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第81話 候補ではなく、英雄(挿絵有)

 翌朝。


 良樹は、作業場の机の前で少しだけ止まっていた。


 机の上には、昨日の試験記録が置かれている。

 魔導空調服。

 小型魔力モーター。

 ファン。

 ファンガード。

 魔力石保持部。

 職人用と冒険者用の仕様分け。

 腰側配置案。

 背中配置案。

 荷を背負う場合の干渉確認。

 汗、埃、耐久、魔力石の持続時間。


 書くべきことは、まだいくらでもあった。


 だが、今日はギルドへ呼ばれている。


 ガレスからの伝言は短かった。


 重要な話がある。

 三人も連れて来い。


 それだけだった。


 良樹は、机の上の紙を見た。

 手が伸びかける。


「良樹」


 後ろから、リシアの声がした。


「今、書こうとしたでしょ」


「……まとめようとはした」


「同じよ」


 リシアは腕を組んで立っていた。

 いつものように強気な顔をしている。

 けれど、その目の奥には少しだけ緊張があった。


 カレンは、その横で胸元に両手を添えている。

 クラリスは穏やかに微笑んでいるが、良樹の肩と呼吸を見ていた。


「重要な話、ですから」


 クラリスが言った。


「遅れない方がよいと思います」


「分かってる」


 良樹は紙を伏せた。


「ただ、何の話だ」


「分からないわ」


 リシアは短く答えた。


「でも、昨日からギルドの空気が少し変だった」


「変?」


「ええ。ガレスもニルも、妙に言葉を選んでいたわ」


 カレンが小さく頷く。


「あ、あの……怒られる話では、ないと思います」


「根拠は」


「ガレスさんの顔が、怒っている時とは違いました」


 良樹は少しだけ考えた。


「それは、信用できるのか」


「カレンは人の怖いところを見るのが上手いから、信用していいと思うわ」


 リシアが言う。


 カレンは少し照れたように目を伏せた。


「ただ」


 クラリスが続ける。


「良樹くんが自分で思っているより、良い話かもしれません」


「そういう時ほど警戒するんだよ」


 良樹が言うと、リシアは呆れたように息を吐いた。


「現場病ね」


「病気じゃねえ」


「症状は出てるわよ」


 クラリスが穏やかに頷いた。


「かなり慢性的です」


「治す気がなさそうなのが問題ですね……」


 カレンまで小さく言った。


 良樹は言い返そうとして、やめた。


 いつもの軽口だった。

 けれど、今日はその裏に少しだけ違うものがある。


 ギルドに呼ばれている。

 藤田が関わっている。

 三人を連れて来いと言われている。


 軽い話ではない。


 良樹は腰袋を確認した。

 工具はある。

 メモもある。

 紙も、最低限だけ入れた。


 リシアがそれを見て、少しだけ半眼になる。


「紙は持っていくのね」


「最低限だ」


「最低限で済んだ試しがある?」


「今日は書く時間もないだろ」


「それを信じたいわね」


 良樹は返事をせず、戸口へ向かった。


「行くぞ」


 三人は頷いた。


   ◇


 ギルドへ向かう道は、いつもと同じだった。


 朝の町。

 荷車が通る音。

 店の戸板を開ける音。

 水を撒く音。

 パンの焼ける匂い。

 鍛冶場の方から聞こえる、まだ軽い槌の音。


 何度も通った道だ。


 けれど今日は、少しだけ違って見えた。


 すれ違う人が、良樹たちを見る。

 いつもなら軽く会釈するだけの職人が、少し姿勢を正す。

 若い冒険者が、道の端で小さく頭を下げる。

 荷運びの男が、何か言いかけて、結局笑うだけで通り過ぎた。


 良樹は眉を寄せた。


「……何かあるな」


「あるわね」


 リシアも周囲を見ながら言った。


「でも、悪い空気ではないと思う」


 カレンは小さく頷いた。


「怖い感じでは、ありません」


 クラリスは良樹の横顔を見た。


「良樹くん」


「何だ」


「今日は、すぐ逃げる準備ではなく、受け取る準備をしておいた方がよいかもしれません」


「受け取る準備?」


「はい」


 クラリスは微笑んだ。


「良いものでも、急に渡されると良樹くんは避けようとしますから」


「避けねえよ」


 リシアとカレンが、同時に良樹を見た。


「避けるわよ」


「避けると思います……」


