第71話 頼る練習(挿絵有)
三日後。
良樹は、起き上がれなかった。
目は覚めている。
頭も回る。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
朝の光は、窓からちゃんと入っている。
部屋の空気も、昨日より少し軽い。
息を吸えば、胸の奥に残っていた重いものも、ほんの少しだけ薄くなっている気がした。
だから、良樹は起きようとした。
右手を寝台に突く。
肘に力を入れる。
上体を起こす。
そこまでは、頭の中ではできていた。
だが、現実の右腕は違った。
「……っ」
肘が、抜けたように沈んだ。
支えるはずの右腕が支えにならない。
上体が斜めに傾く。
肩の奥に、鈍い痛みが走る。
まずい。
そう思った瞬間、横から腕が回った。
「良樹さん!」
カレンだった。
良樹の上体が倒れ切る前に、カレンが支えた。
寝台の横に置いた椅子から、ほとんど跳ねるように立ち上がったのだろう。
良樹は、カレンに支えられたまま息を吐いた。
「……悪い」
「悪いじゃないわよ」
反対側から、リシアの声が飛んできた。
リシアは腕を組んでいた。
寝起きではない。
完全に、見張っていた顔だった。
「何してるの」
「起きようとした」
「見れば分かるわよ」
「どうして起きようとしたの」
「起きる時間だからだ」
「違うわ」
リシアは即答した。
「寝てる時間よ」
「朝だろ」
「療養中の朝よ」
言い切られた。
良樹は反論しようとして、できなかった。
右腕はまだ重い。
肩も上がらない。
カレンが支えていなければ、上体を戻すことも怪しい。
その横から、クラリスが近づいてきた。
「右腕、まだ駄目です」
「肩も上がっていません」
「魔力回路も荒れています」
「歩行は補助付き」
「作業場は禁止です」
「作業場って言ってねえ」
「顔が言っています」
「顔で読むな」
「読めます」
クラリスは静かに言い、良樹の右肩に触れた。
指先は冷静だった。
昨日までの泣き顔とは違う。
今はもう、良樹の身体を見る顔になっている。
「……痛みは?」
「少し」
「少し、ではありませんね」
「少しだ」
「良樹くんの少しは信用しません」
「信用がない」
「実績があります」
それを言われると弱い。
良樹は、カレンに支えられたまま、ゆっくり寝台へ戻された。
起き上がる。
ただそれだけのことができない。
それを自覚した瞬間、胸の奥に苦いものが落ちた。
「……俺だけ、戻ってねえな」
小さく漏れた言葉に、三人の動きが止まった。
リシアが少しだけ目を細める。
「戻るって、作業場に戻ることじゃないでしょ」
カレンが、良樹の背中を支えながら言った。
「ここに居るって、言ってくれました」
クラリスも頷く。
「今日は、ここに居る練習です」
「練習」
良樹はその言葉を繰り返した。
クラリスは、柔らかく微笑んだ。
「はい」
「頼る練習です」
◇
朝食は、居間で取ることになった。
正確には、良樹が居間まで歩こうとしたのではない。
三人に支えられて、居間の椅子まで運ばれた。
右側にクラリス。
左側にリシア。
後ろからカレン。
それだけでも良樹はかなり居心地が悪かった。
「……そこまでしなくても歩ける」
「膝が抜けました」
クラリスが淡々と言う。
「一歩目で、です」
「抜けかけただけだ」
「抜けました」
「言い切るな」
「見ましたから」
カレンが小さく頷く。
「私も、見ました」
リシアも短く言う。
「見たわ」
「三人で証言するな」
「事実だからよ」
良樹は何も言えなかった。
椅子に座るだけで、少し息が上がっている。
認めたくはないが、認めるしかない。
身体が戻っていない。
それでも、朝食くらいは自分で食べるつもりだった。
卓の上には、ギルドから届けられた粥に近い料理と、柔らかく煮た野菜、薬草茶が並んでいる。
三日間、ギルドからは手伝いが来ていた。
食事の差し入れ。
水汲み。
薪の補充。
洗濯物の回収。
掃除。
壊れた扉の応急修理。
薬や包帯の補充。
見舞客の整理。
伝言管理。
ガレスの指示で、面会もかなり絞られていた。
一度だけ、良樹が扉を見て言った。
扉は自分で直す。
その瞬間、リシア、カレン、クラリスが同時に振り向いた。
それ以来、良樹は扉について何も言っていない。
良樹は匙を持った。
右手では無理だった。
左手に持ち替える。
だが、左手でも器が安定しない。
指先に少し震えがある。
粥を掬う。
匙がわずかに揺れる。
「食える」
良樹は言った。
言った瞬間、リシアの目が細くなった。
