第88話 夜を越える拠点(挿絵有)
帰らない。
良樹がそう決めた時、三人は反対しなかった。
日が暮れかけていた。
古砦の外壁は、夕陽を受けて赤く染まっている。
崩れた門の影が、石畳の上へ長く伸びていた。
井戸の縁には、戦闘で舞った土埃が薄く積もっている。
左奥の石台は、まだそこにある。
トロルは倒れた。
小型魔物も掃討した。
井戸は残った。
石台も残った。
門も、外壁も、修理すれば使える。
中継基地候補地としては、奪還成功。
だが、良樹はそれを安全確保完了とは見ていなかった。
「良樹」
リシアが、杖を持ったまま声をかける。
「戻る?」
良樹は、崩れた門の向こうを見た。
旧街道。
昼でも完全には安全ではない道。
草が伸び、枝が張り出し、石が転がり、崩れた轍が残る道。
そこを、今から戻る。
日が落ちれば、見落とすものが増える。
枝も、石も、轍も、魔物の気配も。
昼なら気づけたはずのものを、夜なら踏む。
そして、今の三人は万全ではなかった。
リシアは飛翔翼を使った。
空中からの射撃も、風の制御もした。
杖を握る手に力は残っているが、魔力の奥に消耗がある。
カレンは可変剣を顕現させた。
足元を切り、井戸も石台も残した。
だが、顕現限界まで使い切っている。
クラリスは手甲を出し、トロルをさばき、浸透撃を使った。
落ち着いた顔をしているが、身体操作の負荷はある。
良樹自身も疲れている。
魔導自立盤。
三系統端子台接続。
飛翔翼、可変剣、手甲への供給。
打撃腕。
スキャナー。
戦闘中の出力制御。
軽いはずがない。
それでも、良樹は判断した。
「戻らない」
短い声だった。
「今から旧街道を戻る方が危ねえ」
「ここで夜を越す」
リシアはすぐには答えなかった。
カレンが小さく息を呑む。
クラリスは良樹の顔を見る。
良樹は、さらに続けた。
「ただし、拠点にしたつもりで油断はしない」
「奪還しただけだ」
「安全になったわけじゃねえ」
リシアは、少しだけ目を細めた。
「魔物の残党?」
「ああ」
「それに、血の匂いもある」
「死骸に寄る獣や魔物もいるかもしれねえ」
「壁も門も傷んでる」
「夜になれば死角も増える」
カレンが、門の奥を見た。
「……怖いです」
「戦っている時より、今の方が怖いです」
良樹は即座に頷いた。
「正しい」
「敵が見えてる時より、見えてねえ時の方が危ない」
カレンの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
怖いと言ったことを、否定されなかった。
それどころか、正しいと言われた。
良樹は石畳を見渡す。
「野営準備はしてきてる」
「想定外じゃねえ」
「ここで夜を越す」
クラリスが静かに頷いた。
「分かりました」
「では、まず安全な位置を決めましょう」
◇
野営位置は、古砦内の広場の一角に決まった。
中央より少し門寄り。
井戸からは離す。
石台からも離す。
崩れた壁の直下は避ける。
見張り台跡からも距離を取る。
良樹は、まず足元を見た。
石畳の割れ。
浮いた石。
血の跡。
瓦礫。
転がった木片。
崩れた壁の影。
「ここなら、見える」
良樹が言う。
「門、井戸、石台、奥の小屋跡」
「全部、視界に入る」
「背中側は壁に近いが、崩落線からは外れてる」
クラリスがしゃがみ、石畳を手で軽く押した。
「足場は悪くありません」
「ただし、こちらの石は少し動きます」
「印をつける」
良樹はその石の横に小さく傷を入れた。
リシアは杖を掲げた。
「灯りは?」
「明るくしすぎるな」
「外から目立つと寄せる」
「分かってるわ」
「内側だけね」
リシアの杖先に、小さな光が灯った。
