第84話 妻になる日(挿絵有)
ガレスからの呼び出しは、その日の朝のあと、昼を少し過ぎた頃だった。
新居の食堂で、妙に冷めた朝食を温め直し、四人で食べ直し、それから最低限の片付けを終えた頃である。
良樹、リシア、カレン、クラリスはギルドへ向かった。
呼び出しの理由は、何となく分かっていた。
結婚式。
正式な婚姻。
町とギルドに見届けられる、公の誓い。
昨日までなら、良樹はそこに少しだけ逃げ道を探していたかもしれない。
まだ式は。
まだ手続きは。
まだ準備は。
だが、もうその逃げ道は使えなかった。
三人は妻になる前の夜を越えた。
良樹も、三人を婚約者のままでは置けなくなった。
だから、次に必要なのは形だった。
ギルドの奥の部屋へ入ると、ガレスはすでに書類を広げていた。
いつもの雑な座り方。
いつもの面倒くさそうな顔。
けれど、机の上には明らかに普段より多い紙が並んでいる。
藤田もいた。
好々爺の顔で椅子に腰掛け、茶を飲んでいる。
ニルもいた。
良樹は、その顔を見て眉を寄せた。
「……何でニルもいる」
「兄貴の結婚式準備っすから!」
「兄貴じゃねえ」
「もう諦めてください」
「諦める要素がねえだろ」
ガレスが鼻で笑った。
「諦めろ」
「そいつはもうそういう目でお前を見てる」
「どういう目だよ」
「兄貴っす!」
「説明になってねえ」
リシアが小さく笑い、カレンも口元を押さえる。
クラリスは静かに微笑んでいた。
ガレスは、そこで書類を一枚持ち上げた。
「式は二日後だ」
「……二日後?」
良樹が聞き返す。
リシアも、カレンも、クラリスも目を丸くした。
「二日後って、早くない?」
リシアが言う。
ガレスは即答した。
「早くねえ」
「突貫だが、遅いくらいだ」
「遅い?」
「お前は正式に英雄認定された」
「三人は、お前の婚約者として町中に知られてる」
「新居にも入った」
「なら、あとは形にするだけだ」
良樹は少し黙った。
ガレスは、四人を順に見た。
覚悟はあるか。
本当にいいのか。
三人でいいのか。
そんなことは聞かなかった。
聞く必要がないと、顔が言っていた。
「お前らの気持ちを今さら俺が確認する必要はねえ」
「そんなもんは、ここまでで散々見てる」
リシアは少しだけ頬を赤くした。
カレンは胸元で両手を握った。
クラリスは静かに目を伏せる。
良樹も、何も言い返さなかった。
ガレスは続ける。
「俺がやるのは、町とギルドに見える形へ落とすことだ」
「三人の立場を曖昧にしない」
「余計な噂や横槍を入れない」
「英雄の妻として、正式に守れる形にする」
良樹は頷いた。
「……なるほどな」
「式は、お前らのためだけじゃねえ」
「町に示すためでもある」
「この三人は、上村良樹の妻だ」
「軽く扱うな」
「手を出すな」
「勝手な期待を持つな」
「そういう札を、町全体に立てる」
藤田が茶を置き、頷いた。
「銘板じゃな」
良樹が顔をしかめる。
「また銘板かよ」
「分かりやすかろう」
「誰のものか」
「誰が責任を持つか」
「どう扱うべきものか」
「外から見える表示は、時に中身を守る」
ガレスが肩をすくめる。
「爺さんの言い方はともかく、そういうことだ」
良樹は、三人を見る。
リシアは目を逸らさない。
カレンは緊張しているが、俯いていない。
クラリスは静かに微笑んでいる。
良樹は短く言った。
「分かった」
「やる」
ガレスは頷く。
「決定だ」
「準備はこっちで進める」
「お前らは衣装と、誓いの言葉を考えろ」
「誓いの言葉?」
「当然だろ」
「三人を妻にするんだ」
「人前で何を誓うかくらい、自分の言葉で言え」
良樹は、少しだけ嫌そうな顔をした。
「……そこは俺が考えるのか」
「当たり前だ」
「そこまでギルドが用意したら、ただの依頼文だ」
藤田が笑う。
「自分で書け、良樹」
「図面と同じじゃ」
「誰かの雛形を写すだけでは、責任の所在が薄くなる」
「結婚の誓いを図面に例えるな」
「だが、分かるじゃろ」
「分かるのが嫌なんだよ」
ガレスは、次の書類を取った。
「で、準備の話だが」
「ああ」
「良樹は……まあ、そんなに用意はいらんな」
「工具ならともかく、服装にどうこう言う奴じゃねえだろ」
「その通りだが、言い方」
良樹が眉を寄せる。
ガレスは軽く笑った。
「そろそろ付き合いも長くなってきてるしな」
「笑いながら言うな」
「事実だろ」
「否定できないのが腹立つな」
ガレスは今度は三人を見る。
「でも、嬢ちゃんたちはそうはいかねえだろ」
リシア、カレン、クラリスが、ほぼ同時に首を縦に振った。
ぶんぶんと。
かなり勢いよく。
良樹はその反応を見て、少しだけ固まった。
「……そんなにか」
リシアが即答する。
「そんなによ」
カレンも真っ赤になりながら頷いた。
「一生に一度、ですから……」
クラリスも静かに言う。
「妻として、良樹くんの隣に立つ日ですので」
良樹は黙った。
それを言われると、何も返せなかった。
ガレスは、そんな四人を見て鼻を鳴らす。
「とはいえだ」
「お前らの英雄の成り立ちと、ギルドの面子もある」
「悪いが、準備に使える時間は二日だけだ」
「二日……」
カレンが小さく呟く。
「段取りはこっちで整えた」
「お前らは、行って選ぶだけでいいようにしてる」
良樹が眉を上げた。
「早いな」
「お前が英雄認定される前から、ある程度は読んで動いてた」
「読んでたのか」
「読めるだろ」
「お前らの顔を見てりゃな」
ガレスは、三人へ書類を差し出した。
「嬢ちゃんたちは、指定の場所へ行け」
「時間は少ねえが、半端な支度にはさせねえ」
「この町の英雄の妻になるんだ」
「そこは、ギルドの面子にも関わる」
リシアは、書類を受け取る手を少しだけ止めた。
「……そこまで」
「する」
ガレスは短く言った。
「お前らが良樹の隣に立つってことは」
「もう、お前らだけの話じゃねえ」
「ギルドも町も、その姿を見る」
「なら、ちゃんと立たせる」
「それがこっちの仕事だ」
カレンの目元が、少し潤む。
クラリスは、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
ガレスは照れたように顔を逸らした。
「礼は式が終わってから言え」
「まだ始まってもいねえ」
良樹は、渡された書類を見る。
「俺は?」
ガレスは即答した。
「お前は逃げずに当日立て」
「雑だな」
「お前に一番必要な準備だろ」
リシアが小さく笑った。
「否定できないわね」
カレンも控えめに頷く。
「はい……」
