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番外編 メイド服従作戦 ~偶像には負けません~(挿絵大量)

今回は本筋とは直接関係のない、いちゃ甘寄りの日常回です。

読み飛ばしても本編の進行には影響ありません。


メイド服です。

旦那様です。

ご主人様です。


良樹は何も悪いことをしていません。

ただ、うっかり余計な知識を三人妻に渡してしまっただけです。


では、メイド服従作戦、開始です。

 夕食のあと。


 拠点の食堂には、まだ少しだけ湯気の匂いが残っていた。


 皿は下げられ、食後のお茶も飲み終わり、あとはそれぞれの時間に戻るだけ。

 いつもなら良樹は作業場へ行く。

 リシアは食卓を軽く片付け、カレンは戸締まりを確認し、クラリスは良樹の身体の様子をさりげなく見る。


 夫婦になってからの、少しずつ馴染んできた夜の流れ。


 その中で、リシアがふと尋ねた。


「そういえば良樹」


「何だ」


「良樹の世界にも、給仕をする女の人はいたの?」


 良樹は、湯呑みを置く手を止めた。


「給仕?」


「ええ。食事を運んだり、家の中の世話をしたりする人。この世界にも屋敷勤めの女中や使用人はいるけれど、良樹の世界ではどうだったのかと思って」


「ああ……いた。普通にいたな。屋敷の使用人とか、家事をする人とか、掃除、洗濯、給仕、身の回りの世話をする人。そういう人を、メイドって呼ぶことがあった」


「めいど」


 カレンが小さく繰り返す。


「そう。元々は、使用人とか、屋敷で働く女の人って意味合いだ」


 クラリスが首を傾げた。


「元々は、ということは、今は違うのですか?」


 良樹は、そこで少しだけ目を逸らした。


「……いや。違うというか、俺の国では、妙な方向へ発展したというか」


「妙な方向?」


 リシアの目が少しだけ細くなる。


 良樹は、説明を続けるべきか一瞬迷った。

 これは危険な話題だ。

 経験上、こういう話はかなりの確率で事故る。

 いや、この三人ならまず間違いなく事故る。


 だが、もう言いかけてしまった。


「その、メイド服っていう服があってな。黒っぽい服に白いエプロンをつけたような格好で。まあ、仕事着というか、そういう記号というか」


「記号?」


「メイドだと分かる服。それが、いつの間にか……男向けというか、可愛い服というか。ご主人様とか呼ばれて、給仕されたり、迎えられたりする店までできた」


 三人が、同時に黙った。


 良樹は、言ってから後悔した。

 遅い。

 完全に遅い。


「ご主人様」


 カレンが、小さく呟いた。


「店で?」


 リシアが聞く。


「ああ」


「本当の主ではなく?」


「まあ、客だな」


「客に、ご主人様と呼ぶのですか?」


 クラリスが静かに尋ねる。


「そういう店もある。接客の一種だ。本当の主従じゃない。雰囲気を楽しむというか、偶像としてのメイドというか」


「偶像」


 リシアが、その言葉を拾った。


 良樹は嫌な予感がした。

 今、かなりまずい言葉を渡した。


「つまり、良樹の世界では、メイドは可愛い偶像にもなっているのね」


「いや、全部がそうじゃない。本来は仕事だ。実際に働く人もいる。ただ、俺の国ではそういう文化もあったというだけで」


「ご主人様と呼んで、可愛い服を着て、男の人を迎える」


「だから、全部がそうじゃない」


 良樹は説明しながら、これはもう止めた方がいいと判断した。


 止め方を考えろ。

 動かす前に止め方を考えろ。


 今だ。


「この話は終わりだ。妙な方向へ行く」


「まだ何も行っていないわよ」


「行く。経験上、行く」


「良樹」


 リシアが少しだけ楽しそうに笑った。


「それは、私たちが何かすると思っているの?」


「ああ」


 即答した。

 三人が少し目を丸くする。


「信用がありませんね」


 クラリスが微笑む。


「信用しているからこそだ。お前らは、やる時はやる」


「良樹さん……」


 カレンは少し困ったように笑った。


 良樹は席を立った。


「風呂入って寝る。今日はもう作業もしない」


「珍しいわね」


「危険予知だ」


 良樹はそう言って、食堂を出て行った。


 三人は、その背中を見送った。


 そして。


 良樹の足音が十分に遠ざかったあと。


 リシアが、ゆっくりと口を開いた。


「偶像としてのメイド」


 カレンが、胸元で手を握る。


「ご主人様……」


 クラリスは、静かに微笑んだ。


「良樹くんの世界では、そういう文化があるのですね」


「ええ」


 リシアは腕を組んだ。


「つまり、良樹の世界には、男の人が可愛いと思う、メイドという偶像がある。その偶像が、ご主人様と呼んで、給仕して、世話をする」


「はい」


「なら」


 リシアは、口元に笑みを浮かべた。


「実在の妻が、偶像に負けるわけにはいかないでしょう」


 カレンが小さく肩を跳ねさせた。


「つ、妻が……」


「ええ。私たちは良樹の妻よ」


 リシアははっきり言った。


「可愛い偶像に、良樹の記憶の中で勝手に座られているのは面白くないわ」


「座られている、のでしょうか」


 クラリスが穏やかに聞く。


「少なくとも、良樹の世界にそういうものがあったのは事実よ」


「なるほど」


 クラリスは頷いた。


「では、上書きが必要ですね」


「上書き……」


 カレンが赤くなる。


「でも、あの。メイド服を着る、ということですか?」


「そうよ」


 リシアは迷いなく答えた。


「それだけではないけれどね」


「それだけではない?」


 クラリスが微笑む。


「良樹くんに、妻に世話をされることを受け取っていただくのですね」


 リシアは、クラリスを見る。

 そして、ゆっくり頷いた。


「そう。良樹は何でも自分でやろうとする。放っておくと、食事も作業も報告も、全部自分で抱える。最近は少しずつ頼るようになってきたけれど」


「甘えることは、まだ下手です」


 クラリスが静かに続けた。


 カレンも頷く。


「良樹さん、すぐに大丈夫って言います」


「だから、メイド服よ」


 リシアは言った。


「ただ可愛い服を着るだけじゃない。今日は良樹に、私たちに世話をされることを受け取らせる。良樹の世界の偶像には負けない。実在の妻として」


 カレンは真っ赤になりながらも、小さく頷いた。


「が、頑張ります」


 クラリスも穏やかに微笑む。


「では、作戦名が必要ですね」


「もう?」


「作戦には名が必要です」


 リシアは少し考えた。

 だが、その夜はまだ決めなかった。


 まず必要なのは、服だった。


   ◇


 翌日。


 三人は、以前制服を仕立ててもらった店へ向かった。


 小さな仕立て屋。

 表には色とりどりの布が並び、奥には採寸用の鏡と作業台がある。


 扉を開けると、店主の女性が顔を上げた。


 前回と同じ、柔らかい雰囲気の年上の女性だった。

 目元は優しく、言葉も穏やか。

 ただ、服を見る目だけは職人のものだった。


「あら、リシアちゃん、カレンちゃん、クラリスちゃん。いらっしゃい」


 三人は軽く挨拶をした。


 店主はすぐに笑った。


「今日はどうしたの? また良樹さんに見せる服かしら?」


 カレンの顔が一気に赤くなる。

 リシアは堂々と頷いた。


「ええ。良樹に見せる服よ」


「ふふ。リシアちゃんは相変わらずはっきりしているわね。カレンちゃんは、今日もかわいいわ。クラリスちゃんは……何か考えている顔ね」


 クラリスが静かに首を傾げる。


「どのような顔でしょうか」


「清楚な顔で、けっこう大胆なことを考えている時の顔よ」


「ひどいです」


「かわいいという意味よ。半分くらいは」


 リシアは軽く咳払いした。


「今日は、メイド服をお願いしたいの」


 店主は少しだけ目を丸くした。


「前は制服で、今度はメイド服なのね。三人とも、本当に良樹さんが好きなのね」


 三人は、一瞬だけ黙った。

 それから、順番に頷いた。


「好きよ」


「だ、大好きです」


「はい。好きです」


 店主は、柔らかく微笑んだ。


「それで、どういうメイド服にしたいの?」


 リシアは少し考えた。


「良樹の世界の偶像に負けない服」


「また難しいことを言うわね」


「でも、それだけじゃないわ。良樹に、妻に世話をされることを受け取らせたいの。あいつ、何でも自分でやろうとするから」


 店主は、少しだけ真面目な顔になった。


「なるほど。だから、メイド服なのね」


「ええ」


「女の子が覚悟を決める時、服は大事よ」


 店主は三人を一人ずつ見た。


「リシアちゃんは、正統派がいいわね。黒か濃紺を基調にして、白いエプロン。胸元は閉じる。でも硬すぎない。膝より少し下。脚を見せすぎず、でも線は綺麗に。隠すことで華が出る人ね」


 リシアは少しだけ目を伏せた。


「隠すことで?」


「ええ。リシアちゃんは、出さなくても強いわ」


 次に店主はカレンを見る。


「カレンちゃんは、可愛らしく。でも子供っぽくしすぎない。肩は出しすぎないけど、胸元は少しだけ開ける。スカートは軽め。脚は素足が似合うわね。頑張って背伸びしている感じがかわいい。きっと良樹さんにも伝わるわ」


 カレンは真っ赤になった。


「が、頑張ります……」


 最後に店主はクラリスを見る。


「クラリスちゃんは、清楚さを残したまま、雰囲気を変えるのがいいわ。白すぎると普段と変わらない。黒を基調にして、白いエプロン。丈は短め。ニーソを合わせる。ただし、下品にはしない。クラリスちゃんは、品を残した方が強いもの」