強い光ではない。
焚き火の赤に、淡く白を足す程度。
崩れた壁の陰。
井戸の縁。
小屋跡の入口。
石台の周囲。
見えすぎない。
だが、真っ暗にもならない。
リシアは光の位置を調整する。
「これなら、外からは目立ちにくいはずよ」
「でも、足元と死角は見える」
「助かる」
カレンは、ゆっくりと古砦の中を見回した。
「カレン」
良樹が声をかける。
「嫌な場所はあるか」
カレンは少しだけ目を伏せ、それから指を伸ばした。
「あそこです」
「小屋跡の入口」
「見えているのに、奥が見えません」
「ああ」
「それから、井戸の向こう側」
「石の陰が、少し怖いです」
「そこも潰す」
「門の外は……怖いです」
「でも、全部を見ようとすると、逆に見えなくなります」
「いい」
「そこはスキャナーで見る」
「お前は、今見える範囲の怖い場所を言えばいい」
「はい」
カレンは頷いた。
怖い場所が、作業項目になる。
それはカレンにとって、少しだけ呼吸をしやすくするものだった。
良樹はカレンが指した場所に小さな印をつけ、リシアの灯りの角度を調整してもらう。
クラリスは、その間に三人の状態を見た。
リシアの魔力の流れ。
カレンの指先。
良樹の呼吸。
自分の手首。
最後に、クラリスは良樹を見た。
「良樹くん」
「何だ」
「あなたも消耗しています」
「分かってる」
「分かっている顔ではありません」
「顔で分かるのかよ」
「分かります」
即答だった。
良樹は少しだけ息を吐いた。
「今日は俺が見る」
リシアが眉を寄せる。
「良樹」
「三人は寝ろ」
「飛翔翼、可変剣、手甲」
「全部、今日初めて実戦運用した」
「しかもトロル相手だ」
「休ませない理由がねえ」
カレンが、胸元で手を握った。
「でも、良樹さんも……」
「俺は広範囲スキャナーを低出力で回せる」
「魔導自立盤じゃなくて、携行盤寄りに落とせば負荷も減らせる」
「それに、徹夜には慣れてる」
リシアの目が少し細くなった。
「慣れてる?」
「ああ」
「日本の現場で何度もやってる」
「夜間工事」
「トラブル対応」
「明け方まで復旧」
「工場の床で一時間だけ寝て、また盤の前に立ったこともある」
三人が黙った。
リシアは、少し低い声で言う。
「自慢することじゃないわよ」
「知ってる」
「でも、今夜は役に立つ」
良樹は、空を見た。
月が出ていた。
星も見える。
「こっちは月と星明かりがある」
「焚き火もある」
「リシアの灯りもある」
「日本の夜間工事の工場より、よほど見える」
「だからって、無理していい理由にはなりません」
クラリスが言う。
「無理はしねえ」
「異常があったら起こす」
「俺の身体がおかしければ起こす」
「スキャナーに反応があっても起こす」
「ただ、最初の番は俺がやる」
リシアは良樹を見た。
反論する言葉はある。
だが、良樹の判断が間違っているとも言えなかった。
三人が消耗しているのは事実。
日暮れの旧街道を戻るより、ここで夜を越す方が良いのも事実。
そして、広範囲を機械的に見る手段を持つのは良樹だ。
リシアは、小さく息を吐いた。
「異常があったら、起こしなさい」
「ああ」
カレンも言う。
「怖いと思ったら、呼んでください」
「ああ」
クラリスは、良樹の右手を見た。
「身体がおかしいと思ったら、すぐに起こしてください」
「分かった」
「約束です」
「約束する」
クラリスは、ようやく頷いた。
◇
夜になった。
幸いにも、この世界の月と星明かりは明るかった。
日本の街灯に慣れた良樹からすれば、当然暗い。
だが、完全な闇ではない。
月明かりが石畳に淡く落ちる。
星の光が、崩れた外壁の輪郭をうっすらと浮かび上がらせる。
