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第90話 善意と英雄たち(挿絵有)

 ギルドの奥の部屋で、ガレスは一枚の報告書を机に置いた。


「また妙な話が来た」


 良樹は、その一言だけで眉を寄せた。


「また、か」


「ああ」

「前の付与品の件とは別だが、匂いは近い」


 ガレスの声は重かった。


 リシア、カレン、クラリスも、自然に表情を引き締める。


 便利なもの。

 強いもの。

 けれど、止め方が見えないもの。


 良樹たちは、その危うさを確認したばかりだった。


「今度は何だ」


「井戸だ」


 ガレスは短く言った。


「少し離れた集落で、枯れかけていた井戸から水が出るようになった」


「それだけ聞くと良い話だな」


「普通ならな」


 ガレスは報告書を指で叩いた。


「問題は、その水が止まらねえことだ」


 良樹の目が細くなった。


「……止まらない」


「ああ」

「雨が降ったわけでも、川が溢れたわけでもねえ」

「なのに井戸の周りが水浸しになってる」

「畑の端も崩れ始めてる」

「村人は、交代で水を汲んで、離れた川まで捨てに行ってるそうだ」


 クラリスの表情がわずかに変わった。


「水を、捨てに行っているのですか」


「ああ」


 カレンは小さく息を呑んだ。


「水が足りなかった場所で……」


「今度は多すぎるってわけだ」


 ガレスは椅子にもたれた。


「集落からの依頼は、井戸を何とかしてくれ、だ」

「ただ、俺はお前らに見てほしい」

「たぶん、普通の水害じゃねえ」


 良樹は黙っていた。


 水が出る。

 止まらない。

 使い切れない。

 流す先がない。

 人が捨てに行く。


 頭の中で、それだけでも嫌な線が繋がっていく。


「分かった」

「行く」


 良樹は立ち上がった。


「ただし、最初に言っておく」

「井戸そのものをその場で解決できるとは限らねえ」


「そこまで求めちゃいねえよ」


 ガレスは苦笑した。


「お前がそう言うってことは、逆に信用できる」

「できると言う奴ほど、こういう時は危ねえ」


「だろうな」


 良樹は短く答えた。


「リシア」


「ええ」

「井戸に何か魔法が掛かっているなら、私が見るわ」


「カレン」


「はい」

「集落の危ない場所を見ます」


「クラリス」


「はい」

「人の身体と、良樹くんを見ます」


 良樹は一瞬だけクラリスを見た。


「俺もか」


「はい」

「今回、良樹くんも危険です」


 クラリスの声は柔らかかった。

 けれど、譲る気配はなかった。


 良樹は少しだけ息を吐いた。


「……分かった」

「頼む」


 クラリスは静かに微笑んだ。


「はい」


   ◇


 集落へ着いた時、最初に聞こえたのは、水音だった。


 雨ではない。


 川でもない。


 井戸の方から、ずっと水が溢れる音がしていた。


 集落そのものは小さい。

 畑と家畜小屋、数軒の家、共同の井戸。

 乾いた土地に、低い柵と土壁の家が並んでいる。


 だが、その中心だけが異様だった。


 井戸の周りが泥になっている。

 足跡が深く残り、荷車の轍が水を含んで黒く沈んでいる。

 井戸から溢れた水は、低いところへ流れ、畑の端を削っていた。


 そこに、村人たちがいた。


 桶を運ぶ者。

 荷車に水樽を積む者。

 泥に足を取られながら、川の方へ向かう者。


 良樹は、それを見て顔をしかめた。


「……これは、人がやる仕事じゃねえな」


 クラリスは水樽を押す男の歩き方を見た。


「腰がかなり悪いです」

「右膝も腫れています」

「それでも押していますね」


 カレンは井戸周りを見た。


「怖いです」

「井戸の周りだけじゃありません」

「水が、道も畑も少しずつ奪っています」


 リシアは井戸を見つめていた。


 井戸からは、澄んだ水が湧き出している。

 水そのものは綺麗だった。

 濁りもない。

 匂いも悪くない。


 だからこそ、余計に厄介だった。


 綺麗な水が、村を沈めかけている。


「ギルドから来てくれただか!」


 泥だらけの男が駆け寄ってきた。

 年の頃は五十前後だろうか。

 日に焼けた顔に、疲労の色が濃い。


「おらが、この集落の長だ」

「よく来てくれただ」

「本当に、本当に困ってただ」


「まず話を聞かせてくれ」


 良樹は井戸へ視線を向けた。


「いつからだ」

「何があった」


 長は泥のついた帽子を握りしめた。


「何週間か前だ」

「今年は雨が少なくてな」

「井戸も細って、畑も割れて」

「家畜に飲ませる水にも困ってただ」


 長は、井戸の縁に目を向けた。


「この村には、水路なんて立派なもんはねえ」