「まだ誰も何も言ってないわよ」
「言われる前に言った」
「それ、自分でも危ないと思ってるってことでしょ」
「違う」
「違わないわね」
クラリスが静かに匙を見た。
「今日は、頼る練習です」
「飯までか」
「飯からです」
その言葉に、カレンがぴくりと反応した。
「あ、あの」
カレンが、真っ赤になりながら匙を持った。
「良樹さん」
「熱くないですか」
良樹は固まった。
リシアも固まった。
クラリスだけが、少し楽しそうに微笑んだ。
「カレン」
「は、はい」
「何をしている」
「頼る練習、です」
「それ、クラリスの言葉だろ」
「はい」
「借りました」
カレンは真っ赤だった。
真っ赤なのに、匙を持つ手は真剣だった。
良樹は、目の前に差し出された匙を見た。
粥。
熱くないように少し冷まされている。
カレンが息を吹きかけたあとがある。
どう見ても、食べさせられる流れだった。
「……一口だけだぞ」
「はい」
カレンの声が震える。
良樹は諦めて、匙から一口食べた。
粥は温かかった。
味は薄い。
だが、胃に落ちると少し楽になった。
カレンは、匙を持ったまま固まっていた。
「……食べました」
「食べたな」
「良樹さんが、食べました……」
「食事だからな」
リシアが額を押さえた。
「何なの、この会話」
だが、次の瞬間、リシアは顔を上げた。
「次、私」
良樹は嫌な予感がした。
「何がだ」
「不公平でしょ」
「飯に公平性を持ち込むな」
「昨日、三人で支えるって言ったわよね」
「支え方が匙になってるぞ」
「支えよ」
「その理屈は通らねえ」
「通すわ」
リシアはカレンから匙を受け取った。
その動きは強気だった。
だが、良樹の口元へ匙を運ぶ手は、少しだけぎこちなかった。
「熱くない?」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて、熱かったら言いなさい」
「分かった」
「あと、こぼしたら怒るわよ」
「俺が怒られるのか」
「私が恥ずかしいでしょ」
「知らん」
そう言いつつ、良樹は二口目を食べた。
リシアは、良樹が飲み込むのを確認してから、少しだけ視線を逸らした。
「……食べられるじゃない」
「食ってるからな」
「そういう意味じゃないわよ」
そして最後に、クラリスが薬草茶を手に取った。
「では、最後は私ですね」
「何でだ」
「投薬確認です」
「薬草茶だろ」
「はい」
「飲ませます」
「お前ら、その言葉を便利に使い始めたな」
「便利ではありません」
「必要です」
クラリスは、清楚に微笑んだ。
良樹は、深く息を吐く。
この三人は、本気で世話をする気だ。
そして自分は、今日、それを拒みきれない。
良樹は薬草茶を飲まされながら、心の中で小さく思った。
英雄候補の最初の訓練が、飯を食わせてもらうことになるとは思わなかった。
◇
食後、良樹は少しだけ居間で休んだ。
休んだ、というより、休まされた。
ギルドの手伝いは三日目に入って少し減っていた。
三人娘も、日常生活に戻り始めている。
リシアは魔力の芯にまだ疲労が残っている。
大出力魔法は禁止。
訓練も禁止。
カレンは膝と肩に痛みが少し残っている。
剣を振ることは禁止。
クラリスは治癒魔法と精神負荷で疲労が残っている。
治癒連発は禁止。
だが、三人とも日常生活はできる。
問題は、良樹だけだった。
右腕は重い。
歩くと膝が抜ける。
魔導盤を出そうとすると胸の奥が焼ける。
手を握ると、わずかに震える。
作業場。
手記。
事故記録。
魔導盤。
非常停止接続試験。
全部禁止。
「……確認だけでも」
「駄目」
リシアが即答した。
「まだ何も言ってねえ」
「言ったわよ、顔が」
「また顔か」
「良樹は分かりやすいのよ」
良樹は、ため息を吐いた。
「せめて、手記の場所だけ確認を」
「駄目です」
クラリスが穏やかに止める。
「場所の確認だけだ」
「場所を確認したら開きます」
「開かねえ」
「信用しません」
カレンも小さく頷いた。
「良樹さんの確認だけは、確認だけで終わらないと思います」
「信用がない」
「実績があります」
「全員で同じ言葉を使うな」
良樹は椅子の背にもたれた。
身体は情けないほど重い。
だが、頭は動いている。
動く頭に、動かない身体がついてこない。
それが、どうにも落ち着かなかった。
「少し、歩く」
良樹が言うと、三人の視線が揃った。
「どこへ?」
リシアが聞く。
「居間の中だ」
「作業場じゃねえ」
「本当に?」
「本当に」
クラリスが良樹の膝を見る。
