第72話 待つ練習(挿絵有)
翌朝。
良樹は、寝台の上で上体を起こそうとしていた。
「駄目」
即座に、リシアの声が飛んだ。
良樹の動きが止まる。
「まだ何もしてねえ」
「今からする顔だったわ」
「顔で分かるのかよ」
「分かるわよ」
リシアは腕を組んでいた。
その横にはカレンが立っている。
少し不安そうに、けれど今日は引かない顔だった。
反対側にはクラリスがいる。
いつもの清楚な微笑みを浮かべているが、目は完全に良樹の身体を見ていた。
「良樹くん」
「今の起き方は、右腕を庇って上体を捻っています」
「捻ってねえ」
「捻っています」
「参考値だろ」
「本人申告は、参考値です」
「昨日からその言い方が強いな」
「必要ですから」
クラリスはにこりと微笑んだ。
良樹は、寝台の上で小さく息を吐いた。
右腕は重い。
肩も上がりきらない。
呼吸は昨日より深くなっている気がするが、少し動くとすぐ浅くなる。
自覚はある。
あるが、寝ているだけでは落ち着かない。
作業場が気になる。
藤田の手記が気になる。
防衛戦の記録も整理したい。
魔導盤の状態も確認したい。
自分の中で起きた変化も、今のうちに書いておきたい。
書いておかないと、抜ける。
抜けると危ない。
そう思う。
そう思うから、余計に手が動く。
「今日は、私たちがギルドへ行ってくるわ」
リシアが言った。
良樹は顔を上げた。
「俺も行く」
「駄目」
「報告なら俺が――」
「駄目」
「本人がいた方が――」
「駄目」
三連続だった。
カレンが胸元で両手を握った。
「あ、あの」
「良樹さんは、今日は休んでいてください」
「報告だけなら」
「報告だけで済まないでしょ」
リシアが即座に切る。
「ガレスに聞かれたら、あんたは絶対に説明する」
「説明してるうちに、手記の話になる」
「手記の話になったら、魔導盤の話になる」
「魔導盤の話になったら、実物を出そうとする」
「出さねえよ」
三人が黙って良樹を見た。
良樹は少しだけ視線を逸らした。
「……たぶん」
「はい駄目」
リシアは勝ち誇るでもなく、当然のように言った。
クラリスが続ける。
「魔導盤は禁止です」
「手記も禁止です」
「作業場も禁止です」
「非常停止接続試験も禁止です」
「最後のは今日やるつもりなかった」
「考えましたね」
「考えてはいる」
「禁止です」
「分かったよ」
良樹は寝台に背を預けた。
納得したわけではない。
ただ、三人が譲らないことは分かった。
それに、昨日の夜からずっと思っていることもある。
頼る練習。
昨日、自分は三人にそう言った。
三人に食事を助けられ、歩くのを支えられ、風呂まで手伝われた。
なら、今日は。
待つ練習なのかもしれない。
自分が現場へ行かない。
自分が報告しない。
自分が全部見ない。
三人に任せる。
それが必要なのだろう。
分かってはいる。
分かってはいるが。
「……落ち着かねえ」
「でしょうね」
リシアは、少しだけ表情を柔らかくした。
「でも、待ってなさい」
「一人でか」
「それは駄目」
「そこはいいだろ」
「駄目です」
クラリスが静かに言った。
「良樹くんを一人にすると、作業場へ行きます」
「手記を開きます」
「魔導盤を出します」
「紙と筆を探します」
「腰袋を触ります」
「確認だけ、と言います」
「信用がない」
「実績です」
「またそれか」
その時、玄関の方で声がした。
「おはようございまーす」
軽い声だった。
良樹は眉を寄せる。
「誰だ」
「ニルよ」
リシアが言った。
「ガレスが寄越したの」
「何で」
「見張り役」
「俺の?」
「他に誰がいるのよ」
良樹は寝台の上で固まった。
◇
ニルは、いつもの軽い調子で部屋へ入ってきた。