「畑に撒く水も、家畜の水も、洗い物も、煮炊きの水も」

「ほとんど、この井戸で賄ってただ」


 良樹は井戸を見た。


 飲み水だけではない。

 畑。

 家畜。

 煮炊き。

 洗い物。


 この井戸が、村の水回りをほとんど背負っていた。


 良樹には、それが見えた。


 本当は、それ自体が危うい。


 井戸一つに、村の暮らしが集中している。

 足りなくなれば干上がる。

 多すぎれば沈む。

 水を溜める場所も、逃がす道も、分ける仕組みもない。


 だが、今それを口にしても何も進まない。


 ここで必要なのは、理想の水利計画ではない。

 村人が今日と明日を暮らすための復旧だった。


「だから井戸が細った時は、本当に終わりかと思っただ」


 長の声はかすれていた。


「もう駄目かもしれねえって、みんなで話してただ」

「そしたら、若い連中が通りがかっただ」


「若い連中?」


「ああ」

「あんた達みてえに、男が一人で、女の人を何人か連れてただ」

「男は、多分まだ十代くらいだったと思うだ」


 良樹は表情を変えなかった。


 リシアも、カレンも、クラリスも黙って聞いている。


「おら達が水に困ってるって話したら、その男が言っただ」

「僕が何とかします、って」


 長は井戸を見た。


「そしたら、その男が井戸に手をかざしてな」

「本当に水が出ただ」

「枯れかけてた井戸から、綺麗な水が、どんどん湧いてきただ」


 声が震えた。


「最初は、神様かと思っただ」

「みんな泣いて喜んだ」

「畑に撒いた」

「家畜に飲ませた」

「樽に溜めた」

「洗い物にも使った」

「足りなかった水が、やっと足りるようになっただ」


 そこで、長の顔が暗くなる。


「けんどな」

「足りた後も、水は止まらなかっただ」


 井戸から水が溢れる音が続いている。


「畑に撒くには多すぎた」

「家畜もそんなには飲めねえ」

「樽はすぐ一杯になった」

「洗い物に使っても、まだ余る」

「夜になって、誰も使わなくなっても」


 長は、泥に沈んだ地面を見た。


「水は、ずっと出続けただ」


 カレンの手が、胸元でぎゅっと握られる。


「止め方は……」


「分からねえ」

「教わってねえだ」

「井戸に蓋をしても駄目だった」

「石を置いても、隙間から溢れた」

「ある朝起きたら、井戸の周りが水浸しだっただ」


 長は川の方角を見た。


「近くに川もねえ」

「真っ直ぐなら八百メルくらいだが、荷車で行くには畑とぬかるみを避けなきゃならねえ」

「回れば一千メル近くになるだ」

「水を積んで戻るまで、半刻では済まねえ」

「道が悪い日は、一刻近くかかるだ」


 クラリスの目が細くなった。


「それを一日に何度も?」


「交代でやってるだ」

「やらねえと、井戸の周りがもっと沈む」

「畑もやられる」

「根が腐ると困る畑も出てきただ」


 長は、握った帽子を見た。


「おら達は、助かったと思っただ」

「でも今は、その助かった水を、毎日捨てに行ってるだ」


 誰も、すぐには言葉を返さなかった。


 良樹は井戸を見た。


 水は止まらない。


 善意かもしれない何かが、今も出続けている。


「リシア」


「ええ」


 リシアは井戸へ歩いた。


 泥を避け、井戸の縁に立つ。

 そして、手をかざした。


 青白い光が、リシアの指先に淡く集まる。


 しばらく、沈黙が続いた。


 水音だけがしていた。


 リシアの眉が、少しずつ寄っていく。


「……変ね」


「何がだ」


 良樹は聞いた。

 だが、それ以上は言わなかった。

 ここは自分の領域ではない。


 リシアは井戸を見たまま、静かに言った。


「水を呼ぶ魔法じゃない」

「水脈を広げているわけでもない」

「井戸に水属性を足しているわけでもない」


 カレンが不安そうに聞く。


「では、何なんですか……?」


「分からない」


 リシアは、はっきりそう言った。


 その言葉に、長が息を呑む。


 けれどリシアは、目を逸らさなかった。


「分からないものを、分かったふりはしないわ」

「ただ、分かることはある」


 リシアは、もう一度井戸へ手をかざした。


「これは、この世界の普通の魔法じゃない」

「私たちが学ぶ術式とも違う」

「水の精霊に働きかけている感覚もない」

「属性の流れを組み替えている感じでもない」


 水が井戸の縁を越えて、泥の上へ落ちる。


「ただ、結果だけが残っている」

「この井戸から水が出る」

「その状態だけが、ここに押しつけられている」


 クラリスが静かに言った。


「治癒魔法とも違いますね」


「ええ」

「治癒なら、身体が治ろうとする流れを助ける」

「でもこれは、井戸がそうなろうとしているわけじゃない」

