表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

74/115

第73話 灯りの使い方(挿絵有)

 良樹が寝台へ戻ったあと、部屋にはしばらく沈黙が残った。


 カレンは、まだ良樹の胸元に顔を寄せていた。

 抱きついて止めた。

 止められた。

 良樹は反論せず、寝台へ戻ってくれた。


 それだけのことだった。


 それだけのことだった、はずなのに。


 リシアとクラリスの視線が、妙に熱かった。


「……効いたわね」


 最初に口を開いたのはリシアだった。


 カレンの肩が跳ねる。


「な、何がですか……?」


「良樹が戻ったでしょ」


「戻ってくれましたけど……」


「それよ」


 リシアは腕を組み、良樹の寝台の方をちらりと見た。


 良樹は横になっている。

 目は開いているが、もう起き上がろうとはしていない。

 少なくとも今は。


 カレンは、ようやく良樹から少し離れた。


 顔は赤い。

 けれど、まだ心配そうに良樹を見ている。


「私は、ただ……」

「心配だったので」


「分かってるわよ」


 リシアは少しだけ苦笑した。


「だから効いたのよ」


 クラリスも静かに頷く。


「はい」

「カレンの言葉は、全部本心でした」

「最後に、お願いを添えただけです」


「お、お願い、は……」


 カレンはさらに赤くなる。


「ガレスさんが、そう言っていたので」

「その……最後だけ、思い出して」


「最後だけ?」


 リシアが聞く。


 カレンは胸元で両手を握った。


「はい」

「心配なのも、無理して欲しくないのも、休んでいて欲しいのも」

「全部、本当です」

「でも……最後の“お願いです”だけは、言わなきゃって」


「それで良樹が止まった」


 リシアは小さく息を吐いた。


「なるほどね」


 クラリスは、良樹を見る。


 良樹は少しだけ視線を逸らした。


 聞こえている。

 たぶん、全部。


 リシアはその反応を見て、少しだけ口元を緩めた。


「良樹」


「何だ」


「効いた?」


「……何がだ」


「カレンのお願い」


 良樹は、少し間を置いた。


「効いた」


 素直だった。


 カレンの顔が、一気に赤くなる。


「良樹さん……」


「いや」

「反論しようと思えばできた」

「身体はまだ大丈夫だとか」

「少し起き上がるくらいなら問題ないとか」

「言い訳はいくらでもあった」


 良樹は天井を見た。


「でも、心配だって言われて」

「お願いですって言われたら」

「……戻るしかねえだろ」


 リシアとクラリスは、同時にカレンを見た。


 カレンは両手で顔を覆う。


「み、見ないでください……」


「見ます」


 クラリスが即答した。


「とても重要な結果です」


「結果って言わないでください……」


「良樹くんが自分で戻りました」

「命令ではありません」

「押さえつけたわけでもありません」


 クラリスは、静かに言った。


「帰ってくる道に、灯りを置いたのですね」


 リシアはその言葉を聞いて、ガレスの声を思い出した。


 お願いは、刃物でも縄でもねえ。

 帰ってくる道に置く灯りだ。


「……灯り、ね」


 リシアは呟いた。


 カレンも、ゆっくり頷く。


「良樹さんが、自分で戻れるように」


「ええ」


 クラリスは微笑んだ。


「ただし、使い方を間違えると危険です」


「危険?」


 カレンが首を傾げる。


 リシアは半眼になった。


「良樹が惚れた女のお願いに弱いなら、くだらないことで使うのは駄目ってことよ」


「あ……」


「安売り禁止」

「からかいに使うのも禁止」

「支配するために使うのも禁止」


 リシアは指を折った。


「本当に止めたい時」

「本当に休んでほしい時」

「本当に預けてほしい時」

「そういう時だけ」


 カレンは真剣に頷いた。


「はい」


 クラリスも続ける。


「それと、ノーラの言葉もあります」


「ノーラ?」


 リシアが視線を向ける。


 クラリスは穏やかに言った。


「媚びなくていい」

「横に立て」


 カレンの胸の奥で、その言葉がまた静かに鳴った。


 若い女職人。

 横に立つこと。

 良樹にとって必要な相手になること。