ただし、腰には小さな革袋を下げている。
その中から、淡い光を帯びた小さな魔石が覗いていた。
「どうもっす」
「本日の見張り役、ニルっす」
「帰れ」
「無理っす」
「仕事なんで」
「俺は見張られるほどじゃねえ」
「そういう人ほど見張れって、ガレスさんが言ってたっす」
ニルは笑いながら、部屋の入口近くに立った。
軽い。
いつも通り軽い。
だが、視線は意外とよく動いていた。
作業場へ続く階段。
机の上。
良樹の腰袋。
窓。
紙と筆が置いてある棚。
見張り役としては、案外まじめだった。
リシアは満足そうに頷いた。
「じゃあ、頼んだわ」
「了解っす」
カレンが少し心配そうに良樹を見た。
「良樹さん」
「ちゃんと、休んでいてくださいね」
「ああ」
「作業場に行かないでください」
「ああ」
「紙も探さないでください」
「ああ」
「腰袋も、なるべく触らないでください」
「……ああ」
最後だけ少し遅れた。
カレンはじっと良樹を見る。
良樹は諦めて頷いた。
「触らねえよ」
クラリスは、良樹の呼吸をもう一度見てから言った。
「良樹くん」
「私たちは、良樹くんの状態も含めて報告してきます」
「大げさに言うなよ」
「正確に言います」
「それが怖い」
「本人申告より正確です」
「だから強いんだよ、その言い方」
クラリスは穏やかに微笑んだ。
そして三人は、部屋を出た。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人の足音が階段を下り、玄関へ向かう。
扉が開く。
外の朝の空気が少しだけ入り込んだ。
扉が閉まる。
ぱたん。
良樹は、寝台の上でそれを聞いていた。
三人が出ていった。
自分は残った。
思ったより、部屋が広く感じた。
「……」
良樹は、無意識に寝台から足を下ろしかけた。
「駄目っす」
ニルが即座に言った。
「まだ何もしてねえ」
「足を下ろしかけたっす」
「座り直そうとしただけだ」
「そのまま立つやつっす」
「決めつけるな」
「ガレスさんに言われてるっす」
「良樹さんの『確認だけ』『一分だけ』『座るだけ』は信用するなって」
良樹は黙った。
「……あいつ」
「的確っすね」
「うるせえ」
良樹は足を戻した。
ニルは、入口近くの椅子へ座った。
「俺も怒られたくないんで」
「おとなしくしててくださいっす」
「お前、ギルドの仕事はいいのか」
「これが仕事っす」
「俺の見張りが?」
「はい」
「しかも試験付きっす」
ニルは腰の革袋を軽く叩いた。
中の魔石が、淡く光る。
良樹の目がそちらへ向いた。
「何だそれ」
「出たっす」
「何が」
「食いつきっす」
「説明しろ」
「説明したら余計食いつく気がするっすね」
「説明しろ」
「駄目っす」
「魔導盤出しそうなんで」
「出さねえ」
「出しそうっす」
ニルは、少し得意げに革袋から魔石を取り出した。
小さな台座に収められた単独魔石。
横には、簡単な符号表のような紙がついている。
「単独魔石通信機っす」
「試験型っす」
良樹の目が細くなった。
「単独?」
「あ、今の顔危ないっす」
「短文通信か?」
「たぶんそうっす」
「音声じゃないな」
「もちろん無理っす」
「光か」
「短い光と長い光で文字を送るのか」
ニルが目を丸くした。
「何で分かるんすか」
「前に似た話をした」
「ガレスさん、良樹さんには細かく説明するなって言ってたっす」
「説明しなくても食いつくからって」
「もう遅い」
「符号表を見せろ」
「駄目っす」
「見るだけだ」
「出たっす」
「見るだけ」
ニルは符号表を胸元に戻した。
「それも禁止っす」
「横暴だな」
「任務っす」
良樹は不満そうに息を吐いた。