焚き火が赤く揺れ、リシアの小さな灯りが、死角を白く補う。
古砦は静かだった。
崩れた門。
井戸。
石台。
小屋跡。
見張り台の残骸。
壁の外に続く森。
昼間の戦闘が嘘のように、すべてが黙っている。
良樹は焚き火のそばに座っていた。
胸元には、低出力の斥候盤。
魔導レーザースキャナは、ゆっくりと周囲を舐めている。
最大出力ではない。
高速回転でもない。
距離と動きと、急な変化だけを見る。
疲れている時に、何でも見ようとすると、逆に見落とす。
だから、見るものを絞る。
良樹は小さく息を吐いた。
リシアは少し離れた場所で眠っている。
杖は手の届く位置。
身体は横になっているが、完全に力を抜いているわけではない。
眉間に、わずかに力が残っている。
カレンは身体を少し丸めるようにして眠っていた。
寝ていても、門側へ意識が向いているように見える。
剣はすぐ近く。
片手を伸ばせば届く。
クラリスは静かに眠っている。
呼吸は穏やか。
だが、誰かが大きく動けば起きるだろう。
そんな眠り方だった。
三人とも、疲れている。
それが分かるから、良樹は寝ろと言った。
そして、三人が眠っている姿を見て。
一瞬だけ、良樹の胸の奥が冷えた。
倒れている三人。
動かない三人。
リシアが傷付き。
カレンが倒れ。
クラリスが血を流していた光景。
オーガ戦。
あの時の記憶が、夜の静けさの中でふと戻ってくる。
今は違う。
分かっている。
三人は眠っているだけだ。
息をしている。
疲れて、休んでいる。
それでも、良樹の中の何かが、あの時の光景を完全には消してくれない。
「……くそ」
良樹は、小さく呟いた。
焚き火が爆ぜる。
ぱち、と乾いた音が古砦に響いた。
良樹は右手を見た。
普通の右手。
工具を握り、線を繋ぎ、盤を組む手。
だが、その奥には別の形がある。
良樹は静かに魔力を流した。
盤の横に、半透明の腕が立ち上がる。
制御型打撃腕。
今日、ゴブリンの攻撃線へ割り込み、殴り潰さず、いなし、掴み上げ、リシアへ渡した腕。
短く、太く、戻り線の見える腕。
関節の位置も、停止位置も、出力上限も決まっている。
止め方のある腕。
良樹は、それを見つめた。
その腕が、ゆっくりと形を変える。
先端が薄くなる。
刃。
ブレード。
半透明の腕の先が、月明かりの下で鋭く伸びた。
切れる形。
薄く、速く、硬いものへ入る形。
良樹はすぐに出力を絞った。
切れる。
たぶん、切れる。
だが、何を切るのか。
何を切らないのか。
どう止めるのか。
切った後、どこへ戻すのか。
そこが弱い。
カレンの剣とは違う。
あれは、切るものを選ぶ剣だ。
怖いものを見て、守るものを残す剣だ。
良樹のこれは、まだただ切る形にすぎない。
「……違うな」
良樹は、ブレードを解いた。
次に、腕の内側に杭のような構造が浮かぶ。
押し出す。
一点に打ち込む。
貫く。
パイルバンカー。
瞬間的な力。
近距離での制圧。
硬いものに穴を開ける力。
だが、良樹はすぐに眉を寄せた。
反動。
戻り。
撃った後の保持。
支点の逃がし。
当てた相手が動いた場合。
味方が近い場合。
外した先。
考えるべきことが多い。
使える。
だが、簡単ではない。
「これも、まだだ」
パイルバンカーが消える。
最後に、腕の先が筒のように変わった。
キャノン。
魔力を溜め、撃ち出す形。
その輪郭が浮かんだ瞬間、良樹の背筋に冷たいものが走った。
これは、危うい。
撃てるかどうかで言えば、たぶん撃てる。
力としては、成立する。
だが。
撃てることと、撃っていいことは違う。
外した先。
反動。
熱。
音。
周囲への被害。
崩れた壁。