クラリスも微笑む。
「最重要項目です」
良樹は三人を見た。
「お前らまで」
ガレスは、にやりと笑った。
「ほらな」
「段取りはもう始まってる」
◇
指定された仕立て場へ着いた時、三人は言葉を失った。
そこは、ただの服飾店ではなかった。
店の奥の広い作業場。
あるいは、式準備のために貸し切られた仕立て会場。
衝立が三つ。
大きな鏡が三つ。
採寸台が三つ。
布地の山が三方向。
靴、装飾品、髪飾り、化粧道具。
下着や内側を整える布まで、分けて用意されている。
人も多い。
服飾。
髪結い。
靴。
装飾。
刺繍。
化粧。
布地。
内側の整え。
それぞれの分野の職人たちが、すでに待っていた。
しかも、一人ずつではない。
各分野に、三人ずついた。
リシアが、ぽつりと言う。
「……何これ」
カレンは、半歩後ずさった。
「お、お店……ですよね?」
クラリスは周囲を見て、静かに答えた。
「いえ」
「これは、作業場ですね」
その時、奥から一人の女性が出てきた。
三日前の夜、三人を迎えた下着屋の主人だった。
彼女は、三人の前で丁寧に頭を下げる。
「お待ちしておりました、奥方様方」
リシアは眉を上げた。
「……あんた」
「はい」
「先日は夜のお支度を」
「本日は、昼の晴れ姿のお支度を承ります」
カレンが、緊張した声で聞く。
「あ、あの」
「これは、いったい……」
下着屋の主人は、さらりと言った。
「ガレスさんからの指示です」
三人は黙った。
その一言で、だいたい察した。
ガレスが言っていた「段取りは整えた」とは、こういう意味だったのだ。
主人は続ける。
「時間は二日」
「奥方様方は三人」
「英雄婚」
「普通に順番を待っていては、間に合いません」
主人が軽く手を上げる。
奥の職人たちが、それぞれの持ち場を示すように動いた。
「三組に分かれて、同時に進めます」
リシアが額に手を当てた。
「……あの男、本当に段取りだけは抜け目ないわね」
クラリスは少しだけ感心したように頷く。
「並列作業ですね」
カレンが首を傾げる。
「へ、並列……?」
リシアが横を見る。
「良樹が聞いたら納得しそうな言い方やめて」
主人は微笑んだ。
「ガレスさんも、似たようなことを仰っていました」
「一列では詰む、と」
「完全に良樹寄りの説明じゃない」
三人は、それぞれの区画へ案内された。
完全に別室ではない。
衝立で仕切られただけの、三つの作業空間。
声は届く。
職人たちは行き来できる。
情報も飛ぶ。
リシア組。
カレン組。
クラリス組。
三つの仕立て戦線が、同時に動き始めた。
最初はまだ、丁寧だった。
「リシア様、こちらへ」
「カレン様、少し顔を上げてください」
「クラリス様、袖を確認いたします」
様。
奥方様。
三人は、そのたびに少しだけ肩へ力が入った。
分かっている。
二日後にはそうなる。
町の前に立つ以上、それに相応しい扱いを受けなければならない。
けれど、慣れない。
リシアはむず痒そうに眉を寄せる。
カレンは呼ばれるたびに恐縮する。
クラリスも微笑みながら、少しだけ背筋が固くなっていた。
リシアが、とうとう言った。
「……その、様ってやつ」
「ちょっとむず痒いんだけど」
カレンも小さく頷く。
「は、はい……」
「私なんかが、様を付けられると、その……」
クラリスも静かに言う。
「私も、少しだけ背筋が固くなります」
下着屋の主人は穏やかに頷いた。
「お気持ちは分かります」
リシアが少し期待した顔をする。
「なら」
「ですが、そういう訳には参りません」
「駄目なの?」
「はい」
「本日は英雄婚のお支度です」
「リシア様、カレン様、クラリス様は、英雄様の奥方として町の前に立たれる方々」
「私どもが礼を欠く訳には参りません」
カレンがまた固まる。
「お、奥方……」
クラリスは苦笑気味に言った。
「正式には、まだ妻ではありませんが」
「二日後にはそうなられます」
「準備においては、すでに奥方様方として扱わせていただきます」
リシアは小さく息を吐いた。
「真面目ね……」
「仕事ですので」
そう言われると、三人はそれ以上何も言えなかった。
だが、仕立てが始まると、場の空気はすぐに変わった。
「リシア様なら赤――」
「――でもそれだと強すぎる。昼だよ、昼」
「深く落とす」
「落としすぎると負ける」
「何に」
「本人に」
別の衝立の向こうからも声がする。
「カレン様は青で――」
「水色じゃ幼い」
「でも濃すぎると怯える」
「澄ませる」
「妻の青にする」
「背伸びは残せ。無理はさせるな」
さらに別方向。
「クラリス様は白――」
「白は決まり」
「だから難しいんだよ」
「清楚だけじゃ足りない」
「袖の線を締める」
「柔らかく、でも芯を残す」
「守られる白じゃない」
三人は、それぞれ別の場所で採寸され、布を当てられ、髪を見られ、靴を合わせられていた。
職人たちの動きは速い。
速いが、雑ではない。
布を当てる。
外す。
別の布が来る。
髪を上げる。
下ろす。
また上げる。
靴を履かせる。
歩かせる。
止める。
戻す。
リシアは、鏡の前で腕を組みかけて止められた。
「腕は組まないでください」
「胸元の線が潰れます」
「……はい」
カレンは、背筋を伸ばすように言われて固まった。
「顔を上げてください」
「もっと」
「そうです。その角度です」
「は、はい……」
クラリスは、歩き方を三度直された。
「綺麗です」
「でも静かすぎます」
「もう少し、前へ出る白です」
「前へ出る白……」
三人は圧倒されていた。
これは買い物ではない。
完全に、現場だった。
そして、その現場は忙しかった。
誰が見ても分かるほど、忙しかった。
カレンが、とうとう小さく言った。
「あ、あの……」
周囲の手が、少しだけ止まる。
カレンは胸元で両手を握り、申し訳なさそうに続けた。
「本当に、ここまでしていただいていいのでしょうか」
「皆さん、徹夜に……なってしまうのでは……」
リシアも、さすがに眉を寄せる。
「そうよ」
「二日しかないのは分かるけど」
「さすがに無理しすぎじゃない?」
クラリスも静かに頷いた。
「皆様のお身体も心配です」
「私たちのために、そこまでご無理をなさるのは――」
そこで。
会場の空気が、凍った。
針が止まった。
布が止まった。
髪紐を持つ手が止まった。
靴を合わせていた職人が顔を上げた。
化粧筆を持っていた女性が、すっと目を細めた。
三つの仕立て区画から、職人たちの視線が一斉に三人へ向いた。
全員、顔が同じだった。
あぁん?
