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第86話 夫婦四人のカイゼン(挿絵有)

 作業場の扉の前で、良樹は一度だけ足を止めた。


 昨日、そこで止められた。


 今日は止まる。


 そう言った。


 言った以上、作業場へ籠もるつもりはなかった。


 けれど、止まることと、考えないことは違う。


 良樹は朝食のあと、三人を連れて町外れの空き地へ来ていた。


 人通りは少ない。

 少し離れた場所に古い岩場がある。

 大きな岩も、小さな石も、試験用に使えそうなものが転がっている。

 周囲に家畜はいない。

 荷車も通らない。

 射線の先に道もない。


 いつもの確認を済ませてから、良樹は立ち止まった。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 三人は、少し離れて良樹を見ていた。


 妻になった。


 昨日までと、名前が変わった。


 ただ、それだけではない。


 同じ家へ帰る。

 同じ食卓に座る。

 同じ未来の話をする。


 そして、同じ失敗を繰り返さないために、同じ場に立つ。


 良樹は、自分の右手を見た。


 普通の右手だ。


 だが、あの日の感触はまだ残っている。


 怒りで外してはいけないものを外した。

 保護回路を殺した。

 止め方のない力を通した。


 オーガを倒した。


 街を守った。


 それでも、良樹にとって、あれは成功ではなかった。


「オーガ戦で、俺は間違えた」


 良樹は、そう言った。


 三人の表情が変わる。


 リシアは何かを言いかけた。

 カレンは胸元で手を握った。

 クラリスは、静かに良樹の右手を見た。


 良樹は首を振る。


「倒したことを否定するつもりはねえ」

「あれで助かった人がいることも分かってる」

「でも、あれは制御じゃなかった」

「止め方のない力だった」


 風が、草を揺らした。


「あの時、俺は一人で抱えた」

「三人が倒れて」

「守れなかった自分にキレて」

「出力だけを通した」


 良樹は、自分の胸元にある見えない盤を見るように、視線を少し落とした。


「同じ失敗は、もうしねえ」


 その言葉に、カレンが小さく息を吸った。


「……その通りです」


 良樹が顔を上げる。


 カレンは、胸元で手を握っていた。

 けれど、目は逸らしていなかった。


「良樹さんは、間違えました」

「あの時、一人で抱えました」

「止め方のない力を使いました」


 言葉にするたび、カレンの声が少し震えた。


「でも」

「それだけじゃないです」


「カレン」


「私たちも、届きませんでした」

「斬る場所は見えていたのに」

「守りたい場所も、分かっていたのに」

「私は、届かなかったんです」


 リシアも、小さく息を吐いた。


「私もよ」

「撃てた」

「止めようとした」

「でも、足りなかった」

「良樹を、一人にした」


 クラリスは、自分の手を見る。


「私も、止められませんでした」

「治せば済むと思っていた私が」

「本当に壊れそうな良樹くんを、止められなかった」


 良樹は、何かを言おうとした。


 だが、三人の目を見て、言葉を飲み込んだ。


 三人は、良樹を責めているのではない。

 自分たちだけを責めているのでもない。


 あの失敗を、四人で見ている。


「だから、良樹一人のカイゼンじゃないわ」


 リシアが言った。


「私たちも、届くようになりたいです」


 カレンが続ける。


「壊さないために」

「今度は、私たちも止められるように」


 クラリスが、静かに言った。


 良樹は、しばらく黙っていた。


 それから、短く息を吐く。


「……そうか」


 三人が頷く。


「なら」

「四人でカイゼンだ」


 その言葉に、リシアが少しだけ笑った。


「でも、大丈夫。届くわ」


「は、はい!」


 カレンが強く頷く。


「当然ですね」


 クラリスも、いつもの清楚な微笑みで頷いた。


 三人は、良樹を見た。


 リシアが、少しだけ得意げに胸を張る。


「だって私たちは夫婦だから」


 カレンが、赤くなりながらも続ける。


「信頼なんて……」


 クラリスが、柔らかく笑った。


「とっくにあります」


 良樹は、一瞬だけ言葉を失った。


 三人は、もう不安そうに良樹の答えを待ってはいなかった。

 信じてくれるかどうかを、恐る恐る確認しているのでもなかった。


 信じている。

 信じられている。


 その前提で、隣に立っている。


 良樹は、ゆっくり息を吐いた。


「……本当に、言うことがねえな」


 リシアが笑う。


「でしょう?」


 カレンも、小さく笑った。


「良樹さんの妻ですから」


 クラリスは、自分の手を見た。


「では、始めましょう」

「壊さないための確認を」


 良樹は頷いた。


「ああ」


 良樹の胸元に、魔導自立盤が浮かぶ。