石台。
井戸。
味方との位置関係。
撃った後に、自分が動けるかどうか。
足りない。
何もかも足りない。
良樹はキャノン形態をすぐに崩した。
焚き火の光が、半透明の腕に揺れる。
良樹は、静かに息を吐いた。
自分の力を、便利だと思ったことはなかった。
強力ではある。
使い道もある。
今日のように、三人へ繋ぐこともできる。
敵の攻撃線をいなすこともできる。
掴み、渡し、守ることもできる。
だが、便利ではない。
酷く不便な力だった。
盤を組まなければ暴れる。
止め方を用意しなければ壊れる。
戻り線を忘れれば跳ねる。
出力を誤れば、自分も、仲間も、守るべきものも傷つける。
そして何より。
心の在り方ひとつで、保護回路すら外してしまう。
怒りで、止め方を失う。
憎しみで、出力だけを通してしまう。
守りたいという感情さえ、間違えれば壊す力になる。
良樹は、自分の力が怖かった。
便利だと笑えたことなど、一度もない。
どうすれば安全に使えるか。
どうすれば止まるか。
どうすれば戻せるか。
どうすれば壊さないか。
それを考えて、考えて、考えて。
それでもなお、怖い。
良樹は眠る三人を見た。
カレンは、怖いものを見る。
怖いから目を逸らさない。
怖いから斬るものを選ぶ。
怖いから、守るものを残す。
リシアは、制御する。
強い魔法を、崩さず、必要な形に落とし込む。
空を飛んでも、風を読み、姿勢を保ち、前を見る。
クラリスは、壊さない。
治せるからこそ、壊れた事実を軽く見ない。
殴れるからこそ、返りと負荷を見る。
止めるために拳を使う。
良樹は、自分の右腕を見る。
自分も、そうでなければならない。
怖いから見る。
危ないから制御する。
強いからこそ、壊さない。
それが、この世界で三人と一緒に生きると決めた、男の小さな覚悟だった。
打撃腕は、静かに形を戻した。
ブレードでもない。
パイルバンカーでもない。
キャノンでもない。
短く、太く、戻り線の見える腕。
関節の位置も、停止位置も、出力上限も決まっている。
今日、ゴブリンの攻撃線をいなし、掴み上げ、リシアへ渡した腕。
止め方のある腕。
良樹は、それを見て小さく息を吐いた。
腕を消そうとして。
ふと、背後の気配に気づいた。
振り返る。
三人が、起きていた。
リシア。
カレン。
クラリス。
焚き火の向こうで、三人は良樹を見ていた。
いつから起きていたのか。
分からなかった。
「……悪い」
「起こしちまったか」
良樹は、できるだけ何でもない声で言った。
「今のところ何もねえ」
「スキャナーにも反応はない」
「朝までまだ時間がある。寝て――」
言い切る前だった。
三人が、良樹を抱きしめた。
「おい……」
リシアの腕が、良樹の肩へ回る。
カレンが、胸元へ縋るように寄る。
クラリスが、背中へそっと手を添える。
三人は、しばらく何も言わなかった。
ただ、抱きしめていた。
焚き火が小さく爆ぜる。
古砦の外では、夜風が崩れた壁を撫でている。
月と星明かりが、石畳に淡く落ちていた。
良樹は、動けなかった。
戦闘中の拘束ではない。
怪我を止めるための保持でもない。
逃がさないための力でもない。
ただ、ここにいていいと伝えるための腕だった。
最初に口を開いたのは、リシアだった。
「大丈夫よ」
短い言葉だった。
次に、クラリスが言った。
「私達がいますから」
そして、カレンが、震えない声で続けた。
「怖いのを、隠さないでください」
良樹の喉が、少しだけ詰まった。
「……見てたのか」
リシアは、良樹の肩に額を寄せたまま答えた。
「見てたわ」
クラリスの手が、良樹の背中をゆっくり撫でる。
「途中から、ですけれど」