声には出していない。
だが、顔が完全にそう言っていた。
リシアの頬が引きつる。
「……え」
「何、その顔」
カレンは小さく肩を震わせた。
「わ、私たち、何か変なことを……?」
クラリスは、さすがに少しだけ瞬きをした。
「……どうやら」
「踏んではいけない線を踏んだようです」
下着屋の主人が、ゆっくりと針を置いた。
「奥方様方」
その声は静かだった。
静かだったが、圧があった。
「今、何と?」
リシアは、少しだけ身を引いた。
「いや、だから」
「徹夜になるなら、さすがに悪いって――」
「悪い?」
服飾職人の一人が、低く繰り返した。
「悪い、と?」
髪結いが笑った。
笑ったが、目は笑っていなかった。
「奥方様方」
「今、私たちに遠慮しましたね?」
カレンがびくっとした。
「そ、それは……はい」
靴職人が、手にしていた靴型をそっと置く。
「なるほど」
「遠慮」
装飾職人が、飾り紐を指先で回した。
「これはいけないね」
刺繍職人が、糸を引いたまま言う。
「大変いけない」
化粧担当が頷いた。
「非常にいけません」
リシアは、完全に困惑していた。
「何で怒られてるのよ、私たち」
下着屋の主人が、一歩前へ出た。
「怒っているのではありません」
「怒ってる顔よ」
「燃えているのです」
「もっと怖いわよ」
主人は、すう、と息を吸った。
そして、一気に空気が変わった。
「よろしいですか、奥方様方」
「これは施しではありません」
「慈善でもありません」
「もちろん、英雄様の奥方様方に恥をかかせたくないという気持ちはあります」
「町の面子もあります」
「ギルドの面子もあります」
「私たち服飾関係者の誇りもあります」
そこで、服飾職人が割って入る。
「でもね」
髪結いが続く。
「それだけじゃないんですよ」
靴職人が言う。
「商売です」
装飾職人が身を乗り出す。
「宣伝です」
刺繍職人の目が光る。
「広告塔です」
カレンが瞬く。
「こ、広告塔……」
下着屋の主人は頷く。
「はい」
「英雄婚です」
「町中が見ます」
「他の街から来た商人も、冒険者も、職人も見るでしょう」
服飾職人が言う。
「あの赤はどこの店だ」
髪結いが言う。
「あの青の髪結いは誰がやった」
靴職人が言う。
「あの白に合わせた靴は誰の仕事だ」
装飾職人が言う。
「あの飾りは」
「あの刺繍は」
「あの布は」
刺繍職人が続ける。
「あの三人を仕立てたのは、どこの誰だ」
化粧担当が言う。
「そう聞かせるんです」
三人は黙った。
主人は、さらに一歩踏み込んだ。
「そして何より」
その目が、完全に職人の目になった。
「こんな素材」
「この先の人生で、もう一度来ると思いますか?」
リシアが呟く。
「素材って……」
服飾職人が言う。
「強くて、艶があって、赤に負けない奥方様」
「ちょっと」
髪結いが続ける。
「澄んだ青が似合って、可憐で、でも妻として背筋を伸ばせる奥方様」
「わ、私……」
装飾職人が言う。
「白が似合いすぎるのに、ただ清楚で終わらない奥方様」
クラリスは黙った。
靴職人が畳みかける。
「立ち方も違う」
「歩き方も違う」
「見せ方も違う」
刺繍職人が糸を巻き取る。
「色も違う」
「線も違う」
「隠すべきところも、出すべきところも違う」
化粧担当が笑う。
「それを三人同時に」
「同じ英雄婚で」
「互いに潰さず」
「互いを引き立てて」
「町中の前に立たせる」
下着屋の主人の声が、少し上ずった。
「こんな仕事、二度とありません」
服飾職人が言う。
「徹夜?」
髪結いが言う。
「上等です」
靴職人が言う。
「眠気?」
装飾職人が言う。
「後で寝ます」
刺繍職人が言う。
「今寝たら、一生後悔します」
化粧担当が頷いた。
「この戦場を逃した服飾屋なんて、看板を下ろした方がいい」
下着屋の主人は、三人を正面から見た。
「ですから」
その声は、もう落ち着いた説明ではなかった。
熱がある。
圧がある。
妙な艶すらある。
「遠慮で」
「私たちの戦場を」
「狭めないでいただきたい」
リシアは、完全に黙った。
カレンは、ぽかんとしている。
クラリスは、小さく息を吐いた。
「……なるほど」
「これは、本当に戦場なのですね」
「はい」
主人は即答した。
「布と」
「針と」
「色と」
「髪と」
「靴と」
「飾りと」
「女の立ち姿で勝つ戦場です」
服飾職人が言う。
「リシア様を、良樹様が息を呑む赤にする」
髪結いが言う。
「カレン様を、町の娘たちが真似したくなる青にする」
装飾職人が言う。
「クラリス様を、ただ綺麗では終わらない白にする」
靴職人が言う。
「三人が並んで歩いた時に、足元まで勝たせる」
刺繍職人が言う。
「近くで見た者が、仕立てに気づいて震えるようにする」
化粧担当が言う。
「遠くから見た者にも、顔を上げた瞬間の美しさを焼きつける」
下着屋の主人が言う。
「そして式の後」
「あの服はどこで」
「あの髪は誰が」
「あの飾りは」
「あの靴は」
「あの三人は、本当に美しかったと」
職人たちの声が重なる。
「言わせる」
カレンが、小さく震えた。
怖さではない。
圧倒されたのだ。
リシアは、しばらく主人たちを見ていた。
それから、ふっと笑った。
「……分かったわ」
「遠慮したのが間違いだったみたいね」
主人の目が、さらに輝いた。
「ご理解いただけましたか」
「ええ」
「これは、私たちだけの式じゃない」
「あんたたちの仕事でもあるのね」
服飾職人が頷く。
「その通りです」
カレンは胸元で両手を握った。
「私たちがちゃんと綺麗に立つことが」
「皆さんのお仕事にもなるんですね」
髪結いが笑う。
「はい」
「だから俯かないでください」
靴職人が言う。
「足元も見せてください」
装飾職人が言う。
「背筋を伸ばして」
刺繍職人が言う。
「布を殺さないで」
化粧担当が言う。
「顔を上げて」
下着屋の主人が言った。
「そして、堂々と英雄様の隣へ」
クラリスは、静かに頷いた。
「対等な取引、ということですね」
「はい」
「私たちは奥方様方を仕立てる」
「奥方様方は、私たちの仕事を町に見せる」
「それで互いに得をする」
リシアが笑う。
「本当に商売人ね」
「はい」
「そして職人です」
カレンが呟く。
「どちらも、なんですね」
「どちらもです」
クラリスが微笑んだ。
「とても信用できます」
主人は、満足そうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
その瞬間、空気が再び動き出した。
針が走る。
布が翻る。
髪が上げられる。
靴が運ばれる。
飾りが並べられる。
化粧筆が選ばれる。
そして声が飛ぶ。
「リシア様側、赤の三番!」
「二番じゃ弱い!」
「いや三番は強すぎる!」
「良樹様に見られた時に照れる余白を残せ!」
「カレン様、顔を上げて!」
「その角度!」