「お願いは」

「媚びるためのものではありませんね」


 クラリスが言う。


「良樹くんを操るためのものでもありません」

「横に立って、戻れる場所を示すためのもの」


 リシアは腕を組んだまま頷いた。


「お願いは、命令じゃない」

「でも、我儘でもない」

「灯り」


「はい」


 カレンは、小さく息を吸った。


「灯りの使い方を」

「間違えないように、しないといけませんね」


「そうね」


 リシアは良樹を見た。


「良樹」


「何だ」


「今の聞いてた?」


「ああ」


「じゃあ、あんたも協力しなさい」

「私たちがお願いしたら、何でも聞けって意味じゃない」

「でも、ちゃんと聞きなさい」

「聞いた上で、自分で戻りなさい」


「難しい注文だな」


「難しいから練習するのよ」


 良樹は少しだけ目を閉じた。


「分かった」


 その返事に、三人は少しだけ息を吐いた。


 練習。


 頼る練習。

 待つ練習。

 そして、止まる練習。


 良樹は、まだ戻りきっていない。

 目は前を向いている。

 けれど、身体も、魔力回路も、心の奥も、まだ完全には戻っていない。


 だから、今夜から始める。


 戻った良樹が、無理せず止まれるようになるための時間を。


   ◇


 その夜。


 良樹は寝台へ向かう前に、椅子に座ったまま止まっていた。


 紙は持っていない。

 筆も持っていない。

 魔導盤も出していない。

 藤田の手記も、今は机の上にない。


 何もしていない。


 何もしていない、はずだった。


 だが、クラリスは良樹の肩を見ていた。


 右肩が少し上がっている。

 呼吸が浅い。

 右腕を庇っている。

 目だけが、まだどこか遠くの盤を追っている。


「良樹くん」


「何だ」


「今日は、もう寝ましょう」


「寝る」

「もう少ししたら」


「その“もう少し”は、良樹くんの場合、信用できません」


「信用がないな」


「実績があります」


 良樹は黙った。


 クラリスは近づいた。


「寝台まで、私が支えます」


「そこまではいい」

「歩ける」


「歩けることと、歩いてよいことは違います」


「……それは俺の台詞っぽいな」


「はい」

「良樹くんの言葉を、少しお借りしています」


 クラリスは静かに微笑んだ。


 良樹は椅子の肘掛けへ左手を置く。


「寝台くらい、自分で行ける」


「大丈夫かどうかを、良樹くん一人で決めないでください」


 クラリスの声は柔らかい。

 だが、引かない声だった。


 良樹は少しだけ視線を逸らす。


 クラリスは一歩近づいた。


「お願いですから」

「今は、私に頼ってください」


 良樹の動きが止まった。


 先ほど妻会議で話していたばかりの言葉。

 安売りしない。

 支配に使わない。

 戻る道に置く灯り。


 クラリスの声には、正論と心配があった。


 良樹は、反論を飲み込んだ。


「……分かった」

「頼む」


「はい」


 クラリスは良樹の右側へ回った。


 右肩へ負担が入らないように。

 良樹が無意識に右手を使わないように。

 身体の傾きと呼吸を見ながら、ゆっくり立ち上がらせる。


 一歩。

 もう一歩。


 寝台はすぐそこだった。


 良樹は、寝台へ腰を下ろそうとした。


 その瞬間。


 身体がわずかに傾いた。


 本人にも、意識はなかった。

 ただ、身体がいつものように動いた。


 倒れそうになれば、手をつく。

 支えが要れば、右手を出す。


 良樹の右手が、寝台へ伸びた。


「良樹くん」


 クラリスが、それを見た。


 右手に体重が乗る。

 手首に入る。

 肘に入る。

 肩に入る。

 魔力回路にも跳ねる。


 クラリスの身体が動いた。


 良樹の右側へ入る。

 伸びた右手と寝台の間へ、自分の身体を入れる。


 間に合わない。


 いや。


 ある意味では、間に合った。


 良樹の右手は、寝台につかなかった。

 体重は右腕に乗らなかった。

 肩にも入らなかった。

 床にも落ちなかった。


 けれど、体勢を整えることには、間に合わなかった。


 良樹の重心が前へ落ちる。

 クラリスは床へ倒れないよう、寝台側へ逃がす。


