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第69話 心の非常停止(挿絵有)

 音が、遅れて戻ってきた。


 旧街道側の防衛線には、まだ土煙が残っていた。

 焼けた草の匂い。

 折れた槍。

 割れた盾。

 踏み潰された地面。

 魔物の死骸。

 避難民を守るために作った、即席の防衛線の跡。


 その中心に、オーガが倒れていた。


 大きかった。


 倒れてなお、人間の倍近い体は、街道の土を押し潰している。

 分厚い胸は動かず、丸太のような腕は地面へ投げ出されていた。


 その前で、良樹は倒れていた。


 右腕は力なく落ちている。

 目は閉じている。

 呼吸はある。


 だが、顔色は悪かった。


 魔力焼け。

 右腕への過負荷。

 魔力回路の異常な消耗。

 そして、それ以上に深い何か。


 その周囲に、三人がいた。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 三人とも倒れていた。

 傷がある。

 血がある。

 魔力も乱れている。


 それでも、生きていた。


「担架、こっちだ!」

「包帯を持ってこい!」

「魔力薬!」

「骨を見ろ、無理に動かすな!」

「回復魔法士、前へ!」


 ギルドに待機していた回復魔法士たちと搬送班が駆けつけてくる。


 彼らは、非常信号を受けた時点で準備していた。


 担架。

 包帯。

 魔力薬。

 骨折固定用の板。

 回復魔法。


 戦った者だけが町を守ったわけではなかった。


 防衛線の後ろには、負傷者を運ぶ者がいた。

 治す者がいた。

 水を運ぶ者がいた。

 退避路を空ける者がいた。

 信号を見て、走った者がいた。


 町全体が、防衛線を支えていた。


「こっちの三人もだ!」

「魔法使い、剣士、僧侶!」

「全員生きてる!」

「呼吸あり!」

「動かすぞ!」


 クラリスは、ぼんやりとした意識の中で、良樹を見ようとした。


 身体が重い。

 右手が痛む。

 膝も熱を持っている。

 自分が治療される側になっていることは分かっていた。


 それでも、視線は良樹へ向いた。


 良樹くんの右腕。

 呼吸。

 顔色。

 魔力の乱れ。


 見なければ。


「あなたも患者です」


 回復魔法士が、クラリスの肩を押さえた。


「今は動かないでください」


 クラリスは、薄く目を開けたまま、小さく頷いた。


「……はい」


 返事はした。


 だが、視線だけは良樹から離れなかった。


   ◇


 周囲の冒険者たちは、倒れたオーガを見ていた。


 そして、その前に倒れた良樹を見た。


 さらに、その周囲で傷つきながらも倒れている三人を見た。


 魔法使いのリシア。

 剣士のカレン。

 僧侶のクラリス。


 外から見れば、それは英雄譚だった。


「……見たか」


「ああ」


「あれが英雄候補か」


「候補じゃねえだろ、もう」


「オーガを殴り倒したんだぞ」


「最後、あの三人が支えてた」


「英雄と三人の妻だな」


 声は、ぽつりぽつりと広がっていった。


 誰も大声では言わない。

 まだ負傷者もいる。

 死んだ者もいる。

 防衛線は勝ったが、笑っていい場所ではない。


 それでも、噂は生まれる。


 中規模スタンピードを止めた。

 町への侵入を許さなかった。

 最後に現れたオーガを殴り倒した。

 その英雄候補を、三人の婚約者が支えた。


 外から見れば、そうだった。


 リシアは、治療を受けながら目を伏せた。

 カレンも、何も言えなかった。

 クラリスだけが、静かに良樹を見ていた。


 三人には分かっていた。


 あれは、英雄を支えた姿ではない。


 止まれなくなった良樹を。

 壊れかけた良樹を。


 三人で必死に止めた姿だった。


   ◇


 拠点へ戻る前に、ガレスが良樹を呼び止めた。


 良樹は、一度意識を戻していた。

 だが、顔色はまだ悪い。

 右腕は布で巻かれ、肩から先に重い痛みが残っている。

 魔力回路も、焼けたように軋んでいた。


 そして何より。


 リシアを。

 カレンを。

 クラリスを。


 まともに見られなかった。


「良樹」


 ガレスが言った。


 良樹は、ゆっくり顔を上げる。


「……何だ」


 声が掠れていた。


 ガレスは、しばらく良樹を見ていた。


 いつものような軽口はなかった。


「お前の心の中までは、俺には分からん」


 ガレスは言った。


「何を思って」

「何を悔やんで」

「何を責めてるのか」


「そこまでは分からん」


 良樹は、何も言わなかった。


 言えることがなかった。


「けどな」


 ガレスは続ける。


「どんなやり方だったとしても」

「お前が出した結果だけは、間違ってねえぞ」


 良樹の目が、わずかに揺れた。


「町は残った」

「避難民も生きてる」

「防衛線も抜かれなかった」

「リシアも、カレンも、クラリスも、生きてる」

「お前もだ」


 ガレスは、良樹の肩を強くは叩かなかった。

 今の良樹に、それは重すぎると分かっていた。


 だから、声だけを置いた。