「青、澄ませろ!」
「可愛いを殺すな! 妻を足せ!」
「クラリス様、白は決定!」
「だからこそ締めろ!」
「清楚に逃げるな!」
「芯を出せ!」
リシアは、呆然とその光景を見ていた。
「……この人たち」
「普段は、こんなじゃないわよね?」
カレンが、小さく頷いた。
「は、はい……」
「前にお店の前を通った時は、もっと落ち着いていました」
クラリスも、静かに周囲を見る。
「普段は、きちんとした服飾店の方々でした」
「少なくとも、ここまで戦場のようではありませんでした」
「じゃあ、何なのよこれ」
リシアがそう言った瞬間、向こう側から声が飛ぶ。
「三人並びを見るよ!」
「まだ仮だけど、線を合わせる!」
「リシア様の赤が強い!」
「カレン様の青を潰すな!」
「クラリス様の白を浮かせるな!」
「英雄婚に勝つよ!」
リシアは、ゆっくりと額に手を当てた。
「……英雄婚に勝つって何よ」
カレンは、困ったように笑った。
「でも、良樹さんも時々、似たようなことを言いますよね」
「言うわね」
リシアは即答した。
「“現場に勝つ”とか」
「“条件に勝つ”とか」
「“昨日の失敗を潰す”とか」
「意味は分かるのに、言い方が妙に物騒なのよ」
クラリスは、少しだけ目を細めた。
「ノーラも、そうでしたね」
三人の脳裏に、若い女職人の姿が浮かぶ。
壊れ方を見る女。
材料と形と使う者の癖を見て、良樹に当然のように言った女。
自分の仕事を、軽く扱わせない目をした女。
カレンが小さく続ける。
「ケーンも……」
「棚の留め方ひとつで、後で直すより今やった方が安いって」
「ええ」
クラリスが頷く。
「刃物鍛冶の方もそうでした」
「良樹くんが食いついた時、職人として当然のように返していました」
リシアは、深く息を吐いた。
思い返せば、そうだった。
ノーラ。
ケーン。
刃物鍛冶。
そして今、目の前の服飾職人たち。
普段は普通に商売をしている。
普通に客を迎え、普通に値段を決め、普通に仕事をする。
けれど。
自分の領域に、一生ものの案件が来た時。
自分の腕を出し切るべき場が来た時。
この街の職人たちは、目が変わる。
リシアは、職人たちの方を見た。
「……この街の職人って、皆こうなの?」
カレンが、少し考えてから言った。
「たぶん……」
「普段は違うんだと思います」
クラリスが静かに続ける。
「ですが、自分の仕事の核心に触れると」
「こうなるのかもしれません」
その時、服飾職人の一人が叫んだ。
「違う!」
「その飾りじゃクラリス様の白が“綺麗”で終わる!」
「“隣に立つ白”にするんだよ!」
別の職人が即答する。
「なら銀を落として、刺繍で芯を入れる!」
「それ!」
リシアは、もう一度ため息をついた。
この目を知っている。
魔導盤を覗き込む良樹。
工具を手にした良樹。
自分の知らない技術を前に、悔しそうに、楽しそうに目を輝かせる良樹。
あの目だ。
カレンが、ぽつりと言った。
「……良樹さんが、この街に馴染むはずですね」
リシアは、否定できなかった。
「本当ね」
「道理で居心地が良さそうなわけだわ」
クラリスは、穏やかに微笑む。
「良樹くんは、異世界に来たのではなく」
「職人の町に落ちたのかもしれませんね」
「上手いこと言ったつもり?」
「少しだけ」
リシアは小さく笑った。
仕立てが進むにつれ、呼び方も自然に変わっていった。
最初は、リシア様、カレン様、クラリス様だった。
けれど、夜が深くなり、布と針と髪と靴が走り始めると。
「違う、リシアちゃんには二番じゃ弱い!」
「カレンちゃん、顔上げて! そう、その角度!」
「クラリスちゃん、そこで半歩引かない! 白が逃げる!」
様が、ちゃんに変わった。
誰も止まらなかった。
そして不思議なことに、その方が三人の肩から力が抜けた。
リシアは鏡の前で息を吐く。
「……その方が、まだ楽ね」
カレンも、小さく頷いた。
「はい」
「奥方様って呼ばれるより……少し、落ち着きます」
クラリスは袖を見られながら、柔らかく微笑んだ。
「私たち自身を見てくださっている感じがします」
その言葉に、下着屋の主人がほんの少しだけ目を細めた。
「では、そのまま参りましょう」
もう、誰も様に戻さなかった。
「リシアちゃん、赤の三番」
「強い。でも良い」
「良樹様に見られた時に照れる余白を残して」
「カレンちゃん、青をもう一段澄ませるよ」
「可愛いは残す」
「でも今日は妻」
「クラリスちゃん、白に芯を」
「綺麗だけで終わらせない」
「あなたは良樹様の隣に立つ方だから」
呼び方が変わっただけで、三人は少し呼吸がしやすくなった。
英雄の奥方として仕立てられている。
それは変わらない。
だが、今この場で見られているのは、奥方様という肩書きだけではなかった。
リシアの赤。
カレンの青。
クラリスの白。
三人それぞれの色と、顔と、立ち方だった。
リシアは、飛び交う職人たちの声を聞きながら、ふと笑った。
「……結局、こっちの方がやりやすいじゃない」
カレンも少しだけ笑う。
「はい」
クラリスも頷いた。
「はい。とても」
その間にも、職人たちは止まらない。
「三人並びを見るよ!」
「リシアちゃん、半歩左!」
「カレンちゃん、顔を伏せない!」
「クラリスちゃん、静かに逃げない!」
「赤が強い!」
「青を潰すな!」
「白を浮かせるな!」
「三人で英雄婚に勝つよ!」
三人は顔を見合わせた。
ここにいるのは、全員、女版良樹だ。
そして、良樹がこの街に馴染む理由が、少しだけ分かった気がした。
◇
一方、その頃。
良樹はギルドの一室で、紙を睨んでいた。
向かいにはガレス。
横にはニル。
机の上には、良樹が何度か書き直した紙がある。
英雄として。
妻として。
共に歩む。
責任。
誓い。
どれも間違いではない。
だが、どこか依頼書じみていた。
良樹は頭をかいた。
「……駄目だな」
「言葉にすると、どうにも硬い」
ガレスが呆れたように言う。
「お前が下手に整えようとするからだ」
「整えないと式にならねえだろ」
「整えすぎると、お前じゃなくなる」
良樹は黙った。
ニルは横からその紙を覗き込んでいた。
「兄貴、難しい顔してるっすね」
「兄貴じゃねえ」
「あと、難しいんだよ」
「誓いの言葉っすもんね」
「ああ」
「三人の前で言う」
「町の前で言う」
「ギルドの前で言う」
「下手なことは言えねえ」
ニルは少し首を傾げた。
そして、何気なく聞いた。
「兄貴」
「何だ」
「英雄って、どんな気分なんすか?」
良樹は、動きを止めた。
ガレスも、少しだけ眉を上げる。
「英雄?」
「はい」
「正式に英雄になったじゃないっすか」
「グランドマスターにも認められて」
「町にも認められて」
「三人も奥さんになる」
「で、英雄ってどんな気分なんすか?」
良樹は、しばらく黙った。
それから、少しだけ考えて、鼻で笑った。