「外から、そうであれと命じられている」


 リシアの声が低くなる。


「だから、危ない」


 良樹は黙って聞いていた。


 リシアは手を下ろす。


「乱暴に切ることなら、できるかもしれない」

「でも、それは解除じゃない」


「井戸が壊れるか」


 良樹が短く聞いた。


「分からない」

「水脈が傷つくかもしれない」

「周りの魔力の流れが崩れるかもしれない」

「あるいは、何も起きずに止まるかもしれない」


 リシアは首を振った。


「その判断ができない」

「だから、私は触らない」


 長の顔が青くなった。


「じゃ、じゃあ……」


「今は、井戸そのものには触らない方がいい」


 リシアははっきりと言った。


「止めるなら、この状態を置いた本人を連れてくるのが一番確実よ」

「でも、それが誰なのかも、今は分からない」


 良樹は頷いた。


「分かった」


 リシアが良樹を見る。


「……それだけ?」


「ああ」

「お前が触るなと言うなら、触らせねえ」

「お前が今は止めるなと言うなら、止めねえ」

「魔法の判断は、お前の領域だ」

「俺が横から分かったふりして、変な例えで丸める話じゃねえ」


 リシアは一瞬、言葉を失った。


 それから、ほんの少しだけ頬を赤くする。


「……そう」


「ああ」


「なら、私の判断として言うわ」

「これは今、私たちでは止めない」

「井戸そのものには触らない」

「それでも、村が水で潰れないようにはする」


 良樹は短く答えた。


「了解」


 それから、井戸と、ぬかるんだ道と、遠い川へ向かう轍を見た。


「……状況は分かった」


 長が良樹を見る。


「ここに来た若い連中が原因かどうかは、まだ決めねえ」

「偶然かもしれねえ」

「他にも何かあるかもしれねえ」

「話だけ聞いて、犯人扱いする気はねえ」


 長は戸惑ったように瞬いた。


「けどな」


 良樹は井戸を指した。


「問題自体は、目の前にある」

「この水は止まってねえ」

「道は沈んでる」

「畑は崩れかけてる」

「水を捨てに行く奴らの腰と膝も、限界に近い」


 クラリスが静かに頷く。


「このまま続ければ、身体を壊します」


 良樹は井戸を見た。


「本当は、井戸一つに村の水を全部背負わせてる時点で危ない」

「畑も、家畜も、洗い物も、煮炊きも、全部ここだ」

「水が足りなくなれば村ごと干上がる」

「水が多すぎれば村ごと沈む」


 長は、何かを言おうとして口を閉じた。


 良樹は続ける。


「……だが、それは今やる話じゃねえ」

「今すぐ全部を良くすることはできねえ」

「でも、今より悪くならないようにして、今まで通り暮らせるところまでは戻す」


 井戸から水が溢れる。


「まずは、井戸を使えるようにする」

「余った水を逃がす」

「水を捨てに行く作業を止める」

「畑と道がこれ以上壊れないようにする」


 そして、村人たちを見た。


「そのための仮設排水だ」


 長が息を呑む。


「仮設、排水……?」


「ああ」

「川まで水を逃がす」

「ポンプと配管を作る」

「魔力石で動く簡単な制御も入れる」

「水位が上がったら動く」

「下がったら止まる」

「村の人間が扱えるように、止め方も教える」


 長の目に、少しだけ光が戻る。


「そんなことが、できるだか……?」


「できるかどうかじゃねえ」

「やるしかねえ」


 良樹は、そこで一度言葉を切った。


「ただし、俺たちだけで全部やる話じゃねえ」


 長だけではない。

 周囲にいた村人たちも、良樹を見た。


「ここで暮らすのは俺じゃねえ」

「この井戸と付き合っていくのは、お前らだ」

「仮設排水を使うのも、お前らだ」

「魔力石を替えるのも、お前らだ」

「詰まった時に最初に気づくのも、お前らだ」

「おかしいと思った時に止めるのも、お前らだ」


 良樹は、泥のついた村人たちの顔を見た。


「俺たちだけじゃ解決できねえ」

「お前らだけでも無理だ」

「だから、全員でやる」


 村人たちは黙った。


 良樹は続ける。


「水を捨てに行く力があるなら、杭を運べ」

「畑を知ってるなら、配管を通しちゃいけねえ場所を教えろ」

「荷車を押せるなら、資材を運べ」

「子どもが通る場所、家畜が踏む場所、夜に見えなくなる場所を教えろ」

「使うのはお前らだ」

「止めるのもお前らだ」

「だから、作るところから見ろ」


 長は、泥のついた帽子を握りしめた。


「おら達にも、できるだか」


「できることをやれ」

「できないことは俺がやる」

「魔法のことはリシアが見る」

「危ない場所はカレンが見る」

「身体の無理はクラリスが見る」


 良樹は、井戸から川の方角を見た。


「三日だ」

「三日で、ひとまず村を持たせる形にする」


挿絵(By みてみん)


