番外編 メイド服従作戦 ~偶像には負けません~(挿絵大量)
今回は本筋とは直接関係のない、いちゃ甘寄りの日常回です。
読み飛ばしても本編の進行には影響ありません。
メイド服です。
旦那様です。
ご主人様です。
良樹は何も悪いことをしていません。
ただ、うっかり余計な知識を三人妻に渡してしまっただけです。
では、メイド服従作戦、開始です。
夕食のあと。
拠点の食堂には、まだ少しだけ湯気の匂いが残っていた。
皿は下げられ、食後のお茶も飲み終わり、あとはそれぞれの時間に戻るだけ。
いつもなら良樹は作業場へ行く。
リシアは食卓を軽く片付け、カレンは戸締まりを確認し、クラリスは良樹の身体の様子をさりげなく見る。
夫婦になってからの、少しずつ馴染んできた夜の流れ。
その中で、リシアがふと尋ねた。
「そういえば良樹」
「何だ」
「良樹の世界にも、給仕をする女の人はいたの?」
良樹は、湯呑みを置く手を止めた。
「給仕?」
「ええ。食事を運んだり、家の中の世話をしたりする人。この世界にも屋敷勤めの女中や使用人はいるけれど、良樹の世界ではどうだったのかと思って」
「ああ……いた。普通にいたな。屋敷の使用人とか、家事をする人とか、掃除、洗濯、給仕、身の回りの世話をする人。そういう人を、メイドって呼ぶことがあった」
「めいど」
カレンが小さく繰り返す。
「そう。元々は、使用人とか、屋敷で働く女の人って意味合いだ」
クラリスが首を傾げた。
「元々は、ということは、今は違うのですか?」
良樹は、そこで少しだけ目を逸らした。
「……いや。違うというか、俺の国では、妙な方向へ発展したというか」
「妙な方向?」
リシアの目が少しだけ細くなる。
良樹は、説明を続けるべきか一瞬迷った。
これは危険な話題だ。
経験上、こういう話はかなりの確率で事故る。
いや、この三人ならまず間違いなく事故る。
だが、もう言いかけてしまった。
「その、メイド服っていう服があってな。黒っぽい服に白いエプロンをつけたような格好で。まあ、仕事着というか、そういう記号というか」
「記号?」
「メイドだと分かる服。それが、いつの間にか……男向けというか、可愛い服というか。ご主人様とか呼ばれて、給仕されたり、迎えられたりする店までできた」
三人が、同時に黙った。
良樹は、言ってから後悔した。
遅い。
完全に遅い。
「ご主人様」
カレンが、小さく呟いた。
「店で?」
リシアが聞く。
「ああ」
「本当の主ではなく?」
「まあ、客だな」
「客に、ご主人様と呼ぶのですか?」
クラリスが静かに尋ねる。
「そういう店もある。接客の一種だ。本当の主従じゃない。雰囲気を楽しむというか、偶像としてのメイドというか」
「偶像」
リシアが、その言葉を拾った。
良樹は嫌な予感がした。
今、かなりまずい言葉を渡した。
「つまり、良樹の世界では、メイドは可愛い偶像にもなっているのね」
「いや、全部がそうじゃない。本来は仕事だ。実際に働く人もいる。ただ、俺の国ではそういう文化もあったというだけで」
「ご主人様と呼んで、可愛い服を着て、男の人を迎える」
「だから、全部がそうじゃない」
良樹は説明しながら、これはもう止めた方がいいと判断した。
止め方を考えろ。
動かす前に止め方を考えろ。
今だ。
「この話は終わりだ。妙な方向へ行く」
「まだ何も行っていないわよ」
「行く。経験上、行く」
「良樹」
リシアが少しだけ楽しそうに笑った。
「それは、私たちが何かすると思っているの?」
「ああ」
即答した。
三人が少し目を丸くする。
「信用がありませんね」
クラリスが微笑む。
「信用しているからこそだ。お前らは、やる時はやる」
「良樹さん……」
カレンは少し困ったように笑った。
良樹は席を立った。
「風呂入って寝る。今日はもう作業もしない」
「珍しいわね」
「危険予知だ」
良樹はそう言って、食堂を出て行った。
三人は、その背中を見送った。
そして。
良樹の足音が十分に遠ざかったあと。
リシアが、ゆっくりと口を開いた。
「偶像としてのメイド」
カレンが、胸元で手を握る。
「ご主人様……」
クラリスは、静かに微笑んだ。
「良樹くんの世界では、そういう文化があるのですね」
「ええ」
リシアは腕を組んだ。
「つまり、良樹の世界には、男の人が可愛いと思う、メイドという偶像がある。その偶像が、ご主人様と呼んで、給仕して、世話をする」
「はい」
「なら」
リシアは、口元に笑みを浮かべた。
「実在の妻が、偶像に負けるわけにはいかないでしょう」
カレンが小さく肩を跳ねさせた。
「つ、妻が……」
「ええ。私たちは良樹の妻よ」
リシアははっきり言った。
「可愛い偶像に、良樹の記憶の中で勝手に座られているのは面白くないわ」
「座られている、のでしょうか」
クラリスが穏やかに聞く。
「少なくとも、良樹の世界にそういうものがあったのは事実よ」
「なるほど」
クラリスは頷いた。
「では、上書きが必要ですね」
「上書き……」
カレンが赤くなる。
「でも、あの。メイド服を着る、ということですか?」
「そうよ」
リシアは迷いなく答えた。
「それだけではないけれどね」
「それだけではない?」
クラリスが微笑む。
「良樹くんに、妻に世話をされることを受け取っていただくのですね」
リシアは、クラリスを見る。
そして、ゆっくり頷いた。
「そう。良樹は何でも自分でやろうとする。放っておくと、食事も作業も報告も、全部自分で抱える。最近は少しずつ頼るようになってきたけれど」
「甘えることは、まだ下手です」
クラリスが静かに続けた。
カレンも頷く。
「良樹さん、すぐに大丈夫って言います」
「だから、メイド服よ」
リシアは言った。
「ただ可愛い服を着るだけじゃない。今日は良樹に、私たちに世話をされることを受け取らせる。良樹の世界の偶像には負けない。実在の妻として」
カレンは真っ赤になりながらも、小さく頷いた。
「が、頑張ります」
クラリスも穏やかに微笑む。
「では、作戦名が必要ですね」
「もう?」
「作戦には名が必要です」
リシアは少し考えた。
だが、その夜はまだ決めなかった。
まず必要なのは、服だった。
◇
翌日。
三人は、以前制服を仕立ててもらった店へ向かった。
小さな仕立て屋。
表には色とりどりの布が並び、奥には採寸用の鏡と作業台がある。
扉を開けると、店主の女性が顔を上げた。
前回と同じ、柔らかい雰囲気の年上の女性だった。
目元は優しく、言葉も穏やか。
ただ、服を見る目だけは職人のものだった。
「あら、リシアちゃん、カレンちゃん、クラリスちゃん。いらっしゃい」
三人は軽く挨拶をした。
店主はすぐに笑った。
「今日はどうしたの? また良樹さんに見せる服かしら?」
カレンの顔が一気に赤くなる。
リシアは堂々と頷いた。
「ええ。良樹に見せる服よ」
「ふふ。リシアちゃんは相変わらずはっきりしているわね。カレンちゃんは、今日もかわいいわ。クラリスちゃんは……何か考えている顔ね」
クラリスが静かに首を傾げる。
「どのような顔でしょうか」
「清楚な顔で、けっこう大胆なことを考えている時の顔よ」
「ひどいです」
「かわいいという意味よ。半分くらいは」
リシアは軽く咳払いした。
「今日は、メイド服をお願いしたいの」
店主は少しだけ目を丸くした。
「前は制服で、今度はメイド服なのね。三人とも、本当に良樹さんが好きなのね」
三人は、一瞬だけ黙った。
それから、順番に頷いた。
「好きよ」
「だ、大好きです」
「はい。好きです」
店主は、柔らかく微笑んだ。
「それで、どういうメイド服にしたいの?」
リシアは少し考えた。
「良樹の世界の偶像に負けない服」
「また難しいことを言うわね」
「でも、それだけじゃないわ。良樹に、妻に世話をされることを受け取らせたいの。あいつ、何でも自分でやろうとするから」
店主は、少しだけ真面目な顔になった。
「なるほど。だから、メイド服なのね」
「ええ」
「女の子が覚悟を決める時、服は大事よ」
店主は三人を一人ずつ見た。
「リシアちゃんは、正統派がいいわね。黒か濃紺を基調にして、白いエプロン。胸元は閉じる。でも硬すぎない。膝より少し下。脚を見せすぎず、でも線は綺麗に。隠すことで華が出る人ね」
リシアは少しだけ目を伏せた。
「隠すことで?」
「ええ。リシアちゃんは、出さなくても強いわ」
次に店主はカレンを見る。
「カレンちゃんは、可愛らしく。でも子供っぽくしすぎない。肩は出しすぎないけど、胸元は少しだけ開ける。スカートは軽め。脚は素足が似合うわね。頑張って背伸びしている感じがかわいい。きっと良樹さんにも伝わるわ」
カレンは真っ赤になった。
「が、頑張ります……」
最後に店主はクラリスを見る。
「クラリスちゃんは、清楚さを残したまま、雰囲気を変えるのがいいわ。白すぎると普段と変わらない。黒を基調にして、白いエプロン。丈は短め。ニーソを合わせる。ただし、下品にはしない。クラリスちゃんは、品を残した方が強いもの」
クラリスは静かに頷いた。
「品を残したまま、少しだけ危ない位置で止めるのですね」
店主は目を瞬かせた。
「クラリスちゃん、時々すごく分かっていることを言うわね」
「良樹くんが、止める位置は大事だとよく言っています」
「良樹さん、こういう時は止められるのかしら」
三人は黙った。
店主は、その沈黙だけで察した。
「止められないのね」
クラリスが微笑む。
「止める時は、私が止めます」
「頼もしいわね、クラリスちゃん」
採寸が始まった。
布が選ばれ、丈が決まり、襟元が調整され、エプロンの形が整えられていく。
何度も鏡の前に立たされ、そのたびに店主は柔らかく笑った。
「三人とも、かわいい奥さんね」
奥さん。
その言葉に、カレンがまた真っ赤になった。
◇
数日後。
三つの包みが、三人の手元に届いた。
その夜。
良樹が眠ったあと、三人は食堂に集まった。
卓の上には、それぞれの包みが置かれている。
リシアが包みに手を置いた。
「いよいよね」
「はい……」
カレンは緊張した顔で頷く。
クラリスは穏やかに微笑んだ。
「作戦名を決めましょう」
「そうね」
リシアが考えかけた時、クラリスが先に言った。
「メイド服従作戦、でよろしいのでは?」
「ふ、服従……?」
カレンが目を丸くする。
クラリスは清楚に説明した。
「服を着る方の服。それから、旦那様に妻の世話を受け取っていただく方の従。二つの意味です」
「掛けているのね」
リシアは少し呆れたが、すぐに頷いた。
「悪くないわ」
「強制するわけではありません。ただ、良樹くんに受け取っていただくだけです」
「ええ。妻に世話されることを」
次に、呼び方を決めた。
リシアは旦那様。
クラリスも旦那様。
そしてカレンは、少しだけ迷ってから言った。
「私は……ご主人様、で」
リシアとクラリスが、同時にカレンを見る。
カレンは耳まで赤くなりながら、しかし小さく言った。
「私は、良樹さんのものなので」
リシアは数秒黙った。
それから、深く息を吐いた。
「カレン、あなた本当に強いわね」
「つ、強くないです……」
「強いです」
クラリスも頷いた。
次に、起こし方を決める。
