第79話 出遅れてない?(挿絵有)
翌日。
三人部屋には、妙な静けさがあった。
静か、と言っても、誰も喋っていないわけではない。
カレンは衣装箱の中を整理していた。
クラリスは洗濯物を畳んでいた。
リシアは卓の前で、昨日の妻会議の内容を紙にまとめていた。
ただ、その筆が時々止まる。
事故を狙うのは禁止。
良樹を困らせる誘導は禁止。
抜け駆けは禁止。
治療や確認を免罪符にしない。
ただし、良樹に女の子として見てほしい、触れてほしいと思うこと自体は禁止しない。
そこまでは書けた。
けれど、その先で止まる。
リシアは、昨日のことを思い出していた。
カレン。
良樹に胸を触られた事故を、良樹が覚えていた。
さらに、カレンの胸も好きだと言われた。
カレンは恥ずかしがっていた。
けれど、確かに救われていた。
クラリス。
自分だけ触れられていないことに気づいて、泣いた。
良樹に、胸に触れてほしいとお願いした。
事故ではあった。
いや、あれは本当に、何だったのか今でも分からない。
床板も敷布も魔法反応も異常なし。
神のいたずらとしか書けないあれで、クラリスは良樹に触れてもらった。
そして最後に。
嬉しかったです。
そう言えた。
リシアは、紙の上で筆を止めた。
嬉しかった。
それは、良かった。
本当に良かった。
カレンが救われたことも。
クラリスが自分の気持ちを言えたことも。
二人が進んだことも。
全部、良かった。
良かった、はずなのに。
「リシア」
カレンの声がした。
リシアは顔を上げる。
「何?」
カレンは少しだけ迷ったように、両手を胸元で握った。
「少しだけ」
「寂しそうです」
「寂しくなんてないわよ」
返事は早かった。
早すぎた。
カレンが小さく瞬きをする。
クラリスも洗濯物を畳む手を止めた。
リシアは、誤魔化すように紙へ視線を戻す。
「カレンもクラリスも、ちゃんと進んだんだから良いことでしょ」
「私がどうこう言う話じゃないわ」
「リシア」
今度はクラリスが言った。
柔らかい声だった。
けれど、逃がさない声でもあった。
「リシアは、良樹くんに必要とされています」
「……何よ、急に」
「良樹くんの盤に、リシアの魔法は必要です」
「共同制御者としても、良樹くんはリシアを信頼しています」
「そうね」
「それは、分かってるわ」
「ですが」
クラリスは静かに続けた。
「必要とされることと、女の子として見られることは、同じではありません」
リシアの筆が止まった。
カレンも、少しだけ心配そうにリシアを見る。
リシアは、反論しようとした。
そんなことは分かっている。
自分はそんなことで悩んでいるわけではない。
カレンやクラリスと競っているつもりもない。
そう言おうとした。
けれど、声にならなかった。
「……分かってるわよ」
出たのは、それだけだった。
◇
夕方。
リシアは一人で廊下を歩いていた。
カレンとクラリスは部屋にいる。
良樹は作業場だ。
いつものように、何かの記録を整理しているらしい。
リシアは浴場へ向かっていた。
ただ、頭の中は浴場ではなかった。
カレン。
クラリス。
良樹。
その三つが、ぐるぐると回っている。
嫉妬ではない。
少なくとも、リシアはそう思っていた。
カレンが嬉しそうだったことは、本当に良かった。
カレンはずっと、自分の身体のことを気にしていた。
良樹が覚えていて、しかも好きだと言った。
あれは、カレンに必要な言葉だった。
クラリスもそうだ。
クラリスはいつも、良樹に触れる側だった。
治す側。
見る側。
止める側。
良樹の身体の非常停止。
だからこそ、自分も良樹に触れてほしいと言えたことは大きかった。
あれも、クラリスに必要な一歩だった。
では。
私は?