   ◇


 一日目は、測る日になった。


 井戸から川までの道を、良樹たちは村人と一緒に歩いた。


 真っ直ぐなら八百メルほど。

 だが、そこには畑がある。

 ぬかるみがある。

 家畜が通る道がある。

 子どもが近道にしている細い通りがある。

 雨の日に水が流れる低い場所がある。


 配管を通す距離は、実際には一千メル近くになる。


 良樹は地面に線を引き、木の枝で印をつけた。


「ここは駄目です」


 カレンが先に言った。


 村人が驚いたように見る。


「ここ、昼間は大丈夫そうに見えます」

「でも、夜は窪みが見えません」

「子どもが走ったら転びます」


 年配の女が手を叩いた。


「そうだ」

「そこの子ら、よく近道に使うだ」


「なら避ける」


 良樹は即座に線を消した。


 少し先で、年寄りが杖をつきながら言う。


「雨の日は、こっちへ水が流れるだ」

「昔から、そこは泥になる」


「助かる」


 良樹は頷いた。


「配管を泥に沈めると詰まる」

「ここは杭で浮かせる」


 リシアは井戸側からの魔力の流れを見ていた。


「ここなら、井戸の術には触れない」

「ただし、ポンプを強くしすぎると返りが来るかもしれない」


「上限を絞る」


 良樹は短く答えた。


 クラリスは、水捨て作業をしていた村人たちを集めた。


「あなたは重い物を持たないでください」

「右膝が腫れています」

「こちらの方は腰が悪いので、杭打ちは駄目です」

「印を結ぶ作業に回ってください」


 村人たちは最初、戸惑っていた。

 だが、クラリスの言葉は静かで、しかし的確だった。


 良樹が設計する。

 リシアが井戸を見る。

 カレンが危険を見る。

 クラリスが人を見る。


 そして、村人たちが自分たちの村の道を教えていく。


 夕方には、配管ルートが決まった。


 良樹は泥に描いた線を見て、息を吐いた。


「明日は通す」


「良樹くん」


 クラリスが声をかけた。


「何だ」


「今日はここまでです」


「まだ作業分担を――」


「今日はここまでです」


 良樹は言葉を止めた。


 クラリスの目が、笑っていなかった。


「今回の工事中、私は村人だけでなく、良樹くんを見ます」


「俺?」


「はい」


 クラリスは、はっきり頷いた。


「これは魔石通信機とは違います」

「信号を送るだけではありません」

「水を動かす、動力系のインフラです」

「しかも突貫工事です」


 良樹は何も言わなかった。


「良樹くんにとっても、初めての負荷になるはずです」

「だから、危険域に入れば止めます」


「……村が困っててもか」


「はい」


 クラリスは即答した。


「良樹くんが倒れれば、村はもっと困ります」


 良樹は、しばらく黙った。


 それから、小さく息を吐く。


「正論だな」


「はい」

「良樹くんが嫌いそうな正論です」


「嫌いじゃねえよ」

「刺さるだけだ」


 リシアが小さく笑った。


「じゃあ決まりね」

「井戸は私が見る」

「村の危険はカレンが見る」

「工事は良樹が見る」

「良樹自身はクラリスが見る」


 カレンが頷く。


「はい」

「それなら、大丈夫です」


 クラリスは良樹を見た。


「大丈夫にします」


   ◇


 二日目は、通す日だった。


 朝から村人たちが動いた。


 男衆は杭を運び、力のある者は石を積んだ。

 女たちは布と縄を集め、夜でも見える目印を作った。

 年寄りは、雨の日の水の流れや、昔からぬかるむ場所を教えた。

 子どもたちは最初近づこうとして怒られたが、やがて布を運ぶ係になった。


 良樹は井戸の近くに腰を下ろし、魔導工廠を展開した。


 半透明の歯車。

 軸。

 羽根。

 ケーシング。

 配管。

 継手。

 支持具。


 水を動かすための部品が、ひとつずつ形を成していく。


 通信機とは違う。


 軽い信号ではない。

 水という重い実体を動かす。

 吸い、押し、逃がし、止める。


 胸の奥の盤が、ずしりと重くなった。


 クラリスは、それを見ていた。


「良樹くん、右腕」


「まだ大丈夫だ」


「まだ、ではありません」


「今止めると、羽根の形が――」


「崩れても、良樹くんが壊れるよりましです」


 良樹は奥歯を噛んだ。


 言い返せない。


「……五分休む」


「呼吸が戻るまでです」


「五分じゃ駄目か」


「駄目です」


 リシアが半眼になる。


「クラリス、厳しいわね」