 携行盤ではない。

 その場に据える、大きな盤。


 三つの端子台。

 三つの流路。

 三つの個別インバータ。

 奥には、三系統共通ブレーカー。


 だが、今日はそれだけではなかった。


 盤の奥に、これまでとは違う質感がある。


 線だけではない。

 流れだけではない。

 支えるもの。

 受けるもの。

 力を逃がすもの。

 形を保つもの。


 藤田から継いだ《魔導工廠》。


 その力が、良樹の魔導自立盤に薄く重なっていた。


 まだ完全な魔導工場ではない。

 何でも作れるわけではない。

 常時残せるわけでもない。


 だが、良樹が魔導自立盤を展開している間。

 三人と端子台接続している間。


 魔力だけでありながら、実体を伴う強化装備を一時的に具現化できる。


「最初はカレンだ」


 良樹が言った。


 カレンは一度だけ息を吸い、剣に手を添えた。


「はい」


「その次がクラリス」

「最後にリシア」


 リシアが少し眉を上げる。


「私が最後?」


「ああ」

「空に上がるやつを最初に試す理由がねえ」


「まあ、妥当ね」


 リシアは肩をすくめた。


「私も最初から高く飛ぶつもりはないし」


 クラリスは静かに微笑む。


「では、カレンからですね」


 カレンは剣を抜いた。


 朝の光が刃を拾う。


 良樹は、カレン用の端子台へ意識を向ける。


「接続する」


「はい」


 細い魔力線が、カレンへ伸びる。

 カレンの手元へ。

 剣へ。

 そして、カレン自身の怖さを見る流れへ。


 剣が、淡く光った。


 最初は、いつもの剣だった。


 だが、良樹の魔導自立盤から端子台を通して流れた力が重なると、刃の輪郭が少しずつ変わっていく。


 長くなる。

 短くなる。

 幅が広がる。

 刃の厚みが変わる。


 カレンは、剣を握ったまま息を呑んだ。


「……変わります」


「ああ」


 良樹は盤を見る。


「形状保持はできてる」

「ただし、剣の形を決めてるのは俺じゃねえ」

「カレン、お前だ」


「私が……」


 カレンは剣を見た。


 怖い。


 そう思った。


 その瞬間、剣の輪郭がふにゃりと崩れた。


 刃が消えたわけではない。

 だが、鋭さがなくなる。

 硬い刃ではなく、柔らかい帯のような形へ変わった。


 カレンは目を見開いた。


「……怖いと思ったら、柔らかくなりました」


 良樹は少しだけ黙った。


 それから、短く頷く。


「いい」

「それは、いい」


 リシアが剣を見る。


「怖いと思ったら、斬るんじゃなくて止まるのね」


 クラリスも静かに頷いた。


「安全側へ逃げています」


 カレンは、柔らかくなった剣を見つめた。


 怖いから、止まる。

 怖いから、壊さない。


 それは、自分らしいと思った。


 そして、もう一つ。


 怖いからこそ、切らなければならない時もある。


 カレンは剣を構え直した。


 柔らかかった輪郭が、もう一度刃へ戻る。


「怖いけど」


 カレンの声は震えていた。


 けれど、逃げてはいなかった。


「切ります」


 剣が膨れ上がった。


 光が刃を形作る。

 柄から先へ、巨大な刃が伸びていく。


 オークキング戦で見せた大剣より、さらに大きい。

 五メルを超える、巨大な剣。


 カレンの両手が、柄を握る。


 良樹の盤が、出力を支える。

 藤田由来の魔導工廠の力が、刃に実体を与える。


 だが、それを形にしているのはカレンだった。


 カレンは、巨大な剣を振り下ろさなかった。


 ただ、構えた。


 それだけで十分だった。


 良樹が言う。


「今日は、ここまででもいい」


 カレンは、小さく息を吐いた。


「はい」

「でも、もう一つ試したいです」


「何だ」


「切ることではなく」

「切らないことを」


 良樹は、少しだけ目を細めた。


「……分かった」


 良樹は平たい石を一つ置いた。


 その上に、赤く熟した果物を乗せる。


 リシアが眉を寄せた。


「何を試すの?」


「斬る試験だ」

「ただし、斬らない試験でもある」


 カレンが、剣を握り直した。


「石は切ります」

「果物は、切りません」


 その瞬間、剣の輪郭が分かれた。


 一本の刃ではない。


 細い。

 薄い。

 無数の刃。


 それらは扇のように広がり、石へ降った。


 音は短かった。


 しゃ、と。


 風が布を裂くような音。


 次の瞬間、石が崩れた。


 割れたのではない。

 砕けたのでもない。


 細かく、均等に。

 まるで料理人が肉を切り分けたように。


 サイコロ状の小片になって、石は地面へ落ちた。


 だが。


 その上にあった果物は、無傷だった。


 赤い皮には、傷一つない。


 カレンは剣を下ろした。


 自分でも息を止めていたらしい。

 小さく息を吐く。


「……切れました」

「切りませんでした」


挿絵(By みてみん)


