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第82話 妻になる前に(挿絵有)

 英雄になった翌日。


 良樹は、リシア、カレン、クラリスと共にギルドへ呼ばれていた。


 昨日のことは、まだ身体のどこかに残っている。


 歓声。

 拍手。

 ギルドホールいっぱいの人の顔。

 藤田の隣に立った時に見た景色。

 英雄が見ている景色。


 そして、三人が泣きながら飛び込んできた重さ。


 良樹はまだ、それを完全には飲み込めていなかった。


 自分が英雄になった。


 その事実は、言葉としては理解している。

 だが、身体の方が追いついていない。


 自分はまだ危うい。

 失敗もした。

 暴走もした。

 止め方を持たないまま、出力だけ通したこともある。


 それでも、藤田は認めた。

 ガレスも、町の人々も、拍手をした。

 リシアも、カレンも、クラリスも泣いた。


 だから、逃げるわけにはいかない。


 良樹は、ギルドの奥の部屋で、ガレスと藤田を見ていた。


「で」


 ガレスが言った。


「引っ越せ」


「……は?」


 良樹は、素で声を漏らした。


 横でリシアが瞬きをする。

 カレンも、胸元で両手を握ったまま固まった。

 クラリスは静かに微笑んでいたが、目だけは少しだけ丸くなっていた。


「引っ越せって言ったんだ」


「いや、聞こえた」

「聞こえた上で意味が分からねえ」


 ガレスは椅子に腰掛けたまま、あっさりと言った。


「今の家、もう駄目だ」


「壊れてねえぞ」


「そういう意味じゃねえよ」


 ガレスは額を押さえた。


「お前一人と婚約者三人が暮らす貸家としては、まあギリギリだった」

「作業場もある」

「部屋も一応ある」

「生活もできる」

「だがな」


 ガレスは良樹を見た。


「お前はもう、ただの英雄候補じゃねえ」

「英雄だ」


 その言葉に、良樹は少しだけ黙った。


 まだ、慣れない。


「これから、お前のところには人が来る」

「相談者も来る」

「職人も来る」

「冒険者も来る」

「ギルド職員も来る」

「魔石通信、魔導空調服、その他お前が作ったものを見たい奴も増える」


 ガレスは指を折った。


「作業場」

「応接」

「生活空間」

「資料や試作品の保管」

「防犯」

「三人の生活空間」

「全部考えると、今の家じゃ足りねえ」


「使えないわけじゃ――」


 言いかけて、良樹は止まった。


 ガレスの目が、少しだけ笑った。


「使えないわけじゃない、は採用理由にならねえだろ」


「……」


「お前がいつも言ってることだ」

「動くかどうかじゃねえ」

「安全に使い続けられるかだ」


 良樹は、口を閉じた。


 自分の言葉で殴られるのは、かなり効く。


 藤田が、横でほっほと笑った。


「家も設備じゃ」


 良樹は藤田を見る。


 藤田は、いつもの好々爺の顔で続けた。


「使う者が増え、扱うものが変われば、配置も動線も見直す」

「当たり前じゃろう」


「……はい」


 反論できない。


 できるわけがない。


 ガレスは、さらに続けた。


「それに、三人を妻にするんだろ」


 その言葉で、空気が少しだけ変わった。


 リシアの耳が赤くなる。

 カレンは目を伏せた。

 クラリスも、静かに指先を重ねた。


 良樹は、少しだけ息を詰めた。


「だったら、妻を迎える家が要る」

「婚約者三人と雑に同居する家じゃねえ」

「夫婦として暮らす家だ」


 夫婦。


 その言葉が、部屋の中に落ちる。


 良樹は、三人を見た。


 三人とも、赤い顔をしていた。

 だが、誰も否定しなかった。


「……準備が良すぎねえか」


 良樹が言うと、ガレスは肩をすくめた。


「英雄認定する前から、候補は見てた」


「町の責任者なめんな、って顔だな」


「分かってるじゃねえか」


 ガレスは立ち上がった。


「場所は押さえてある」

「見るだけ見ろ」


   ◇


 案内された家は、ギルドからそう遠くない場所にあった。


 表通りから少し入った場所。

 騒がしすぎない。

 だが、完全に人目から外れているわけでもない。


 元は鍛冶屋兼細工師の家だったらしい。


 持ち主は息子夫婦のところへ移り、今はギルド管理の物件になっているという。