 クラリスは静かに頷いた。


「品を残したまま、少しだけ危ない位置で止めるのですね」


 店主は目を瞬かせた。


「クラリスちゃん、時々すごく分かっていることを言うわね」


「良樹くんが、止める位置は大事だとよく言っています」


「良樹さん、こういう時は止められるのかしら」


 三人は黙った。


 店主は、その沈黙だけで察した。


「止められないのね」


 クラリスが微笑む。


「止める時は、私が止めます」


「頼もしいわね、クラリスちゃん」


 採寸が始まった。


 布が選ばれ、丈が決まり、襟元が調整され、エプロンの形が整えられていく。

 何度も鏡の前に立たされ、そのたびに店主は柔らかく笑った。


「三人とも、かわいい奥さんね」


 奥さん。


 その言葉に、カレンがまた真っ赤になった。


   ◇


 数日後。


 三つの包みが、三人の手元に届いた。


 その夜。


 良樹が眠ったあと、三人は食堂に集まった。

 卓の上には、それぞれの包みが置かれている。


 リシアが包みに手を置いた。


「いよいよね」


「はい……」


 カレンは緊張した顔で頷く。

 クラリスは穏やかに微笑んだ。


「作戦名を決めましょう」


「そうね」


 リシアが考えかけた時、クラリスが先に言った。


「メイド服従作戦、でよろしいのでは?」


「ふ、服従……?」


 カレンが目を丸くする。


 クラリスは清楚に説明した。


「服を着る方の服。それから、旦那様に妻の世話を受け取っていただく方の従。二つの意味です」


「掛けているのね」


 リシアは少し呆れたが、すぐに頷いた。


「悪くないわ」


「強制するわけではありません。ただ、良樹くんに受け取っていただくだけです」


「ええ。妻に世話されることを」


 次に、呼び方を決めた。


 リシアは旦那様。

 クラリスも旦那様。


 そしてカレンは、少しだけ迷ってから言った。


「私は……ご主人様、で」


 リシアとクラリスが、同時にカレンを見る。

 カレンは耳まで赤くなりながら、しかし小さく言った。


「私は、良樹さんのものなので」


 リシアは数秒黙った。

 それから、深く息を吐いた。


「カレン、あなた本当に強いわね」


「つ、強くないです……」


「強いです」


 クラリスも頷いた。


 次に、起こし方を決める。


「普通に声をかけるだけでは弱いですね」


 クラリスが言った。


「弱いって何が?」


 リシアが聞く。


「作戦開始としてです」


「まあ、そうね」


「では、頬に口づけを」


 カレンが固まった。


「ほ、頬に……」


「夫婦ですから」


 便利な言葉だった。

 夫婦。

 その一言で、かなりのことが通ってしまう。


 順番はクラリスが最初。

 次にカレン。

 最後にリシア。


 理由は単純だった。


 クラリスでは、良樹はまだ夢か現実か分からない。

 カレンでは、危険すぎて処理が追いつかない。

 最後にリシアが命令すれば、たぶん起きる。


 クラリスは、リシアの口調を真似るように言った。


「朝よ、早く起きなさい、旦那様」


「私、そんな言い方してる?」


「しています」


「しています……」


 カレンも小さく頷いた。


 リシアは少しだけ赤くなった。


「いいわ。明日、決行するわよ」


 三人は頷いた。


 メイド服従作戦が、正式に始まった。


   ◇


 翌朝。


 良樹はまだ眠っていた。


 昨日は作業を早めに切り上げた。

 妻たちに休めと言われ、ちゃんと休んだ。


 それ自体は良いことだった。


 ただし、目覚め方までは想定していなかった。


「朝です、起きてください。旦那様」


 柔らかい声。

 頬に、軽い感触。

 クラリスだった。


 良樹は眉を動かしたが、まだ目を開けない。


 次に、少し震えた声がした。


「あ、朝です。お、起きてください……ご主人様」


 反対側の頬に、また軽い感触。

 カレンだった。


 良樹の意識が、そこで少し浮上する。


 ご主人様。

 なぜ。


 そして最後に。


 額に、温かい感触が落ちた。


「朝よ。早く起きなさい、旦那様」


 リシアの声だった。


 良樹は目を開けた。


 視界に、三人がいた。


 リシア。

 黒と濃紺を基調にしたクラシカルなメイド服。

 胸元まできっちり閉じられ、白いエプロンが上品に整っている。

 露出は少ない。

 少ないはずなのに、隠しているものの存在感が消えていない。

 むしろ、閉じていることで圧が増している。


 クラリス。

 黒ベースのミニスカメイド服。

 白いエプロン。

 白いニーソ。

 いつもの白い法衣とは違う。

 清楚さを残したまま、危険な位置まで距離を詰めている。


 カレン。

 黒と白のフレンチ風メイド服。

 肩は出しすぎず、胸元は少し開いている。

 素足。

 恥ずかしそうにしながらも、良樹を見ている。


 挿絵(By みてみん)


 良樹は、数秒黙った。


 リシアは、品で逃げ道を塞いでくる。

 クラリスは、清楚な顔で非常停止を抜きに来る。

 カレンは、恥ずかしさで心臓を直接掴んでくる。


 良樹は静かに目を閉じた。


「……なんだ、夢か」


「起きなさい!」


「ゆ、夢じゃないです!」


「現実です、旦那様」


 良樹は再び目を開けた。


「現実の負荷が高い」


   ◇


 しばらくして。


 良樹は寝台から起き上がった。

 正確には、起き上がらされた。


 リシアに正面から押し切られ、クラリスとカレンに両側から支えられ、どうにか寝台の端に腰を下ろす。


 頭は起きている。

 体も起きている。

 だが、処理能力はまだ戻っていない。


「それで、良樹」


 リシアが何でもないことのように言った。


「せっかくだし、この格好で少し出かけてみる?」


 良樹の動きが止まった。


「……出かける?」


「ええ。仕立て屋にも見せに行きたいし。街の人に見られても、別におかしくはないでしょう? メイド服なんだから」


「駄目だ」


 即答だった。


 三人が、きょとんとする。

 リシアが首を傾げた。


「どうして?」


「どうしてもだ」


「理由になってないわよ」


 良樹は、少しだけ視線を逸らした。


 理由はある。

 あるにはある。


 だが、それをそのまま口にすると、かなり格好悪い。


 リシアの胸元まで閉じたメイド服。

 クラリスのミニスカとニーソ。

 カレンのフレンチ風メイド服と素足。


 それらを、街の人間が見る。

 見られる。


 良樹は眉間を押さえた。


「……その格好は、入力が強い」


「入力?」


「俺への入力だ」


「良樹への?」


「ああ」


 良樹は、ごにょごにょと続けた。


「だから、入力先は俺だけでいいだろ。俺の妻たちなんだから。俺だけが見ればいいというか。入力制限は俺だけのはずだというか。被害範囲を広げる必要はないというか」


 三人が、黙った。


 リシアが瞬きをする。

 クラリスが口元に手を添える。

 カレンが、耳まで赤くなる。


 良樹はさらに視線を逸らした。


「……何だ」


 リシアが、ゆっくりと笑った。


「へえ」


「何だその顔は」


「別に」


「絶対別にじゃねえ」


 クラリスが静かに言った。


「良樹くん」


「何だ」


「つまり、私たちのメイド服姿を、他の方には見せたくないということですね」


「翻訳精度が高すぎる」


「違いますか?」


 良樹は黙った。

 黙った。

 かなり黙った。


 そして、諦めたように小さく言った。


「……違わねえよ」


 カレンが、エプロンの端をぎゅっと握った。


「あ、あの。ご主人様だけに、見てほしいです」


 良樹はカレンを見た。

 そしてすぐに目を逸らした。


「カレン」


「は、はい」


「そういう追撃をするな」


「つ、追撃のつもりでは……」


「天然追撃が一番危険なんだよ」


 リシアは完全に楽しそうだった。


「じゃあ、今日は家の中だけね」


「今日はじゃねえ。その格好は基本的に家の中だけだ」


「基本的に?」


「例外を作るな」


「ふふ。分かったわ」


 リシアはスカートの裾を少しだけ摘まむ。


「旦那様がそう言うなら、仕方ないわね」


「その言い方はやめろ」


「嬉しいのよ」


「言うな」


「嬉しいわ」


「二回言うな」


 クラリスも、静かに微笑んだ。


「私も嬉しいです。旦那様に、独り占めしたいと思っていただけるのは」


「独り占めとか言うな」


「では、入力制限ですね」


「そっちも言うな」


 カレンが小さく頷いた。


「ご主人様専用、ですね……」


 良樹は片手で顔を覆った。


「一番駄目な言い換えが来た」


 三人は嬉しそうだった。

 良樹は、負けを認めるしかなかった。


「……分かった。今日は家の中だけだ。外には出ない。出さない。被害範囲はこの家の中で止める」


「被害って何よ」


「俺だ」


「自分だけなのね」


「そうだ。入力対象は俺だけでいい」


 リシアが微笑む。


「はい、旦那様」


 カレンも、真っ赤になりながら頷いた。


「は、はい……ご主人様」


 そして、クラリスが一歩前に出た。


「では旦那様。お食事を用意していますので、どうぞ」


挿絵(By みてみん)


   ◇


 声は穏やかだった。

 いつものクラリスだった。


 だが、姿はいつものクラリスではない。


 黒ベースのミニスカメイド服。

 白いエプロン。

 白いニーソ。

 普段の法衣よりずっと軽く、ずっと近く、ずっと危険な服。


 そのクラリスが、良樹の左側にすっと寄った。


「お手を」


「いや、歩ける」


「はい。歩けることは確認しています」


「なら」


「ですが、今日は私がご案内します」


 そう言って、クラリスは良樹の左腕を取った。

 取った、だけではなかった。


 腕に、胸元を寄せる。


 柔らかい感触が、左腕を包んだ。

 良樹の動きが止まる。


「クラリス」


「はい、旦那様」


「これは案内なのか」


「はい」


「俺の左腕の自由度がゼロなんだが」


「迷わないように固定しています」


「固定方法が間違っている」


「外れにくい方が安全です」


「安全の意味を都合よく使うな」


 クラリスは、良樹を見上げて微笑んだ。

 清楚だった。

 とても清楚だった。

 だからこそ、余計にたちが悪かった。


「旦那様。家の中にいるなら、こういうことも人目を気にしなくてよくなりますから」


 良樹は、一瞬言葉を失った。


 それは、そうだ。


 外には出ない。

 人には見せない。

 被害範囲はこの家の中で止める。


 そう言ったのは、良樹だった。


 だが、その結果として。


 人目を気にしなくていいから、もっと近づける。


 という運用に変換されるとは思っていなかった。


「クラリス」


「はい」


「俺は今、自分で設定した制限に首を絞められている気がする」


「制限範囲内での適正運用です」


「適正の定義を見直せ」


「嫌ですか?」


 良樹は目を閉じた。


 嫌ではない。

 嫌なわけがない。


 だが、嫌ではないと言えば、クラリスはたぶんこのまま進む。

 言わなければ、クラリスが傷つく。


 そして何より。


 クラリスは、ふざけているだけではなかった。


 良樹が家の中だけだと言った。

 良樹だけが見ればいいと言った。

 その言葉を、妻として受け取って、近づいてきている。


 良樹は、息を吐いた。


「……刺激が強い」


 クラリスが、ぱちりと瞬きをした。


「刺激、ですか?」


「ああ。クラリスの格好も含めてな」


 クラリスの微笑みが、ほんの少し止まった。


「私の、格好……」


「ああ。その、普段はほとんど肌を見せない格好だし、今日はいつもと全然違う。だから、どうしても」


 良樹は言いにくそうに視線を逸らした。


「目が、そっちに行く」


 クラリスは固まった。

 清楚な笑みのまま、固まった。


 それから、少しずつ頬が赤くなる。


「……そっち、ですか」


「言わせるな」


「見て、しまうのですか?」


「見るなと言うなら見ない」


 良樹はすぐにそう返した。


 その返しが、またクラリスに刺さった。


 見てしまう。

 でも、見ないでほしいなら見ない。


 良樹は、そういう男だった。


 クラリスは、自分のスカートの裾を軽く押さえた。

 さっきまで、抑えないで良いと言っていた手が。

 今は、少しだけ乙女らしく裾に触れている。


「……嫌では、ありません」


 声が小さい。


「でも、そう言われると」


 クラリスは、良樹から少しだけ視線を逸らした。


「少し、恥ずかしいです」


 良樹は、そこでようやくクラリスを見る。


 清楚な確信犯ではない。

 良樹に見られていると分かって、普通に照れているクラリスだった。


「クラリス」


「はい……」


「嫌じゃないなら、見る。ただし、無遠慮には見ない」


 クラリスの顔が、さらに赤くなった。


「……はい」


「あと、刺激は強いが」


 良樹は、少しだけ言葉を選んだ。


「似合ってる」


 クラリスは、完全に止まった。


「……似合って、いますか?」


「ああ」


「本当に?」


「本当だ。清楚なまま、いつもより近く見える。それが、その」


 良樹は、かなり言いにくそうにした。


「かなり効く」


 クラリスは、スカートの裾を押さえたまま俯いた。

 耳まで赤い。


「……良樹くん」


「何だ」


「今のは、少しずるいです」


「どこがだ」


「私は、からかう側のつもりでした。なのに、そんなふうに言われると、私の方が、恥ずかしくなります」


 良樹は、少しだけ笑った。


「いつもお前にやられてる分だ」


「仕返しですか?」


「結果的にな」


 クラリスは、恥ずかしそうにしながらも、少しだけ嬉しそうに笑った。


挿絵(By みてみん)


