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第83話 思い知らせるつもりだった(挿絵有)

 朝だった。


 新しい家の食堂には、まだ少しだけ昨日の引っ越しの匂いが残っていた。


 磨かれた床板。

 運び込まれたばかりの食器棚。

 まだ置き場所の決まりきっていない箱。

 新しい暮らしのために整えられた台所。


 昨日までの貸家とは違う。


 ここは、良樹たちの家だった。


 その食堂で、リシア、カレン、クラリスの三人は、卓を囲んで座っていた。


 朝食は並んでいる。


 焼いたパン。

 湯気の立つスープ。

 薄く切った肉。

 果物。

 温めた茶。


 けれど、三人の手はあまり動いていなかった。


 リシアはカップを両手で持ったまま、時々中身を見る。

 飲むわけではない。

 ただ、見ている。


 カレンは膝の上で両手を握ったまま、何度も何度も視線を落としていた。

 頬は赤い。

 耳も赤い。

 けれど、その表情は暗くなかった。


 クラリスは、いつものように静かに座っていた。

 姿勢も整っている。

 微笑みも、形だけなら普段通りだった。


 ただ、カップに添えた指先だけが、少しだけ動かない。


 三人とも、昨日の夜を思い出していた。


 誰も、すぐには口を開けなかった。


 昨日。

 英雄になった良樹は、三人を妻に迎えるための家へ移った。


 まだ式は挙げていない。

 町に見届けられたわけでもない。

 ギルドへの正式な婚姻手続きも、まだ終わっていない。


 それでも。


 三人は、もう昨日までの婚約者ではいられなかった。


 その沈黙を破ったのは、カレンだった。


「……き」


 小さな声だった。


 リシアが、そっとカレンを見る。

 クラリスも、カップの縁から視線を上げた。


 カレンは、真っ赤な顔で俯いていた。


 けれど、逃げているわけではなかった。


 何かを言おうとしている。


「……昨日は、その」


 一度、言葉が止まる。


 カレンは膝の上の手をぎゅっと握った。


 そして、思い切ったように言った。


「良樹さん、凄かったですよね」


 食堂の空気が止まった。


 リシアの手が、カップの手前で止まる。

 クラリスの微笑みも、ほんの少しだけ固まった。


「……カレン」


 リシアが、ゆっくりと言った。


「朝一番に、その言い方は強すぎるわ」


「えっ」


 カレンが顔を上げる。


 そして、自分の言葉を一拍遅れて理解した。


 耳まで赤くなる。


「ち、違います!」

「そういう、変な意味だけではなくて!」


「“だけではなくて”って言ったわよ、今」


「違います!」

「違わなくはないですけど、違います!」


 カレンは慌てて両手を振った。


 振ったが、全然ごまかせていなかった。


 リシアは額に手を当てる。


「落ち着きなさい」

「弁解するたびに燃えてるわよ」


「うぅ……」


 カレンは、また俯いた。


 けれど、口を閉じなかった。


「でも、本当に……凄かったんです」


 その声に、リシアの表情から茶化す色が少しだけ消えた。


 クラリスも、静かにカレンを見る。


「私たちは、思い知らせるつもりでした」


 カレンは、膝の上の手を見つめたまま言った。


「良樹さんに」

「私たちが、どれだけ良樹さんを好きなのか」

「どれだけ、我慢してきたのか」

「どれだけ……良樹さんに、ちゃんと見てほしかったのか」


 そこで、カレンの声が少し小さくなる。


「でも」


 カレンは、胸元に手を当てた。


「思い知らされたのは、私の方でした」


 リシアは、何も言わなかった。


 クラリスも、ただ静かに聞いていた。


「良樹さんは、大事にしてくれたんです」

「本当に」

「怖くないか、痛くないか、何度も聞いてくれて」

「名前を呼んでくれて」

「手も、離さないでくれて」


 カレンの目元が、少しだけ潤む。


「でも……それだけじゃありませんでした」


