第9話 三つ巴の攻防戦
翌朝。
町を出る道は、まだ少し冷えていた。
石畳の端には朝露が残り、門の外へ続く町道の向こうには、低い草地とまばらな木立が広がっている。
遠くでは、荷馬車の車輪が軋む音が聞こえた。
良樹は、右手を前へ向けて歩いていた。
手の先には、細い魔導線の束が伸びている。
線、というよりは、目に見えない細い棒を魔力で形にしているようなものだった。
良樹はそれを、ゆっくり左右へ振っていた。
「良樹」
隣を歩くリシアが、眉を寄せた。
「その、手に持ってるせんさー? は何?」
「あ、あの……」
少し後ろから、カレンもおずおずと声を出した。
「わ、私も気になってました」
クラリスは何も言わなかった。
ただ、良樹の手元を見て、前方へ向けられた細い魔導線を見て、それから穏やかに微笑んだ。
良樹さんがされることなら、きっと意味があるのです。
声には出さない。
出さないまま、すでに理解者の顔をしていた。
リシアが横目でクラリスを見る。
「クラリスさん?」
「はい?」
「今、何か分かった顔をしてなかった?」
「いいえ」
クラリスは清楚に微笑んだ。
「良樹さんがされることですから、必要な確認なのだろうと思っただけです」
「それを分かった顔って言うのよ」
「そうでしょうか」
「そうよ」
良樹は手元の魔導線を左右に振りながら、少しだけ顔をしかめた。
「お前ら、朝から恋愛方面の探り合いを始めるな」
「始めてないわよ」
「始まっていますね」
「あ、あの……たぶん、始まってます」
「カレンまで冷静に判定するな」
良樹は軽く咳払いをした。
「これはレーザーセンサー……まあ、魔導レーザーセンサーとでも付けるか」
リシアは半眼になった。
「相変わらず、ネーミングにひねりがないわね」
「分かればいいんだよ、名前なんざ」
「あ、あの……」
カレンが小さく手を上げる。
「わ、分かりやすい……です」
「ほら見ろ」
「カレンを味方につけないで」
クラリスは何も言わなかった。
ただ、穏やかに微笑んでいる。
良樹さんが名付けられたものなら、きっとそれが一番なのです。
そんな顔だった。
リシアがじとりと横目で見る。
「クラリスさん、今また何か分かった顔をしてなかった?」
「いいえ」
「してたわよ」
「良樹さんが決められた名前なら、分かりやすくてよいと思っただけです」
「それを分かった顔って言うのよ」
良樹は、右手の魔導レーザーセンサーを前へ向けた。
「今までのセンサーは、遮られたかどうか、それしか分からなかった」
「魔力を持った動物以上が範囲に入ったか」
「どのセンサーが反応したか」
「分かるのはそこまでだ」
リシアの表情が少し変わる。
「じゃあ、それは違うの?」
「ああ」
「こいつなら、ざっくり対象までの距離が分かる」
「距離……」
カレンの目が、少しだけ動いた。
「どれくらい離れているか、ですか?」
「ああ」
「最大五十メートルくらいまで」
「精度は一メートル単位ってところだな」
「細かい寸法取りには使えねえが、索敵には十分だ」
「五十メートル。今までよりずいぶん長いわね」
リシアが感心したように言う。
「その代わり高い」
「普通のセンサー二つ、下手すりゃ三つ分くらい盤を食う」
「今は一基しか作れねえ」
「では、全部それにするわけにはいかないのですね」
クラリスが穏やかに言った。
「そうだ」
「万能じゃねえ」
「でも、使い方だ」
良樹は立ち止まった。
「こうして横に振れば――」
そう言って、良樹は魔導レーザーセンサーを三人の方へ向けた。
細い魔導線が、左から右へゆっくり流れる。
「リシア、一メートル」
「近いわね」
「カレン、三メートル」
「あ、はい。少し後ろにいます」
「クラリス……」
良樹の声が止まった。
魔導盤の表示を見る。
もう一度見る。
表示は変わらない。
「……ゼロ」
「ゼロ?」
リシアが眉を寄せる。
次の瞬間、良樹はようやく気づいた。
クラリスが、いつの間にか良樹のすぐ隣にいた。
ぴたりと。
本当に、ぴたりと。
肩が触れるほどの距離で、清楚に微笑んでいる。
「クラリスさん」
「はい」
「いつからそこに」
「良樹さんが説明を始められたあたりからでしょうか」