「どうもこうもねえよ」
「今までと同じだ」
「同じなんすか?」
「ああ」
「朝起きて、飯を食って、必要な仕事をして」
「危ないところを見て、直せるところを直して」
「失敗したら、次は同じ失敗をしないように考える」
「英雄になったからって、俺の中身が急に変わるわけじゃねえ」
ガレスは黙って聞いている。
良樹は、少しだけ視線を落とした。
「……三人を嫁にできた以外はな」
ニルが、あっさり言った。
「ふーん」
「何だよ」
「じゃあ、それをそのまま言えばいいんじゃないっすか?」
良樹が固まった。
ガレスも固まった。
二人が揃ってニルを見る。
ニルは、きょとんとしていた。
「いや、だから」
「英雄になっても、良樹さんは良樹さんで」
「でも、三人を嫁にできたことだけは特別なんすよね」
「……まあ」
「なら、それが一番大事なんじゃないっすか?」
「英雄として何か立派なことを言うより」
「良樹さんが、三人を嫁にできて嬉しい」
「その三人と、今まで通りに、でも今までよりちゃんと一緒に歩きたい」
「それを言えばいいんじゃないっすか?」
良樹は、完全に黙った。
ガレスも、少しだけ口を開いたまま止まっていた。
「違うんすか?」
良樹は小さく息を吐いた。
「……いや」
ガレスが、低く言う。
「違わねえな」
「違わねえのが、腹立つな」
「えっ、何で腹立つんすか」
良樹は、机の上の紙を見た。
英雄として。
責任。
町。
誓い。
守る。
共に歩む。
それらは必要だ。
だが、中心ではない。
中心にあるのは、もっと単純だった。
英雄になったから妻にするのではない。
英雄になる前から、三人を好きだった。
三人とここまで来た。
三人を嫁にしたかった。
英雄になっても、自分は自分のままだ。
ただ、その自分の隣に、三人を妻として迎えられる。
それが嬉しい。
良樹は、ゆっくり息を吐いた。
「……お前」
「はい」
「また刺してきたな」
「えっ」
「またっすか?」
ガレスが、少し遅れて笑った。
「ニル」
「お前、今のはかなり深く刺さったぞ」
「そうなんすか?」
「自分、普通に聞いただけなんすけど」
「だから怖えんだよ」
「無意識領域から奇襲してくるな」
「短剣術っすかね?」
「言葉の話だ」
「でも刺さったんすよね?」
「刺さったよ」
「かなりな」
ニルは、少し照れたように笑った。
「なら、よかったっす」
良樹は息を吐く。
「お前、たまに真っ直ぐ刺してくるな」
ニルは胸を張った。
「弟分なんで!」
「そこは関係ねえだろ」
「あと、自分、短剣術が得意なんで」
「刺すのも結構いけるっす!」
「物理的に刺そうとするな、怖えよ」
ニルは、にかっと笑った。
ガレスが鼻で笑う。
良樹も、呆れたように息を吐きながら笑った。
重くなりかけた空気が、そこで少しだけほどけた。
ガレスは、机の上の紙を指で叩いた。
「良樹」
「今のでいい」
「今ので?」
「ああ」
「英雄になっても、お前はお前だ」
「だが、三人を妻にできたことだけは特別だ」
「それを町の前で言え」
「……格好つくか?」
「格好つけようとするな」
「お前が格好つけると、変な技術説明が混ざる」
ニルが真顔で頷く。
「兄貴、誓いの言葉でインバータとか言いそうっすもんね」
「言わねえよ」
ガレスがすぐ言う。
「本当か?」
「……努力する」
「ほらな」
「危なかったっすね」
「お前ら、俺を何だと思ってる」
ガレスが即答する。
「技術で逃げる男」
ニルが続ける。
「でも逃げ切れない兄貴っす」
良樹は、頭をかいた。
否定できなかった。
「……分かった」
「難しくしない」
ガレスは頷いた。
「それでいい」
良樹は新しい紙を一枚取った。
そこに、短く書く。
英雄になっても、俺は俺のままだ。
でも、三人を妻にできたことは、俺にとって特別だ。
良樹は、それを見てしばらく黙った。
それから、少しだけ笑う。
「……これなら、言える」
「おお」
ニルが嬉しそうに声を上げる。
ガレスも、少しだけ満足そうに頷いた。
「ようやく誓いの言葉になりそうだな」
◇
準備の二日間は、あっという間に過ぎた。
仕立て場では、女たちの戦場が続いた。
良樹は良樹で、誓いの言葉を何度も書き直した。
ガレスは会場と警備と記録を整えた。
ニルは雑用で走り回り、たびたび泣きそうな顔で戻ってきた。
ノーラとケーンは式用の小物や会場の細部を見た。
藤田は余計なことを言いながらも、肝心なところでは静かに見ていた。
そして、引っ越し四日目。
結婚式当日が来た。
◇
その朝、良樹は早く目が覚めた。
新居の中は静かだった。
作業場の方へ行きかけて、足を止める。
今日は作業の日ではない。
試験の日でもない。
確認の日でもない。
結婚式の日だ。
三人が妻になる日だ。
良樹は、作業場の扉を見たまま、小さく息を吐いた。
「……工具に逃げるな、か」
胸の奥で、十鉄の声が落ちた気がした。
馬鹿野郎。
女三人を妻にする日に、工具へ逃げ道を作るな。
手ぶらで立て。
その手で、妻の手を取れ。
良樹は、少しだけ笑った。
「……分かってるよ」
腰袋は取らなかった。
工具も持たなかった。
手ぶらで、式の支度へ向かった。
◇
良樹の式衣装は、ガレス側が用意していた。
黒銀を基調にした礼装。
派手ではない。
だが、町の英雄として立っても見劣りしない。
濃紺にも見える黒。
鈍い銀の留め具。
胸元には控えめな英雄認定の意匠。
よく見れば、工具を思わせる小さな刺繍もある。
現場の男らしさを消しすぎず、それでいて式に立てる形にまとめてあった。
良樹は鏡の前で、落ち着かない顔をした。
「……落ち着かねえ」
ニルはすでに目を輝かせている。
「兄貴、めちゃくちゃ似合ってるっすよ!」
「兄貴じゃねえ」
「あと、似合ってるかどうかより、動きにくい」
ガレスが呆れる。
「式で魔物と戦う気か」
「何があるか分からねえだろ」
「今日は何も起こさせねえ」
「少なくとも、ギルドがそうさせる」
ケーンが良樹の肩周りを見た。
「腕は上がるか?」
良樹は腕を動かす。
「上がる」
「肩も引っかからない」
「歩く分には問題ない」
「腰が軽すぎて不安だが」
ノーラが笑う。
「腰袋がないからだろ」
「今日は諦めな」
「分かってる」
ガレスが半眼になる。
「分かってる顔じゃねえな」
「分かってる」
その時、ガレスが小さな箱を出した。
中には四つの指輪があった。
良樹用は黒銀。
出っ張りはない。
作業時に邪魔になりにくい形。
内側には三本の線と、四人共通の四本線の意匠。
三人用も、基本の形は揃っていた。
だが、それぞれ少しずつ違う。
リシアのものは、深い赤を思わせる小さな意匠。
カレンのものは、澄んだ青。
クラリスのものは、白銀。
良樹は自分の指輪を見て、最初に言った。
「出っ張りがないな」
ガレスが即答する。
「お前が気にすると思ってな」
ニルが呆れ半分で笑う。