 一階には広めの作業場があった。


 良樹は、入った瞬間に足を止めた。


 土間。

 作業台を置ける壁面。

 工具棚を設けられる場所。

 換気できる窓。

 奥には小さな倉庫。

 さらに、生活空間へ繋がる扉。


「……なるほどな」


 良樹は、作業場の中央で周囲を見回した。


「何がなるほどなのよ」


 リシアが横から聞く。


「作業場と生活空間を分けられる」

「でも離れすぎてもいない」

「応接から作業場へ入る動線も作れる」

「倉庫も近い」

「裏庭で小規模試験もできる」


「もうかなり乗り気じゃない」


「乗り気じゃねえ」

「合理的だと思ってるだけだ」


 カレンが小さく笑った。


「良樹さん、少し嬉しそうです」


「してねえ」


 クラリスも穏やかに言う。


「肩の力が少し抜けています」


「そこまで見るな」


 ガレスは鼻で笑った。


「作業場見た時点で、もう半分決まってんだよ」


「勝手に決めるな」


「じゃあ使いにくいのか?」


 良樹は少しだけ黙った。


「……悔しいが、かなり使いやすい」


「悔しがるところじゃねえ」


 作業場の次に、応接室を見た。

 台所。

 食堂。

 倉庫。

 裏庭。


 どこも、豪華ではない。

 だが、無駄が少ない。


 生活するための家であり、仕事もできる家だった。


 良樹は、それを認めざるを得なかった。


 そして最後に、二階へ上がった。


 小部屋がいくつかある。

 衣装部屋にもできる。

 書斎にもできる。

 荷物置きにもできる。


 その奥。


 ガレスが、一番奥の扉の前で一度だけ咳払いした。


「ここが、主寝室だ」


「主寝室」


 良樹は復唱した。


 言葉そのものは普通だった。


 夫婦で暮らす家なら、主寝室があるのは当然だ。

 当然のはずだった。


 ガレスが扉を開ける。


 部屋は広かった。


 窓が二つ。

 壁際には衣装棚を置けるだけの余裕がある。

 床板もしっかりしている。

 空気も淀んでいない。


 そこまでは良かった。


 問題は、部屋の中央だった。


「……」


 良樹は黙った。


 リシアも黙った。

 カレンも黙った。

 クラリスも、さすがに微笑みを少し止めた。


 そこには、ベッドがあった。


 ただし、ベッドという言葉で片づけていいのか、少し迷う大きさだった。


 良樹の知っている寝台より、明らかに広い。

 二人用どころではない。

 四人で横になっても、まだ余裕がある。


 キングサイズ。


 という言葉が良樹の頭に浮かびかけた。


 だが、すぐに違うと思った。


 これは、キングサイズを遥かに越えている。


「……ガレス」


「俺を見るな」


「まだ何も言ってねえ」


「顔が言ってる」


 良樹はゆっくりベッドを見た。


 そして、もう一度ガレスを見た。


「これは」


「俺じゃねえ」


「じゃあ誰だ」


 その時、背後から穏やかな声がした。


「ワシじゃ」


 藤田だった。


 いつもの好々爺の顔で、にこにこと笑っている。


 良樹は振り返った。


「藤田さん」


「何じゃ」


「これは」


「寝台じゃ」


「見れば分かります」


「なら聞くでない」


 良樹は一度、天井を見上げた。


 天井は高かった。


 現実逃避に使うには、ちょうどいい高さだった。


 藤田は、にこにことしたまま言った。


「必要じゃろう?」


 リシアの顔が、一気に赤くなった。


 カレンは胸元で両手を握ったまま、完全に固まった。


 クラリスは目を伏せた。

 ただし、耳が赤い。


 良樹は天を仰いだまま、しばらく動かなかった。


「……必要かどうかの話を、俺に振りますか」


「振るとも」


 藤田は楽しそうに笑った。


「妻を三人迎える男が、寝る場所を曖昧にしてどうする」

「誰か一人を別の部屋へ追いやるのか」

「誰か一人を後回しにするのか」

「それとも、床で寝るかの?」


「極論で殴らないでください」


「極論ではない」

「生活設計じゃ」


 良樹は黙った。


 生活設計。


 その言葉を出されると、逃げ場がなかった。


 藤田は続ける。


「家も設備じゃ」

「人数が変われば、必要寸法も変わる」

「使う目的が変われば、配置も変わる」