 二人は、そのまま寝台へ倒れ込んだ。


 クラリスが下。

 良樹が上。


 結果だけ見れば、良樹がクラリスを押し倒した形になっていた。


 すぐに声は出なかった。


 出せなかった。


 良樹の目の前に、クラリスの顔があった。


 近い。


 近すぎる。


 クラリスが庇おうとして、良樹の背中へ腕を回している。

 つまり、抱きしめられている。


 身体が動かない。

 右腕は使えない。

 左腕だけで起き上がれば、クラリスへ体重をかける。

 無理に動けば、右肩にも入る。


 だから、動けない。


 クラリスが柔らかい。


 考えるな。


 そう思った時点で、もう考えている。


 いい匂いがする。


 それも考えるな。


 改めて近くで見るクラリスは、本当に可愛い。

 清楚で。

 綺麗で。

 柔らかい顔立ち。


 可愛い清楚美人。


 普段から分かっていた。

 分かっていたはずなのに、この距離で見ると破壊力が違う。


 そして。


 リシアほどではない。

 だが、確かな存在感を主張している。

 柔らかいクラリスの中でも、一番柔らかい二つが、良樹の胸元に当たっている。


 停止条件。


 停止条件はどこだ。


 ない。


 良樹の脳内で、尊厳保護インターロックが警報を鳴らした。


 一方で、クラリスも動けなかった。


 間に合わなかった。


 でも、間に合った。


 右手には体重を乗せなかった。

 肩にも入れていない。

 床にも落としていない。

 寝台へ逃がせた。


 そこまでは、できた。


 できた、はずだった。


 けれど。


 良樹くんの顔が、すぐ目の前にある。


 少し心配そうな顔で、こちらを見ている。


 大丈夫か、と。

 痛くないか、と。

 自分より先に、クラリスを見ている。


 かっこいい。


 そう思ってしまった。


 そして、嬉しかった。


 良樹くんを抱きしめてしまっている。

 結果的にでも。


 良樹くんの身体を受け止めている。

 良樹くんの重さを感じている。

 良樹くんの腕が、自分の近くにある。

 良樹くんの息が、近い。


 心配だった。


 本当に心配だった。


 でも。


 このまま、もう少しだけ。


 そう思ってしまった。


 クラリスの中で、身体を見る冷静な自分と、良樹くんを好きな自分が、同時に答えを出した。


「っ……」


 クラリスは、良樹を抱きしめる腕に、ほんの少しだけ力を込めた。


「私は、大丈夫だから」


 良樹の目が、わずかに揺れる。


「でも、少しだけこのまま動かないで……」


 言ってから、自分の声が思ったより甘いことに気づいた。


 それでも、止まれなかった。


 抱きしめた腕。

 近い肩。

 近い首筋。

 そして、良樹の耳。


 クラリスの吐息が、そこへ触れる。


「良樹くん」


 良樹の身体が、わずかに固まった。


 クラリスは、それに気づいた。

 気づいたのに、すぐ離れられなかった。


「お願い」


 良樹の中で、何かが落ちた。


 主幹ではない。

 非常停止でもない。


 もっと別の、健全な二十八歳男子としての制御回路が、盛大に落ちた。


「……クラリス」


「はい」


「その言い方は、駄目だ」


「駄目、ですか」


「状況と、声と、体勢が全部駄目だ」

「俺の停止回路が落ちる」


 クラリスは、良樹を見上げたまま言う。


「動かないでほしかっただけです」


「分かってる」

「分かってるから余計に困ってる」


 良樹は、深く息を吸った。


「リシア!」

「カレン!」


 声が少し裏返った。


「誰か来てくれ!」


 扉が開いた。


「良樹!?」


「良樹さん!?」


 リシアとカレンが駆け込んでくる。


 そして、止まった。


 寝台の上。

 良樹が上。

 クラリスが下。

 クラリスは真っ赤な顔で、良樹を抱きしめている。


 良樹は即座に言った。


「違う」

「まず違う」

「全部違う」


 リシアは、目を細めた。


「何が違うのか説明しなさい」


「右手をつこうとした」

「クラリスが庇った」

「倒れた」

「動けない」

「助けてくれ」


 カレンは真っ赤になりながらも、良樹の右腕を見た。


「た、確かに」

「右肩に入ると危ない位置です」


