第78話 胸を張る会議(挿絵有)
ノーラ工房から拠点へ戻る道中、カレンはずっと赤かった。
顔だけではない。
耳も赤い。
首筋まで赤い。
歩き方も、どこか少しぎこちない。
リシアは横目でそれを見て、ため息を吐いた。
「カレン」
「は、はいっ」
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
「大丈夫では、あります」
「それ、大丈夫な人の返事じゃないわよ」
カレンは胸元で両手を握った。
その仕草を見て、リシアは余計に何とも言えない顔になった。
今日のノーラ工房での出来事。
女性用魔導空調服の試着。
胸元で風が止まるリシア。
前屈みになると治療所では使いにくいと指摘したクラリス。
最大負荷試験体として堂々と試着したノーラ。
そして。
カレンだけは、風路が素直に抜けた。
それ自体は良いことだった。
良いことだったのだが。
カレンは、そこで少し傷ついた。
自分だけ、前側で風が止まらなかった。
リシアやクラリスのように、胸元で風が溜まらなかった。
その小さな落ち込みに、良樹は気づいた。
気づいてしまった。
そして、良樹なりに必死でフォローしようとした。
俺は、カレンの胸も好きだぞ。
掌にちゃんと収まるけど、しっかり有る感じとか。
その言葉で、カレンは完全に燃えた。
良樹も、自分が何を言ったのか理解して燃えた。
以前、カレンが倒れそうになった時。
良樹が抱き止め、手がカレンの胸に触れてしまった事故。
良樹は、それを覚えていた。
カレンも、覚えていた。
その事実が、二人の間で同時に蘇った。
カレンは、そこからずっとこの調子だった。
「カレン」
今度はクラリスが声をかけた。
「本当に大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です」
「顔が赤いです」
「大丈夫です」
「耳も赤いです」
「大丈夫です」
「胸元を押さえています」
「大丈夫では、あります……」
「大丈夫ではないですね」
クラリスは穏やかに結論を出した。
良樹は、少し後ろを歩いていた。
こちらもこちらで、妙に視線が泳いでいる。
ノーラとケーンからの大人のフォローで、カレンは何とか前を向けた。
男ってのは、胸も好きだが、華奢な体つきもそれはそれで好きなんだよ。自信持ちな。
惚れた男がここまでフォローしてくれようとしてくれたんだ。いつまでも気にしてちゃ女が廃るよ。
ケーンも、工具を持ったまま頷いた。
胸もいい。
華奢なのもいい。
というか、好きな女なら、どっちもいい。
最後に良樹は、具体性を足さずに言った。
ちゃんと持て。
俺は、カレンがいいと思ってる。
その言葉で、カレンはようやく頷いた。
けれど、落ち着いたわけではない。
嬉しさと恥ずかしさと、以前の事故の記憶と、良樹が覚えていたという事実と。
全部が混ざって、カレンの中でまだ熱を持っていた。
◇
拠点へ戻ると、良樹は一階の作業場へ向かおうとした。
「俺は少し、今日の空調服の記録を――」
「今日は駄目」
リシアが即座に止めた。
「いや、忘れる前に」
「忘れていいわよ、今日くらい」
「忘れたら困るだろ」
「紙は明日でも書けるでしょ」
クラリスも頷く。
「良樹くん、今日はかなり精神的な負荷もありました」
「休むべきです」
「精神的負荷をかけた側でもあるけどな」
良樹は自分で言って、自分で少し沈んだ。
カレンが慌てて首を振る。
「あ、あの」
「嫌だったわけではないので」
「本当に、嫌ではなくて」
「その、恥ずかしくて」
「嬉しくて」
「どうしたらいいか分からないだけで……」
言いながら、カレンはまた赤くなった。
良樹は完全に動けなくなった。
リシアは額に手を当てる。
「もういいわ」
「二人とも、今は話すほど悪化するから」
「悪化って言うな」
「悪化してるわよ」
クラリスは静かに微笑んだ。
「良樹くん」
「今日は下で記録を書かずに、少し休んでください」
「……分かった」
「私たちも、少し話がありますので」
その言い方に、良樹は少しだけ眉を寄せた。
「話?」
「はい」
「俺が聞かない方がいい話か」
「聞かない方がいい話です」
即答だった。
良樹は一瞬、何かを察しかけた顔をした。
しかし、察しきれなかった。
「……分かった」
「じゃあ、下にいる」
「何かあったら呼べ」
「はい」
三人は二階へ向かった。
良樹は、一階に残った。
◇
三人部屋。
扉が閉まる。
ぱたん。