「補助付きなら、短距離だけ許可します」
「許可制か」
「はい」
「俺の家なのに」
「療養中ですから」
結局、良樹は三人に支えられて立ち上がった。
左にリシア。
右にクラリス。
後ろにカレン。
一歩。
足は出た。
二歩。
まだいける。
三歩目で、膝が抜けた。
「っ」
カレンが背中側から支える。
リシアが左腕を取る。
クラリスが右肩と上体を支えた。
良樹は、三人に支えられながら何とか立っていた。
「……悪い」
「悪いじゃないって言ったわよ」
リシアが言う。
「言ったな」
「なら言わない」
「……助かった」
その言葉に、カレンの手が少しだけ震えた。
「はい」
クラリスは、良樹の呼吸を見ていた。
「今日はここまでですね」
「三歩だぞ」
「三歩です」
「短すぎる」
「戻る練習ではありません」
「ここに居る練習です」
良樹は、言葉に詰まった。
ここに居る。
第七十話で、三人に言われた言葉。
自分が、ようやく受け取った言葉。
戦うでもなく。
作るでもなく。
助けるでもなく。
ただ、ここに居る。
「……難易度高えな」
良樹が呟くと、リシアが少しだけ笑った。
「やっと分かった?」
「ああ」
「仕事より難しい」
「でしょうね」
カレンが、背中側から小さく言った。
「でも、練習できます」
良樹は、少しだけ肩の力を抜いた。
「……そうだな」
◇
昼を過ぎ、夕方に近づいたころ。
問題が発生した。
風呂である。
「いや、風呂は一人で入る」
良樹は即答した。
三人も即答した。
「駄目」
「駄目です」
「駄目です」
完全に揃った。
「そこは駄目だろ」
良樹が言うと、リシアが腕を組んだ。
「倒れたらどうするの」
カレンが真剣な顔で続ける。
「滑ったら危ないです」
クラリスは淡々と言った。
「右腕と魔力回路がまだ戻っていません」
「浴室は転倒リスクが高いです」
「理屈で攻めるな」
「理屈があるからです」
「なら、ギルドの男を――」
そこまで言った瞬間、空気が変わった。
リシアの目が細くなる。
「良樹」
「誰に、身体を見せるつもり?」
カレンは真っ赤になっていた。
だが、その目は剣を持つ時に近かった。
「良樹さん」
「そこは、私たちの役目です」
クラリスは清楚に微笑んだ。
「医療行為です」
「そして婚約者の権利です」
「後半を足すな」
「大切な条件です」
「大切にするな」
良樹は、しばらく三人を見た。
三人とも、本気だった。
カレンは恥ずかしそうにしている。
リシアも強気に見えて耳が赤い。
クラリスは微笑んでいるが、目だけは逃がさない。
そして何より、三人とも良樹を心配している。
そこは、疑えなかった。
「……分かった」
三人の表情が少し変わる。
「だが、条件を決める」
「条件?」
リシアが聞く。
「ああ」
「これを守れないなら、入らねえ」
「倒れるくせに強気ね」
「倒れるから決めるんだよ」
良樹は、一本ずつ指を折った。
「一つ」
「俺は壁を向いて座る」
「……まあ、それは分かるわ」
「二つ」
「三人は、極力接触しない」
「支える必要がある時だけだ」
カレンが、こくこくと頷く。
「は、はい」
「必要な時だけ、ですね」
「三つ」
「俺が止めろと言ったら、止める」
「理由を聞く前に止めろ」
「支えてる手も、洗ってる手も、確認してる手も、全部だ」
クラリスの表情が、少しだけ真面目になる。
「停止優先ですね」
「ああ」
「問答無用だ」
良樹は、そこで一度だけ息を吐いた。
「四つ」
「股間のタオルには、絶対に触るな」
三人の動きが止まった。
リシアの頬が赤くなる。
カレンは、耳まで真っ赤になって固まる。
クラリスも、一瞬だけ視線を逸らした。
良樹は続けた。
「俺は聖人じゃねえ」
「お前ら三人に、そんな格好で、こんな距離まで来られて」
「平気なわけねえだろ」
リシアが、何か言いかけて黙った。
カレンは胸元で両手を握りしめたまま、小さく頷く。
クラリスは、静かに良樹を見た。
「分かりました」
「一つ目、三つ目、四つ目は守ります」
良樹は、少しだけ動きを止めた。
「待て」
「はい」
「今、二つ目が抜けたな」
「はい」
「はい、じゃねえ」
「二つ目も守れ」
クラリスは、清楚に微笑んだ。
「それは難しいです」
「何でだ」
「良樹くんの右肩、上体保持、魔力回路、膝の状態を考えると」
「浴室内で極力接触しない、という条件は安全上不適切です」
「安全上不適切」
「はい」
「羞恥対策としては理解します」
「ですが、介助としては採用できません」
リシアが額を押さえた。
「出たわね、クラリスの正論で踏み込むやつ」