「説明は通ってます……」

「でも」


 リシアが額を押さえる。


「絵が通ってないのよ!」


「俺もそう思ってる!」


 クラリスは、小さく言った。


「右手は守れました」


「それは偉い」

「本当に偉い」

「でも、今はまず良樹をどけるわよ」


「はい」


 リシアが指示を出す。

 カレンが良樹の左側へ入り、背中を支える。

 クラリスはようやく腕を緩める。


 良樹は慎重に起こされた。


 寝台の上に座らされる。


 クラリスも起き上がる。

 顔はまだ赤い。


 しばらく沈黙があった。


「……白状します」


 クラリスが言った。


 リシアが眉を寄せる。


「何をよ」


「動かないでほしかったのは、本当です」

「右肩に入ると危ないと思ったのも、本当です」


「ええ」

「それは分かるわ」


「でも」


 クラリスは、少しだけ視線を落とした。


「ちょっとだけ」

「このままでいたいと、思ってしまいました」


 沈黙。


 良樹は動かなかった。


 いや、動けなかった。


 右腕が使えないからではない。

 体勢が悪いからでもない。


 その言葉が、胸の奥に直撃したからだった。


「……良樹?」


 リシアが声をかける。


 良樹は反応しない。


 カレンが、小さく言った。


「落ちました……」


「落ちたわね」


 リシアはため息を吐いた。


 クラリスは、良樹を心配そうに見た。


「良樹くん?」


「……その申告は」

「今の俺には」

「過負荷だ……」


 リシアは額を押さえる。


「まったく」

「お願いの使い方を話したばかりなのに」


 クラリスは小さく頭を下げた。


「申し訳ありません」


「でも、責めてるわけじゃないわよ」


 リシアの声は、少しだけ柔らかかった。


 カレンも頷く。


「はい」

「分かります」

「その……分かってしまいます」


 三人は、互いの顔を見た。


 好きなのだ。


 良樹が好きだ。

 婚約者になった。

 触れたい。

 近くにいたい。

 男として見ている。

 自分たちも、女として見られたい。


 その気持ちがないわけではない。


 ないわけがない。


 だからこそ、止まる必要がある。


 リシアは深く息を吐いた。


「追加ルール」


「追加ルール、ですか?」


 カレンが聞く。


「本気のお願いには、必ず目的語を付ける」


 リシアはクラリスを見た。


「お願い、だけは禁止」

「何をしてほしいのか言うこと」

「今は動かないでください」

「右肩に入るので体重を預けてください」

「今日はここまでにしてください」

「そういう風に」


 クラリスは真剣に頷いた。


「はい」

「次からは、そうします」


 良樹は、少しだけ疲れた声で言った。


「頼む」

「目的語は、命綱だ」


「大げさね」


「大げさじゃねえ」

「今のは本当に危なかった」


 カレンは赤い顔で頷いた。


「はい……」

「危なかったです」


 リシアは良樹を見た。


「良樹」


「何だ」


「寝なさい」


「……それはお願いか?」


「命令よ」


「分かった」


 良樹は素直に横になった。


 さすがに、これ以上起きているだけの余力はなかった。


   ◇


 翌日。


 良樹は、紙を探していた。


 探しているつもりはなかった。


 少なくとも、本人の中では。


 ただ、昨日の夜に思いついたことが一つあった。

 忘れる前に、一行だけ。

 一行だけなら。

 一行で済むはずだ。


 そう考えながら、視線が机へ向く。

 手が、無意識に腰袋へ伸びる。


「良樹」


 リシアの声がした。


 良樹の手が止まる。


「何もしてねえ」


「今、筆を探した」


「探してねえ」


「探そうとした」


「……まあ」


「ほら」


 リシアは近づいた。


 いつもなら、ここで即座に「駄目」と言っていた。

 そして良樹が反論する。

 いつもの流れだ。


 だが、今日は違う。


 リシアは一度、息を吸った。


「今は、書かないで」


 良樹がリシアを見る。


「忘れる前に一行だけ」


「私が覚えておくから」


「いや、でも」


「お願い」


 リシアの声は、強くなかった。


 挿絵(By みてみん)