「では、仕返しされたということで、今回は引き分けにしておきます」


「何の勝負だ」


「夫婦の勝負です」


「また夫婦を便利に使う」


「便利ですから」


 リシアが、横でにやにやしていた。


「クラリスが乙女になってるわ」


「リシア。今は言わないでください」


「かわいいわよ」


「……ありがとうございます」


 カレンも胸元で両手を握っていた。


「クラリス、すごくかわいいです」


「カレンまで……」


 クラリスは、ますます赤くなった。


 良樹は、それを見て息を吐いた。


「刺激が強いのは間違ってねえな」


「旦那様」


「何だ」


「その言い方は、もう少し後でお願いします」


「後ならいいのか」


 クラリスは、顔を赤くしたまま、小さく微笑んだ。


「……はい」


「強いのか弱いのか、分からねえな」


「どちらも私です」


 クラリスはそう言って、良樹の腕をもう一度そっと抱いた。


「では、参りましょう。旦那様」


 良樹の左腕は、クラリスに捕獲されたままだった。


   ◇


 食事の席についてからも、良樹の処理能力は戻り切っていなかった。


 朝食は、いつもより丁寧に並べられていた。


 焼きたてのパン。

 温かいスープ。

 軽く焼いた肉。

 野菜。

 香草茶。


 それ自体は普通だった。


 問題は、給仕している三人が普通ではないことだった。


 リシアは胸元まできっちり閉じたクラシカルなメイド服で、まるでこの家のすべてを把握している女主人のように立っている。


 カレンはフレンチ風のメイド服で、良樹と目が合うたびに小さく赤くなりながらも、一生懸命に皿を置いている。


 そしてクラリスは。


 黒いミニスカメイド服で、白いニーソで、清楚な顔をしていた。


 清楚だった。

 清楚ではあるのだが。


 ミニスカートに、慣れていなかった。


 いや、慣れていないはずだった。


 歩くたびに、裾が揺れる。

 身を屈めるたびに、危ない。

 皿を置く時、椅子の横を通る時、少しだけ腰を落とす時。


 そのたびに、良樹の視界の端で何かがちらつく。


 良樹は分かっていた。


 見てはいけない。

 いや、見えている。

 見えているが、見るな。


 夫婦である。

 裸も知っている。

 することもしている。


 だが、それとこれは別だ。


 朝食の席で、メイド服の裾がちらつくのは、別の事故だ。


 しかも、クラリスは清楚な顔をしている。


 非常にたちが悪い。


 見かねたのは、カレンだった。


「あ、あの、クラリス」


「はい?」


「その……ちゃんと抑えないと、見えてますよ」


 カレンは真っ赤な顔で、小さな声で言った。


 クラリスは、ぱちりと瞬きをした。

 それから、自分のスカートを見た。

 次に、良樹を見た。

 もう一度、スカートを見る。

 そして、また良樹を見る。


 良樹は無言だった。

 無言で、少しだけ視線を逸らしていた。


「カレン」


「は、はい」


「カレンは以前、『俺以外の男に見せるな』と旦那様に言われたのですよね?」


「はい、そうですけど……」


「ここは私たちの家の中です。他の男性は居ません」


「……はい」


 クラリスは、静かに頷いた。


「なるほど。カレンの気持ちが、私にも分かりました。なので、このままで」


「こ、このままですか!?」


「はい」


 クラリスは、良樹の方を向いた。


 清楚だった。

 本当に、清楚な顔だった。


 黒いミニスカメイド服で。

 白いニーソで。

 スカートを抑えないまま。


 清楚な顔で、良樹に問いかけた。


「問題ありますか? 旦那様」


 良樹は沈黙した。

 深く、長く、沈黙した。

 沈黙の艦隊だった。


 問題はある。

 山ほどある。


 だが、それはクラリスが嫌だという問題ではない。


 むしろ、逆だった。


 クラリスが自分にだけ見せる顔。

 清楚なまま、少しだけ意地悪く近づいてくる距離。

 良樹の言葉を逆手に取って、それでも妻として甘えてくる姿。


 それを嫌だなどと言えるはずがなかった。


「……問題はある」


 クラリスが、ぱちりと瞬きをした。


「あるのですか?」


「ああ。刺激が強すぎる」


「刺激」


「さっきも言っただろ。その格好も含めてだ」


 クラリスの頬が、また少し赤くなる。


「はい……」


「普段のお前は、ほとんど肌を見せない。だから余計に、どうしても目が行く」


「……はい」


「それで、お前が、そういう顔で、問題ありますか、なんて聞いてくる」


 良樹は、深く息を吐いた。


「問題はある。俺の処理能力にだ」


 リシアが横で口元を押さえていた。


「良樹、かなり正直ね」


「正直に言わないと逃げ道がねえ」


「逃げなくていいのでは?」


 クラリスが小さな声で言った。


 良樹はクラリスを見る。

 クラリスは赤くなっていた。


 清楚な確信犯ではなく。

 ただ、良樹に見られていることを受け止めて、少し照れている顔だった。


「……そういうところだぞ」


「はい」


「はいじゃねえ」


 カレンは、胸元で手を握ったまま、二人を見ていた。


「クラリス、かわいいです……」


「カレンまで……」


 クラリスはスカートの裾を軽く押さえた。

 抑えるなと言ったのは自分なのに。

 良樹にそこへ目が行くと言われると、どうしても少し恥ずかしい。


「旦那様」


「何だ」


「その、見られるのは、嫌ではありません」


「ああ」


「ですが、そう言葉にされると、少し……」


「恥ずかしいか」


「はい」


 良樹は小さく息を吐いた。


「俺もだ」


「良樹くんも?」


「ああ。見てしまうのも、見てしまうって言うのも、どっちも恥ずかしい」


 クラリスは、少しだけ嬉しそうに目を細めた。


「同じですね」


「同じだな」


 リシアが、軽く肩をすくめた。


「朝食、進まないわね」


「進める気があるなら、まずクラリスを止めろ」


「でも、家の中だけだし」


「リシア」


「はい、旦那様」


「お前もその返事を覚えるな」


 リシアは楽しそうに微笑んだ。


 その時だった。


 ちん、と小さな音がした。


 食卓の横で、銀のスプーンが床に落ちていた。


「あら」


 クラリスが、穏やかに言った。


「うっかりスプーンを落としてしまいました」


 良樹は、嫌な予感を覚えた。

 リシアも、何かを察した顔をした。

 カレンは、まだ顔を赤くしたまま、クラリスを見る。


 クラリスは良樹に背を向けた。

 そして、ゆっくりと腰を折った。


 前屈の姿勢。


 黒いミニスカートの裾が、少し持ち上がる。

 白いニーソとの境目が、危険な角度で伸びる。


 良樹の中で、警報が鳴った。


 クラリスは、すぐには拾わなかった。

 指先を床へ伸ばす。

 少し届かない。

 ほんの少し、姿勢を変える。


 時間をかける。

 明らかに、時間をかける。


 そして、ちらりと良樹を見る。

 自分も、ちらりと見える。


 もう一度、スプーンへ手を伸ばす。

 また、ちらりと良樹を見る。


 良樹は固まっていた。

 椅子に座ったまま、完全に停止していた。


挿絵(By みてみん)