カレンは真っ赤になりながら、おずおずと言った。
「で、でも……クラリスの言うことも、分かります」
「倒れたら、危ないですし……」
「倒れた時は別って言っただろ」
良樹が言うと、クラリスは静かに首を横に振った。
「倒れてから支えるのでは遅い場合があります」
「浴室では、倒れ始めた時点で危険です」
「ですから、倒れない位置に先に手を置きます」
「先に手を置くな」
「必要です」
「便利な言葉だな」
「便利ではありません」
「必要です」
クラリスの声は柔らかい。
だが、一歩も引かなかった。
「ただし」
「止めろと言われたら、必ず止めます」
「股間のタオルには触りません」
「良樹くんの尊厳は守ります」
クラリスは、少しだけ目を伏せた。
「でも、身体は支えます」
「壊れないように」
「倒れないように」
「良樹くんが、ここに居られるように」
良樹は、しばらく黙った。
反論はあった。
山ほどあった。
だが、クラリスの言っていることは、間違っていなかった。
「……分かった」
「二つ目は修正だ」
三人が良樹を見る。
「極力接触しない、じゃない」
「接触する時は、先に言え」
「どこを、何のために触るか言え」
「俺が止めろと言ったら止めろ」
「それでいい」
クラリスは、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「はい」
「では、右肩と背中を支えます」
「早い」
「まだ始めてねえ」
「事前申告です」
「本当に強いな、お前」
◇
入浴介助は、未経験作業だった。
良樹も専門ではない。
三人も、入浴介助などしたことがない。
クラリスは治療時の身体清拭なら経験があると言った。
だが、入浴介助としては未経験だった。
「いいか」
「これは介助である前に、未経験作業だ」
良樹は壁を向いて座りながら言った。
腰にはタオル。
身体は最低限隠している。
それでも、精神的な防御力はほとんどない。
「未経験作業を、狭い場所で、濡れた床で、裸同然の人間相手にやる」
「普通に危ねえ」
三人は黙って聞いていた。
「だから、声をかけろ」
「触る前に言え」
「動かす前に言え」
「俺が返事してから動け」
「ただし、倒れた時だけは別だ」
「その時は考えるな。支えろ」
リシアが真剣な顔で頷いた。
「接触は必要時のみ」
「でも転倒時は即介入」
「そうだ」
クラリスが静かに言った。
「入浴介助のリスクアセスメントですね」
「そうだ」
「恋愛イベントじゃねえ」
リシアとカレンとクラリスが、同時に少しだけ目を逸らした。
「おい」
◇
最初に危なかったのは、リシアだった。
リシアは本気で気をつけていた。
必要以上に触れない。
触る時は声をかける。
良樹が止めろと言ったら止める。
股間のタオルには触らない。
その条件は、ちゃんと頭に入っている。
入っているのだが。
「いい? 私は湯温を見るわ」
「それから、桶を渡す」
「必要以上には触らない」
「絶対に触らない」
「リシア」
「何よ」
「それ、俺に言ってるのか、自分に言ってるのか」
「黙りなさい」
リシアは真っ赤になりながら桶を取った。
狭い浴室。
濡れた床。
湯気。
壁を向いて座る良樹。
その右側にクラリス。
後ろにカレン。
左側から桶を渡そうとするリシア。
配置としては、悪くなかった。
悪くなかったはずだった。
ただ、リシアには一つ問題があった。
本人の認識より、胸が大きい。
「良樹、桶」
「ああ」
良樹が左手を少し動かす。
リシアが桶を渡そうと身を乗り出す。
ほんの少し。
本人の感覚では、本当にそれだけだった。
だが、浴室は狭い。
床は濡れている。
湯気で距離感も甘い。
そして、リシアの胸は大きかった。
ぽよん。
良樹の肩口に、柔らかいものが当たった。
「……」
「……」
良樹が固まる。
リシアも固まる。
「……リシア」
「違うの」
「まだ何も言ってねえ」
「違うのよ」
「だから、まだ何も言ってねえ」
「距離を間違えたの」
「だろうな」
「冷静に言わないで!」
リシアの顔が、一気に赤くなった。
「私はちゃんと距離を取ったつもりだったの!」
「取ったつもりだったのよ!」
「リシア」
「何よ!」
「その距離計算には、胸の分が入ってるか」
「燃やすわよ!」
「入ってねえんだな」
「言わないで!」
良樹は壁を向いたまま、深く息を吐いた。
「図面寸法と実物寸法が違う現場、最悪なんだよな……」
「私を現場扱いするな!」
◇
次に危なかったのは、カレンだった。