リシアは、廊下の途中で足を止めかけた。
私は、最初に良樹と会った。
あの川で。
水浴び中に、空から良樹が落ちてきた。
良樹は私を見た。
見えてしまった、では足りない。
あの男は、ちゃんと自分で「見た」と認めて謝った。
その後、私は凍らせた。
当然だ。
今でも、当然だと思っている。
けれど、あの時と今は違う。
良樹は、もう知らない男ではない。
私は、もう知らない女ではない。
私は良樹の婚約者だ。
良樹の盤に、私の魔法は必要とされている。
良樹の設計に、私の制御は必要だと言われている。
共同制御者。
戦う時に、隣で流れを合わせる女。
それは嬉しい。
嬉しいのだ。
嘘ではない。
けれど。
私は、良樹に女として見られているの?
その問いが、胸の奥で小さく鳴った。
鳴ったまま、消えなかった。
リシアは、浴場の前に立った。
扉の横には札がある。
入浴中。
ちゃんとかかっていた。
だが、リシアはそれを見ていなかった。
脱衣所へ入る。
良樹の服があった。
替え布もあった。
脱いだばかりの気配もあった。
けれど、リシアの頭はまだ問いの中にいた。
良樹に必要とされている。
では、女としては?
カレンは進んだ。
クラリスも進んだ。
私は。
出遅れてない?
リシアは、自分一人で入るつもりだった。
だから、服を脱いだ。
身体ににバスタオルを巻いただけ。
ひとりなら、それでよかった。
ひとりなら。
リシアは、そのまま浴室の扉を開けた。
◇
湯気が、ふわりと流れた。
浴槽の中に、良樹がいた。
良樹が、こちらを見た。
「……リシア?」
リシアも固まった。
「……良樹?」
一拍。
良樹の顔が、みるみる青ざめる。
「ま、待て」
「俺はちゃんと札は掛けたし、服だってそこにあるだろ!」
その言葉で、リシアはようやく自分の状態を理解した。
服はない。
身体にバスタオルを巻いているだけ。
足元も肩も、ほとんど隠れていない。
完全に、油断していた。
顔から火が出るかと思った。
「…………ッキャ」
叫びかけた。
その瞬間。
――その時、リシアに電流走る。
出遅れ。
恥。
良樹。
好き。
婚約者。
事故。
カレン。
クラリス。
最初の水浴び。
凍らせた川。
見られた女。
謝る良樹。
怒る自分。
そして、終わり。
駄目だ。
ここで悲鳴を上げれば、終わる。
良樹は謝る。
私は怒る。
良樹は逃げる。
そしてこの出来事は、ただの事故になる。
それは駄目だ。
私は、また見られた女で終わりたいわけじゃない。
リシアは、喉まで出かかった悲鳴を飲み込んだ。
胸元のバスタオルを震える指で押さえる。
「……ごめん」
「ちょっと考え事してて、気付かなかったの」
良樹は、明らかに混乱していた。
「お、おう、そうか」
「なら早く出――」
そこで、リシアは口を開いた。
清水の舞台から飛び降りるような覚悟で。
この世界に清水の舞台はない。
けれど今のリシアにとっては、間違いなくそれくらいの高さだった。
「ねぇ」
声が震えた。
「……一緒に入っていい?」
良樹の顔から、表情が消えた。
「…………は?」
良樹の頭の中で、何かが落ちた音がした気がした。
たぶん、漏電遮断器だった。
いや。
それだけでは済まない。
主幹も怪しい。
「待て待て待て待て」
良樹は、浴槽の中で両手を上げた。
「駄目だろ」
「それは駄目だろ」
「事故じゃ済まねえだろ」
リシアは、真っ赤な顔のまま、逃げなかった。
「事故で済ませたくないのよ」
良樹が黙った。
湯気だけが二人の間を流れる。
「別に、混浴したいって言ってるわけじゃない」
「全部見せたいとか、そういう話でもない」
「でも」
リシアは、少しだけ唇を噛んだ。
「また、事故だったわね、で終わらせたくないの」
「リシア」
「見ないでいい」
「今は見ないでいいから」