「なら、寝台も合わせる」

「当たり前じゃろう」


「当たり前の範囲が広い」


 ガレスが横でぼそりと言った。


「俺もそう思う」


 藤田は笑っている。


 完全に面白がっている顔だった。


 だが、言っていることは間違っていなかった。


 良樹はもう一度ベッドを見た。


 広い。

 十分すぎるほど広い。


 四人で寝られる。

 誰か一人を外に出さなくていい。

 誰か一人を後にしなくていい。


 その事実に気づいた瞬間、良樹は言葉を失った。


 リシアが、赤い顔のまま小さく言った。


「……必要、なのかしらね」


 カレンが、震える声で続ける。


「必要、だと……思います」


 クラリスは静かに頷いた。


「はい」

「誰かを外に置かないためには、必要です」


 良樹は額を押さえた。


「三人とも、そこで納得するのか」


 リシアは目を逸らした。


「納得してるわけじゃないわよ」

「ただ、否定できないだけ」


 カレンは顔を真っ赤にしたまま頷いた。


「はい……」


 クラリスも、赤い耳のまま微笑んだ。


「非常に合理的です」


「合理で済ませるな」


 藤田は、満足そうに頷いた。


「よい家じゃろう」


 良樹は、もう一度天を仰いだ。


「……俺、英雄になった翌日に何を確認させられてるんだ」


 ガレスが肩をすくめた。


「夫になる準備だろ」


 良樹は反論できなかった。


   ◇


 引越しは、その日のうちに始まった。


 といっても、すべての荷物を一気に移すわけではない。

 最低限の生活用品。

 工具。

 紙束。

 藤田の手記。

 魔石信号器の試作品。

 魔導空調服の部品。

 衣類や寝具。


 ひとまず暮らし始めるのに必要なものを運び込む。


 ガレスが手配したギルド職員たちが荷を運ぶ。

 ニルもいた。

 ノーラとケーンも、当然のように手伝っていた。


「英雄様の引越しなんだから、少しは人を使いな」


 ノーラが笑う。


「英雄様って言うな」


 良樹は箱を持とうとして、リシアに腕を掴まれた。


「あんたは指示」


「俺も運べる」


「運べるから運ぶ、じゃないでしょ」


 また自分の言葉で殴られた。


 良樹は諦めて、荷物の置き場所を指示する側に回った。


 ケーンは、作業場の壁際に立って棚を見ていた。


「そこの棚、壁に取った方がいいな」

「お前さん、どうせ工具も紙も増やすだろ」


「増やす前提かよ」


「違うのか?」


「……違わねえな」


 良樹は認めた。


 ケーンは笑う。


「なら先に留めとけ」

「後で直すより、今やった方が安い」


「助かる」


「いいって」

「新婚の家で棚が倒れたら、縁起が悪いだろ」


「……新婚」


「そこは慣れときな」

「すぐ本当にそうなるんだから」


 良樹は、言い返せなかった。


 ニルが横から顔を出す。


「兄貴、結婚前にもう家持ちっすね」


 良樹の眉が動いた。


「ちょっと待て」


「はい?」


「今、兄貴って言ったか?」


「言いましたけど」


「俺には弟はいねえぞ」


 ニルは、あっけらかんと笑った。


「いいじゃないっすか」

「俺と良樹さんの仲なんだし」

「兄弟みたいなもんですよ」


「どんな仲だ」


 良樹は即座に返した。


 だが、その顔は、完全に嫌がっているものではなかった。


 むしろ少しだけ。

 本当に少しだけ、口元が緩んでいた。


 ニルはそれを見逃さなかった。


「ほら、満更でもない顔してるじゃないっすか」


「してねえ」


「してますって」


「してねえ」


 ノーラが横で笑った。


「弟分までできたのかい、英雄様」


「だから英雄様って言うな」


 カレンが少し笑う。

 クラリスも微笑んでいる。

 リシアは、やれやれという顔をしながらも、どこか嬉しそうだった。


 良樹は、忙しさに紛れるように作業場へ目を戻した。


 新しい家。


 夫婦として暮らす家。


 その現実が、少しずつ形になっていく。


   ◇


 荷物の大まかな移動が終わった頃。


 三人は、作業場の入口で顔を見合わせた。


 リシアが、小さく息を吸う。


「良樹」


「何だ」


「私たち、少し買い物に行ってくるわ」


「何か足りなかったか?」


「まあ、そんなところね」