「最初の方じゃねえか」
「はい」
「何で」
クラリスは、当然のように微笑んだ。
「近くで聞いた方が、分かりやすいかと思いまして」
「ゼロ距離で聞く必要はねえだろ」
「必要な確認です」
「それ俺の言葉だよな?」
リシアが額に手を当てた。
「クラリスさん、強いわね……」
カレンが小さく頷く。
「はい……距離が、ありません」
「カレン、そこを正確に言うと余計に刺さる」
良樹は魔導レーザーセンサーを見下ろした。
初回確認。
リシア、一メートル。
カレン、三メートル。
クラリス、ゼロ。
索敵用に作ったはずだった。
初仕事が、クラリスの距離異常検出だった。
「……使い方は分かったな」
「ええ」
リシアは頷いた。
「危険人物の検出ね」
「否定しづらい言い方すんな」
クラリスは、良樹の隣で穏やかに微笑んだ。
「危険ではありませんよ」
「距離が危険なんだよ」
「では、少し離れますね」
そう言って、クラリスは半歩だけ下がった。
魔導盤の表示が変わる。
「……一メートル」
「はい」
「いや、近い」
「離れました」
「離れた判定が甘い」
カレンが、おずおずと手を上げた。
「あ、あの……でも、距離が分かるのは、すごいです」
その声で、空気が少し戻った。
良樹はカレンを見た。
「そうだ」
「距離が分かれば、戻れるかどうかを判断しやすくなる」
「ただし、それだけで決めるな」
「はい」
「距離も、お前の怖さも、どっちも判断材料だ」
カレンは剣の柄にそっと触れた。
「……怖いのは、消えません」
「でも、戻れる距離が見えるなら……前を見やすいです」
良樹は小さく頷いた。
「それでいい」
「怖さを消す道具じゃねえ」
「怖さを使うための道具だ」
リシアは、良樹の手元の魔導レーザーセンサーを見る。
「高性能なのに、手で振るのね」
「今は自動で振れねえ」
「そこまで組むと、盤が重くなる」
「便利なものを作ったのに、使い方が地味」
「使えるなら地味でいい」
「万能なんかねえ」
「どう使うかだけだ」
クラリスが、ふと目を細めた。
「良樹さん」
「何だ」
「その魔力……少し、回復魔法に近いですね」
良樹は、少しだけ表情を変えた。
「分かるのか」
「はい。治すための流れではありません」
「ですが、生き物に触れようとする性質があります」
「ああ。そこを使った」
良樹は、前方へ向けた魔導レーザーセンサーをゆっくり左右へ振った。
「枝や石を拾っても仕方ねえ」
「知りたいのは、魔力を持った動物以上がいるかどうかだ」
「だから、ただの物じゃなくて、生き物寄りの魔力に反応するようにしてある」
「私の回復魔法から、ですか?」
クラリスの声は穏やかだった。
だが、ほんの少しだけ、奥に硬さがあった。
良樹はそれを聞き逃さなかった。
「奥は読んでねえ」
即答だった。
「見えた入口だけだ」
「治すためじゃない」
「触って、返りを見るために使ってる」
「嫌なら、使わねえ」
クラリスは、少しだけ目を伏せた。
良樹さんは、開けていない。
勝手に、奥を見ていない。
自分が閉じた場所を、部品として扱っていない。
「……そうですか」
「嫌か」
「いいえ」
クラリスは、ゆっくりと微笑んだ。
「良樹さんが、勝手に開けていないのなら」
「ああ」
「勝手に開けていい盤じゃねえからな」
クラリスの胸の奥が、少しだけ温かくなった。
自分の奥ではない。
けれど、自分の治癒の入口に近い魔力が、良樹の盤の中で少しだけ形を変えている。
それは、リシアの魔法が良樹の盤に入ったこととは違う。
違うが。
少しだけ、嬉しかった。
声には出さない。
出さないまま、クラリスは清楚に微笑んだ。
「では、私は良樹さんの近くで、そのセンサーの負荷を見ますね」
「近く、の距離をまず確認しようか」
「必要な確認です」
「だから、それ俺の言葉だよな」
リシアが深く息を吐いた。
「良樹」
「何だ」
「朝から情報量が多いわ」
「俺もそう思う」
良樹は魔導レーザーセンサーを前へ向けた。
「勘違いするなよ」
「こいつで全部見えるわけじゃねえ」
「俺が向けた方向だけだ」
「俺が振った範囲だけしか拾えない」
「背中も、横も、草の陰も、見てねえところは普通に死角だ」