「普通に声をかけるだけでは弱いですね」
クラリスが言った。
「弱いって何が?」
リシアが聞く。
「作戦開始としてです」
「まあ、そうね」
「では、頬に口づけを」
カレンが固まった。
「ほ、頬に……」
「夫婦ですから」
便利な言葉だった。
夫婦。
その一言で、かなりのことが通ってしまう。
順番はクラリスが最初。
次にカレン。
最後にリシア。
理由は単純だった。
クラリスでは、良樹はまだ夢か現実か分からない。
カレンでは、危険すぎて処理が追いつかない。
最後にリシアが命令すれば、たぶん起きる。
クラリスは、リシアの口調を真似るように言った。
「朝よ、早く起きなさい、旦那様」
「私、そんな言い方してる?」
「しています」
「しています……」
カレンも小さく頷いた。
リシアは少しだけ赤くなった。
「いいわ。明日、決行するわよ」
三人は頷いた。
メイド服従作戦が、正式に始まった。
◇
翌朝。
良樹はまだ眠っていた。
昨日は作業を早めに切り上げた。
妻たちに休めと言われ、ちゃんと休んだ。
それ自体は良いことだった。
ただし、目覚め方までは想定していなかった。
「朝です、起きてください。旦那様」
柔らかい声。
頬に、軽い感触。
クラリスだった。
良樹は眉を動かしたが、まだ目を開けない。
次に、少し震えた声がした。
「あ、朝です。お、起きてください……ご主人様」
反対側の頬に、また軽い感触。
カレンだった。
良樹の意識が、そこで少し浮上する。
ご主人様。
なぜ。
そして最後に。
額に、温かい感触が落ちた。
「朝よ。早く起きなさい、旦那様」
リシアの声だった。
良樹は目を開けた。
視界に、三人がいた。
リシア。
黒と濃紺を基調にしたクラシカルなメイド服。
胸元まできっちり閉じられ、白いエプロンが上品に整っている。
露出は少ない。
少ないはずなのに、隠しているものの存在感が消えていない。
むしろ、閉じていることで圧が増している。
クラリス。
黒ベースのミニスカメイド服。
白いエプロン。
白いニーソ。
いつもの白い法衣とは違う。
清楚さを残したまま、危険な位置まで距離を詰めている。
カレン。
黒と白のフレンチ風メイド服。
肩は出しすぎず、胸元は少し開いている。
素足。
恥ずかしそうにしながらも、良樹を見ている。
良樹は、数秒黙った。
リシアは、品で逃げ道を塞いでくる。
クラリスは、清楚な顔で非常停止を抜きに来る。
カレンは、恥ずかしさで心臓を直接掴んでくる。
良樹は静かに目を閉じた。
「……なんだ、夢か」
「起きなさい!」
「ゆ、夢じゃないです!」
「現実です、旦那様」
良樹は再び目を開けた。
「現実の負荷が高い」
◇
しばらくして。
良樹は寝台から起き上がった。
正確には、起き上がらされた。
リシアに正面から押し切られ、クラリスとカレンに両側から支えられ、どうにか寝台の端に腰を下ろす。
頭は起きている。
体も起きている。
だが、処理能力はまだ戻っていない。
「それで、良樹」
リシアが何でもないことのように言った。
「せっかくだし、この格好で少し出かけてみる?」
良樹の動きが止まった。
「……出かける?」
「ええ。仕立て屋にも見せに行きたいし。街の人に見られても、別におかしくはないでしょう? メイド服なんだから」
「駄目だ」
即答だった。
三人が、きょとんとする。
リシアが首を傾げた。
「どうして?」
「どうしてもだ」
「理由になってないわよ」
良樹は、少しだけ視線を逸らした。
理由はある。
あるにはある。
だが、それをそのまま口にすると、かなり格好悪い。
リシアの胸元まで閉じたメイド服。
クラリスのミニスカとニーソ。
カレンのフレンチ風メイド服と素足。
それらを、街の人間が見る。
見られる。
良樹は眉間を押さえた。
「……その格好は、入力が強い」
「入力?」
「俺への入力だ」
「良樹への?」
「ああ」
良樹は、ごにょごにょと続けた。
「だから、入力先は俺だけでいいだろ。俺の妻たちなんだから。俺だけが見ればいいというか。入力制限は俺だけのはずだというか。被害範囲を広げる必要はないというか」
三人が、黙った。
リシアが瞬きをする。
クラリスが口元に手を添える。
カレンが、耳まで赤くなる。
良樹はさらに視線を逸らした。
「……何だ」
リシアが、ゆっくりと笑った。
「へえ」
「何だその顔は」
「別に」
「絶対別にじゃねえ」
クラリスが静かに言った。
「良樹くん」
「何だ」
「つまり、私たちのメイド服姿を、他の方には見せたくないということですね」
「翻訳精度が高すぎる」
「違いますか?」
良樹は黙った。
黙った。
かなり黙った。
そして、諦めたように小さく言った。
「……違わねえよ」
カレンが、エプロンの端をぎゅっと握った。
「あ、あの。ご主人様だけに、見てほしいです」
良樹はカレンを見た。
そしてすぐに目を逸らした。
「カレン」
「は、はい」
「そういう追撃をするな」
「つ、追撃のつもりでは……」
「天然追撃が一番危険なんだよ」
リシアは完全に楽しそうだった。
「じゃあ、今日は家の中だけね」
「今日はじゃねえ。その格好は基本的に家の中だけだ」
「基本的に?」
「例外を作るな」
「ふふ。分かったわ」
リシアはスカートの裾を少しだけ摘まむ。
「旦那様がそう言うなら、仕方ないわね」
「その言い方はやめろ」
「嬉しいのよ」
「言うな」
「嬉しいわ」
「二回言うな」
クラリスも、静かに微笑んだ。
「私も嬉しいです。旦那様に、独り占めしたいと思っていただけるのは」
「独り占めとか言うな」
「では、入力制限ですね」
「そっちも言うな」
カレンが小さく頷いた。
「ご主人様専用、ですね……」
良樹は片手で顔を覆った。
「一番駄目な言い換えが来た」
三人は嬉しそうだった。
良樹は、負けを認めるしかなかった。
「……分かった。今日は家の中だけだ。外には出ない。出さない。被害範囲はこの家の中で止める」
「被害って何よ」
「俺だ」
「自分だけなのね」
「そうだ。入力対象は俺だけでいい」
リシアが微笑む。
「はい、旦那様」
カレンも、真っ赤になりながら頷いた。
「は、はい……ご主人様」
そして、クラリスが一歩前に出た。
「では旦那様。お食事を用意していますので、どうぞ」
◇
声は穏やかだった。
いつものクラリスだった。
だが、姿はいつものクラリスではない。
黒ベースのミニスカメイド服。
白いエプロン。
白いニーソ。
普段の法衣よりずっと軽く、ずっと近く、ずっと危険な服。
そのクラリスが、良樹の左側にすっと寄った。
「お手を」
「いや、歩ける」
「はい。歩けることは確認しています」
「なら」
「ですが、今日は私がご案内します」
そう言って、クラリスは良樹の左腕を取った。
取った、だけではなかった。
腕に、胸元を寄せる。
柔らかい感触が、左腕を包んだ。
良樹の動きが止まる。
「クラリス」
「はい、旦那様」
「これは案内なのか」
「はい」
「俺の左腕の自由度がゼロなんだが」
「迷わないように固定しています」
「固定方法が間違っている」
「外れにくい方が安全です」
「安全の意味を都合よく使うな」
クラリスは、良樹を見上げて微笑んだ。
清楚だった。
とても清楚だった。
だからこそ、余計にたちが悪かった。
「旦那様。家の中にいるなら、こういうことも人目を気にしなくてよくなりますから」
良樹は、一瞬言葉を失った。
それは、そうだ。
外には出ない。
人には見せない。
被害範囲はこの家の中で止める。
そう言ったのは、良樹だった。
だが、その結果として。
人目を気にしなくていいから、もっと近づける。
という運用に変換されるとは思っていなかった。
「クラリス」
「はい」
「俺は今、自分で設定した制限に首を絞められている気がする」
「制限範囲内での適正運用です」
「適正の定義を見直せ」
「嫌ですか?」
良樹は目を閉じた。
嫌ではない。
嫌なわけがない。
だが、嫌ではないと言えば、クラリスはたぶんこのまま進む。
言わなければ、クラリスが傷つく。
そして何より。
クラリスは、ふざけているだけではなかった。
良樹が家の中だけだと言った。
良樹だけが見ればいいと言った。
その言葉を、妻として受け取って、近づいてきている。
良樹は、息を吐いた。
「……刺激が強い」
クラリスが、ぱちりと瞬きをした。
「刺激、ですか?」
「ああ。クラリスの格好も含めてな」
クラリスの微笑みが、ほんの少し止まった。
「私の、格好……」
「ああ。その、普段はほとんど肌を見せない格好だし、今日はいつもと全然違う。だから、どうしても」
良樹は言いにくそうに視線を逸らした。
「目が、そっちに行く」
クラリスは固まった。
清楚な笑みのまま、固まった。
それから、少しずつ頬が赤くなる。
「……そっち、ですか」
「言わせるな」
「見て、しまうのですか?」
「見るなと言うなら見ない」
良樹はすぐにそう返した。
その返しが、またクラリスに刺さった。
見てしまう。
でも、見ないでほしいなら見ない。
良樹は、そういう男だった。
クラリスは、自分のスカートの裾を軽く押さえた。
さっきまで、抑えないで良いと言っていた手が。
今は、少しだけ乙女らしく裾に触れている。
「……嫌では、ありません」
声が小さい。
「でも、そう言われると」
クラリスは、良樹から少しだけ視線を逸らした。
「少し、恥ずかしいです」
良樹は、そこでようやくクラリスを見る。
清楚な確信犯ではない。
良樹に見られていると分かって、普通に照れているクラリスだった。
「クラリス」
「はい……」
「嫌じゃないなら、見る。ただし、無遠慮には見ない」
クラリスの顔が、さらに赤くなった。
「……はい」
「あと、刺激は強いが」
良樹は、少しだけ言葉を選んだ。
「似合ってる」
クラリスは、完全に止まった。
「……似合って、いますか?」
「ああ」
「本当に?」
「本当だ。清楚なまま、いつもより近く見える。それが、その」
良樹は、かなり言いにくそうにした。
「かなり効く」
クラリスは、スカートの裾を押さえたまま俯いた。
耳まで赤い。
「……良樹くん」
「何だ」
「今のは、少しずるいです」
「どこがだ」
「私は、からかう側のつもりでした。なのに、そんなふうに言われると、私の方が、恥ずかしくなります」
良樹は、少しだけ笑った。
「いつもお前にやられてる分だ」
「仕返しですか?」
「結果的にな」
クラリスは、恥ずかしそうにしながらも、少しだけ嬉しそうに笑った。
「では、仕返しされたということで、今回は引き分けにしておきます」
「何の勝負だ」
「夫婦の勝負です」
「また夫婦を便利に使う」
「便利ですから」
リシアが、横でにやにやしていた。
「クラリスが乙女になってるわ」
「リシア。今は言わないでください」
「かわいいわよ」
「……ありがとうございます」
カレンも胸元で両手を握っていた。
「クラリス、すごくかわいいです」
「カレンまで……」
クラリスは、ますます赤くなった。
良樹は、それを見て息を吐いた。
「刺激が強いのは間違ってねえな」
「旦那様」
「何だ」
「その言い方は、もう少し後でお願いします」
「後ならいいのか」