 リシアの指が、カップの縁で止まる。


「優しいだけじゃなくて」

「少し、乱暴でもあって」

「いつもの良樹さんとは違う感じで」


 カレンは、顔を真っ赤にしたまま続けた。


「怖いのに、嫌じゃなくて」

「その……かっこよかった、というか」


「カレン」


 リシアの声も、少しだけ掠れていた。


「それ、分かるけど、分かるって言うのも負けた気がするわ」


「分かるんですか……?」


「分かるって言ってるでしょ」

「言わせないで」


 カレンは、さらに赤くなった。


「その」

「自分が、良樹さんのものになれたんだっていう実感で」

「胸がいっぱいで……嬉しかったです」


 リシアは、すぐには茶化せなかった。


 その言葉は、あまりにも素直だった。


 怖かった。

 痛かった。

 恥ずかしかった。


 それでも、嫌ではなかった。


 良樹に求められた。

 女として見られた。

 大事にされながら、確かに欲しがられた。


 それを、カレンは「良樹のものになれた」と言った。


 リシアは、小さく息を吐いた。


「……変じゃないわよ」


 カレンが顔を上げる。


「本当、ですか」


「変じゃない」

「悔しいけど、分かるから」


 リシアは、少しだけ視線を逸らした。


「私だって」

「思ってたより……痛かったけど」


 言ってから、自分で顔を赤くする。


 カレンは、こくりと頷いた。


「……はい」


「でも」


 リシアは、カップを握る指に少し力を入れた。


「痛いだけじゃなかった」

「怖いだけでもなかった」


「はい」


 カレンは、ゆっくりと言葉を探した。


「良樹さんが、私の中にいるんだって思うと」


 リシアの肩が跳ねた。


「カレン」


「ち、違います」

「違わなくは、ないですけど」

「そういう言い方をしたかったわけではなくて……!」


 カレンは真っ赤になりながら、必死に言葉を探した。


「痛いのに」

「怖いのに」

「でも、それだけじゃなくて」


 膝の上の指が、ぎゅっと服を掴む。


「心と、体が」

「奥の方から、じわって」

「あたたかくなるみたいで……」


 そこで、カレンは自分の言葉に追いついた。


 顔が、完全に赤く染まる。


「……っ」


 リシアは、両手で顔を覆った。


「やめて!」


 怒鳴ったのではない。

 完全に照れ負けだった。


「分かるから!」

「分かるけど、朝から言葉が強いのよ!」


「す、すみません……!」


 カレンも両手で顔を隠す。


「リシアも、分かるんですね……!」


「分かるって言ったでしょ!」

「言わせないで!」


 リシアは顔を覆ったまま、深く息を吐いた。


 そして、ぽつりと言った。


「……悔しいけど」

「嬉しい、が勝ってたわね」


 カレンは、指の隙間から小さく頷いた。


「……はい」


 二人の間に、沈黙が落ちた。


 照れくさい。

 恥ずかしい。

 昨日のことを思い出すだけで、顔が熱くなる。


 けれど、その沈黙は嫌なものではなかった。


 リシアは、まだ顔を赤くしたまま、カップへ視線を落とした。


「でも、私は少し違うことも思ったわ」


 カレンが、そっと顔を上げる。


「違うこと、ですか」


「良樹は、どうだったのかなって」


「良樹さんが?」


「そう」


 リシアは、カップの縁を指でなぞった。


「あいつ、私たちのこと、大切にしすぎてたでしょ」

「怖くないか、痛くないか」

「嫌じゃないか」

「何度も止まって」

「何度も確認して」


 リシアは、少しだけ唇を噛んだ。


「それは、嬉しかったわよ」

「本当に、嬉しかった」

「でも」


 言葉が止まる。


 リシアの頬が、さらに赤くなった。


「その……」

「男の人って」

「もっと、気持ちよく……なりたいんじゃないかって」


 カレンが固まった。


 リシアも、自分で言って顔を真っ赤にした。


「違うのよ!」

「いや、違わないけど!」

「そういう変な意味だけじゃなくて!」