「そこまでか」


「そこまでです」


 クラリスが静かに言った。


 良樹は小さく息を吐いた。


 ギルドが見えてきた。


   ◇


 ギルドの入口に、ニルが立っていた。


 いつものような軽い調子ではない。

 背筋を伸ばし、少し緊張した顔をしている。


「良樹さん」


「ニル」


「お待ちしていました」


「何の話だ」


 良樹が聞くと、ニルは一瞬だけ困った顔をした。


「すみません」

「俺からは、まだ」


「まだ?」


「グランドマスターから直接、です」


 良樹は眉間に皺を寄せる。


「奥か」


「今日は、ホールです」


「ホール?」


 リシアが小さく反応した。

 カレンの肩も少し揺れた。

 クラリスは目を細める。


 ニルは扉を開けた。


「こちらへ」


 良樹たちは、ギルドの中へ入った。


 いつもより人が多い。


 受付の職員。

 依頼板の前にいる冒険者。

 端の席に座る職人。

 見覚えのある門番。

 治療所で見た顔。

 魔石通信の試験にいた若手。

 ノーラとケーン。

 ガレス。


 それぞれが、何気ない顔をしている。

 だが、何気なくはなかった。


 全員が、良樹たちを見ている。


 良樹は足を止めかけた。


 ガレスがホールの奥から声をかける。


「来たか」


「ああ」


「爺さんが待ってる」


「説明は」


「行けば分かる」


「お前ら、最近そればっかりだな」


 ガレスは少しだけ笑った。


「今日は、俺が説明する日じゃねえ」


 そう言って、中央へ視線を向ける。


 そこに、藤田吾郎が立っていた。


   ◇


 藤田は、ホールの中央にいた。


 昨日までのように椅子へ深く腰掛けてはいない。

 杖も持っていない。

 ただ、静かに立っている。


 好々爺ではなかった。


 ギルドの頂点。

 この世界で英雄と呼ばれた男。

 昭和二十年の日本から来て、六十年を生きた技術者。


 そのすべてを背負った目で、良樹を見ていた。


 ホールの奥の扉は開け放たれている。

 その向こうには、外の光が見える。

 町の音も、わずかに入ってきていた。


 良樹は藤田の前まで歩き、姿勢を正した。


「来たか、良樹」


「はい」


 藤田は、次に三人を見た。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


「三人の娘も、よく来た」


「はい」


 リシアが答える。

 カレンとクラリスも、少し緊張した面持ちで頷いた。


 藤田は一度、ホールを見渡した。


 それから、良樹へ視線を戻す。


「今日は、お主に問う」


 良樹の背筋が、わずかに伸びた。


「はい」


「良樹」


 藤田の声は静かだった。


「英雄とは、何じゃ」


 ホールの空気が止まった。


 良樹は、すぐには答えられなかった。


 英雄。


 何度も口にしてきた言葉だった。

 三人を妻にするために、英雄になる。

 藤田にそう言われた。

 ガレスにも、ニルにも、三人にも、その言葉は付きまとってきた。


 英雄候補。


 今の自分は、まだ候補だ。

 そう何度も言ってきた。


 だが。


 英雄とは何か。


 そう問われると、答えは簡単ではなかった。


 強い者か。

 魔物を倒す者か。

 町を救う者か。

 名を呼ばれる者か。


 どれも違う気がした。


 良樹は、ゆっくり息を吸った。


「……分かりません」


 ホールに、小さなざわめきが生まれた。


 良樹は続ける。


「すみません」

「正直、分かりません」


 藤田は、少しも表情を変えなかった。


「続けなさい」


 良樹は頷いた。


「最初は」


 そこで一度、言葉を選ぶ。


「三人を妻にするための条件だと思っていました」


 三人の息が、少しだけ揺れた。


 リシアは目を見開く。

 カレンは胸元で両手を握る。

 クラリスは、静かに良樹を見る。


 良樹は、逃げずに言った。


「英雄になれば、三人を妻にできる」

「だから、英雄になりたい」

「そう思っていました」


 ホールの空気が、少し変わる。


 良樹は、さらに続けた。


「今でも、その気持ちがなくなったわけじゃありません」


 一人ずつ、名前を見る。


「リシアを」

「カレンを」

「クラリスを」


 一拍。


「妻にしたい」

「それは、今も変わっていません」


 三人の顔が赤くなる。