クラリスは、顔を赤くしたまま、小さく微笑んだ。
「……はい」
「強いのか弱いのか、分からねえな」
「どちらも私です」
クラリスはそう言って、良樹の腕をもう一度そっと抱いた。
「では、参りましょう。旦那様」
良樹の左腕は、クラリスに捕獲されたままだった。
◇
食事の席についてからも、良樹の処理能力は戻り切っていなかった。
朝食は、いつもより丁寧に並べられていた。
焼きたてのパン。
温かいスープ。
軽く焼いた肉。
野菜。
香草茶。
それ自体は普通だった。
問題は、給仕している三人が普通ではないことだった。
リシアは胸元まできっちり閉じたクラシカルなメイド服で、まるでこの家のすべてを把握している女主人のように立っている。
カレンはフレンチ風のメイド服で、良樹と目が合うたびに小さく赤くなりながらも、一生懸命に皿を置いている。
そしてクラリスは。
黒いミニスカメイド服で、白いニーソで、清楚な顔をしていた。
清楚だった。
清楚ではあるのだが。
ミニスカートに、慣れていなかった。
いや、慣れていないはずだった。
歩くたびに、裾が揺れる。
身を屈めるたびに、危ない。
皿を置く時、椅子の横を通る時、少しだけ腰を落とす時。
そのたびに、良樹の視界の端で何かがちらつく。
良樹は分かっていた。
見てはいけない。
いや、見えている。
見えているが、見るな。
夫婦である。
裸も知っている。
することもしている。
だが、それとこれは別だ。
朝食の席で、メイド服の裾がちらつくのは、別の事故だ。
しかも、クラリスは清楚な顔をしている。
非常にたちが悪い。
見かねたのは、カレンだった。
「あ、あの、クラリス」
「はい?」
「その……ちゃんと抑えないと、見えてますよ」
カレンは真っ赤な顔で、小さな声で言った。
クラリスは、ぱちりと瞬きをした。
それから、自分のスカートを見た。
次に、良樹を見た。
もう一度、スカートを見る。
そして、また良樹を見る。
良樹は無言だった。
無言で、少しだけ視線を逸らしていた。
「カレン」
「は、はい」
「カレンは以前、『俺以外の男に見せるな』と旦那様に言われたのですよね?」
「はい、そうですけど……」
「ここは私たちの家の中です。他の男性は居ません」
「……はい」
クラリスは、静かに頷いた。
「なるほど。カレンの気持ちが、私にも分かりました。なので、このままで」
「こ、このままですか!?」
「はい」
クラリスは、良樹の方を向いた。
清楚だった。
本当に、清楚な顔だった。
黒いミニスカメイド服で。
白いニーソで。
スカートを抑えないまま。
清楚な顔で、良樹に問いかけた。
「問題ありますか? 旦那様」
良樹は沈黙した。
深く、長く、沈黙した。
沈黙の艦隊だった。
問題はある。
山ほどある。
だが、それはクラリスが嫌だという問題ではない。
むしろ、逆だった。
クラリスが自分にだけ見せる顔。
清楚なまま、少しだけ意地悪く近づいてくる距離。
良樹の言葉を逆手に取って、それでも妻として甘えてくる姿。
それを嫌だなどと言えるはずがなかった。
「……問題はある」
クラリスが、ぱちりと瞬きをした。
「あるのですか?」
「ああ。刺激が強すぎる」
「刺激」
「さっきも言っただろ。その格好も含めてだ」
クラリスの頬が、また少し赤くなる。
「はい……」
「普段のお前は、ほとんど肌を見せない。だから余計に、どうしても目が行く」
「……はい」
「それで、お前が、そういう顔で、問題ありますか、なんて聞いてくる」
良樹は、深く息を吐いた。
「問題はある。俺の処理能力にだ」
リシアが横で口元を押さえていた。
「良樹、かなり正直ね」
「正直に言わないと逃げ道がねえ」
「逃げなくていいのでは?」
クラリスが小さな声で言った。
良樹はクラリスを見る。
クラリスは赤くなっていた。
清楚な確信犯ではなく。
ただ、良樹に見られていることを受け止めて、少し照れている顔だった。
「……そういうところだぞ」
「はい」
「はいじゃねえ」
カレンは、胸元で手を握ったまま、二人を見ていた。
「クラリス、かわいいです……」
「カレンまで……」
クラリスはスカートの裾を軽く押さえた。
抑えるなと言ったのは自分なのに。
良樹にそこへ目が行くと言われると、どうしても少し恥ずかしい。
「旦那様」
「何だ」
「その、見られるのは、嫌ではありません」
「ああ」
「ですが、そう言葉にされると、少し……」
「恥ずかしいか」
「はい」
良樹は小さく息を吐いた。
「俺もだ」
「良樹くんも?」
「ああ。見てしまうのも、見てしまうって言うのも、どっちも恥ずかしい」
クラリスは、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「同じですね」
「同じだな」
リシアが、軽く肩をすくめた。
「朝食、進まないわね」
「進める気があるなら、まずクラリスを止めろ」
「でも、家の中だけだし」
「リシア」
「はい、旦那様」
「お前もその返事を覚えるな」
リシアは楽しそうに微笑んだ。
その時だった。
ちん、と小さな音がした。
食卓の横で、銀のスプーンが床に落ちていた。
「あら」
クラリスが、穏やかに言った。
「うっかりスプーンを落としてしまいました」
良樹は、嫌な予感を覚えた。
リシアも、何かを察した顔をした。
カレンは、まだ顔を赤くしたまま、クラリスを見る。
クラリスは良樹に背を向けた。
そして、ゆっくりと腰を折った。
前屈の姿勢。
黒いミニスカートの裾が、少し持ち上がる。
白いニーソとの境目が、危険な角度で伸びる。
良樹の中で、警報が鳴った。
クラリスは、すぐには拾わなかった。
指先を床へ伸ばす。
少し届かない。
ほんの少し、姿勢を変える。
時間をかける。
明らかに、時間をかける。
そして、ちらりと良樹を見る。
自分も、ちらりと見える。
もう一度、スプーンへ手を伸ばす。
また、ちらりと良樹を見る。
良樹は固まっていた。
椅子に座ったまま、完全に停止していた。
「クラリス」
良樹の声は低かった。
「はい、旦那様」
クラリスは前屈の姿勢のまま、顔だけを少しこちらへ向けた。
「そのスプーンは、そんなに拾いにくい位置に落ちているのか」
「はい。少しだけ、拾いにくいです」
「俺には、普通に手を伸ばせば取れる位置に見える」
「旦那様には、そう見えるのですね」
「そう見える」
「では、旦那様の視界は正常です」
「そういう確認をするな」
クラリスは、また少しだけ指先を伸ばした。
スプーンには届いている。
届いているのに、拾わない。
明らかに、拾わない。
リシアが、こめかみを押さえた。
「クラリス」
「はい?」
「それ、うっかりではないわよね」
「うっかりです」
「どの部分が?」
「スプーンを落としたところです」
「拾い方は?」
「意図があります」
「認めたわね」
カレンが両手で顔を覆った。
「ク、クラリス……!」
クラリスは、ようやくスプーンを拾った。
しかし、すぐには身体を起こさなかった。
スプーンを手にしたまま、良樹の方をちらりと見る。
その表情は清楚だった。
少し恥ずかしそうで。
少し楽しそうで。
そして、完全に分かっている顔だった。
「旦那様」
「何だ」
「先ほど、私たちは家の中だけにすると決まりました」
「ああ」
「人目を気にしなくてもよくなりました」
「ああ」
「そして、旦那様は私たちの姿を、旦那様だけが見ればいいと仰いました」
「……言った」
「では」
クラリスは、ゆっくり身体を起こした。
スカートの裾が、ふわりと戻る。
「これは、条件内の行動ですね」
良樹は目を閉じた。
「条件内ではある」
「はい」
「だが、運用が攻めすぎている」
「攻めてはいません。ご奉仕です」
「今のはスプーン拾いだ」
「旦那様の朝を楽しくするための、ご奉仕です」
「定義が広すぎる」
クラリスは、拾ったスプーンを胸元に添え、少しだけ首を傾げた。
「問題ありますか? 旦那様」
三度目だった。
良樹はまた黙った。
だが、今度の沈黙は、逃げるためのものではなかった。
良樹は、クラリスを見た。
黒いメイド服。
白いエプロン。
白いニーソ。
普段のクラリスなら、ほとんど見せない脚。
清楚な顔。
少しだけ意地悪な目。
それでも、さっき良樹に見られると言われて、確かに照れた顔。
良樹は、ようやく口を開いた。
「ある」
クラリスは瞬きをした。
「あるのですね」
「ああ。刺激が強い。だが」
良樹は少しだけ言葉を選んだ。
「楽しい」
クラリスの表情が止まった。
「楽しい、ですか?」
「ああ。お前に振り回されてるのは、かなり大変だ。だが、楽しい」
クラリスの頬が、ほんの少しだけ赤くなった。
「……そうですか」
「ああ。ただし、限度はある」
「はい。限度を確認しながら進めます」
「その返事が一番信用ならねえ」
クラリスは、拾ったスプーンを胸元に添え、清楚に微笑んだ。
「では旦那様。次も、問題がある時は教えてください」
「問題しか起こしてねえだろ」
「では、報告頻度が高くなりますね」
「上手いこと言うな」
良樹は、深く息を吐き、ようやくパンへ手を伸ばした。
朝食は、まだ始まったばかりだった。
現実の負荷は、相変わらず高かった。
◇
朝食の後。
ようやく食事が終わった頃には、良樹の精神的な疲労は、なぜか朝起きた時より増えていた。
おかしい。
飯を食ったはずだ。
体力は回復するはずだ。
それなのに、精神負荷は増えている。
原因は明白だった。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人のメイド服である。
いや、正確にはメイド服だけではない。
それを着た三人が、自分を世話しようとしてくることだった。
しかも、全員が妻である。
逃げ道がない。
「それじゃあ、次は私ね」
食後のお茶を片付けたリシアが、そう言った。
良樹は椅子に座ったまま動きを止めた。
「次?」
「ええ。クラリスばかり良樹に世話をしていたでしょう」
「していたというか、攻撃されていたというか」
「ご奉仕です」
クラリスが清楚に言った。
「その言葉で全部通すな」
良樹が返すと、リシアは少し楽しそうに笑った。
「だから、次は私の番」
「何をする気だ」
「耳かきよ」
良樹は、一瞬だけ黙った。
「耳かき」
「そう。良樹の世界にもあったでしょう?」
「あったが」
「なら問題ないわね」
「ある。耳かきは距離が近い」
「夫婦なのに?」
「夫婦でも近いものは近い」
「それを受け取る練習でしょ、旦那様」
リシアは、さらりと言った。
旦那様。
まだ慣れない。
いや、慣れてはいけない気がする。
良樹は額に手を当てた。
「……それ、今日一日続ける気か」
「もちろん」
リシアは当然のように答えた。
「今日はメイドだもの」
「メイドの定義がどんどん妻に寄ってる」
「妻がメイドをしているんだから、当然でしょう」
「正論っぽく聞こえるのが困る」
「正論よ」
リシアはそう言って、長椅子へ腰を下ろした。
クラシカルなメイド服。
黒と濃紺を基調にした、落ち着いた正統派。
胸元はきちんと閉じられ、白いエプロンも上品に整っている。