カレンは、良樹の背中側に回った。
役目は転倒防止。
膝が抜けた時に支えること。
右腕に負荷がかからないよう、上体を支えること。
カレンは真剣だった。
真剣すぎた。
「良樹さん」
「私が支えます」
「絶対に倒しません」
「頼む」
「ただし、力を入れすぎるな」
「止めろと言ったら止めろ」
「はい!」
返事はよかった。
返事は。
良樹が少し体勢を変えようとした瞬間、膝がわずかに沈んだ。
「あっ」
カレンが反射で支えた。
背中から。
肩を庇うように。
倒れないように。
その一生懸命さは、正しかった。
だが、距離が近かった。
近すぎた。
ふにん。
「カレン」
「はい、大丈夫です!」
「倒れません!」
「いや、倒れる話じゃなくて」
「止めろ」
「支えます!」
「支えるな」
「止めろ」
「良樹さんは、私が支えます!」
「今その台詞は危ない!」
カレンには聞こえていなかった。
良樹を倒してはいけない。
右腕を庇らなければいけない。
膝が抜けたら受け止める。
絶対に、離さない。
その使命感が、羞恥も、周囲の声も、良樹の停止信号も上書きしていた。
「カレン!」
リシアが叫んだ。
「一回止まりなさい!」
「離したら危ないです!」
「私が支えるから!」
「でも、私が支えます!」
「役割に固執しない!」
クラリスが、静かに言った。
「カレン」
「良樹くんの停止信号が出ています」
その言葉で、ようやくカレンの意識が戻った。
「……え?」
カレンは、そこで初めて自分の姿勢を確認した。
良樹の背中を支えるために、両腕を回している。
右腕を庇うために、肩口に身体を寄せている。
膝が抜けても倒れないように、かなり近い位置で踏ん張っている。
そして。
自分の胸が、良樹の背中に押し当たっていた。
さらに、支えるために寄せた腰も。
太ももも。
濡れた服越しに、思っていた以上に密着していた。
カレンの顔が、一瞬で真っ赤になった。
「あっ……!」
「カレン」
良樹は壁を向いたまま、低く言った。
「急に離れるな」
「それも危ねえ」
「は、はい……!」
返事はした。
したが、カレンの頭の中はもう真っ白だった。
今。
自分は。
良樹さんに。
背中から。
かなり。
カレンは声にならない声を喉の奥で飲み込んだ。
「ゆっくりだ」
「リシア、左側」
「クラリス、右肩」
「カレンは、力を抜け」
「わ、分かりました……!」
リシアが左側へ回る。
クラリスが右肩を支える。
カレンは、良樹の身体を急に離さないように、震える手で少しずつ力を抜いた。
胸が離れる。
腰が離れる。
太ももが離れる。
その一つ一つを自覚するたびに、カレンの顔はさらに赤くなった。
「す、すみません……」
「私、その」
「支えることに、必死で……」
「分かってる」
「助かった」
良樹の声は、怒っていなかった。
それが余計に、カレンの胸に刺さった。
「でも」
「止めろが聞こえない支え方は危ない」
「……はい」
カレンは、胸元で両手を握った。
「次は」
「ちゃんと、聞きます」
「支えながら、聞きます」
良樹は、壁を向いたまま小さく頷いた。
「ああ」
「頼む」
カレンはその一言で、また少しだけ赤くなった。
◇
最後に、クラリスだった。
クラリスは、最初から違った。
リシアは距離を間違えた。
カレンは頑張りすぎた。
だが、クラリスは違う。
理解していた。
良樹のルールも。
浴室の危険も。
自分がどこまで触れていいかも。
そして、どこまでなら触れていないことになるかも。
「良樹くん」
「右肩を確認します」
「待て」
「はい」
「今の言い方、確認だけで済む距離じゃねえだろ」
「確認です」
クラリスは、清楚に微笑んだ。
「右肩、肩甲骨、背中、上体保持」
「すべて繋がっています」
「増やすな」
「繋がっています」
「理屈で増やすな」
クラリスは、すっと良樹の右側へ入った。
動きが滑らかだった。
しなり。
白い腕が伸びる。
良樹の右肩へ、指先が触れる。
「右肩、上げないでください」
「触る前に言えって言ったよな」
「言いました」
「右肩を確認します、と」
「範囲が広い」
「必要範囲です」
クラリスは、そのまま良樹の肩を支えた。
しなり。
今度は背中側へ手が回る。
「背中を少しこちらへ」
「クラリス」
「はい」
「わざとらしくねえか」
「何がでしょう」
「その、しなり、しなり、って動きだよ」
「身体に負担をかけない動線です」
「嘘ではないが、全部でもねえだろ」
「はい」
「認めるな」
リシアが額を押さえた。
「クラリス」
「あんた、必要接触って言葉を盾にしてない?」