 カレンは、恐る恐る聞いた。


「良樹さんにも……よかったって、思ってほしいということですか」


 リシアは、小さく頷いた。


「そうよ」

「私たちばっかり大事にされて」

「受け取るだけじゃ、嫌なのよ」


 リシアは、照れ隠しのように顔を上げた。


「良樹にも」

「ちゃんと、思い知らせてやりたいじゃない」


 カレンは、胸元で両手を握った。


「……それは」

「少し、分かります」


「でしょ」


 リシアは、少しだけ強気を取り戻す。


「あいつ、放っておくと私たちのことばっかり見るのよ」

「自分のことは後回し」

「だから」

「こっちから、良樹を崩す方法も考えないといけないわ」


「く、崩す……」


「言い方は悪いけど、そういうことよ」


 リシアは、頬を赤くしたまま笑った。


「次は」

「良樹を、あそこまで余裕でいさせないわ」


 カレンは、真っ赤になりながらも小さく頷いた。


「……はい」

「良樹さんにも、嬉しくなってほしいです」


 その言葉を聞きながら、クラリスは黙っていた。


 いつものように、穏やかな微笑みを浮かべている。

 けれど、カップに添えた指先だけが、少しだけ止まっていた。


 痛かった。


 それは、クラリスにも分かる。


 最初は、痛かった。

 身体が知らない感覚に強く反応して、思わず息を詰めた。

 良樹がすぐに止まって、名前を呼んでくれたことも覚えている。


 けれど。


 その後の記憶は、少し曖昧だった。


 痛い、と思うより先に。

 怖い、と言うより先に。


 良樹の声が近くて。

 良樹の手が熱くて。

 良樹が自分を見ていることが分かって。


 自分の身体が、自分のものではないみたいに反応した。


 呼吸が乱れた。

 指先に力が入った。

 何度も名前を呼んだ気がする。

 何度も、良樹の手を掴んだ気がする。


 そして。


 気づけば、何を言ったのかも。

 どんな声を出したのかも。

 どんな顔をしていたのかも。


 はっきりとは、覚えていなかった。


 リシアとカレンは、痛かったと言っている。


 痛かったけれど、嬉しかったと。

 怖かったけれど、嫌ではなかったと。


 それは、分かる。


 分かるのに。


 クラリスは、カップの縁を見つめた。


 自分は、本当に同じだったのだろうか。


 痛かったのは、最初だけだった。

 その後は、痛みよりも、もっと別のものに呑まれていた。


 良樹くんに大事にされている。

 良樹くんに求められている。

 良樹くんの女として、見られている。


 そう感じるたびに、身体の奥で何かが跳ねた。


 治療者として知っている反応ではない。

 身体を見る側として、説明できるはずの反応でもない。


 なのに、自分の身体だけは、まったく言うことを聞かなかった。


 クラリスは、静かに目を伏せた。


 ――私は、どこか、おかしいのでしょうか。


 その疑問だけが、朝の食堂で、胸の奥に小さく残った。


   ◇


 二階から足音がした。


 三人の動きが、同時に止まった。


 良樹だ。


 階段を下りる音。

 廊下を歩く音。

 食堂へ向かう足音。


 昨日までなら、何でもなかった音だ。


 だが、今朝は違った。


 三人とも、その音を聞くだけで、顔が熱くなる。


 食堂の入口に、良樹が現れた。


 少し髪が乱れている。

 顔には、わずかに疲労が残っている。

 だが、目ははっきりしていた。


 良樹は、三人を見た。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 そして、一瞬だけ止まった。


 三人も止まった。


 昨日の夜を越えた後の、初めての朝だった。


「……おはよう」


 良樹が言った。


「お、おはよう」


 リシアが少し遅れて返す。


「おはようございます、良樹さん」


 カレンの声は、小さかった。


「おはようございます、良樹くん」


 クラリスも、静かに言った。