膝より少し下まで落ちたスカートは、カレンやクラリスの服とは違い、露出を抑えていた。
だからこそ、リシアらしかった。
強い。
隠している。
品がある。
そして、隠しているのに逃げ場がない。
リシアは膝の上を軽く叩いた。
「ほら、来なさい」
「命令か」
「お願いの方がいい?」
「どっちでも負荷が高い」
「じゃあ命令でいいわね」
「よくねえ」
とはいえ、良樹は立ち上がった。
拒む理由はない。
いや、理由なら山ほどある。
あるが、どれも言葉にすると格好悪い。
耳かき。
妻の膝枕。
メイド服。
旦那様。
危険語句が多すぎる。
良樹は、ゆっくりとリシアの膝へ頭を乗せた。
乗せた。
……はずだった。
「……ん?」
「どうしたの?」
「いや」
良樹は、少しだけ頭の位置を動かした。
メイド服のスカート。
エプロン。
布の重なり。
膝の角度。
全部がきちんとしている。
きちんとしているせいで、頭の座りが微妙に悪い。
布越しの膝枕が悪いわけではない。
柔らかい。
温かい。
いい匂いもする。
だが、エプロンとスカートの折り目が、妙に頭の下で主張してくる。
良樹は、少しだけ位置を探した。
もぞ。
少し動く。
まだ合わない。
もぞ。
反対へ動く。
微妙に違う。
「良樹」
「何だ」
「動かれると、くすぐったいんだけど」
「悪い。ポジションが決まらない」
「ポジションって言い方をやめなさい」
「頭の座りが悪い」
「……そう」
リシアは一度、良樹の頭を見下ろした。
良樹はリシアの膝の上で、少し困った顔をしている。
メイド服は綺麗だった。
上品だった。
正統派だった。
ただ、耳かきには少し布が多い。
リシアは、小さく息を吐いた。
「仕方ないわね」
「何が」
「動かないで」
「待て。何を」
リシアは、片手でスカートの裾を少し持ち上げた。
良樹の動きが止まった。
黒いスカートの下。
きちんと覆われていたはずの脚。
黒いパンストに包まれた太ももが、静かに現れる。
リシアは、慌てているわけでもない。
恥ずかしさで暴走しているわけでもない。
ただ、仕方ない、という顔だった。
耳かきをする。
膝枕をする。
そのために、良樹の頭が安定しない。
だから、布をどける。
理屈としては、通っている。
通っているのが、一番まずかった。
「リシア」
「何よ」
「それは」
「頭の座りが悪いんでしょう?」
「そうだが」
「じゃあ、直接の方がいいでしょ」
「直接ではない。パンスト越しだ」
「細かいわね」
「細かくない。大きな違いだ」
「旦那様」
「何だ」
「今は黙って、妻に世話をされなさい」
良樹は黙った。
黙るしかなかった。
リシアは、持ち上げたスカートの裾を整え、良樹の頭を自分の太ももの上へそっと置き直した。
黒いパンスト越しの太もも。
柔らかい。
だが、ただ柔らかいだけではない。
リシアらしい芯がある。
温かい。
服越しとは違う体温が、近い。
良樹の頭は、今度こそすっと収まった。
「……座りがいい」
「でしょうね」
「良すぎる」
「文句を言わない」
「文句じゃねえよ。危険報告だ」
「却下」
リシアはそう言って、耳かきを手に取った。
リシアは、耳かきの手を慎重に動かしていた。
かり。
すっ。
ふわり。
最初は少しぎこちなかった手つきも、少しずつ落ち着いてきた。
良樹の呼吸が、ゆっくりになる。
肩の力が抜ける。
太ももに預けられた頭の重さが、ほんの少しだけ増す。
それが分かった。
良樹が、自分に身を預けている。
その事実に、リシアの胸の奥が少し温かくなる。
「……痛くない?」
「ああ」
「くすぐったくない?」
「少し」
「我慢しなさい」
「理不尽だな」
「動かれると危ないのよ」
言いながら、リシアは耳元を覗き込む。
もっとよく見ようとする。
痛くしないように。
奥まで入れすぎないように。
でも、きちんと綺麗にしてあげられるように。
そのために、自然と身体が前へ寄った。
ほんの少し。
最初は、本当にほんの少しだった。
だが、リシアは集中していた。
良樹の耳。
耳かきの角度。
手首の動き。
良樹の呼吸。
肩の力。
それらを見ながら、さらに少しだけ前へ傾く。
良樹の視界が、狭くなった。
上から、リシアの気配が近づく。
クラシカルなメイド服。
胸元まできっちり閉じた、上品で正統派の服。
だが、その正統派の布の奥にある物理的存在感は、少し前かがみになっただけで、良樹の視界を完全に支配した。
下には、黒いパンスト越しのリシアの太もも。
左右には、膝枕の姿勢で良樹の頭を安定させるリシアの脚。
そして上には。
リシアのリシアが放つ、どうにも逃げようのない圧。
良樹は、完全に止まった。
上下から。
四点で。
挟まれた。
技術的に言えば、保持。
構造的に言えば、固定。
感覚的に言えば、包囲。
倫理的に言えば、夫婦。
どの表現を採用しても、良樹の退避先は存在しなかった。
「……リシア」
「何?」
リシアは耳かきに集中したまま返事をした。
「今、かなり近い」
「耳かきなんだから近いでしょう」
「そういう近さじゃない」
「動かないで」
「いや、俺は動けない」
「じゃあ、ちょうどいいわ」
「よくねえ」
良樹の声が、少しだけ籠もる。
そこで、リシアはようやく違和感に気づいた。
自分の姿勢。
良樹の頭の位置。
上から覆うように前のめりになっている自分。
そして、良樹の視界を完全に塞いでいるもの。
リシアの手が止まった。
「……もしかして」
「ああ」
「見えてない?」
「見えてない」
「私の顔」
「見えてない」
「……何が見えてるのよ」
「言わせるな」
リシアの顔が、一気に赤くなった。
だが、良樹からは見えない。
見えない理由は、リシア自身だった。
リシアは、耳かき棒を持ったまま固まった。
そのまま、動かない。
「リシア」
「何よ」
「一度、姿勢を戻せ。この状態で耳かきは危ない」
「……危ないのは分かってるわ」
リシアの声は、少しだけ小さかった。
「当たってはいるし。この姿勢が、その……良樹にとって危ないのも、分かってる」
「なら」
「でも」
リシアは、耳かき棒を持つ手を少しだけ止めたまま、ゆっくり息を吸った。
「耳かき中は、ちゃんと見ないと危ないでしょう」
良樹は黙った。
それは正しい。
耳かきは、見えないままやっていいものではない。
感覚だけで奥へ入れるなど論外だ。
相手が少し動けば危ない。
手元が狂えば傷つける。
だから、リシアが覗き込むのは間違っていない。
間違っていない。
間違っていないのが、非常にまずい。
「それに」
リシアの声が、さらに少しだけ照れた。
「私だって、良樹の妻よ」
「……ああ」
「良樹のもの、でもあるわ」
良樹の呼吸が止まりかけた。
リシアは、言ってから自分でも顔を赤くした。
だが、止まらなかった。
「だから、良樹のものが、上から良樹の顔に当たっても、問題ない、はず」
沈黙。
長い沈黙。
良樹は、リシアの太ももの上で完全に固まった。
「……リシア」
「何よ」
「今のは、理屈としてはかなり危険だ」
「分かってるわよ」
「分かってて言ったのか」
「分かってるから言ったのよ」
リシアの声は、強がっていた。
強がっているが、震えてはいない。
良樹は目を閉じた。
上には、リシア。
下には、リシアの太もも。
耳元には、リシアの声。
そして、今の言葉。
良樹のもの。
その言葉が、良樹の中で静かに過負荷を起こしていた。
リシアは、少しだけ声を柔らかくした。
「……嫌だった?」
良樹は、すぐには答えなかった。
嫌ではない。
嫌なわけがない。
ただ、これを許すと、何かが一段進む。
そう分かっている。
だが、リシアはふざけているだけではなかった。
耳かき中だから見ないと危ない。
良樹に身を預けてほしい。
自分も良樹の妻として、良樹のものだと認めたい。
その全部が、今の一言に入っていた。
良樹は、息を吐いた。
「……気持ちよかった」
リシアの手が止まった。
「……え」
その返事は、予想していなかった。
嫌じゃない。
そう返ってくると思っていた。
照れ隠し。
文句。
安全だの保護回路だの、いつもの良樹の言い方。
そのどれでもなかった。
気持ちよかった。
短く。
逃げずに。
受け取った言葉だった。
リシアの顔が、じわじわと赤くなる。
「どこが?」
聞いてから、自分でも少し後悔した。
耳かきが、か。
太ももが、か。
声が、か。
それとも、さっきの言葉が、か。
聞いてはいけない問いだった気もする。
けれど、もう聞いてしまった。
良樹は、少しだけ黙った。
それから、目を閉じたまま答えた。
「全部」
リシアは、完全に固まった。
全部。
耳かきも。
太ももも。
リシアの声も。
近さも。
自分を妻として、良樹のものだと言ったことも。
良樹が、そこから逃げずに受け取ったことも。
全部。
「……そう」
リシアの声は、かなり小さかった。
「ああ」
「なら」
リシアは、赤くなった顔を隠すように、少しだけ俯いた。
良樹からは、その表情が見えない。
また、リシア自身が遮っている。
「もう少し、このままにするわ」
「耳かきは?」
「続ける。でも、その前に少しだけ」
「少しだけ?」
「……少しだけ、私も喜ばせて」
良樹は黙った。
リシアは、耳かき棒を安全な位置へ置いたまま、そっと良樹の髪を撫でた。
太ももの上に預けられた頭。
上から包むように近い身体。
顔は見えない。
けれど、触れる指は優しかった。
良樹は、目を閉じたまま言った。
「リシア」
「何?」
「今のは、耳かきの工程に入ってるのか」
「入ってないわ」
「じゃあ何だ」
「妻の時間」
良樹は、返す言葉を失った。
リシアは小さく笑った。
「家の中だけでしょう?」
「……ああ」
「良樹だけでしょう?」
「ああ」
「なら、いいじゃない」
良樹は、深く息を吐いた。
「……保護回路が持たねえ」
「落とさないで」
「落ちるような入力を入れてるのはお前だ」
「受け止めなさい、旦那様」
「強い」
「妻だもの」
リシアは、そう言ってから、またそっと良樹の髪を撫でた。
耳かきは、まだ続いていない。
けれど良樹は、動かなかった。
逃げなかった。
ただ、リシアの太ももの上で、妻に世話される時間を受け取っていた。
少し離れたところで、クラリスが口元に手を添えた。
「リシア」
「何よ」
「とても良いです」
「今は茶化さないで」
「茶化していません。良樹くんが、受け取りました」
カレンも、胸元で両手を握っていた。
「はい。良樹さん、ちゃんと……」
リシアは何も言わなかった。
言えなかった。
ただ、良樹の髪を撫でる指先だけが、少しだけ震えていた。
良樹は、目を閉じたまま小さく呟いた。
「……正統派は、逃げ道がない」
「聞こえてるわよ」
「聞こえるように言った」
「そう」
リシアは、少しだけ笑った。
「逃げなくていいわよ」
そして、もう一度耳かき棒を手に取った。
「旦那様。続きをするから、動かないで」
「……頼む」
その一言に、リシアの手がまた一瞬だけ止まった。
頼む。
それは、良樹が少しずつ覚えてきた言葉だった。
任せる。
預ける。
受け取る。
戦いの中だけではない。
生活の中でも。
リシアは、赤い顔のまま、けれど今度は柔らかく微笑んだ。
「任せなさい」