「クラリス」


 良樹の声は低かった。


「はい、旦那様」


 クラリスは前屈の姿勢のまま、顔だけを少しこちらへ向けた。


「そのスプーンは、そんなに拾いにくい位置に落ちているのか」


「はい。少しだけ、拾いにくいです」


「俺には、普通に手を伸ばせば取れる位置に見える」


「旦那様には、そう見えるのですね」


「そう見える」


「では、旦那様の視界は正常です」


「そういう確認をするな」


 クラリスは、また少しだけ指先を伸ばした。

 スプーンには届いている。

 届いているのに、拾わない。

 明らかに、拾わない。


 リシアが、こめかみを押さえた。


「クラリス」


「はい?」


「それ、うっかりではないわよね」


「うっかりです」


「どの部分が?」


「スプーンを落としたところです」


「拾い方は?」


「意図があります」


「認めたわね」


 カレンが両手で顔を覆った。


「ク、クラリス……!」


 クラリスは、ようやくスプーンを拾った。

 しかし、すぐには身体を起こさなかった。


 スプーンを手にしたまま、良樹の方をちらりと見る。


 その表情は清楚だった。

 少し恥ずかしそうで。

 少し楽しそうで。

 そして、完全に分かっている顔だった。


「旦那様」


「何だ」


「先ほど、私たちは家の中だけにすると決まりました」


「ああ」


「人目を気にしなくてもよくなりました」


「ああ」


「そして、旦那様は私たちの姿を、旦那様だけが見ればいいと仰いました」


「……言った」


「では」


 クラリスは、ゆっくり身体を起こした。

 スカートの裾が、ふわりと戻る。


「これは、条件内の行動ですね」


 良樹は目を閉じた。


「条件内ではある」


「はい」


「だが、運用が攻めすぎている」


「攻めてはいません。ご奉仕です」


「今のはスプーン拾いだ」


「旦那様の朝を楽しくするための、ご奉仕です」


「定義が広すぎる」


 クラリスは、拾ったスプーンを胸元に添え、少しだけ首を傾げた。


「問題ありますか? 旦那様」


 三度目だった。


 良樹はまた黙った。

 だが、今度の沈黙は、逃げるためのものではなかった。


 良樹は、クラリスを見た。


 黒いメイド服。

 白いエプロン。

 白いニーソ。

 普段のクラリスなら、ほとんど見せない脚。


 清楚な顔。

 少しだけ意地悪な目。

 それでも、さっき良樹に見られると言われて、確かに照れた顔。


 良樹は、ようやく口を開いた。


「ある」


 クラリスは瞬きをした。


「あるのですね」


「ああ。刺激が強い。だが」


 良樹は少しだけ言葉を選んだ。


「楽しい」


 クラリスの表情が止まった。


「楽しい、ですか?」


「ああ。お前に振り回されてるのは、かなり大変だ。だが、楽しい」


 クラリスの頬が、ほんの少しだけ赤くなった。


「……そうですか」


「ああ。ただし、限度はある」


「はい。限度を確認しながら進めます」


「その返事が一番信用ならねえ」


 クラリスは、拾ったスプーンを胸元に添え、清楚に微笑んだ。


「では旦那様。次も、問題がある時は教えてください」


「問題しか起こしてねえだろ」


「では、報告頻度が高くなりますね」


「上手いこと言うな」


 良樹は、深く息を吐き、ようやくパンへ手を伸ばした。


 朝食は、まだ始まったばかりだった。

 現実の負荷は、相変わらず高かった。


   ◇


 朝食の後。


 ようやく食事が終わった頃には、良樹の精神的な疲労は、なぜか朝起きた時より増えていた。


 おかしい。


 飯を食ったはずだ。

 体力は回復するはずだ。

 それなのに、精神負荷は増えている。


 原因は明白だった。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 三人のメイド服である。


 いや、正確にはメイド服だけではない。

 それを着た三人が、自分を世話しようとしてくることだった。


 しかも、全員が妻である。


 逃げ道がない。


「それじゃあ、次は私ね」


 食後のお茶を片付けたリシアが、そう言った。


 良樹は椅子に座ったまま動きを止めた。


「次?」


「ええ。クラリスばかり良樹に世話をしていたでしょう」


「していたというか、攻撃されていたというか」


「ご奉仕です」


 クラリスが清楚に言った。


「その言葉で全部通すな」


 良樹が返すと、リシアは少し楽しそうに笑った。


「だから、次は私の番」


「何をする気だ」


「耳かきよ」


 良樹は、一瞬だけ黙った。


「耳かき」


「そう。良樹の世界にもあったでしょう?」


「あったが」


「なら問題ないわね」


「ある。耳かきは距離が近い」


「夫婦なのに?」


「夫婦でも近いものは近い」


「それを受け取る練習でしょ、旦那様」


 リシアは、さらりと言った。


 旦那様。

 まだ慣れない。

 いや、慣れてはいけない気がする。


 良樹は額に手を当てた。


「……それ、今日一日続ける気か」


「もちろん」


 リシアは当然のように答えた。


「今日はメイドだもの」


「メイドの定義がどんどん妻に寄ってる」


「妻がメイドをしているんだから、当然でしょう」


「正論っぽく聞こえるのが困る」


「正論よ」


 リシアはそう言って、長椅子へ腰を下ろした。


 クラシカルなメイド服。

 黒と濃紺を基調にした、落ち着いた正統派。

 胸元はきちんと閉じられ、白いエプロンも上品に整っている。

 膝より少し下まで落ちたスカートは、カレンやクラリスの服とは違い、露出を抑えていた。


 だからこそ、リシアらしかった。


 強い。

 隠している。

 品がある。

 そして、隠しているのに逃げ場がない。


 リシアは膝の上を軽く叩いた。


「ほら、来なさい」


「命令か」


「お願いの方がいい?」


「どっちでも負荷が高い」


「じゃあ命令でいいわね」


「よくねえ」


 とはいえ、良樹は立ち上がった。


 拒む理由はない。

 いや、理由なら山ほどある。

 あるが、どれも言葉にすると格好悪い。


 耳かき。

 妻の膝枕。

 メイド服。

 旦那様。


 危険語句が多すぎる。


 良樹は、ゆっくりとリシアの膝へ頭を乗せた。


 乗せた。

 ……はずだった。


「……ん?」


「どうしたの?」


「いや」


 良樹は、少しだけ頭の位置を動かした。


 メイド服のスカート。

 エプロン。

 布の重なり。

 膝の角度。


 全部がきちんとしている。

 きちんとしているせいで、頭の座りが微妙に悪い。


 布越しの膝枕が悪いわけではない。

 柔らかい。

 温かい。

 いい匂いもする。


 だが、エプロンとスカートの折り目が、妙に頭の下で主張してくる。


 良樹は、少しだけ位置を探した。


 もぞ。

 少し動く。

 まだ合わない。

 もぞ。

 反対へ動く。

 微妙に違う。


「良樹」


「何だ」


「動かれると、くすぐったいんだけど」


「悪い。ポジションが決まらない」


「ポジションって言い方をやめなさい」


「頭の座りが悪い」


「……そう」


 リシアは一度、良樹の頭を見下ろした。


 良樹はリシアの膝の上で、少し困った顔をしている。


 メイド服は綺麗だった。

 上品だった。

 正統派だった。


 ただ、耳かきには少し布が多い。


 リシアは、小さく息を吐いた。


「仕方ないわね」


「何が」


「動かないで」


「待て。何を」


 リシアは、片手でスカートの裾を少し持ち上げた。


 良樹の動きが止まった。


 黒いスカートの下。

 きちんと覆われていたはずの脚。

 黒いパンストに包まれた太ももが、静かに現れる。


 リシアは、慌てているわけでもない。

 恥ずかしさで暴走しているわけでもない。


 ただ、仕方ない、という顔だった。


 耳かきをする。

 膝枕をする。

 そのために、良樹の頭が安定しない。

 だから、布をどける。


 理屈としては、通っている。

 通っているのが、一番まずかった。


 挿絵(By みてみん)


「リシア」


「何よ」


「それは」


「頭の座りが悪いんでしょう?」


「そうだが」


「じゃあ、直接の方がいいでしょ」


「直接ではない。パンスト越しだ」


「細かいわね」


「細かくない。大きな違いだ」


「旦那様」


「何だ」


「今は黙って、妻に世話をされなさい」


 良樹は黙った。

 黙るしかなかった。


 リシアは、持ち上げたスカートの裾を整え、良樹の頭を自分の太ももの上へそっと置き直した。


 黒いパンスト越しの太もも。


 柔らかい。

 だが、ただ柔らかいだけではない。

 リシアらしい芯がある。

 温かい。

 服越しとは違う体温が、近い。


 良樹の頭は、今度こそすっと収まった。


「……座りがいい」


「でしょうね」


「良すぎる」


「文句を言わない」


「文句じゃねえよ。危険報告だ」


「却下」


 リシアはそう言って、耳かきを手に取った。


 リシアは、耳かきの手を慎重に動かしていた。


 かり。

 すっ。

 ふわり。


 最初は少しぎこちなかった手つきも、少しずつ落ち着いてきた。


 良樹の呼吸が、ゆっくりになる。

 肩の力が抜ける。

 太ももに預けられた頭の重さが、ほんの少しだけ増す。


 それが分かった。


 良樹が、自分に身を預けている。


 その事実に、リシアの胸の奥が少し温かくなる。


「……痛くない?」


「ああ」


「くすぐったくない?」


「少し」


「我慢しなさい」


「理不尽だな」


「動かれると危ないのよ」


 言いながら、リシアは耳元を覗き込む。


 もっとよく見ようとする。

 痛くしないように。

 奥まで入れすぎないように。

 でも、きちんと綺麗にしてあげられるように。


 そのために、自然と身体が前へ寄った。


 ほんの少し。

 最初は、本当にほんの少しだった。


 だが、リシアは集中していた。


 良樹の耳。

 耳かきの角度。

 手首の動き。

 良樹の呼吸。

 肩の力。


 それらを見ながら、さらに少しだけ前へ傾く。


 良樹の視界が、狭くなった。


 上から、リシアの気配が近づく。


 クラシカルなメイド服。

 胸元まできっちり閉じた、上品で正統派の服。


 だが、その正統派の布の奥にある物理的存在感は、少し前かがみになっただけで、良樹の視界を完全に支配した。


 下には、黒いパンスト越しのリシアの太もも。

 左右には、膝枕の姿勢で良樹の頭を安定させるリシアの脚。

 そして上には。


 リシアのリシアが放つ、どうにも逃げようのない圧。


 良樹は、完全に止まった。


 上下から。

 四点で。

 挟まれた。


 技術的に言えば、保持。

 構造的に言えば、固定。

 感覚的に言えば、包囲。

 倫理的に言えば、夫婦。


 どの表現を採用しても、良樹の退避先は存在しなかった。


「……リシア」


「何?」


挿絵(By みてみん)