その手が、無意識に腰袋の方へ伸びかける。
ニルが魔石を軽く光らせた。
「送るっすよ」
「何を」
「ヨシキ コシブクロ ミル」
「やめろ」
「ガレスさんに送信っす」
「やめろ」
「なら触らないでくださいっす」
良樹は手を戻した。
ニルは満足そうに頷いた。
「よしっす」
「お前、案外向いてるな」
「ありがとうございますっす」
「褒められてるかは微妙っすけど」
◇
しばらく、何も起きなかった。
何も起きない時間というのは、良樹にとって妙に長い。
外では三人がギルドへ向かっている。
ガレスに会う。
自分の状態を報告する。
防衛戦のことも話すだろう。
自分はそこにいない。
見られない。
補足できない。
説明できない。
それが落ち着かない。
良樹は寝台の上で、指を軽く動かした。
魔導盤は出さない。
出してはいけない。
だが、頭の中では勝手に線が動く。
単独魔石通信機。
短点。
長点。
符号表。
受信側の書き取り。
短文。
即時性なし。
長文不可。
使い道はある。
ただ、今考えるべきではない。
良樹は目を閉じた。
閉じたが、すぐ開けた。
落ち着かない。
「良樹さん」
ニルが声をかけた。
「何だ」
「俺、見たっすよ」
「何を」
「あの時っす」
「防衛戦の最後の方」
良樹の指が止まった。
「土煙の向こうで、誰かがオーガとやり合ってるのを」
ニルの声は、いつもより少しだけ低かった。
「その時は、誰か分からなかったっす」
「距離もありましたし」
「こっちも避難誘導とか、負傷者運ぶので必死だったんで」
「ああ」
「でも、見えたんすよ」
「オーガ相手に、真正面から行ってるやつがいて」
ニルは、少しだけ拳を握った。
「何だあれ、って」
「人間かよ、って」
「後で聞いたら、それが良樹さんだったって」
その声には、熱があった。
恐れ。
驚き。
憧れ。
若い冒険者が、遠くから見た異常な光景。
良樹は、静かに目を伏せた。
「……そんな良いもんじゃねえ」
「え?」
「格好いい話じゃねえよ」
「俺がやったのは、制御でも設計でもない」
「ただ、キレただけだ」
ニルの顔から、少しだけ浮ついた熱が抜けた。
「何があったんすか」
良樹は、すぐには答えなかった。
右手を見た。
オーガを殴った手。
止まらなかった手。
制御を外した手。
まだ重い。
「あいつが」
良樹は言った。
「リシアと、カレンと、クラリスを傷つけた」
ニルは黙った。
「俺は、それを防げなかった」
「三人を守るとか言って」
「止め方だの、安全だの、偉そうに言って」
「結局、傷つけられた」
胸の奥が、少しだけ軋む。
「だから、単にキレた」
「それで周りに迷惑をかけた」
部屋に沈黙が落ちた。
ニルは、ぽりぽりと頬を掻いた。
「んー」
「そんなことがあったんすか」
「ああ」
「でも」
ニルは、そこで拳を握った。
「それ、当たり前じゃないっすか?」
良樹は顔を上げた。
「当たり前?」
「俺だって」
「彼女がそんなことになったら、ブチ切れますよ」
ニルは空中へ軽く拳を突き出した。
「こう!」
「軽いな」
「いや、仕草が軽いだけっす」
「気持ちは重いっすよ」
ニルは、少しだけ真面目な顔になった。
「好きな女が傷つけられて」
「自分が守れなかったって思ったら」
「そりゃ、腹立つっす」
「相手にも」
「自分にも」
良樹は、何も言わなかった。
「もちろん」
「周りを巻き込んでいいとか」
「何してもいいとか」
「そういう話じゃないっすけど」
「ああ」
「でも」
「怒ったことまで、全部悪いことにしなくていいんじゃないっすか」
良樹の呼吸が、一拍止まった。
慰められたわけではなかった。
許された、とも違う。