「盾ではありません」
「介助です」
「その介助、かなり攻めてるわよ」
「守っています」
「どこを?」
「良樹くんを」
クラリスは、清楚に言い切った。
カレンは真っ赤な顔で、小さく呟いた。
「クラリスは……すごいです」
「感心するな」
良樹は壁を向いたまま言った。
「クラリス」
「はい」
「お前は、止めろと言ったら止まるな」
「もちろんです」
「そこだけは信用してる」
「ありがとうございます」
「だが、その手前で攻めるな」
「攻めていません」
「しなりしなりが攻めてる」
「身体に負担をかけない動線です」
「二回言ったな」
「それ気に入ってるだろ」
クラリスは、微笑んだまま答えなかった。
答えないのが、答えだった。
◇
良樹は、壁を向いたまま、しばらく黙っていた。
湯気が上がっている。
浴室は狭い。
濡れた床は滑りやすい。
右腕は重い。
膝も信用できない。
そして何より。
背後に、三人がいる。
リシア。
カレン。
クラリス。
自分に惚れている女たち。
自分も惚れている女たち。
婚約者になった女たち。
そんな三人が、濡れてもいい格好で、狭い浴室の中にいる。
平気なわけがなかった。
「……クラリス」
「はい」
クラリスが静かに返事をした。
良樹は、壁を向いたまま言った。
「お前に、頼みがある」
その声に、リシアとカレンも少しだけ表情を変えた。
良樹の声が、さっきまでより低かったからだ。
「何でしょうか」
「もし」
良樹は、一度言葉を切った。
かなり言いづらそうだった。
だが、逃げなかった。
「もし、俺の理性が危なくなったら」
「俺が、お前らに変なことをしそうになったら」
「その時は」
良樹は、奥歯を噛んだ。
「俺を殴ってでも止めろ」
湯気の中で、空気が止まった。
リシアの顔が、一気に赤くなる。
カレンは真っ赤になったまま、両手を胸元で握りしめた。
クラリスだけが、静かに良樹を見ていた。
「良樹」
リシアが、少し震えた声で言う。
「あんた、そこまで……」
「そこまでだ」
良樹は即答した。
「俺は聖人じゃねえ」
「お前ら三人にこんな距離まで来られて、平気なふりだけして済むほど、できた男じゃねえ」
言葉は荒い。
だが、嘘はなかった。
「お前らが決めた線がある」
「俺も守る」
「だから、万が一俺がその線を越えそうになったら」
良樹は、壁を向いたまま、少しだけ息を吐いた。
「止めろ」
「殴ってでもいい」
「クラリス」
「お前が、俺の非常停止だろ」
クラリスは、少しだけ目を伏せた。
それから、静かに言った。
「一部、承知しました」
良樹の動きが止まった。
「……一部?」
「はい」
「一部です」
「なんで一部なんだ」
クラリスは、清楚に微笑んだ。
「良樹くんが、私に来てくれた時は止めません」
「おい」
リシアが固まった。
カレンも固まった。
良樹は壁を向いたまま、声だけで分かるくらい動揺した。
「おい、クラリス」
「はい」
「そこは止めろ」
「嫌です」
「即答するな」
「良樹くんが、本当に私を求めて来てくださった時に」
「私が良樹くんを殴って止める理由がありません」
「あるだろ」
「ルールだ」
「ルールは承知しています」
「守るべき線も承知しています」
クラリスは、淡々と言った。
「ですが」
「良樹くんが私を抱きしめようとした場合」
「私に触れようとした場合」
「私を求めてくださった場合」
「そのすべてを暴走として処理するのは、判断として不適切です」
「不適切じゃねえ」
「危険域だ」
「危険域かどうかは確認します」
「確認するな」
「必要です」
「便利に使うな」
リシアが、ようやく復帰した。
「クラリス」
「あんた、何を真面目な顔で言ってるのよ」
「真面目な話です」
「だから怖いのよ」
カレンは耳まで赤くなりながら、小さく言った。
「で、でも……クラリスの言いたいことも、少し分かります」
「良樹さんが来てくれること自体は、その……嫌では、ないので……」
「カレンまで!」
「す、すみません……!」
良樹は、壁を向いたまま頭を抱えたかった。
だが、右腕が重くて上がらなかった。
「お前ら」
「今はそういう話じゃねえ」
「俺が理性を飛ばした時の話だ」
クラリスは頷いた。
「はい」
「ですから、一部承知しました」
「範囲を言え」
「良樹くんが、私たちの意思を無視して無理に進もうとした場合」
「良樹くん自身が苦しそうで、自分でも止まれなくなっている場合」
「明らかに一線を越えそうな場合」
「その時は、止めます」
クラリスの声は柔らかかった。
