた。
訳の分からぬ力に溺れなくとも。
その言葉が、妙に重かった。
フィルは、自分だけを見ているのではない。
良樹は直感した。
この人は、亜人を人間にする魔石のことを知っている。
そのうえで、訳の分からぬ力を得た良樹が、同じように力へ溺れる側なのか、それとも止める側に立てる男なのかを見ている。
良樹は、一度暴走した。
だが、今は怖がっている。
止め方を見ている。
制御しようとしている。
フィルの拳は、それを受け止めていた。
「うむ」
「分かった」
打撃腕が消える。
良樹は荒く息を吐いた。
「……何がですか」
「婿殿は、力に溺れてはおらん」
「怖がっておる」
「怖がりながら、それでも握ろうとしておる」
「それは、褒められてるんですか」
「大いにな」
「訳の分からぬ力を得た者が、まず怖がれる」
「それは、それだけで得難い資質だ」
クリスが、柔らかく言葉を継ぐ。
「父上が言いたいのはね、良樹君」
「君は危ない力を持っている」
「だが、危ないと知っている」
「今このあたりで出回っている魔石は、危ない力なのに、危ないものとして扱われていない」
良樹はクリスを見た。
「……俺を試したのは、婿としてだけじゃないんですね」
フィルは頷いた。
「もちろんだ」
「娘を預ける父として」
「患者を預かる施療僧として」
「そして、この地で起きている異変をギルドへ報告した者として」
「お主を見る必要があった」
「結果は?」
「合格だ、婿殿」
良樹は、少しだけ力を抜いた。
悔しさより先に、安堵が来た。
自分の全開を止められる人間がいる。
それは、良樹にとって恐怖ではなかった。
少しだけ、救いだった。
◇
施療院の一室で、フィルは本題を切り出した。
「このあたりで、妙な魔石が出回っておる」
「人を救う力だ」
「便利な力だ」
「だが、私は少し嫌な臭いを感じておる」
良樹は頷いた。
「亜人が、人間になれる魔石ですね」
「そうだ」
クリスが言う。
「実際に、施療院へ何人も来ている」
「使った者」
「使おうとしている者」
「使わせられそうになっている子」
「そして、使わなかったことで責められ始めた者もいる」
クラリスは、手を膝の上で握った。
フィルは、短く息を吐く。
「人間になりたいと泣いた子を、私は見ておる」
「その願いを、愚かだとは言えん」
良樹は黙った。
「だが」
「治療と改変は違う」
「痛みを取り除くことと、その人の形を消すことは違う」
良樹は顔を上げた。
「戻せるんですか」
クリスは首を振る。
「今のところ、分からない」
良樹は、低く呟いた。
「……戻り線なしか」
その言葉に、リシアが静かに顔を上げた。
カレンは胸元で手を握る。
クラリスは目を伏せた。
フィルは、ゆっくり立ち上がった。
「私はここに残る」
「施療院を空けるわけにはいかん」
「集落へは、クリスと共に行くがよい」
クリスが頷いた。
「案内するよ」
「僕も現地で、改めて見ておきたい」
良樹は、クリスを見た。
「頼みます」
「構わないよ」
「君は、僕の弟になったのだからね」
良樹は少しだけ眉を寄せた。
「さらっと重いこと言うな」
「家族とは、そういうものだろう?」
クラリスは静かに微笑んだ。
「はい」
リシアはため息を吐いた。
「この家、言葉の圧まで強いわね」
◇
亜人の集落へ向かう途中、クリスは良樹の隣を歩いていた。
「分かるかい、良樹君」
「何がですか」
「たとえば、リザードのレディたちの鱗の輝きだ」
「光を受けて濡れた宝石のように艶めく、あの美しさ」
「そして、しなやかな舌が口元から踊るように――」
「……いや」
良樹は静かに首を振った。
「分からん」
「そうかい」
クリスは少しも傷ついていない顔で頷いた。
「では、たとえばオークのレディたちの健康的な肉体美と、意外なほど澄んだ瞳の美しさを――」
「……いや、すまねえ」
良樹はもう一度首を振った。
「それも分からん」
リシアが額に手を当てた。
「良樹が正直で助かったわ」
カレンは、真っ赤になりながらも困った顔をしている。
「あ、あの……褒めているのは、分かるんですけど……」
クラリスは、どこか懐かしそうに微笑んだ。
「兄様は昔から、ああなのです」
「昔からかよ」
クリスは肩をすくめた。
「昔から僕は、美しいものには美しいと言ってしまう癖があるのさ」
「種族も、姿も、耳も、牙も、鱗も、爪も、尾も」
「その人がその姿で生きてきたなら、そこには必ず美しさがある」
キザな声だった。
軽く聞こえる言い方だった。
だが。
良樹はそこで黙った。
クリスの目が、笑っていなかったからだ。
「理解してくれる人間の男は、あまりいないけれどね」
「……すまねえ」
良樹は少しだけ息を吐いた。
「俺にも理解は出来ねえ」
クリスは微笑んだまま良樹を見る。
良樹は続けた。
「でも」
「あんたがマジで言ってるのだけは、理解できる」
クリスの笑みが、ほんの少しだけ変わった。
軽いキザ男の笑みではない。
施療院で、多くの患者を見てきた男の顔だった。
「それで十分だよ、良樹君」
「理解できないものを、嘘で理解したふりをするより」
「理解できないまま、本気だけを認めてくれる方が」
「よほど信用できる」
良樹は顔をしかめた。
「……あんた、急にいい男になるな」
「普段からいい男のつもりだけれどね」
「そういうとこだぞ」
リシアは、深くため息を吐いた。
「この兄妹、切り替えが厄介すぎるわ」
クラリスは清楚に微笑んだ。
「褒め言葉ですか?」
「違うわよ」
◇
亜人の集落へ着いた瞬間だった。
「クリス様!」
最初に声を上げたのは、獣耳を持つ若い女だった。