ニルは、良樹のしたことを正しいと言ったわけではない。
周りを巻き込んでいいと言ったわけでもない。
暴走してよかったと言ったわけでもない。
ただ、分かると言った。
好きな女を傷つけられて、守れなかったと思ったら腹が立つ。
相手にも。
自分にも。
その感情だけは、分かると。
良樹は、右手を見た。
制御できなかったことは消えない。
迷惑をかけたことも消えない。
三人を怖がらせたことも、たぶん消えない。
けれど。
あの怒りが湧いたことまで、全部を否定しなくてもいいのかもしれない。
そう思えただけで、胸の奥の重さが、ほんの少しだけ変わった。
「怖かったっす」
ニルが言った。
「正直、あの時の良樹さんは怖かったっす」
「でも、助かったっす」
「それも本当っす」
少しだけ照れたように、ニルは笑った。
「あと」
「分かるっす」
「……分かる、か」
「はい」
「俺、彼女いますから」
「そこは関係あるのか」
「めちゃくちゃあります」
「めちゃくちゃ可愛いんで」
「聞いてねえ」
「聞いてなくても言うっす」
ニルは笑った。
その軽さに、良樹は少しだけ息を吐いた。
ふと、思った。
自分は、ニルとちゃんと自己紹介をしたことがあっただろうか。
ギルドで顔を合わせた。
通信の実験で走らせた。
報告書や帳面で世話になった。
軽口も叩いた。
今は見張り役としてここにいる。
なのに。
最初に向き合って、名乗った記憶がない。
良樹は、左手を差し出した。
本当は右手で行うべきだった。
今はー使えない、それでも良樹は今するべきだと思ったから。
「ニル」
「なんすか? 改まって」
ニルが、不思議そうに首を傾げる。
良樹は、その顔をまっすぐ見た。
「上村良樹だ」
「これからよろしく頼む」
ニルは、きょとんとした。
それから、少しだけ目を瞬かせた。
何を言われたのか。
なぜ今なのか。
すぐには分からなかった顔だった。
だが、少し遅れて、何かを察したように表情が変わる。
ニルは、照れたように笑った。
「ニルっす」
「ギルドの職員やってるっす」
そして、良樹の右手を握った。
軽い握手だった。
だが、良樹には、その軽さがありがたかった。
「なんか、改まると照れるっすね」
「俺もだ」
「まあ、ちなみに俺には、めちゃくちゃ可愛い彼女がいるっすけどね」
「それは自己紹介に必要なのか」
「必要っす」
「最重要事項っす」
ニルは、たぶん何も考えていなかった。
彼女が可愛い。
それはニルにとって、息をするのと同じくらい自然に出る言葉なのだろう。
重い話を軽くしようとしたわけではない。
良樹を慰めようとしたわけでもない。
ただ、いつもの高さへ戻っただけだった。
そして良樹は、その高さに、自分から乗った。
「俺には」
良樹は、ほんの少し口元を緩めた。
「美人で可愛い婚約者が三人いるけどな」
ニルの動きが止まった。
「……」
「……」
「人数の問題じゃないっす!」
ニルが叫んだ。
良樹は、思わず笑った。
ニルも、少し遅れて笑った。
三人を、守れなかった相手としてではなく。
傷つけられた相手としてでもなく。
支えてもらう相手としてだけでもなく。
美人で、可愛い、自分の婚約者だと。
他人に向けて、少しだけ誇るように言えた。
それはたぶん、良樹自身が思っているよりも、大きなことだった。
◇
その頃、三人はギルドに着いていた。
朝のギルドは、防衛戦後の慌ただしさをまだ残していた。
冒険者たちはいつもより声を落としている。
負傷者の名を確認する者。
依頼板の前で防衛戦後の巡回予定を見る者。
壊れた装備を抱えて座る者。
町の被害状況を聞きに来た商人。
普段とは違う空気だった。
その中を、リシア、カレン、クラリスの三人が歩く。