「それだけは、忘れるな」


 良樹は、しばらく黙っていた。


 ガレスは、お前は悪くないとは言わなかった。

 気にするなとも言わなかった。

 正しかったとも言わなかった。


 ただ、結果だけは間違っていないと言った。


 今の良樹が、かろうじて受け取れる言葉だった。


「……あぁ」


 良樹は、それだけ答えた。


   ◇


 四人は拠点へ戻った。


 リシアも、カレンも、クラリスも、治療は受けた。

 骨も、深い傷も、後遺症が残るほどではないと言われた。


 良樹も同じだった。


 右腕も。

 魔力回路も。

 時間をかければ戻る。


 後遺症は残らない。


 その言葉に、周囲は安堵した。


 だが、クラリスはすぐには安心できなかった。


 良樹くんを、治したい。


 痛みを取ってあげたい。

 焼けた魔力回路を鎮めてあげたい。

 右腕の負荷を抜いてあげたい。

 疲れた身体を、眠れるように整えてあげたい。


 自分が、そうしなければならないと思った。


 そうしたかった。


 良樹くんを、癒してあげたかった。


 けれど、回復魔法で傷を塞いでも。

 魔力薬で消耗を補っても。

 右腕の痛みを和らげても。


 あの顔は、治せない。


 三人が倒れた時の良樹の顔。

 止まれなくなった良樹の顔。

 自分たちに止められた直後の、壊れそうな顔。


 それは、クラリスの手ではすぐに治せなかった。


 クラリスは、唇を噛んだ。


 治せるから、大丈夫ではない。


 壊れた事実は、消えない。


 それを、誰よりも分かっていたはずなのに。


 今回は、自分が治したい相手を、壊れる前に止めきれなかった。


 拠点へ戻ると、良樹はそのまま自室へ向かった。


「良樹」


 リシアが呼ぶ。


 良樹は足を止めた。


 だが、振り返らなかった。


「……悪い」

「少し、寝る」


 それだけ言った。


 リシアは、すぐには何も言えなかった。


 寝る顔ではない。


 カレンにも分かった。

 クラリスにも分かった。


 けれど、その時点では追わなかった。


 逃げたからといって、終わったとは思わない。

 ただし、追い詰めもしない。

 そして、なかったことにもさせない。


 自分たちで、そう決めていた。


 良樹は、自室の扉を閉めた。


   ◇


 翌朝。


 作業場は静かだった。


 いつもなら、良樹は誰よりも早くそこにいる。


 腰袋の音。

 紙を広げる音。

 工具を並べる音。

 試験台の前で何かを考える気配。


 それがない。


 リシアは、一階の作業場を見た。


 空だった。


「……いない」


 カレンが胸元で手を握る。


「お部屋、でしょうか」


 クラリスは静かに頷いた。


「見に行きましょう」


 三人は良樹の部屋の前へ行った。


 扉は閉まっている。


 リシアが声をかけた。


「良樹」

「起きてる?」


 少し間があった。


 扉の向こうから、低い声が返る。


「……起きてる」


 生きている。

 意識もある。


 だが、声が重かった。


「開けなさい」


 リシアが言う。


 良樹は、また少し黙った。


「……悪い」

「今は、誰とも会いたくねえ」


 三人は黙る。


 さらに、扉の向こうから声がした。


「特に」


 その言葉で、カレンの肩が小さく揺れた。


「お前らには、会えねえ」


 リシアは、扉を見つめた。


 嫌われたわけではない。

 そんなわけがない。


 むしろ逆だ。


 三人を傷つけたこと。

 三人に止められたこと。

 三人を危険な回路に巻き込んだこと。


 それが重すぎて、良樹は三人の顔を見られない。


 リシアは、扉を叩かなかった。


 無理に入らなかった。


「分かった」


 短く言う。


「でも、食べ物と水は置くわよ」


 返事はなかった。


 リシアは、それ以上は言わなかった。


 三人は朝食と水を置いた。


 そして、待った。


   ◇


 朝の食事は減っていなかった。


 昼に置いた水も、ほとんど減っていなかった。


 夜になっても、良樹は部屋から出てこなかった。


 それだけなら、まだ待ったかもしれない。


 だが、扉の向こうから音がした。


 紙を動かす音。

 魔導盤が薄く唸る音。

 何かを繋ぐ音。

 何かを消して、また繋ぐ音。


 休んでいる音ではない。


 作業している音だった。


 リシアの表情が変わる。


 カレンも、扉を見る。

 クラリスの目が細くなった。


 その気配を、三人は知っていた。


 打撃盤。


 昨日、オーガを殴り倒した盤。

 暴走の中心にあったもの。


 良樹は、それに触れていた。


「良樹」


 リシアが言った。


「開けなさい」


 扉の向こうで、紙の音が止まる。


「……悪い」

「今は、無理だ」


 カレンが、少し前へ出た。


「良樹さん」

「朝から何も食べていません」

「水も、飲んでいませんよね」


 良樹は答える。


「平気だ」


 クラリスが静かに言った。


「平気じゃありません」


 沈黙。


 リシアは扉に手をかけた。


「入るわよ」