 カレンが、胸元で両手を握った。


「新しい家で、必要なものです」


 クラリスも静かに頷く。


「はい」

「とても大切なものです」


 良樹は、作業台の上に置いた工具を見てから、三人へ視線を戻した。


「重いものなら俺も行くぞ」


「いらない」


 リシアは即答した。


「即答か」


「いらないものはいらないの」


 カレンは、真っ赤になりながら小さく言う。


「そ、その……良樹さんは、ここをお願いします」


 クラリスも続けた。


「良樹くんがいると、選びにくいものですので」


「……ああ、女物か」


 三人が一瞬固まる。


 良樹は、普通の衣類や身支度用品だと思っていた。


「なら、俺が行かない方がいいな」


 リシアは、少しだけ目を逸らした。


「ええ」

「そうして」


「気をつけて行ってこい」


「はい」


 カレンが小さく頷く。


 クラリスも微笑んだ。


「行ってきます」


 三人は、新居を出た。


   ◇


 三人が向かったのは、生活雑貨屋ではなかった。


 服屋でもない。

 普段着の店でもない。


 表通りから少し外れた、女性用の下着と夜着を扱う店だった。


 店の前で、リシアは一度立ち止まった。


 カレンはすでに顔を赤くしている。


 クラリスも、いつもの清楚な微笑みを浮かべてはいるが、耳が赤かった。


「……行くわよ」


 リシアが言った。


「は、はい」


「はい」


 三人は、店へ入った。


 店内には、柔らかな布が並んでいた。


 普段使いのもの。

 寝間着。

 薄い羽織り。

 そして、明らかに男に見せるためのもの。


 リシアは、一度だけ目を逸らした。


 カレンは、ほとんど棚を直視できなかった。


 クラリスは、静かに眺めていた。

 ただし、指先が少しだけ落ち着かない。


 店員たちは、すぐに三人に気づいた。


 この街で、良樹と三人を知らない者は、もうほとんどいない。


 魔石通信。

 魔導空調服。

 オーガ討伐。

 英雄認定。

 三人の婚約者。

 今日の引越し。


 噂は、店にも当然届いていた。


 店主らしき女性が、三人を見た。


 そして、すべてを察した顔で微笑んだ。


「……皆、奥を閉めて」

「今日は少し、落ち着いて選んでいただきましょう」


 若い店員が、すぐに頷く。


「はい」


 別の店員が奥へ走る。


「採寸布と柔らかい夜着も出します」


 リシアが慌てる。


「ちょ、ちょっと待ちなさい」

「まだ何も言ってないわよ」


 店主は、穏やかに微笑んだ。


「言わなくても分かります」

「近いうちに、英雄様の奥方様になられる方々ですね」


「奥方……」


 リシアの顔が赤くなる。


「お、奥方様……」


 カレンも真っ赤になった。


 クラリスが、静かに言う。


「まだ式はこれからです」


「では、奥方様になる方々ですね」

「そして今夜、必要なものをお探しなのでしょう?」


 三人は、完全に固まった。


 店員たちは笑わなかった。

 茶化しもしなかった。


 ただ、完全に仕事の顔になった。


「任せなさい」


 店主は言った。


「この街の女として」

「奥方様方に、半端な支度で大切な夜を迎えさせるわけにはいきません」


 その言葉に、カレンの目が少し潤む。


 リシアは、小さく息を吐いた。


「……助かるわ」


「はい」

「助けます」


 店主は頷いた。


 それから、少しだけ声を落とす。


「英雄様は、良い方なのでしょう?」


 リシアは、少しだけ考えてから答えた。


「……ええ」

「面倒だけど、良い男よ」


 カレンは、すぐに頷いた。


「はい」

「とても、優しいです」


 クラリスも続ける。


「誠実な方です」

「ただし、少し安全側へ逃げる癖があります」


 店主は、真顔になった。


「それは困りますね」


「困るのよ」


 リシアも真顔で頷いた。


 店主は三人を見た。


「では、今夜は逃がしてはいけません」

「女がここまで覚悟して立つのです」

「そこで遠慮を言い訳にされたら、傷になります」


「傷……」


 カレンが小さく呟く。


「はい」

「優しさと逃げは、似て見える時があります」

「でも、違います」

「今夜の奥方様方に必要なのは」

