表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

71/112

第70話 ここに居て(挿絵有)

 良樹が目を開けた時、最初に見えたのは見慣れた天井だった。


 木の天井。

 梁。

 薄く差し込む朝の光。


 自分の部屋だ。


 そう理解するまでに、少し時間がかかった。


 身体が重い。


 右腕が、鉛を流し込まれたように鈍く痛む。

 胸の奥も熱い。

 魔力回路というものが実際に神経や血管と同じように存在しているのかは分からない。


 けれど、良樹には分かった。


 焼けている。


 使いすぎた。

 通しすぎた。

 押し込みすぎた。

 止めるべき場所を過ぎても、落とさなかった。


「……っ」


 起き上がろうとして、良樹は顔をしかめた。


 右腕に力が入り切らない。


 無理に起きようとした瞬間、すぐ横から声がした。


「ゆっくり」


 リシアの声だった。


 良樹は目だけを動かした。


 リシアがいた。


 椅子に座り、こちらを見ている。

 いつものように腕を組んではいない。

 怒ってもいない。


 ただ、疲れた顔をしていた。


 その隣にはカレンがいた。

 胸元で両手を握っている。

 目の下が少し赤い。


 反対側にはクラリスがいた。

 静かに微笑んでいる。

 けれど、その微笑みはいつもより薄かった。


 三人とも、いた。


「……寝てたのか」


 良樹は掠れた声で言った。


「ええ」


 リシアが短く答えた。


「かなり」


「……悪い」


「まだ謝らなくていい」


 リシアがすぐに言った。


 昨日も、同じことを言われた気がする。


 謝らなくていい。

 今は、謝らなくていい。

 泣きなさい。


 その言葉を思い出した瞬間、胸の奥が少しだけ詰まった。


 良樹は視線を逸らした。


 そこで、部屋の惨状が目に入った。


 壊れた扉。


 内側へ倒れ込むように歪んだ板。

 外れかけた蝶番。

 床に散らばった木片。


 紙。


 散らばった紙。


 非常停止。

 停止条件。

 事故記録。

 打撃盤。

 右腕機構。

 主幹経路。

 安全装置。

 過負荷。

 復帰不可。

 再起動禁止。


 自分の字だった。


 いつもの字より、荒い。

 筆圧が強い。

 何度も同じ文字を書き潰している。


 良樹は、それを見ていた。


 昨日の自分が、何をしようとしていたのか。

 何から逃げようとしていたのか。


 少しずつ、戻ってくる。


 三人が倒れていた。


 オーガが立っていた。


 自分は、キレた。


 怒った。

 許せなかった。

 それは、今でも変わらない。


 あそこで怒らなかったら、自分ではない。

 あそこで何も感じない男なら、三人の隣にいる資格などない。


 けれど。


 勝ったあとも、止まらなかった。


 オーガは倒れていた。

 もう殴る必要はなかった。

 もう、壊す必要はなかった。


 それでも、止まらなかった。


「……俺」


 良樹は、散らばった紙を見たまま呟いた。


「何やってたんだ」


 リシアは、少しだけ目を伏せた。


 それから、静かに言った。


「逃げてたのよ」


 良樹は何も言わなかった。


 カレンも、小さく続けた。


「怖い場所から、目を逸らしていました」


 その声は責めていなかった。


 ただ、事実を言っていた。


 怖い場所。


 それは、オーガではない。

 戦場でもない。

 魔物でもない。


 自分が止まれなかったという事実。


 良樹は、ゆっくり息を吐いた。


「……そうだな」


 認めるしかなかった。


 怖かった。


 三人が倒れたことが。

 三人を失うかもしれなかったことが。

 自分の怒りで、何かが外れたことが。

 勝ったあとも止まれなかったことが。


 だから、紙に逃げた。


 事故記録。

 停止条件。

 非常停止。


 いつものように、書けば整理できると思った。