 リシアが、呆然と果物を見る。


「今の、全部実体の刃よね」


 良樹は頷いた。


「ああ」

「斬撃を飛ばしたんじゃねえ」

「刃を出した」

「だから、本来なら果物も斬れる」


 クラリスが静かに言った。


「ですが、斬らなかった」


「はい」


 カレンは果物を見つめたまま頷く。


「怖かったです」

「全部、切ってしまいそうで」

「だから、ずっと見ていました」


 カレンは、自分の剣を見る。


「切るものと」

「切らないものを」


 良樹は、細かくなった石を見る。


 石だけが斬られている。

 果物は無傷。


 無数の刃を出すことよりも、巨大な大剣を作ることよりも。


 斬らないものを、斬らなかったこと。


 それが、この剣の一番恐ろしいところだった。


 良樹は小さく息を吐いた。


「……これだな」


 カレンが顔を上げる。


「これ、ですか?」


「ああ」

「お前の剣は、何でも斬る剣じゃねえ」


 良樹は、カレンを見た。


「斬るものを選ぶ剣だ」


 カレンは、少しだけ目を伏せた。


 怖い。

 だから見る。

 怖い。

 だから間違えないようにする。


 怖いから、全部を斬るのではない。


 怖いからこそ、守るものを残す。


「……はい」


 カレンは小さく頷いた。


「私の剣です」


   ◇


 次は、クラリスだった。


 クラリスが両手を前に出す。


 良樹の魔導自立盤から、端子台接続が伸びた。

 淡い光が、クラリスの左右の腕へ重なる。


 最初に形を取ったのは、指先ではなかった。


 手首。

 前腕。

 肘。

 拳。


 白い法衣の袖の上から、黒色に紫を帯びた手甲が顕現していく。


 清楚な僧侶の腕に、戦うための装甲が乗った。


 けれど、不思議と似合っていた。


 クラリスは、右手をゆっくり握る。


「重くはありません」


「反動逃がしは?」


「まだ分かりません」

「試します」


 クラリスは、近くの岩の前に立った。


 大きな岩ではない。

 人の胴ほどの高さ。

 ただし、普通に殴れば拳の方が壊れる。


 クラリスは何の気負いもなく、拳を引いた。


「クラリス」


 良樹が声をかける。


 クラリスは振り返らない。


「大丈夫です」

「壊すためではなく、確かめるためです」


 次の瞬間、クラリスの拳が岩に触れた。


 鈍い音。


 いや、音は小さかった。


 しかし、岩にひびが走った。


 一本。

 二本。

 細い亀裂が、拳の当たった場所から広がる。


 クラリスは拳を引いた。


 自分の手を見る。

 指を開く。

 閉じる。


「痛みはありません」

「手首にも、肘にも返りはありません」