「逃げる優しさではなく、受け止める覚悟でしょう」


 クラリスが、静かに目を伏せた。


「……その通りです」


「なら、綺麗にしましょう」


 店主は、にこりと笑った。


「英雄様が、逃げる理由を失うくらいに」


   ◇


 店員たちは、完全に本気だった。


 一人はリシアを見た。


「奥方様は、赤が似合います」

「ただし、強すぎるとご本人が照れ負けします」

「深すぎない赤を」

「肌に当たるところは柔らかい布にしましょう」


「なんでそこまで分かるのよ」


「見れば分かります」

「強気な方ほど、いざという時に自分の照れで止まります」


「……否定しにくいわね」


 別の店員は、カレンの前に青い布をいくつか並べた。


「こちらの奥方様は、青ですね」

「普段より少し大人びた青」

「でも、怖くなりすぎないもの」

「背伸びは必要です」

「ですが、逃げ出したくなるものは駄目です」


「逃げ出したくなるもの……」


「好きな人に見せるのですから」

「怖くても、見てほしいと思えるものを選びましょう」


 カレンは、胸元で両手を握った。


「良樹さんに……見てほしいです」


「では、それが正解です」


 さらに別の店員は、クラリスを見る。


「奥方様は白ですね」


「やはり、白でしょうか」


「はい」

「ただし、清楚なだけではなく」

「今夜は、受け入れてもらうための白です」


 クラリスの耳が赤くなる。


「……なるほど」

「隠すための白ではないのですね」


「はい」

「見てもらうための白です」


 リシアは、思わず呟いた。


「この店、強いわね」


 店主は平然と言った。


「女の戦支度ですから」


 そのあと、店主は三人を奥の試着室へ案内する前に、少しだけ真面目な声で言った。


「初めての夜なら、見た目だけで選んではいけません」

「肌に痛いもの」

「締めつけるもの」

「自分で脱ぎにくいもの」

「怖くなるほど露出するもの」

「そういうものは避けましょう」


 リシアは、少しだけ目を細めた。


「……詳しいのね」


「仕事です」

「それに、私たちは女です」


 店主は、三人を見た。


「綺麗に見せることは大事です」

「でも、いちばん大事なのは」

「ご本人が、その格好で好きな人の前に立てることです」


 カレンの目が少し潤んだ。


「怖いなら、怖くていいんです」

「恥ずかしいなら、恥ずかしくていいんです」

「でも、逃げたくないものを選びなさい」


 クラリスは、静かに微笑んだ。


「……良い助言です」


 店主は頷いた。


「英雄様に伝えておいてください」

「女にここまでさせたなら、恥をかかせてはいけません、と」


 リシアは、小さく笑った。


「あいつなら、たぶん固まるわよ」


「固まるくらいなら許します」

「逃げたら、許しません」


 カレンは、赤い顔のまま小さく頷いた。


「逃げないで、ほしいです」


「なら、逃げる理由を減らしましょう」


 店主は優しく言った。


「そのためのお手伝いをします」


   ◇


 店を出た時、三人はそれぞれ小さな包みを抱えていた。


 誰も、すぐには喋らなかった。


 通りの人混みの中で、リシアが小さく言う。


「……本当に、買っちゃったわね」


「はい……」


 カレンが包みを胸元に抱える。


「はい」


 クラリスも頷いた。


「もう、戻れないわよ」


 リシアが言うと、カレンは顔を赤くしたまま、けれど目を逸らさなかった。


「戻りたく、ありません」


 リシアがカレンを見る。


 クラリスも、穏やかに微笑んだ。


「私もです」

「今夜、良樹くんに見てもらいます」


 リシアは、少しだけ息を吐いた。


「そうね」

「見てもらいましょう」

「私たちが、どれだけ待ってたか」


 三人は、新居へ戻った。


   ◇


 三人が新居へ戻った時、良樹は一階の作業場にいた。


 作業台の位置。

 工具箱の置き場。

 藤田の手記を湿気から避ける場所。

 魔石信号器と魔導空調服の部品を分ける棚。


 引越し初日から、良樹の頭は新しい動線を組み始めていた。


 だが、三人が入ってきた瞬間、その思考は止まった。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 三人は、それぞれ小さな包みを抱えていた。