 良樹は食堂へ入った。


 いつものように椅子へ座ろうとして、少し迷った。


 どこに座るか。


 そんなことを迷ったのは、初めてだった。


 リシアが、それを見て少しだけ眉を寄せる。


「何よ」

「座りなさいよ」


「ああ」


 良樹は椅子に座った。


 そして、開口一番に言った。


「痛いところは」

「無理したところは」

「気分は」

「嫌だったことは」

「眠れたか」


 リシアが額を押さえた。


「朝一番に点検表みたいな確認をするな!」


「悪い」

「でも、聞かねえ方が駄目だ」


「それは分かるけど!」

「言い方!」


 クラリスが静かに頷いた。


「必要な確認です」

「ただし聞き方は最低です」


「お前まで最低って言うのか」


「はい」

「確認内容は正しいですが、聞き方は最低です」


 カレンは少しだけ笑った。


「でも……良樹さんらしいです」


 良樹は、ばつが悪そうに頭をかいた。


「悪い」

「でも、本当に聞かせてくれ」

「嫌だったことがあるなら、今言ってほしい」

「痛いところがあるなら、隠さないでほしい」


 その声は、真面目だった。


 逃げていない。

 照れてはいる。

 だが、逃げてはいない。


 リシアは、小さく息を吐いた。


「嫌じゃなかったわ」


 良樹がリシアを見る。


 リシアは頬を赤くしたまま、目を逸らさなかった。


「恥ずかしかったし」

「悔しいくらい余裕なんてなかったけど」

「嫌じゃ、なかった」


 良樹の肩から、少しだけ力が抜けた。


「そうか」


「そうよ」


 カレンも、胸元で両手を握った。


「私も、嫌じゃありませんでした」

「怖かったです」

「痛かったです」

「でも……嬉しかったです」


 良樹は、カレンを見る。


 カレンは、真っ赤な顔で続けた。


「良樹さんが、何度も止まってくれたから」

「名前を呼んでくれたから」

「手を離さないでくれたから」

「だから、大丈夫でした」


 良樹は、短く息を吐いた。


「……よかった」


 その声には、心底からの安堵があった。


 だが、良樹の目はすぐにクラリスへ向いた。


 クラリスが、まだ少しだけ静かすぎる。


「クラリス」


「……はい」


「痛いところは」


 クラリスの返答が、少し遅れた。


「……最初だけ、です」


 良樹の表情が変わった。


「最初だけ?」


「はい」


「途中から痛みが分からなくなったのか」

「それはまずい」


 その言葉で、クラリスの顔から血の気が引いた。


 リシアとカレンも、はっとする。


「……私は」


 クラリスの声が、震えた。


「おかしいのでしょうか」


 良樹の動きが止まる。


「リシアも、カレンも」

「痛かったと、言っていました」

「怖かったと」

「でも、私は」


 クラリスは、カップに添えていた手をぎゅっと握った。


「途中から、よく分からなくなって」

「痛いより、別の感覚ばかりが強くて」

「自分の身体なのに、自分ではないみたいで」


 その目が、潤む。


「私、変なのでしょうか」

「良樹くんに、変だと思われませんか」

「嫌われませんか」


 良樹は、昨夜のクラリスを思い出した。


 最初は、確かに痛そうだった。

 息を詰め、良樹の腕を掴み、眉を寄せていた。

 だから良樹は止まった。

 名前を呼んだ。

 怖くないか、痛くないかを聞いた。


 そこまでは、リシアやカレンと同じだった。


 けれど、途中から違った。


 クラリスだけは、明らかに反応が変わった。


 痛みに耐える顔ではなかった。

 怖がっている声でもなかった。


 声が漏れていた。

 呼吸が崩れていた。

 良樹の名前を、何度も呼んでいた。


 本人は、それを覚えていないのか。

 あるいは、覚えているからこそ、怖がっているのか。


 良樹は、少しだけ息を吐いた。


 これは、全員の前で聞く話ではない。


「クラリス」


「……はい」


「少し、来てくれ」


 クラリスは、小さく頷いた。