「良樹くんが相手ですから」


「必要です……」


 カレンも真面目に頷いた。


 良樹は額に手を当てた。


「味方が全員強い」


「味方だからよ」


 リシアが言う。


「敵なら、倒れるまでやらせるわ」


「違いが重いな」


「分かればよろしい」


 村人たちは、そんなやり取りを見ながらも、作業を続けた。


 良樹が作るのは、水を流すための芯だった。


 だが、芯だけでは設備は使えない。


「ここは荷車が通る」


 良樹は泥の上に置いた配管ルートを指した。


「そのまま配管を置けば、踏まれて割れる」

「土を盛って、板を渡せ」

「車輪が直接配管に乗らないようにする」


「ここは?」


 村人の一人が畑の端を指す。


「崩れかけてる」

「杭を打て」

「配管を浮かせる」

「泥に沈めるな。沈めたら詰まる」


 家畜小屋の近くでは、カレンが先に言った。


「ここ、危ないです」

「山羊が通ると聞きました」

「配管に足をかけるかもしれません」


「なら柵だ」


 良樹は即答した。


「杭と縄でいい」

「触らせるな」


 そうやって、村人たちは少しずつ分かっていった。


 ただ水を流すだけではない。

 壊れずに使う形を作るのだと。


 昼過ぎ。


 仮設配管の途中支持を入れている時だった。


 村人が運んできた板を仮置きし、良樹が継手の位置を確認する。

 まだ固定はしていない。

 杭も仮だ。

 配管は、ほんの少し支えを失えば、泥の上へ落ちる。


 近くで別の杭を打つ音が響いた。


 こん、と。


 振動が地面を伝う。


 仮置きしていた支え板が、わずかにずれた。


「良樹さん!」


 誰より早く、カレンが動いた。


 両手を伸ばし、落ちかけた配管を支える。

 細い腕に、ずしりと重さが乗った。


「カレン!」


「だ、大丈夫です……!」

「まだ、落ちてません……!」


 カレンは配管を押さえたまま、必死に足を踏ん張っていた。


 だが、良樹には見えた。


 カレンの右足が、ぬかるみの端に乗っている。

 腰が少し逃げている。

 そのまま支え続ければ、配管は守れても、カレンの身体が先に崩れる。


「カレン、そのまま動くな」


「は、はい……!」


「俺が持つ」


 良樹は一歩踏み込んだ。


 右手で配管を受ける。

 重さが腕に乗る。


 同時に、左腕をカレンの腰へ回した。


「ひゃっ……!?」


「足元が逃げてる」

「倒れるな」


「で、でも、良樹さん……!」


「今は姿勢優先だ」


 良樹はカレンの腰を抱えたまま、配管を持ち上げた。


 カレンの身体が、良樹の方へ引き寄せられる。

 柔らかな感触が、良樹の胸元近くに触れた。


 ふに。


 カレンが固まった。


 良樹も、一瞬だけ固まった。


 だが、配管は待ってくれない。


「……カレン」


「は、はい……!」


「十秒だけ、そのまま」


「そのまま、ですか……!?」


「動くと足が滑る」

「あと、俺の左手が外れるとお前が転ぶ」


「そ、それは……困ります……!」


 良樹は右手で配管を支え、身体をひねって安全な位置へ逃がす。

 左腕はカレンの腰を支えたまま。


 結果として。


 良樹がカレンを片腕で抱き寄せ、カレンの柔らかな主張を自分の方へ引き受けながら、平然と作業しているような格好になった。


 リシアが、少し離れた場所で固まっていた。


「……良樹」


「事故だ」


「まだ何も言ってないわよ」


「先に言っておく。事故だ」


「見た目は完全に要求してるけど?」


「要求してねえ」

「支えてる」


 カレンは耳まで真っ赤になっていた。


「わ、私は、支えられています……!」


「カレン、その証言は余計に危ない」


 クラリスが静かに頷いた。


「良樹くんは、配管とカレンを同時に支えています」

「作業としては正しいです」


「作業としては、ね」


 リシアの声が低い。


 良樹は奥歯を噛みながら、配管を仮置きの安全位置へ移した。

 泥に沈まない場所。

 杭の外側。

 人が踏まない位置。


「よし」

「もう大丈夫だ」


 良樹が配管を離す。

 続いて、カレンの腰から手を離そうとした。


 だが、カレンの足がぬかるみに取られ、少しだけぐらつく。


「きゃっ」


 良樹は反射的にもう一度、腰を支えた。


 ふに。


 もう一度、柔らかな感触が近づいた。


「……」


「……」


 カレンは、完全に赤くなった。


「良樹さん」


「何だ」


「今のは……」