リシアは、胸元のバスタオルをぎゅっと押さえた。
「でも、逃げないで」
良樹は何も言えなかった。
その顔を見て、リシアは一度だけ目を閉じる。
そして、照れ隠しのように声を強くした。
「良樹」
「……何だ」
「体、洗ってあげるから出なさいよ」
「え、いや俺はもう終わっ――」
「い・い・か・ら、出なさい」
「……はい」
良樹は、逆らわなかった。
◇
良樹は浴槽から出た。
もちろん、リシアの方は見ない。
見られるはずがなかった。
壁の方を向き、洗い場の椅子に腰を下ろす。
背中を向ける。
両手は膝の上。
視線は壁。
現場で言えば、完全停止。
主電源遮断。
手元開閉器オフ。
作業中札まで掛けたい状態だった。
その少し後。
ぽす、と。
良樹の視界の端に、濡れたバスタオルが置かれた。
呼吸が止まった。
「リシア」
「何よ」
「今、何を置いた」
「バスタオル」
「何で置いた」
「濡れたから」
「なら新しいのを巻け」
「今からあんたの背中を洗うのに、邪魔でしょ」
「邪魔とかそういう問題じゃねえだろ」
背後で、リシアが息を吸う気配がした。
彼女も、平気なわけではなかった。
むしろ、声だけで分かるほど震えている。
「……振り向かないでよ」
「振り向くわけねえだろ」
「なら、いいわ」
「よくねえよ」
「私が、いいって言ってるの」
良樹は、壁を見たまま口を閉じた。
背後にいるリシアが、どんな顔をしているのか分からない。
ただ、分かることはある。
逃げていない。
リシアは、逃げていない。
「触っていいなんて言ってない」
「見ていいとも言ってない」
「そこは、まだ駄目」
「だったら何で――」
「でも」
リシアの声が、小さくなった。
「逃げないでほしいの」
良樹は、何も返せなかった。
背中に、泡立てた布が触れた。
「……っ」
「力、強くない?」
「……大丈夫だ」
「じゃあ、変な声出さないでよ」
「出してねえ」
「出しそうな背中してるのよ」
「背中で分かるのかよ」
「分かるわよ」
いつものやり取り。
の、はずだった。
けれど、距離が近すぎた。
肩。
背中。
首の下。
肩甲骨のあたり。
リシアの手つきはぎこちなかった。
泡立てた布を動かすだけなのに、指先が震えているのが背中越しに分かる。
何度か、柔らかいものが背中に当たった。
むにょん。
良樹の呼吸が止まる。
「……良樹」
「何も言ってねえ」
「何か考えたでしょ」
「考えてねえ」
「嘘」
「考える前に遮断した」
「何をよ」
「全部だ」
「それはそれで腹立つわね」
「無理を言うな」
リシアは真っ赤になっていた。
良樹には見えない。
見えないが、リシア自身には分かる。
恥ずかしい。
死ぬほど恥ずかしい。
でも、手を止めなかった。
ここで止めたら、ただの事故になる。
ここで逃げたら、また良樹は謝って終わる。
それは嫌だった。
自分で言った。
自分でここに立った。
自分で、良樹の背中に触れている。
だから、逃げない。
リシアはもう一度、良樹の背中を洗おうとして、少しだけ身を乗り出した。
濡れた肌。
泡。
近い距離。
柔らかい感触の中に、今までとは違う、小さな刺激が混じった。
つん。
良樹の背中に、妙に明確な感触が当たった。
良樹の中で、漏電遮断器が落ちた。
いや。
漏電遮断器だけでは済まなかった。
盤内照明が消えた。
表示灯も消えた。
タッチパネルは再起動中になった。
現場監督が「誰だ今の操作した奴」と叫ぶレベルで、思考が落ちた。
「…………リシア」
「言わないで」
「いや」
「言わないで」
「でも今のは」
「言わないでって言ってるでしょ!」
リシアの声は怒っていた。
けれど、逃げてはいなかった。
当たった。
分かっている。
良樹にも分かった。
自分にも分かった。
恥ずかしい。
死ぬほど恥ずかしい。
けれど。
嫌ではなかった。