 だが、誰も茶化さなかった。


 藤田が問う。


「では、それだけか」


 良樹は首を横に振った。


「……違います」


   ◇


「日本に未練がないわけではありません」


 良樹は言った。


 その一言に、三人の表情が変わった。


「今でも、帰れたらと頭をよぎることがあります」


 リシアの指が、服の端を握った。

 カレンは唇を小さく結ぶ。

 クラリスの目が、わずかに伏せられる。


 良樹は、それを見ていた。


 けれど、言わなければならないと思った。


「親父のことも」

「元の現場のことも」

「忘れたわけじゃありません」


 胸の奥で、声がした。


 動かす前に、止め方を考えろ。


 いつもの、口の悪い父の声。

 現実で聞いた最後の声。


「親父の声は、まだ残っています」

「動かす前に、止め方を考えろって」


 良樹は、自分の右手を少しだけ握った。


「たぶん、俺が何を作っても」

「何と戦っても」

「そこだけは消えません」


 藤田は黙って聞いていた。


 ホールも静かだった。


 帰りたいと思うことがある。


 その言葉は、三人に刺さった。

 だが、良樹がそれを隠さず言ったことも、同じくらい重かった。


 良樹は続ける。


「でも」


 声が、少しだけ低くなる。


「この世界は、安全ではないことが多すぎます」


 藤田の目が、わずかに細くなった。


「止め方がない」

「逃げ道がない」

「怖い場所に、人が立たされている」

「壊れてから治せばいい、みたいなことが普通にある」

「読めた気がする、で済ませようとする」

「端に立たないと見えないなら、それでいいと思っている」

「倒れたら治せばいい」

「死ななければいい」


 良樹は、ゆっくり息を吐いた。


「そういうものが、多すぎます」


 カレンが、胸元の手を強く握った。


 怖い場所。

 端に立たされること。

 見なければならない場所。


 それを、良樹は嫌だと言った。


 クラリスの目も揺れていた。


 壊れてから治せばいい。

 その考えを、良樹は嫌だと言った。


 リシアは、良樹を見つめていた。


 この世界。

 自分たちの世界。

 良樹が、異世界から来た男が、その世界の安全でなさを語っている。


「俺一人がいたところで」


 良樹は言った。


「大したことはできないのかもしれません」


 藤田が静かに促す。


「ふむ」

「それで」


 良樹は、藤田を見た。


「でも」


 一拍。


「それだけで済ませるには」

「俺は、この世界と関わりすぎました」


 言葉が、ホールに落ちる。


「好きになりすぎました」


 リシアの顔が、崩れかけた。


 良樹は続けた。


「三人だけじゃありません」

「ガレス」

「ニル」

「ノーラ」

「ケーン」

「ギルドの人たち」

「冒険者たち」

「職人たち」

「町の人たち」

「まだ会えていない、この世界に生きている人たち」


 名前を、置く。

 顔を、思い出す。


「俺は」


 良樹は、言葉を探しながら言った。


「この世界の人たちが」

「安全でなくなるのが嫌です」


 カレンの目から、涙が落ちた。


 本人も、驚いたように瞬きをした。

 だが、止まらなかった。


 リシアは唇を噛んだ。

 泣かないつもりだった。

 胸を張って良樹の隣に立つつもりだった。


 けれど。


 この世界を好きになりすぎた。


 その言葉が、どうしようもなく胸に入った。


 クラリスは、静かに目を伏せた。

 長い睫毛の下から、涙が一筋落ちる。


   ◇


 良樹は、まだ続けた。


「オーガと戦った時」

「俺は、藤田さんから受け継いだ力を」

「褒められた方法ではないやり方で使いました」


 藤田は何も言わない。


「保護回路を殺して動かした」

「止め方を持たないまま、出力だけ通した」

「それは最悪でした」


 ホールの奥で、誰かが息を呑んだ。


「でも」


 良樹は、そこで三人を見た。


「それでも」

「あの時、三人を守ろうとしたことが」

「間違いだったとは、今でも思いません」


 リシアが目を閉じた。

 カレンが涙をこぼしたまま、良樹を見る。

 クラリスは、唇を小さく震わせた。


「ただ」


 良樹は右手を見た。


「あのやり方を、繰り返しちゃいけない」

「同じ失敗は、もうしません」

「次は、止め方を考えます」

「逃げ道を作ります」