 そして、岩を見る。


「でも、岩は壊れました」


 リシアが、少しだけ息を呑む。


 カレンも、剣を握る手に力を込めた。


 クラリスは静かに言った。


「これは、危ないものです」


 良樹は黙って聞いていた。


「壊れるのが、分からなくなる」

「自分がどれだけ強く打ったのか」

「相手にどれだけ通ったのか」

「本来なら返ってくるはずの知らせが、返ってこない」


 クラリスは、自分の手甲を見る。


「痛くないから、大丈夫」

「そう思ってしまえば」

「また、間違えます」


 少しだけ、沈黙が落ちた。


 けれどクラリスは、手甲を外そうとはしなかった。


「でも」


 声は静かだった。


「使いこなしてみせます」


 良樹が、ようやく頷く。


「ああ」


 クラリスは、巨岩の前へ歩いた。


 最初の岩とは比べ物にならない大きさだった。

 人の背丈より高く、厚みもある。

 普通の打撃では、表面を欠けさせることすら難しい。


 良樹は盤を見る。


「一回だけだ」


「はい」


「浸透撃は、変形中には使えねえ」

「使った後の手甲も一度崩れる」


「分かっています」


 クラリスは、巨岩の前で足を止めた。


 大きく拳を振りかぶることはしなかった。


 右拳を、そっと巨岩の表面へ触れさせる。


 拳は、もう当たっている。


 そこから打つ距離など、ほとんどない。


 カレンが、小さく息を呑んだ。


「そこから……?」


 クラリスは答えなかった。


 ただ、足裏の位置をわずかに変えた。

 膝が沈む。

 腰が乗る。

 背中が静かに締まる。

 肩は上がらない。

 肘も大きく引かない。


 見た目には、ほんの少し身体が沈んだだけだった。


 だが、良樹には分かった。


 クラリスの身体が、一瞬で一本の伝達線になった。


 足裏から拳まで。

 拳から手甲へ。

 手甲から岩の内側へ。


 良樹の魔導自立盤が低く鳴る。

 藤田由来の魔導工廠の力が、手甲の奥で噛み合う。


 エレメンタル・キャノンの半分程度の力。

 だが、外へ撃つのではない。

 内へ通す。


 クラリスが、小さく息を吐いた。


「いきます」


 次の瞬間。


 拳が、一寸も動かなかったように見えた。


 いや、動いた。


 ほんのわずか。

 外から見れば、押しただけにも見える小さな動き。


 ゼロ距離から、衝撃が入った。


 音はなかった。


 巨岩が、崩れた。


 割れたのではない。

 砕けたのでもない。

 爆ぜたのでもない。


 岩だったものが、内側から形を保てなくなった。


 上から、さらさらと崩れる。

 砂になる。

 音もなく、巨岩の輪郭が失われていく。


挿絵(By みてみん)