カレンは、良樹の胸元で小さく頷いた。
「腕が、変わっていました」
「怖かったです」
「でも……良樹さんも、怖がっていました」
良樹は、何も言えなかった。
三人はもう、妻なのだ。
良樹の隣に立つと決めた女たちだった。
良樹に守られるだけの女ではない。
良樹の力を、ただすごいと褒めるだけの女でもない。
夫が何を怖がっているのか。
何を見ようとしているのか。
何を壊すまいとしているのか。
それを見ようとしないで、何が妻か。
リシアは、良樹の魔力の揺れを見ていた。
カレンは、良樹が怖いものから目を逸らしていないことを見ていた。
クラリスは、良樹の背中と呼吸が、いつもより少しだけ硬いことを見ていた。
だから、長い説明はいらなかった。
説教でもない。
励ましでもない。
技術論でもない。
三人は、短い言葉と抱擁で、良樹を安心させたかった。
妻として。
「……悪いな」
良樹が、ようやくそれだけ言った。
リシアが少しだけ顔を上げる。
「謝るところじゃないわ」
クラリスが静かに続ける。
「怖いものを怖いと言えるのは、大切なことです」
カレンは、良樹の服をきゅっと握った。
「良樹さんは、私に言ってくれました」
「怖いから見るんだって」
「怖いから、間違えないようにするんだって」
カレンは、少しだけ顔を上げた。
「だから、良樹さんも」
「怖い時は、私たちに見せてください」
良樹は、焚き火を見る。
火は小さい。
けれど、消えてはいない。
夜の古砦で、三人の体温があった。
良樹は、ゆっくりと息を吐いた。
「……怖えよ」
小さな声だった。
「俺は、自分の力が怖え」
「便利だと思ったことなんてねえ」
「強いのは分かる」
「使い道があるのも分かる」
「でも、心ひとつで暴走する」
「怒りで保護回路を外す」
「止め方をなくす」
良樹の右手が、少しだけ震えた。
「そんなもんを持ってる自分が」
「怖え」
三人の腕に、少しだけ力がこもった。
リシアが言う。
「だったら、一緒に制御するわ」
クラリスが言う。
「私が壊させません」
カレンが言う。
「怖い場所は、一緒に見ます」
良樹は目を閉じた。
胸の奥に、盤がある。
端子台。
流路。
個別インバータ。
三系統共通ブレーカー。
戻り線。
停止条件。
その先に、三人がいる。
良樹は、自分の右手をゆっくり開いた。
「……ああ」
声は、少し掠れていた。
「頼む」
三人は、返事の代わりに、もう一度だけ強く抱きしめた。
焚き火が、小さく爆ぜる。
夜の古砦は、まだ安全ではない。
崩れた壁の向こうには闇があり、旧街道の先には森がある。
スキャナーの反応も、完全に消していいわけではない。
それでも。
良樹の胸の奥にあった冷たいものが、少しだけ緩んだ。
怖いものを、一人で見なくていい。
危ないものを、一人で制御しなくていい。
壊れそうなものを、一人で抱えなくていい。
リシアがいる。
カレンがいる。
クラリスがいる。
そして、自分もいる。
良樹は、三人の体温を感じながら、静かに息を吐いた。
――ああ。
四人ならきっと、大丈夫だ。
そう思えたことが、その夜、何よりも大きかった。
◇
夜明け前、古砦の空が少しずつ白み始めた。
大きな異常はなかった。
小さな獣の気配が一度、外壁の外を通った。
スキャナーの端に反応が引っかかった。
だが、古砦の中へ入ってくることはなく、森の方へ消えた。
良樹は、それを記録した。
外壁外、小型反応一。
侵入なし。
匂いに誘引された可能性あり。
死骸処理、早急に必要。
リシアは夜明けの光の中で目を覚まし、まず良樹を見た。
「寝てないわね」
「番だからな」
「少しは寝なさいよ」
「帰ったら寝る」