「俺一人で抱えない形にします」


 藤田の目が、深くなる。


 良樹の声は、少しずつ敬語から外れ始めていた。


「俺は」


 良樹は、自分でも気づかないまま言った。


「俺にできることを、全部やり続けていきたいです」


 藤田が問う。


「いつまでじゃ」


 良樹は、すぐには答えなかった。


 それから、静かに言った。


「多分、死ぬまで」


 ホールが静まり返った。


「そうやって歩いて」

「道を作ってくれた大先輩が」

「今、俺の目の前にいてくれてる」


 良樹は藤田を見た。


「その先輩に」

「恥をかかせるような真似もしたくねえ」


 言ってから、良樹ははっとした。


「……すみません」

「口調が悪かったです」


 藤田は、目を細めた。


 かつての自分と同じではない。


 だが、似ている。


 帰る場所を置いてきた目。

 失敗を忘れられない目。

 自分の力に怯え、それでも使い方を探す目。

 安全でないものを、そのままにできない目。

 人が死ぬ現場を、仕方ないで済ませられない目。


 英雄とは何か。


 この若造は、綺麗な定義を出してはいない。

 言葉は不器用だ。

 途中で口調も崩れた。

 答えの形も、整ってはいない。


 だが、それでよかった。


 英雄という言葉を飾る者ではない。

 背負うものを見ている。


 藤田は、静かに息を吐いた。


「あい、分かった」


 良樹は顔を上げた。


「いえ、まだ俺は、英雄とは何かに答えられて――」


「答えたわ」


「え?」


 藤田は、良樹から視線を外し、ホール全体を見た。


 そして、背筋を伸ばす。


「では」


 その声が、ギルドホールに響いた。


「グランドマスターの名において宣言する」


 ガレスが背筋を伸ばした。

 ニルが息を呑んだ。

 ノーラとケーンも、黙って藤田を見る。

 ギルド職員たちが、一斉に姿勢を正した。


 良樹だけが、まだ状況についていけていなかった。


「我らギルドは」


 藤田の声は、静かだが、よく通った。


「ここにいる男」

「上村良樹を」


 一拍。


「正式に、英雄として認定する!」


 良樹の息が止まった。


 藤田はさらに声を張る。


「異論のある者は居るか!」


 沈黙。


 一瞬だけ、ホールが完全に止まった。


 誰も異論を唱えない。


 次の瞬間、低いざわめきが広がった。


 それは戸惑いではなかった。

 疑問でもなかった。


 喜びだった。


「ちょ、待ってください」


 良樹が慌てて言う。


「俺は、あなたの質問に答えられて――」


「やれやれ」


 藤田は呆れたように笑った。


「お主は筋は悪くないんじゃが」

「野暮なところは、少し治さねばのう」


「野暮……?」


「ほれ」


 藤田は、顎で良樹の後ろを示した。


「振り返って、後ろを見てみい」


 良樹は、ゆっくり振り返った。


   ◇


 そこに、人がいた。


 ギルドホールいっぱいの人。


 冒険者。

 職人。

 ギルド職員。

 門番。

 治療所の者。

 魔石通信の試験に関わった者。

 魔導空調服を試した者。

 若手冒険者。

 衛兵。


 ノーラ。

 ケーン。

 ニル。

 ガレス。


 開け放たれた扉の外にも、人がいる。

 町の人々が、こちらを見ていた。


 良樹は、そこで初めて気づいた。


 このホールは、ただの呼び出しの場ではなかった。


 見せるための場だった。


 最初に、小さな拍手が起きた。


 誰か一人が手を叩いた。

 それに、もう一人が続いた。

 さらに別の誰かが続く。


 拍手は、少しずつ大きくなった。


 やがて、ホールを満たした。


「英雄だ!」


 誰かが叫んだ。


「良樹!」


「よくやった!」


「ありがとう!」


「俺たちの英雄だ!」


 歓声が、良樹を包んだ。


 良樹は固まっていた。


 褒められる理由はある。

 町を救ったことも事実だ。

 発明をしたことも、改善を続けたことも、否定はしない。


 だが、自分の中にはまだ焼け跡がある。


 暴走した。

 失敗した。

 止め方がなかった。

 まだ足りない。


 その思いが、歓声をうまく受け取らせなかった。


 だから良樹は、歓声より先に三人を見た。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 三人は、泣いていた。