 最後には、そこに小さな砂山だけが残った。


 誰も、すぐには喋らなかった。


 クラリスは、自分の手甲を見た。


 手甲の輪郭が、少しだけ揺れている。

 一度使えば、しばらく同じ形では使えない。

 それが分かる。


 クラリスは、静かに言った。


「これは……滅多に使うものではありませんね」


 良樹は頷いた。


「ああ」


「でも」


 クラリスは、良樹を見た。


「正しく使うなら」

「間違いなく、良樹くんの力になれます」


 その目に、迷いはなかった。


 壊す力を見た。

 危うさも見た。

 それでも、逃げない。


 壊さないために。

 守るために。

 必要な時だけ使うために。


 クラリスは、その手甲を受け入れた。


   ◇


 最後は、リシアだった。


 良樹の魔導自立盤が、静かに形を変える。


 三つ目の端子台。

 リシア用の流路。

 そこに、藤田から受け継いだ魔導工廠の力が、薄く重なった。


 最初に顕現したのは、翼ではなかった。


 リシアの胸元に、淡い光が集まる。


「……鎧?」


 リシアが小さく呟いた。


 胸部だけを覆う、軽装鎧のような形だった。


 厚くはない。

 重そうでもない。

 ただ、胸、背中、肩を支えるために必要な場所だけを覆っている。


 良樹は、それを見て息を止めた。


 装甲。

 支持部。

 荷重を逃がすための受け。


 翼だけを背中に生やせば、人間の身体はそこから壊れる。

 だから先に、受けが出た。


 藤田の魔導工廠は、形だけを真似ていない。

 力を受ける場所から作っている。


 次の瞬間。


 リシアの背中に、翼が顕現した。


 鳥の翼ではなかった。

 天使の羽でもなかった。

 魔法で編んだ風の翼とも違った。


 薄く。

 鋭く。

 空気を切り、空気を受けるための形。


 左右へ広がったそれは、良樹の世界の知識を持たない者が見れば、ただ奇妙な翼に見えたかもしれない。


 けれど、良樹には分かった。


 翼だった。


 昭和二十年。

 何もかもが足りなかった時代。


 金属も、燃料も、時間も、人も。

 そして、守れるはずだった未来さえも足りなくなっていく中で。


 それでも、自分たちの空を守るために。


 当時の技術者たちが考え、

 削り、

 叩き、

 測り、

 創り出した翼。


 零式艦上戦闘機。

 良樹の世界で、零戦と呼ばれた機体。


 その翼の記憶だった。


 だが、それだけではなかった。


 リシアの胸部を覆う軽装鎧。

 その背面装甲。

 翼の付け根。


 そこに、筒が一つだけあった。


 金属ではない。

 魔力でできた、半透明の筒。

 だが良樹には、その形の意味が分かった。


 吸い込むためではない。

 吐き出すための筒。


 魔力を風へ変え、後方へ噴き出すための推進筒。


 零戦の翼に、もう一つの記憶が重なっている。


 F-2。


 良樹の世界で、今もなお空を守る翼。

 その面影が、そこにあった。


 リシアは背中の翼を軽く動かし、肩を回した。


「見た目ほど重くないわ」

「と言うより、すごく軽い」


 それから、背中の付け根にある筒へ意識を向ける。


「この後ろの筒に魔力を流せば、風が出て飛べるの?」


 良樹は頷いた。


「そうだ」

「ただし、最初は慎重に頼む」


「分かってるわ」


「どれくらい流したら身体が浮きそうになるか」

「まずはそこから試してくれ」

「飛ぶんじゃない」

「浮きそうになるところを見る」


 リシアは、少しだけ笑った。


「本当に段階を刻むわね」


「最初に空へ撃ち出される趣味はねえ」


「私もないわよ」


 そもそも、リシアは浮ける。


 風魔法を使えば、短時間なら身体を浮かせることはできる。

 高さを取ることも、落下を緩めることも、姿勢を保つこともできる。


 だが、それは飛行ではない。


 浮くことと、飛ぶことは違う。

 空中に留まることと、戦場の上で位置を取り、射線を変え、味方を見て、魔法を撃つことは違う。


 飛翔翼は、リシアを浮かせるためのものではない。