その音が、妙に大きく聞こえた。
カレンは、まだ胸元で両手を握っている。
リシアは椅子に腰掛け、腕を組んだ。
クラリスは、いつものように静かに座った。
灯りが揺れる。
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて、リシアが低く言った。
「……さて」
カレンの肩が跳ねた。
「な、何でしょうか」
クラリスが、穏やかに続ける。
「議題は明確ですね」
「明確よね」
「め、明確ではないです……!」
カレンは全力で首を横に振った。
リシアはカレンを見る。
「明確よ」
「明確です」
「明確ではないです……!」
クラリスは静かに言った。
「本日の議題」
「良樹くんに胸を触られたことがあるか」
カレンが燃えた。
「く、クラリス……!」
「議題名としては、非常に明確です」
「明確すぎます……!」
リシアは、やや疲れた顔で頷いた。
「明確すぎるけど、まあ明確ね」
「リシアまで……!」
カレンは両手で顔を覆った。
リシアは指を一本立てる。
「まず確認」
「カレンは、有」
「事故です!」
カレンが即座に言った。
「あれは事故です」
「良樹さんは、助けようとしてくれただけで」
「変なつもりなんてなくて」
「だから、その」
「有」
「判定が早いです……!」
クラリスは真面目な顔で頷いた。
「事故であることは否定しません」
「ですが、接触があったかどうかで言えば、有です」
「接触って言わないでください……!」
「では、触れられた」
「もっと駄目です……!」
リシアは、少しだけ口元を緩めた。
「しかも今日、良樹が覚えていたことが判明した」
「その上で、カレンの胸も好きだと言った」
カレンは両手で顔を覆ったまま、小さく震えた。
「言わないでください……」
「ごめん」
「でも、ここは重要よ」
「重要、ですか」
クラリスが静かに頷く。
「重要です」
「事故そのものではなく」
「事故後に良樹くんがどう受け止めていたか」
「そこが大切です」
カレンは、指の隙間からクラリスを見た。
「どう受け止めていたか……」
「はい」
「良樹くんは、その記憶を嫌なものとして扱いませんでした」
「カレンの身体を否定しませんでした」
「むしろ、好きだと言いました」
カレンの顔が、さらに赤くなる。
「……はい」
声が小さくなった。
「嬉しかったです」
その一言で、リシアもクラリスも少しだけ表情を柔らかくした。
カレンは胸元で手を握り直す。
「びっくりしました」
「すごく、恥ずかしかったです」
「どうしたらいいか、分かりませんでした」
「でも」
「良樹さんが覚えていてくれて」
「私の胸も好きだって、言ってくれて」
カレンは目を伏せた。
「嬉しかったんです」
リシアは何も言わなかった。
クラリスも、すぐには茶化さなかった。
カレンの言葉は、冗談ではなかった。
恥ずかしい。
けれど、嬉しい。
その二つが、同じ場所にあった。
◇
「では」
クラリスが静かに言った。
「経験者に確認します」
「経験者って言い方」
リシアが嫌な顔をした。
クラリスは、いつもの清楚な微笑みのまま首を傾げる。
「良樹くんに胸を触れられるというのは」
「どういう気分でしたか?」
部屋の空気が止まった。
カレンは椅子の上で固まった。
リシアも、椅子の背にもたれたまま動かなくなった。
「……クラリス」
「はい」
「そこから入るの?」
「はい」
「私は経験がありませんので」
「経験がありませんので、じゃないのよ!」
リシアが叫んだ。
クラリスは真面目だった。
本当に真面目だった。
だから余計に危なかった。
「痛かったのか」
「怖かったのか」
「恥ずかしかったのか」
「それとも――」
「それ以上分類しない!」
リシアが止めた。
しかし、クラリスの視線はすでにカレンへ向いている。
「カレン」
「は、はい……」
「良樹くんに胸を触れられた時」
「どう思いましたか?」
「ど、どうって……」
カレンは胸元で両手を握った。
「あれは事故で」
「良樹さんも、助けようとしてくれただけで」
「だから、触られたというか」
「掴まれたというか」
「あっ」
自分で言って、カレンは完全に固まった。
リシアが天井を見た。
「自爆したわね」
クラリスは頷く。
「かなり正確な表現でした」
「正確にしないでください……!」
カレンは泣きそうな顔になった。
クラリスは、少しだけ声を柔らかくした。
「嫌でしたか?」
カレンは、すぐには答えられなかった。