「今のも事故だ」


「はい……」

「分かっています……」


 カレンは俯きながら、小さく続けた。


「でも、その……」

「良樹さんに支えてもらうのは、嫌ではないです」


 良樹の思考が一拍止まった。


 リシアが即座に突っ込む。


「カレン、人前!」


「は、はいっ……!」

「人前なので、すごく恥ずかしいです……!」


「人前じゃなければいいみたいに聞こえるのよ!」


 クラリスがにこりと微笑む。


「夫婦ですから」


「工事中だぞ」


 良樹は低く言った。


 しかし、その声にはいつもの切れがなかった。


 クラリスはそれを聞き逃さなかった。


「良樹くんの停止条件は、かろうじて維持されています」


「実況するな」


 農家の男が、少し離れた場所で杭を持ったまま呟いた。


「英雄様と奥方様たちは……」

「工事の仕方も、なんかすごいだな……」


「見習わなくていい!」


 良樹とリシアの声が、同時に響いた。


   ◇


 夕方が近づく頃、井戸側の吸い込み部と、途中の配管が形になった。


 だが、そこで良樹の動きが少し鈍った。


 クラリスは見逃さなかった。


「良樹くん」


「何だ」


「手が冷えています」


「水場だからだろ」


「違います」


 クラリスは良樹の手首を取った。


「指先だけではありません」

「手首、首筋、呼吸」

「体温が落ちています」


 良樹は少しだけ眉を寄せた。


「魔力を使いすぎたか」


「魔力を撃ちすぎた、とは違います」

「制御回路として、自分の魔力を使い続けています」

「胸の奥の盤が冷えています」


 リシアの顔が変わる。


「良樹」


「……少し冷えるだけだ」


「あんたの少しは信用ならないのよ」


 カレンも良樹の手に触れた。


「冷たいです……」


 クラリスは静かに言った。


「今日はここまでです」


「まだ川側の吐出口が――」


「今日はここまでです」


「明日が」


「明日工事をするために、今日はここまでです」


 良樹は黙った。


 クラリスの言っていることは正しい。


「……分かった」


「よろしいです」


   ◇


 その夜。


 良樹は仮の寝床で毛布をかぶっていた。


 寝れば戻る。


 そう思っていた。


 だが、身体の芯が冷えていた。

 手足の先だけではない。

 胸の奥の盤が、ゆっくり熱を失っているような感覚がある。


 魔力が尽きたわけではない。

 右腕が焼けたわけでもない。

 外傷でもない。


 制御回路として、自分自身を使い続けた疲れ。


 それが、夜になって体温低下として出ていた。


「良樹くん」


 クラリスが横に座った。


「眠れませんね」


「眠れる」


「眠れていません」


「目を閉じてる」


「呼吸が眠っていません」


「身体を見るなあ、本当に」


「はい」

「見るのが私の役目ですから」


 クラリスは毛布を少し持ち上げた。


 良樹は嫌な予感がした。


「クラリス」


「はい」


「何をする気だ」


「温めます」


「湯たんぽか何かでいいだろ」


「足りません」

「芯が冷えています」


「芯?」


「はい」

「良樹くんの胸の奥の盤が、冷えたまま眠ろうとしています」


 クラリスは、服を脱いではいなかった。

 だが、そのまま毛布の中へ入ってきた。


 良樹の背中側に寄り添い、手を良樹の胸元へ回す。

 もう片方の手で良樹の手を包む。


「近い」


「近くないと温まりません」


「毛布がある」


「毛布は熱を逃がさないものです」

「熱を作るものではありません」


「正論で来るな」


「良樹くんがいつもしていることです」


 良樹は黙った。


 クラリスの体温が、背中から伝わる。

 手を包む指先が温かい。

 呼吸が近い。


「大丈夫です」

「何もしません」

「ただ、温めます」


「その言い方も大概だぞ」


「では言い換えます」

「明日も工事をするために、今夜は私が良樹くんを保温します」


「工事理由で押し切るな」


「工事理由です」

「大切です」


 その時、入口の布が動いた。


「良樹、様子を――」


 リシアの声が止まった。


 隣のカレンも固まる。


「……クラリス?」


「え、ええええっ……!?」


 良樹は目を閉じた。


「待て」

「これは違う」


 リシアの声が低くなる。


「何がどう違うのか、十秒で説明しなさい」


 クラリスは落ち着いていた。


「良樹くんの体温が下がっています」