視線が集まる。
良樹がいない。
それだけで、少しだけ空気が変わった。
英雄候補の三人の婚約者。
防衛線で戦った三人。
良樹の隣にいた三人。
その三人だけが、今日はギルドに来ている。
受付の職員が奥へ声をかけると、すぐにガレスが出てきた。
「来たか」
ガレスは三人を見て、すぐに眉を上げた。
「良樹はどうした」
「寝かせてきたわ」
リシアが答えた。
「寝かせた、か」
「ええ」
「起きようとしたけど、止めた」
「そりゃ賢明だ」
ガレスは低く笑った。
「ニルは?」
「置いてきたわ」
「ならいい」
ガレスは三人を奥の部屋へ案内した。
いつもの相談室。
大きな机。
壁際の棚。
何度も使われた椅子。
ガレスは三人に座るよう促し、自分も腰を下ろした。
「まず、身体だ」
「あいつの具合はどうだ」
三人は顔を見合わせた。
最初に口を開いたのはリシアだった。
「魔力と制御は、まだ駄目」
「本人は出せるつもりでいると思う」
「でも、胸の奥の流れが荒い」
「魔導盤を出したら、また焼ける可能性がある」
ガレスは頷いた。
「本人は?」
「出せると言うと思うわ」
「だろうな」
次にカレンが、少し緊張しながら言った。
「歩行は、補助付きなら短距離だけです」
「立ち上がる時に、膝が抜ける時があります」
「右腕を庇おうとして、上体が少し傾きます」
「一人で階段は危ないです」
「日常動作もまだ駄目か」
「はい」
「本人は、大丈夫と言うと思います」
「そこもか」
最後にクラリスが、静かに続けた。
「右腕に重さが残っています」
「肩は上がりきっていません」
「痛みを隠そうとします」
「呼吸は昨日より深くなっていますが、疲れると浅くなります」
「魔力回路もまだ荒れています」
そこで一度、言葉を切る。
「作業場は禁止」
「手記は禁止」
「魔導盤は禁止」
「非常停止接続試験は禁止です」
ガレスは、一拍置いてから笑った。
「最後のは何だ」
「良樹くんが考えそうなことです」
「考えそうだな」
「はい」
「だから禁止です」
ガレスは椅子の背にもたれた。
「良樹がいねえ方が、あいつの状態がよく分かるな」
「本人申告は、参考値です」
クラリスが即答した。
ガレスは声を上げて笑った。
「いいな、それ」
「本人申告は参考値か」
「あいつに聞かせたいような、聞かせたくねえような言葉だ」
「聞かせても、たぶん反論します」
カレンが小さく言った。
「でも、その反論も参考値よ」
リシアが続けた。
三人はそこで、少しだけ笑った。
ガレスも笑った。
だが、すぐにその顔から笑みが薄れた。
「身体は分かった」
低い声だった。
「じゃあ、心の方はどうだ」
三人の空気が変わった。
身体のことなら報告できる。
痛み。
呼吸。
歩行。
魔力。
肩。
右腕。
見るべき場所がある。
言葉にできる項目がある。
だが、心は違う。
良樹が崩れたこと。
泣いたこと。
三人に、ここに居てと言われたこと。
頼むと言えたこと。
クラリスを非常停止として受け入れたこと。
自分を殴ってでも止めてくれと頼んだこと。
全部を、外へ出すわけにはいかない。
それは、良樹の傷だった。
三人の傷でもあった。
四人の間に置くべきものでもあった。
リシアは、ゆっくり息を吸った。
「危なかったわ」
それだけ言う。
ガレスは黙って聞いていた。
「でも、戻ってきた」
「完全に元通りじゃない」
「まだ放っておけば、一人で抱えようとする」
「自分で何とかしようとする」
「大丈夫って言って、少しだけって言って、確認だけって言って、無理をすると思う」
リシアは、少しだけ目を伏せる。
「けど」
「今は、前を向いてる」
カレンは胸元で両手を握った。