 リシアが元々持っている浮遊魔法を、戦場で使える空中機動へ変えるためのものだった。


「じゃあ、行くわよ」


 リシアが言った。


 声は軽い。

 けれど、目はもう魔法使いのものだった。


 リシアは自分の魔力を背中へ回す。


 最初は細く。

 次に、翼の付け根。

 推進筒。

 そこへ魔力を通す。


 魔力が、風へ変わる。


 背中から、細い風が噴いた。


 リシアの髪が揺れる。

 足元の草が、後ろへ倒れる。


「……なるほど」


 リシアが呟いた。


 良樹が顔を上げる。


「リシア?」


「思ったより素直」

「押すんじゃなくて、背中に流れを作るのね」

「翼は、その流れを受けてる」

「浮遊魔法だけだと点で支える感じだけど、これは面で乗れる」


 良樹は、一瞬だけ黙った。


 今、理解したのか。

 初めて風を噴かせて、もうそこまで見たのか。


 リシアは、背中の翼を少しだけ動かした。


「翼の角度を少し寝かせる」

「推進筒の風は強くしない」

「まず浮遊魔法で身体を軽くして」

「風で前に出る」

「落ちそうになったら、下から風を入れる」

「傾いたら、右の翼で受ける」

「戻すのは腰」


「……おい」


「何?」


「もうそこまで分かるのか」


 リシアは、少しだけ笑った。


「誰に言ってるのよ」


 良樹は言葉を失った。


 そうだった。


 リシアは、良樹のエレメンタル・キャノンを見て、即興でエレメンタル・ストライクへ落とし込んだ魔法使いだ。


 四属性を中級までしか扱えないのではない。

 四属性を崩さず、別の形へ組み替えられる女だ。


 魔法制御に関しては、間違いなく天才の域にいる。


 強い魔法が撃てるだけの者には、この翼は扱えない。


 背中から風を噴く。

 翼で受ける。

 浮遊魔法で身体を支える。

 崩れた姿勢を戻す。

 旋回する。

 射線を見る。

 味方を見る。

 そして、その上で魔法を撃つ。


 必要なのは、出力ではない。


 制御だった。


 リシアは、それを初見で理解していた。


 かつて、良樹のエレメンタル・キャノンを見たリシアは、その構造を自分の魔法へ落とし込み、エレメンタル・ストライクを撃った。


 そして今。


 リシアは、エレメンタル・ストライクに続き、自身の二つ目の代名詞を手に入れようとしていた。


「行くわ」


 リシアは地を蹴った。


 浮遊魔法。


 身体を軽くする。


 補助。


 推進筒へ魔力を送り、背中から風を噴く。


 姿勢制御。


 翼を開き、風を受ける角度を変える。


 テイクオフ。


 リシアの足が、地面を離れた。


 一メル。

 二メル。


 そこで終わらなかった。


 リシアは空中で、身体を横へ倒した。


 良樹の喉が鳴る。


 落ちる。


 そう思うより早く、リシアの翼が風を掴んだ。


 身体が滑る。

 沈まない。

 推進筒の風が細く伸びる。

 左翼が少しだけ上がり、右翼が風を受ける。


 旋回。


 リシアは、低い空を滑るように回った。


 速すぎない。

 高すぎない。

 けれど、明らかに地上とは違う速度と角度。


 リシアの黒髪が空に流れる。

 軽装鎧が淡く光る。

 零戦の翼が低速域で空を掴み、F-2の面影を宿した推進筒が風を吐く。


 そして、そのすべてを制御しているのは、リシアだった。


 魔法で無理やり浮いているのではない。

 翼に振り回されているのでもない。


 リシアが、翼を使っていた。


 カレンが息を呑む。


「すごい……」


 クラリスも、珍しく目を見開いていた。


 良樹は盤を見た。


 出力は低い。

 推進筒の魔力消費も、まだ上限には遠い。

 翼の負荷も、胸部装甲で逃げている。


 だが、数値以上に異常だった。


 リシアの制御が早すぎる。


「……初見でこれかよ」


 良樹が呟いた。


 リシアは空中で一度、上体を起こす。


 翼が角度を変える。

 推進筒の風が細く絞られる。

 浮遊魔法が沈み込みを殺す。


 ふわり、と。


 リシアは良樹たちの前へ戻ってきた。


 挿絵(By みてみん)