 良樹は立ち上がり、食堂の端へ移動した。

 完全に離れたわけではない。

 けれど、声を落とせばリシアとカレンには聞こえないくらいの距離だった。


 クラリスは、良樹の前で立ち止まった。


 泣く寸前の顔だった。


「クラリス」


「……はい」


「その、だ」


 良樹は言葉を探した。


 こういう時、どう言えばいいのか分からない。

 盤なら分かる。

 配線なら分かる。

 異常なら、原因を追える。


 だが、これは違う。


 それでも、逃げるわけにはいかなかった。


「俺も、大して経験があるわけじゃねえけど」


「……はい」


 クラリスの返事は、今にも崩れそうだった。


「多分」

「お前が気にしてることは、悪いことじゃねえ」


 クラリスの目から、涙が一粒こぼれた。


「でも」

「私は」


「嫌うわけねえだろ」


 良樹は、少し強く言った。


 クラリスが、小さく肩を震わせる。


 良樹は、声を落とした。


「悪い」

「でも、そこは違う」

「嫌うとか、そういう話じゃねえ」


「……はい」


「俺も聞いただけの話だけどよ」


 良樹は視線を少し逸らした。


 自分で言うのが、かなり恥ずかしい。

 だが、今ここで曖昧にしたら、クラリスはきっともっと傷つく。


「その」

「二人の相性が、良すぎると」

「初めてでも、クラリスみたいになることがあるらしい」


 クラリスの動きが止まった。


「…………」


 涙を浮かべたまま、ぱちりと瞬きをする。


 それから。


 がばっ、と顔を上げた。


「私が」


「お、おう」


「変なのではなくて」


「ああ」


「良樹くんとの相性が」


 クラリスの声が、少し震えた。


「良いのですか?」


 良樹は、顔を赤くしながら頷いた。


「多分、だ」

「俺も専門家じゃねえ」

「だから断言はできねえけど」


「……はい」


「でも」

「俺は、悪い気はしてねえ」


 そこまで言って、良樹は自分の言葉に眉を寄せた。


「いや」

「これも逃げだな」


 クラリスが、じっと良樹を見る。


 良樹は、観念したように息を吐いた。


「正直」

「良かった」


 クラリスの目が、大きく開いた。


「だから――」


 良樹が言い終わる前に。


 クラリスは、浮かれていた。


 それはもう、浮かれていた。


 涙はまだ頬に残っている。

 目元も赤い。

 さっきまで泣き出しそうだった顔のまま。


 けれど、明らかに空気が変わった。


「良樹くんと」


「クラリス?」


「私の相性が」


「おい」


「良い」


 小さく、しかし確かに、クラリスはそう呟いた。


 そして、両手を胸元でそっと重ねる。


「そうですか」

「良いのですね」


「多分って言ったぞ」


「はい」

「多分、良いのですね」


「そこだけ強く拾うな」


 クラリスは、ふわりと微笑んだ。


 いつもの清楚な微笑みだった。

 だが、少し違う。


 明らかに、浮かれていた。


「良かったです」


「いや、だから」


「私、良樹くんに嫌われたのではないかと」

「変だと思われたのではないかと」

「少しだけ、怖かったので」


 そこまで言って、クラリスは頬に残った涙を指で拭った。


 そして、幸せそうに言った。


「良かったです」

「良樹くんと、相性が良くて」


 良樹は、頭を抱えた。


「……言い方」


「はい?」


「いや」

「いい」

「元気になったなら、それでいい」


 クラリスは小さく首を傾げた。


「はい」

「元気になりました」


 その声は、さっきまでとは別人のようだった。


 少し離れた席で、リシアとカレンがこちらを見ていた。


 リシアは半眼。

 カレンは口元を押さえて赤くなっている。


 良樹は、二人の視線を見て思った。


 たぶん、これは後で尋問される。


 だが。


 クラリスが泣き止んだ。


 それなら、今はそれでよかった。


 挿絵(By みてみん)