「外傷ではありません」

「制御回路として自分の魔力を使いすぎた影響です」

「治癒ではなく保温が必要です」


 リシアの表情が変わった。


 怒りや嫉妬より先に、良樹へ近づく。

 手に触れる。


「……本当ね」

「冷たい」


 カレンも反対側から良樹の手に触れた。


「良樹さん……」


「少し冷えるだけだと思った」


「あんたの少しは、信用ならないって言ったでしょ!」


 リシアは小さく怒鳴った。


 クラリスは静かに続ける。


「私一人でも温められますが」

「お二人もいた方が早いです」


「え」


 良樹が声を漏らした。


「待て」

「三人はさすがに――」


「さすがに何よ」


 リシアが毛布を持ち上げた。


「明日も工事するんでしょ」


 カレンは真っ赤になりながらも、良樹の手を両手で包んだ。


「あ、あの……私も、ちゃんと温めます」


「カレン、その言い方は危ない」


「えっ、あっ、違います!」

「体温の話です!」


「はい」

「体温の話です」


 クラリスが清楚に頷く。


「クラリス、そこで追撃しない」


 リシアはそう言いながらも、良樹の右側へ入った。

 カレンは左側に寄る。

 クラリスは背中側で、良樹の呼吸を見ている。


 服は着たまま。

 毛布の中で、四人が近くなる。


 何もしない。


 ただ、温める。


 そのはずなのに、良樹の自制心には過酷な試験だった。


「……工事前に別の試験を受けてる気分だ」


「何の試験よ」


「自制心」


 リシアが赤くなりながら眉を吊り上げる。


「合格しなさい」


「してる」


 クラリスが静かに言った。


「今のところ、合格です」


「採点するな」


 カレンは良樹の手を包んだまま、小さく言った。


「良樹さん」

「冷たかったです」

「怖かったです」


 その声で、良樹は黙った。


 リシアも、クラリスも、ふざけるのをやめた。


「……悪い」


「謝るなら、明日は私たちが止める前に休んで」


 リシアが言う。


「村を持たせたいのは分かってる」

「でも、あんたが倒れたら工事も止まる」


「はい」


 クラリスが背中から良樹の呼吸を見ながら続ける。


「良樹くんが壊れたら、村はもっと困ります」


 カレンは手を温めながら言う。


「良樹さんも、持たせないと駄目です」


 良樹は、三人の体温を感じながら目を閉じた。


 機械を止めずに動かすには、保全がいる。


 人間も同じだ。


 そんな当たり前のことを、良樹は三人の体温で思い知らされた。


「……分かった」

「明日は、止められる前に休む」


 三人が同時に言った。


「本当に?」


「本当に」


「信用は三割ね」


「低いな」


「実績値です」


「カレンまで頷くな」


「す、すみません……でも、実績値なので……」


 良樹は小さく笑った。


 身体の芯に、少しずつ熱が戻っていく。


 その夜、良樹は三人に囲まれて眠った。


 何もしない。

 ただ、温められて。


 明日も工事をするために。


   ◇


 三日目。


 良樹の体温は戻っていた。


 朝、三人に囲まれて目を覚ました時は、別の意味でしばらく動けなかったが、それはそれとして工事は始まった。


 この日は、動かす日だった。


 井戸側の吸い込み口。

 仮設ポンプ。

 魔力石駆動部。

 配管。

 途中支持。

 スロープ。

 川側の吐出口。


 すべてを繋ぐ。


 良樹は村人たちを集めた。


「見てるだけじゃ覚えねえ」

「使う奴が触れ」

「止める奴が手順を言え」


 長と、若い農夫が前に出る。


「まず魔力石」

「向きがある」

「逆に入れるな」

「入らねえ時は力で押すな」

「押したら壊れる」


 若い農夫が恐る恐る魔力石を入れる。


「次、手動停止」

「おかしいと思ったら、ここを落とせ」


「ここだな」


「違う」

「それは確認蓋だ」

「止まらねえ」


「す、すまねえだ」


「謝る前に覚えろ」

「止めるのはこっちだ」


 リシアが横でくすりと笑った。


「教え方が良樹ね」


「厳しいです……」


 カレンは少し苦笑した。


 クラリスは静かに言う。


「でも、必要です」


 良樹は何度もやらせた。


 魔力石の交換。

 手動停止。

 詰まり確認。

 吐出口の確認。

 配管を踏んではいけない場所。

 スロープが崩れた時の応急処置。

 子どもを近づけない場所。

 家畜が柵を倒した時の対応。


