第85話 妻になった朝(挿絵有)
朝になった。
窓の外から、薄い光が差し込んでいた。
新居の主寝室。
昨夜、灯りが落ちた部屋。
そこに、四人分の呼吸があった。
良樹は、ゆっくりと目を開けた。
しばらく、何も考えられなかった。
天井。
見慣れ始めた木目。
窓から入る朝の光。
それから、自分の腕に触れている柔らかな温度。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人がいた。
昨日までの婚約者ではない。
良樹の妻になった三人が、そこにいた。
「……」
良樹は、息を吐いた。
英雄になっても、朝は来る。
結婚しても、朝は来る。
そして朝になれば、まず確認することがある。
「リシア」
「……ん」
「カレン」
「……はい……」
「クラリス」
「起きています」
クラリスだけは、すでに目を開けていた。
ただし、顔は少し赤い。
良樹は上体を起こしかけた。
その瞬間、三人の視線が一斉に向いた。
「痛いところは」
良樹は言った。
「無理したところは」
「気分は」
「眠れたか」
「嫌だったことは」
「水は飲めるか」
「立てそうか」
少しの沈黙。
リシアが、枕元から顔を上げた。
「朝一番に点検表みたいな確認をするな!」
「必要だろ」
「必要でも聞き方ってものがあるでしょ!」
クラリスが静かに頷いた。
「必要な確認です」
「ただし聞き方は最低です」
「最低まで言うか」
「はい」
カレンは掛け布を胸元まで引き寄せながら、赤い顔で小さく笑った。
「でも……良樹さんらしいです」
「らしいで済ませていいのか、これ」
リシアはそう言いながらも、少しだけ息を整えた。
そして、良樹を見た。
「じゃあ、今度はこっち」
「何だ」
「あんたもよ」
「俺?」
「無理してない?」
「寝た?」
「魔力は?」
「腰は?」
「変なところ痛めてない?」
「昨日、途中から変な我慢してない?」
良樹は、少しだけ目を瞬かせた。
「俺も点検されるのか」
「当然です」
クラリスが即答した。
「夫婦ですので」
カレンも、赤くなりながら頷く。
「はい」
「良樹さんも、私たちの夫なので」
「……夫」
良樹の動きが止まった。
リシアが目を細める。
「あんたが固まるの?」
「いや」
「固まってるわよ」
カレンは、胸元で布を握りしめた。
「私もまだ、固まります……」
クラリスは、静かに指輪へ触れた。
「私は、噛みしめています」
その言葉は、いつもの清楚な声だった。
だが、ほんの少しだけ震えていた。
妻。
お嫁さん。
奥さん。
私は、良樹くんの。
私が、良樹くんの。
その言葉が、クラリスの内側へ落ちた。
妻になる前の夜。
自分だけが少し違うのだと思った。
リシアとも違う。
カレンとも違う。
痛みより先に、別の感覚が来てしまった自分を、クラリスは一度、うまく受け止められなかった。
けれど良樹は。
その自分を、変だとは言わなかった。
困った顔はした。
慌てた顔もした。
いつものように確認もした。
けれど、拒まなかった。
妻として。
クラリスとして。
身体ごと、受け止めてくれた。
「……っ」
そこまで思い出した瞬間、クラリスの顔が一気に熱くなった。
清楚に微笑んでいたはずの口元が、少しだけ震える。
指輪に触れた指先が、止まる。
「クラリス?」
リシアが声をかけた。
クラリスは、顔を上げられなかった。
「……つ、つま……」
そこまで言って、さらに赤くなる。
「……お嫁さん、です」
声は、小さかった。
リシアは額に手を当てた。
「朝からそれは強いわね」
カレンは真っ赤になりながら、小さく頷いた。
「でも……分かります」
良樹は、少しだけ視線を逸らした。
「……大丈夫か」
クラリスは答えなかった。
ただ、俯いたまま、小さく頷いた。
◇
朝食は、四人で取ることになった。
昨日までは婚約者として座っていた食卓。
今朝は、夫婦として座る食卓。
それだけの違いのはずだった。
だが、椅子を引くだけで、三人の動きが微妙にぎこちなかった。
「……席、どうするのよ」