 リシアは耳かきに集中したまま返事をした。


「今、かなり近い」


「耳かきなんだから近いでしょう」


「そういう近さじゃない」


「動かないで」


「いや、俺は動けない」


「じゃあ、ちょうどいいわ」


「よくねえ」


 良樹の声が、少しだけ籠もる。


 そこで、リシアはようやく違和感に気づいた。


 自分の姿勢。

 良樹の頭の位置。

 上から覆うように前のめりになっている自分。


 そして、良樹の視界を完全に塞いでいるもの。


 リシアの手が止まった。


「……もしかして」


「ああ」


「見えてない?」


「見えてない」


「私の顔」


「見えてない」


「……何が見えてるのよ」


「言わせるな」


 リシアの顔が、一気に赤くなった。

 だが、良樹からは見えない。

 見えない理由は、リシア自身だった。


 リシアは、耳かき棒を持ったまま固まった。

 そのまま、動かない。


「リシア」


「何よ」


「一度、姿勢を戻せ。この状態で耳かきは危ない」


「……危ないのは分かってるわ」


 リシアの声は、少しだけ小さかった。


「当たってはいるし。この姿勢が、その……良樹にとって危ないのも、分かってる」


「なら」


「でも」


 リシアは、耳かき棒を持つ手を少しだけ止めたまま、ゆっくり息を吸った。


「耳かき中は、ちゃんと見ないと危ないでしょう」


 良樹は黙った。


 それは正しい。


 耳かきは、見えないままやっていいものではない。

 感覚だけで奥へ入れるなど論外だ。

 相手が少し動けば危ない。

 手元が狂えば傷つける。


 だから、リシアが覗き込むのは間違っていない。


 間違っていない。


 間違っていないのが、非常にまずい。


「それに」


 リシアの声が、さらに少しだけ照れた。


「私だって、良樹の妻よ」


「……ああ」


「良樹のもの、でもあるわ」


 良樹の呼吸が止まりかけた。


 リシアは、言ってから自分でも顔を赤くした。

 だが、止まらなかった。


「だから、良樹のものが、上から良樹の顔に当たっても、問題ない、はず」


 沈黙。

 長い沈黙。


 良樹は、リシアの太ももの上で完全に固まった。


「……リシア」


「何よ」


「今のは、理屈としてはかなり危険だ」


「分かってるわよ」


「分かってて言ったのか」


「分かってるから言ったのよ」


 リシアの声は、強がっていた。

 強がっているが、震えてはいない。


 良樹は目を閉じた。


 上には、リシア。

 下には、リシアの太もも。

 耳元には、リシアの声。

 そして、今の言葉。


 良樹のもの。


 その言葉が、良樹の中で静かに過負荷を起こしていた。


 リシアは、少しだけ声を柔らかくした。


「……嫌だった?」


 良樹は、すぐには答えなかった。


 嫌ではない。

 嫌なわけがない。


 ただ、これを許すと、何かが一段進む。

 そう分かっている。


 だが、リシアはふざけているだけではなかった。


 耳かき中だから見ないと危ない。

 良樹に身を預けてほしい。

 自分も良樹の妻として、良樹のものだと認めたい。


 その全部が、今の一言に入っていた。


 良樹は、息を吐いた。


「……気持ちよかった」


 リシアの手が止まった。


「……え」


 その返事は、予想していなかった。


 嫌じゃない。

 そう返ってくると思っていた。


 照れ隠し。

 文句。

 安全だの保護回路だの、いつもの良樹の言い方。


 そのどれでもなかった。


 気持ちよかった。


 短く。

 逃げずに。

 受け取った言葉だった。


 リシアの顔が、じわじわと赤くなる。


「どこが?」


 聞いてから、自分でも少し後悔した。


 耳かきが、か。

 太ももが、か。

 声が、か。

 それとも、さっきの言葉が、か。


 聞いてはいけない問いだった気もする。

 けれど、もう聞いてしまった。


 良樹は、少しだけ黙った。

 それから、目を閉じたまま答えた。


「全部」


 リシアは、完全に固まった。


 全部。


 耳かきも。

 太ももも。

 リシアの声も。

 近さも。

 自分を妻として、良樹のものだと言ったことも。

 良樹が、そこから逃げずに受け取ったことも。


 全部。


「……そう」


 リシアの声は、かなり小さかった。


「ああ」


「なら」


 リシアは、赤くなった顔を隠すように、少しだけ俯いた。

 良樹からは、その表情が見えない。

 また、リシア自身が遮っている。


「もう少し、このままにするわ」


「耳かきは?」


「続ける。でも、その前に少しだけ」


「少しだけ?」


「……少しだけ、私も喜ばせて」


 良樹は黙った。


 リシアは、耳かき棒を安全な位置へ置いたまま、そっと良樹の髪を撫でた。


 太ももの上に預けられた頭。

 上から包むように近い身体。

 顔は見えない。

 けれど、触れる指は優しかった。


 良樹は、目を閉じたまま言った。


「リシア」


「何?」


「今のは、耳かきの工程に入ってるのか」


「入ってないわ」


「じゃあ何だ」


「妻の時間」


 良樹は、返す言葉を失った。


 リシアは小さく笑った。


「家の中だけでしょう?」


「……ああ」


「良樹だけでしょう?」


「ああ」


「なら、いいじゃない」


 良樹は、深く息を吐いた。


「……保護回路が持たねえ」


「落とさないで」


「落ちるような入力を入れてるのはお前だ」


「受け止めなさい、旦那様」


「強い」


「妻だもの」


 リシアは、そう言ってから、またそっと良樹の髪を撫でた。


 耳かきは、まだ続いていない。

 けれど良樹は、動かなかった。

 逃げなかった。


 ただ、リシアの太ももの上で、妻に世話される時間を受け取っていた。


 少し離れたところで、クラリスが口元に手を添えた。


「リシア」


「何よ」


「とても良いです」


「今は茶化さないで」


「茶化していません。良樹くんが、受け取りました」


 カレンも、胸元で両手を握っていた。


「はい。良樹さん、ちゃんと……」


 リシアは何も言わなかった。

 言えなかった。


 ただ、良樹の髪を撫でる指先だけが、少しだけ震えていた。


 良樹は、目を閉じたまま小さく呟いた。


「……正統派は、逃げ道がない」


「聞こえてるわよ」


「聞こえるように言った」


「そう」


 リシアは、少しだけ笑った。


「逃げなくていいわよ」


 そして、もう一度耳かき棒を手に取った。


「旦那様。続きをするから、動かないで」


「……頼む」


 その一言に、リシアの手がまた一瞬だけ止まった。


 頼む。


 それは、良樹が少しずつ覚えてきた言葉だった。


 任せる。

 預ける。

 受け取る。


 戦いの中だけではない。

 生活の中でも。


 リシアは、赤い顔のまま、けれど今度は柔らかく微笑んだ。


「任せなさい」


 耳元で、かり、と小さな音がした。


   ◇


 昼になった。


 朝から続くメイド服従作戦は、良樹の予想を大きく超えて継続していた。


 朝食。

 給仕。

 クラリスによる、清楚な確信犯。

 リシアによる、正統派耳かき膝枕。


 その全てを経て、良樹はすでにかなり静かになっていた。


 静かになった理由は、悟りではない。


 余計なことを言うと、妻たちがさらに踏み込んでくると学習しただけである。


 そして、昼食。


 食卓には、三人で作った料理が並んでいた。


 焼いた肉。

 野菜のスープ。

 柔らかく煮た豆。

 香草を混ぜた卵料理。

 焼きたてのパン。


 特別豪華というわけではない。

 けれど、どれも丁寧に作られていた。


「三人で作ったのか」


 良樹が聞くと、リシアが少し得意そうに頷いた。


「ええ。今日はメイドだもの」


 クラリスも微笑む。


「旦那様にお出しするお食事ですから」


 カレンは、少し緊張した顔で両手を握っていた。


「あ、あの……味は、ちゃんと確認しました」


「なら安心だな」


「はい」


 そこで、カレンは一度深呼吸した。

 それから、良樹の横へ来る。


 いつもより少しだけ大人っぽい、黒と白のメイド服。

 胸元は少し開いている。

 肩は出しすぎず、可愛らしさと背伸びが同居している。

 素足の膝が、緊張で少しだけ寄っていた。


 カレンは、椅子を良樹のすぐ隣へ引いた。


 かなり近い。

 かなり近い位置に座った。


「カレン」


「は、はい」


「近い」


「す、すみません」


 謝りながらも、カレンは椅子を離さなかった。


 良樹はその時点で、少し嫌な予感を覚えた。

 嫌ではない。

 嫌ではないが、嫌な予感だった。


「それで、何をする気だ」


 カレンは、真っ赤になりながら、スプーンを手に取った。


「あ、あの。お食事を……」


「食事なら自分で食える」


 良樹は真顔で言った。


「俺はもう怪我人でも何でもないんだが」


 実際、その通りだった。


 腕も動く。

 手も動く。

 箸はないが、スプーンもフォークも使える。

 食事介助が必要な状態ではない。


 だが、カレンはスプーンを握ったまま、小さく肩を震わせた。


「で、でも」


 声が、小さくなる。


「今日は、メイドで、ご主人様に、奉仕する日、なので……」


 良樹の動きが止まった。


 カレンは、恐る恐る顔を上げた。

 上目遣いだった。


 大きな瞳が少し潤んでいる。

 恥ずかしい。

 怖い。

 でも、やってみたい。


 そんな顔だった。


「ダメ、ですか?」


 その瞬間。


 カレンの放つ見えないエレメンタル・ストライクが、良樹の見えないどこかを正確に撃ち抜いた。


 リシアの狙撃型より細く。

 クラリスの打撃より深く。

 逃げ場も戻り線もない場所を、綺麗に貫いた。


 良樹は、しばらく沈黙した。


 駄目なわけがない。


 カレンは、自分に食べさせたいのだ。

 怪我人扱いしたいのではなく。

 子ども扱いしたいのでもなく。


 ご主人様に奉仕するメイドとして。

 そして、良樹の妻として。


 自分の手から食べてほしいと、そう言っている。


 良樹は、片手で顔を覆いかけた。


「……待て」


「は、はい」


「少し心の準備をさせろ」


「心の、準備……ですか?」


「ああ」


 良樹は、視線を逸らした。


「ただでさえ普段から、その、かわいいお前らに」


 カレンの動きが止まった。

 リシアの眉が、わずかに上がった。

 クラリスも、口元に添えていた手を止めた。


 良樹は、自分が何を言ったか分かっていながら、もう止まれなかった。


「いきなりこんなことされて、順応できるほど、俺は器用じゃねえ」


 食堂が、一瞬静かになった。


 カレンの顔が、耳まで真っ赤になっていく。


「か、かわ……」


「言い直させるな」


「い、いえ。その、嬉しい、です」


 カレンは、スプーンを持ったまま、胸元で小さく身を縮めた。


「良樹さんに……ご主人様に、かわいいって、言ってもらえるの、すごく、嬉しいです」


 良樹は目を逸らしたまま、短く息を吐いた。


「……だから、駄目じゃない」


 カレンが、ぱっと顔を上げる。


「本当ですか?」


「ああ。ただ、急に来ると処理が追いつかない。少し待て。そのあとなら、食べる」


 カレンは、真っ赤な顔で、けれど嬉しそうに頷いた。


「はい。待ちます」


 リシアが横で小さく笑った。


「良樹」


「何だ」


「普段からかわいい、ね」


「そこを拾うな」


「拾うわよ。三人まとめて言われたもの」


 クラリスも穏やかに微笑んだ。


「私たち全員へのご褒美ですね」


「ご褒美にするな」


「ですが、嬉しいです」


「……そうかよ」


 カレンは、スプーンを持ったまま、良樹の準備ができるのを待っていた。


 急かさない。

 けれど、目は期待で揺れている。


 良樹は、深く息を吸った。

 そして、観念したようにカレンを見る。


「……よし。頼む」


 カレンの表情が、花が咲くように明るくなった。


「はい!」


 その返事は、今日一番まっすぐだった。


 カレンはスプーンで料理をすくった。


 豆と卵を少し。

 肉の小片を少し。

 食べやすい量。


 それを口元へ運ぶ前に、ふう、と息を吹いた。


「熱いか?」


「熱すぎると、いけないので……」


 ふう。

 もう一度。


 カレンの唇が小さく丸くなる。

 目は真剣。

 頬は真っ赤。

 けれど、スプーンを持つ手は丁寧だった。


 良樹は、その仕草を見て思った。


 これは攻撃ではない。

 攻撃ではない。

 断じて攻撃ではない。


 だが、被弾している。


「は、はい」


 カレンは、震える声で言った。


「ご主人様。あーん、です」


 良樹は目を閉じた。

 閉じても状況は変わらない。

 むしろ、声だけになる分、破壊力が上がる。


 良樹は諦めて口を開けた。


 ぱくり。


挿絵(By みてみん)


 カレンが差し出したスプーンから、料理を食べる。


 温かい。

 冷ましすぎていない。

 ちょうどいい温度だった。


 味もいい。


 少し素朴で。

 少し優しくて。

 カレンらしい味がした。


「どう、ですか?」


 カレンが、不安そうに聞いた。


 良樹は飲み込んでから、短く答えた。


「美味い」


 その瞬間、カレンの顔がさらに明るくなった。


「よかった……!」


 嬉しそうに笑う。


 その笑顔が、また良樹に刺さった。


 リシアが横で腕を組んでいた。


「カレン、すごいわね」


「す、すごくないです」


 クラリスは清楚に微笑む。


「とても良いご奉仕です」


「ご奉仕……」


 カレンは自分で言葉を受け止めて、また赤くなった。

 けれど、やめなかった。


 次に、カレンは同じ料理を少しだけすくった。

 今度は、自分の口へ運ぶ。


「ん……」


 小さく味を見る。


 温度。

 味。

 硬さ。


 良樹に食べさせる前に、確かめたのだろう。


 カレンはこくりと頷いた。


「大丈夫です」


 そして、そのまま同じスプーンで料理をすくい直し、良樹の口元へ差し出した。


「は、はい。ご主人様、あーん……」


 良樹は、何も考えずに食べた。


 ぱくり。


 カレンの手から、二口目を受け取る。


「……うん。これも美味い」


「本当ですか?」


「ああ」


 カレンは嬉しそうに笑った。

 笑った。


 そして。


 数瞬後。


 ぴたりと固まった。


「……あ」


 カレンの目が、ゆっくりとスプーンへ落ちる。


 さっき、自分が味見した。

 そのスプーンで。

 良樹に食べさせた。


 つまり。


 間接キス。


 カレンの顔が、首まで一気に赤くなった。


「あ、あの。い、今の……」


 良樹も、その反応を見て理解した。

 カレンが何を考えたのか。


挿絵(By みてみん)