良樹はカレンを見た。
「だから、カレン」
「お前の怖さは消えねえ」
「むしろ要る」
「俺が見てねえところで嫌な感じがしたら、言え」
「……はい」
カレンは剣の柄を握り直した。
「怖いままで、見ます」
「それでいい」
良樹は頷く。
「盤で拾えるものは、盤で拾う」
「でも、人が見てるものまで消すな」
「距離は答えじゃねえ」
「判断材料だ」
◇
町外れの訓練場は、今日も人が少なかった。
踏み固められた土の広場。
焦げ跡の残る石壁。
端に立てかけられた木剣。
風に揺れる草。
上村良樹にとっては、ありがたい環境だった。
火を扱う。
水を扱う。
魔導盤を扱う。
昨日は、その結果として小さな破裂まで起こした。
そして今朝は、魔導レーザーセンサーまで持ち出した。
人の多い場所でやるものではない。
「良樹」
隣からリシアの声がした。
黒い髪を風に揺らしながら、リシアは少しだけ眉を寄せていた。
「今日も、あれを試すの?」
「あれ、って小型蒸気破裂のことか」
「名前を付けると、余計に危なく聞こえるわね」
「名前がない方が危ないだろ。何を扱ってるか分からなくなる」
「そういう意味では、良樹らしいけど」
リシアは小さく息を吐いた。
昨日、良樹はリシアの魔法から読めた出力制御を、自分の魔導盤へ組み込んだ。
魔導インバーター。
厳密には、良樹の知るインバーターとは違う。
モータを回すわけでもない。
周波数を変えるわけでもない。
だが良樹の感覚では、それが一番近かった。
直入れしない。
出力を絞る。
立ち上げる。
上限で止める。
必要なところで切る。
それができたから、ロウを加熱し、リシアの水魔法の一滴を使って、小さな蒸気破裂を起こせた。
できた。
その瞬間を、良樹とリシアは共有した。
だからだろう。
今日のリシアは、少しだけ機嫌がいい。
本人は隠しているつもりかもしれないが、良樹から見ると分かりやすかった。
「まず確認する」
良樹は胸の奥へ意識を落とした。
薄い魔導盤が、胸の前に浮かぶ。
半透明の箱。
魔力線。
接点。
入力。
出力。
停止条件。
そこに、昨日組み込んだ赤い制御線が細く灯っている。
リシアの火炎球や氷閃槍そのものではない。
だが、彼女の魔法から読めた出力の上げ方が、そこにあった。
そして盤の端には、今朝組んだばかりの細い検知線がある。
魔導レーザーセンサー。
それはまだ仮組みだった。
一基だけ。
手動。
距離は出る。
だが、死角は残る。
便利ではある。
万能ではない。
「リシア」
「何?」
「今日は威力を上げない」
「……それは安心していいの?」
「安心していい。むしろ威力を上げる前の確認だ」
良樹は腰袋からドライバーを抜いた。
「昨日の破裂は、攻撃にはしない」
少し離れたところで剣の手入れをしていたカレンが、ぴくりと反応した。
クラリスも、いつもの穏やかな微笑みのまま、良樹の手元を見ている。
「倒すためじゃねえ」
「止めるためだ」
「目の前で鳴らして、一拍止める」
「足元で弾けさせて、踏み込みを止める」
「鼻先で弾けさせて、獣の反応を乱す」
「逃げるための一拍を作る」
良樹は魔導盤の赤い線をドライバーの先で押さえる。
「そのためには、まず禁止条件を決める」
「禁止条件?」
リシアが聞き返す。
「ああ。やっちゃいけない使い方だ」
「耳元で強く鳴らせば鼓膜をやる」
「目の前で強く弾けさせれば目を痛める」
「味方の近くで使えば、味方も止まる」
「閉じた場所で使えば、音が逃げない」
「乾いた草の上で熱を入れれば火が移る」
「……良樹、本当に魔法の話をしているのよね?」
「してる」
「魔法でも何でも、事故る条件は先に潰す」
リシアは少し呆れたように笑った。
「本当に、止める話が好きね」
「好き嫌いじゃねえ」
「止まらないものは危ねえんだよ」
その言葉に、クラリスが静かに目を細めた。
カレンは、剣の柄に触れたまま小さく呟いた。
「戻るための、一拍……」
良樹はそれを聞き逃さなかった。
「気になるか」
「あ、はい」
カレンは少し慌てて顔を上げた。
「それがあれば……踏み込んだあと、戻れるんでしょうか」
「必ず戻れるとは言わねえ」