「結婚指輪を見て最初にそこなんすね」
「作業時に引っかかると危ない」
「だからそうしてある」
「ただし今日は外すな」
「外さねえよ」
「作業の話を始めるなよ」
「今日はしねえ」
「信用してやる」
良樹は指輪を見つめた。
小さい。
だが、重い。
三人分。
その言葉が、まだ式の前から、胸の奥に落ちていた。
◇
仕立て場では、三人の最終仕上げが終わろうとしていた。
職人たちは徹夜明けだった。
疲れている。
当然だ。
だが、目だけはまだ死んでいなかった。
リシアの赤。
カレンの青。
クラリスの白。
三人が並ぶ。
下着屋の主人は、しばらく三人を見ていた。
それから、小さく頷く。
「……仕上がりました」
リシアは鏡の前で、自分の姿を見た。
深い赤。
強すぎず、弱すぎない。
魔法使いとしての気品と、妻としての艶が同居している。
「本当に……ここまでやるのね」
カレンは、澄んだ青をまとっていた。
いつもの水色より、少し大人びている。
でも怖くなりすぎていない。
背伸びはしている。
けれど無理はしていない。
「すごいです……」
クラリスは白。
ただの清楚ではない。
柔らかいが、芯がある。
隣に立つための白。
「皆様のお仕事を、確かにお預かりしました」
職人たちは静かに頷いた。
服飾職人が言う。
「ここまで来たら、もう私たちが前に出る場ではありません」
髪結いが言う。
「今日の主役は、あなたたちです」
靴職人が言う。
「歩いてください」
「顔を上げて」
装飾職人が言う。
「町中に見せてください」
下着屋の主人は、少しだけ笑った。
「ここまで来たら」
「服飾関係は、あんた達が主役です」
リシアが眉を上げる。
「あんた達って……」
主人は笑う。
もう、様ではない。
夜を越えた戦場で、距離はすっかり縮まっていた。
「行っておいで」
「リシアちゃん」
「カレンちゃん」
「クラリスちゃん」
カレンの目が少し潤む。
「はい……!」
クラリスは静かに頭を下げる。
「行ってまいります」
リシアは、少しだけ照れたように笑った。
「見てなさい」
「ちゃんと、あんたたちの仕事を町に見せてくるわ」
職人たちが一斉に頷く。
「頼んだよ」
「俯かないで」
「足元まで見せて」
「飾りを殺さないで」
下着屋の主人が最後に言った。
「そして」
「英雄様に、息を呑ませておいで」
リシアは口元を上げた。
「そこは任せなさい」
カレンは真っ赤になりながら頷く。
「が、頑張ります……!」
クラリスも微笑む。
「はい」
「良樹くんに、きちんと見ていただきます」
三人は、送り出された。
◇
ギルド前広場には、すでに多くの人が集まっていた。
ギルド旗が掲げられている。
英雄認定の証も置かれている。
簡易壇は、突貫で作ったとは思えないほどしっかりしていた。
派手ではない。
だが、堂々としている。
町の人々。
冒険者。
職人。
魔石通信や魔導空調服に関わった者たち。
他の街から来た商人や冒険者の姿もあった。
祝祭感がある。
ただし、浮かれすぎてはいない。
冒険者たちは警備と参列整理に回っている。
ギルド職員は記録を持っている。
ガレスの指揮で、場はきちんと整えられていた。
ニルは、すでに泣きそうだった。
「兄貴……」
ガレスが低く言う。
「まだ始まってねえ」
「もう危ないっす」
「早い」
やがて、ガレスが壇上に立った。
柄ではない。
本人もそう思っている顔だった。
だが今日ばかりは、町とギルドの代表として立つ必要があった。
ざわめきが静まる。
ガレスが口を開いた。
「本日、この町とギルドは」
「英雄、上村良樹の婚姻を見届ける」
広場が静かになる。
「だが、これはただの祝いじゃねえ」
ガレスは、集まった人々を見渡した。
「この男は、この町を救った」
「そして、この三人は」
「その英雄の後ろに隠れていた女たちじゃねえ」
「共に戦い」
「共に支え」
「共にここまで来た女たちだ」
「今日、この三人は英雄の妻になる」
「同時に、英雄の隣に立つ者として、町に示される」
空気が締まった。
これは普通の結婚式ではない。
英雄婚。
この町が、新しい英雄と、その隣に立つ三人の妻を迎える儀式だった。
まず、良樹が壇上へ出た。
黒銀の礼装。
町がざわめく。
普段の作業着や冒険者姿とは違う。
英雄として立つ良樹。
だが、派手ではない。
良樹らしい無骨さも残っている。
良樹は居心地悪そうだった。
けれど、逃げていなかった。
ニルが涙声で呟く。
「兄貴、かっけえっす……」
ガレスは小さく言った。
「泣くな」
「まだ三人が来てねえ」
「無理っす」
そして。
三人が来た。
まず、リシア。
深い赤。
強気な顔で歩いてくる。
だが、良樹を見た瞬間、ほんの少し頬が赤くなる。
良樹は息を呑んだ。
リシアはそれを見て、少しだけ勝ったように微笑む。
ただし、本人もかなり照れていた。
次に、カレン。
澄んだ青。
顔は赤い。
足は少し震えている。
でも俯かない。
服飾職人たちに言われた通り、顔を上げて歩く。
良樹がカレンを見る。
カレンは良樹を見て、泣きそうになりながらも微笑んだ。
良樹は一瞬、言葉を失った。
最後に、クラリス。
白。
清楚。
だが、ただ静かなだけではない。
立ち姿に芯がある。
良樹を見る目は柔らかい。
しかし、良樹の隣に立つ意志があった。
良樹は、その白に少しだけ圧倒された。
三人が壇上に並ぶ。
町が静まる。
後方で見ていた服飾関係者たちは、式中なので声を出さなかった。
だが、周囲の声は聞こえた。
「あの赤……」
「カレン様の青、綺麗……」
「クラリス様の白、すごい」
「あの髪、誰が結ったの?」
「飾りも……」
「靴まで綺麗」
下着屋の主人は、小さく息を吐いた。
「……勝ちましたね」
服飾職人が静かに頷く。
「ええ」
髪結いが言う。
「あの反応なら、問い合わせが来る」
靴職人が言う。
「足元まで見てる娘がいる」
装飾職人が言う。
「飾りも拾われた」
刺繍職人が目を細める。
「近くで見たい、って顔をしてる」
下着屋の主人は、三人の背中を見た。
「これで、私たちの仕事も町に立ちました」
式中なので、それ以上は言わなかった。
だが、全員の顔に同じものが浮かんでいた。
職人の勝利だった。
壇上で、良樹は三人を見ていた。
リシアが小さく言う。
「……何よ」
良樹は少し遅れて答える。
「いや」
カレンが不安そうに聞いた。
「変、ですか……?」
「違う」
クラリスが微笑む。
「では?」
良樹は、少しだけ息を吐いた。
「綺麗だ」
「三人とも」
三人が撃沈した。
リシアは真っ赤になって言う。
「こういう時だけ、真っ直ぐ言うんじゃないわよ……」
カレンは涙目で笑った。
「う、嬉しいです……」
クラリスは静かに目を伏せる。
「ありがとうございます、良樹くん」
後方で服飾陣が無言の勝利を重ねた。
◇
藤田は進行役ではなかった。