続いて、鱗のある腕をした女。
小柄で尖った耳を持つ女。
大柄で、肩幅も腕も人間の女よりずっとたくましい女。
彼女たちは、まるで待っていたかのようにクリスへ駆け寄ってきた。
「やあ、みんな」
クリスは白い法衣の裾を揺らし、柔らかく微笑んだ。
「今日も一段と美しくて、僕の心臓が耐えられるか心配だよ」
良樹の足が止まった。
リシアも止まった。
カレンも、目を丸くして止まった。
クラリスだけが静かに微笑んでいた。
「兄様ですので」
「説明になってねえ」
クリスは、集まってきた女たちを一人ずつ見ていく。
「ミラ、髪飾りにする花を変えたのかい?」
「山裾の薄紫だね。君の耳の色によく似合っている」
獣耳の女が、嬉しそうに耳を揺らした。
「気づいてくださったんですか!」
「もちろん」
「君がいつもより少しだけ胸を張って歩いていたからね」
「見落とす方が失礼だ」
リシアが無言で額に手を当てる。
「……本当にやるのね」
クリスは次に、鱗のある腕をした女へ視線を向けた。
「サーラ」
「鱗の手入れに使う油を変えたのかい?」
「光の返しがいつもより柔らかい」
「まるで川面に月が落ちたようだ」
「分かりますか!」
「昨日、薬草油に少しだけ香りを混ぜてみたんです」
「とても良い」
「けれど、少し乾きが早そうだ」
「夕方には塗り直した方がいい。ひび割れる前にね」
「はい!」
カレンが小さな声で言った。
「あ、あの……褒めているだけじゃなくて、ちゃんと見てます……」
「ああ」
良樹は渋い顔で頷いた。
「鱗の状態まで見てやがる」
クリスはさらに、大柄な女の前で足を止める。
「ロナ」
「今日は足取りが軽いね」
「膝の痛みは引いたのかな」
「はい、クリス様」
「この前いただいた湿布が効きました」
「それは良かった」
「それと、その新しい帯も似合っている」
「君の腰の強さがよく映える」
大柄な女は、照れたように笑った。
その笑みは、少しだけ少女のようだった。
良樹は、その顔を見て、何も言えなくなった。
キザだ。
間違いなくキザだ。
聞いているこちらが背中を掻きたくなるほどキザだ。
だが。
誰も笑っていなかった。
クリスに褒められた女たちは、嬉しそうにしていた。
それは、珍しい見世物を見る顔ではない。
からかわれている顔でもない。
人間の男に物珍しげに扱われている顔でもない。
自分を見てもらえた者の顔だった。
「……マジでやってるんだな」
良樹が呟く。
クリスは、ちらりと良樹を見た。
「言っただろう」
「美しいものには、美しいと言ってしまう癖があると」
「いや」
「これは癖っていうより、日課だろ」
「礼儀だよ」
「もっと重い言葉で来たな」
良樹は、集落の奥へ視線を向けた。
そこには、亜人の男たちがいた。
獣耳を持つ男。
鱗のある腕を組んだ男。
大柄な体で、じっとこちらを見ている男。
全員が、クリスを見ていた。
敵意ではない。
殺意でもない。
ただ、顔に書いてあった。
爆発しろ、と。
「……あそこの亜人の男たちが、爆発しろって顔で見てるぞ」
良樹が低く言う。
クリスは、女性たちへ微笑みかけたまま、涼しい顔で答えた。
「僕は男にも偏見はないよ」
「なら、あっちも褒めてやれよ」
「もちろん、彼らにもそれぞれ美点はある」
「働く背中、鍛えた腕、家族を守る目」
「どれも尊いものだ」
「じゃあ」
良樹が続きを促す。
クリスは、当然のように言った。
「だが、まず褒めるのは美しい女性からに決まっているだろう?」
「決まってねえよ」
即答だった。
リシアが額に手を当てる。
「台無しね」
「さっきまで少し感心してたのに」
カレンは困ったように笑った。
「あ、あの……でも、男の人たちのこともちゃんと見てはいるんですね」
「見てはいるんだろうな」
良樹は渋い顔で頷いた。
「優先順位が終わってるだけで」
その時、亜人の男の一人が近づいてきた。
鱗のある腕を組んだ、体格のいい男だった。
「……で、クリスさんよ」
「今日は何の用だい」
「それに、ツレの人間たち四人」
クリスは、ようやく女たちから少し離れた。
「ああ、紹介するよ」
「みんなは初めてかな」
「僕の妹のクラリスだ」
クラリスは一歩前へ出て、静かに頭を下げた。
「クラリスです」
「兄がお世話になっています」
男たちが少しだけ表情を緩めた。
「へえ」
「クリスさんの妹さんか」
「似てる……か?」
「いや、雰囲気はあるな」
クリスは微笑む。
「そして、こちらが良樹君」
「この前、正式に英雄となった男だ」
男たちの視線が、良樹へ向く。
人間の男。
英雄。
異世界から来たという噂の男。
警戒。
興味。
値踏み。
そこまでは、良樹にも分かった。
クリスは、そのまま続ける。
「それから、リシアちゃん」
「カレンちゃん」
「そして妹のクラリス」
リシアが軽く顎を引く。
「リシアよ」
カレンは少し緊張しながら頭を下げた。
「カレンです」
クリスは、実に自然な調子で締めた。
「この前、良樹君はこの三人を娶ったのさ」
空気が止まった。
亜人の男たちの視線が、良樹へ刺さる。
良樹は顔をしかめた。
「……クリスさん」
「何かな」
「あんた、今わざと順番を作っただろ」
「紹介は正確であるべきだよ」
「正確すぎるんだよ」
亜人の男たちは、良樹を見ていた。
その顔には、もう「人間のくせに」はなかった。
なかったが。
爆発しろ。
爆発しろ。
爆発しろ。
むしろ、先ほどクリスへ向いていたものよりも濃い。
リシアが半眼で良樹を見た。
「良樹」
「あんた、完全に嫉妬対象になったわね」
「俺が悪いのか、これ」