耳元で、かり、と小さな音がした。
◇
昼になった。
朝から続くメイド服従作戦は、良樹の予想を大きく超えて継続していた。
朝食。
給仕。
クラリスによる、清楚な確信犯。
リシアによる、正統派耳かき膝枕。
その全てを経て、良樹はすでにかなり静かになっていた。
静かになった理由は、悟りではない。
余計なことを言うと、妻たちがさらに踏み込んでくると学習しただけである。
そして、昼食。
食卓には、三人で作った料理が並んでいた。
焼いた肉。
野菜のスープ。
柔らかく煮た豆。
香草を混ぜた卵料理。
焼きたてのパン。
特別豪華というわけではない。
けれど、どれも丁寧に作られていた。
「三人で作ったのか」
良樹が聞くと、リシアが少し得意そうに頷いた。
「ええ。今日はメイドだもの」
クラリスも微笑む。
「旦那様にお出しするお食事ですから」
カレンは、少し緊張した顔で両手を握っていた。
「あ、あの……味は、ちゃんと確認しました」
「なら安心だな」
「はい」
そこで、カレンは一度深呼吸した。
それから、良樹の横へ来る。
いつもより少しだけ大人っぽい、黒と白のメイド服。
胸元は少し開いている。
肩は出しすぎず、可愛らしさと背伸びが同居している。
素足の膝が、緊張で少しだけ寄っていた。
カレンは、椅子を良樹のすぐ隣へ引いた。
かなり近い。
かなり近い位置に座った。
「カレン」
「は、はい」
「近い」
「す、すみません」
謝りながらも、カレンは椅子を離さなかった。
良樹はその時点で、少し嫌な予感を覚えた。
嫌ではない。
嫌ではないが、嫌な予感だった。
「それで、何をする気だ」
カレンは、真っ赤になりながら、スプーンを手に取った。
「あ、あの。お食事を……」
「食事なら自分で食える」
良樹は真顔で言った。
「俺はもう怪我人でも何でもないんだが」
実際、その通りだった。
腕も動く。
手も動く。
箸はないが、スプーンもフォークも使える。
食事介助が必要な状態ではない。
だが、カレンはスプーンを握ったまま、小さく肩を震わせた。
「で、でも」
声が、小さくなる。
「今日は、メイドで、ご主人様に、奉仕する日、なので……」
良樹の動きが止まった。
カレンは、恐る恐る顔を上げた。
上目遣いだった。
大きな瞳が少し潤んでいる。
恥ずかしい。
怖い。
でも、やってみたい。
そんな顔だった。
「ダメ、ですか?」
その瞬間。
カレンの放つ見えないエレメンタル・ストライクが、良樹の見えないどこかを正確に撃ち抜いた。
リシアの狙撃型より細く。
クラリスの打撃より深く。
逃げ場も戻り線もない場所を、綺麗に貫いた。
良樹は、しばらく沈黙した。
駄目なわけがない。
カレンは、自分に食べさせたいのだ。
怪我人扱いしたいのではなく。
子ども扱いしたいのでもなく。
ご主人様に奉仕するメイドとして。
そして、良樹の妻として。
自分の手から食べてほしいと、そう言っている。
良樹は、片手で顔を覆いかけた。
「……待て」
「は、はい」
「少し心の準備をさせろ」
「心の、準備……ですか?」
「ああ」
良樹は、視線を逸らした。
「ただでさえ普段から、その、かわいいお前らに」
カレンの動きが止まった。
リシアの眉が、わずかに上がった。
クラリスも、口元に添えていた手を止めた。
良樹は、自分が何を言ったか分かっていながら、もう止まれなかった。
「いきなりこんなことされて、順応できるほど、俺は器用じゃねえ」
食堂が、一瞬静かになった。
カレンの顔が、耳まで真っ赤になっていく。
「か、かわ……」
「言い直させるな」
「い、いえ。その、嬉しい、です」
カレンは、スプーンを持ったまま、胸元で小さく身を縮めた。
「良樹さんに……ご主人様に、かわいいって、言ってもらえるの、すごく、嬉しいです」
良樹は目を逸らしたまま、短く息を吐いた。
「……だから、駄目じゃない」
カレンが、ぱっと顔を上げる。
「本当ですか?」
「ああ。ただ、急に来ると処理が追いつかない。少し待て。そのあとなら、食べる」
カレンは、真っ赤な顔で、けれど嬉しそうに頷いた。
「はい。待ちます」
リシアが横で小さく笑った。
「良樹」
「何だ」
「普段からかわいい、ね」
「そこを拾うな」
「拾うわよ。三人まとめて言われたもの」
クラリスも穏やかに微笑んだ。
「私たち全員へのご褒美ですね」
「ご褒美にするな」
「ですが、嬉しいです」
「……そうかよ」
カレンは、スプーンを持ったまま、良樹の準備ができるのを待っていた。
急かさない。
けれど、目は期待で揺れている。
良樹は、深く息を吸った。
そして、観念したようにカレンを見る。
「……よし。頼む」
カレンの表情が、花が咲くように明るくなった。
「はい!」
その返事は、今日一番まっすぐだった。
カレンはスプーンで料理をすくった。
豆と卵を少し。
肉の小片を少し。
食べやすい量。
それを口元へ運ぶ前に、ふう、と息を吹いた。
「熱いか?」
「熱すぎると、いけないので……」
ふう。
もう一度。
カレンの唇が小さく丸くなる。
目は真剣。
頬は真っ赤。
けれど、スプーンを持つ手は丁寧だった。
良樹は、その仕草を見て思った。
これは攻撃ではない。
攻撃ではない。
断じて攻撃ではない。
だが、被弾している。
「は、はい」
カレンは、震える声で言った。
「ご主人様。あーん、です」
良樹は目を閉じた。
閉じても状況は変わらない。
むしろ、声だけになる分、破壊力が上がる。
良樹は諦めて口を開けた。
ぱくり。
カレンが差し出したスプーンから、料理を食べる。
温かい。
冷ましすぎていない。
ちょうどいい温度だった。
味もいい。
少し素朴で。
少し優しくて。
カレンらしい味がした。
「どう、ですか?」
カレンが、不安そうに聞いた。
良樹は飲み込んでから、短く答えた。
「美味い」
その瞬間、カレンの顔がさらに明るくなった。
「よかった……!」
嬉しそうに笑う。
その笑顔が、また良樹に刺さった。
リシアが横で腕を組んでいた。
「カレン、すごいわね」
「す、すごくないです」
クラリスは清楚に微笑む。
「とても良いご奉仕です」
「ご奉仕……」
カレンは自分で言葉を受け止めて、また赤くなった。
けれど、やめなかった。
次に、カレンは同じ料理を少しだけすくった。
今度は、自分の口へ運ぶ。
「ん……」
小さく味を見る。
温度。
味。
硬さ。
良樹に食べさせる前に、確かめたのだろう。
カレンはこくりと頷いた。
「大丈夫です」
そして、そのまま同じスプーンで料理をすくい直し、良樹の口元へ差し出した。
「は、はい。ご主人様、あーん……」
良樹は、何も考えずに食べた。
ぱくり。
カレンの手から、二口目を受け取る。
「……うん。これも美味い」
「本当ですか?」
「ああ」
カレンは嬉しそうに笑った。
笑った。
そして。
数瞬後。
ぴたりと固まった。
「……あ」
カレンの目が、ゆっくりとスプーンへ落ちる。
さっき、自分が味見した。
そのスプーンで。
良樹に食べさせた。
つまり。
間接キス。
カレンの顔が、首まで一気に赤くなった。
「あ、あの。い、今の……」
良樹も、その反応を見て理解した。
カレンが何を考えたのか。
その瞬間、良樹もつられて赤くなった。
「……カレン」
「は、はい」
「今さらだ」
「そ、そうなんですけど……!」
そう。
今さらだった。
キスはしている。
抱きしめてもいる。
夫婦にもなっている。
夜を越えた日もある。
今さら、スプーンの間接キスで慌てる段階ではない。
ないはずだった。
ないはずなのに。
カレンは真っ赤だった。
良樹も赤かった。
リシアは、少し呆れたように二人を見ていた。
「あなたたち。本当に今さらよね」
クラリスは、口元に手を添えて微笑む。
「ですが、とてもカレンらしいです」
「そ、そうでしょうか……」
カレンはスプーンを握ったまま、うつむく。
「私、その。良樹さんと……ご主人様と、キスも、しているのに、こういうの、まだ、すごく恥ずかしくて……」
良樹は、少しだけ目を逸らした。
「……俺もだ」
カレンが顔を上げる。
「良樹さんも、ですか?」
「ああ」
良樹は、照れたように頬を掻いた。
「キスとは別だろ。これはこれで、恥ずかしい」
カレンの目が、少しだけ潤んだ。
けれど、それは悲しさではなかった。
嬉しさだった。
「同じ、ですね」
「ああ。同じだな」
カレンは、スプーンを両手で持ったまま、少しだけ笑った。
恥ずかしそうで。
嬉しそうで。
泣きそうで。
それでも、笑っていた。
「では」
「ん?」
「もう一口だけ。同じスプーンでも、いいですか?」
良樹は、カレンを見る。
カレンは真っ赤だった。
だが、逃げていなかった。
ご主人様に食べさせたい。
恥ずかしい。
でも、嫌じゃない。
むしろ、嬉しい。
それが全部、顔に出ていた。
良樹は、ゆっくり息を吐いた。
「……いい」
そして、少しだけ付け足した。
「カレンがそうしたいなら、俺も、そうされたい」
カレンの手が止まった。
「……良樹さん」
「今日はご主人様なんだろ」
「あ……」
「なら、食べさせてくれ」
カレンの目が、じわりと潤んだ。
「はい。はい、ご主人様」
カレンは、もう一度料理をすくった。
今度は、味見しなかった。
ただ、ふう、と丁寧に冷ます。
そして、良樹の口元へ差し出す。
「ご主人様。あーん、です」
良樹は口を開けた。
ぱくり。
今度は、二人とも分かっていた。
分かった上で。
それでも、カレンは真っ赤になり、良樹も少し赤くなった。
リシアが、ため息交じりに笑う。
「本当に、あなたたち夫婦なのよね?」
「夫婦だ」
良樹が答える。
「はい……夫婦です」
カレンも、小さく答える。
クラリスが穏やかに頷いた。
「夫婦でも、初々しいことはあります」
「限度があると思うけど」
「それがカレンです」
「否定できないわね」
カレンは恥ずかしそうにしながらも、良樹の隣から離れなかった。
肩が触れている。
腕が近い。
スプーンを持つ手が、まだ震えている。
良樹は、その手をそっと支えた。
「震えてるぞ」
「はい……」
「嫌ならやめる」
カレンは首を振った。
「嫌じゃないです。ご主人様に食べてもらえるの、嬉しいです」
良樹は黙った。
その言葉にも、見えないエレメンタル・ストライクがあった。
良樹の中の、よく分からない柔らかい場所が、また撃ち抜かれる。
「……そうか」
「はい」
カレンは、今度は少しだけ落ち着いた手つきで次をすくった。
良樹はそれを受け取る。
昼食は、思ったより時間がかかった。
なぜなら、カレンが一口ごとに照れるからである。
そして良樹も、一口ごとに少しずつ照れるからである。
キスもした。
抱きしめもした。
夫婦にもなった。
それでも、スプーンで食べさせてもらうだけで、二人は赤くなる。
初心。
あるいは、夫婦になっても消えない、最初の頃の柔らかい熱。
良樹は、カレンの手から昼食を食べながら思った。
カレンのご奉仕は、強い。
強い理由は、攻めてくるからではない。
嬉しそうにするからだ。
自分が食べるたび。
美味いと言うたび。
良樹が受け取るたび。
カレンが、本当に嬉しそうに笑う。
それが、一番効く。