だが、そこには迷いがなかった。
「殴ることも含めて、止めます」
良樹は黙った。
「ただし」
クラリスは続けた。
「良樹くんが、私を好きで」
「私に触れたいと思って」
「私の方へ来てくださっただけなら」
「私は止めません」
「だからそれが危ないって言ってるんだが」
「その時は」
「越えてはいけないところに進まないように、止めます」
「俺をか」
「状況によります」
「状況にするな」
「良樹くんの手は止めます」
「でも、良樹くんの気持ちは止めません」
その言葉に、良樹は何も言えなくなった。
リシアも、カレンも、黙った。
クラリスは、少しだけ頬を赤くした。
「私は」
「良樹くんに求められることを、危険なことだけにはしたくありません」
湯気の中で、その声だけが妙にはっきり聞こえた。
「危ない時は止めます」
「無理をしている時も止めます」
「私たちを傷つけるような進み方なら、止めます」
「でも」
クラリスは、静かに良樹を見つめた。
「良樹くんが、私たちを女として見てくださることまでは」
「止めません」
良樹は、壁を向いたまま、しばらく黙っていた。
湯気。
狭い浴室。
濡れた床。
後ろにいる三人の気配。
そして、非常停止と呼んだはずの相手から返ってきた、あまりにも危険な例外条項。
良樹は、ついに叫んだ。
「非常停止の意味を考えてくれー!」
浴室に、良樹の悲鳴じみた声が響いた。
リシアは顔を赤くしたまま目を逸らし、
カレンは両手で顔を覆い、
クラリスは、少しだけ困ったように微笑んだ。
「考えています」
「考えた結果がそれか!」
「はい」
「止めるべきものを、止めます」
「俺は俺を止めろって言ってるんだよ!」
「ですから」
「良樹くんが、本当に危ない時は止めます」
「今この会話がもう危ない!」
「会話は止めますか?」
「止めろ!」
「承知しました」
クラリスは、静かに頷いた。
その数秒後。
「では、右肩を支えますね」
「会話だけ止めて接触を再開するな!」
リシアが、耐えきれず吹き出した。
カレンも、真っ赤な顔のまま小さく笑った。
クラリスは清楚に微笑む。
良樹は壁を向いたまま、深く息を吐いた。
「……入浴介助、戦闘より難しいだろ」
◇
入浴後。
良樹は、ほとんど燃え尽きていた。
身体は、少し楽になっている。
湯で温まったせいか、右肩の重さも少しだけ軽い。
膝のこわばりも、さっきよりはましだった。
だが、精神が削れていた。
かなり削れていた。
「……楽になった」
良樹がそう呟くと、三人は揃って息を吐いた。
恥ずかしかった。
近かった。
何度も事故になりかけた。
何度も良樹が止めろと言った。
何度もクラリスが必要ですと言った。
何度もリシアが怒鳴った。
何度もカレンが真っ赤になった。
それでも、良樹の肩から少しだけ力が抜けていた。
それだけで、三人は報われた気がした。
「……助かった」
良樹は言った。
リシアは腕を組む。
「当然でしょ」
カレンは、まだ少し赤い顔で微笑んだ。
「よ、よかったです」
クラリスは静かに頷いた。
「明日も必要ですね」
「明日も?」
三人が、同時に言った。
「必要です」
良樹は、湯上がりの身体を椅子に預けたまま、深く息を吐いた。
「……休養って、戦闘よりきつくねえか」
誰も否定しなかった。
◇
その夜。
三人部屋では、静かに婚約者会議が開かれていた。
議題は一つ。
入浴介助時に発生した、非常停止例外条項について。
リシアは卓に肘を置き、額を押さえていた。
「……今日のは、かなり危なかったわ」
カレンは真っ赤な顔で、膝の上の手を握っている。
「はい……」
「良樹さんが、あんなにはっきり言うとは思いませんでした」
クラリスは、いつものように清楚に微笑んでいる。
「良樹くんは、正直に危険情報を共有してくださいました」
「とても良いことです」
「言い方は正しいのに、内容が危険なのよ」
リシアが低く言った。
良樹は言った。
俺は聖人じゃない。
三人にそんな格好で近くに来られて、平気なわけがない。
万が一、自分の理性が危なくなったら、殴ってでも止めてくれ。
そしてクラリスは答えた。
一部、承知しました。
リシアは思い出して、また額を押さえた。
「一部って何よ、一部って」
「必要な例外です」
「必要だったかしら」
「必要です」
クラリスは即答した。
「良樹くんが無理を通そうとした場合は止めます」
「苦しそうで、自分でも止まれなくなっている場合も止めます」
「私たちの意思を無視して進もうとした場合も、当然止めます」