 命令ではない。

 けれど、軽くもない。


「今は、書かないで」

「私が覚えておく」

「だから、戻ってきて」


 良樹は、しばらくリシアを見ていた。


 そして、手を戻した。


「……分かった」


 リシアの肩から、少しだけ力が抜ける。


「何を覚えればいいの?」


「魔力回路の回復確認」

「使えるかどうかじゃなくて」

「使わずにいられる確認を入れる」


 リシアは眉を上げた。


「それ、大事ね」


「ああ」

「だから書きたかった」


「私が覚えたわ」


「頼む」


「任せなさい」


 それで終わるはずだった。


 終わるはずだったのだが。


 良樹が椅子から少し立ち上がろうとした。


 リシアは反射的に身体を寄せる。

 良樹は右手を使わないよう、左手で支えを探す。


 その左手が、リシアのブラウスの裾に引っかかった。


 前にも似たような事故があった。


 リシアの脳裏に、一瞬で青空が戻る。

 落ちたブラウス。

 良樹の視線。

 大人っぽかった、などという余計な言葉。


「また!?」


 リシアは反射的にブラウスを押さえた。


 それが、いけなかった。


 布が外へ逃げなかった。

 良樹の手が抜けず、逆に内側へ滑り込む。


 良樹は慌てて手を引こうとする。

 リシアも、良樹を支えようとして動く。


 二人の動きが噛み合わない。


 結果。


 良樹の左手が、リシアの胸元へ到達した。


 しかも、転倒を防ごうとした反射で、力が入った。


 良樹の手が、リシアの胸を掴んでいた。


 リシアは、何も考えられなかった。


 良樹が、自分の胸を掴んでいる。


 そこだけが、脳内で赤く点滅していた。


 リシアは、自分の胸に少し自信がある。


 女として、そこを意識したことがないわけではない。

 いずれ良樹には、と考えたことがないはずもない。


 けれど。


 今ではない。


 今は事故だった。


 事故なのは分かっている。

 良樹がわざとではないことも分かっている。


 それでも。


 良樹の手が、そこにある。


「――っ!」


 リシアは叫んだ。


 怒鳴ったのか、悲鳴だったのか、自分でも分からなかった。


 そして反射的に、良樹の頭を羽交い締めにした。


 逃がすためではない。

 止めるためでもない。

 隠すためでもない。


 ただ、身体が勝手に動いた。


 結果。


 揉まれていない方の胸を、良樹の顔に押し付ける形になった。


 最悪だった。


 冷静なリシアなら、身体を離していた。

 良樹の手を外していた。

 一歩下がって、状況を切り分けていた。


 だが、今のリシアは冷静ではなかった。


 パニックだった。


 良樹側も、完全に地獄だった。


 第一入力。

 左手にリシアの胸。


 第二入力。

 顔に、もう片方の胸。


 第三入力。

 リシアが叫んでいる。


 第四入力。

 リシアは怒っているのか、泣きそうなのか、パニックなのか分からない。


 第五入力。

 自分が動けば余計に悪化する可能性がある。


 良樹の脳内制御盤は、完全に焼けた。


「リシア」

「落ち着け」

「落ち着いてくれ」


「落ち着けるわけないでしょ!」


「分かる」

「それは分かる」

「だが、この体勢は悪化してる」


「何がよ!」


「全部だ!」


 そこへ、扉が開いた。


「リシア!?」


「良樹くん?」


 カレンとクラリスが駆け込んでくる。


 そして固まった。


 良樹の左手が、リシアのブラウスの中にある。

 リシアは良樹の頭を抱え込んでいる。

 良樹の顔は、リシアの胸元に埋まりかけている。


 カレンは真っ赤になった。


「り、リシア……!?」


 クラリスは、一拍置いてから状況を確認した。


「良樹くんの左手が、リシアの胸元に入っています」

「さらに、リシアが良樹くんの頭を抱え込んでいます」


「実況しないで!」


 リシアが叫ぶ。


「正確に言うな!」