嫌だった。
そう言えば簡単だった。
けれど、違った。
驚いた。
恥ずかしかった。
身体が熱くなった。
頭が真っ白になった。
でも。
「……嫌では」
「なかったです」
リシアが、少しだけ目を伏せた。
クラリスは続きを待つ。
「嫌では、なかったです」
「すごく、恥ずかしかったです」
「でも」
「良樹さんが、私を助けようとしてくれたのは分かっていて」
「そのあと、今日」
「覚えていてくれて」
「好きだって、言ってくれて」
カレンの声がどんどん小さくなっていく。
「……嬉しかったです」
クラリスは、静かに頷いた。
「なるほど」
「事故そのものではなく」
「良樹くんが、その記憶を嫌なものとして扱わなかったことが」
「嬉しかったのですね」
カレンは、赤い顔のまま小さく頷いた。
「……はい」
その答えを聞いて、クラリスは少しだけ目を伏せた。
◇
「では、リシア」
「来ると思ったわ」
リシアは額に手を当てた。
「私は、カレンほど明確じゃないわよ」
「胸元、でしたね」
「そうよ」
「胸そのものじゃないわ」
「でも、近い場所よ」
「かなり近い場所」
「その時、どう思いましたか?」
「……あんた、今日は本当に攻めるわね」
「経験がありませんので」
「それを免罪符にしないの」
リシアは深く息を吐いた。
自分にも、思い当たる節はある。
事故もある。
見られたこともある。
胸元を意識されたこともある。
そして。
キスの時。
ただ唇を重ねただけではなかった。
自分から距離を詰めた。
良樹に、女として見てほしかった。
触れてほしいと思った。
だから、拒まなかった。
その記憶が、胸の奥で熱を持つ。
「私は……腹が立ったわよ」
「事故だって分かってても」
「見られたら恥ずかしいし」
「近い場所に触れられたら、心臓に悪いし」
「何より、良樹が変に真面目な顔をするのが腹立つのよ」
「真面目な顔、ですか」
「そう」
「あいつ、変なところで逃げないでしょ」
「見たなら見た」
「悪いなら悪い」
「でも、嘘はつかない」
リシアは、少しだけ視線を逸らした。
「だから余計に、こっちが意識するのよ」
クラリスは、じっとリシアを見た。
「つまり」
「リシアも、嫌ではなかったのですね」
「……言い方」
「違いますか?」
「違わないけど」
「言い方!」
リシアは顔を赤くしたまま、そっぽを向いた。
「嫌じゃなかったわよ」
「嫌だったら、とっくに燃やしてるわ」
クラリスは、静かに頷いた。
「なるほど」
「嫌ではなく」
「恥ずかしく」
「意識してしまい」
「その後の良樹くんの受け止め方によっては、嬉しさにも変わる」
「まとめないで!」
「大変参考になります」
「何の参考にする気よ!」
クラリスは、微笑んだ。
けれど。
その微笑みが、少しだけ弱かった。
◇
「クラリス?」
カレンが、小さく声をかけた。
「どうかしましたか?」
「何がでしょう」
クラリスは微笑んだ。
微笑んでいる。
いつも通りに見える。
けれど、目が少しだけ伏せられていた。
リシアも気づいた。
「クラリス?」
「いえ」
「分かったことがありまして」
「何が?」
クラリスは、ゆっくり自分の胸元へ視線を落とした。
白い法衣の上から、そっと手を添える。
「私は、良樹くんに触れることは多いです」
「まあ……多いわね」
リシアの声が慎重になる。
「身体を見ます」
「手首も、肘も、肩も、背中も、膝も」
「必要なら、かなり近くまで寄ります」
「良樹くんの腕を支えたこともあります」
「あるわね」
「でも」
クラリスは、静かに続けた。
「良樹くんから、女の子として触れられたことは」
「まだ、ありません」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
カレンが、胸元で両手を握る。
「クラリス……」
クラリスは微笑んだままだった。
けれど、その微笑みは少しだけ弱い。
「私は」
「良樹くんに触れる側なのですね」
その声は、いつもの清楚な声だった。
だが、どこか寂しそうだった。
「治すために」
「止めるために」
「壊れないようにするために」
「身体を見るために」
クラリスは、少しだけ俯いた。
「でも」
「良樹くんから」
「女の子として、大切に触れられたことは」
「まだ、ありません」
そこで。
クラリスは、少しだけ首を傾げた。
「……あれ」
ぽろり、と。
右目から涙が一粒こぼれた。
クラリス自身が、それに一番驚いた顔をした。
「え」