 原因を書けば、再発防止に進めると思った。

 そうすれば、自分が何をやらかしたのかを、現場の問題として処理できると思った。


 だが、違った。


 処理できなかった。


 だから、書き潰した。


 良樹の手が、床の紙へ伸びかけた。


 そこには、別の文字もあった。


 藤田式物理顕現。

 可変魔導実体剣。

 篭手。

 具足。

 杖延長。

 飛翔翼。

 チェーン。

 スプロケット。

 クランク。

 リンク。

 クラッチ。


 書いた覚えはある。


 藤田吾郎の《魔導工廠》。

 物理的に機械要素を顕現する力。

 軸。

 歯車。

 カム。

 リンク。

 クラッチ。

 保持具。

 装甲。

 フレーム。


 六十年の経験が作った、物理としての機械。


 自分の《魔導盤》は違う。


 制御。

 接続。

 出力調整。

 安全回路。

 インバーター。

 停止条件。


 良樹は藤田ではない。

 機械工学を何十年も積んだ職人ではない。

 知っている。

 見たことはある。

 現場で触ったこともある。


 だが、設計できるかは別だ。


 それでも、自分の盤で制御できるなら、藤田式の物理顕現を一瞬だけ使うことはできるかもしれない。


 カレンには、怖い方向へ最適な形の刃を置く可変魔導実体剣。

 クラリスには、反力を逃がし、点で叩く篭手と具足。

 リシアには、飛ぶための魔導飛翔翼。


 構想はあった。


 強くなれる。


 三人は、もっと届く。


 良樹は、それを書こうとした。


 だが、筆先が止まる。


 カレンの名前を書こうとした瞬間、倒れていたカレンが浮かんだ。

 クラリスの名前を書こうとした瞬間、唇を噛んでいたクラリスが浮かんだ。

 リシアの名前を書こうとした瞬間、泣きそうな顔で自分を叩いたリシアが浮かんだ。


 そして、自分が止まれなかったことが浮かんだ。


 良樹は、手を止めた。


「……今は、書けねえ」


 その声は、自分でも驚くほど小さかった。


 リシアは、怒らなかった。


「書かなくていいわ」

「今は」


 カレンも頷いた。


「良樹さんが、戻ってからでいいです」


 クラリスは、良樹の右腕にそっと触れた。


「戻るための回路を」

「先に作りましょう」


 良樹は、クラリスを見た。


「回路?」


「はい」


 クラリスは、良樹の右腕から胸元へ視線を移した。


 何かを見ている。


 リシアが魔力の流れを見る時の目とは違う。

 カレンが怖い場所を見る時の目とも違う。


 身体の奥。

 負荷。

 痛み。

 壊れる前の兆候。


 いつものクラリスは、そこを見る。


 けれど今は、それだけではなかった。


「良樹くん」


「何だ」


「昨日から」

「少しだけ、見えるものが変わりました」


「見えるもの?」


「はい」


 クラリスは、静かに頷いた。


「良樹くんの盤の全部ではありません」

「リシアのように、流れを読むわけでもありません」


 リシアが、わずかに眉を動かした。


 クラリスは続ける。


「リシアが見るのは、良樹くんの制御です」

「魔力の流れ」

「出力の立ち上がり」

「火、水、風、土の噛み合わせ」

「良樹くんの盤と魔法の繋がり」

「動かすための線」


 良樹は黙って聞いていた。


 確かに、リシアはそこを見る。

 良樹が盤として組んだものを、魔法使いの身体感覚で読む。

 押しすぎれば火が先に立つ。

 水が遅れれば圧が逃げる。

 風が早すぎれば形が崩れる。

 土が固すぎれば流れが詰まる。


 リシアは、動かすための流れを見る。


 クラリスは、良樹の胸元を見た。


「私に見えるのは」

「そこではありません」


 クラリスの指が、良樹の服を軽く掴む。


「止める線が、見えます」


 良樹の呼吸が止まった。


「止める線?」


「はい」

「動かすためではなく」

「出力するためでもなく」

「危ない時に、落とすための線です」


 落とす。