「正確だから余計にまずい!」


 良樹も叫んだ。


 クラリスは真剣な顔で頷く。


「リシア、まず息をしてください」

「良樹くん、左手には力を入れないでください」

「カレン、良樹くんの背中を支えてください」


「は、はい!」


 カレンが良樹の背中へ回る。


「左手は動かさない」

「動かしたら悪化する」


 良樹が言う。


「分かってるなら早く外しなさいよ!」


「外すには動かす必要があるんだよ!」


 クラリスが、リシアを見る。


「リシア」

「少しだけ腕を緩めてください」


「無理!」


「無理ではありません」

「良樹くんが窒息します」


「っ……!」


 リシアの腕から、ほんの少し力が抜けた。


 カレンが良樹の背中を支える。

 クラリスがブラウスの布を丁寧に逃がす。

 良樹の手を、できるだけリシアへ触れないよう慎重に抜く。


 良樹は解放された。


 ただし、精神は解放されていなかった。


   ◇


 リシアは、ブラウスの胸元を押さえたまま座り込んでいた。


 顔は真っ赤。

 目には少し涙が浮かんでいる。


 怒っている。

 恥ずかしい。

 混乱している。


 良樹は正座していた。


「悪かった」

「事故だった」

「でも、触ったのは事実だ」

「本当に悪かった」


「……分かってるわよ」


 リシアは低く言った。


「分かってても謝る」


「分かってるって言ってるでしょ!」


「ああ」


「事故なのも分かってる」

「良樹がわざとじゃないのも分かってる」

「でも」


「でも」


 リシアは、真っ赤な顔で良樹を睨んだ。


「感触を覚えてたら燃やす」


「無理な要求だ」


「努力しなさい!」


「努力はする」

「成功は保証できねえ」


「そこは嘘でも消えたって言いなさいよ!」


 カレンは両手で口元を押さえていた。

 クラリスは、少しだけ困ったように微笑んでいる。


「リシア」


 クラリスが静かに言う。


「少し、休みましょう」

「良樹くんも、動かないでください」


「動けねえよ」


 良樹は呟いた。


「いろんな意味で」


 リシアがまた睨む。


「余計なこと言わない!」


「悪い」


   ◇


 少しして、カレンとクラリスは部屋を出た。


 リシアが落ち着く時間が必要だと判断したのだろう。


 部屋には、良樹とリシアだけが残った。


 沈黙が落ちる。


 良樹は、まだ正座していた。


「ねえ、良樹」


 リシアが言った。


「……悪かったって」


「分かってる」

「分かってるわよ」


 リシアは、ブラウスの胸元を押さえたまま、少しだけ視線を落とした。


「その、ね」


「……何だ」


「やっぱり」

「忘れなくていいわ」


 良樹が、息を止めた。


「リシア」


「私も、忘れないから」


 リシアは顔を赤くしたまま、それでも逃げなかった。


「事故だったのは、分かってる」

「あんたがわざとじゃないのも、分かってる」

「でも」


 一度、言葉が止まる。


「でも、あんただから」


 リシアは小さく息を吸った。


「だから、忘れないで」


 最後だけ、声が少し柔らかくなる。


「お願い、よ」


 良樹は、しばらく何も言えなかった。


 忘れるな。


 さっきまで、忘れろと言われていた。

 燃やすとまで言われた。


 それを、今度は忘れるなと言われた。


 事故だった。

 良樹は悪かった。

 それは変わらない。


 けれど、リシアはそれを、なかったことにはしないと言った。


 良樹は、ゆっくり息を吐いた。


「……分かった」


「うん」


「忘れない」


 リシアの肩が、小さく揺れた。


 それから彼女は、急に顔を上げた。


「でも!」


「お、おう」


「無理は厳禁!」

「これはお願いじゃなくて命令!」

「分かった?」


 良樹は、少しだけ困ったように笑った。


「ああ」

「分かった」


「本当に?」


「分かった」