指先で、自分の頬に触れる。
濡れている。
涙だった。
「……あれ」
「どうして」
クラリスは、困ったように笑おうとした。
けれど、上手く笑えなかった。
「おかしいですね」
「泣くような話では、ないはずなのに」
もう一粒、涙が落ちた。
カレンが、胸元で両手を握った。
「クラリス……」
リシアも、何も言えなかった。
クラリスは、頬に触れたまま、少しだけ俯いた。
「私は」
「良樹くんに触れられたい、のでしょうか」
その言葉は、誰かに聞かせるためというより、自分で確かめるためのものだった。
「治療ではなく」
「確認ではなく」
「身体を見るためでもなく」
「壊れないように止めるためでもなく」
クラリスの声が、小さく震えた。
「良樹くんが」
「私を女の子として見て」
「手を伸ばしてくれたら」
そこで、言葉が止まる。
クラリスは、袖で涙を拭おうとして、途中で手を止めた。
「……嬉しい」
「のだと思います」
言った瞬間、また涙がこぼれた。
「困りました」
「本当に、困りましたね」
クラリスは、涙を拭いながら、小さく笑った。
「私は、自分のことを」
「もう少し、分かっているつもりでした」
リシアが、ゆっくり息を吐いた。
「クラリス」
「はい」
「あんたも、普通の女の子なのよ」
クラリスは、顔を上げた。
その目元は少し赤い。
「普通の、女の子」
「そうよ」
「好きな男に、女として見られたい」
「触れてほしい」
「大事にされたい」
「それで泣くくらい、別に変じゃないわ」
カレンも、こくりと頷いた。
「私も」
「分かります」
「恥ずかしくて」
「どうしたらいいか分からなくて」
「でも、嬉しくて」
「胸がいっぱいになって……」
カレンは少しだけ顔を赤くした。
「たぶん」
「そういう気持ちだと思います」
クラリスは、二人を見た。
それから、また自分の胸元へ視線を落とした。
「そう、ですか」
小さく息を吸う。
「私は」
「良樹くんに」
「女の子として、触れてほしかったのですね」
その言葉に、クラリス自身がまた赤くなった。
「……言葉にすると」
「かなり、恥ずかしいですね」
「今さらね」
リシアが苦笑した。
◇
クラリスは、涙を拭ったあとも、しばらく黙っていた。
いつものように微笑もうとしている。
けれど、上手くいっていない。
自分でも、まだ分かっていないのだろう。
どうして涙が出たのか。
どうして胸の奥が重くなったのか。
どうして、カレンとリシアの話を聞いて、少しだけ置いていかれたような気持ちになったのか。
クラリスは、何も言わなかった。
言えなかった。
その沈黙を見て、カレンが胸元で両手を握った。
「……じ、事故じゃなければ」
「いいんじゃないですか」
リシアが、はっとカレンを見る。
「カレン、それは――」
強く止めようとした。
事故じゃなければいい。
その言い方は危ない。
クラリスがその気になれば、いくらでも正当な理由を作れてしまう。
治療。
身体確認。
魔力回路の確認。
良樹の非常停止。
あの清楚な顔で、いくらでも真っ当な言葉を並べられる。
だから、止めるべきだった。
止めるべきだった、のに。
リシアの言葉は、そこで止まった。
思い当たる節があった。
自分にも。
良樹とキスをした時。
ただ流れに任せただけではなかった。
怖かった。
恥ずかしかった。
でも、触れてほしかった。
仲間としてではなく。
共同制御者としてでもなく。
魔法使いとしてでもなく。
女として。
婚約者として。
良樹に、自分を意識してほしかった。
だから、自分から距離を詰めた。
だから、拒まなかった。
だから、触れられた時に、嫌だとは思わなかった。
事故ではない。
少なくとも、自分の心の中では。
「……最悪」
リシアは、額に手を当てた。
カレンが不安そうに見る。
「リシア?」
「止めようと思ったのに」
「私にも、思い当たる節があるわ」
クラリスが、涙の残った目で顔を上げる。
「リシアにも」
「あるわよ」
リシアは、顔を赤くしてそっぽを向いた。
「あいつに」
「触れてほしいと思ったことくらい」
「私にも、あるわ」
言ってから、耳まで赤くなる。
「……言わせないでよ」
カレンは、胸元で両手を握った。
「それなら……」
「ええ」
リシアは息を吐く。
「カレンの言うことは、分かる」
「事故を狙うのは駄目」
「良樹を困らせるのも駄目」
「抜け駆けも駄目」
「治療や確認を免罪符にするのも駄目」
そこで、リシアはクラリスを見た。