 村人たちは、最初は戸惑っていた。

 だが、次第に顔つきが変わっていった。


 これは、外から来た英雄様が置いていく便利なものではない。


 自分たちが使うもの。

 自分たちで守るもの。

 自分たちの村を持たせるためのもの。


 良樹は最後に、長へ言った。


「手順を言え」


 長は緊張した顔で頷いた。


「水が増えたら、まず水位を見るだ」

「上がってたら、魔力石を確認するだ」

「ポンプが動かなければ、手動起動」

「おかしい音がしたら、手動停止」

「詰まりを見る時は、先に止める」

「分からねえ時は、触らねえ」

「勝手に直そうとしねえ」


 良樹は頷いた。


「よし」

「最低限は任せられる」


 長の顔が少し明るくなった。


「動かすぞ」


 村人たちが息を呑む。


 良樹は魔力石駆動部を起動した。


 仮設ポンプが、低く唸る。


 井戸の周りに溜まっていた水が、吸い込み口へ流れ込む。

 配管の中を水が走る。

 途中の支持杭がわずかに震えたが、外れない。

 スロープの下を通り、畑の端を避け、家畜道の柵の向こうを抜ける。


 やがて、遠くの川側で声が上がった。


「出ただ!」

「川に水が落ちてるだ!」


 村人たちの間に、どよめきが起きる。


 良樹はすぐには笑わなかった。


「水位」


「下がってるわ」


 リシアが井戸を見て言った。


「術には触れてない」

「井戸からは出続けてる」

「でも、溢れた分は逃げてる」


「カレン、危ない場所は」


「今のところ、大丈夫です」

「でも、あそこのスロープは雨の日にもう一度見た方がいいです」


「記録」


「はい」


「クラリス」


「良樹くんの体温は正常です」

「ただし、昼を過ぎたら休憩です」


「了解」


 良樹は短く答えた。


 仮設配管の先で、水が川へ落ちている。


 村を救ったはずの水。

 村を潰しかけた水。


 今は、ようやく流す先を得ていた。


   ◇


 夕方。


 井戸の周りから、少しずつ水が引いていた。


 泥は残る。

 崩れた畑の端も、すぐには戻らない。

 痛めた膝や腰も、その場で治るわけではない。


 けれど、村人たちはもう、恵みだった水を桶に入れて遠い川まで捨てに行かなくてよくなった。


 畑に水を撒くこともできる。

 家畜に飲ませることもできる。

 煮炊きも、洗い物もできる。


 余った水は、流す先を得た。


 完全な解決ではない。

 理想の水利でもない。


 けれど、今まで通りの生活へ戻るための道はできた。


 長が、良樹の隣に立った。


「最初は、どうなるかと思っただ」


 長は仮設配管を見て、それから井戸を見た。


「けんど、さすが英雄様と、その奥方様たちだべ」

「本当に、ありがとうございましただ」


 深く頭を下げる。


「ギルドに頼んでから、なかなか音沙汰もなくて」

「おら達、本当に困ってただ」


 良樹は少しだけ黙った。


 英雄様。


 その言葉は、まだ慣れない。


 いや、慣れてはいけない気がした。


「……そんなのじゃねえ」


 良樹は静かに言った。


 長が顔を上げる。


「英雄なんてのは、ただの肩書だ」

「それに」


 良樹は、井戸の周りを見た。


 杭を打った男たちがいる。

 泥を掘った女たちがいる。

 布を結んで目印を作った子どもたちがいる。

 家畜道を教えた年寄りがいる。

 痛めた腰を押さえながら、それでも軽い作業を手伝った者がいる。


 リシアは井戸の術を見続けた。

 カレンは危ない場所を拾い続けた。

 クラリスは人の身体と、良樹の負荷を見続けた。


 誰も、綺麗な姿ではなかった。


 汗と泥にまみれていた。


 けれど、その顔は笑っていた。


「今回の英雄は、きっと俺だけじゃねえ」


 長は、良樹の視線を追った。


 村人たちが笑っていた。


 疲れ切っている。

 泥だらけで、手も足も痛んでいる。

 それでも、笑っている。


 自分たちの手で、村を持たせた顔だった。


 長は、しばらく何も言わなかった。


 やがて、小さく笑った。


「……そうだな」

「そうかもしれねえだ」


 仮設配管の先で、水が川へ落ちていく。


 止まらない恵みは、まだ止まっていない。


 けれど、流す先はできた。


 良樹は、その音を聞きながら、もう一度だけ村人たちを見た。


 そこには、汗と泥にまみれた英雄たちの笑う顔があった。


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