「……カレン」
「はい、ご主人様」
「美味い」
カレンは、またぱっと笑った。
「はい!」
良樹は、その笑顔を見て、少しだけ言葉を足した。
「それと、食べさせてもらうのも、悪くなかった」
カレンの動きが止まる。
「悪く、なかった……ですか?」
「ああ。恥ずかしかったけどな」
「はい……私も、すごく恥ずかしかったです」
「でも」
良樹は、カレンの持つスプーンを見て、それからカレンを見た。
「嬉しかった」
カレンは、完全に赤くなった。
けれど、今度は俯かなかった。
「……私も。良樹さんに食べてもらえて、嬉しかったです」
「そうか」
「はい」
カレンは、泣きそうなくらい嬉しそうに笑った。
良樹は、内心で静かに認めた。
見えないエレメンタル・ストライクは、今日も的確だった。
◇
昼食のあと。
良樹は、長椅子で眠っていた。
昼寝である。
本人は、少し目を閉じるだけだと言っていた。
だが、三人が毛布をかける頃には、すでに完全に寝息を立てていた。
無理もない。
朝から、三人の妻にメイド服で起こされ。
家の中限定という自分の発言に追い詰められ。
クラリスに案内され。
朝食で振り回され。
リシアに耳かきをされ。
カレンに昼食を食べさせられた。
身体ではない。
精神の方が、少しだけ疲れていた。
リシアは、眠る良樹の顔を見下ろした。
「……寝たわね」
「はい」
カレンが小さく頷く。
「良樹さん、すごく静かになっていました」
「静かというか、処理落ちですね」
クラリスが穏やかに言った。
「それ、良樹がよく言う言葉よね」
「はい。今日の旦那様には、かなり適切かと」
三人は、顔を見合わせた。
そして、ほとんど同時に食堂の隅へ移動した。
良樹から少し離れた場所。
声を抑えれば、眠っている良樹には届かない距離。
そこで、三人は小さく円を作った。
メイド服のまま。
クラシカルなリシア。
フレンチ風のカレン。
黒いミニスカのクラリス。
妻会議。
ただし、いつものように夜にこっそり集まるのではない。
昼。
家の中。
良樹がすぐそばで眠っている。
だから、これは小さな妻会議だった。
「では」
クラリスが、静かに口を開いた。
「第一回、メイド服従作戦・途中確認会議を始めます」
「名前が長いわね」
リシアが言う。
「小妻会議でいいと思います」
「小妻会議……」
カレンが少しだけ照れた。
「なんだか、かわいいですね」
「かわいいけど、議題はかなり重要よ」
リシアは腕を組んだ。
「まず確認。ここまでの作戦は、成功していると思う?」
カレンは、良樹の方をちらりと見た。
良樹は眠っている。
毛布の下で、穏やかな寝息を立てていた。
「成功、していると思います。良樹さん、ちゃんと受け取ってくれています」
「そうですね」
クラリスも頷く。
「嫌ではない、ではなく。言葉にしてくれました」
リシアの肩が、少しだけ跳ねた。
カレンの顔も赤くなる。
三人は、それぞれ思い出してしまった。
クラリスは、良樹に言われた。
刺激が強い。
その格好も含めて。
普段はほとんど肌を見せないから、どうしても目がそっちに行く。
似合っている。
かなり効く。
クラリスは、そっと自分のスカートの裾に触れた。
「……旦那様は、時々ずるいです」
「あなたが言うの?」
リシアが半眼になる。
「はい。私がからかうつもりだったのに、真正面から言われると、少し……困ります」
「困ってたわね」
「はい。ですが、嬉しかったです」
カレンが、胸元で両手を握った。
「クラリス、とてもかわいかったです」
「カレンまで言わないでください」
「でも、本当にかわいかったです」
クラリスは、さらに顔を赤くした。
リシアは、少し笑った。
「次、私ね」
自分で言ってから、リシアは一瞬黙った。
耳かき。
膝枕。
スカートを上げて、パンスト越しの太ももに良樹の頭を乗せた。
耳かきに集中して、前のめりになった。
そして、良樹を上下から四点で挟んだ。
さらに。
良樹のものが、良樹の顔に当たっても問題ない、はず。
自分で言った。
思い出した瞬間、リシアの顔が真っ赤になった。
「リシア」
クラリスが微笑む。
「とても大胆でした」
「うるさいわよ」
「良樹くんに、全部と言われていましたね」
「言わなくていいわよ!」
カレンが、目を輝かせる。
「でも、すごく素敵でした。良樹さん、ちゃんとリシアに甘えていました」
リシアは黙った。
その言葉には弱かった。
良樹が自分の太ももの上で、少しずつ力を抜いていった。
自分の耳かきを受け入れた。
気持ちよかった、と言った。
どこが、と聞いたら、全部と答えた。
最後に、頼む、と言った。
それは、確かに嬉しかった。
「……そうね」
リシアは、小さく言った。
「良樹、逃げなかったわ。ちゃんと受け取ってくれた」
「はい」
「それは、嬉しかった」
カレンとクラリスが、静かに頷いた。
「それで、カレン」
リシアがカレンを見る。
「はいっ」
カレンの肩が跳ねた。
「あなたも、かなり強かったわよ」
「わ、私はそんな……」
「強かったです」
クラリスも即答した。
「特に、上目遣いで『ダメですか?』は強力でした」
「そ、それは……! そんなつもりでは……!」
「ないから強いのよ」
リシアが言う。
「良樹、完全に撃ち抜かれてたわ」
「見えないエレメンタル・ストライク、ですね」
クラリスが穏やかに言った。
リシアはそこで、小さく笑った。
「私の魔法なのに、カレンに使われちゃったわね」
「えっ」
カレンが目を丸くする。
「わ、私、魔法は使ってません……!」
「使ってたわよ。しかも、かなり威力の高いやつ」
「そ、そんなつもりじゃ……」
「だから強いのよ」
リシアは楽しそうに肩をすくめた。
「私なら狙って撃つ。カレンは、狙ってないのに当てる」
クラリスが静かに頷く。
「しかも、良樹くんの一番柔らかいところへ」
「ク、クラリス!」
カレンは真っ赤になった。
リシアは、眠っている良樹の方をちらりと見た。
「本当に見事だったわ。良樹、完全に動けなくなってたもの」
「そ、それは……良樹さんが優しいから……」
「違うわ、カレン」
リシアは少しだけ柔らかく笑った。
「優しいだけなら、あそこまで撃ち抜かれない。あれは、あなたが良樹にちゃんと届いたのよ」
カレンは、両手で胸元を押さえた。
「……届いた」
「ええ」
クラリスも微笑む。
「ご主人様に、届きましたね」
カレンは、また顔を赤くした。
けれど、今度は少し嬉しそうに笑った。
「……はい」
少しだけ沈黙が落ちた。
三人は、眠る良樹を見た。
彼は、普段から強がる。
無理をする。
すぐ大丈夫と言う。
全部自分で抱えようとする。
けれど今日は。
腕を預けた。
頭を預けた。
食事を受け取った。
恥ずかしがりながらも、嬉しいと伝えた。
楽しいと伝えた。
気持ちよかったと伝えた。
頼むと言った。
リシアは、小さく息を吐いた。
「作戦は、成功ね」
「はい」
「はい」
カレンとクラリスが頷く。
「ただし」
クラリスが人差し指を立てた。
「旦那様の負荷はかなり高いです」
「それはそうね」
「なので、二周目は注意が必要です」
リシアは腕を組んだ。
「二周目はやるのね」
「もちろんです」
クラリスが即答した。
「今日はまだ昼です」
「そうね」
リシアも頷いた。
「せっかく家の中だけなんだもの。まだできることはあるわ」
カレンは少しだけ不安そうに良樹を見た。
「でも、良樹さん、疲れてしまわないでしょうか」
「だから、昼寝させているのです」
クラリスが言う。
「回復時間ですね」
「良樹みたいな言い方ね」
「影響を受けました」
「悪い方向にね」
三人は小さく笑った。
「二周目の方針を決めましょう」
クラリスが言った。
「まず、無理はさせない。嫌がったら止める。ただし、良樹くんは嫌ではない時ほど逃げようとするので、言葉を確認します」
「そうね」
リシアが頷く。
「嫌じゃない、だけで済ませない。ちゃんと、どう感じたか聞く」
「はい」
カレンも頷いた。
「でも、あまり追い詰めすぎないように……」
「それは大事ね」
リシアは、眠る良樹を見た。
「良樹に受け取ってほしい。でも、壊したいわけじゃない」
「はい。壊しません」
クラリスが静かに言った。
その声には、冗談ではない芯があった。
クラリスは、良樹の安全回路でもある。
今日の遊びの中でも、その役割は変わらない。
「良樹くんが本当に危なくなったら、止めます」
「お願いね」
「はい」
カレンは、小さく手を上げた。
「あの。二周目は、どうするんですか?」
リシアは少し考えた。
「私は、身支度かしら。髪を整えたり、服を整えたり。良樹は自分でやれると言うでしょうけど」
「言いますね」
「絶対に言います」
カレンとクラリスが同時に言った。
「だから、そこを受け取らせる」
リシアは言った。
「生活の中で、妻に整えられること。それを覚えてもらうわ」
クラリスは少し考えた。
「私は、体調確認でしょうか。脈拍、呼吸、魔力の流れ。それから、疲労の確認」
「それ、ご奉仕なの?」
「診察です。ですが、メイドなのでご奉仕です」
「また便利に使ってるわね」
「便利ですから」
カレンは、少し考え込んだ。
「私は……」
「カレンは?」
リシアが促す。
「良樹さんが起きたら、お茶を入れて、それから……」
カレンは真っ赤になった。
「少しだけ、膝に……」
「膝に?」
「い、いえ! まだ考え中です!」
リシアとクラリスが、同時に微笑んだ。
「カレン」
「は、はい」
「無理しなくていいわ。でも、やりたいならやりなさい」
「そうです。ご主人様専用ですから」
「ク、クラリス!」
カレンは赤くなって慌てた。
その声に、長椅子の良樹が少しだけ動いた。
三人は一斉に口を閉じる。
良樹は、少し眉を動かしただけで、また静かに寝息を立てた。
三人は、ほっと息を吐いた。
そして、顔を見合わせて小さく笑った。
「では」
クラリスが小声で言う。
「小妻会議、第一回は終了です」
「第二回もあるの?」
「必要なら」
「ありそうね」
リシアはそう言って、良樹の方へ歩いた。
毛布が少しずれていた。
リシアはそれを直す。
カレンは、良樹の寝顔を見て柔らかく微笑んだ。
「良樹さん、よく眠っていますね」
「安心しているのでしょう」
クラリスが言った。
「私たちの家で、私たちがそばにいるから」
リシアは、良樹の髪をそっと撫でた。
「そうなら、いいわね」
良樹は起きない。
ただ、少しだけ表情が緩んだように見えた。
三人は、声を抑えて笑った。
メイド服従作戦は、まだ終わらない。
だが、この時点で、三人はもう分かっていた。
偶像には、負けていない。
少なくとも。
良樹がこうして安心して眠っている場所は、どこかの店でも、遠い世界の記憶でもない。
三人のいる、この家だった。
◇
良樹が目を覚ました時、まず視界に入ったのはクラリスだった。
黒いミニスカートのメイド服。
白いエプロン。
白いニーソ。
そして、いつもの清楚な微笑み。
ただ、少しだけ違った。
朝のように余裕のある笑みではない。
どこか照れを残した、落ち着き切らない顔だった。
「……クラリス」
「はい、旦那様」
「俺はどのくらい寝てた」