 その瞬間、良樹もつられて赤くなった。


「……カレン」


「は、はい」


「今さらだ」


「そ、そうなんですけど……!」


 そう。

 今さらだった。


 キスはしている。

 抱きしめてもいる。

 夫婦にもなっている。

 夜を越えた日もある。


 今さら、スプーンの間接キスで慌てる段階ではない。

 ないはずだった。

 ないはずなのに。


 カレンは真っ赤だった。

 良樹も赤かった。


 リシアは、少し呆れたように二人を見ていた。


「あなたたち。本当に今さらよね」


 クラリスは、口元に手を添えて微笑む。


「ですが、とてもカレンらしいです」


「そ、そうでしょうか……」


 カレンはスプーンを握ったまま、うつむく。


「私、その。良樹さんと……ご主人様と、キスも、しているのに、こういうの、まだ、すごく恥ずかしくて……」


 良樹は、少しだけ目を逸らした。


「……俺もだ」


 カレンが顔を上げる。


「良樹さんも、ですか?」


「ああ」


 良樹は、照れたように頬を掻いた。


「キスとは別だろ。これはこれで、恥ずかしい」


 カレンの目が、少しだけ潤んだ。

 けれど、それは悲しさではなかった。

 嬉しさだった。


「同じ、ですね」


「ああ。同じだな」


 カレンは、スプーンを両手で持ったまま、少しだけ笑った。

 恥ずかしそうで。

 嬉しそうで。

 泣きそうで。

 それでも、笑っていた。


「では」


「ん?」


「もう一口だけ。同じスプーンでも、いいですか?」


 良樹は、カレンを見る。


 カレンは真っ赤だった。

 だが、逃げていなかった。


 ご主人様に食べさせたい。

 恥ずかしい。

 でも、嫌じゃない。

 むしろ、嬉しい。


 それが全部、顔に出ていた。


 良樹は、ゆっくり息を吐いた。


「……いい」


 そして、少しだけ付け足した。


「カレンがそうしたいなら、俺も、そうされたい」


 カレンの手が止まった。


「……良樹さん」


「今日はご主人様なんだろ」


「あ……」


「なら、食べさせてくれ」


 カレンの目が、じわりと潤んだ。


「はい。はい、ご主人様」


 カレンは、もう一度料理をすくった。

 今度は、味見しなかった。

 ただ、ふう、と丁寧に冷ます。


 そして、良樹の口元へ差し出す。


「ご主人様。あーん、です」


 良樹は口を開けた。


 ぱくり。


 今度は、二人とも分かっていた。

 分かった上で。

 それでも、カレンは真っ赤になり、良樹も少し赤くなった。


 リシアが、ため息交じりに笑う。


「本当に、あなたたち夫婦なのよね?」


「夫婦だ」


 良樹が答える。


「はい……夫婦です」


 カレンも、小さく答える。


 クラリスが穏やかに頷いた。


「夫婦でも、初々しいことはあります」


「限度があると思うけど」


「それがカレンです」


「否定できないわね」


 カレンは恥ずかしそうにしながらも、良樹の隣から離れなかった。


 肩が触れている。

 腕が近い。

 スプーンを持つ手が、まだ震えている。


 良樹は、その手をそっと支えた。


「震えてるぞ」


「はい……」


「嫌ならやめる」


 カレンは首を振った。


「嫌じゃないです。ご主人様に食べてもらえるの、嬉しいです」


 良樹は黙った。


 その言葉にも、見えないエレメンタル・ストライクがあった。

 良樹の中の、よく分からない柔らかい場所が、また撃ち抜かれる。


「……そうか」


「はい」


 カレンは、今度は少しだけ落ち着いた手つきで次をすくった。

 良樹はそれを受け取る。


 昼食は、思ったより時間がかかった。


 なぜなら、カレンが一口ごとに照れるからである。

 そして良樹も、一口ごとに少しずつ照れるからである。


 キスもした。

 抱きしめもした。

 夫婦にもなった。


 それでも、スプーンで食べさせてもらうだけで、二人は赤くなる。


 初心。

 あるいは、夫婦になっても消えない、最初の頃の柔らかい熱。


 良樹は、カレンの手から昼食を食べながら思った。


 カレンのご奉仕は、強い。

 強い理由は、攻めてくるからではない。


 嬉しそうにするからだ。


 自分が食べるたび。

 美味いと言うたび。

 良樹が受け取るたび。


 カレンが、本当に嬉しそうに笑う。


 それが、一番効く。


「……カレン」


「はい、ご主人様」


「美味い」


 カレンは、またぱっと笑った。


「はい!」


 良樹は、その笑顔を見て、少しだけ言葉を足した。


「それと、食べさせてもらうのも、悪くなかった」


 カレンの動きが止まる。


「悪く、なかった……ですか?」


「ああ。恥ずかしかったけどな」


「はい……私も、すごく恥ずかしかったです」


「でも」


 良樹は、カレンの持つスプーンを見て、それからカレンを見た。


「嬉しかった」


 カレンは、完全に赤くなった。

 けれど、今度は俯かなかった。


「……私も。良樹さんに食べてもらえて、嬉しかったです」


「そうか」


「はい」


 カレンは、泣きそうなくらい嬉しそうに笑った。


 良樹は、内心で静かに認めた。


 見えないエレメンタル・ストライクは、今日も的確だった。


   ◇


 昼食のあと。


 良樹は、長椅子で眠っていた。

 昼寝である。


 本人は、少し目を閉じるだけだと言っていた。

 だが、三人が毛布をかける頃には、すでに完全に寝息を立てていた。


 無理もない。


 朝から、三人の妻にメイド服で起こされ。

 家の中限定という自分の発言に追い詰められ。

 クラリスに案内され。

 朝食で振り回され。

 リシアに耳かきをされ。

 カレンに昼食を食べさせられた。


 身体ではない。

 精神の方が、少しだけ疲れていた。


 リシアは、眠る良樹の顔を見下ろした。


「……寝たわね」


「はい」


 カレンが小さく頷く。


「良樹さん、すごく静かになっていました」


「静かというか、処理落ちですね」


 クラリスが穏やかに言った。


「それ、良樹がよく言う言葉よね」


「はい。今日の旦那様には、かなり適切かと」


 三人は、顔を見合わせた。

 そして、ほとんど同時に食堂の隅へ移動した。


 良樹から少し離れた場所。

 声を抑えれば、眠っている良樹には届かない距離。


 そこで、三人は小さく円を作った。


 メイド服のまま。


 クラシカルなリシア。

 フレンチ風のカレン。

 黒いミニスカのクラリス。


 妻会議。


 ただし、いつものように夜にこっそり集まるのではない。


 昼。

 家の中。

 良樹がすぐそばで眠っている。


 だから、これは小さな妻会議だった。


「では」


 クラリスが、静かに口を開いた。


「第一回、メイド服従作戦・途中確認会議を始めます」


「名前が長いわね」


 リシアが言う。


「小妻会議でいいと思います」


「小妻会議……」


 カレンが少しだけ照れた。


「なんだか、かわいいですね」


「かわいいけど、議題はかなり重要よ」


 リシアは腕を組んだ。


「まず確認。ここまでの作戦は、成功していると思う?」


 カレンは、良樹の方をちらりと見た。

 良樹は眠っている。

 毛布の下で、穏やかな寝息を立てていた。


「成功、していると思います。良樹さん、ちゃんと受け取ってくれています」


「そうですね」


 クラリスも頷く。


「嫌ではない、ではなく。言葉にしてくれました」


 リシアの肩が、少しだけ跳ねた。

 カレンの顔も赤くなる。


 三人は、それぞれ思い出してしまった。


 クラリスは、良樹に言われた。


 刺激が強い。

 その格好も含めて。

 普段はほとんど肌を見せないから、どうしても目がそっちに行く。

 似合っている。

 かなり効く。


 クラリスは、そっと自分のスカートの裾に触れた。


「……旦那様は、時々ずるいです」


「あなたが言うの?」


 リシアが半眼になる。


「はい。私がからかうつもりだったのに、真正面から言われると、少し……困ります」


「困ってたわね」


「はい。ですが、嬉しかったです」


 カレンが、胸元で両手を握った。


「クラリス、とてもかわいかったです」


「カレンまで言わないでください」


「でも、本当にかわいかったです」


 クラリスは、さらに顔を赤くした。

 リシアは、少し笑った。


「次、私ね」


 自分で言ってから、リシアは一瞬黙った。


 耳かき。

 膝枕。

 スカートを上げて、パンスト越しの太ももに良樹の頭を乗せた。

 耳かきに集中して、前のめりになった。

 そして、良樹を上下から四点で挟んだ。


 さらに。


 良樹のものが、良樹の顔に当たっても問題ない、はず。


 自分で言った。


 思い出した瞬間、リシアの顔が真っ赤になった。


「リシア」


 クラリスが微笑む。


「とても大胆でした」


「うるさいわよ」


「良樹くんに、全部と言われていましたね」


「言わなくていいわよ!」


 カレンが、目を輝かせる。


「でも、すごく素敵でした。良樹さん、ちゃんとリシアに甘えていました」


 リシアは黙った。

 その言葉には弱かった。


 良樹が自分の太ももの上で、少しずつ力を抜いていった。

 自分の耳かきを受け入れた。

 気持ちよかった、と言った。

 どこが、と聞いたら、全部と答えた。

 最後に、頼む、と言った。


 それは、確かに嬉しかった。


「……そうね」


 リシアは、小さく言った。


「良樹、逃げなかったわ。ちゃんと受け取ってくれた」


「はい」


「それは、嬉しかった」


 カレンとクラリスが、静かに頷いた。


「それで、カレン」


 リシアがカレンを見る。


「はいっ」


 カレンの肩が跳ねた。


「あなたも、かなり強かったわよ」


「わ、私はそんな……」


「強かったです」


 クラリスも即答した。


「特に、上目遣いで『ダメですか?』は強力でした」


「そ、それは……! そんなつもりでは……!」


「ないから強いのよ」


 リシアが言う。


「良樹、完全に撃ち抜かれてたわ」


「見えないエレメンタル・ストライク、ですね」


 クラリスが穏やかに言った。


 リシアはそこで、小さく笑った。


「私の魔法なのに、カレンに使われちゃったわね」


「えっ」


 カレンが目を丸くする。


「わ、私、魔法は使ってません……!」


「使ってたわよ。しかも、かなり威力の高いやつ」


「そ、そんなつもりじゃ……」


「だから強いのよ」


 リシアは楽しそうに肩をすくめた。


「私なら狙って撃つ。カレンは、狙ってないのに当てる」


 クラリスが静かに頷く。


「しかも、良樹くんの一番柔らかいところへ」


「ク、クラリス!」


 カレンは真っ赤になった。


 リシアは、眠っている良樹の方をちらりと見た。


「本当に見事だったわ。良樹、完全に動けなくなってたもの」


「そ、それは……良樹さんが優しいから……」


「違うわ、カレン」


 リシアは少しだけ柔らかく笑った。


「優しいだけなら、あそこまで撃ち抜かれない。あれは、あなたが良樹にちゃんと届いたのよ」


 カレンは、両手で胸元を押さえた。


「……届いた」


「ええ」


 クラリスも微笑む。


「ご主人様に、届きましたね」


 カレンは、また顔を赤くした。

 けれど、今度は少し嬉しそうに笑った。


「……はい」


 少しだけ沈黙が落ちた。


 三人は、眠る良樹を見た。


 彼は、普段から強がる。

 無理をする。

 すぐ大丈夫と言う。

 全部自分で抱えようとする。


 けれど今日は。


 腕を預けた。

 頭を預けた。

 食事を受け取った。

 恥ずかしがりながらも、嬉しいと伝えた。

 楽しいと伝えた。

 気持ちよかったと伝えた。

 頼むと言った。


 リシアは、小さく息を吐いた。


「作戦は、成功ね」


「はい」


「はい」


 カレンとクラリスが頷く。


「ただし」


 クラリスが人差し指を立てた。


「旦那様の負荷はかなり高いです」


「それはそうね」


「なので、二周目は注意が必要です」


 リシアは腕を組んだ。


「二周目はやるのね」


「もちろんです」


 クラリスが即答した。


「今日はまだ昼です」


「そうね」


 リシアも頷いた。


「せっかく家の中だけなんだもの。まだできることはあるわ」


 カレンは少しだけ不安そうに良樹を見た。


「でも、良樹さん、疲れてしまわないでしょうか」


「だから、昼寝させているのです」


 クラリスが言う。


「回復時間ですね」


「良樹みたいな言い方ね」


「影響を受けました」


「悪い方向にね」


 三人は小さく笑った。


「二周目の方針を決めましょう」


 クラリスが言った。


「まず、無理はさせない。嫌がったら止める。ただし、良樹くんは嫌ではない時ほど逃げようとするので、言葉を確認します」


「そうね」


 リシアが頷く。


「嫌じゃない、だけで済ませない。ちゃんと、どう感じたか聞く」


「はい」


 カレンも頷いた。


「でも、あまり追い詰めすぎないように……」


「それは大事ね」


 リシアは、眠る良樹を見た。


「良樹に受け取ってほしい。でも、壊したいわけじゃない」


「はい。壊しません」


 クラリスが静かに言った。

 その声には、冗談ではない芯があった。


 クラリスは、良樹の安全回路でもある。

 今日の遊びの中でも、その役割は変わらない。


「良樹くんが本当に危なくなったら、止めます」


「お願いね」


「はい」


 カレンは、小さく手を上げた。


「あの。二周目は、どうするんですか?」


 リシアは少し考えた。


「私は、身支度かしら。髪を整えたり、服を整えたり。良樹は自分でやれると言うでしょうけど」


「言いますね」


「絶対に言います」


 カレンとクラリスが同時に言った。


「だから、そこを受け取らせる」


 リシアは言った。


「生活の中で、妻に整えられること。それを覚えてもらうわ」


 クラリスは少し考えた。


「私は、体調確認でしょうか。脈拍、呼吸、魔力の流れ。それから、疲労の確認」


「それ、ご奉仕なの?」


「診察です。ですが、メイドなのでご奉仕です」


「また便利に使ってるわね」


「便利ですから」


 カレンは、少し考え込んだ。


「私は……」


「カレンは?」


 リシアが促す。


「良樹さんが起きたら、お茶を入れて、それから……」


 カレンは真っ赤になった。


「少しだけ、膝に……」


「膝に?」


「い、いえ! まだ考え中です!」


 リシアとクラリスが、同時に微笑んだ。


「カレン」


「は、はい」


「無理しなくていいわ。でも、やりたいならやりなさい」


「そうです。ご主人様専用ですから」


「ク、クラリス!」


 カレンは赤くなって慌てた。


 その声に、長椅子の良樹が少しだけ動いた。

 三人は一斉に口を閉じる。


 良樹は、少し眉を動かしただけで、また静かに寝息を立てた。


 三人は、ほっと息を吐いた。

 そして、顔を見合わせて小さく笑った。


「では」


 クラリスが小声で言う。


「小妻会議、第一回は終了です」


「第二回もあるの?」


「必要なら」


「ありそうね」


 リシアはそう言って、良樹の方へ歩いた。

 毛布が少しずれていた。

 リシアはそれを直す。


 カレンは、良樹の寝顔を見て柔らかく微笑んだ。


「良樹さん、よく眠っていますね」


「安心しているのでしょう」


 クラリスが言った。


「私たちの家で、私たちがそばにいるから」


 リシアは、良樹の髪をそっと撫でた。


「そうなら、いいわね」


 良樹は起きない。

 ただ、少しだけ表情が緩んだように見えた。


 三人は、声を抑えて笑った。


 メイド服従作戦は、まだ終わらない。


 だが、この時点で、三人はもう分かっていた。


 偶像には、負けていない。


 少なくとも。


 良樹がこうして安心して眠っている場所は、どこかの店でも、遠い世界の記憶でもない。


 三人のいる、この家だった。


挿絵(By みてみん)