だが、見届け人として、そこで一歩前に出た。
「良樹」
「はい」
「英雄とは、一人で立つ者ではない」
広場が静まる。
藤田の声は、年寄りのそれだった。
だが、妙に通った。
「一人で立つしかなかった者が」
「誰かと共に立てるようになった時」
「その背は、より遠くまで届く」
良樹は、黙って聞いていた。
「この三人を妻に迎えよ」
「守るためだけではなく」
「共に、次の景色を見るために」
良樹は短く答えた。
「はい」
藤田は、少しだけ目を細める。
「よい景色じゃ」
「今日もまたな」
良樹は、深く頷いた。
◇
ガレスが、良樹へ向き直る。
「上村良樹」
良樹が顔を上げる。
「お前は英雄として、この町に認められた」
「だが、英雄は一人で立つものじゃねえ」
ガレスは、三人を見た。
「リシア」
「カレン」
「クラリス」
「この三人を妻とし」
「守るだけではなく、隣に立たせ」
「その力と心を軽んじず」
「共に歩むと誓うか」
良樹は答えた。
「誓う」
一拍。
そして、良樹は自分の言葉で続けた。
「英雄になっても」
「俺は、俺のままだ」
町が静かになる。
「朝起きて」
「飯を食って」
「必要な仕事をして」
「危ないところを見て」
「直せるところを直して」
「失敗したら、同じ失敗をしないように考える」
「英雄になったからって」
「俺の中身が、急に変わるわけじゃない」
三人が良樹を見る。
良樹は、ほんの少しだけ息を吸った。
「でも」
声が少しだけ変わる。
「この三人を妻にできたことだけは」
「俺にとって、特別だ」
リシアの目が揺れた。
カレンはもう泣きそうだった。
クラリスも目元を柔らかく震わせる。
「俺は、この三人を守る」
「でも、守るだけにはしない」
「リシアの魔法も」
「カレンの剣も」
「クラリスの手も」
「俺の隣に置く」
「置いていかない」
「一人で背負わない」
「三人を、俺の妻として」
「俺と共に歩く女として」
「大事にする」
一拍。
良樹は、三人を見る。
「この町の英雄としてじゃなく」
「上村良樹として」
「誓う」
広場が静まり返る。
その静けさが、言葉の重さを示していた。
ガレスは、今度は三人へ向いた。
「リシア」
「カレン」
「クラリス」
三人が顔を上げる。
「お前たちは、英雄の妻になる」
「だが、英雄の影に入るだけなら、ここに立つ必要はねえ」
「この男を夫とし」
「支えられるだけでなく、支え」
「守られるだけでなく、守り」
「英雄の隣に立つ妻として」
「共に歩むと誓うか」
まず、リシアが一歩だけ前へ出た。
「誓うわ」
赤い衣装が、風に少し揺れる。
「あんたがまた一人で背負おうとしたら」
「何度でも止める」
リシアは良樹を見る。
「でも」
「あんたの隣からは逃げない」
「英雄だからじゃない」
「良樹だから」
「私は、あんたの妻になる」
良樹は、リシアを見る。
リシアは照れながらも、逃げなかった。
次に、カレンが口を開いた。
「誓います」
声は震えていた。
だが、顔は上げていた。
「怖い時もあります」
「泣いてしまう時もあると思います」
「でも、良樹さんの隣で、ちゃんと見ます」
「危ない場所も」
「良樹さんが見落としそうな場所も」
「守られるだけではなく」
「私も、良樹さんを守ります」
「良樹さんの妻として」
「隣に立ちます」
カレンは泣いていた。
でも俯かなかった。
最後に、クラリスが静かに言った。
「誓います」
白い衣装の中で、クラリスは穏やかに立っていた。
「良樹くんが無理をした時は止めます」
「傷ついた時は治します」
「ですが」
「治すだけではなく」
「共に傷を負わない道を探します」
「英雄を支えるためではなく」
「良樹くんと共に生きる妻として」
「隣にいます」
クラリスは静かに微笑む。
良樹は、その白を見て深く息を吐いた。
◇
ガレスが、四つの指輪を示した。
「この指輪は、ただの飾りじゃねえ」
「この町とギルドが、四人の婚姻を記録した証だ」
「以後、この輪を持つ者たちは」
「ひとつの家として扱われる」
まず、良樹がリシアの手を取った。
リシアは強気に手を出す。
だが、指輪が通る瞬間、指が少し震えた。
良樹はそれに気づくが、何も言わない。
指輪を通す。
そして、式の作法として、その手の甲へ口づける。
リシアの顔が真っ赤になった。
「……人前で、やることじゃないわよ」
「作法だろ」
「だから困ってるのよ」
次に、カレン。
カレンの手は震えていた。
良樹は、両手でそっと支える。
「大丈夫だ」
「はい……」
指輪を通す。
手の甲へ口づける。
カレンは涙をこぼした。
「……良樹さん」
「大丈夫だ」
「はい……」
それでもカレンは顔を下げなかった。
最後に、クラリス。
ここまでは、クラリスは落ち着いていた。
白い衣装。
柔らかな微笑み。
英雄の隣に立つ妻としての静かな芯。
クラリスは、静かに手を差し出す。
「お願いします、良樹くん」
良樹は、その手を取った。
指輪を通す。
クラリスは微笑んでいる。
式の空気にも、町の視線にも、崩れていない。
だが。
良樹がその手の甲へ口づけた瞬間。
クラリスの表情が、ふっと抜けた。
清楚な微笑みが崩れるわけではない。
だが、目元が一気に揺れた。
頬に、はっきり赤が差す。
「……っ」
良樹が顔を上げる。
「クラリス?」
クラリスは返事をしようとする。
だが、一拍遅れた。
「……はい」
声が、少しだけ小さい。
いつもの落ち着いたクラリスではなかった。
良樹に手の甲へ口づけられた瞬間、クラリスは急に思い出した。
自分は、僧侶としてここにいるのではない。
治療者としてでもない。
英雄を支える見届け人でもない。
良樹くんの妻になる女として、ここにいる。
手を取られた。
指輪を通された。
手の甲へ口づけられた。
その事実が、急に胸の奥で跳ねた。
クラリスは、指輪のはまった手を見る。
「……夢では、ありませんね」
良樹は、短く言った。
「ああ」
「夢じゃねえ」
クラリスは、目元を少し潤ませながら微笑んだ。
「はい」
最後に、良樹の指輪。
リシアが支えた。
カレンが震える手で添えた。
クラリスが、少し遅れて位置を整えた。
三人で、良樹の左手へ指輪を通す。
良樹は、その指輪を見る。
「……重いな」
ガレスが言った。
「当たり前だ」
「三人分だ」
良樹は頷く。
「ああ」
「分かってる」
◇
ガレスが町へ向いた。
「聞いたな」
広場が静まる。
「今日から」
「リシア」
「カレン」
「クラリス」
「この三人は、上村良樹の妻だ」
「英雄の妻だ」
「だが、飾りじゃねえ」
「この町を守った英雄の隣に立つ者だ」
「軽く扱うな」
「勝手な噂で汚すな」
「横槍を入れるな」
「祝いの言葉は受ける」
「無礼は、ギルドが受けて立つ」
冒険者たちが応える。
「おう!」
職人たちも拍手する。
町人たちも歓声を上げる。
ガレスは最後に宣言した。