「でも、戻るための隙は作れるかもしれない」
「隙……」
「相手が一拍止まれば、足を引ける」
「視線が一瞬ずれれば、間合いを切れる」
「踏み込みが遅れれば、戻る道が残る」
カレンは黙って聞いていた。
怖い。
前に出るのは怖い。
踏み込んだ後、戻れないのはもっと怖い。
けれど、戻るための一拍が作れるなら。
それは、彼女にとってただの補助魔法ではなかった。
「ただし、使い方を間違えれば味方も止まる」
良樹はそこで釘を刺した。
「だから、威力より先に条件だ」
「誰の近くで使えるか」
「どの距離なら目を痛めないか」
「どの音量なら耳を壊さないか」
「どこなら逃げ道を塞がないか」
「そこを決める」
クラリスが柔らかく言った。
「壊さずに止めるため、ですね」
「ああ」
「良樹さんらしいです」
「らしいか?」
「はい」
クラリスは微笑んだ。
「最初から壊す前提で組まないところが」
良樹は少しだけ困った顔をした。
「壊さずに済むなら、その方がいいだろ」
「壊すしかない時もあるんだろうが、最初から壊す前提で組むもんじゃねえ」
その言葉を、クラリスは静かに受け取った。
◇
小型蒸気破裂の確認は、思ったより地味だった。
ロウの量。
金属片の大きさ。
水滴の大きさ。
熱の入れ方。
距離。
良樹は、ひとつひとつ条件を変えながら、小さく試した。
ぱん、と乾いた音が鳴る。
カレンの肩が揺れる。
「今の距離で少し驚いたか」
「あ、はい。音が近かったので」
「耳は痛いか」
「痛くはないです」
「目は」
「大丈夫です」
「なら、記録だな」
「記録?」
「頭の中に入れとく」
「この距離で、この音なら驚くが痛くはない」
「ただし、相手が魔物なら反応は違う」
「人間相手ならもっと絞る」
カレンは、良樹の言葉をひとつずつ追っていた。
怖いものを、分けている。
音。
距離。
痛み。
驚き。
戻る隙。
怖い、でまとめない。
何が怖いかを見る。
昨日、良樹に言われたことと同じだった。
数度の確認を終えたところで、クラリスが少しだけ腕を回した。
「私も、少し身体を動かしておきますね」
「手、まだ痛むのか」
良樹がすぐに聞いた。
クラリスは柔らかく微笑む。
「痛みはありません。ですが、動きが鈍るといけませんので」
「無理すんなよ」
「はい。無理はしません」
その返事を、良樹は少し疑った。
クラリスは、無理をしている時ほど穏やかに笑うところがある。
トロルとの戦い。
折れた杖。
拳から落ちた血。
そして、治せば済みます、という言葉。
良樹はその言葉をまだ忘れていない。
クラリスは訓練場の中央へ出た。
今日は杖を持っていない。
白い法衣の袖が風に揺れる。
足が静かに置かれる。
両手が胸の前で揃えられる。
一見すると、祈りの姿勢だった。
けれど、次の瞬間。
身体の線が変わった。
足が沈む。
腰が遅れない。
肩が抜ける。
腕が走るのではなく、身体の中心から押し出される。
打つ。
払う。
沈む。
避ける。
戻る。
動きは柔らかい。
だが、甘くない。
良樹は、クラリスの動きを黙って見ていた。
正直、目は行った。
法衣の裾が揺れる。
白い脚が一瞬見える。
身体の線が、動きに合わせてしなやかに変わる。
男として、そこに目が行かないと言えば嘘になる。
だが、それ以上に目を引かれたものがあった。
戻り方だ。
踏み込んだ後、体が残らない。
打った後、足が死んでいない。
力を入れた後、すぐ抜ける。
前へ入っても、逃げる余地を消していない。
危ない場所に入る。
だが、そこに居座らない。
綺麗だ。
そう思った。
「……クラリスさん」
「はい?」
クラリスが動きを止め、良樹を見る。
良樹は少しだけ言葉を探した。
「今の、少し教えてくれ」
クラリスの目が、ほんの少しだけ見開かれた。
「……私の体術を、ですか?」
「ああ。全部じゃなくていい」
「足の置き方と、戻り方だけでいい」
「踏み込んだあと、体が残ってなかった」
「危ない場所に入っても、すぐ戻れる形だった」
クラリスは、返事を忘れたように良樹を見た。
「そこを、ご覧になっていたのですか」
「見るだろ」
「戻れない動きは怖えからな」
「……そうですか」