「少しだけです。ですが、かなり深く眠っていました」
「そうか」
良樹は身体を起こそうとした。
だが、その前にクラリスがそっと手を伸ばし、良樹の肩を押さえた。
「まだ、急に起きないでください」
「大丈夫だ。寝ただけだぞ」
「朝から負荷が高かったので」
「その負荷の大半はお前らだ」
「はい。ですので、確認します」
「認めた上で診るのか」
「はい」
クラリスは、良樹のそばに膝をついた。
いつもの診察の距離。
けれど、今のクラリスはメイド服だ。
距離は同じでも、入力が違う。
「脈拍、呼吸、魔力の流れ。それから、疲労の確認をします」
「診察か」
「はい」
「ご奉仕か」
「はい」
「どっちだ」
「聖癒のメイドによる、診察型ご奉仕です」
「便利な合成語を作るな」
クラリスは小さく笑った。
そして、良樹の手首に触れようとして。
その前に、ふと手を止めた。
「旦那様」
「ん?」
良樹が振り向いた。
その瞬間、クラリスが身を寄せた。
唇が触れる。
軽く。
けれど、確かに。
クラリスからのキスだった。
良樹は固まった。
クラリスも、キスをした後で固まった。
勢いでやったわけではない。
自分で決めて、自分で近づいて、自分からした。
だからこそ、顔が赤くなる。
「……クラリス」
「はい……」
「今のは診察か」
「違います」
「ご奉仕か」
「違います」
「じゃあ何だ」
クラリスは、目を伏せた。
いつものような、清楚な余裕はない。
少しだけ指先を握る。
それから、小さく息を吸った。
「その、今日の私は、可愛いですか?」
良樹は返答に詰まった。
クラリスは、顔を上げない。
「朝、似合っていると言ってくれました。刺激が強いとも。かなり効くとも、言ってくれました」
「ああ」
「嬉しかったです。とても」
クラリスの声は、小さかった。
「でも、もう一度、聞きたくなりました。ちゃんと、私だけを見て」
良樹は黙った。
クラリスは強い。
戦えば怖い。
治療もできる。
良樹の安全回路にもなる。
清楚な顔で、平然と良樹を追い詰める。
だが今のクラリスは、ただ良樹に見てほしい女の子だった。
良樹は、逃げなかった。
「……いつも可愛い」
クラリスの肩が、ぴくりと動いた。
「いつも?」
「ああ。いつも可愛い。だが、今日のクラリスも可愛い」
良樹は、言ってから少し視線を逸らした。
「言わせるな」
クラリスは、ゆっくり顔を上げた。
頬が赤い。
目も少し潤んでいる。
それでも、嬉しそうに笑っている。
「言って欲しかったんです。私だけを見て」
良樹は、クラリスを見る。
黒いメイド服。
白いニーソ。
清楚な顔。
乙女の目。
良樹は、今度は視線を逸らさなかった。
「クラリスは可愛い」
ド直球だった。
クラリスは完全に止まった。
「……はい」
「聞こえたか」
「はい」
「もう一回いるか」
クラリスは、慌てて首を振った。
「い、いえ。今は。今は大丈夫です」
「今は、なのか」
「はい。また、聞きたくなるかもしれません」
「そうか」
「はい」
クラリスは、何とかいつもの微笑みを作ろうとした。
だが、うまくいかなかった。
口元は緩む。
頬は赤い。
目は嬉しそうに揺れている。
清楚な診察役に戻ろうとしているのに、乙女の顔が隠し切れていない。
良樹は小さく息を吐いた。
「クラリス」
「はい」
「脈拍を測るんだろ」
「……はい。測ります」
クラリスは良樹の手首に指を添えた。
そして、数秒。
黙った。
「……速いです」
「そりゃそうだろ」
「原因は分かりますか?」
「お前だよ」
「はい。確認できました」
「診察に私情を混ぜるな」
「混ざってしまいました」
「正直だな」
「今日は、少しだけ」
クラリスは、まだ赤い顔のまま、良樹の脈を取り続けた。
「旦那様」
「何だ」
「少し速いですが、危険な乱れではありません。ただ、疲労はあります」
「ああ」
「ですので、今日は楽しくても、危ない時は私が止めます」
その声には、先ほどの乙女の揺れとは別の芯があった。
「良樹くんが楽しくても、私たちが嬉しくても、身体が危ない時は、止めます」
良樹は、クラリスを見る。
クラリスはまだ赤い。
だが、目は真剣だった。
「それが、妻の役目です」
良樹は、短く息を吐いた。
「……助かる」
「はい」
「頼む」
クラリスの指が、一瞬だけ止まった。
頼む。
その言葉を受け取って、クラリスはまた少しだけ微笑んだ。
「任されました」
「ただし」
「はい」
「止める役が、一番入力を入れてくるのはどうなんだ」
クラリスは、少し考えた。
「必要負荷です」
「便利な言葉を作るな」
「では、適正刺激です」
「もっと駄目だ」
クラリスは、小さく笑った。
その笑顔は、ようやくいつものクラリスに少し戻っていた。
だが良樹は知っていた。
今日のクラリスは、可愛いと言われたかった。
そして、自分からキスをしてきた。
その事実だけで、脈拍はしばらく落ち着きそうになかった。
◇
クラリスの診察が終わったあと、良樹はようやく長椅子から身体を起こした。
起きる。
立つ。
茶を飲む。
少し作業場の様子を見る。
そういう、ごく普通の流れに戻るつもりだった。
だが、その前にリシアが立ちはだかった。
「次は私ね」
「まだ続くのか」
「続くわよ。寝起きで髪も服も乱れているもの」
「自分で直せる」
「知ってるわ」
リシアは、櫛と小さな布を手にしていた。
クラシカルなメイド服。
黒と濃紺の落ち着いた布。
白いエプロン。
胸元まできっちり閉じた、正統派の装い。
その姿で、リシアは良樹の背後へ回る。
「でも今日は、私が直す」
「だから、自分でできることまでやってもらう必要はないだろ」
「必要があるからやるんじゃないわ」
リシアは、良樹の髪へそっと櫛を入れた。
「妻が整えたいから、整えるの」
良樹は黙った。
櫛が、髪を通る。
耳かきの時とはまた違う。
近いが、今度は背後から。
逃げ場がないというより、背中を預ける感覚だった。
「こういうのは慣れない」
「慣れなさい」
「命令か」
「お願いにしてほしい?」
「どっちでも負荷が高い」
「じゃあ命令でいいわね」
「よくねえ」
リシアは小さく笑った。
それでも手つきは丁寧だった。
寝癖を直す。
髪の流れを整える。
耳の横を軽く押さえる。
後ろ髪を梳く。
どれも自然で、落ち着いていて、余計な動きがない。
正統派。
良樹は、またその言葉を思い出した。
リシアは、正統派のまま強い。
「何でも自分で整える男は嫌いじゃないわ」
「そうか」
「ええ。でも」
櫛を置き、リシアは今度は良樹の襟元へ回った。
正面に立つ。
近い。
近いが、襟を直すためと言われれば、その距離になる。
「私に整えさせてくれる男は、もっと好きよ」
良樹の動きが止まった。
「リシア」
「何?」
「今のはずるい」
「そう?」
「そうだ」
「でも本当よ」
リシアは、良樹の襟元を整えた。
寝ている間に少し崩れたシャツ。
首元の布。
この世界でネクタイのように使っている細い布飾り。
リシアはそれを指で直し、結び目を整える。
「動かない」
「近い」
「襟を直してるの」
「顔が近い」
「顔を見るためじゃないわ」
「じゃあ何を見るんだ」
リシアは、良樹の胸元に手を添えたまま言った。
「私の夫」
良樹は沈黙した。
その沈黙は、分かりやすかった。
言葉が出ない。
返せない。
逃げたいが、逃げる理由もない。
リシアは、その顔を見た。
少し赤い。
少し困っている。
それでも、逃げずに自分の前に立っている。
リシアは、ふっと笑った。
「良樹」
「何だ」
返事をした瞬間だった。
リシアは、良樹の首元の布をきゅっと引いた。
強くではない。
けれど、確実に良樹の顔が自分へ近づく程度に。
「おい――」
言い切る前に、リシアの唇が触れた。
短いキスだった。
だが、不意打ちだった。
良樹は完全に止まった。
リシアは少しだけ顔を離す。
そして、良樹の乱れた首元を見た。
せっかく整えた襟元。
さっき直した布飾り。
キスのために自分で引いたせいで、また少し崩れている。
リシアは、わざとらしく小さく息を吐いた。
「せっかく整えたのに、また乱れちゃったじゃない」
良樹は、しばらく黙った。
「……乱したのお前だろ」
「そうね」
「認めるのか」
「認めるわ」
リシアは、崩れた布飾りを指先でつまんだ。
だが、すぐには直さない。
良樹を見る。
どこか挑むようで。
どこか照れているようで。
けれど、逃げない顔だった。
「どうせ乱れたなら」
「リシア」
「何?」
「その顔は危険だ」
「知ってるわ」
リシアは、もう一度、布を引いた。
今度は良樹も分かっていた。
分かっていたが、逃げなかった。
二度目のキス。
一度目より少し長い。
乱すためではない。
確かめるためでもない。
ただ、妻として。
自分が整えた夫を、自分でもう一度乱したかった。
そして、乱したものを、もう一度自分の手で整えたかった。
リシアは唇を離す。
良樹は、息を吐いた。
「……リシア」
「何?」
「身嗜みを整える工程に、今のは含まれるのか」
「含まれないわ」
「じゃあ何だ」
「妻の確認」
「また便利な言葉を増やす」
「便利だもの」
リシアは、今度こそ良樹の首元を直し始めた。
崩れた布をほどきかける。
結び目を正す。
襟を整える。
肩口を払う。
胸元の皺を伸ばす。
手つきは、先ほどより少しだけ慎重だった。
いや、違う。
少しだけ照れていた。
「……さっきより手が慎重だな」
「黙ってなさい」
「照れてるのか」
「黙ってなさいと言ったわよね」
「はい」
リシアは良樹の胸元を整えながら、顔を上げない。
耳が少し赤い。
良樹はそれを見て、小さく笑いそうになった。
しかし笑えば怒られる。
しかも今は、首元を握られている。
安全上、笑わない方がいい。
「良樹」
「何だ」
「さっきの」
「ああ」
「嫌だった?」
良樹は、少しだけ間を置いた。
リシアは手を止めない。
だが、指先の動きが少しだけ遅くなった。
良樹は息を吐く。
「嫌なわけねえだろ」
リシアの手が止まった。
「そう」
「ああ。ただ」
「ただ?」
「整えたあとに自分で乱すのは、工程としてどうなんだ」
リシアは数秒黙った。
それから、小さく笑った。
「乱れても、また整えればいいのよ」
「現場なら怒られるやつだ」
「夫婦だから怒られないわ」
「夫婦を万能免罪符にするな」
「便利だもの」
リシアは、最後に結び目をきゅっと整えた。
強すぎず。
緩すぎず。
きちんと。
そして、良樹の胸元を軽く叩く。
「はい。今度こそ、整ったわ」
「何がだ」
「髪と服と」
リシアは少しだけ微笑んだ。
「少しだけ、夫婦の距離」
良樹は言葉に詰まった。
リシアは、満足そうに頷いた。
「これでよし」
「よし、なのか」
「ええ。私が整えたんだから、よしよ」
良樹は、整えられた襟元に触れた。
確かに、きちんとしている。
髪も服も、寝起きの乱れは消えていた。
ただし。
心の方は、むしろ乱された。
「……リシア」
「何?」
「服は整った」
「ええ」
「俺の中身は乱れたままだ」
リシアは、少しだけ目を丸くした。
それから、楽しそうに笑った。
「それは、自分で整えなさい」