カレンは顔を赤くしながら、小さく言った。
「あ、あの……事実では、あります……」
「事実なのが一番まずいんだよ」
クラリスは清楚に微笑んだ。
「良樹くんは、私たち三人の夫ですので」
「追撃するな」
亜人の男の一人が、低く呟いた。
「英雄で」
「人間で」
「嫁が三人か」
別の男が続ける。
「しかも全員美人だ」
さらに別の男が、ぽつりと言った。
「爆発しろ」
良樹は空を見上げた。
「聞こえてるぞ」
鱗のある男が、良樹へ向けて顎をしゃくった。
「別に、人間だからどうこう言う気はねえよ」
「クリスさんが連れてきたってことは、話は聞ける相手なんだろ」
そこで男は、リシア、カレン、クラリスを順に見た。
そして、もう一度良樹を見る。
「ただまあ」
「爆発はしろ」
「正直だな」
「男だからな」
良樹は、少しだけ口元を引きつらせた。
「そこは否定しねえ」
クリスは満足そうに頷いた。
「うん」
「良い空気だ」
「どこがだ」
「種族ではなく、男として妬まれている」
「これはなかなか健全なことだよ」
リシアが額に手を当てた。
「この人、本当に厄介ね」
「言ってることが間違ってないのが腹立つわ」
良樹は、亜人の男たちを見た。
彼らはクリスを、人間の男として怒っていない。
良樹も同じだ。
嫉妬はある。
爆発しろとは思われている。
だが、そこに「人間のくせに」はなかった。
良樹は少し遅れて、それに気づいた。
クリスは、この集落で勝っている。
何にかは分からない。
だが、たぶん一番難しいところに。
「……あんた、勝ってるな」
クリスがこちらを見る。
「何にだい?」
「分からねえ」
「でも、たぶん一番難しいところにだ」
クリスは少しだけ笑った。
「そうか」
「なら、少しはこの癖も役に立っているのかな」
「癖で済ませるには濃すぎる」
「礼儀だよ」
「もっと濃くなったな」
◇
良樹は、亜人の男たちへ向き直った。
「いったん、爆発は忘れてくれ」
男たちは、まだ少しだけ不満そうな顔をしていた。
爆発しろ。
その空気は残っている。
だが、良樹の声が変わったことで、男たちも自然と口を閉じた。
「今日は、ここいらで出回ってるっていう魔石の調査に来た」
「亜人を、人の姿に変える魔石」
「そう聞いてる」
その言葉で、空気が変わった。
さっきまでクリスを囲んでいた女たちの笑顔が消える。
亜人の男たちの目も、少し鋭くなる。
良樹は、それを見てから続けた。
「先に言っておく」
「俺は元々、よそ者だ」
男たちの一人が眉を寄せる。
「この土地の話じゃねえ」
「この世界の話だ」
良樹は、自分の胸元を軽く叩いた。
「だから、今お前らがさらされている状況は見る」
「この石が危ないかどうかも見る」
「誰が何をして、何が起きてるかも調べる」
そこで、一度言葉を切った。
「でも」
「お前らが今まで何を言われてきたのか」
「何を我慢してきたのか」
「どんな時に腹が立って」
「どんな時に諦めて」
「どんな時に、人間になれたらと思ったのか」
「その感情の経緯までは、俺には分からねえ」
亜人たちは黙っていた。
良樹は、頭を下げた。
「すまん」
リシアも、カレンも、クラリスも何も言わなかった。
クリスも、黙って良樹を見ていた。
「分かった顔をする気はねえ」
「お前らの苦しみを、俺が勝手に名前をつけて整理する気もねえ」
「だけど」
良樹は、ゆっくり顔を上げた。
「俺は、英雄としてここへ来た」
「……いや、違うな」
「最初は、そうだった」
「ギルドから調査を頼まれた」
「危ない魔石が出回ってるかもしれねえ」
「だから、英雄として来た」
そこで、良樹は少しだけクリスを見た。
亜人の女たちを、当たり前のように褒めていた男。
亜人の男たちから、普通に嫉妬されていた男。
そして、集落の人々を見た。
耳。
尾。
鱗。
角。
牙。
大きな体。
小さな体。
自分の世界では、物語の中にしかいなかった形。
「けど、クリスさんを見て」
「ここの皆を見て」
「なんて言えばいいんだろうな」
良樹は、少しだけ言葉を探した。
「うまく言えねえけど」
「これは、ただ危ない石を取り上げれば終わる話じゃねえって思った」
鱗のある男が、低く言った。
「……あんた、異世界から来たのか」
良樹は頷いた。
「ああ」
「多分だけどな」
「多分?」
「俺にも全部は分からねえ」
「気づいたらこの世界にいた」
「帰り方も分からねえ」
「ただ、俺のいた世界には、お前らみたいな亜人はいなかった」
男たちが黙る。
良樹は続けた。
「正直に言う」
「俺は、お前らみたいな存在を見るのは、ほとんど初めてだ」
「俺の世界では、あんたらみたいな存在は物語の中の存在だった」
亜人の女の一人が、少しだけ身を固くした。
良樹は、それに気づいた。
「だからこそ、言い方を間違えるかもしれねえ」
「知らねえことを、知らねえまま踏むかもしれねえ」
「その時は止めてくれ」
「怒ってくれていい」
鱗のある男が、じっと良樹を見る。
「……珍しいとは思わねえのか」
「思う」
良樹は即答した。
リシアが、少しだけ目を伏せる。
カレンが息を呑む。
良樹はごまかさなかった。
「耳も、尾も、鱗も、牙も」
「俺の世界にはなかった」
「だから珍しいとは思う」
「でも」
良樹は、男の目を見た。
「珍しいから、下に見る理由にはならねえ」
「珍しいから、勝手に触っていい理由にもならねえ」
「珍しいから、笑っていい理由にもならねえ」
「珍しいから、人間の形に直してやる、なんて言っていい理由にもならねえ」
集落が、静かになった。
良樹は続ける。
「俺には、あんたらの姿が普通に見えるわけじゃねえ」