「でも」
「良樹に、女として見てほしい」
「触れてほしい」
「そう思うこと自体は」
「駄目じゃない」
クラリスの目元が、また少し揺れた。
リシアは続ける。
「私も、そうだったから」
その一言で、部屋の空気が少し変わった。
カレンは小さく頷く。
「私も」
「そう思います」
クラリスは、しばらく何も言わなかった。
それから、目元を指先で拭った。
「……ありがとうございます」
「ただし」
リシアはすぐに指を立てた。
「二人が認めること」
「これは絶対」
「二人、ですか」
「そう」
「当人は、自分の気持ちに引っ張られる」
「嬉しいから良いことにしたくなるかもしれない」
「恥ずかしいから事故にしたくなるかもしれない」
「だから、残り二人が見る」
カレンが、少しだけ背筋を伸ばした。
「はい」
「私も、それがいいと思います」
リシアは頷いた。
「良樹の判定は採用しない」
「あいつは絶対、必要だったとか事故だったとか言う」
「だから、石ころ扱い」
「石ころ……」
クラリスが小さく呟く。
「石ころの方が、まだ言い訳しませんね」
「そこまで言う?」
「言います」
クラリスは、少しだけ笑った。
涙の残った顔で、それでも笑った。
「では」
「リシアとカレンに認めていただけるよう」
「私は、良樹くんに女の子として見ていただく努力をします」
「努力の方向を間違えないでよ」
「はい」
「事故ではなく」
「その強調が危ないのよ」
カレンが、困ったように笑う。
リシアは額に手を当てた。
クラリスは、まだ少し泣きそうだった。
けれど、さっきよりは、少しだけ胸を張っていた。
◇
そこで終わるはずだった。
普通なら。
少なくとも、リシアはそう思っていた。
今日の妻会議は、かなり危険な議題だった。
それでも、何とか着地した。
カレンは自分の嬉しさを認めた。
リシアも自分に思い当たる節を認めた。
クラリスは泣いたが、自分の望みを知った。
なら、今日はここまで。
そうするべきだった。
だが、クラリスは涙の残った目で、静かに言った。
「……今から」
「行っても、よろしいでしょうか」
リシアの動きが止まった。
カレンも目を丸くする。
「クラリス」
「はい」
「今からって」
「良樹くんのところへ」
リシアは、しばらくクラリスを見た。
止めるべきか。
止めないべきか。
少なくとも、クラリスは事故を狙っていない。
逃げ道を作っているわけでもない。
正面からお願いしようとしている。
それを止めるのは、違う。
カレンが、小さく言った。
「クラリスが」
「ちゃんとお願いするなら」
「私は、いいと思います」
リシアはカレンを見た。
カレンの顔は赤い。
けれど、その目は真剣だった。
リシアは、深く息を吐いた。
「……分かったわ」
「でも、私たちも近くにいる」
「判定役だから」
「はい」
クラリスは、涙の跡が残る顔で頷いた。
その頷きは、いつもの清楚なものではなかった。
少し震えていた。
◇
一階。
良樹は、作業場の椅子に座っていた。
記録を書こうとして、やめた。
工具を触ろうとして、やめた。
何かを考えようとして、今日の工房での出来事が頭をよぎり、また止まった。
カレンの胸も好きだぞ。
自分で言った言葉を思い出し、良樹は机に突っ伏しかけた。
「……俺は何を言ってんだ」
その時、階段から足音がした。
三人分。
良樹は顔を上げる。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人とも、妙に真面目な顔をしていた。
「どうした」
良樹は少しだけ身構えた。
リシアは腕を組んでいる。
カレンは胸元で両手を握っている。
クラリスは、その二人の少し前に出た。
目元が赤い。
良樹の表情が変わった。
「クラリス」
「泣いたのか」
「……少しだけです」
「少しじゃねえ顔だろ」
良樹は立ち上がりかけた。
クラリスは、静かに首を横に振った。
「良樹くん」
「お願いがあります」
良樹の動きが止まる。
嫌な予感というより、重い予感がした。
「……内容による」
クラリスは、胸元で両手を握った。
清楚な顔。
涙の跡。
赤い目元。
震える声。
その全部が混ざって、いつものクラリスとは少し違っていた。
「私の胸にも」
「触れてください」
良樹の時間が止まった。
「……は?」
リシアが天井を見た。
カレンは両手で顔を覆った。
クラリスは、慌てたように続ける。
「服の上からで、構いません」
「構うわ!」
良樹の声が裏返った。