 ただの買い物帰りではない。


 顔が赤い。

 視線が揺れている。

 けれど、逃げてはいない。


 良樹は、包みを見た。

 それから、三人の顔を見た。


 何を買ってきたのか。


 聞くまでもなかった。


 今夜、何をするつもりなのか。


 分からないふりは、できなかった。


「……戻ったか」


 それだけを言った。


 リシアが、小さく頷いた。


「ええ」


 カレンは包みを胸元に抱えたまま、目を伏せている。


 クラリスは静かに微笑んでいた。

 ただし、耳が赤かった。


 良樹は、一度だけ息を吸った。


 確認したいことは、いくらでもあった。


 何を買った。

 今夜使うのか。

 本当にいいのか。

 式はまだだぞ。

 怖くないのか。


 だが、そのどれも、今この場で聞く言葉ではなかった。


 聞けば、三人に言わせることになる。

 言わせれば、恥を重ねることになる。


 良樹は、喉元まで上がった確認を飲み込んだ。


 リシアは、包みを抱え直した。


「良樹」


「何だ」


「私たちは先にお風呂に入るわ」


「……ああ」


「そのあと、あんたが入りなさい」


「分かった」


 リシアは、一度だけ息を詰めた。


「私たちが出てから、一時間は入ってなさい」


 良樹の手が止まる。


「……一時間?」


「そう」


「一時間は長くないか」


 リシアは、真っ赤な顔のまま言った。


「女の子には準備ってものがあるのよ」


 良樹は黙った。


 カレンは包みを胸元に抱えたまま、真っ赤になって俯いている。

 クラリスも、いつものようには微笑めていなかった。


 良樹は、三人の顔を見た。

 包みを見た。

 それから、もう一度リシアを見た。


「……分かった」

「一時間だな」


 リシアは、小さく頷いた。


「途中で出てきたら、凍らせるわよ」


「風呂上がりに凍らせるな」


「なら、守りなさい」


「守る」


 即答だった。


 カレンが、小さな声で言った。


「……待ってます」


 クラリスも、ほんの少しだけ目を伏せて続けた。


「はい」

「待っています」


 良樹は、短く息を吐いた。


「……分かった」


 三人は、二階ではなく、まず浴室へ向かった。


   ◇


 三人が風呂から出たあと、良樹は浴室へ向かった。


 湯に浸かる。


 一時間。


 長い。


 ただ身体を洗うには長すぎる。


 だが、逃げるには短すぎる。


 湯気の中で、良樹は天井を見上げた。


 式はまだだ。

 町への報告も、ガレスとの調整も、藤田への確認も、何も終わっていない。


 だが、三人は今夜を選んだ。


 買い物に行った。

 風呂に入った。

 準備をしている。

 寝室で待つと言った。


 怖くないはずがない。

 恥ずかしくないはずがない。

 逃げ出したくないはずがない。


 それでも、三人は待っている。


 良樹は、湯の中で顔を覆った。


「……分かってるよ」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。


 三人にか。

 自分にか。

 それとも、胸の奥で黙っている父にか。


 女が、ここまでしている。


 その意味を、分からないふりはできなかった。


 一時間。


 良樹は、きっちり待った。


 早く出ることもできた。

 作業場に戻ることもできた。

 明日の段取りを確認することもできた。


 しなかった。


 湯を出て、身体を拭き、服を着る。


 そして、作業場には戻らなかった。


 二階へ上がる。


 主寝室の扉の前に立つ。


 扉の向こうは静かだった。


 良樹は一度、息を吸った。


「……良樹だ」


 少しの沈黙。


 中から、リシアの声がした。


「入って」


 良樹は、扉を開けた。


   ◇


 部屋の中央に、あの巨大な寝台がある。


 その前に、三人がいた。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 三人とも、昼間の服ではなかった。