「初めて見るものだ」
「でも」
「初めて見るものを、壊していいとは思わねえ」
クリスの表情が、ほんの少しだけ変わった。
良樹は、自分の手を見た。
「俺は現場屋だ」
「知らねえ機械を見た時に、いきなり分解しねえ」
「まず見る」
「聞く」
「触っていいか確認する」
「動かすなら、止め方を見る」
「元に戻せるかを見る」
良樹は、亜人たちの顔を見回した。
「この石は、それをしてねえ気がする」
「人の姿になる」
「それは、救いかもしれねえ」
「そう思う奴がいることも、否定しねえ」
そこで、声を少し落とした。
「でも」
「戻せるのか」
「身体は壊れてねえのか」
「魔力の流れは変わってねえのか」
「本人は本当に選べたのか」
「人間にならなきゃ飯が食えねえ場所で、人間になれる石を渡されたなら」
「それは、本当に選択なのか」
亜人の男たちは、何も言わなかった。
さっきまでの「爆発しろ」という空気は、もう薄れていた。
良樹は、静かに言った。
「俺は、分かったふりはしねえ」
「だから、聞かせてくれ」
「この石を使いたい奴がいるなら、その理由を」
「使いたくない奴がいるなら、その怖さを」
「使わせようとしてる奴がいるなら、その話を」
「使った奴がいるなら、何が起きたかを」
そして、最後に言った。
「石を取り上げて終わりにはしねえ」
「それじゃ、たぶん何も解決しねえ」
「お前らが、その姿のまま飯を食える道を考える」
「俺にできることは少ねえかもしれねえ」
「でも、そこから逃げる気はねえ」
鱗のある男は、長く黙っていた。
やがて、腕を組み直す。
「……異世界人ってのは、変なことを言うんだな」
「よく言われる」
「クリスさんとは別方向に面倒くせえ」
「それも、最近よく言われる」
クリスが微笑んだ。
「心外だな」
「僕は面倒ではなく、誠実なだけだよ」
「クリスさんは黙っててくれ」
「話がややこしくなる」
「残念だ」
良樹は少しだけ息を吐いた。
「名前を聞いてもいいか」
「ロブだ」
「ロブ」
「ああ」
ロブは、集落の奥へ視線を向けた。
「使った奴がいる」
「使おうとしてる奴もいる」
「使わせようとしてる親もいる」
「使わねえことで、責められてる奴もいる」
良樹の目が細くなった。
「会わせてくれるか」
ロブは、良樹を見た。
そして、リシアを。
カレンを。
クラリスを。
最後に、クリスを見た。
「クリスさんが連れてきた相手だ」
「話くらいは通してやる」
少し間を置いて、ロブは付け足した。
「ただし」
「何だ」
「嫁三人については、やっぱり爆発しろ」
「まだ残ってたか」
「そこは別問題だ」
良樹は空を見上げた。
「……分かった」
「そこは甘んじて受ける」
◇
クリスは、そこで一歩前へ出た。
さっきまでの柔らかい笑みは、もうなかった。
白い法衣を着た優男。
女性を褒めることを礼儀と言い切るキザな男。
だが今、そこに立っていたのは違った。
施療院で患者を見てきた者。
父と共に、この問題を抱え込んできた者。
そして、クラリスの兄だった。
「ロブ君」
クリスは静かに呼んだ。
「手を取らせてしまって悪いのだけど」
「良樹君――」
そこで一度、言葉を止める。
クリスは良樹を見た。
そして、言い直した。
「いや」
「僕の弟に、協力してやってくれないだろうか」
良樹は、少しだけ目を動かした。
弟。
その言葉を、クリスは軽く言わなかった。
「僕も、この問題の当事者である人間だ」
「施療院で、この集落の皆を診てきた」
「父上と共に、話も聞いてきた」
「けれど、いまだに解決できていない」
クリスの声は静かだった。
「言葉をかけることはできる」
「傷を診ることもできる」
「怒ることも、止めることもできる」
「でも」
「この集落の皆が、その姿のまま明日を食える道までは、まだ作れていない」
ロブは黙ってクリスを見ていた。
クリスは続ける。
「けれど――」
「もしかしたら、この男なら」
「そういう期待があるんだ」
ロブの目が、少し細くなる。
「その根拠は」
短い問いだった。
クリスは、少しだけ口元を緩めた。
ただし、キザな笑みではなかった。
「僕の弟は、父上と初見で全力で拳をぶつけ合って」
「一歩も引かなかった」
良樹が顔をしかめる。
「根拠それかよ」
「直感さ」
「余計にひどいな」
だが、ロブの反応は違った。
目が見開かれる。
「なん……だと……」
「あのフィルさんとか」
「ああ、そうさ」
クリスは頷いた。
「父上も、良樹君を認めたよ」
集落の空気が、少し変わった。
フィル。
その名前は、この集落で軽く扱われるものではなかった。
施療院の主。
怪我人を診る者。
暴れる患者を押さえる者。
魔物が出れば患者を抱えて退く者。
そして、必要なら拳で道を開ける者。
ロブは、しばらく良樹を見ていた。
やがて、腕を組み直す。
「フィルさんが認めた男なら、無碍にはできねえわな」
良樹は何も言わなかった。
言えなかった、という方が近い。
自分が何をしたか。
何を見られたか。
何を認められたのか。
まだ、うまく掴めていない。
ロブは顎をしゃくった。
「こっちだ、良樹」
「付いてこいよ」
良樹は、一度だけ頭を下げた。
「すまねえ」
「恩に着る」
ロブは、少しだけ眉を上げた。
「こんなことで恩に着る、か」
「変な奴だな、お前も」
良樹は、横にいるクリスをちらりと見た。
それから、施療院で見たフィルの拳を思い出す。
「……フィルさんとクリスさんと同じ枠に入れられると、複雑だ」
ロブは、ほんの少しだけ口元を動かした。
「安心しろ」
「あそこまで濃くはねえ」