「何を言ってるんだ、お前は!」
「お願いです」
「お願いの種類がおかしいだろ!」
「おかしく、ありません」
クラリスの声が少し震えた。
「私は、良樹くんに」
「女の子として見ていただきたいです」
「触れてほしいです」
「できるわけねえだろ」
良樹は即答した。
即答してから、しまったと思った。
クラリスの表情が、わずかに崩れた。
「……リシアは」
「カレンは」
「良樹くんに、女の子として見てもらえたのに」
涙が、また浮かんだ。
「私は」
「駄目なんですか」
「違う」
「私も」
「良樹くんの婚約者なのに」
「違う、クラリス」
「そういう意味じゃねえ」
「では」
「なぜ、私だけ駄目なんですか」
クラリスの涙がこぼれた。
良樹は息を呑む。
リシアも、カレンも、動かなかった。
ここは、良樹が答えなければならない場所だった。
「お前を」
「軽く扱いたくねえんだよ」
良樹は、言葉を絞り出した。
「リシアやカレンの時だって」
「事故とか、流れとか」
「俺が誇れるようなもんじゃねえ」
「だから」
「お前に、そんなことを軽くできるわけがねえ」
クラリスは、泣きながら首を横に振った。
「軽くでは、ありません」
「私は、ちゃんとお願いしています」
「服の上からで、いいんです」
「それでも」
涙が落ちる。
「駄目ですか」
良樹は黙った。
胸の奥が詰まった。
クラリスは、ふざけていない。
誘っているわけでもない。
事故を狙っているわけでもない。
泣きながら、勇気を出している。
良樹は、その勇気を冗談にも事故にもできなかった。
「……分かった」
リシアが目を見開いた。
カレンも息を呑む。
クラリスは、涙の残った目で良樹を見上げた。
「ただし」
「嫌ならすぐ止める」
「怖くなったら言え」
「無理なら、俺が離れる」
「リシアとカレンにも、判定してもらう」
「それでいいか」
クラリスは、すぐには答えられなかった。
まだ、声が出なかった。
涙の残った目で良樹を見て。
こくり、と。
小さく頷いた。
その頷きで、良樹の中の逃げ道が消えた。
クラリスは、怖がっている。
恥ずかしがっている。
泣いている。
それでも、逃げていない。
なら、自分だけが逃げるわけにはいかない。
◇
作業場の床に、薄い敷布を敷いた。
治療や身体確認の時にも使う、いつもの敷布だった。
椅子ではなく、床。
その方が良いと、クラリスが言った。
椅子に座って見上げるより、床に座った方が落ち着くと。
リシアは一瞬だけ何か言いたそうにしたが、言わなかった。
カレンも真っ赤になっていたが、止めなかった。
クラリスは、敷布の上に正座に近い形で座った。
リシアとカレンは少し離れた位置に立った。
近すぎない。
けれど、見える位置。
判定役。
その言葉が、良樹の胃をさらに重くした。
クラリスは、白い法衣の胸元を自分の手でそっと整えた。
服の上から。
それだけだ。
それだけのはずだった。
良樹は、クラリスの正面に膝をついた。
近い。
近すぎる。
けれど、離れすぎていては手が届かない。
立ったまま見下ろして触れるなど、もっとできない。
だから、膝をついた。
手が震えていた。
剥き出しの端子台より怖い。
回転中のシャフトより怖い。
主幹ブレーカーの一次側より怖い。
クラリスが、自分を信じて待っている。
それが、一番怖かった。
「……嫌なら、言え」
クラリスは、涙の残った目で良樹を見た。
声は出なかった。
けれど、逃げなかった。
こくり、と頷く。
「怖くなったら」
もう一度。
こくり、と頷く。
「本当に、無理なら止めるからな」
クラリスは、唇を少しだけ噛んだ。
涙が、もう一粒だけ目尻に残っている。
それでも、良樹から目を逸らさなかった。
そして、震える息をひとつ吐いてから、小さく頷いた。
言葉ではなく。
それでも、はっきりと。
嫌ではない、と。
怖いけれど、逃げたくはない、と。
良樹くんに、触れてほしいのだと。
その全部を、頷きだけで伝えるように。
良樹は右手を上げた。
服の上から。
軽く触れるだけ。
すぐ離す。
クラリスが嫌がれば、即座に止める。
良樹は、膝を少し前へ出した。
その時、不思議なことが起こった。
なぜそうなったのか。
後からいくら検証しても、誰にも分からなかった。
床板は抜けていない。
敷布が滑ったわけでもない。
クラリスが引き寄せたわけでもない。
良樹が押し倒そうとしたわけでもない。
魔法の反応もない。
風も吹いていない。