 着地も、乱れなかった。


 足が地面に触れる。

 膝が沈む。

 翼が風を逃がす。

 推進筒の風が消える。


 リシアは、軽く息を吐いた。


「飛べるわね」


 良樹は、しばらく黙っていた。


「……飛べる、どころじゃねえだろ」


 リシアは、背中の翼を一度だけ震わせた。


「まだ低いわ」

「速度も出してない」

「射撃もしてない」

「上昇も、急旋回も試してない」


「初回でそこまで考えるな」


「考えるわよ」

「使うなら、考える」


 リシアは空を見た。


「これは、高く飛ぶための翼じゃない」

「速く逃げるためだけの翼でもない」

「低い空で回って、射線を変えて、味方の位置を見るための翼ね」


 良樹は目を細める。


「……正解だ」


「でしょうね」


 リシアは少しだけ得意げに笑った。


「軽い」

「よく回る」

「風を掴みやすい」

「私の魔法と合わせると、すごく扱いやすい」


 それから、良樹を見た。


「これ、私向きだわ」


「ああ」


 良樹は頷いた。


「そう思った」


 リシアの表情が、少しだけ柔らかくなる。


 良樹は、ふと気づいたことを聞いた。


「あの速度で飛んで、風で前が見えなくならねえのか」


 リシアは、きょとんとした。


「なるわよ?」


 良樹が顔を上げる。


「なるのかよ」


「なるわよ」

「だから、向かい風と相殺するように、顔の前に受け流す風を吹かせてたわ」

「見えないと危ないじゃない」


 当然のように言った。


 良樹は、しばらく黙った。


 背中の推進筒。

 翼の角度。

 浮遊魔法。

 姿勢制御。

 低空旋回。

 着地。

 その上で、顔の前に風除けを作り、視界を確保していた。


 全部、初回で。


 何が器用貧乏だ。


 初めて会った時からそうだった。


 こいつは、とんでもない制御を、いとも簡単にやりやがる。


 エレメンタル・キャノンを見て、即興でエレメンタル・ストライクへ落とし込んだ時もそうだ。

 四属性をただ並べているわけではない。

 流れを見て、順番を見て、逃がしを見て、形にしている。


 今回も同じだった。


 飛ぶ。

 見る。

 回る。

 戻る。

 そのために必要な制御を、当たり前のように足している。


 もう少し――


 自覚しろ。


 そう思ってから、良樹は苦笑した。


 自覚していないわけではないのだろう。


 ただ、リシアにとってそれは、特別な才能ではなく、必要だからやったことなのだ。


 その辺りが、どうしようもなくリシアだった。


「何よ」


 リシアが眉を寄せる。


「変な顔して」


「いや」


 良樹は首を振った。


「お前向きだと思っただけだ」


 リシアは、少しだけ目を細めた。


「当然でしょ」

「私が飛ぶんだから」


 背中の翼が、朝の光を受けて淡く揺れた。


 それから、リシアは背中の翼をちらりと見た。


「でも、これ」

「飛んでない時は邪魔になるわね」


 良樹は、翼を見る。


 確かに、その通りだった。


 空を掴むには必要な広さ。

 風を受けるには必要な形。

 低速で旋回するには、この翼面がいる。


 だが、地上で歩くには邪魔だった。

 木々の間を抜けるにも、狭い通路を進むにも、味方と並んで戦うにも、広がったままでは扱いづらい。


「何とかならないの?」


 リシアが当然のように言った。


 良樹は苦笑した。


「ああ」

「カイゼンしておく」


 言いながら、良樹の脳裏には、ありありと浮かんでいた。


 天使の羽のように、背に沿って折りたたまれた零の翼。


 薄く、鋭く、軽い翼が、リシアの背中で静かに畳まれている姿。


 それは鳥の翼ではない。

 天使の羽でもない。

 零戦の翼の記憶を持つ、魔導の翼。


 けれど、折り畳まれたその姿は、どうしようもなくリシアに似合っていた。


 良樹は、少しだけ視線を逸らした。


「……まあ」

「たぶん、できる」


 リシアが目を細める。


「今、何か変なこと考えたでしょ」


「運用改善だ」


「本当に?」


「本当に」


 カレンが小さく首を傾げる。


「でも、良樹さん」

「少し照れているように見えます」


 クラリスが口元に手を添える。


「折りたたまれた翼を背負うリシアは、きっと綺麗でしょうから」


「クラリス」


「はい」


「言うな」


 リシアの頬が、少しだけ赤くなった。


「……まあ」

「似合うなら、悪くないわ」


 良樹は咳払いをした。


「運用改善だ」

「飛行時は展開」

「地上時は折り畳み」

「接続部にロック機構」

「展開時に半端な角度で止まらないようにする」