「命令なら、従う」


「……そこは、お願いでも従いなさいよ」


「努力する」


「努力じゃなくて、実行!」


「はい」


 リシアは、まだ赤い顔のまま、ふん、と横を向いた。


「よろしい」


   ◇


 さらに翌日。


 良樹は、拠点の中を少し歩くことになった。


 クラリスは身体の状態を見る。

 リシアは魔力の流れを見る。

 カレンは足元を見る。


 歩ける。

 ただし、まだ一人で歩いてよい状態ではない。


 良樹は壁に手をつこうとして、三人に同時に見られた。


「いや」

「壁を使うだけだ」


「右肩に入りそうです」


 クラリスが言う。


「足元も少し不安です」


 カレンも言う。


「魔力の流れもまだ荒いわ」


 リシアが締める。


「三対一か」


「いつものことです」


 カレンが小さく笑った。


 良樹は諦めて、ゆっくり一歩を出す。


 その横へ、カレンが入った。


「カレン?」


「はい」


「肩を貸すのか」


「いえ」


 カレンは首を横に振った。


「身長が違います」

「無理に良樹さんの腕を私の肩へ回すと、右肩にも、私の首にも負担が出ます」


「……なるほど」


「だから」


 カレンは良樹の側面へ身体を寄せた。


 肩を貸すのではない。

 横から、抱きつくように支える。


 良樹の脇腹のあたりへ両腕を回す。

 自分の肩と胸元を、良樹の横へ押し当てるようにする。


「お願いですから」

「今は、私に支えさせてください」


 ふに。


 良樹の足が止まった。


「……カレン」


「はい」


「支えられてる」


「はい」

「支えています」


 良樹は、もう一歩を出した。


 ふにふに。


「……カレン」


「はい」


「増えた」


「な、何がですか」


 良樹は答えなかった。


 さらに一歩。


 ふにふにふに。


 カレンの顔が、耳まで赤くなる。


「わ、私も恥ずかしいです」

「でも、離れません」

「離れたら、良樹さんが危ないので」


 良樹は、短く息を吐いた。


「……頼む」


「はい」

「頼ってください」


 ふにふにふにふに。


「頼るってのも、なかなか高負荷だな」


「私もです……」


 リシアは腕を組みながら、その様子を見ていた。


「カレンは事故の規模が小さいのに、良樹への効き方が地味に強いわね」


 クラリスが微笑む。


「真っ直ぐですから」


「効いた」


 良樹は短く言った。


「かなり効いた」


 カレンは真っ赤になりながら首を振る。


「効かせるつもりでは……」

「ただ、支えたかっただけです」


 リシアは、少しだけ笑った。


「だから効くのよ」


   ◇


 そこから、一週間の療養が始まった。


 外傷は、クラリスの回復魔法でかなり戻っていた。

 だが、身体の奥は違う。


 右腕の重さ。

 肩の違和感。

 呼吸の浅さ。

 疲労。

 魔力回路の荒れ。


 焼けた線が、新しく繋がり直しているような状態。

 触れば繋がっている。

 けれど、大きな電流を流せばまた焦げる。


 クラリスは毎日、良樹の身体と魔力回路を見た。


「治っていることと、使ってよいことは違います」


 何度も言った。


「壊れた事実は、消えません」

「だから、今は壊さないことを優先します」


 リシアは魔力の流れを見た。


「まだ荒いわ」

「出せるかもしれないけど、出していい状態じゃない」

「今は、使わない練習よ」


 カレンは日常動作を見た。


 立ち上がる時。

 階段へ向かう時。

 作業場へ視線が行く時。

 腰袋へ手が伸びる時。


 そのたびに、カレンは少しだけ前へ出た。


「お願いです」

「今は、休んでください」


 良樹は、最初こそ反論しようとした。


 だが、命令ではないお願いは、良樹に考える隙間を残した。


 止められた。

 押さえつけられた。

 奪われた。


 そうではない。


 戻る道を示された。