嫌ではないどころか、良樹が完全に固まったことに、胸の奥が少しだけ熱くなった。
女として、意識された。
その事実が、悔しいくらい嬉しかった。
◇
「はい、終わり」
リシアの声が、背中のすぐ後ろでした。
良樹は壁を見たまま、息を吐く。
「お、おう……」
終わった。
終わったはずだった。
良樹はそう判断した。
リシアが自分から言い出したこととはいえ、これ以上は危ない。
ここで立ち上がり、礼を言って、絶対に振り向かずに浴槽へ戻る。
それが最善手だ。
そう判断した瞬間。
背中に、リシアが触れた。
腕が回る。
肩越しではなく、後ろから。
濡れた肌の気配と、柔らかな体温が、良樹の背中に重なった。
ふに。
ぷよ。
ぽよ。
つん。
良樹の思考は、そこで停止した。
主幹が落ちた。
漏電遮断器も落ちた。
盤内照明も消えた。
表示灯も消えた。
非常停止を押す前に、制御盤そのものが沈黙した。
「……リシア?」
「振り向かないで」
声が震えていた。
いつもの強気な声ではない。
怒っている声でもない。
命令の形をしているのに、奥にあるのは必死さだった。
良樹は、壁を見たまま動けなかった。
「……分かった」
リシアの腕に、少しだけ力が入る。
背中に伝わる熱。
肩に触れる指。
近すぎる距離。
良樹は、息の仕方を忘れかけた。
「良樹」
「……何だ」
「逃げないで」
「逃げてねえ」
「身体じゃないわよ」
良樹は、答えられなかった。
リシアは、背中に額を押し当てるようにして、少しだけ声を落とした。
「カレンは、良樹に覚えていてもらえた」
「クラリスは、触れてほしいって言えた」
「二人が進んだのは、嬉しいの」
「本当に、嬉しい」
そこで一度、リシアの声が揺れた。
「でも」
「私だけ、何をしてるんだろうって思った」
良樹の膝の上の手が、少しだけ握られる。
「リシア」
「黙って聞いて」
「……ああ」
「私は、最初にあんたと会った」
「最初に見られた」
「最初に凍らせた」
「一緒に魔法を組んだ」
「あんたの盤に、私の魔法が必要だって言われた」
リシアは、そこで小さく息を吸った。
「それは嬉しい」
「嬉しいのよ」
「でも」
腕に力が入る。
「私は」
「あんたに必要な魔法使いなだけなの?」
良樹の呼吸が止まった。
「便利な共同制御者?」
「戦う時に必要な女?」
「あんたの盤に必要な魔法?」
リシアの声が、少しだけ震えた。
「それだけ?」
良樹は、すぐには答えなかった。
浴場の湯気が揺れる。
水音だけが、小さく響く。
リシアは、背中に額を押し当てたまま続けた。
「私は」
「あんたに、女として見られてるの?」
良樹は、壁を見たまま目を閉じた。
逃げ道はいくらでもあった。
今は場所が悪い。
服を着てから話そう。
落ち着いてからにしよう。
これは事故だ。
今の状態で言うべきじゃない。
どれも正しい。
正しいが、それは全部、逃げだった。
リシアは逃げなかった。
悲鳴を上げてもよかった。
怒って出ていってもよかった。
全部を事故にしてもよかった。
それでも、ここに残った。
なら。
良樹が逃げていい理由はなかった。
「見てる」
短く、良樹は言った。
リシアの腕が止まった。
「……何を」
「お前を」
「女として、見てる」
リシアの息が、背中で小さく跳ねた。
良樹は続ける。
「リシアの魔法が必要なのは本当だ」
「お前の制御がなきゃ、俺の盤は成立しない」
「そこは嘘じゃねえ」
「……うん」
「でも、それだけじゃねえ」
良樹は、膝の上の手を握った。
「最初に川で会った時」
「あれは最悪だった」
「俺が悪かった」
「今でも、あれは謝るしかねえ」
「凍らせたわ」
「ああ」
「凍らされた」
「当然よ」
「当然だ」
良樹は、小さく息を吐いた。
「でも」
「その時から、見てなかったわけじゃねえ」