「そこは分かるわ」
「ですが」
クラリスは、少しだけ頬を赤くした。
「良樹くんが、私たちを好きで」
「私たちを女として見て」
「自分から来てくださった場合」
「それをすべて暴走として処理するのは、違うと思います」
沈黙。
カレンが、耳まで赤くなった。
「……それは」
「少し、分かります」
「カレン」
「す、すみません」
「でも……良樹さんが、本当に私たちの方へ来てくれたなら」
「止めるだけでいいのかなって……」
リシアは、しばらく黙った。
反論したい。
反論したいのに、できない。
良樹が来る。
自分たちではなく、良樹の方から。
逃げずに。
誤魔化さずに。
好きだと、欲しいと、そういう顔で。
それを想像してしまった時点で、リシアの負けだった。
「……分かったわ」
リシアは小さく息を吐いた。
「昼のルールは昼のルール」
「でも、良樹の方から来た場合は」
そこで一度、言葉が止まった。
カレンは顔を覆う。
クラリスは静かに微笑む。
リシアは、頬を赤くしたまま続けた。
「各自の判断に基づいて」
「適切に行動する」
「て、適切に……」
カレンの声が震えた。
「そこは各自判断よ」
「全員で同じ対応を決める話じゃないでしょ」
クラリスは微笑んだ。
「つまり、新ルールですね」
「書かなくていいわよ」
「記録は必要です」
「やめなさい」
クラリスは、すでに紙を取り出していた。
リシアが止めるより早く、さらさらと書く。
婚約者会議・追加確認事項。
一、良樹くんから明確にこちらへ来た場合は、各自の判断に基づいて適切に行動する。
二、無理、混乱、体調不良、判断不能の場合は停止。
三、良樹くんの尊厳および本人意思を確認する。
四、詳細は必要に応じて会議で扱う。
リシアは紙を見て固まった。
「詳細って何」
「必要に応じて、です」
「必要に応じないで」
カレンが、真っ赤な顔で小さく手を上げた。
「あ、あの……」
「詳細は、必須ですか?」
リシアとクラリスが、同時にカレンを見た。
カレンは慌てて首を振る。
「ち、違います」
「そういう意味ではなくて」
「その……良樹さんから来てくれた時に」
「全部、話すのは……少し、恥ずかしいかなって……」
リシアは、深く頷いた。
「分かるわ」
クラリスも少し考える。
「では、詳細報告は任意」
「ただし、関係に大きな進展があった場合は、概要報告」
「概要報告」
「はい」
「その言葉も十分危ないわね」
カレンは、顔を覆ったまま小さく言った。
「で、でも……」
「良樹さんからなら」
「私、逃げないように、頑張りたいです」
その声は、震えていた。
けれど、逃げてはいなかった。
リシアは、少しだけ表情を柔らかくする。
「そうね」
「逃げるか、止めるか、受け止めるか」
「それは、その時の自分で決める」
クラリスが頷いた。
「はい」
「良樹くんの暴走は止めます」
「ですが、良樹くんの好意は止めません」
リシアは、また額を押さえた。
「それ、昼にも聞いたわ」
「大切なことですから」
「大切なのは分かるけど、言い方が強いのよ」
カレンが、ぽつりと言った。
「でも……嬉しいです」
二人がカレンを見る。
「良樹さんが、私たちを女として見てくれているって」
「ちゃんと言ってくれたのが」
「少し怖いけど」
「嬉しかったです」
リシアは黙った。
クラリスも、静かに微笑んだ。
それは、三人とも同じだった。
良樹が平気ではないこと。
自分たちを、ただ守る対象や仲間としてだけではなく、女として見ていること。
それを隠さず、危険として共有してくれたこと。
恥ずかしい。
危ない。
でも、嬉しい。
リシアは、小さく息を吐いた。
「じゃあ、追加ルール」
三人は、紙を見る。
リシアが言った。
「良樹から来た場合は」
「逃げるか、止めるか、受け止めるか」
「各自がちゃんと考えて行動する」
カレンが頷く。
「はい」
クラリスも頷いた。
「承知しました」
「ただし」
リシアは二人を見た。
「良樹が本当に苦しそうだったら止める」
「体調が悪い時も止める」
「今日みたいに療養中なら、絶対に無理はさせない」
「これは共通」
「はい」
「はい」
カレンとクラリスの返事は、今度は真面目だった。
リシアは、少しだけ頬を赤くしながら続ける。
「それ以外は……」
「各自判断」
沈黙。
三人は、同時に少しだけ目を逸らした。
その沈黙が、答えだった。
婚約者会議に、新しいルールが追加された。
ただし、その詳細を良樹が知ることはない。
すべては、妻会議の闇の中で決められたことである。