リシアが言った。
「昨日までと同じでいいだろ」
良樹は当然のように答えた。
「そういうところよ」
「何が」
「何でもないわよ」
リシアはそう言いながら、良樹の斜め向かいに座った。
カレンは少し迷って、良樹の隣へ。
クラリスは、良樹の体調を見やすい位置を選んだ。
いつものようで。
少しだけ違う。
それだけで、食卓の空気が落ち着かない。
「妻なんだから」
リシアが、湯気の立つ器を良樹の前へ置きながら言った。
「あんたの支度を見るくらい、当然でしょ」
「そうか」
「助かる」
「普通に受け取るな!」
「駄目なのか」
「駄目じゃないけど!」
「こっちにも心の準備ってものがあるのよ!」
良樹はよく分からない顔をした。
カレンは、その横で小さく手を上げる。
「あ、あの」
「良樹さんの妻なので」
「ちゃんと、良樹さんの役に立ちたいです」
良樹はカレンを見た。
「役に立つために妻になったんじゃねえだろ」
「で、でも」
「良樹さんに、喜んでほしいです」
良樹は言葉に詰まった。
少しだけ、視線を落とす。
「……それは、もう喜んでる」
「え」
「妻になってくれただけで、十分だ」
カレンは、完全に止まった。
耳まで赤くなる。
リシアが、じと目で良樹を見る。
「朝から撃沈させないであげなさいよ」
「撃ったつもりはない」
「そういうところが一番危ないのよ」
クラリスは、そのやり取りを穏やかに見ていた。
そして、器の横に小さな薬草茶を置く。
「良樹くん」
「こちらも飲んでください」
「薬か」
「薬ではありません」
「身体を休めるためのものです」
「俺、そんなに悪いか」
「悪くなる前に整えるのです」
「私は良樹くんの妻ですので」
そこまでは、完全に清楚だった。
だが、言った直後にクラリスは止まった。
「……」
指先が、また指輪に触れる。
妻。
お嫁さん。
奥さん。
クラリスの顔が、じわじわと赤くなる。
リシアは小さく息を吐いた。
「クラリス、それ完全に気に入ってるでしょ」
クラリスは返事をしない。
俯いたまま、かすかに唇を動かした。
「……お嫁さん、です」
「戻ってきて」
リシアが言った。
良樹は、箸を持ったまま固まっていた。
「朝食、進まねえな」
「誰のせいだと思ってるのよ」
「俺か?」
「半分以上はあんたよ」
良樹は反論できなかった。
◇
朝食の後。
良樹は、ごく自然に作業場の方へ足を向けた。
リシアが、その襟首を掴んだ。
「どこへ行くのよ」
「確認だけだ」
「結婚式の翌朝から作業場に行こうとするんじゃないわよ」
「確認だけだ」
カレンが、少し不安そうに首を傾げる。
「確認だけ、で終わりますか?」
「……」
良樹は黙った。
クラリスが静かに頷く。
「終わりませんね」
「却下」
リシアが即答した。
「でも、昨日のうちに記録できてないことがある」
「一時間」
リシアは指を一本立てた。
「一時間だけ」
「それ以上は駄目」
「助かる」
「助かる、じゃなくて感謝しなさい」
「感謝してる」
良樹は素直に言った。
リシアは少しだけ赤くなる。
「……なら、いいわ」
カレンは、少し嬉しそうに言った。
「終わったら、一緒に買い物に行きましょう」
「生活用品も、少し足りないと思います」
クラリスも頷く。
「はい」
「夫婦としての生活用品も必要です」
「夫婦としての生活用品……」
良樹がまた固まる。
リシアが、呆れたように言った。
「今日は固まりすぎよ、あんた」
「慣れてねえんだよ」
「私たちだって慣れてないわよ」
少しの沈黙。
それから、四人は同時に少しだけ笑った。
◇
昼前。
四人は街へ出た。
目的は、式で世話になった職人たちへの礼と、新居で足りないものの買い足しだった。
しかし、買うものを整理していくうちに、自然と行き先が分かれた。
リシアは、魔道具屋と魔石屋。
家の灯り、火元、水回り、生活用魔石を見る。
カレンは、市場。
食材、保存食、掃除道具、布巾、調味料、台所用品。
クラリスは、薬草屋と治療用品の店。
包帯、薬草、身体を休める香草、寝具や枕。