   ◇


 リシアは、泣かないつもりだった。


 良樹が英雄になるなら、隣で胸を張るつもりだった。

 自分は良樹の共同制御者だ。

 必要な魔法使いだ。

 良樹の盤に入る女だ。


 だから、泣くより先に、誇るつもりだった。


 けれど。


 この世界と関わりすぎました。

 好きになりすぎました。


 その言葉で、崩れた。


 良樹は、異世界から来た。

 日本に帰りたいと思うことがあると言った。

 父も、元の現場も忘れていないと言った。


 それでも。


 この世界を好きになりすぎた、と言った。


 リシアのいる世界を。

 カレンのいる世界を。

 クラリスのいる世界を。


 好きになりすぎた、と。


 涙が止まらなかった。


 カレンは、両手で口元を押さえていた。


 この世界の人たちが、安全でなくなるのが嫌です。


 その言葉が、胸に刺さった。


 カレンは怖い場所を見る。

 怖い場所に剣を置く。

 怖いままでも、逃げずに立とうとする。


 良樹は、強くなりたいから英雄になるのではなかった。

 人が安全でなくなるのが嫌だから、やり続けたいと言った。


 自分の男を見る目は、間違っていなかった。


 良樹を好きになってよかった。


 そう思ったら、もう駄目だった。


 クラリスは、静かに涙をこぼしていた。


 良樹は、暴走を美談にしなかった。

 保護回路を殺して動かしたと言った。

 最悪だったと言った。


 それでも、三人を守ろうとしたことは間違いではないと言った。


 壊れたことをなかったことにしない。

 けれど、守ろうとした心まで壊さない。


 その答えが、クラリスには救いだった。


 治す前に止める。

 壊れた事実は消えない。


 その考えを、良樹はちゃんと受け取っていた。


 三人は、自然と抱き合った。


 誰か一人が選ばれた喜びではない。

 誰か一人が勝った涙でもない。


 三人で、同じ男を好きになった。

 三人で、同じ男の答えを聞いた。

 三人で、その男がこの世界を選ぶ言葉を聞いた。


 だから、抱き合って泣いた。


 良樹は、その三人を見ていた。


 歓声よりも。

 拍手よりも。

 藤田の宣言よりも。


 三人の涙が、良樹に届いた。


 自分は、英雄になったのだと。


 その重さが、ようやく胸に落ちてきた。


   ◇


「のう、良樹」


 藤田の声がした。


「……はい」


「ワシの隣に立ちなさい」


 良樹は藤田を見る。


「俺が、ですか」


「他に誰がおる」


 藤田は静かに言った。


「よいから、立て」


 良樹は一歩進み、藤田の隣に立った。


 その位置から、ホールを見る。


 さっきまで見ていた景色とは違った。


 人が見える。


 顔が見える。


 笑っている顔。

 泣いている顔。

 誇らしげな顔。

 照れくさそうな顔。

 手を叩く顔。

 名前を呼ぶ顔。


 その奥に、町の光が見えた。


 藤田が言う。


「これが」


 一拍。


「英雄が見ている景色じゃ」


 良樹は何も言えなかった。


「称号ではない」

「褒美でもない」

「自分を飾る名でもない」


 藤田は、良樹の横で人々を見ていた。


「この顔を、背負うということじゃ」


 良樹の喉が鳴った。


 怖い。


 そう思った。


 重い。

 逃げたい。

 自分でいいのかと疑いたい。


 だが、目は逸らせなかった。


 藤田が問う。


「怖いか」