 旅装でもない。

 部屋着でもない。

 寝間着とも違う。


 女として、男の前に立つための装いだった。


 リシアは、赤を選んでいた。


 強気な彼女らしい色なのに、今は頬まで赤く、その強さを必死に支えているように見えた。


 カレンは、青。


 いつもの清潔な印象を残したまま、それでも明らかにいつもより大人びていた。

 両手は胸元で握られている。

 震えている。

 けれど、逃げてはいない。


 クラリスは、白。


 清楚な色のはずなのに、夜の灯りの中では妙に熱を持って見えた。

 微笑んでいる。

 だが、その耳は赤かった。


 良樹の頭の中で、何かが落ちた。


 分かっていた。


 ここへ来る前から、分かっていた。


 それでも、実際に見た三人は、良樹の予想を軽く越えていた。


 接点が入らない。

 出力も出ない。

 警報だけが鳴っている。


 挿絵(By みてみん)


「……」


 三人も黙っていた。


 先に口を開いたのは、リシアだった。


「遅い」


 良樹は、ようやく声を出した。


「一時間は入ってろって言ったのは、お前だろ」


「そうよ」

「私たちが言った」

「私たちが決めた」

「最後に、もう一回だけ我慢するって決めたのよ」


 良樹は、言葉を失った。


 リシアは、赤い顔のまま、それでも目を逸らさなかった。


「今まで、ずっと我慢した」

「良樹が英雄になるまで」

「婚約者だからここまでって」

「まだ妻じゃないからって」

「あんたが逃げられる理由を、私たちも壊さないようにしてきた」


 カレンは、胸元で両手を握った。


「私も、我慢しました」

「怖いこともありました」

「恥ずかしいことも、たくさんありました」

「でも、それ以上に」

「良樹さんに、もっと近づきたかったです」


 クラリスは、静かに続けた。


「私もです」

「触れる理由を、身体確認や治療にしてきました」

「それが嘘だったとは言いません」

「ですが」

「それだけでは、ありませんでした」


 リシアは、一歩、良樹へ近づいた。


「この一時間が、最後の我慢だった」


 カレンも、赤い顔のまま頷いた。


「もう、我慢できません」

「良樹さんが好きです」

「良樹さんに、ちゃんと受け取ってほしいです」


 クラリスも、良樹を見つめた。


「私も、もう理由をつけません」

「治療でも、確認でもなく」

「女として、良樹くんの前にいます」


 リシアは、良樹をまっすぐ見た。


「だから、良樹」

「私たちがどれだけあんたを好きか」

「これから思い知りなさい」


 三人とも、もう余裕はなかった。


 怖さはある。

 恥ずかしさもある。

 式がまだだということも分かっている。


 それでも、もう待てなかった。


 良樹を好きだという気持ち。

 ここまで我慢してきた時間。

 妻になれるところまで来た安堵。

 女として求められたい欲。


 その全部が混ざって、三人を寝室に立たせていた。


 綺麗なだけの覚悟ではない。

 可愛いだけの恋でもない。


 良樹に抱かれたい。


 その本音を、もう誰も否定できなかった。


 良樹は、三人を見ていた。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 三人とも、震えていた。

 恥ずかしそうで。

 怖そうで。

 それでも、逃げていなかった。


 そして、好き勝手に言った。


 我慢した。

 もう我慢しない。

 どれだけ好きか、思い知れ。


 良樹は、ゆっくり息を吐いた。


「……三人とも、好き勝手言いやがって」


 リシアの眉が少し動く。


「好き勝手って何よ」


 良樹は、少しだけ目を伏せた。


「我慢?」


 低く、呟く。


「我慢なら、俺だって散々してきたんだぞ」


 三人が、息を止めた。


「こんな良い女たちを前に」

「今まで耐えてきた俺の自制心を、少しは褒めてほしいくらいだ」


 リシアの顔が、さらに赤くなる。


「なっ……」


「触れたいと思った」

「抱きしめたいと思った」

「俺のものにしたいと思った」

「それでも、ずっと耐えてきた」


 良樹は、少しだけ苦く笑った。


「保護回路が、何度も焼けかけた」

「それでも、安全側に逃がしてきた」


 リシアが、真っ赤な顔で言う。


「そこで保護回路に例えるの、本当にあんたね」


「悪い」

「でも、それくらい危なかったんだよ」


 良樹は、もう一度三人を見る。


「ああ、そうかよ」

「思い知れ、か」


 空気が、少し変わった。


 良樹の目が、昼間の英雄の目ではなくなる。


 技術者の目でもない。

 安全確認をする男の目でもない。


 もっと奥にあったもの。