「俺もついて行くか」
良樹が言った。
三人は、ほぼ同時に良樹を見た。
「いらないわ」
「だ、大丈夫です」
「待っていてください」
「そこまで一斉に言うか」
良樹が眉を寄せる。
リシアは腰に手を当てた。
「買い物くらいできるわよ」
カレンは買い物籠を抱え直す。
「はい」
「妻なので、ちゃんと買ってきます」
クラリスは清楚に微笑んだ。
「良樹くんは、待っていてください」
「妻たちの買い物ですので」
「妻たちの買い物……」
良樹が少し止まる。
「そこで固まらない」
リシアが言った。
結局、良樹はギルド前の広場近くで待つことになった。
もし何かあればすぐ呼べる距離。
その確認だけは、良樹も譲らなかった。
◇
リシアは、魔道具屋の扉を開けた。
店内には、生活用の灯り、湯沸かし用の魔石器具、小型の保温具、火元を安定させる台座などが並んでいる。
良樹なら、どこを見るか。
足元。
火元。
布との距離。
倒れた時の危なさ。
水がかかった時の逃げ道。
リシアは、それを考えながら棚を見ていた。
「いらっしゃいませ」
店主が顔を上げた。
そして、少しだけ姿勢を正す。
「リシア様」
「ご結婚、おめでとうございます」
「ありがとう」
「でも、そんなに畏まらなくていいわ」
「そういう訳にも参りません」
「英雄様の奥方ですから」
「……奥方様って、まだ慣れないのよ」
リシアは少しだけ顔を赤くした。
店主は穏やかに笑った。
「慣れていただくしかありませんな」
「商売人って、時々冒険者より手強いわね」
リシアがそう返すと、店主は少しだけ笑った。
だが、すぐに表情を改めた。
「リシア様」
「何?」
「少し、よろしいでしょうか」
リシアは棚から視線を外した。
店主は、深く頭を下げるほどではないが、真剣な顔をしていた。
「失礼な話ですが」
「私も、そう思っていた一人でした」
「……何を?」
「リシア様の魔法です」
リシアの指が、棚の縁で止まった。
店主は続ける。
「火も水も風も土も使える」
「けれど、どれも中級まで」
「便利ではあるが、決定打には欠ける」
「そう見ておりました」
リシアは、何も言わなかった。
それは、リシア自身が一番よく知っていた評価だった。
「……いいわ」
「間違ってないもの」
店主は、静かに首を振った。
「ですが、スタンピードの時です」
リシアが、わずかに顔を上げた。
「リシア様が、見たこともない魔法で」
「門に近づいてくる魔物を倒されていた」
店主の声は、ゆっくりだった。
「強大さだけが魔法ではない」
「そう言わんばかりに」
「私は、考え方を改めさせられました」
リシアは、視線を逸らした。
「あれは、私一人の魔法じゃないわ」
「良樹の考え方が入ってる」
「でしょうな」
「英雄様は、確かに新しい考え方を持ち込まれた」
店主は頷いた。
「ですが」
「それを魔法として成立させたのは、リシア様です」
リシアは、言葉に詰まった。
店主は、少し迷ってから尋ねた。
「あの魔法の名前は、どのようなもので?」
「四魔素穿弾」
「エレメンタル・ストライクよ」
リシアは言ってから、少しだけ肩をすくめた。
「良樹の方が、もっと強いのを撃てるわ」
「なんとも美しい名前ですな」
「……名前?」
「確かに、英雄様の魔法は大群を蹴散らされました」
「それは誰もが知っております」
店主は、そこで一度息を置いた。
「しかし」
「魔物に襲われた時」
「一条の光が貫いて助けられた」
「そう話す者も多い」
リシアは、動けなかった。
「かくいう私の娘も」
「その光に助けられました」
「――」
何も言えなかった。
店主は、静かに頭を下げた。
「今まで侮って、すまなかった」
「どうか、許してほしい」
「そして」
「娘を助けてくれて、ありがとう」
「ずっと言えなかった」
「申し訳ない」
リシアは、しばらく店主を見ていた。
昔の評価を知られていた。
侮られていた。
けれど、その評価を改めたと言われた。
謝られた。
礼を言われた。
自分の魔法が。
中級止まりだと思っていた自分の魔法が。