リシアの顔が、背中で熱くなるのが分かった。
「水浴びを見たとか、そういう意味だけじゃない」
「お前が怒ったこと」
「怖かったこと」
「それでも話を聞いたこと」
「魔法を見せたこと」
「俺の訳の分からねえ話に付き合ったこと」
良樹は、言葉を選びながら続けた。
「強い女だと思った」
「綺麗だとも思った」
「可愛いと思ったこともある」
「面倒くせえとも思った」
「最後いらないでしょ」
「いる」
「リシアだからな」
リシアは、背中に顔を押し当てたまま、小さく笑った。
泣きそうな笑いだった。
「……馬鹿」
「ああ」
「本当に、馬鹿」
「ああ」
「でも」
リシアの腕に、もう一度力が入った。
「逃げなかったから、許す」
「助かる」
「許すけど」
「何だ」
「今は、振り向いたら凍らせる」
「分かってる」
「あと」
「まだあるのか」
「……もう少しだけ、このままでいなさい」
リシアは、そう言って、ほんの少しだけ良樹の背中に身体を預けた。
ふに。
ぷよ。
ぽよ。
つん。
良樹は、壁を見たまま、もう一度死んだ。
だが、今度は逃げなかった。
「……分かった」
リシアは、それを聞いて、少しだけ笑った。
それから、背中に額を預けたまま、小さく言った。
「ホントはね」
「……何だ」
「今すぐにでも、良樹が振り向いて来てくれることを期待してるの」
良樹の呼吸が止まった。
「でも」
「良樹は、そんな事しないんでしょ」
答えられなかった。
できるわけがなかった。
リシアの言葉は責めているようで、責めていなかった。
むしろ、良樹がそうしない男だと分かっている声だった。
分かっている。
信じている。
その上で、悔しがっている。
「だから」
リシアの腕に、少しだけ力が入った。
「英雄になった時は、覚悟しておきなさい」
「……リシア」
「こんなもんじゃ、済ませてあげないから」
良樹の中で、再起動しかけていた盤がもう一度落ちた。
「カレンも」
「クラリスも」
「私も」
リシアは、逃げ道を塞ぐように、けれど震える声で言った。
「分かった?」
良樹は、何とか首を縦に振った。
声は出なかった。
出したら、何かが終わる気がした。
リシアは、それを確認して、ようやく腕をほどいた。
背中から熱が離れる。
湯気の中で、リシアはいつもの強気な声を取り戻そうとして、少しだけ失敗した。
「じゃあ」
一拍。
「お風呂から出てヨシ!」
良樹は、壁を見たまま、しばらく動けなかった。
許可は出た。
だが、身体のどこから再起動すればいいのか分からなかった。
◇
良樹は、何とか浴場を出た。
当然、リシアの方は見なかった。
脱衣所でも、視線は壁に固定した。
服を着る手順も、いつもの倍以上ぎこちなかった。
逃げるように出ていった。
だが。
リシアの言葉からは、逃げなかった。
浴場に一人残ったリシアは、湯気の中でその場にしゃがみ込んだ。
顔が熱い。
耳も熱い。
膝が震えている。
「……何してるのよ、私」
声に出した瞬間、自分でさらに恥ずかしくなった。
良樹の背中を洗った。
当たった。
当てた、とは言わない。
そこは事故だ。
いや、事故なのか。
事故と言っていいのか。
そして、抱きしめた。
あれは事故ではない。
自分の意思だ。
自分で、良樹の背中に腕を回した。
自分で、逃げないでと言った。
自分で、女として見ているのかと聞いた。
良樹は答えた。
見ている、と。
女として見ている、と。
リシアは、胸元に手を当てた。
鼓動がうるさい。
けれど、嫌ではなかった。
後悔も、なかった。
カレンのようにお願いしたわけではない。
クラリスのように触れてほしいと言ったわけでもない。
自分は、自分のやり方で進んだ。
良樹に背中を向かせたまま。
見せずに。
でも、逃がさずに。
自分から、抱きしめた。
リシアは、湯気の中で小さく息を吐いた。