クラリスは静かに微笑んだ。
いつもの清楚な微笑み。
けれど、その奥で何かが揺れた。
清楚な僧侶としてではなく。
回復役としてでもなく。
危ない戦い方をする女としてでもなく。
足運びを。
戻り方を。
人を壊すためではなく、止めるための動きを。
良樹は、技術として見ていた。
「あとな」
良樹は少し視線を逸らした。
「綺麗だった」
「……」
「あ、いや、変な意味じゃなくてな」
「無駄がないっていうか」
「線が切れてないっていうか」
「俺は素人だから、うまく言えねえけど」
クラリスは、胸の奥が静かに跳ねるのを感じた。
綺麗。
良樹さんは、そう言った。
清楚な僧侶として微笑んでいる自分ではなく。
祈るための手でもなく。
人を打つための足運びを見て。
それでも、綺麗だと。
「……いいえ」
クラリスは、ゆっくりと微笑んだ。
「今の言い方で、十分です」
◇
「では、まず立ち方からですね」
クラリスは良樹の正面に立った。
良樹はその前で、言われた通りに足を開く。
「こうか」
「少し違います」
「もう違うのか」
「はい。最初が一番大事ですから」
クラリスは良樹の足元を見た。
「足幅は、もう少し狭くて大丈夫です。膝は固めすぎないでください。腰を少し落として、でも前に乗りすぎないように」
「注文が多いな」
「身体は、思っているよりすぐ崩れますから」
「確かに、もう崩れてる気がする」
「はい。崩れています」
「そこは少し遠慮してくれ」
「遠慮すると、良樹さんが手首を痛めます」
「なら、遠慮しないでくれ」
「はい」
クラリスは楽しそうに微笑んだ。
リシアとカレンは、少し離れたところでそれを見ていた。
「……クラリスさん、楽しそうですね」
カレンが小さく言う。
リシアは腕を組んだ。
「楽しそうね」
良樹は言われるままに構えを取った。
だが、当然うまくいかない。
肩に力が入る。
膝が固まる。
腰が高い。
腕だけで何とかしようとする。
クラリスは一度、首を傾げた。
「良樹さん」
「何だ」
「後ろから見た方が分かりやすいですね」
「後ろ?」
「はい」
そう言って、クラリスは良樹の背後に回った。
柔らかな手が、まず肩に触れる。
「肩の力を抜いてください」
「抜いてる」
「抜けていません。ここです」
肩を下げる。
背中を伸ばす。
腰の高さを直す。
手つきは優しい。
だが、迷いがない。
「腕は、ここです」
クラリスは背中側から手を回し、良樹の右腕を支えた。
近い。
良樹はそう思った。
近いというか、触れている。
背中側から腕の位置を直されると、どうしても距離が近くなる。
クラリスの声が耳に近い。
柔らかな身体が、背中側へ触れる。
良樹の動きが止まった。
「良樹さん」
「……何だ」
「固まると姿勢が崩れます」
「誰のせいだと思ってる」
「姿勢確認です」
「万能すぎるだろ、その言葉」
「必要な接触です」
「今、少し強調したな」
「必要な接触です」
声は穏やかだった。
表情も、きっといつもの清楚な微笑みなのだろう。
だが、背中越しの距離はどう考えても近い。
これは訓練だ。
姿勢矯正だ。
手首を痛めないための安全確認だ。
良樹は自分にそう言い聞かせた。
だが、背中に触れる柔らかさと、耳元に近いクラリスの声と、腕を導く白い手が、その理屈を順番に雑に壊していく。
危ない。
魔導盤ではない。
俺の集中力が危ない。
「クラリスさん」
「はい」
「これ、本当に必要な接触だけだよな」
「はい」
「本当に?」
「……必要な接触です」
「今、少し間があったぞ」
「姿勢確認です」
「強いな、その言葉」
「はい。良樹さんに正しく覚えていただくためですから」
少し離れたところで、リシアが目を細めた。
「……あれ、必要?」
カレンは剣を抱えたまま、小さく首を傾げる。
「あ、あの……姿勢を直すには、必要なのかも……」
「カレン。あなた今、自分で自分を騙そうとしてるでしょ」
「……少し」
クラリスは聞こえているはずだった。
聞こえているはずなのに、良樹の腕を直したまま、涼しい声で言った。
「良樹さん、集中してください」
「無理を言うな」
クラリスは微笑んだ。
必要な接触です。