「良樹さんは」
「私たちに、頼むって言ってくれました」
「だから」
「私たちも、支えます」
クラリスも静かに言った。
「身体も、心も、私たちで見ます」
「壊れる前に止めます」
「戻れなくなる前に、呼び戻します」
ガレスは、三人を順に見た。
「身体と心、ねえ」
にやりとしかけた。
だが、すぐに片手を上げた。
「悪い」
「今のは冗談だ」
「忘れてくれ」
リシアは半眼になった。
「忘れるかどうかは、内容によるわ」
「踏み込みすぎた」
「すまん」
ガレスは素直に謝った。
カレンは真っ赤になりながら、小さく言った。
「そ、その……」
「間違っては、いませんけど……」
「カレン」
リシアが即座に止めた。
カレンは両手で口元を押さえる。
「す、すみません」
クラリスは真面目な顔で続けた。
「ですが、必要なことです」
「良樹くんは、身体だけでも、心だけでも支えられません」
「両方です」
ガレスは今度は笑わなかった。
「ああ」
「そうだな」
その声は、静かだった。
◇
ガレスは、机の上で指を組んだ。
「防衛戦の評価も伝えておく」
三人の背筋が、少し伸びる。
「まず、功績は功績だ」
「お前たちがいなけりゃ、防衛線はもっと崩れてた」
「良樹の魔石信号、魔導盤、エレメンタルキャノン」
「リシアの魔法」
「カレンの剣」
「クラリスの治療と停止判断」
「全部、効いた」
ガレスは言葉を切る。
「町は助かった」
「それは間違いねえ」
三人は黙っていた。
嬉しい、とはすぐに言えなかった。
その功績の裏に、良樹の暴走がある。
三人の負傷がある。
防衛線の恐怖がある。
だから、軽く受け取ることはできない。
だが、否定してもいけない。
町を守ったことまで、なかったことにはできない。
「ただし」
ガレスの声が重くなる。
「あいつは危うい」
三人は、目を逸らさなかった。
「分かってるわ」
リシアが言った。
「ならいい」
「功績は否定しない」
「でも、危うさも否定しない」
ガレスは少しだけ笑った。
「良樹本人より話が早いな」
「本人がいると、言い訳が入るもの」
リシアが言う。
「確認だけ」
「少しだけ」
「大丈夫」
「まだいける」
「必要なことだ」
カレンが数え上げるように言った。
クラリスが締める。
「すべて参考値です」
ガレスは、また笑いかけた。
だが、今度はすぐに真面目な顔に戻った。
「お前たちに、少し話しておくことがある」
三人はガレスを見る。
「良樹より少し歳を食った男の先輩としての忠告だ」
リシアが少しだけ眉を上げた。
「大人の男、ではないのね」
「そんな立派なもんじゃねえ」
「少し歳を食った男だ」
「その程度がちょうどいい」
ガレスは、少しだけ椅子に背を預けた。
「男ってのはな」
「言い方は悪いが、君臨する奴隷みたいなところがある」
「いきなり何よ」
「言い方が悪いのは認める」
ガレスは笑った。
「でも、本質の話だ」
「男は守る側に立ちたい」
「支える側に立ちたい」
「自分が何とかする側でいたい」
三人は黙って聞いていた。
「良樹は、君臨するタイプじゃねえ」
「むしろ、自分が一番下で支える方に回る男だ」
「だが、それでも男だ」
「守る側、支える側、自分が何とかする側に立とうとする」
ガレスの目が少し鋭くなる。
「そういう男に、ただ止まれと言っても効かねえ時がある」
リシアの指が、膝の上で少し動いた。
「命令されると反発する」
「理屈で詰めると、理屈で抜け道を探す」
「責任を突きつけると、余計に背負う」
「……良樹ね」
リシアが呟いた。
「ああ」
「良樹だ」
ガレスは頷いた。
「だが」
「惚れた女からのお願いには弱い」
カレンの肩が跳ねた。
「お願い……」