   ◇


 良樹が目を覚ました時、まず視界に入ったのはクラリスだった。


 黒いミニスカートのメイド服。

 白いエプロン。

 白いニーソ。


 そして、いつもの清楚な微笑み。


 ただ、少しだけ違った。


 朝のように余裕のある笑みではない。

 どこか照れを残した、落ち着き切らない顔だった。


「……クラリス」


「はい、旦那様」


「俺はどのくらい寝てた」


「少しだけです。ですが、かなり深く眠っていました」


「そうか」


 良樹は身体を起こそうとした。

 だが、その前にクラリスがそっと手を伸ばし、良樹の肩を押さえた。


「まだ、急に起きないでください」


「大丈夫だ。寝ただけだぞ」


「朝から負荷が高かったので」


「その負荷の大半はお前らだ」


「はい。ですので、確認します」


「認めた上で診るのか」


「はい」


 クラリスは、良樹のそばに膝をついた。


 いつもの診察の距離。

 けれど、今のクラリスはメイド服だ。


 距離は同じでも、入力が違う。


「脈拍、呼吸、魔力の流れ。それから、疲労の確認をします」


「診察か」


「はい」


「ご奉仕か」


「はい」


「どっちだ」


「聖癒のメイドによる、診察型ご奉仕です」


「便利な合成語を作るな」


 クラリスは小さく笑った。

 そして、良樹の手首に触れようとして。


 その前に、ふと手を止めた。


「旦那様」


「ん?」


 良樹が振り向いた。


 その瞬間、クラリスが身を寄せた。


 唇が触れる。


 挿絵(By みてみん)


 軽く。

 けれど、確かに。


 クラリスからのキスだった。


 良樹は固まった。

 クラリスも、キスをした後で固まった。


 勢いでやったわけではない。

 自分で決めて、自分で近づいて、自分からした。


 だからこそ、顔が赤くなる。


「……クラリス」


「はい……」


「今のは診察か」


「違います」


「ご奉仕か」


「違います」


「じゃあ何だ」


 クラリスは、目を伏せた。


 いつものような、清楚な余裕はない。

 少しだけ指先を握る。

 それから、小さく息を吸った。


「その、今日の私は、可愛いですか?」


 良樹は返答に詰まった。


 クラリスは、顔を上げない。


「朝、似合っていると言ってくれました。刺激が強いとも。かなり効くとも、言ってくれました」


「ああ」


「嬉しかったです。とても」


 クラリスの声は、小さかった。


「でも、もう一度、聞きたくなりました。ちゃんと、私だけを見て」


 良樹は黙った。


 クラリスは強い。

 戦えば怖い。

 治療もできる。

 良樹の安全回路にもなる。

 清楚な顔で、平然と良樹を追い詰める。


 だが今のクラリスは、ただ良樹に見てほしい女の子だった。


 良樹は、逃げなかった。


「……いつも可愛い」


 クラリスの肩が、ぴくりと動いた。


「いつも?」


「ああ。いつも可愛い。だが、今日のクラリスも可愛い」


 良樹は、言ってから少し視線を逸らした。


「言わせるな」


 クラリスは、ゆっくり顔を上げた。


 頬が赤い。

 目も少し潤んでいる。

 それでも、嬉しそうに笑っている。


「言って欲しかったんです。私だけを見て」


 良樹は、クラリスを見る。


 黒いメイド服。

 白いニーソ。

 清楚な顔。

 乙女の目。


 良樹は、今度は視線を逸らさなかった。


「クラリスは可愛い」


 ド直球だった。


 クラリスは完全に止まった。


「……はい」


「聞こえたか」


「はい」


「もう一回いるか」


 クラリスは、慌てて首を振った。


「い、いえ。今は。今は大丈夫です」


「今は、なのか」


「はい。また、聞きたくなるかもしれません」


「そうか」


「はい」


 クラリスは、何とかいつもの微笑みを作ろうとした。

 だが、うまくいかなかった。


 口元は緩む。

 頬は赤い。

 目は嬉しそうに揺れている。


 清楚な診察役に戻ろうとしているのに、乙女の顔が隠し切れていない。


 良樹は小さく息を吐いた。


「クラリス」


「はい」


「脈拍を測るんだろ」


「……はい。測ります」


 クラリスは良樹の手首に指を添えた。

 そして、数秒。

 黙った。


「……速いです」


「そりゃそうだろ」


「原因は分かりますか?」


「お前だよ」


「はい。確認できました」


「診察に私情を混ぜるな」


「混ざってしまいました」


「正直だな」


「今日は、少しだけ」


 クラリスは、まだ赤い顔のまま、良樹の脈を取り続けた。


「旦那様」


「何だ」


「少し速いですが、危険な乱れではありません。ただ、疲労はあります」


「ああ」


「ですので、今日は楽しくても、危ない時は私が止めます」


 その声には、先ほどの乙女の揺れとは別の芯があった。


「良樹くんが楽しくても、私たちが嬉しくても、身体が危ない時は、止めます」


 良樹は、クラリスを見る。


 クラリスはまだ赤い。

 だが、目は真剣だった。


「それが、妻の役目です」


 良樹は、短く息を吐いた。


「……助かる」


「はい」


「頼む」


 クラリスの指が、一瞬だけ止まった。


 頼む。


 その言葉を受け取って、クラリスはまた少しだけ微笑んだ。


「任されました」


「ただし」


「はい」


「止める役が、一番入力を入れてくるのはどうなんだ」


 クラリスは、少し考えた。


「必要負荷です」


「便利な言葉を作るな」


「では、適正刺激です」


「もっと駄目だ」


 クラリスは、小さく笑った。

 その笑顔は、ようやくいつものクラリスに少し戻っていた。


 だが良樹は知っていた。


 今日のクラリスは、可愛いと言われたかった。

 そして、自分からキスをしてきた。


 その事実だけで、脈拍はしばらく落ち着きそうになかった。


   ◇


 クラリスの診察が終わったあと、良樹はようやく長椅子から身体を起こした。


 起きる。

 立つ。

 茶を飲む。

 少し作業場の様子を見る。


 そういう、ごく普通の流れに戻るつもりだった。


 だが、その前にリシアが立ちはだかった。


「次は私ね」


「まだ続くのか」


「続くわよ。寝起きで髪も服も乱れているもの」


「自分で直せる」


「知ってるわ」


 リシアは、櫛と小さな布を手にしていた。


 クラシカルなメイド服。

 黒と濃紺の落ち着いた布。

 白いエプロン。

 胸元まできっちり閉じた、正統派の装い。


 その姿で、リシアは良樹の背後へ回る。


「でも今日は、私が直す」


「だから、自分でできることまでやってもらう必要はないだろ」


「必要があるからやるんじゃないわ」


 リシアは、良樹の髪へそっと櫛を入れた。


「妻が整えたいから、整えるの」


 良樹は黙った。


 櫛が、髪を通る。


 耳かきの時とはまた違う。

 近いが、今度は背後から。

 逃げ場がないというより、背中を預ける感覚だった。


「こういうのは慣れない」


「慣れなさい」


「命令か」


「お願いにしてほしい?」


「どっちでも負荷が高い」


「じゃあ命令でいいわね」


「よくねえ」


 リシアは小さく笑った。

 それでも手つきは丁寧だった。


 寝癖を直す。

 髪の流れを整える。

 耳の横を軽く押さえる。

 後ろ髪を梳く。


 どれも自然で、落ち着いていて、余計な動きがない。


 正統派。


 良樹は、またその言葉を思い出した。


 リシアは、正統派のまま強い。


「何でも自分で整える男は嫌いじゃないわ」


「そうか」


「ええ。でも」


 櫛を置き、リシアは今度は良樹の襟元へ回った。

 正面に立つ。


 近い。


 近いが、襟を直すためと言われれば、その距離になる。


「私に整えさせてくれる男は、もっと好きよ」


 良樹の動きが止まった。


「リシア」


「何?」


「今のはずるい」


「そう?」


「そうだ」


「でも本当よ」


 リシアは、良樹の襟元を整えた。


 寝ている間に少し崩れたシャツ。

 首元の布。

 この世界でネクタイのように使っている細い布飾り。


 リシアはそれを指で直し、結び目を整える。


「動かない」


「近い」


「襟を直してるの」


「顔が近い」


「顔を見るためじゃないわ」


「じゃあ何を見るんだ」


 リシアは、良樹の胸元に手を添えたまま言った。


「私の夫」


 良樹は沈黙した。


 その沈黙は、分かりやすかった。


 言葉が出ない。

 返せない。

 逃げたいが、逃げる理由もない。


 リシアは、その顔を見た。


 少し赤い。

 少し困っている。

 それでも、逃げずに自分の前に立っている。


 リシアは、ふっと笑った。


「良樹」


「何だ」


 返事をした瞬間だった。


 リシアは、良樹の首元の布をきゅっと引いた。


 強くではない。

 けれど、確実に良樹の顔が自分へ近づく程度に。


「おい――」


 言い切る前に、リシアの唇が触れた。


挿絵(By みてみん)