「そこは妻が整えないのか」
「整えたら、また乱したくなるもの」
「お前な」
リシアは軽く肩をすくめた。
「我慢しているのよ、これでも」
良樹は沈黙した。
その沈黙を見て、リシアはさらに嬉しそうに笑った。
「何?」
「いや」
「言いなさい」
「……強いな、お前」
「妻だもの」
「それで全部通すな」
「通るわよ」
リシアは、もう一度良樹の襟元を軽く整えた。
今度は本当に、乱さないように。
「はい。旦那様、身支度は終わりです」
「……ありがとう」
リシアの表情が、少し柔らかくなる。
「どういたしまして」
良樹は少しだけ視線を落とし、整えられた布飾りを見た。
さっき二度、リシアに引かれたところ。
そこだけ、妙に存在感が残っている気がした。
良樹は内心で思った。
リシアの身支度は、整える。
ただし一度、必ず乱してくる。
◇
カレンは、お茶を淹れた。
良樹は、すでにクラリスに診られ、リシアに整えられ、かなり静かになっていた。
だが、カレンが近づいてくると、その静けさはまた別の種類の警戒へ変わった。
カレンはそれに気づいて、少しだけ困ったように笑った。
「ご主人様。お茶をどうぞ」
「ああ。ありがとう」
カップを置いた後、カレンは良樹の袖口を見た。
「あの、袖が……」
「袖?」
「少し、乱れています。直してもいいですか?」
「ああ」
カレンは良樹の手を取った。
袖口を整える。
指先が震えている。
「震えてるぞ」
「はい……」
「無理するな」
「無理では、ないです。ただ、良樹さんの手を取るのは、何度しても緊張します」
「夫婦だろ」
「夫婦でも、です」
カレンは真っ赤になりながら、袖の折れ目を整えた。
丁寧だった。
必要以上に、ではない。
けれど、気持ちがこもっている。
「カレン」
「はい」
「丁寧だな」
「ご主人様の服なので」
「俺の服だ」
「はい。だから、丁寧にしたいです」
良樹はまた少しだけ黙った。
カレンのご奉仕は、本当に逃げ道を作らない。
攻めていない。
ただ、嬉しそうに丁寧にする。
それが一番効く。
袖を直し終えると、カレンは少しだけ迷った。
「あの」
「何だ」
「少しだけ」
カレンは、顔を赤くして言葉を探す。
「隣じゃなくて」
「ああ」
「膝の上に……座っても、いいですか?」
良樹は完全に止まった。
「……待て」
「はい」
「それは心の準備がいる」
「待ちます」
カレンは待った。
本当に待った。
急かさない。
けれど、期待に揺れる目で、良樹を見ていた。
良樹は深呼吸した。
「……いい。ただし、少しだけだ」
「はい」
カレンは、そっと良樹の膝に横向きに座った。
軽い。
柔らかい。
近い。
腕をどうすればいいのか、良樹が少し迷った。
「重くないですか?」
「軽い」
「よかった……」
「いや、軽いのも問題だ」
「問題、ですか?」
「抱きしめたくなる」
カレンの動きが止まった。
顔が、ゆっくり赤くなる。
「あ……」
カレンは、良樹の胸元を見た。
それから、良樹の顔を見る。
言おうとして。
言えなくて。
でも、言いたくて。
カレンは、両手で良樹の服を小さく掴んだ。
「……抱きしめても、いい……下さい」
言葉が、途中で混ざった。
許可を求めたかったのか。
お願いしたかったのか。
自分でも分からない。
けれど、良樹には分かった。
カレンは、抱きしめてほしいのだ。
良樹は、短く息を吐いた。
「……ああ」
そして、そっとカレンを抱きしめた。
カレンの身体が、腕の中で小さく震える。
「ご主人様……」
「何だ」
「えへへ……」
「笑うな」
「嬉しくて……」
良樹は、何も言えなくなった。
少し離れたところで、リシアが小さく笑う。
「カレン、強くなったわね」
クラリスも穏やかに頷いた。
「はい。ですが、あれは良い強さです」
カレンは良樹の胸元に頬を寄せたまま、小さく言った。
「少しだけ、このままでも……いいですか?」
良樹は、カレンの背中に回した腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
「……いい」
カレンは、嬉しそうに目を細めた。
「ありがとうございます、ご主人様」
◇
二周目が終わった頃には、外の光はすっかり傾いていた。
窓の外は夕暮れから夜へ変わりつつあり、食堂の中にも柔らかい影が伸びている。
朝から続いたメイド服従作戦。
クラリスは、良樹の負荷を確認しながら、自分からキスをした。
今日の自分は可愛いかと、乙女の顔で聞いてきた。
リシアは、良樹の身嗜みを整えながら、自分で一度乱した。
そしてもう一度整え直し、妻として良樹の前に立った。
カレンは、袖を直し、勇気を出して良樹の膝に座り、抱きしめてもらった。
言葉を間違えながらも、良樹に求めた。
三人とも、もう分かっていた。
この服は、良樹に効く。
そして良樹も、もう分かっていた。
このまま終わるはずがない。
朝なら作戦だった。
昼なら御奉仕だった。
午後なら確認だった。
だが、夜に入っても三人はまだ着替えていない。
それはもう、衣装ではなかった。
意思表示だった。
「……なあ」
良樹は、少しだけ掠れた声で言った。
「お前ら。そろそろ、着替えないのか」
三人は、同時に良樹を見た。
リシアは、静かに微笑む。
「どうして?」
「どうしてって」
「今日は、まだ終わってないでしょう?」
良樹は言葉に詰まった。
クラリスが、一歩近づく。
黒いミニスカートのメイド服。
白いエプロン。
白いニーソ。
昼間よりも落ち着いた顔をしているのに、その目はどこか熱を帯びていた。
「旦那様。今日は、私たちが旦那様に御奉仕する日です」
「ああ」
「まだ、夜が残っています」
その言葉に、良樹の中の保護回路が静かに警告を出した。
夜。
残っている。
その意味を、良樹はもう取り違えなかった。
「クラリス」
「はい」
「今の言い方は危険だ」
「はい。分かって言いました」
「分かって言うな」
「分かっているから、言いました」
クラリスは、少しだけ頬を染めて、それでも逃げなかった。
良樹はリシアを見る。
リシアは、胸元まできちんと閉じた正統派のメイド服のまま、堂々と立っていた。
朝よりも、昼よりも、落ち着いている。
落ち着いているからこそ、逃げ場がない。
「リシア」
「何?」
「お前も、そのつもりか」
「ええ」
即答だった。
「良樹に効くって、分かったもの」
「言いやがったな」
「言うわよ。妻が、夫に可愛いと思ってもらえる服を知ったのよ。それを、夜になる前に脱ぐと思う?」
良樹は黙った。
思わない。
思えるわけがない。
カレンは、二人のやり取りを聞きながら、エプロンの端をぎゅっと握っていた。
顔は真っ赤だった。
けれど、逃げていなかった。
「ご主人様」
小さな声。
だが、確かに良樹へ向けられた声だった。
「……何だ」
「今日、良樹さんに、かわいいって、言ってもらえて、嬉しかったです」
「ああ」
「御飯も食べてもらえて、抱きしめてもらえて、すごく、嬉しかったです」
カレンは一度、息を吸った。
「だから、そのまま、終わりたくないです」
良樹は、目を閉じた。
終わりたくない。
それは、今日一日を楽しかったから、というだけの言葉ではなかった。
可愛いと思われたかった。
見てほしかった。
触れてほしかった。
求められたかった。
三人は、良樹の妻だ。
夫に可愛いと思われるために、この格好を選んだ。
一日かけて、良樹に世話をした。
良樹が受け取ることも確認した。
そして今、夜になっても着替えていない。
答えは、最初から出ていた。
良樹は、深く息を吐いた。
「……分かった」
三人の表情が、静かに変わった。
「今日は、お前らが俺のために色々してくれた。起こして、食わせて、世話して、整えて、困らせて」
「困らせて、も入るのね」
リシアが小さく笑う。
「入る。かなり入る」
良樹は、三人を見た。
「でも、嬉しかった」
カレンの瞳が揺れる。
クラリスが、少しだけ唇を結ぶ。
リシアの表情が、柔らかくなる。
「だから。この後も、受け取ればいいんだな」
リシアは、静かに頷いた。
「ええ」
クラリスも微笑む。
「無理はさせません。危ない時は、私が止めます」
「その止める役が一番危ない時もあるんだが」
「今日は気をつけます」
「今日は、か」
クラリスは、少しだけ目を逸らした。
カレンが、おずおずと一歩近づく。
「ご主人様」
「何だ」
「心の準備は、待ちます」
良樹は、思わず苦笑した。
昼間の言葉を覚えている。
待つ。
急かさない。
でも、逃がさない。
三人は、そういう顔をしていた。
良樹は、自分の胸元に触れた。
リシアが整えた襟元。
クラリスが脈を測った手首。
カレンを抱きしめた腕。
一日かけて、三人に世話されて、乱されて、整えられた。
そして今。
良樹は、自分から一歩、三人へ近づいた。
「……準備は、全部できてねえ」
「ええ」
リシアが頷く。
「でも、このまま終わらないことくらいは、分かってた」
「賢いわね、旦那様」
「褒めるな」
「褒めてるのよ」
良樹は、もう一歩近づいた。
三人は逃げなかった。
むしろ、待っていた。
偶像には負けません。
その作戦名を、良樹は思い出す。
偶像は、記憶の中にしかいない。
遠い世界の、形だけの夢でしかない。
だが、三人はここにいる。
自分を見て。
自分に触れて。
自分を困らせて。
自分を喜ばせて。
そして、妻として求められることを待っている。
勝負にならない。
良樹は、小さく笑った。
「……俺の負けだな」
「負け?」
リシアが首を傾げる。
「ああ。偶像とか、そういう話じゃねえ。勝負にならねえよ。お前らが、ここにいるんだから」
三人の表情が、ふっと緩んだ。
良樹は、照れたように視線を逸らす。
「だから、この後も、ちゃんと御奉仕してくれ」
一瞬。
三人が固まった。
良樹が自分から言ったからだ。
受け取る、と。
逃げない、と。
それを最初に理解したのは、リシアだった。
リシアは、ゆっくりと良樹に近づく。
「もちろんよ」
次に、クラリス。
清楚な微笑みのまま、けれど頬を染めて、良樹の隣に立つ。
「はい」
最後に、カレン。
真っ赤な顔で、それでも嬉しそうに、良樹を見上げた。
「はい……」
三人は、少しだけ声を揃えた。
「この後も、ちゃんと御奉仕しますね」
リシアが、柔らかく言う。
「旦那様」
カレンが、震える声で続ける。
「ご主人様」
クラリスが、静かに微笑んで締める。
「旦那様」
良樹は、深く息を吐いた。
現実の負荷は、最後まで高い。
けれど。
もう、逃げる気はなかった。
お読みいただきありがとうございます。
今回は本筋とは直接関係のない番外編でした。
メイド服です。
旦那様です。
ご主人様です。
そして良樹の処理能力が限界を迎える回です。
リシアは正統派で攻め、
クラリスは清楚に逃げ道を塞ぎ、
カレンは照れながら最大火力を叩き込みました。
実在の妻たちは、偶像には負けませんでした。
良樹は負けました。
話の尺もちょっとした短編並みになってしまいました。
悔いはありません。
楽しんでいただけましたら、評価、ブックマーク、感想などいただけると励みになります。
次回もよろしくお願いいたします。