誰かの娘を、助けていた。
「別に」
「構わないわ」
店主が顔を上げた。
リシアは、少しだけ口元を上げた。
「私が許してなかったら」
「おじさんは、きっと今ごろハチの巣になってるかもね?」
店主は一瞬だけ目を丸くした。
「それはなんとも恐ろしい」
「……ちなみに、それはどのような方法で?」
「四魔素散弾」
「エレメンタル・ショットガン」
「散弾、ですか」
「ええ」
「今なら、この距離ならほとんど動かなくても撃てるわ」
店主の顔が、少しだけ引きつった。
「撃たないけどね」
「それは、大変ありがたい」
「でしょ?」
リシアは、人差し指を口元に当てた。
そして、いたずらっぽくウインクしてみせる。
「だって私は――」
「英雄の妻だから」
言ってから。
自分で少しだけ顔が熱くなった。
店主は、何もからかわなかった。
ただ、もう一度深く頭を下げた。
◇
カレンは市場にいた。
色とりどりの野菜。
干し肉。
豆。
香草。
保存のきく硬いパン。
煮込みに使えそうな骨付き肉。
カレンは、真剣だった。
良樹は、作業に入ると食事を後回しにする。
それはもう、三人とも知っている。
だから、作業の合間に食べやすいものが欲しい。
疲れている時でも喉を通るものが欲しい。
朝、すぐに出せるものも欲しい。
「これなら、良樹さんも食べやすそうです」
「これなら、作業の合間に……」
「これなら、朝すぐに……」
「あらまあ」
声をかけてきたのは、市場のおばちゃんだった。
「カレンちゃん」
「いや、もう奥方様かい」
「お、奥方……」
「いえ、カレンで……」
「何言ってんだい」
「昨日あんな綺麗な青で歩いておいて、今さらカレンちゃんだけで済むと思うのかい」
カレンの顔が一気に赤くなる。
「い、いえ、その……」
「良樹さんにちゃんと食べさせるんだよ」
「ああいう男は、放っておくと作業場で干からびるからね」
「奥さんが見てやらないと」
「は、はい」
「ちゃんと、見ます」
そう言ってから、カレンは自分の言葉に赤くなった。
奥さん。
見る。
良樹さんを。
買い物籠を抱え直す。
おばちゃんは、そんなカレンを少し眩しそうに見ていた。
「……昔は、怖くてその場にへたりこんでしまったなんて話も聞いてたよ」
カレンの動きが止まった。
「剣士なのに大丈夫かい、なんてね」
「悪いね。町の人間ってのは、勝手なことを言うもんだ」
カレンは、少しだけ目を伏せた。
「……いえ」
「本当のことです」
おばちゃんは、少しだけ眉を下げた。
「もう、怖くはなくなったのかい」
カレンは首を振った。
「まだ怖いです」
おばちゃんが、少し驚いたように目を瞬かせる。
カレンは、買い物籠を胸元に抱いた。
「でも」
「怖い場所を見ることは、逃げるためだけじゃないって」
「良樹さんが、教えてくれました」
ゆっくり、言葉にする。
「怖いから、先に見る」
「怖いから、守れる場所を探す」
「怖いから、斬る場所を間違えない」
カレンは顔を上げた。
「だから、まだ怖いです」
「でも」
「前に、出ます」
市場のおばちゃんは、しばらく黙ってカレンを見ていた。
それから、ぽつりと言う。
「でもねえ」
「オークキングを倒したとき」
「最後の一撃はカレンちゃんだったって言うじゃないか」
カレンの肩が、わずかに揺れた。
「私は正直、でまかせだと思ってたよ」
「あの怖がりな子が、本当にそんなことをって」
カレンは、何も言えなかった。
おばちゃんは、少しだけ目元を緩めた。
「でも、今の話を聞いたら」
「きっと本当のことなんだって思えるよ」
おばちゃんは、カレンの顔を見た。
「今の方が、昔よりずっといい顔してるよ」
「……」
カレンは、買い物籠を抱え直した。
指先が少し震えていた。
「……ありがとうございます」
「礼を言うところかい」
「胸を張りな」
「良樹さんの奥さんなんだろ」
カレンは、胸の奥にあるものを一度飲み込んだ。
そして、小さく頷く。
「……はい」
「良樹さんの、妻です」
言ってから、顔が一気に赤くなった。
おばちゃんが笑う。