 そんな感覚が、少しずつ増えていった。


   ◇


 ある朝、良樹が紙を探した。


「忘れる前に一行だけ」


 リシアが止める。


「今は書かないで」

「私が覚えておくから」

「お願い」


 良樹は少しだけ止まり、自分で手を戻した。


「頼む」


「任せなさい」


   ◇


 ある昼、良樹が藤田の手記を読みすぎた。


 クラリスは手記を奪わなかった。

 ただ、端にそっと手を置いた。


「今日はここまでにしてください」

「明日も、一緒に読みたいです」


 良樹は反論しかけた。


 だが、明日も読むという道が残されていた。


「……分かった」

「明日にする」


「はい」


   ◇


 ある夕方、良樹が一人で立とうとした。


 カレンが横に入る。


「まだ、一人で立たないでください」

「お願いです」


 良樹は壁へ伸ばしかけた手を戻した。


「頼む」


「はい」

「支えます」


   ◇


 そして、ある日。


 良樹は、自分の右手を見ていた。


 魔導盤を出せる気がした。


 ほんの少しだけ。

 確認だけ。

 出せるかどうかだけ。


 そう考えた瞬間、三人が動いた。


 リシアが左側へ立つ。

 カレンが腰袋側へ入る。

 クラリスが良樹の右肩と胸元を見る。


「出せるかどうかの確認ではありません」


 クラリスが言った。


「出さずにいられる確認です」


 リシアも続ける。


「今は、使わない練習よ」


 カレンは、良樹をまっすぐ見た。


「また痛そうな顔をする良樹さんを見るのは、怖いです」

「お願いです」


 良樹は、右手を閉じた。


 魔導盤は出なかった。


 良樹は、長く息を吐く。


「……今日は、ここまでにする」


 三人の表情が、少しだけ緩んだ。


「ええ」


「はい」


「はい」


 良樹は自分の手を見る。


 止められたのではない。


 戻った。


 自分で。


 それは、小さな違いだった。


 けれど、大きな違いだった。


   ◇


 一週間が過ぎた。


 クラリスは良樹の魔力回路を確認した。

 リシアは魔力の流れを見た。

 カレンは歩行と日常動作を見た。


 結果。


 万全ではない。


 右腕にはまだ重さがある。

 長時間の作業は無理。

 魔導盤の本格使用も禁止。

 戦闘など論外。

 作業場での長時間作業も禁止。


 だが。


 短時間の外出。

 ギルドへの報告。

 それだけなら、条件付きで可能。


 良樹は、三人の前で言った。


「ガレスに報告へ行く」


 三人は顔を見合わせた。


 今度は、即座に否定しなかった。


 リシアが言う。


「報告だけ」


 カレンが続ける。


「無理したら帰ります」


 クラリスが締める。


「魔導盤は禁止です」


 良樹は頷いた。


「ああ」

「報告だけだ」


 リシアは、少しだけ目を細める。


「約束ね」


「約束する」


 カレンは、胸元で手を握った。


「良樹さん」


「何だ」


「途中で休んでください」

「お願いです」


 良樹は少しだけ笑った。


「ああ」

「休む」


 クラリスも静かに言う。


「痛みや違和感があれば、すぐに言ってください」

「これはお願いではなく、確認事項です」


「了解」


 良樹は、ゆっくり立ち上がった。


 無理はしない。

 急がない。

 戻る道は、もう見えている。


 三人が横にいる。


 前を向く目は、もう戻っている。

 だから今度は、その目で無理をしない練習をする。


 良樹は、扉の方を見た。


「行くか」


 リシアが頷く。


「ええ」


 カレンも頷く。


「はい」


 クラリスも微笑んだ。


「行きましょう」


 四人は、拠点を出た。


 ガレスへ報告するために。


 そして、次へ進むために。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