ただ、良樹の膝の動きと、クラリスの呼吸と、互いの緊張と、神の悪ふざけだけが、最悪の角度で噛み合った。
次の瞬間。
距離が、消えた。
クラリスの身体が、床へ倒れた。
良樹の身体が、その上に重なる。
唇が触れていた。
触れている。
その事実に気づくまで、二人とも一拍遅れた。
クラリスの瞳が、目の前にある。
近い。
近すぎる。
良樹の視界いっぱいに、涙の残ったクラリスの目があった。
驚きで見開かれた、青い瞳。
クラリスも、良樹を見ていた。
床に押し倒された形のまま。
唇が触れたまま。
息も止まったまま。
互いの目だけが、超至近距離で互いを見ている。
そして。
右手。
良樹の右手は、クラリスの胸に触れていた。
服の上からではなかった。
倒れた拍子に白い法衣の合わせ目が乱れ、予定していた位置を外れた右手が、その内側へ入っていた。
手のひらに、柔らかく、温かい感触があった。
むにゅん。
良樹の頭の中で、主幹が落ちた。
クラリスも、目を見開いたまま固まっていた。
二人は、そのまま動けなかった。
唇は触れたまま。
良樹はクラリスを床に押し倒した形のまま。
良樹の右手は、クラリスの左胸に触れたまま。
誰も動けない。
誰も、何も言えない。
なぜなら。
誰にも、何が起きたのか分からなかったからだ。
◇
良樹くんの手が、私の胸に触れている。
最初に浮かんだのは、その事実だった。
何が起きたのか。
どうしてこうなったのか。
どうすればいいのか。
そんなことを考えるより先に、左の胸から伝わる温度だけが、はっきりと分かった。
あたたかい。
良樹くんの手は、あたたかかった。
今まで、誰にも触れさせたことはなかった。
触れてほしいと思ったことも、なかった。
私は、治す側だった。
見る側だった。
止める側だった。
誰かの身体に触れることはあっても、自分の身体に触れられることを望んだことはなかった。
けれど。
初めてだった。
触れてほしいと、思えた人がいた。
女の子として見てほしい。
婚約者として、触れてほしい。
そう思えた人がいた。
その人が今、私に触れている。
恥ずかしい。
胸の奥が熱い。
顔も、耳も、きっと真っ赤になっている。
息の仕方すら、分からない。
けれど。
嫌ではなかった。
怖くもなかった。
恥ずかしさよりも、嬉しさの方がずっと強かった。
良樹くんの体温が、左の胸から伝わってくる。
その温度が、自分の中にゆっくり染み込んでくるような気がした。
私の初めてを。
良樹くんに、あげられた。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
幸せだった。
だから。
離れてほしくなかった。
このまま、もう少しだけ。
ほんの少しだけでいい。
良樹くんの手に、触れていてほしかった。
事故だと分かっている。
良樹くんが困っていることも、分かっている。
このままではいけないことも、分かっている。
それでも。
もう少しだけ。
もっと。
良樹くんに、触れてほしかった。
クラリスは、ゆっくりと目を閉じた。
良樹くんは、今すぐ離れようとしている。
それが分かった。
当然だと思った。
良樹くんは、きっと自分を責める。
事故だと分かっていても、私を押し倒した形になったことを許せない。
でも。
離れてほしくなかった。
このまま、もう少しだけ。
ほんの少しだけでいい。
良樹くんの手に、触れていてほしかった。
良樹の手は、まだ震えていた。
その手が離れてしまう前に。
クラリスは、床に倒れたまま、両手をそっと上げた。
良樹の右手の甲に、自分の両手を重ねる。
逃がさないためだった。
責めるためではない。
押しつけるためでもない。
ただ、今すぐ離れてほしくなかった。
この幸せを、もう少しだけ続けたかった。
言葉にはしなかった。
言えば、良樹くんはきっと壊れてしまう。
全部を事故だと言って、自分を責めてしまう。
それでも手を離そうとする。
だから、言わなかった。
ただ、目を閉じたまま、良樹の手に自分の手を重ねた。
もっと触れてほしい。
もう少しだけ、このままでいたい。
この初めてを、あなたに預けていたい。
そう告げるように。
◇
「……判定」
リシアが、どうにか声を出した。
その声も、少し震えていた。
カレンは真っ赤になりながら、何とか頷く。
「は、はい……」
良樹は動けない。
クラリスも動かない。
唇は、さすがに離れていた。
だが、良樹はクラリスを床に押し倒した形のまま。