「そこはまだ慣れないんだねえ」
「……はい」
「そこは、まだ」
カレンは照れながらも、少しだけ背筋を伸ばした。
怖いまま。
それでも、前に出る。
そう言えた自分を、ほんの少しだけ誇らしく思った。
◇
クラリスは、薬草屋にいた。
包帯。
薬草。
魔力回路の負担を和らげる香草。
肩や腰を温める布。
寝具に混ぜると身体が休まりやすい乾燥葉。
どれも、良樹の身体を見るためのものだった。
治すためだけではない。
壊れないようにするためのもの。
クラリスは、一つ一つを静かに選んでいた。
「クラリス様」
薬草屋の主人が、奥から出てきた。
「ご結婚、おめでとうございます」
「奥方様になられたのですね」
「ありがとうございます」
クラリスは、いつもの清楚な微笑みで頭を下げた。
薬草屋は、少し言いにくそうに口を開いた。
「昔のクラリス様は」
「なんというか、恐ろしいお方だと」
「恐ろしい、ですか」
「はい」
薬草屋は頷いた。
「表情一つ変えず」
「いつもの笑顔で」
「治せば済みます、と」
クラリスは黙った。
「怪我をしても治せる」
「骨がずれても戻せる」
「痛めても、治療すればまた動ける」
「そういうことを、当たり前のように言われる」
薬草屋は、静かに言った。
「それが、我々には怖かった」
「……そう、見えていたのですね」
「腕は確かでした」
「それは誰も疑っておりません」
「ですが、壊れたことそのものを、少し軽く見ておられるようにも見えました」
クラリスは、指先を止めた。
良樹の言葉を思い出す。
治したから大丈夫じゃない。
壊れた事実は消えない。
「良樹くんに、叱られました」
クラリスは、小さく言った。
「治せば済む、ではないと」
「壊れた事実は、消えないと」
薬草屋は、静かに頷いた。
「良い旦那様ですね」
「はい」
そこまでは、清楚だった。
薬草屋は、少しだけ表情を緩める。
「しかし」
「最近のクラリス様は、なんというかその」
「可愛いと、街の者の専らの評判でして」
「……可愛い、ですか」
「はい」
「良樹様の隣にいる時のクラリス様は」
「以前より、ずっと柔らかく笑われる」
「治せば済む、ではなく」
「傷つかないように見ている」
「それに」
薬草屋は、少しだけ言葉を選んだ。
「奥方様になられてからは」
「なおさら、可愛らしい」
「……っ」
妻。
お嫁さん。
奥さん。
私は、良樹くんの。
私が、良樹くんの。
クラリスは俯いた。
頬が一気に熱くなる。
指先が、そっと指輪に触れる。
「……つ、つま」
「……お嫁さん、です」
薬草屋は、その顔を見て、静かに微笑んだ。
「そういうお顔が」
「可愛いと、専らの評判なのですよ」
「……っ」
クラリスは、もう何も言えなかった。
ただ、俯いたまま、指輪に触れていた。
◇
三人が待ち合わせ場所に戻った時、良樹はギルド前広場の端で立っていた。
逃げずに待っていた。
ただし、足元には何かの線が描かれていた。
リシアが目を細める。
「あんた、何してたの」
「待ってた」
「足元のそれは?」
「待ってる間に、広場の人の流れを見てた」
「それを待ってたとは言わないのよ」
良樹は少しだけ視線を逸らした。
カレンが小さく笑う。
「良樹さんらしいです」
クラリスはまだ少し顔が赤かった。
良樹は三人の荷物を見る。
リシアは、生活魔導具と灯りを。
カレンは、食材と日用品を。
クラリスは、薬草と寝具に関わるものを抱えている。
「三人とも、大丈夫だったか」
「買い物くらい大丈夫よ」
リシアは言った。
少しだけ顔が赤いが、どこか誇らしそうだった。
「はい」
「少し、買いすぎましたけど……」
カレンは、袋を抱え直す。
目元に少しだけ熱が残っていたが、視線は前を向いていた。
「必要なものです」
クラリスは静かに言った。
顔はまだ赤い。
指輪を時々触っている。
「何買ったんだ」
良樹が聞く。
「良樹くんの身体を見るためのものです」
「妻ですので」
クラリスは言った。
そして、止まった。
「……」
リシアがため息を吐く。
「また自分で言って沈んだわね」