「……出遅れてなんか、なかった」
ただ、自分だけが、自分の場所を見失っていただけだった。
◇
その夜。
三人部屋。
リシアは、できれば黙っていたかった。
黙っていたかったが、無理だった。
妻会議ルール。
重大進展は報告対象。
自分で決めた。
自分も参加して決めた。
むしろ、議長のような顔をして決めた。
なら、逃げられない。
リシアは卓の前に座り、真正面にカレンとクラリスを置いて、深く息を吸った。
「……報告があるわ」
カレンが背筋を伸ばした。
クラリスは、いつものように穏やかに微笑んでいる。
ただし、目が少し鋭い。
「はい」
「聞きます」
リシアは、視線を逸らした。
「今日」
「浴場で」
「良樹と……その」
カレンの顔が赤くなり始める。
「浴場……?」
クラリスは、静かに言った。
「詳しくお願いします」
「言うわよ」
「言うけど、途中で変な顔しないで」
「努力します」
「善処します……」
「一番信用できない返事ね」
リシアは、顔を真っ赤にしながら話した。
考え事をしていたこと。
良樹が入浴中だと気づかなかったこと。
悲鳴を上げかけて、止まったこと。
一緒に入っていいかと聞いたこと。
体を洗ってあげると言ったこと。
背中を洗ったこと。
色々当たったこと。
背中から抱きしめたこと。
良樹に、女として見ているのかを聞いたこと。
話が進むごとに、カレンの顔が赤くなっていった。
「リ、リシア……」
「それは、すごく……進んでます……」
クラリスも微笑んでいるが、耳が赤かった。
「背中から抱きしめたのですね」
「しかも、良樹くんに女として見ているか確認した」
「うるさいわね」
「報告義務があるから報告してるだけよ」
「はい」
「非常に重要な報告です」
「真面目な顔で言わないで」
カレンは、少しだけ目を伏せた。
けれど、その声は優しかった。
「でも」
「良かったです」
「リシアが、出遅れてないって思えたなら」
リシアは、言葉に詰まった。
クラリスも頷く。
「はい」
「リシアは、リシアの進み方をしました」
「……そう」
リシアは、少しだけ視線を落とした。
「そうね」
「私は、私の進み方をしたわ」
しばらく沈黙が落ちた。
それから、クラリスが紙を取り出した。
「では、妻会議議事録です」
「本当に書くの?」
「もちろんです」
カレンが、真っ赤な顔で小さく頷いた。
「大事なことなので……」
リシアは額を押さえた。
「もう好きにしなさい」
クラリスは、静かに書き始める。
議題。
リシアの出遅れ疑惑について。
判定。
出遅れなし。
補足。
ただし良樹くんの精神回路は、当面再起動待ち。
「最後いらないでしょ」
「必要です」
「必要です……」
「二対一ね」
リシアは諦めた。
それから、ふと思い出したように二人を見る。
「一応、言っておくけど」
カレンとクラリスが顔を上げる。
「英雄になったら、良樹は覚悟しろって言っておいたわ」
カレンの肩が跳ねた。
「か、覚悟……」
「カレンも、クラリスも、私もって」
カレンは、一気に真っ赤になった。
クラリスは、静かに微笑む。
「では」
「その時までに、私たちも覚悟しておかないといけませんね」
「そうよ」
リシアは頷いた。
「抜け駆けじゃない」
「三人で、逃がさないの」
カレンは胸元で両手を握り、真っ赤になりながらも頷いた。
「はい……」
クラリスも微笑んだまま頷く。
「はい」
「逃がしません」
リシアも頷いた。
三人とも、顔は赤い。
けれど、目は逸らしていなかった。
誰かが一歩進めば、誰かが焦る。
誰かが焦れば、また誰かが一歩進む。
そこに、勝者も敗者もいなかった。
三人で、良樹の方へ進んでいるだけだった。
胸を張る練習の次に必要だったのは。
出遅れていないと、自分で信じる練習だった。