良樹の右手はまだクラリスの胸に触れている。
その手の上に、クラリスの両手が重なっている。
リシアは額に手を当てた。
「発生原因は」
「事故」
カレンが、こくこくと頷く。
「事故、です……」
「これは、本当に事故に見えました……」
「ただし」
リシアは、クラリスの手を見る。
「体勢は最悪」
「言うな!」
良樹の声が、ようやく出た。
しかし、動けない。
動いたら何かが壊れる気がした。
「言うわよ!」
「床に押し倒して、キスして、直で触れてるのよ!?」
「判定役の私が言わずに誰が言うのよ!」
「頼むから言わないでくれ……」
良樹の声は、ほとんど死んでいた。
カレンは、真っ赤になったまま口元を押さえる。
「で、でも」
「クラリスが、良樹さんの手を……」
「そう」
リシアは深く息を吐いた。
「クラリスの意思による継続が入ったわ」
「その言い方をやめろ……!」
クラリスは、目を閉じたまま、小さく言った。
「……否定は」
「しません」
リシアは頭を抱えた。
「進捗としては」
「有」
クラリスが、ゆっくり目を開けた。
顔は真っ赤だった。
「有、ですか」
「有よ」
「腹立つくらい有よ」
カレンは、限界まで赤くなりながら言った。
「お、おめでとうございます……?」
「祝うな」
良樹が即座に言った。
「祝うな、頼むから」
「あと、俺は今すぐ手を離していいのか」
「いや、離す」
「離すべきだ」
「クラリス、離していいか」
「頼む、何か言ってくれ」
クラリスは、少しだけ目を伏せた。
それから、名残惜しそうに、良樹の手の甲から両手を離した。
良樹は、壊れ物を扱うように、ゆっくりと手を離す。
そして、クラリスを押し倒した体勢から、できる限り慎重に身体を起こした。
後ろへ三歩下がろうとして、敷布の端に足を取られかける。
「動くな!」
リシアが叫んだ。
良樹はその場で固まった。
「今、二次災害を起こすところだったわよ!」
「……すまん」
「謝る相手が多すぎるのよ!」
良樹は、今度こそ慎重に後退し、作業台に背中を預けた。
「……悪い」
良樹は頭を下げた。
「本当に、悪い」
「服の上からのはずだった」
「俺は」
「俺は、そんなつもりじゃ」
「分かっています」
クラリスは、顔を赤くしたまま言った。
「分かっています」
「事故でした」
少しだけ間を置く。
「でも」
「嫌では、ありませんでした」
良樹の呼吸が止まった。
クラリスは、胸元を整えながら、小さく続けた。
「……嬉しかったです」
良樹は、その場で膝から崩れかけた。
リシアが慌てて支える。
「倒れるな!」
「倒れるだろ、これは……」
「倒れたいのはこっちよ!」
カレンは両手で顔を覆っていた。
「良樹さん……」
「クラリス……」
「あの……」
「本当に、おめでとうございます……?」
「だから祝うな……」
良樹の声は、ほとんど死んでいた。
クラリスは、赤い顔のまま俯いた。
けれど、さっきまで泣いていた顔ではなかった。
まだ恥ずかしい。
まだ震えている。
まだ、どうしていいか分からない。
それでも。
少しだけ、胸を張っていた。
◇
その後、良樹は検証した。
床板異常なし。
敷布異常なし。
足元障害物なし。
魔力反応なし。
風なし。
第三者介入なし。
クラリスの誘導なし。
良樹の意図なし。
何度見ても、原因は分からなかった。
「で、結局どうしてああなったのよ」
リシアが聞いた。
良樹は、試験記録を前にして、しばらく黙っていた。
「分からん」
「良樹が分からないって言うの、珍しいわね」
「床も敷布も足元も見た」
「俺の膝の動きも再現した」
「クラリスの動きも聞いた」
「魔力反応もなかった」
「つまり?」
良樹は、苦々しい顔で紙を見る。
「……神のいたずらとしか言えねえ」
カレンが、赤い顔のまま小さく言った。
「神様も」
「すごいことをしますね……」
クラリスは、何も言わなかった。
ただ、胸元にそっと手を添えている。
良樹は、試験記録の最後に書いた。
結論、不明。
そして、しばらく悩んだ末に、もう一行だけ書き足した。
神のいたずら。
リシアはそれを見て、深くため息を吐いた。
「妻会議の議事録にも、そう書くしかないわね」
「書くな」
「書くわよ」
「書くな」
「判定、有」
「やめろ」
クラリスは、小さく微笑んだ。
その笑みは、いつもの清楚なものだった。
けれど、ほんの少しだけ。
女の子として、胸を張っているようにも見えた。
胸を張る練習は、どうやら身体の話だけではなかった。