 その言葉で、良樹の中の回路が繋がった。


「……安全回路か」


 クラリスは静かに頷いた。


「たぶん、それです」


 良樹は、目を細めた。


「それは、制御回路じゃねえ」

「安全回路だ」


 リシアが聞く。


「安全回路?」


「ああ」


 良樹は、ゆっくり言葉を探した。


 いつものように、すぐ説明に逃げるのではない。

 それでも、これは説明しなければならない。


「動かすための回路じゃない」

「危ない時に、確実に止めるための回路だ」


 良樹は散らばった紙の一枚を見た。


 非常停止。

 復帰条件。

 再起動禁止。


「線が一本切れても止まる」

「接点が片方おかしくなっても、もう片方で止まる」

「異常が残ってたら復帰しない」

「勝手に再起動しない」


 リシアは黙って聞いていた。

 カレンも、真剣な顔で聞いていた。


「Safety Category 4とか、PL eとか、そういう領域だ」

「……まあ、今のは俺の世界の言葉だから、忘れていい」


 良樹は短く息を吐く。


「要するに」

「危ない時に、危ない側へ壊れないための回路だ」


 クラリスは、その言葉を受け止めるように目を伏せた。


 そして、静かに言った。


「それなら」

「私は、そこに入れます」


 良樹の動きが止まった。


「……何に」


「良樹くんの安全回路に」


 クラリスは顔を上げた。


 その目は、逃げていなかった。


「私が、良樹くんの非常停止になります」


 部屋の空気が止まった。


 良樹は、すぐに首を振った。


「駄目だ」


「良樹くん」


「駄目だ」

「重すぎる」


 良樹は上体を起こそうとした。

 痛みが走る。

 それでも、言葉は止めなかった。


「それは俺の中に、他人の停止権限を入れるってことだぞ」

「お前にそんなことはさせられねえ」


 クラリスは退かなかった。


「背負わせてください」


「お前が壊れるだろ」


「退きません」


 即答だった。


 良樹は、クラリスを見た。


 いつもの柔らかい微笑みではない。

 清楚な僧侶の顔でもない。

 氷のように敵を見る顔でもない。


 怖がっている顔だった。


 それでも、退かない顔だった。


「怖くねえのか」


 良樹は低く聞いた。


 クラリスの微笑みが、ほんの少し崩れた。


「怖いです」


 声が震えていた。


「怖いに決まっています」


 良樹は何も言えなかった。


「良樹くんの中に入るのも」

「良樹くんを止める役を持つのも」

「もし間違えたら、良樹くんを傷つけるかもしれないことも」


 クラリスの指が、良樹の袖を強く掴んだ。


「全部、怖いです」


 涙が一筋、クラリスの頬を流れた。


 クラリスは、それを拭わなかった。


 泣いたから退くのではない。

 泣きながら、それでもそこに立つ。


「でも」


 声が、さらに震えた。


「良樹くんが、またあんな顔になる方が」

「もっと、怖いんです」


 良樹の胸が詰まった。


 あんな顔。


 自分では見ていない。

 けれど、三人は見た。


 三人が倒れて。

 自分が壊れて。

 止められたあとも、まだ戻ってこなかった自分の顔。


 クラリスは、それを見た。


 治したいと思った。

 癒したいと思った。

 痛みを取ってやりたいと思った。

 焼けた魔力回路を鎮めたいと思った。

 右腕の負荷を抜いてやりたいと思った。

 眠れるように整えたいと思った。


 でも、それでは治せなかった。


 あの顔は、治せなかった。


「嫌です」


 クラリスは言った。


「良樹くんが壊れてから治すのは」

「もう嫌です」


「治したいです」

「癒してあげたいです」

「でも」

「それだけじゃ、足りないんです」


 涙が、もう一筋落ちる。


「だから」

「止めさせてください」


「良樹くんが、壊れる前に」


 クラリスは、良樹を見た。


「私を」

「良樹くんの非常停止にしてください」


 挿絵(By みてみん)