そう言ったのは、嘘ではなかった。
良樹の肩は上がっていた。
肘の位置も悪かった。
このまま打てば、手首を痛める。
だから、直す必要がある。
近づく必要がある。
触れる必要がある。
嘘ではない。
ただ。
良樹さんが困ったように固まるのを見て、胸の奥が少しだけ温かくなったことも、嘘ではなかった。
◇
クラリスの姿勢矯正が終わったあと、良樹は少し疲れた顔をしていた。
「……体術って、難しいな」
「最初からできるものではありませんよ」
クラリスは何事もなかったように微笑んでいる。
「ですが、良樹さんは見るところが良いです」
「足の置き方と戻り方に気づいたのは、さすがです」
「剣も体術も素人だけどな」
「素人でも、見る目は別です」
クラリスの言葉に、良樹は少しだけ肩をすくめた。
その様子を、カレンは少し離れたところから見ていた。
クラリスさんは、良樹さんに教えられる。
そう思った。
リシアさんは、良樹さんの魔導盤に入っている。
リシアさんの魔法から読めたものが、良樹さんの新しい部品になった。
クラリスさんは、体術を教えられる。
良樹さんが、綺麗だと言った動きを持っている。
では、自分は。
自分は、良樹さんに何を教えられるのだろう。
怖がること。
震えること。
踏み込む前に迷うこと。
戻れなくなることばかり考えること。
そんなものを、教えていいのだろうか。
カレンは剣を抱えたまま、少しだけ視線を落とした。
◇
夕方に近づくと、訓練場の影が少し長くなった。
リシアは魔法の整理をすると言って、石壁の方へ向かった。
クラリスは薬草と包帯を見てきます、と言って一度訓練場を離れた。
良樹は、訓練場の端に腰を下ろしていた。
地面に胡座をかき、膝の上に肘を置いている。
胸の前には、薄い魔導盤が浮かんでいた。
けれど、工具は動いていない。
考えているのだと、カレンには分かった。
リシアさんからは読めた。
クラリスさんには蓋があった。
自分は、霧のように消えた。
今朝は、距離を測る魔導レーザーセンサーも見せてもらった。
距離は見える。
でも、全部は見えない。
横も、背中も、草の陰も、良樹さんが見ていないところは死角になる。
そして、私の怖さは消えない。
むしろ要る、と言われた。
良樹さんは、何を考えているのだろう。
そう思った瞬間、カレンの足が止まった。
話していいのだろうか。
邪魔ではないだろうか。
隣に座って、嫌な顔をされたらどうしよう。
距離が近いと思われたら。
面倒な子だと思われたら。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
怖い。
でも。
怖いなら、何が怖いか言え。
良樹の声を思い出した。
カレンは、剣を抱え直した。
そして、一歩だけ前へ出た。
「あ、あの……」
良樹が顔を上げる。
「どうした、カレン」
「隣、いいですか?」
「ああ」
返事は、あっさりしていた。
あっさりしすぎて、カレンは少し拍子抜けした。
「……失礼します」
そう言って、カレンは良樹の隣に腰を下ろした。
膝を抱える。
剣を足元に置く。
身体を小さくするように、体育座りになる。
少しだけ、近い。
いや。
自分で座ったのだから、少しだけではない。
肩が、触れそうだった。
「……カレン」
「は、はい」
「近くねえか?」
心臓が跳ねた。
やっぱり。
近すぎた。
迷惑だった。
踏み込みすぎた。
「だ、駄目ですか」
声が、少し震えた。
良樹は一瞬、返事に困ったように目を逸らした。
「いや、駄目ではねえけどよ」
「……はい」
「可愛い子が隣に座ってくれるなら、これも役得だ」
言ってから、良樹が固まった。
カレンも固まった。
風だけが、訓練場の端を通り抜けた。
「……え」
「今のは忘れろ」
「む、無理です」
「だよな」
「はい」
カレンは膝を抱えたまま、顔を伏せた。
耳が熱い。
頬が熱い。
胸の奥まで、熱い。
可愛い子。
良樹さんが、そう言った。
自分に。
怖がってばかりの自分に。
前に出るたびに震える自分に。
戻れる道ばかり探している自分に。
可愛い子、と。
良樹は、少し気まずそうに咳払いをした。
「で」
「……はい」