クリスが、少しだけ不満そうに眉を上げる。
「心外だな」
「僕は至って自然体だよ」
良樹とロブは、ほぼ同時に言った。
「「それが問題なんだよ」」
一拍置いて、リシアが額に手を当てた。
「妙なところで息が合ったわね」
カレンは、少しだけほっとしたように笑った。
クラリスは、静かに微笑んでいた。
「良樹くんも、兄様たちに少し慣れてきましたね」
「慣れたくはねえな」
良樹はそう言いながら、ロブの後について歩き出した。
◇
村の奥には、人間がいた。
いや。
人間の姿をした、元亜人だった。
耳はない。
尾もない。
鱗もない。
牙もない。
角もない。
見た目だけなら、町にいる人間と変わらない。
けれど、その者たちは、亜人の集落の奥に座っていた。
人間の姿で。
帰ってきていた。
「……あの人たちは」
良樹が低く言うと、ロブは苦い顔をした。
「使ったんだよ」
「人間になれるって石をな」
良樹は黙った。
「町へ行った」
「仕事を探した」
「最初は、うまくいったらしい」
ロブの声が少し低くなる。
「でも、ばれた」
「元亜人だってことが、か」
「ああ」
人間の姿になった。
耳も、尾も、鱗も消えた。
声も、歩き方も、少し変わった。
それでも、完全には消えなかった。
癖。
言葉。
食べ方。
水の飲み方。
眠る時の姿勢。
驚いた時に動くはずのない耳を押さえようとする仕草。
尾がないのに、尾を避けるように座る動き。
どこかで、ばれた。
「それで、追い出された」
ロブは言った。
「人間の町からも」
「亜人の自分からもな」
良樹は、奥にいる者たちを見た。
人間の姿。
だが、そこにいるのは人間になれた者ではなかった。
亜人でいられなくなった者だった。
リシアが、小さく息を呑む。
カレンは、胸元で手を握った。
クラリスは、その者たちの肩、首、背中、手の震えを見ていた。
クリスは何も言わなかった。
良樹は、低く呟いた。
「……戻れないのか」
ロブは答えなかった。
代わりに、クリスが静かに言った。
「今のところは、ね」
良樹は奥歯を噛んだ。
「人間になれば救われる」
「そう言われたのか」
「たぶんな」
「で」
「人間になったら、元亜人だって追い出された」
「ああ」
「戻ってきたら」
「今度は、亜人の姿じゃない」
「……ああ」
良樹は目を細めた。
「最悪じゃねえか」
誰も、否定しなかった。
ロブは、村の奥を見たまま言った。
「俺たちは」
「別に、そこまで気にしちゃいない」
良樹は黙って聞いていた。
「人間になれたらって気持ちも、分かる」
「ここの暮らしが嫌だったわけじゃねえ」
「でも、人間の町へ行けば仕事がある」
「宿にも泊まれる」
「店でも、露骨に嫌な顔をされねえ」
「そう思ったなら、止めきれねえ」
ロブの手が、強く握られる。
「けどな」
「あいつらが、気にしちまってるんだ」
声が、少しだけ揺れた。
「あいつらは、もう自分を亜人だと思っていいのかも分からねえ」
「かといって、人間の町じゃ元亜人だってばれて追い出された」
「帰ってきたのに、戻れてねえ」
リシアが唇を引き結んだ。
カレンは、胸元で両手を握った。
クラリスは、元亜人たちの姿勢と呼吸を見ている。
クリスは、何も言わなかった。
ロブは、奥にいる一人を見た。
「あそこには、俺の幼馴染だっているんだ」
良樹の目が、少しだけ細くなる。
「一緒に人間になろうって」
「そう誘われたよ」
ロブは、小さく笑った。
笑おうとして、失敗したような声だった。
「俺は、断った」
「単に、俺は今の自分でもよかったからだ」
そこで、声が崩れた。
「でも」
「あいつらは違った」
喉の奥で、何かが詰まる。
「きっと、苦しんでた」
「俺が思ってたより、ずっと前から」
「人間になりたいって思うくらい」
「この姿でいるのが、しんどかったんだ」
ロブの声に、涙が混じった。
「俺は、それに気づいてやれなかった」
誰も、口を挟まなかった。
「毎日一緒にいた」
「子供の頃から、同じ川で遊んで」
「同じ木に登って」
「同じことで怒られて」
「一緒に町へ行って、嫌な顔をされて」
「俺は腹を立てて」
「あいつらは笑ってた」
ロブは、奥歯を噛んだ。
「笑ってたんだよ」
「だから、大丈夫だと思ってた」
良樹の表情が、少しだけ苦くなる。
大丈夫そうに見える。
笑っている。
自分より気にしていないように見える。
それが本当とは限らない。
「帰ってきたあいつらに」
「俺は、何もしてやれねえ」
ロブは、声を絞り出した。
「亜人のままでいいって言ったら」
「人間になったことを責めてるみてえになる」
「人間になれてよかったなって言ったら」
「追い出されたあいつらに何言ってんだって話になる」
「戻ってこいって言っても」
「あいつらはもう、戻れねえ」
涙声だった。
「どうして」
「どうして、こんなことになったんだよ……」
その場に、重い沈黙が落ちた。
良樹は、すぐには答えなかった。
答えられる話ではなかった。
軽い慰めも。
正論も。
誰かが悪いという断罪も。
今のロブには、どれも違う。
良樹は、ただ一度、短く息を吐いた。
「……そうか」
それだけ言った。
ロブが、涙を拭わないまま良樹を見る。
「それだけかよ」
「ああ」
「今、俺がそれ以上言ったら、たぶん嘘になる」
良樹は、奥にいる元亜人たちを見た。
「俺には、まだ何も分かってねえ」
「お前がどれだけ悔しいかも」
「あいつらがどれだけ苦しかったかも」
「分かった顔で言える言葉はねえ」
そして、低く続けた。
「ただ」
「何もしてやれねえ、で終わらせる気もねえ」
ロブの目が揺れる。