   ◇


 二人が席へ戻る。


 クラリスは明らかに機嫌が良かった。


 頬は赤い。

 目元にはまだ涙の跡がある。


 だが、さっきまでの沈み方が嘘のように、空気が軽い。


 リシアは、その顔を見て半眼になった。


「……何を言ったのよ」


 良樹は椅子に座りながら答えた。


「必要な確認だ」


「便利ね、その言葉」


 カレンは、クラリスを見た。


「クラリス、元気になりましたね」


「はい」


 クラリスは、にこりと微笑んだ。


「良樹くんと私は、相性が良いそうです」


 沈黙。


 リシアとカレンが固まる。


 良樹は即座に言った。


「多分だって言っただろ!」


 クラリスは穏やかに頷く。


「はい」

「多分、とても良いそうです」


「増やすな!」


 リシアが叫んだ。


 カレンは真っ赤になりながら口元を押さえる。


「と、とても……」


「カレンも拾うな!」


 良樹は完全に詰んでいた。


 リシアは、そんな良樹をしばらく見た。


 そして、少しだけ身を乗り出す。


「で?」


「何だ」


「良樹はどうだったのよ」


 良樹の動きが止まった。


「何がだ」


「何が、じゃないでしょ」


 良樹は一瞬で察した。


「朝飯の席で聞く話か?」


「私たちはさっきから朝飯の席で話してるわよ」


「それもどうかと思うぞ」


 カレンは真っ赤なまま、小さく手を上げた。


「あ、あの」

「でも、私も……少し、聞きたいです」


「カレンまでか」


 クラリスが穏やかに言う。


「必要な確認です」


「お前がそれを言うと、だいぶ意味が変わる」


 良樹は逃げ道を探した。


 なかった。


 三人がこちらを見ている。


 リシアは強気に。

 カレンは恥ずかしそうに。

 クラリスは、妙に機嫌よく。


 良樹は、深く息を吐いた。


「……よかったよ」


 三人が止まる。


「嬉しかった」

「怖くなかったと言えば嘘になる」

「間違えたらどうしようとは思った」

「でも」


 良樹は、三人を見た。


「お前らが、俺を選んでくれたことが」

「ちゃんと、俺の女になるって言ってくれたことが」

「嬉しかった」


 三人の顔が赤くなる。


 良樹は、逃げずに続けた。


「それと」

「俺が欲しがってたことを」

「嫌がられなかったのも」

「……嬉しかった」


 リシアは言葉を失った。

 カレンは胸元を押さえた。

 クラリスは、幸せそうに微笑んだ。


 リシアが、少しだけ視線を逸らす。


「でも、良樹」

「あんた、私たちのことを大切にしすぎてたでしょ」


「大切にするだろ」


「そうじゃなくて」


 リシアは、赤い顔で言葉を探した。


「その……あんた自身は、ちゃんと……」


 言葉が止まる。


 カレンが、小さな声で補った。


「良樹さんも」

「嬉しかった、だけじゃなくて」

「その……満たされた、のでしょうか」


 良樹は、真っ赤になった。


「朝から何を聞くんだ」


 クラリスが言う。


「必要な確認です」


「便利すぎるだろ、その言葉」


 良樹は少し考えた。


 ごまかすこともできる。

 笑いに逃げることもできる。

 技術の話に逃げることも、たぶんできる。


 だが、今朝は逃げてはいけない。


「俺は、十分だった」

「いや」

「十分って言い方も違うな」


 一度、息を吐く。


「お前らが怖がってないか」

「痛がってないか」

「嫌になってないか」

「それを見ながらだった」

「だから、余裕なんかなかった」


「知ってるわよ」


 リシアが言った。


「だから聞いてるの」


 良樹は頷いた。


「でも」

「お前らが、俺を見て」

「俺の名前を呼んで」

「手を離さなかった」


 言葉を選ぶ。


「それだけで、かなり……来るものがあった」


 カレンが真っ赤になる。

 クラリスは嬉しそうに目を細める。

 リシアも、視線を逸らした。


「俺は、俺が気持ちよければそれでいいとは思ってねえ」

「お前らが嫌じゃないこと」

「怖いだけにならないこと」

「それが一番だった」


「それは、分かってる」


「でも、だからって」

「俺が我慢だけしてたわけじゃねえ」


 三人が黙る。


 良樹は、少しだけ顔を赤くしながら、それでも言った。


「ちゃんと」

「欲しかった」

「嬉しかった」

「満たされた」


 今度は、三人が撃沈した。


 リシアはカップを見たまま動かない。

 カレンは両手で顔を覆った。

 クラリスは、さっきよりさらに機嫌が良さそうになった。


「……そう」