「それ、信用できない返事ね」
「努力する」
「一番信用できない返事よ」
カレンも起き上がった。
まだ少し眠そうだったが、すぐに周囲を見る。
「異常は……」
「なかった」
「外壁外に小型反応が一回」
「入っては来てねえ」
「そうですか……」
カレンは、ほっと息を吐いた。
クラリスは良樹の前に来ると、何も言わずに手首を取った。
「クラリス」
「確認です」
「分かってるけど」
「徹夜明けの方の言い訳は信用しません」
「はい」
良樹はおとなしく右手を出した。
クラリスは脈、手首、肩の張り、呼吸を確認する。
「疲れています」
「ですが、崩れてはいません」
「なら合格か」
「仮合格です」
「帰ったら寝てください」
「はい」
リシアが半眼で言う。
「今の返事も怪しいわね」
カレンが小さく頷いた。
「はい……怪しいです」
「夫の信用が低い」
「日頃の行いよ」
リシアはそう言ってから、古砦の中を見回した。
夜を越えた古砦。
倒れたトロル。
残った井戸。
守られた石台。
崩れかけの門。
朝日に照らされる外壁。
壊さずに奪い返した場所は、夜を越えて、まだそこにあった。
良樹は立ち上がる。
「確認するぞ」
「井戸、石台、門、外壁、見張り台跡」
「夜間の反応も含めて、ガレスに報告する」
リシアは杖を持ち直した。
「ええ」
カレンも剣を確認する。
「はい」
クラリスは静かに頷いた。
「参りましょう」
四人は、朝の古砦を歩き始めた。
まだ修理は必要だった。
まだ安全確保も必要だった。
魔石通信機を置くにも、補強と警戒線が要る。
だが、使える。
良樹はそう判断した。
夜を越えたことで、ようやくその判断に重みが出た。
ここは、中継基地候補地として使える。
そして四人は、それを壊さずに取り戻した。
◇
帰還後。
ギルドの奥の部屋で、ガレスは良樹の報告書を受け取った。
井戸の状態。
石台の位置。
門と外壁の補修箇所。
見張り台跡の危険部位。
夜間反応。
死骸処理の必要性。
灯りの設置位置。
警戒線の候補。
ガレスは、しばらく黙って紙を見ていた。
それから、低く笑った。
「討伐報告ってより、工事前の現地調査だな」
「使うなら必要だろ」
「ああ」
「だからお前らに頼んだ」
ガレスは紙を机に置いた。
「よくやった」
「これなら、職人と護衛を入れる段取りが組める」
良樹は頷いた。
「ただし、死骸処理と周辺掃討は早めにした方がいい」
「夜に小型反応が一回あった」
「血の匂いに寄った可能性がある」
「分かった」
「そっちはこっちで手配する」
ガレスはそこで、一度表情を変えた。
「それと、良樹」
「何だ」
「お前らが外に出てる間に、少し妙な話が入ってきた」
リシアが眉を寄せる。
「妙な話?」
ガレスは机の上で指を組んだ。
「市場で、妙な付与品が出回りかけた」
良樹の目が、少しだけ細くなる。
「付与品?」
「ああ」
「疲れにくい靴」
「痛みを感じにくくする腕輪」
「切れ味が落ちない包丁」
「荷物が軽くなる荷車部品」
「それから――」
ガレスは良樹を見る。
「なんでも切れる術を付与された剣」
部屋の空気が、静かに変わった。
カレンの手が、剣の柄へ触れる。
クラリスの目が、痛みを感じにくくする腕輪、という言葉にわずかに細くなる。
リシアは良樹を見る。
良樹は、低く呟いた。
「……便利そうな品ばっかりだな」
「ああ」
「便利そうだ」
ガレスの声は重かった。
「だが、どうにも嫌な匂いがする」
良樹は、昨夜の焚き火を思い出した。
怖いから見る。
危ないから制御する。
強いからこそ、壊さない。
その言葉が、胸の奥で静かに立ち上がる。
「分かった」
良樹は言った。
「見る」