「そうだ」
「命令じゃねえ」
「支配でもねえ」
「ただ、お願いする」
ガレスは指を折る。
「行かないで」
「休んで」
「ここにいて」
「私たちに任せて」
「帰ってきて」
静かな言葉だった。
「これは、命令より効くことがある」
「良樹みたいな男には特にな」
クラリスが小さく頷いた。
「良樹くんが、自分で止まれる形を作るのですね」
「そうだ」
ガレスはクラリスを見る。
「非常停止は最後の手段だ」
「毎回叩いて止めるもんじゃねえ」
クラリスは、真剣に聞いていた。
「お願いは、刃物でも縄でもない」
「帰ってくる道に置く灯りだ」
三人の間に、その言葉が落ちた。
灯り。
帰ってくる道に置くもの。
カレンは、胸元で両手を握りしめた。
「あの」
「私でも、できますか」
声は小さかった。
だが、真っ直ぐだった。
ガレスは即答した。
「できる」
「むしろ、お前のお願いは効くと思うぞ」
「私の、ですか」
「ああ」
「真っ直ぐだからな」
「良樹は、真っ直ぐな言葉に弱そうだ」
カレンの顔が赤くなる。
「リシア」
「何よ」
「お前は命令の形にしがちだ」
「……否定はしないわ」
「でも、本当に頼む時は違うだろ」
リシアは言葉に詰まった。
怒る。
止める。
叱る。
それはできる。
だが、本当に頼む時。
その時の自分は、たぶん違う。
リシアは目を伏せた。
「……考えておくわ」
「そうしろ」
ガレスは次にクラリスを見る。
「クラリス」
「はい」
「お前は一番危ない」
「危ない、ですか」
「ああ」
「正論と優しさが一緒に来る」
「良樹には効きすぎる可能性がある」
「逃げ道を塞ぐお願いにならねえよう気をつけろ」
クラリスは、少しだけ目を伏せた。
「良樹くんが、自分で戻れる道を残すのですね」
「そうだ」
ガレスは頷いた。
「それと」
「使い方を間違えるな」
三人の表情が引き締まる。
「惚れた女からのお願いは、男によく効く」
「だからこそ、安売りするな」
「くだらねえ我儘に使うな」
「本当に止めたい時」
「本当に帰ってきてほしい時」
「本当に預けてほしい時に使え」
ガレスは、そこで少しだけ表情を崩した。
「いい女ってのはな」
「男を立てる」
「立てた上で、ここぞって時のお願いをきっちり聞かせる」
「そうやって男を手玉に取るもんだ」
そして、豪快に笑う。
「ウチのカミさんみたいにな」
「ガッハッハ!」
リシアは呆れた。
「最後、自慢じゃない」
「自慢だ」
「いい女をカミさんにした男が、自慢しねえでどうする」
カレンは真っ赤になった。
クラリスは、柔らかく微笑んだ。
「素敵ですね」
リシアは、少しだけ遠くを見るように呟いた。
「良樹も、将来こういう顔をするのかしら」
カレンの顔がさらに赤くなる。
クラリスは真面目に頷いた。
「していただけるように、頑張りましょう」
「クラリス」
「真面目に受け取らないで」
「大切なことです」
「それはそうだけど」
ガレスは、そのやり取りを見て笑った。
ノーラは、女職人として言った。
媚びなくていい。
横に立て。
ガレスは、男側から言った。
男を立てろ。
だが、ここぞという時のお願いは聞かせろ。
違う方向からの言葉だった。
けれど、どちらも同じ場所へ繋がっている。
良樹の横に立つために。
良樹を支えるために。
そして、良樹を止めるために。
◇
三人が拠点へ戻る頃には、昼が近くなっていた。
玄関を開けると、すぐにニルの声が聞こえた。
「あ、戻ったっす」
リシアは眉を上げる。
「何かあった?」
「ありましたっす」
ニルは即答した。
「何が」
「紙を探しました」
「腰袋を見ました」
「通信機に食いつきました」
「一分だけって言いそうになりました」