 リシアが小さく言う。


 良樹は眉を寄せた。


「何だ、その顔」


「別に」


「絶対別にじゃない顔だろ」


 リシアは、少しだけ強がるように顔を上げた。


「私たちばかり見られて」

「確認されて」

「大事にされて」

「それで終わりなのは、少し悔しいと思っただけよ」


「悔しい?」


「そうよ」


 リシアは、良樹を見る。


「あんたにも」

「こっちを見る余裕がなくなるくらい」

「ちゃんと、思い知らせたいってこと」


 良樹は、言葉に詰まった。


「お前な」


「何よ」


「朝から強すぎるんだよ、言葉が」


「カレンのこと言えないわね」


 カレンが、慌てて顔を上げる。


「わ、私ですか?」


「カレンもよ」


 リシアは少し笑った。


「あんたも、良樹に嬉しくなってほしいんでしょ」


 カレンは、真っ赤になった。


 けれど、否定しなかった。


「……はい」

「良樹さんに、嬉しくなってほしいです」


「十分嬉しかったって言っただろ」


「でも」


 カレンは、小さく言った。


「もっと、です」


 良樹が停止した。


 カレンは、自分で言って赤くなる。


「す、すみません」

「でも、その」

「良樹さんが喜んでくれるなら」

「私、もっと頑張りたいです」


 良樹は眉間を押さえた。


「頑張るって言い方が、だいぶ危ない」


「危ない、ですか?」


「危ないわね」


 リシアが即答した。


 クラリスも頷く。


「危ないですが、カレンらしいです」


「ええっ……」


 カレンは困った顔をした。


 だが、良樹はその言葉を軽くは扱わなかった。


 カレンが、良樹のために何かをしたいと思っている。

 良樹を喜ばせたいと思っている。


 それが、どれだけ真っ直ぐな気持ちかは分かる。


 分かるからこそ、良樹は頭を抱えるしかなかった。


 クラリスが、静かに口を開く。


「私も、良樹くんを見ます」


「お前は普段から見てるだろ」


「はい」

「ですが、昨夜は自分のことが分からなくなりました」

「次は、もう少し良樹くんも見られるようにしたいです」


「無理に見なくていい」


「いいえ」


 クラリスは、にこりと微笑んだ。


「相性が良いそうなので」


「そこに戻るな」


「戻ります」

「大事なことです」


 リシアは額に手を当てた。


「クラリスが思ったより浮かれてるわ」


 カレンは小さく笑った。


「嬉しかったんですね……」


「はい」

「とても」


 クラリスは、実に幸せそうだった。


 良樹は、さらに詰んだ。


   ◇


「とにかく」


 リシアが、手を叩いた。


 ぱん、と乾いた音が食堂に響く。


「今後のことを決めるわ」


 良樹が眉を上げる。


「今後?」


「そうよ」

「昨夜みたいなことを、勢いだけで毎回やるわけにはいかないでしょ」


「それはそうだ」


 カレンも頷く。


「体調もありますし……」


 クラリスも、いつもの調子を取り戻したように言う。


「魔力や身体の負担も見なければいけません」


 良樹は少しだけ安心した顔をした。


「急にまともな会議になったな」


「元々まともよ」


「本当か?」


「本当よ」


 リシアは、指を折った。


「まず、式の前に無茶はしない」


「ああ」


「昨夜みたいに三人で、というのは毎回じゃない」


「そうだな」


「式の後は、もう一度三人で」


 良樹が止まった。


「そこは決まってるのか」


「決めるわよ」


 リシアは、真面目な顔で言った。


「昨日みたいなことを、誰か一人だけで受けたら重いでしょ」


 良樹は、言葉に詰まった。


 たしかに。

 昨夜は、三人がいた。


 リシアがいた。

 カレンがいた。

 クラリスがいた。


 誰か一人だけを外へ置かなかった。

 誰か一人だけを後回しにしなかった。


 藤田が用意した巨大な寝台。


 あれは、ただ大きいだけの寝台ではなかった。


 誰も外に置かないための場所だった。


「三人で受ける」

「三人で見る」

「そこから、少しずつ順番を作る」


 リシアはそう言った。


 カレンも頷く。


「誰か一人だけが、特別になるのは嫌です」

「でも、誰か一人だけが我慢するのも嫌です」


 クラリスも続ける。


「体調や気持ちも、その日によって違います」

「機械的に決めるべきではありません」


 良樹は、少し考えた。


「なら、日程と体調確認項目を――」


「作るな」


 リシアが即座に言った。


「まだ何も言ってねえ」


「作る顔だった」