「何か話したいことがあったんじゃねえのか」
「分かるんですか」
「分かる」
「今の座り方、何か決めてきた奴の座り方だ」
「座り方で分かるんですか」
「全部は分からん」
「でも、逃げ道を残してねえ座り方だ」
カレンは、自分の膝を抱く手に力を込めた。
「……逃げ道は、あります」
「どこに」
「良樹……さんの隣から、離れれば」
「なら、離れるか」
「……離れません」
声は小さかった。
けれど、逃げなかった。
良樹は少しだけ目を細めた。
「怖いか」
「はい」
「何が」
「今も、です」
カレンは膝に顔を少し埋めたまま言った。
「良樹……さんの隣に座って、近いって言われて」
「嫌がられたらどうしようって思いました」
「でも、離れたくなかったです」
「ああ」
「断られるのも怖かったです」
「迷惑だと思われるのも怖かったです」
「近いって言われた時、やっぱり駄目だったと思いました」
「駄目ではねえよ」
「はい」
「ただ、近いとは思った」
「……はい」
「でも、離れろとは言ってねえ」
カレンは、膝を抱える手を少しだけ緩めた。
良樹は少しだけ空を見上げた。
「勇気ってのは、怖くないことじゃねえんだよな」
「え?」
「親父に叩き込まれた」
「何が怖いか分かった上で、それでもやることだってな」
カレンは、良樹の横顔を見た。
「何が怖いか、分かった上で……」
「ああ」
「分からねえまま突っ込むのは、勇気じゃねえ」
「ただの確認不足だ」
「確認不足……」
「怖いなら、何が怖いか見る」
「近づくのが怖いのか」
「断られるのが怖いのか」
「嫌われるのが怖いのか」
「戻れなくなるのが怖いのか」
「それを分けた上で、それでも一歩出る」
良樹は、少しだけ笑った。
「だから、今のお前は勇気があったんだろ」
「怖いのに、隣に来たんだからな」
カレンは、膝を抱える手に力を込めた。
胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。
「……私にも、勇気があったんでしょうか」
「あったんじゃねえの」
「少なくとも、俺はそう見た」
そう見た。
その言葉が、カレンの中にゆっくり沈んだ。
見てもらえた。
怖がっている自分を。
それでも隣に来た自分を。
弱さではなく、勇気として。
「なら、戦う時も同じなのかもな」
「同じ、ですか」
「ああ」
「魔物が怖い」
「踏み込んだら戻れないのが怖い」
「足が止まるのが怖い」
「仲間を巻き込むのが怖い」
「それをちゃんと分けた上で、それでも前に出る」
「それができるなら、怖がりでも戦えるんじゃねえか」
カレンは黙って聞いていた。
言葉が、ひとつずつ胸に落ちていく。
「怖がるな、じゃないんですね」
「違う」
「怖がれ」
「ただし、何が怖いか見ろ」
「見えた怖さは、情報になる」
「情報……」
「俺の言い方だとそうなる」
カレンは、小さく笑った。
良樹も少しだけ口元を緩める。
そして、ふと顔をしかめた。
「……ん?」
「どうしました?」
「待て」
「そうすると、今のお前にとって俺は、怖さを分けて近づく対象だったわけだよな」
「は、はい」
「つまり俺はモンスター扱いか!?」
「い、いえ、そんなことは!」
カレンが慌てて顔を上げる。
良樹は肩を揺らして笑った。
「冗談だよ」
「も、もう……!」
カレンは頬を赤くしたまま、少しだけ口を尖らせた。
けれど、すぐに笑ってしまった。
良樹も笑っていた。
怖かった。
近づくのも、断られるのも、嫌がられるのも怖かった。
でも今、隣にいる。
笑えている。
それが、カレンには少しだけ不思議だった。
◇
訓練場の入口近くで、リシアは足を止めた。
良樹が地面に座っている。
その隣に、カレンがいた。
近い。
かなり近い。
カレンは膝を抱えて、良樹の隣に座っている。
怖い時に自分を小さくするような姿勢。
たぶん本人に他意はない。
ないのだが。
座ったことで訓練用の短いスカートが少し持ち上がり、ブーツの上端との間に白い太ももが見えている。
良樹の位置からは、嫌でも視界に入る角度だった。
「……カレン、それはずるいでしょ」
リシアは低く呟いた。
本人が狙っていないのが、余計にずるい。