「あと、三人の自慢をされました」
三人の動きが止まった。
「自慢?」
リシアが聞き返す。
ニルは、にやりと笑った。
「美人で可愛い婚約者が三人いるって言ってたっす」
空気が止まった。
カレンの顔が、一瞬で赤くなる。
リシアは口を開きかけて、閉じた。
クラリスは口元に手を添えた。
「……良樹が?」
リシアの声が少しだけ低い。
ニルは頷いた。
「言ってたっす」
三人は、無言で良樹のいる部屋へ向かった。
良樹は寝台の上で、ちょうど上体を起こそうとしていた。
帰ってきた三人を見て、報告を聞こうとしたのだろう。
右腕を庇いながら、身体を前へ出そうとしている。
「良樹」
リシアの声が低くなる。
だが、その前に。
カレンが動いた。
「良樹さん」
カレンは寝台の横へ近づいた。
そして、良樹に抱きついた。
強くではない。
押し倒すほどでもない。
けれど、良樹がそれ以上前に出られない程度には、しっかりと。
良樹の動きが止まる。
「カレン?」
「心配なんです」
カレンの声は、少し震えていた。
「良樹さんが、また無理をするんじゃないかって」
「大丈夫って言って」
「少しだけって言って」
「確認だけって言って」
「それで、また痛いのを隠すんじゃないかって」
良樹は、何も言えなかった。
カレンは、良樹の胸元に額を寄せるようにして続ける。
「無理して欲しくないんです」
「今はまだ、ゆっくり休んでいて欲しいんです」
そこまでは、全部カレンの本心だった。
計算ではない。
男を手玉に取ろうとしたわけでもない。
ガレスの助言を完璧に使おうとしたわけでもない。
ただ、良樹が心配だった。
また無理をしそうで。
また痛いのを隠しそうで。
また自分を後回しにしそうで。
怖かった。
そのあとで、カレンの頭に遅れてガレスの言葉が浮かんだ。
惚れた女からのお願いには、弱い。
カレンは顔を赤くした。
それでも、言った。
「……お、お願い、です」
良樹は、反論しようとした。
報告を聞くだけだ。
起き上がるだけだ。
無理はしない。
そう言おうとした。
だが、言えなかった。
カレンの腕は、強くない。
けれど、真っ直ぐだった。
カレンの言葉は、命令ではない。
けれど、逃げ道を塞ぐものでもない。
戻れる場所を、そこに置いていた。
良樹は、小さく息を吐いた。
「……分かった」
「戻る」
「寝台に戻る」
カレンは、良樹がちゃんと背を預けるまで支えた。
良樹は、もう一度息を吐く。
「……ありがとう」
カレンの顔が、さらに赤くなった。
「い、いえ」
「休んで、ください」
リシアとクラリスは、その様子を見ていた。
リシアは腕を組んだまま、内心で思った。
おぉ。
クラリスも、静かに微笑みながら思った。
おぉ。
今の最後の一言だけは、ガレスの助言を思い出したのだろう。
だが、それ以外は全部、カレンの本心だった。
これを計算なしでやれるのは、カレンだけだった。
ニルは入口近くで、小さく頷いていた。
「効いたっすね」
「ニル」
リシアが低く言う。
「はい」
「今のは見張り役の報告に入れなくていいわ」
「了解っす」
良樹は寝台に戻ったまま、天井を見た。
外へ行けなかった。
報告にも行けなかった。
作業場にも行けなかった。
手記も読めなかった。
魔導盤も出せなかった。
ただ、待った。
待つだけで、こんなに落ち着かないとは思わなかった。
けれど。
ニルと話した。
握手をした。
三人のことを、少しだけ自慢した。
カレンにお願いされて、自分から寝台へ戻った。
頼る練習の次は、待つ練習。
そして三人は、もう一つ覚えた。
良樹を止めるために必要なのは、命令だけではない。
お願いもまた、立派な停止信号になる。