 ずっと抑えていたもの。


 良樹は、一歩、三人へ近づいた。


「だったらよ」

「俺が今まで、どんな目で」

「どういう想いで、お前らを見てたか」


 言葉が、そこで一度止まった。


 脳裏に、あの時の自分の声が蘇る。


 ――俺の女たちに手ェ出しやがったな。


 ――許さねえ。


 オーガの前で。

 三人が倒れていて。

 怒りで、自分の中の保護回路が焼き切れたあの瞬間。


 あの時、口にした言葉。


 俺の女たち。


 美談にしてはいけない。

 暴走だった。

 最悪だった。

 再現していいものではなかった。


 それでも。


 あの言葉だけは、嘘ではなかった。


 良樹は、息を吐いた。


 もう、遠慮しなくていい。


 あの本音を、隠さなくていい。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 こいつらは、俺の女だ。


 良樹は、三人を見たまま言った。


「俺だって」

「お前らを、ただの仲間として見てたわけじゃねえ」

「婚約者だから大事にしてたわけでもねえ」

「英雄になる条件だから、守ってたわけでもねえ」


 一歩。


 また一歩。


「リシアを見てた」

「カレンを見てた」

「クラリスを見てた」


 三人は、動かなかった。


「可愛いと思った」

「綺麗だと思った」

「触れたいと思った」

「抱きしめたいと思った」

「俺のものにしたいと思った」


 カレンの目が、大きく揺れた。


 クラリスの指先が、震えた。


 リシアは唇を結んでいる。


 良樹は、逃げなかった。


「でも、我慢した」

「お前らを軽く扱いたくなかった」

「勢いで越えたくなかった」

「まだ届いてないのに、手だけ出す男にはなりたくなかった」


 そこまで言って、良樹は少しだけ苦く笑った。


「だから、耐えた」

「耐えたんだよ」

「こっちだってな」


 リシアの目に、うっすら涙が浮かんだ。


「良樹……」


「だけど」


 良樹は、そこで声を落とした。


「もう、いいんだな」


 三人は、息を呑んだ。


「もう、俺が遠慮しなくていいんだな」

「お前らを、俺の女として見ていいんだな」

「そういう目で見てきたことを」

「隠さなくていいんだな」


 リシアが、ゆっくり頷いた。


「いいわよ」

「そのために、ここにいるの」


 カレンも、震えながら頷いた。


「はい」

「良樹さんに、そう見てほしいです」


 クラリスは、静かに微笑んだ。


「はい」

「良樹くんの女として、見てください」


 良樹は、三人を見た。


 その瞬間、喉元まで別の言葉が上がった。


 式はまだだ。


 まだ、公の場で妻にしたわけではない。

 町にも、ギルドにも、正式には示していない。

 だから今日は。


 そこまで考えた瞬間。


 胸の奥で、聞き慣れた声が落ちた。


 ――女に恥をかかせるな。


 父の声だった。


 上村十鉄。


 口が悪くて。

 目も悪くて。

 現場の甘さを絶対に見逃さなかった男。


 その声が、今、盤でも図面でも工具でもない場所で響いた。


 ――女がここまでしてるんだぞ。


 良樹は、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。


 三人は、怖くないはずがない。

 恥ずかしくないはずがない。

 逃げ出したくないはずがない。


 それでも三人は、ここにいる。


 自分を呼んだ。

 自分のために装った。

 自分の前で、逃げずに立っている。


 ここで待てと言うのは、確認ではない。


 逃げだ。


 良樹は、ゆっくり息を吐いた。


「……分かった」


 三人の肩が、小さく揺れた。


 良樹は、一歩、寝室に入った。


「思い知れって言ったな」


 リシアが息を呑む。

 カレンが肩を震わせる。

 クラリスが目を伏せる。


 良樹は、もう逃げなかった。


「だったら」

「俺が今まで、どんな目でお前らを見てたか」

「どれだけ欲しかったか」

「どれだけ我慢してきたか」


 声が、低くなる。


「全部、お前らに刻み込んでやる」


 灯りが、小さく揺れた。


 良樹は、扉を閉めた。


 逃げるためではない。


 誰も、外に置かないために。


 リシアの手を取る。

 カレンの手を取る。

 クラリスの手を取る。


 三人とも震えていた。


 良樹の手も、少し震えていた。


 けれど、誰も離さなかった。


 灯りが、ひとつ落ちる。


 その夜。


 三人は、婚約者のままではいられなくなった。

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