 カレンも小さく頷く。


「良樹さん、表にしようとしていました」


 クラリスも微笑む。


「点検項目も作ろうとしていましたね」


「必要だろ」


「必要でも、朝食の席で作るな!」


「じゃあ昼か」


「そういう意味じゃない!」


 リシアの声が食堂に響いた。


 良樹は、少しだけ口を閉じる。


 だが、真面目な顔で言った。


「順番の日を作るなら、公平性はいるだろ」


「公平性は必要よ」

「でも、機械的にはしない」


 リシアが言う。


 カレンも続ける。


「気持ちもありますから」


 クラリスも頷く。


「身体の状態もあります」


「じゃあどう決める」


「話し合い」


「毎回か?」


「毎回よ」


「大変じゃないか」


「大変でも、必要でしょ」


 良樹は、少し黙った。


 それから、短く息を吐く。


「……そうだな」

「自動化すりゃいい話じゃねえな」


「そういうこと」


 リシアは少しだけ満足そうに頷いた。


 クラリスが言う。


「良い判断です」


「評価するな」


「必要な評価です」


 カレンが、少しだけ笑った。


 食堂の空気が、ようやく少しだけ日常に戻る。


 ただし、昨日までの日常ではない。


 昨日の夜を越えた後の、新しい日常だった。


「それと」


 リシアは、少しだけ声を落とした。


「式までは、一度落ち着く」


 良樹が眉を上げる。


「昨日越えたのにか?」


「越えたからよ」


 リシアは、良樹を見る。


「昨日は、四人だけの夜だった」

「でも式はまだ」

「町にも、ギルドにも、まだ見届けられてない」


 カレンも頷いた。


「式の前に、体調を崩したくありません」


 クラリスも静かに続ける。


「準備もあります」

「町やギルドへの顔出しもあります」

「無理は避けるべきです」


 良樹は苦笑した。


「正論だな」


「正論よ」


 リシアは胸を張る。


「だから、式までは一度落ち着く」

「昨日は昨日」

「次は式の後」


 カレンは、赤くなりながら言った。


「式の後は……もう一度、三人で」


 クラリスも頷く。


「はい」

「その方が良いと思います」


 良樹は、三人を見た。


 照れている。

 恥ずかしがっている。

 それでも、逃げていない。


 三人は、もうただ待つだけではなかった。

 良樹に全部決めさせるつもりもなかった。


 四人で決める。


 それが、今朝の会議だった。


「……分かった」


 良樹は頷いた。


「式の後は、三人で」

「その後は、話し合って決める」

「嫌なら嫌と言う」

「欲しいなら欲しいと言う」

「体調が悪ければ無理しない」

「誰か一人だけを特別にも、我慢役にもしない」


 リシアが少しだけ笑う。


「珍しく、よくまとまってるじゃない」


「俺を何だと思ってる」


「点検表を作ろうとする男」


「否定できねえな」


 カレンが小さく笑った。


 クラリスも穏やかに微笑む。


 その時、リシアがふと卓を見る。


 朝食は、すっかり冷めていた。


「……朝ご飯、冷めたわね」


 良樹も卓を見る。


「温め直すか」


「あ、私が」


 カレンが立ち上がりかける。


 良樹も同時に立とうとした。


「いや、俺がやる」


 クラリスが、静かに言った。


「では、皆でやりましょう」


 三人がクラリスを見る。


 クラリスは、少しだけ首を傾げた。


「四人の朝食ですから」


 その言葉に、誰も反論しなかった。


 四人で立つ。


 台所へ向かう。


 昨日までとは違う距離で。

 昨日までとは違う空気で。


 良樹は、三人を見る。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 まだ、妻ではない。


 式はまだだ。

 町への報告も、ギルドの準備も、ガレスとの調整もある。

 公の誓いは、これからだ。


 けれど。


 もう昨日までとは違う。


 思い知らせるつもりだった。


 三人が、どれだけ良樹を好きなのか。

 どれだけ我慢してきたのか。

 どれだけ、良樹の女になりたかったのか。


 けれど朝になって、三人は知った。


 良樹もまた、同じだけ我慢していた。

 同じだけ欲しがっていた。

 そして、自分たちが思っていた以上に、自分たちを大事にしていた。


 その朝、四人はまだ婚約者だった。


 けれどもう、誰も昨日までの場所には戻れなかった。

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