良樹は言った。
「まず見る」
「聞く」
「身体を診る」
「魔石を調べる」
「戻せるかを見る」
「戻せねえなら、今の身体で生きる方法を見る」
「それと同時に」
一拍。
「元の姿のままでも飯が食える道を探す」
ロブは、何も言わなかった。
良樹は続ける。
「戻れるなら、戻れるようにする」
「戻れないなら、戻れない奴を置き去りにしねえ」
「使いたい奴には、何が起きるか全部見せる」
「使わない奴が責められないようにする」
「使った奴が、帰ってきたことで責められないようにする」
言ってから、良樹は少しだけ苦い顔をした。
「……言うだけなら簡単だな」
クリスが静かに言った。
「でも、言わなければ始まらない」
良樹は頷いた。
「ああ」
そこで、ロブはさらに口を開いた。
「それと」
ロブは、一度言葉を止めた。
喉が詰まったようだった。
「あと」
「俺の妹が」
声が、少しだけ掠れた。
「その男に付いていった」
良樹の目が細くなる。
リシアが息を止めた。
カレンが胸元で手を握る。
クラリスの表情から、柔らかさが消える。
クリスも、何も言わなかった。
ロブは続けた。
「人間の姿になれたから」
「助けられたから」
「それで、好きになったって」
言葉を吐き出すたびに、声が苦くなる。
「あいつはそう言った」
「その男が集落を出ていく時に」
「一緒に行くって」
「私も人間の町で生きるんだって」
「もう戻らないって」
ロブは拳を握った。
「止めたよ」
「当たり前だろ」
「妹だぞ」
声が震える。
「でも、あいつは言った」
「兄さんには分からないって」
「兄さんは、そのままでよかったんでしょって」
「私は違うって」
「私は、ずっと嫌だったって」
良樹は何も言えなかった。
その言葉は、止める側にとって一番きつい。
お前には分からない。
その一言で、兄としての手が届かなくなる。
「俺は」
「何も言い返せなかった」
ロブの声が、涙に濡れた。
「だって、そうなんだ」
「俺は、今の自分でよかった」
「耳も、牙も、この身体も」
「嫌いじゃなかった」
「人間になりたいなんて、思わなかった」
一拍。
「でも、妹は違った」
良樹は、静かに聞いていた。
「俺は兄貴なのに」
「妹が、ずっと自分の姿を嫌ってたことも知らなかった」
「町へ行くたびに傷ついてたことも」
「人間の女みたいに歩きたいって思ってたことも」
「鏡を見るのが嫌だったことも」
ロブは奥歯を噛んだ。
「知らなかったんだよ」
その声は、怒りではなかった。
悔しさだった。
「その男は、妹に石を渡した」
「妹は人間の姿になった」
「泣いて喜んでた」
「助けてくれてありがとうって」
「あなたのおかげで、私は普通になれたって」
良樹の手が、わずかに動いた。
普通。
その言葉は重かった。
「それで、好きになったって」
「付いていくって」
「俺のところには、戻らないって」
ロブは顔を歪めた。
「俺は」
「あの男を恨めばいいのか」
「妹を止められなかった自分を恨めばいいのか」
「妹がそんなに苦しんでたことに気づかなかった自分を恨めばいいのか」
「分からねえんだ」
声が落ちる。
「でも」
「連れていかれたんだよ」
「妹が」
「リナが」
その場に、重い沈黙が落ちた。
良樹は、しばらくしてから低く言った。
「……その男は」
「リナを、無理に連れていったのか」
ロブは首を振った。
「違う」
「あいつは、自分で行った」
「そうか」
「だから余計に」
「どうしていいか分かんねえんだよ」
良樹は目を伏せた。
そこが最悪だった。
攫われたなら、奪い返す話になる。
騙されたなら、暴く話になる。
脅されたなら、助ける話になる。
だが、本人が救われたと思い、好きになり、自分で付いていった。
だから、単純に悪人扱いできない。
でも、それでも。
良樹は手の中に渡された魔石を見た。
「……きついな」
ロブが、良樹を見る。
「それだけかよ」
「ああ」
「今は、それ以上の言葉が出ねえ」
良樹は、ゆっくり息を吐いた。
「その男が何をしたのか」
「リナが何を選んだのか」
「その選択が、本当に選択だったのか」
「そこを見ないまま、俺が何か言うのは違う」
ロブは黙った。
良樹は続けた。
「ただ」
「会う必要はある」
声が、少しだけ低くなる。
「その男にも」
「リナにも」
クリスが静かに頷いた。
「そうだね」
良樹はロブを見る。
「約束はできねえ」
「連れ戻すなんて、簡単には言えねえ」
「リナが自分で選んだと言うなら、その言葉も聞かなきゃならねえ」
ロブの顔が苦く歪む。
「分かってる」
「でも」
「その選択をさせた状況は、見る」
「その男が何を見て、何を見てなかったのかも見る」
「リナが本当に救われたのかも見る」
良樹の声が、少しだけ硬くなった。
「もし」
「人間になれた嬉しさだけを救済だと思って」
「その後の戻り線も」
「帰る場所も」
「元の姿の苦しみも」
「家族の痛みも」
「全部見ないまま連れていったなら」
一拍。
「それは、止める」
ロブは、しばらく良樹を見ていた。
「……止められるのか」
「分からねえ」
「分からねえのかよ」
「分からねえ」
「でも、止め方を探す」
良樹は魔石を握った。
「俺は、そういう仕事をしてきた」
リシアが小さく息を吐く。
「良樹」
「何だ」
「今の顔、かなり怒ってるわよ」
「そうか」
「ええ」
良樹は、少しだけ目を伏せた。
「怒ってはいる」
「でも、怒りで決めねえ」
クラリスが、静かに良樹を見た。
「はい」
「それでいいと思います」
カレンは、震える声で言った。
「リナは」
「怖くなかったんでしょうか」