「クラリス……」
カレンが心配そうに覗き込む。
良樹も、少し困った顔をした。
「……その、大丈夫か?」
クラリスは、俯いたまま小さく言った。
「……お嫁さん、です」
「答えになってねえ」
「たぶん今はそれしか出ないのよ」
リシアが言う。
カレンは真っ赤な顔で頷いた。
「分かります……」
良樹は、三人の荷物をもう一度見た。
リシアは、家の灯りと魔導具を選んでいた。
かつて器用貧乏だと思われていた魔法使いは、今、四人の家を守る魔法を選んでいた。
カレンは、食材と日用品を選んでいた。
かつて怖くて前に出られなかった剣士は、今、夫の明日の食事まで見ていた。
クラリスは、薬草と寝具を選んでいた。
かつて壊して治せば済むと思っていた僧侶は、今、壊れないための品を選んでいた。
三人とも、変わっていた。
だが、それは良樹に作り替えられたからではない。
良樹に見つけられた。
良樹に必要だと言われた。
良樹に止められた。
良樹に隣へ置かれた。
そして三人は、自分でそこへ立った。
街の人たちは、それを見ていた。
「……ありがとな」
三人が、良樹を見る。
「俺の家じゃなくて」
「俺たちの家のこと、考えてくれて」
リシアは、一瞬だけ言葉に詰まった。
それから、顔を少し赤くして言う。
「当たり前でしょ」
「妻なんだから」
言った直後、自分で少しだけ目を逸らした。
カレンは、袋を抱えたまま頷く。
「はい」
「妻、なので」
クラリスは、指輪に触れたまま小さく言った。
「……お嫁さん、です」
「クラリス、戻ってきて」
リシアが言った。
良樹は、少しだけ笑った。
◇
新居へ戻る頃には、昼の光が少し傾き始めていた。
買ってきたものをそれぞれ片付ける。
灯りの位置。
保存食の置き場所。
薬草と包帯の棚。
良樹が勝手に持ち出さないようにするもの。
良樹がすぐ使えるようにしておくもの。
生活の形が、少しずつ家の中に置かれていく。
その途中で、良樹の足が自然と作業場へ向いた。
リシアが気づいた。
「今日はまだ行かない」
「確認だけだ」
良樹は言った。
カレンが、静かに問いかける。
「確認だけ、で終わりますか?」
「……」
良樹は黙った。
クラリスが頷く。
「終わりませんね」
「却下」
リシアが言った。
良樹は、作業場の扉を見た。
扉の向こうには、工具がある。
試験台がある。
記録すべきこともある。
気になる箇所もある。
だが。
その手前に、三人がいた。
「分かった」
「今日は止まる」
三人が、少し驚いた。
良樹は少し笑った。
「……ありがとうな」
リシアが目を瞬かせる。
「……何よ、急に」
「いや」
「色々だ」
カレンが、小さく聞く。
「色々、ですか」
「ああ」
良樹は、三人を見た。
「結婚してくれたことも」
「ここまで待ってくれたことも」
「俺を、止めてくれることも」
リシアは、言い返そうとして。
言い返せなかった。
カレンは、指輪を押さえるように胸元へ手を当てた。
クラリスは、柔らかく目を細める。
「待った甲斐は、ありました」
「そうか」
「はい」
「妻になれましたので」
少し間が空いた。
クラリスは、また指輪に触れた。
「……」
そして、静かに俯いて赤くなる。
リシアが苦笑した。
「最後まで保たなかったわね」
カレンは、赤い顔で小さく言った。
「でも……分かります」
良樹は、作業場の扉へ伸びかけた手を下ろした。
「今日は、こっちだな」
そう言って、三人を見る。
リシアは、少しだけ胸を張った。
「当たり前でしょ」
カレンは、嬉しそうに頷く。
「はい」
クラリスも、俯いたまま小さく頷いた。
「……はい」
良樹は息を吐いた。
「ああ」
「夫婦だな」
◇
英雄になっても、良樹は良樹のままだった。
朝になれば体調を確認し。
危ないところを見て。
必要なら、作業場へ行こうとする。
けれど、その朝から。
良樹の家には、三人の妻がいた。
作業場の扉へ伸びかけた手を、三人の妻が止める。
良樹は、その手を振り払わなかった。
夫婦の日常は、そこから始まった。