 良樹は、何も返せなかった。


 返せないまま、リシアの声がした。


「良樹」


 怒ってはいなかった。


 ただ、逃がさない声だった。


「ここで断ったら、あんたはまた一人で抱えることになるわよ」


 良樹はリシアを見た。


 リシアの目も、少し赤かった。


「あんたは、また紙に逃げる」

「盤に逃げる」

「停止条件って書きながら、自分一人で止めようとする」


 リシアは、良樹から目を逸らさない。


「それで駄目だったのよ」


 カレンも、震える声で続けた。


「良樹さん」

「クラリスは、良樹さんを縛りたいんじゃありません」


 カレンは両手を胸元で握っていた。


「止めたいんです」

「壊れる前に」


 リシアが頷く。


「非常停止を押すためじゃない」

「押さなくて済むようにするためよ」


 カレンも言った。


「私も見ます」

「良樹さんが怖い場所へ行く前に」

「私が、先に怖い場所を見ます」


 その声は、まだ少し震えている。


 けれど、逃げていない。


「良樹さんが怒らなくて済むように」

「良樹さんが壊れなくて済むように」


 リシアも言う。


「私も見るわ」

「あんたの出力が荒れる前に」

「制御が壊れる前に」


 そして、クラリスが最後に言った。


「それでも駄目だった時だけ」

「私が、止めます」


 三人がいた。


 リシアは、良樹の制御を見る。

 カレンは、外側の危険を見る。

 クラリスは、最後に止める。


 非常停止を押すためではない。


 非常停止を押さずに済むように。

 それでも必要になった時には、必ず押せるように。


 三人で、良樹を支える。


 良樹は、目を閉じた。


 あそこで怒ったことは、間違いではない。


 三人が倒れていた。

 オーガが立っていた。

 あそこで怒らない自分など、想像できない。


 だが、問題はそのあとだ。


 勝ったあと。

 敵が倒れたあと。

 もう壊す必要がなくなったあと。


 止まれなかった。


 そこが事故だ。


 そこを認めなければ、何も始まらない。


「……停止だけだ」


 良樹は、ようやく言った。


 クラリスが、涙の残る目で良樹を見た。


「お前に渡すのは、停止権限だけだ」

「出力を上げる権限は渡さねえ」

「動かす権限も渡さねえ」

「俺の盤を好きに触らせるわけでもねえ」


 良樹は、クラリスを見た。


「お前ができるのは」

「俺が危険域に入った時に、落とすことだけだ」


 クラリスは、ゆっくり頷いた。


「はい」

「それで十分です」


「それでも、重いぞ」


「重くても」


 クラリスの声は、涙で揺れていた。


 それでも、逃げなかった。


「持ちます」


 良樹は、苦しそうに息を吐いた。


 受け入れた。


 納得したわけではない。

 軽くなったわけでもない。


 自分の停止権限を、他人に渡す。

 それも、三人に渡す。


 また、背負わせる。


 そう思った瞬間、胸の奥が重くなった。


 良樹の顔を、三人は見た。


 リシアが、一歩近づいた。


「良樹」


「何だ」


「黙って」


 次の瞬間、良樹の身体が包まれた。


 リシアが、正面から抱きしめていた。


 良樹は固まった。


「リシア……」


「黙ってって言ったでしょ」


 リシアの腕が、良樹の背中へ回る。


 その横から、カレンがそっと寄り添った。


「良樹さん」


 声が震えていた。


 けれど、逃げていなかった。


 カレンは良樹の腕に触れ、少し迷ってから、そのまま抱きついた。


 反対側から、クラリスが寄り添う。


 クラリスは、良樹の胸元へ額を近づけた。

 そして、右手をそっと胸に添える。


 三人分の温度が、良樹に触れた。


 柔らかい。

 暖かい。

 近い。


 良樹は、息を止めた。


 何か言おうとした。

 謝ろうとした。

 重い、と言おうとした。

 背負わせられない、ともう一度言おうとした。


 だが、言葉は出なかった。


 リシアが、良樹の胸元に額を寄せたまま言った。


「暖かいでしょ」


 良樹は答えられなかった。


 カレンが、良樹の腕をぎゅっと抱いた。


「柔らかい、ですよね」


 クラリスが、静かに続けた。


「触れ合うと」

「気持ちいいでしょう」


 三人の声は、どれも少し震えていた。


 リシアが続ける。


「私たちも、そう」


「良樹が触れてくれると、暖かい」

「良樹が帰ってきてくれると、安心する」