 短いキスだった。

 だが、不意打ちだった。


 良樹は完全に止まった。


 リシアは少しだけ顔を離す。

 そして、良樹の乱れた首元を見た。


 せっかく整えた襟元。

 さっき直した布飾り。

 キスのために自分で引いたせいで、また少し崩れている。


 リシアは、わざとらしく小さく息を吐いた。


「せっかく整えたのに、また乱れちゃったじゃない」


 良樹は、しばらく黙った。


「……乱したのお前だろ」


「そうね」


「認めるのか」


「認めるわ」


 リシアは、崩れた布飾りを指先でつまんだ。

 だが、すぐには直さない。


 良樹を見る。


 どこか挑むようで。

 どこか照れているようで。

 けれど、逃げない顔だった。


「どうせ乱れたなら」


「リシア」


「何?」


「その顔は危険だ」


「知ってるわ」


 リシアは、もう一度、布を引いた。


 今度は良樹も分かっていた。

 分かっていたが、逃げなかった。


 二度目のキス。

 一度目より少し長い。


 乱すためではない。

 確かめるためでもない。


 ただ、妻として。

 自分が整えた夫を、自分でもう一度乱したかった。


 そして、乱したものを、もう一度自分の手で整えたかった。


 リシアは唇を離す。

 良樹は、息を吐いた。


「……リシア」


「何?」


「身嗜みを整える工程に、今のは含まれるのか」


「含まれないわ」


「じゃあ何だ」


「妻の確認」


「また便利な言葉を増やす」


「便利だもの」


 リシアは、今度こそ良樹の首元を直し始めた。


 崩れた布をほどきかける。

 結び目を正す。

 襟を整える。

 肩口を払う。

 胸元の皺を伸ばす。


 手つきは、先ほどより少しだけ慎重だった。

 いや、違う。

 少しだけ照れていた。


「……さっきより手が慎重だな」


「黙ってなさい」


「照れてるのか」


「黙ってなさいと言ったわよね」


「はい」


 リシアは良樹の胸元を整えながら、顔を上げない。

 耳が少し赤い。


 良樹はそれを見て、小さく笑いそうになった。

 しかし笑えば怒られる。

 しかも今は、首元を握られている。


 安全上、笑わない方がいい。


「良樹」


「何だ」


「さっきの」


「ああ」


「嫌だった?」


 良樹は、少しだけ間を置いた。

 リシアは手を止めない。

 だが、指先の動きが少しだけ遅くなった。


 良樹は息を吐く。


「嫌なわけねえだろ」


 リシアの手が止まった。


「そう」


「ああ。ただ」


「ただ?」


「整えたあとに自分で乱すのは、工程としてどうなんだ」


 リシアは数秒黙った。

 それから、小さく笑った。


「乱れても、また整えればいいのよ」


「現場なら怒られるやつだ」


「夫婦だから怒られないわ」


「夫婦を万能免罪符にするな」


「便利だもの」


 リシアは、最後に結び目をきゅっと整えた。


 強すぎず。

 緩すぎず。

 きちんと。


 そして、良樹の胸元を軽く叩く。


「はい。今度こそ、整ったわ」


「何がだ」


「髪と服と」


 リシアは少しだけ微笑んだ。


「少しだけ、夫婦の距離」


 良樹は言葉に詰まった。


 リシアは、満足そうに頷いた。


「これでよし」


「よし、なのか」


「ええ。私が整えたんだから、よしよ」


 良樹は、整えられた襟元に触れた。

 確かに、きちんとしている。


 髪も服も、寝起きの乱れは消えていた。


 ただし。


 心の方は、むしろ乱された。


「……リシア」


「何?」


「服は整った」


「ええ」


「俺の中身は乱れたままだ」


 リシアは、少しだけ目を丸くした。

 それから、楽しそうに笑った。


「それは、自分で整えなさい」


「そこは妻が整えないのか」


「整えたら、また乱したくなるもの」


「お前な」


 リシアは軽く肩をすくめた。


「我慢しているのよ、これでも」


 良樹は沈黙した。

 その沈黙を見て、リシアはさらに嬉しそうに笑った。


「何?」


「いや」


「言いなさい」


「……強いな、お前」


「妻だもの」


「それで全部通すな」


「通るわよ」


 リシアは、もう一度良樹の襟元を軽く整えた。

 今度は本当に、乱さないように。


「はい。旦那様、身支度は終わりです」


「……ありがとう」


 リシアの表情が、少し柔らかくなる。


「どういたしまして」


 良樹は少しだけ視線を落とし、整えられた布飾りを見た。


 さっき二度、リシアに引かれたところ。

 そこだけ、妙に存在感が残っている気がした。


 良樹は内心で思った。


 リシアの身支度は、整える。

 ただし一度、必ず乱してくる。


   ◇


 カレンは、お茶を淹れた。


 良樹は、すでにクラリスに診られ、リシアに整えられ、かなり静かになっていた。

 だが、カレンが近づいてくると、その静けさはまた別の種類の警戒へ変わった。


 カレンはそれに気づいて、少しだけ困ったように笑った。


「ご主人様。お茶をどうぞ」


「ああ。ありがとう」


 カップを置いた後、カレンは良樹の袖口を見た。


「あの、袖が……」


「袖?」


「少し、乱れています。直してもいいですか?」


「ああ」


 カレンは良樹の手を取った。

 袖口を整える。

 指先が震えている。


「震えてるぞ」


「はい……」


「無理するな」


「無理では、ないです。ただ、良樹さんの手を取るのは、何度しても緊張します」


「夫婦だろ」


「夫婦でも、です」


 カレンは真っ赤になりながら、袖の折れ目を整えた。

 丁寧だった。

 必要以上に、ではない。

 けれど、気持ちがこもっている。


「カレン」


「はい」


「丁寧だな」


「ご主人様の服なので」


「俺の服だ」


「はい。だから、丁寧にしたいです」


 良樹はまた少しだけ黙った。

 カレンのご奉仕は、本当に逃げ道を作らない。

 攻めていない。

 ただ、嬉しそうに丁寧にする。

 それが一番効く。


 袖を直し終えると、カレンは少しだけ迷った。


「あの」


「何だ」


「少しだけ」


 カレンは、顔を赤くして言葉を探す。


「隣じゃなくて」


「ああ」


「膝の上に……座っても、いいですか?」


 良樹は完全に止まった。


「……待て」


「はい」


「それは心の準備がいる」


「待ちます」


 カレンは待った。

 本当に待った。


 急かさない。

 けれど、期待に揺れる目で、良樹を見ていた。


 良樹は深呼吸した。


「……いい。ただし、少しだけだ」


「はい」


 カレンは、そっと良樹の膝に横向きに座った。


 軽い。

 柔らかい。

 近い。


 腕をどうすればいいのか、良樹が少し迷った。


「重くないですか?」


「軽い」


「よかった……」


「いや、軽いのも問題だ」


「問題、ですか?」


「抱きしめたくなる」


 カレンの動きが止まった。

 顔が、ゆっくり赤くなる。


「あ……」


 カレンは、良樹の胸元を見た。

 それから、良樹の顔を見る。


 言おうとして。

 言えなくて。

 でも、言いたくて。


 カレンは、両手で良樹の服を小さく掴んだ。


「……抱きしめても、いい……下さい」


 言葉が、途中で混ざった。


 許可を求めたかったのか。

 お願いしたかったのか。

 自分でも分からない。


 けれど、良樹には分かった。


 カレンは、抱きしめてほしいのだ。


 良樹は、短く息を吐いた。


「……ああ」


 そして、そっとカレンを抱きしめた。


 カレンの身体が、腕の中で小さく震える。


「ご主人様……」


「何だ」


「えへへ……」


「笑うな」


「嬉しくて……」


 良樹は、何も言えなくなった。


挿絵(By みてみん)


 少し離れたところで、リシアが小さく笑う。


「カレン、強くなったわね」


 クラリスも穏やかに頷いた。


「はい。ですが、あれは良い強さです」


 カレンは良樹の胸元に頬を寄せたまま、小さく言った。


「少しだけ、このままでも……いいですか?」


 良樹は、カレンの背中に回した腕に、ほんの少しだけ力を込めた。


「……いい」


 カレンは、嬉しそうに目を細めた。


「ありがとうございます、ご主人様」


   ◇


 二周目が終わった頃には、外の光はすっかり傾いていた。


 窓の外は夕暮れから夜へ変わりつつあり、食堂の中にも柔らかい影が伸びている。


 朝から続いたメイド服従作戦。


 クラリスは、良樹の負荷を確認しながら、自分からキスをした。

 今日の自分は可愛いかと、乙女の顔で聞いてきた。


 リシアは、良樹の身嗜みを整えながら、自分で一度乱した。

 そしてもう一度整え直し、妻として良樹の前に立った。


 カレンは、袖を直し、勇気を出して良樹の膝に座り、抱きしめてもらった。

 言葉を間違えながらも、良樹に求めた。


 三人とも、もう分かっていた。


 この服は、良樹に効く。


 そして良樹も、もう分かっていた。


 このまま終わるはずがない。


 朝なら作戦だった。

 昼なら御奉仕だった。

 午後なら確認だった。


 だが、夜に入っても三人はまだ着替えていない。


 それはもう、衣装ではなかった。


 意思表示だった。


「……なあ」


 良樹は、少しだけ掠れた声で言った。


「お前ら。そろそろ、着替えないのか」


 三人は、同時に良樹を見た。


 リシアは、静かに微笑む。


「どうして?」


「どうしてって」


「今日は、まだ終わってないでしょう?」


 良樹は言葉に詰まった。


 クラリスが、一歩近づく。


 黒いミニスカートのメイド服。

 白いエプロン。

 白いニーソ。

 昼間よりも落ち着いた顔をしているのに、その目はどこか熱を帯びていた。


「旦那様。今日は、私たちが旦那様に御奉仕する日です」


「ああ」


「まだ、夜が残っています」


 その言葉に、良樹の中の保護回路が静かに警告を出した。


 夜。

 残っている。


 その意味を、良樹はもう取り違えなかった。


「クラリス」


「はい」


「今の言い方は危険だ」


「はい。分かって言いました」


「分かって言うな」


「分かっているから、言いました」


 クラリスは、少しだけ頬を染めて、それでも逃げなかった。


 良樹はリシアを見る。


 リシアは、胸元まできちんと閉じた正統派のメイド服のまま、堂々と立っていた。


 朝よりも、昼よりも、落ち着いている。

 落ち着いているからこそ、逃げ場がない。


「リシア」


「何?」


「お前も、そのつもりか」


「ええ」


 即答だった。


「良樹に効くって、分かったもの」


「言いやがったな」


「言うわよ。妻が、夫に可愛いと思ってもらえる服を知ったのよ。それを、夜になる前に脱ぐと思う?」


 良樹は黙った。


 思わない。

 思えるわけがない。


 カレンは、二人のやり取りを聞きながら、エプロンの端をぎゅっと握っていた。


 顔は真っ赤だった。

 けれど、逃げていなかった。


「ご主人様」


 小さな声。

 だが、確かに良樹へ向けられた声だった。


「……何だ」


「今日、良樹さんに、かわいいって、言ってもらえて、嬉しかったです」


「ああ」


「御飯も食べてもらえて、抱きしめてもらえて、すごく、嬉しかったです」


 カレンは一度、息を吸った。


「だから、そのまま、終わりたくないです」


 良樹は、目を閉じた。


 終わりたくない。


 それは、今日一日を楽しかったから、というだけの言葉ではなかった。


 可愛いと思われたかった。

 見てほしかった。

 触れてほしかった。

 求められたかった。


 三人は、良樹の妻だ。


 夫に可愛いと思われるために、この格好を選んだ。

 一日かけて、良樹に世話をした。

 良樹が受け取ることも確認した。


 そして今、夜になっても着替えていない。


 答えは、最初から出ていた。


 良樹は、深く息を吐いた。


「……分かった」


 三人の表情が、静かに変わった。


「今日は、お前らが俺のために色々してくれた。起こして、食わせて、世話して、整えて、困らせて」


「困らせて、も入るのね」


 リシアが小さく笑う。


「入る。かなり入る」


 良樹は、三人を見た。


「でも、嬉しかった」


 カレンの瞳が揺れる。

 クラリスが、少しだけ唇を結ぶ。

 リシアの表情が、柔らかくなる。


「だから。この後も、受け取ればいいんだな」


 リシアは、静かに頷いた。


「ええ」


 クラリスも微笑む。


「無理はさせません。危ない時は、私が止めます」


「その止める役が一番危ない時もあるんだが」


「今日は気をつけます」


「今日は、か」


 クラリスは、少しだけ目を逸らした。


 カレンが、おずおずと一歩近づく。


「ご主人様」


「何だ」


「心の準備は、待ちます」


 良樹は、思わず苦笑した。


 昼間の言葉を覚えている。


 待つ。

 急かさない。

 でも、逃がさない。


 三人は、そういう顔をしていた。


 良樹は、自分の胸元に触れた。


 リシアが整えた襟元。

 クラリスが脈を測った手首。

 カレンを抱きしめた腕。


 一日かけて、三人に世話されて、乱されて、整えられた。


 そして今。


 良樹は、自分から一歩、三人へ近づいた。


「……準備は、全部できてねえ」


「ええ」


 リシアが頷く。


「でも、このまま終わらないことくらいは、分かってた」


「賢いわね、旦那様」


「褒めるな」


「褒めてるのよ」


 良樹は、もう一歩近づいた。


 三人は逃げなかった。

 むしろ、待っていた。


 偶像には負けません。


 その作戦名を、良樹は思い出す。


 偶像は、記憶の中にしかいない。

 遠い世界の、形だけの夢でしかない。


 だが、三人はここにいる。


 自分を見て。

 自分に触れて。

 自分を困らせて。

 自分を喜ばせて。

 そして、妻として求められることを待っている。


 勝負にならない。


 良樹は、小さく笑った。


「……俺の負けだな」


「負け?」


 リシアが首を傾げる。


「ああ。偶像とか、そういう話じゃねえ。勝負にならねえよ。お前らが、ここにいるんだから」


 三人の表情が、ふっと緩んだ。


 良樹は、照れたように視線を逸らす。


「だから、この後も、ちゃんと御奉仕してくれ」


 一瞬。

 三人が固まった。


 良樹が自分から言ったからだ。


 受け取る、と。

 逃げない、と。


 それを最初に理解したのは、リシアだった。


 リシアは、ゆっくりと良樹に近づく。


「もちろんよ」


 次に、クラリス。


 清楚な微笑みのまま、けれど頬を染めて、良樹の隣に立つ。


「はい」


 最後に、カレン。


 真っ赤な顔で、それでも嬉しそうに、良樹を見上げた。


「はい……」


 三人は、少しだけ声を揃えた。


「この後も、ちゃんと御奉仕しますね」


 リシアが、柔らかく言う。


「旦那様」


 カレンが、震える声で続ける。


「ご主人様」


 クラリスが、静かに微笑んで締める。


「旦那様」


 良樹は、深く息を吐いた。


 現実の負荷は、最後まで高い。


 けれど。


 もう、逃げる気はなかった。

 

 挿絵(By みてみん)

お読みいただきありがとうございます。


今回は本筋とは直接関係のない番外編でした。


メイド服です。

旦那様です。

ご主人様です。

そして良樹の処理能力が限界を迎える回です。


リシアは正統派で攻め、

クラリスは清楚に逃げ道を塞ぎ、

カレンは照れながら最大火力を叩き込みました。


実在の妻たちは、偶像には負けませんでした。

良樹は負けました。


話の尺もちょっとした短編並みになってしまいました。

悔いはありません。


楽しんでいただけましたら、評価、ブックマーク、感想などいただけると励みになります。

次回もよろしくお願いいたします。

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