良樹が何かを言う。
カレンが顔を赤くする。
けれど、離れない。
むしろ、ほんの少しだけ肩が近づいたように見えた。
リシアは、胸の奥に生まれたざらつきを押さえきれず、小さく唸る。
「ぐぬぬ……」
◇
一方、その反対側。
薬草を包んだ小袋を手に、クラリスもまた足を止めていた。
良樹さんと、カレンさん。
二人は訓練場の端に座っている。
距離が近い。
いえ、かなり近いですね。
カレンさんは膝を抱えている。
不安を抱えた子が、自分を守るためにする姿勢。
勇気を出して隣へ行き、けれど怖いから身体を小さくしている。
とても可愛らしい。
そして、困ったことに。
その姿勢は、良樹さんの視界に入りやすい形でもあった。
訓練用の短いスカート。
膝を抱えることで少し上がる裾。
ブーツとの間に見える、白い太もも。
本人に悪意はない。
おそらく、計算もない。
だからこそ、防ぎにくい。
「……天然は、強いですね」
クラリスは清楚に微笑んだ。
微笑んだまま、薬草の包みを持つ指に少しだけ力が入る。
「ぐぬぬ、です」
◇
訓練場の入口と、その反対側。
互いの姿も、声も届かない距離で。
リシアとクラリスは、それぞれ違う理由で、同じ結論に至っていた。
カレンは、強い。
本人が分かっていないぶん、余計に強い。
「ぐぬぬ……」
「ぐぬぬ、です」
二つの小さな敗北宣言は、離れた場所で、ほとんど同時にこぼれた。
◇
その日の夕方。
四人は簡易宿へ戻った。
空気が、微妙におかしかった。
リシアはいつも通りに見える。
だが、時々カレンを見る目が鋭い。
クラリスはいつも通り微笑んでいる。
だが、カレンを見る時だけ少し分析的な目になる。
カレンは、何も分かっていない顔で、少しだけ良樹の近くにいる。
そして良樹は、何かを察しているようで、何も分かっていない。
「……やっぱり」
良樹は食堂の椅子に座りながら、深く息を吐いた。
「確認しないと事故る情報が多い」
リシアが即座に反応した。
「良樹、それ絶対に私たちのこと言ってるでしょ」
「他に何がある」
「言い方」
クラリスは穏やかに微笑む。
「ですが、的確かもしれませんね」
「クラリスさんは今それ聞かないでくれ」
「あ、あの……私は、情報なんでしょうか」
カレンがおずおずと聞く。
良樹は少しだけカレンを見た。
怖いまま隣に座った子。
自分の怖さを、少しだけ言葉にした子。
「カレンもだ」
「は、はい……」
「ただし、悪い情報じゃねえ」
「確認が必要なだけだ」
カレンは少しだけ目を見開いた。
「……はい」
その返事は、小さかった。
けれど、どこか嬉しそうだった。
その時、食堂の入口が開いた。
入ってきたのは、ガレスだった。
太い腕を組み、四人を見る。
「いたか」
「何かあったのか」
良樹が顔を上げると、ガレスは卓へ一枚の依頼書を置いた。
「町道近くで、小型の魔物が出ている」
「討伐ではない」
「商人が通る前に、追い払って道を空けたい」
「追い払う?」
「ああ」
「倒せとは言わん」
「止めて、逃がせ」
「お前ら向きだろ」
「魔物の種類は」
「ゴブリンだ」
「大きな群れじゃない。だが、商人の護衛が少なければ十分に危ない」
「荷馬車が立ち往生すれば、道が詰まる」
良樹は依頼書を見た。
倒すためではない。
止める。
逃がす。
戻るための一拍を作る。
今日確認したことが、そのまま実地につながる。
リシアが良樹を見る。
クラリスが静かに微笑む。
カレンが腰の剣へ視線を落とし、少しだけ息を呑む。
良樹は、短く息を吐いた。
「……それなら、やれるかもしれねえ」
ガレスが低く笑った。
「なら、明日の朝だ」
「無理なら戻れ」
「追い払えれば十分だ」
良樹は頷いた。
魔導盤の中で、赤い線が細く灯る。
リシアから読めた出力制御。
クラリスから見えた戻り方。
カレンが言葉にし始めた怖さ。
そして、今朝形にした距離入力。
まだ、ひとつにはなっていない。
読めたもの。
読めないもの。
見えたもの。
見せられないもの。
見てもらいたいもの。
全部が、まだばらばらだった。
けれど。
良樹は魔導盤を閉じる。
「まずは確認だな」
小さく、そう呟いた。