「あんたがここにいるだけで、私たちは嬉しいの」


 良樹の喉が、わずかに鳴った。


 リシアは顔を上げない。


 上げたら、泣いているのが分かるからだ。


 けれど、声だけは逃げなかった。


「……ここに、居て」


 誰の言葉だったのか、良樹には一瞬分からなかった。


 リシアだったのか。

 カレンだったのか。

 クラリスだったのか。


 あるいは、三人の感情が、そこへ収束しただけなのかもしれない。


 良樹は言いかけた。


 いるだろ、と。


 ずっと、お前らのそばにいただろ、と。


 けれど、すぐに分かった。


 三人が言っているのは、今この部屋にいるかどうかではない。


 怖い場所へ行っても。

 怒っても。

 戦っても。

 勝っても。

 壊れそうになっても。


 最後に、ここへ戻ってくること。


 三人の手が届く場所へ。

 三人が怒って、泣いて、抱きしめられる場所へ。


 帰ってくること。


「私たちも」

「帰ってきてほしい」


 リシアが言った。


 カレンが、良樹の腕に頬を寄せた。


「良樹さんが、怖い場所へ行くのは分かっています」

「止めても、きっと行きます」

「だって、良樹さんは……英雄になるんですから」


 カレンの声が、そこで少し崩れた。


「でも」

「帰ってきてほしいです」


 クラリスの指が、良樹の服を掴んだ。


「良樹くんは、まだ無茶をします」

「きっと、します」

「止めても、怒っても、泣いても」

「大事なものが危ない時は、きっと前に出ます」


「だから」


 リシアが、ゆっくり息を吸った。


「あんたの無茶を」

「少しでも、私たちに引き受けさせて」


 良樹は目を見開いた。


「そうすれば、きっと」


 リシアの声が、とうとう震えた。


「誰も、無理にしなくても」

「ずっと、こうしていられるわ」


 カレンが泣き出した。


 声は小さい。

 それでも、良樹の腕に触れる頬が濡れていくのが分かった。


 クラリスも泣いていた。


 涙を拭わず、良樹の胸元に額を寄せたまま、静かに泣いていた。


 最後に、リシアが顔を上げた。


 強気な目は、赤く濡れていた。


 けれど、逸らさなかった。


「だから」


 リシアは言った。


「お願い」


「私たちも頑張るから」

「私たちを、笑って見てて」


 良樹は、何も言えなかった。


 三人が泣いている。


 自分を責めるためではない。

 自分を縛るためでもない。

 ただ、帰ってきてほしいと願って泣いている。


 良樹は、ゆっくり腕を上げた。


 抱き返していいのか、一瞬だけ迷った。


 けれど、三人は離れなかった。


 だから、良樹は三人を抱き返した。


 強くはできなかった。

 右腕はまだ重い。

 胸の奥も痛い。


 それでも、抱き返した。


「……悪かった」


 声は、小さかった。


 謝るな、と言われる前に。

 慰められる前に。

 技術の言葉へ逃げる前に。


 良樹は、もう一度言った。


「悪かった」


 リシアは、良樹の胸元で小さく頷いた。


「うん」


 許す、とは言わなかった。

 責める、でもなかった。

 なかったことにはしなかった。


 ただ、受け取った。


 カレンが、泣きながら良樹の腕を抱きしめる。


「帰ってきてくれたら、いいです」


 クラリスは、良樹の胸元に額を寄せたまま、何度も小さく頷いた。


「はい……」


 涙で濡れた声だった。


 それだけだった。


 いつものように、身体の状態を説明しない。

 安全回路の話もしない。

 治しますとも、止めますとも言わない。


 ただ、良樹の謝罪を受け取って。

 それでも離れずに、そこにいた。


 良樹は、三人を抱き返したまま、目を閉じた。


「……頼む」


 それは、命令ではなかった。

 作業指示でもなかった。

 仕様確認でもなかった。


 初めて、三人へ預ける言葉だった。


 三人は、声を揃えなかった。


 リシアは良樹の胸元に額を寄せた。

 カレンは良樹の腕を抱いたまま、泣きながら頷いた。

 クラリスは、胸元に添えた手を少しだけ強くした。


 それで十分だった。


 良樹は、少しだけ息を吐いた。


 それから、苦笑した。


「ずっと、お前らのそばに居ただろ」

「これからもだ」


 三人を抱きしめる腕に、少しだけ力が入った。


 良樹は、顔を上げた。


 その目は、前だけを見ていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