ロブが、カレンを見る。
カレンは続けた。
「人間になれることが嬉しくて」
「好きになって」
「付いていったとしても」
「知らない町へ行くのは、怖かったと思います」
ロブは、何も言えなかった。
カレンは胸元で手を握る。
「だから」
「会えたら、聞きたいです」
「怖くなかったのか」
「今も、怖くないのか」
良樹は頷いた。
「ああ」
「そこも聞く」
クリスは、少しだけ目を伏せた。
「ロブ君」
「君の妹を、僕も見落としていたのかもしれない」
「クリスさんが悪いわけじゃねえ」
「それでもだよ」
「僕は美しいものを美しいと言う」
「でも、その言葉が届いていなかったのなら」
「僕もまだ、足りなかった」
クリスは、ロブを見ていた。
同じ妹を持つ者として。
だが、分かる、とは言えなかった。
クラリスはここにいる。
良樹の隣にいて、家族になり、自分の意思で幸せを選んだ。
一方で、ロブの妹は集落を出ていった。
人間の姿になり、自分を救ってくれた男に恋をして、兄の手の届かない場所へ行った。
同じ妹を持つ兄。
それでも、その痛みを同じものだと言うのは傲慢だった。
クリスは、軽い慰めを飲み込んだ。
「気持ちが分かる、とは言えない」
ロブはクリスを見た。
「僕の妹は、ここにいる」
「幸いにも、僕の目の届くところで笑っている」
「だから、君と同じ痛みを知っているとは言えない」
クラリスが、わずかに目を伏せた。
クリスは、ロブから視線を逸らさなかった。
「けれど」
「妹を持つ兄として」
「今、僕が何をすべきかは考えている」
ロブの喉が動いた。
「……何をするってんだ」
「まず、リナを勝手に哀れまない」
「勝手に被害者と決めつけない」
「勝手に連れ戻すとも言わない」
良樹が、クリスを見た。
クリスは静かに続ける。
「そのうえで」
「彼女が本当に選べたのかを確かめる」
「彼女が本当に救われたのかを聞く」
「彼女がもう帰れないと思っているなら」
「帰れる道があることを、誰かが伝えなければならない」
ロブの目が揺れた。
クリスは、少しだけ息を吐いた。
「それが、今の僕にできることだ」
その横で、良樹が低く言った。
「戻り線だな」
「ああ」
クリスは頷いた。
「人の心にも、戻り線は要るのだろうね」
◇
診断は、長くはかけなかった。
いや、長くかけられる話ではなかった。
クラリスは一人ずつ、触れてよいかを確認してから脈と呼吸、骨格の動き、平衡感覚を見た。
リシアは魔力の流れを見た。
良樹は、本人たちが話せる範囲で、使った時の感覚と、その後の変化を聞いた。
痛みは少ない。
だが、違和感は多い。
耳が消えた者は、音の距離を掴みにくくなっていた。
尾が消えた者は、歩く時に重心がわずかに遅れていた。
鱗が消えた者は、肌の乾きに戸惑っていた。
牙が消えた者は、食べ物の噛み方を変えられずにいた。
人間の姿にはなっている。
だが、人間として暮らす身体の使い方までは、誰も渡していない。
クラリスは静かに言った。
「治療ではありません」
「身体の形を、別の形へ合わせているだけです」
リシアも、魔石を見ながら眉を寄せた。
「術式が軽すぎる」
「こんなもの、生活を変える道具みたいに渡していいものじゃないわ」
良樹は、魔石を手の上で転がした。
「これを置いていった奴の話を聞かせてくれ」
ロブは、少しだけ目を伏せた。
「若い連中だった」
「人間の冒険者……いや、冒険者かどうかは分からねえ」
「妙に明るくて」
「悪い奴らには見えなかった」
良樹は眉を寄せる。
「悪い奴らには見えなかった?」
「ああ」
「少なくとも、俺にはな」
「困ってるなら助けたい、って顔をしてた」
「亜人差別なんて間違ってる」
「こんな石があれば、人間の町でも暮らせる」
「そんなことを言ってたらしい」
リシアの顔が険しくなる。
「……善意ね」
「たぶんな」
良樹は、魔石を見下ろした。
「善意で、戻り線のない改変をばら撒いたわけか」
カレンが小さく言う。
「悪意じゃないのが、怖いです」
良樹は頷いた。
「ああ」
「悪意なら止めやすい」
「これは、たぶん助けたかったんだ」
そして、声を低くした。
「でも」
「助けるってのは、相手を消していい理由じゃねえ」
良樹は、魔石を握った。
「亜人が差別されてる」
「なら、人間になれるようにすればいい」
言葉だけなら、分かりやすい。
救いに見える。
目の前の苦しみを、すぐ取り除けるように見える。
だが。
「それは」
「亜人のまま生きられる場所を作ることから、逃げてる」
良樹は、元亜人たちを見た。
「人間になれば町で働ける」
「でも、元亜人だとばれたら追い出される」
「戻ろうとしても、元の姿には戻れない」
「だったらこれは、出口じゃねえ」
「片道の穴だ」
クリスが、静かに頷いた。
「僕も、そう思う」
良樹はクリスを見る。
「これを作った奴が悪人だとは、まだ決めねえ」
「たぶん、助けたかったんだろう」
「でもな」
魔石を持つ手に、少しだけ力が入った。
「できることと」
「やっていいことは、違う」
リシアが魔石を覗き込んだ。
「術式そのものは、かなり高度よ」
「少なくとも、普通の付与師が簡単に作れるものじゃない」
「前の市場の付与品」
「井戸の異常」
「今回の魔石」
良樹は、言葉を並べた。
「便利で」
「分かりやすくて」
「人を助ける顔をしていて」
「止め方が甘い」
カレンが、小さく震えた。
「同じ人たち、でしょうか」
「まだ決めつけねえ」
「でも、手触りは似てる」
良樹は、魔石を見た。
「若い一行、か」
クリスが言う。
「彼らは、次も同じことをするかもしれない」