 良樹は、正直に答えた。


「……怖いです」


「よい」


 藤田は頷いた。


「怖くない者に、背負わせてはならん」


 良樹は息を吸った。


 藤田は、さらに言った。


「この世界のことを頼んだぞ」


 その言葉が、胸に入った。


 父の声が、胸の奥で鳴る。


 動かす前に、止め方を考えろ。


 藤田の手記が、胸の奥で開く。


 失敗を書け。

 直せ。

 残せ。

 次へ渡せ。


 三人の声がある。


 逃げないで。

 お願い、です。

 ここにいて。

 治す前に、止めます。


 ガレスの声もある。


 お前は、俺の街を救った。


 良樹は、人々を見た。


 それから、藤田を見た。


「やります」


 一拍。


「やれます」


 さらに一拍。


「やって見せます」


 藤田は、目を細めた。


「良い答えじゃ」


 その声は、静かだった。


 だが、良樹には十分だった。


   ◇


 藤田は、軽く良樹の背を押した。


「行け」


「え」


「最初に見せる顔を間違えるでないぞ」


 良樹は、三人を見た。


 リシア、カレン、クラリス。


 三人は、まだ泣いていた。

 抱き合ったまま、良樹を見ていた。


 良樹は、ゆっくり歩いた。


 歓声の中を。

 拍手の中を。

 英雄と呼ぶ声の中を。


 けれど、良樹の目は三人を見ていた。


 三人の前で、良樹は足を止めた。


 リシアが涙を拭おうとして、失敗した。

 カレンは泣きながら笑おうとして、顔がくしゃりと歪んだ。

 クラリスは涙をそのままに、静かに良樹を見ていた。


 良樹は、少しだけ困ったように笑った。


「……待たせた」


 その一言で、三人が崩れた。


「良樹……!」


 最初に飛び込んだのはリシアだった。


「良樹さん……!」


 次にカレン。


「良樹くん……!」


 クラリスも、迷わず腕を伸ばした。


 三人が、良樹へ飛び込む。


 良樹は、今度こそ逃げなかった。


 受け止めた。


 リシアの肩を。

 カレンの背を。

 クラリスの腕を。


 三人を、三人のまま抱きしめた。


 挿絵(By みてみん)


 歓声が、さらに大きくなる。


 ガレスが笑っていた。

 ニルが泣きそうな顔で拍手していた。

 ノーラは腕を組んで、満足そうに頷いていた。

 ケーンは静かに拍手していた。

 藤田は、その光景を見て、少しだけ目を細めた。


 良樹は三人を抱きしめながら、まだ震えていた。


 怖い。

 重い。

 足りない。


 けれど。


 逃げる気はなかった。


 英雄候補は、その日、候補ではなくなった。


 候補ではなく、英雄として。

 そして、三人の夫になる男として。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


第81話にて、良樹はようやく「英雄候補」ではなく、「英雄」として認められるところまで来ました。


何とか無事にタイトル回収まで漕ぎ着けることができたのも、ここまで物語に寄り添い、良樹たちを見守ってくださった皆様のおかげです。


本当にありがとうございます。


少しでも面白い、続きが気になる、三人と良樹の行く先をまだ見てみたいと思っていただけましたら、ブックマークや評価などで応援していただけると、とても励みになります。


今後ともよろしくお願いいたします。

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