「ここに」
「上村良樹」
「リシア」
「カレン」
「クラリス」
「四人の婚姻を、ギルドと町の名において認める」
一拍。
ガレスは、少しだけ表情を緩めた。
「おめでとう」
一瞬の静寂。
そして、大きな拍手。
歓声。
「英雄、おめでとう!」
「リシアちゃん、綺麗だったぞ!」
「カレンちゃん、泣くなよ!」
「クラリスちゃん、お幸せに!」
「良樹、三人も嫁さん貰いやがって!」
「羨ましいぞ!」
「爆発しろ!」
「いや、でもおめでとう!」
「爆発してから幸せになれ!」
良樹が顔をしかめた。
「祝福の中に、変なの混じってるぞ」
ガレスは腕を組んだまま、広場を見ていた。
「無礼はギルドが受けて立つとは言ったが」
そこで、ガレスは小さく鼻で笑った。
「あれくらいは許してやれ」
「男どもの精一杯の祝福だ」
「爆発しろが祝福なのか」
「だいたい祝福だ」
「だいたいで済ませるな」
その横で、ニルは号泣していた。
「兄貴ぃぃぃぃ!」
良樹が即座に返す。
「だから誰が兄貴だ!」
ガレスが笑う。
「今日くらい言わせてやれ」
「いつも言ってるだろ!」
ノーラが腕を組み、笑った。
「いい男になったじゃないか」
ケーンも笑う。
「嫁さん三人泣かせるなよ」
「泣かせる前提で言うな」
藤田は少し離れて、静かに目を細めていた。
「よい景色じゃ」
その声は、拍手に混ざって消えた。
◇
式が終わった直後。
歓声の中で、良樹は三人を見た。
「リシア」
「カレン」
「クラリス」
三人が見る。
良樹は、逃げなかった。
「俺の妻になってくれて、ありがとう」
三人は撃沈した。
リシアは真っ赤になって叫ぶ。
「そういうのを人前で言うな!」
カレンは涙を拭いながら笑った。
「う、嬉しいです……!」
クラリスは、少しだけ頬を赤くしたまま、指輪のはまった手を見ていた。
「……妻」
「クラリス?」
クラリスは顔を上げる。
「はい」
「私は、良樹くんの妻です」
いつものように言葉を拾っているようで、少し違う。
噛みしめている。
浮かれている。
乙女になっている。
リシアが半眼になる。
「クラリス、さっきから少し戻ってないわよ」
「はい」
「戻る必要がありますか?」
「開き直ったわね」
カレンが小さく笑った。
「でも、嬉しいですもんね……」
「はい」
「とても」
良樹は少しだけ困った顔をした。
「……まあ、元気ならいい」
リシアが突っ込む。
「それで片付けるの?」
クラリスは微笑んだ。
「良樹くんらしいです」
その笑顔は、いつもより少しだけ女の子の顔だった。
◇
式後の宴は、ギルドで開かれた。
豪華すぎない。
だが、町の祝祭としては十分だった。
料理が並ぶ。
酒が出る。
冒険者たちが笑う。
職人たちが語る。
町の人々が祝いの言葉を投げる。
良樹は何度も酒を注がれそうになった。
「英雄! 飲め!」
そのたびにリシアが止めた。
「今日は飲みすぎ禁止」
良樹が眉を上げる。
「俺が言われる側なのか」
クラリスが静かに言う。
「はい」
「今夜は大切な予定がありますので」
「言い方」
カレンは真っ赤になった。
ニルが横から親指を立てる。
「兄貴、頑張ってください!」
「お前は黙れ」
ガレスが酒を片手に笑った。
「若いな」
「ガレスも黙れ」
藤田は少し離れて酒を飲んでいる。
「若い者の祝いは、よいのう」
ノーラが隣で笑う。
「爺さん、完全に楽しんでるね」
「当然じゃ」
宴の中で、町の娘たちが何人も三人の衣装を見ていた。
「あの赤、どこの布?」
「カレン様の髪、すごく綺麗」
「クラリス様の白、近くで見たい」
「あの靴、歩き方まで綺麗に見える」
後ろで服飾関係者たちが、静かに目を輝かせていた。
取引は、成立した。
◇
夜。
式も、宴も終わり、四人は新居へ戻った。
町の熱はまだ外に残っている。
けれど、家の中は静かだった。
良樹は少し遅れて主寝室へ向かった。
宴の後、ガレスに捕まり、ニルに泣きつかれ、藤田に一言もらい、ケーンに肩を叩かれ、ノーラに「女を待たせすぎるんじゃないよ」と送り出されたからだ。
階段を上がる。
三日前と同じように、主寝室の扉の前で一度止まる。
三日前は、妻になる前だった。
今日は、妻になった後。
良樹は、少しだけ息を吐いた。
「……良樹だ」
中からリシアの声がした。
「入って」
良樹が扉を開ける。
そこには、三人が待っていた。
リシア、カレン、クラリス。
三人とも、式衣装ではない。
けれど、普段着でもない。
式の日のために仕立てられた白。
ウエディングランジェリー。
全員、白。
ただし、同じ白ではない。
リシアの白は、赤の式衣装を支えていた白だった。
強気な彼女が、妻として立つための白。
今は赤を脱いだ分、その白が余計に眩しい。
カレンの白は、青の式衣装を支えていた白だった。
怖くなりすぎないように。
でも、子どもではなく妻として良樹の前に立てるように。
震えているのに、逃げていない白。
クラリスの白は、白の式衣装の下にあった白だった。
清楚のためだけではない。
隠すためでもない。
妻として、良樹を迎えるための白。
式中の手の甲への口づけの余韻が、まだ頬に残っている。
良樹は固まった。
「……」
リシアが赤い顔で言う。
「何か言いなさいよ」
良樹は、少し遅れて答えた。
「……綺麗だ」
カレンが真っ赤になる。
「あ、ありがとうございます……」
クラリスは、少しだけ目を伏せる。
「妻として、待っていました」
良樹の喉が詰まる。
三日前の夜、良樹は三人に言った。
全部、お前らに刻み込んでやる、と。
あの夜、三人は婚約者のままではいられなくなった。
そして今日は。
リシアが言う。
「あの夜は、妻になる前だったわ」
カレンが続ける。
「今日は……妻として、です」
クラリスも微笑む。
「はい」
「良樹くんの妻として、ここにいます」
良樹は、ゆっくり寝室へ入った。
扉を閉める。
逃げるためではない。
誰も外に置かないために。
良樹は三人を見る。
「あの夜は」
「妻になる前だった」
一拍。
「今日は」
「妻として迎える」
三人が赤くなる。
リシアは目を逸らさなかった。
「……ちゃんと、言えるようになったじゃない」
「式で散々言ったからな」
カレンは、指輪のはまった手を胸元に寄せる。
「嬉しいです……」
クラリスは、いつもより少しだけ柔らかい顔で言った。
「はい」
「私も、妻として良樹くんのそばにいます」
良樹は、三人の手を取った。
リシアの手。
カレンの手。
クラリスの手。
三人の指輪が、寝室の灯りを受けて小さく光る。
「来てくれ」
三人は頷いた。
灯りが、ひとつ落ちる。
英雄になっても、良樹は良樹のままだった。
けれどその日だけは、ひとつだけ違った。
リシアが妻になった。
カレンが妻になった。
クラリスが妻になった。
その夜、灯りが落ちた寝室で、四人はもう、婚約者ではなかった。