「ああ」
「止める必要がある」
リシアが顔を上げる。
「倒すの?」
良樹は首を振った。
「まず止める」
「話を聞く」
「何を見て、何を見ていなかったのか確認する」
「それでも止まらねえなら、その時は別だ」
クラリスが静かに言った。
「良樹くんらしいです」
「褒めてるのか」
「はい」
「ただし、甘くはありません」
良樹は短く頷いた。
「甘くする気はねえ」
「善意で人を壊す奴は、悪人より面倒だ」
◇
良樹は、ロブへ向き直った。
「俺たちは、その男を探している」
「どこか、心当たりはねえか」
ロブは少しだけ眉を寄せた。
「心当たりというか」
一拍。
「あいつら、次はあんたらの町へ行くって言ってたぜ」
空気が凍った。
リシアの顔から、わずかに血の気が引く。
カレンが胸元で両手を握りしめる。
クラリスの目が、静かに細くなる。
クリスも、笑わなかった。
良樹は、手の中の魔石を見た。
市場に流れかけた妙な付与品。
井戸の異常。
そして、亜人を人間の姿へ変える魔石。
どれも、便利だった。
どれも、誰かを助ける顔をしていた。
そして、どれも、止め方が甘かった。
「……そうか」
良樹は低く答えた。
ロブが見る。
「どうする」
「戻る」
「町に戻って、止める準備をする」
「止める、か」
「ああ」
良樹は頷いた。
「ただ、その前に言っておく」
良樹は、ロブだけではなく、集落にいる亜人たちを見た。
人間の姿になって帰ってきた者たち。
まだ亜人の姿のまま、魔石を使うか迷っている者たち。
使わないことで責められ始めている者たち。
使った者を責めることもできず、戻ってきた者へ何を言えばいいか分からない者たち。
全員を、見た。
「俺には、今すぐお前らをどうこうできるなんてことは言えねえ」
良樹は言った。
「飯が食える道を作る」
「仕事を作る」
「人間の町で普通に受け入れさせる」
「戻れるようにする」
「戻れない奴も置き去りにしない」
言葉にすれば、いくらでも言える。
けれど、それを今ここで約束するのは嘘だった。
「そんな簡単な話じゃねえのは、分かった」
「いや」
「まだ、分かったなんて言うのも違うな」
良樹は、少しだけ息を吐いた。
「俺はまだ、お前らのことをほとんど知らねえ」
「お前らが何を言われてきたのかも」
「何を我慢してきたのかも」
「何を諦めてきたのかも」
「全部を分かるなんて、言えねえ」
ロブは黙って聞いていた。
良樹は続ける。
「だけど」
「前の英雄から託された」
藤田の顔が、良樹の脳裏をよぎる。
あの老いた英雄。
自分に、この世界を頼むと言った男。
「それだけじゃねえ」
良樹は、ロブを見た。
ミラを見た。
サーラを見た。
奥にいる元亜人たちを見た。
「実際にお前らと、短い時間だけど話して」
「クリスさんがここで積み上げてきたものを見て」
「ロブ、お前が妹のことを話すのを聞いて」
一拍。
「力になりてえってのは、嘘じゃねえ」
クリスが、静かに良樹を見た。
リシアも。
カレンも。
クラリスも。
良樹は、胸元に手を当てた。
「英雄としてじゃねえ」
そこで、少しだけ言葉を止める。
英雄。
町が付けた称号。
ギルドが認めた役割。
藤田から託された重さ。
それは確かにある。
だが、今ここで口にするべきものは、それだけではなかった。
「上村良樹として」
「お前らの力になりたい」
集落は静かだった。
すぐに歓声が上がるわけではない。
誰かが泣き崩れるわけでもない。
その言葉だけで、何かが解決するわけでもない。
けれど。
ロブは、長く黙ったあと、乱暴に鼻を鳴らした。
「……変な奴だな」
「ああ」
「よく言われる」
「英雄ってのは、もっと偉そうなもんだと思ってた」
「俺も、そう思う」
「自分で言うなよ」
ロブは、少しだけ口元を歪めた。
笑った、というには弱い。
けれど、さっきよりは少しだけ息ができる顔だった。
「分かった」
「なら、こっちも言っておく」
良樹が見る。
「うちの妹を」
「リナを、勝手に被害者扱いすんな」
「あいつは、自分で行った」
「ああ」
「でも」
「もしあいつが、帰れねえって思ってるなら」
ロブの声が、少しだけ震えた。
「帰れるって」
「兄貴はまだ怒ってるけど、それでも帰ってこいって」
「そう伝えてくれ」
良樹は、真っ直ぐ頷いた。
「分かった」
「必ず伝える」
ロブは目を逸らした。
「約束すんな」
「会えるかも分からねえだろ」
「じゃあ、言い直す」
良樹は言った。
「会えたら、必ず伝える」
「会えなかったら、会う方法を探す」
ロブは、しばらく良樹を見た。
「……やっぱ面倒くせえな、お前」
「そこも、よく言われる」
クリスが微笑んだ。
「良い弟だろう?」
「クリスさんと同類って意味では、ちょっと嫌だな」
「心外だね」
リシアが小さく息を吐いた。
「締まりそうで締まらないわね」
カレンは、少しだけ笑った。
「でも、良樹さんらしいです」
クラリスは、良樹の横へ静かに立った。
「はい」
「とても、良樹くんらしいです」
良樹は、もう一度だけ手の中の魔石を見た。
救済に見える石。
けれど、そこには戻り線が見えない。
止める線も。
帰る線も。
使った後の暮らしへ繋がる線も。
良樹は、魔石を握りしめた。
「戻るぞ」
三人の妻が頷く。
クリスも、静かに頷いた。
良樹は集落の出口へ歩き出した。
町へ。
次にその若い一行が向かうという場所へ。
善意で人を壊すかもしれない力を、止めるために。
そして、もう一度だけ呟いた。
「これは救済かもしれねえ」
「でも」
良樹は、振り返らなかった。
「戻り線が見えねえ」