「畳んだ状態で衝撃を受けた時の逃がしも要る」


 リシアは、少し笑った。


「照れ隠しの技術説明ね」


「必要な説明だ」


「はいはい」


 背中の翼が、朝の光を受けて淡く揺れた。


 飛ぶための翼。

 守るために生まれた翼。

 そして、これからリシアの背で、彼女の戦い方に合わせてカイゼンされていく翼。


 リシアは、エレメンタル・ストライクに続く二つ目の代名詞を、確かに手に入れようとしていた。


   ◇


 三人の確認を終えた頃には、日が少し高くなっていた。


 カレンの剣は、切るものと切らないものを選んだ。


 クラリスの手甲は、壊す力を、壊さないために受け止めた。


 リシアの翼は、低い空を掴み、戦場の上へ届く道を示した。


 三人は、もう届かなかったあの日のままではない。


 良樹一人が大きな力を抱えるのではない。

 三人を後ろに下げるのでもない。


 夫婦四人で、同じ失敗をしないためのカイゼン。


 その形が、ようやく見え始めていた。


 その時、町の方からギルドの使いが走ってきた。


「良樹さん!」

「リシアさん! カレンさん! クラリスさん!」


 息を切らしながら、使いは四人の前で足を止めた。


 良樹は魔導自立盤を閉じた。


「何だ」


「ガレスさんが、至急ギルドへ来てほしいと」


 リシアが良樹を見る。


「仕事ね」


「ああ」


 良樹は三人を見た。


「行くか」


 三人は、当然のように頷いた。


   ◇


 ギルドの奥の部屋には、ガレスがいた。


 机の上には地図が広げられている。


 旧街道。

 隣町へ向かう道。

 その途中に、赤い印が一つ。


 ガレスは、四人が入るなり言った。


「隣町までの街道を、本格的に戻す」


 良樹は地図を見る。


「商隊再開か」


「ああ」

「道そのものは、少しずつ通せるようになってきた」

「だが、商隊を戻すには足りねえ」

「途中で何かあった時、逃げ込める場所がいる」

「連絡を飛ばす場所もいる」

「護衛が交代する場所もいる」


 良樹は、地図上の印を見る。


「中継基地か」


「ああ」

「大層な砦じゃねえ」

「だが、門があり、壁があり、屋根があり、井戸があり、魔石通信機を置ける場所がある」

「そういう場所を一つ、確保したい」


 ガレスは、旧街道沿いの一点を指した。


「昔の小砦跡だ」

「街道の見張りと中継に使ってた場所らしい」

「石造りの広場、井戸、見張り台跡、通信機を置けそうな石台が残ってる」


 リシアが地図を覗き込む。


「使えそうなの?」


「場所は悪くねえ」

「だが、今は魔物が入り込んでる」

「奥にはトロルがいる可能性が高い」


 カレンの表情が少し変わった。


「トロル……」


 前に、四人がかりで倒した相手。


 良樹も、その重さを忘れていない。


 ガレスは続けた。


「掃討だけなら、他にも頼める」

「トロルを倒せる奴も、探せばいる」


 そこで、ガレスは四人を見る。


「だが、今回は倒すだけじゃ駄目だ」

「井戸を壊すな」

「石台を壊すな」

「門や壁も、できるだけ残せ」

「そこを使える状態で取り返してほしい」


 良樹は、短く息を吐いた。


「壊していい討伐じゃねえな」


「ああ」


 ガレスは頷いた。


「壊さずに奪い返してこい」


 良樹は、三人を見た。


 リシアの魔法。

 カレンの剣。

 クラリスの手。


 それを隣に置くと、誓った。


 なら、これは最初の実戦だった。


 良樹一人では行かない。

 三人を後ろへ下げるでもない。


 夫婦四人で行く。


「行くか」


 良樹が言う。


 リシアが笑う。


「ええ」


 カレンが頷く。


「はい」


 クラリスが、静かに微笑む。


「もちろんです」


 ガレスは、その四人を見て、少しだけ口元を緩めた。


「頼んだぞ、英雄様」


 良樹は、露骨に顔をしかめた。


「そういう言い方はやめろ」

「俺は、英雄じゃなくてもこの仕事からは降りねえ」


 ガレスは、少しだけ目を細める。


「だろうな」


 良樹は地図を見た。


 中継基地予定地。

 古い小砦跡。

 そこに棲みついた魔物。

 奥にいるであろうトロル。


 倒すだけでは足りない。


 壊さずに、奪い返す。


 英雄だから行くのではない。

 英雄と呼ばれたいから行くのでもない。


 必要だから行く。

 自分たちにできる仕事だから行く。

 そして、四人でなら壊さずに取り戻せると信じたから行く。


 夫婦四人の、初めての実戦任務が決まった。

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