 その瞬間、良樹の声が低くなった。


「……入るな」


 空気が、冷えた。


 リシアの手が止まる。


 カレンも息を呑む。


 だが。


 クラリスが、無言で前へ出た。


「クラリス?」


 リシアが声をかける。


 クラリスは、清楚な微笑みを浮かべていた。


 ただし、額に青筋が浮いていた。


「これは、止める案件です」


 そう言って、クラリスは扉の蝶番側へ拳を入れた。


 一度。


 重い音がした。


 二度。


 蝶番が軋んだ。


 三度。


 扉が、内側へ傾いた。


 ばきり、と音を立てて、扉が壊れる。


 リシアは呆然とした。


「……クラリス」

「今、扉を壊したわよね」


 クラリスは、清楚に答えた。


「はい」


「清楚に?」


「清楚にです」


 そして、扉の残骸を見ながら言った。


「良樹くんが壊れるよりは、扉の方が安いです」


   ◇


 部屋の中は、紙で埋まっていた。


 床。

 机。

 寝台。

 壁際。


 そこには、何度も同じような言葉が書かれていた。


 打撃盤。

 右腕機構。

 出力制限。

 主幹経路。

 停止条件。

 非常停止。

 オーガ。

 三人の負傷位置。

 オマエノセイダ。

 事故記録。


 書かれて。

 消されて。

 また書かれている。


 良樹は机の前に座っていた。


 目は赤い。

 髪は乱れている。

 朝から何も食べていない。

 水もろくに飲んでいない。

 昨日の魔力焼けも、まだ残っている。


 そして、目の前には打撃盤が浮いていた。


 昨日、オーガを殴り倒した盤。


 良樹は、それを触っていた。


 改善している顔ではなかった。

 事故記録を書いている顔でもなかった。


 逃げている顔だった。


 後悔と自責の念から逃げるために、打撃盤を触っている顔だった。


「……何で」


 良樹は、壊れた扉を見た。


 それから、三人を見た。


 その目が、一瞬だけ怯えた。


 カレンが、最初に危険を察した。


 怖い場所は、扉の外ではない。

 オーガでもない。

 魔物でもない。


 今、一番怖い場所は。


 良樹自身だった。


「よ、良樹さん」


 カレンは一歩近づいた。


「やめてください」


 良樹の顔が強張る。


「来ないでくれ」


 カレンは止まらなかった。


「でも」


 良樹が、反射的に手を伸ばした。


 強くではない。

 本当に軽く、近づいてきたカレンを遠ざけようとしただけだった。


 それでも、カレンの身体は一歩下がった。


 カレンは目を見開いた。


 良樹も、自分の手を見た。


 その瞬間。


 良樹の顔が、さらに壊れた。


 まただ。


 また、自分の手で。


 カレンを。


「……違う」


 良樹は、慌てて言った。


「今のは」

「違うんだ」


 ぱん、と音がした。


 リシアの手が、良樹の頬を打っていた。


 強すぎる一撃ではなかった。

 だが、止めるには十分だった。


「違う、じゃない」


 リシアは言った。


 良樹は、何も言えなかった。


「違うって言えば、なかったことになると思った?」

「私たちが、分かってないと思った?」


 リシアの声は震えていなかった。


 震えそうになるのを、無理やり押さえ込んでいた。


「分かってるわよ」


 良樹の目が揺れる。


「あんたが、私たちを大事に思ってくれてることくらい」

「昨日、私たちが倒れて、どれだけ怒ったのかも」

「どれだけ怖かったのかも」

「どれだけ、自分を責めてるのかも」


 リシアは、一歩近づいた。


「全部、分かってるわよ」


 カレンは唇を噛んでいた。

 クラリスは静かに良樹を見ていた。


 リシアは続ける。


「責めたいのは、そこじゃない」

「怒ってるのは、そこじゃない」


 良樹は、動けなかった。


「苦しいなら、苦しいって言いなさいよ」

「辛いなら、辛いって言いなさいよ」

「怖かったなら、怖かったって言いなさいよ!」


 声が、少しだけ大きくなった。


「私たちは、そんなに信用できない?」

「弱いところを見せたら、離れると思った?」

「壊れそうなあんたを、支えられない女たちだと思った?」


 リシアは、真正面から良樹を見た。


「舐めないで」


 その一言で。


 良樹の中で、何かが切れた。


   ◇


 良樹は、立っていられなくなった。


 膝が落ちる。

 身体が崩れる。


 リシアが咄嗟に受け止めた。


 そのまま、床に座り込む。


 良樹の頭が、リシアの膝へ落ちた。


 狙った膝枕ではなかった。

 支えた結果、そうなった。


 良樹は、顔を伏せた。


 泣くつもりなどなかった。


 泣いていいはずがないと思っていた。


 男だから。

 年上だから。

 三人を守ると決めたから。

 英雄候補などと呼ばれてしまったから。


 それでも、もう無理だった。


「……っぐ」


 喉の奥で、声が潰れた。


 良樹は慌てて息を止めようとした。

 だが、止まらなかった。


「……ぅ」

「……っ、く……」


 声にならない声が、リシアの膝の上で震える。


 大きな泣き声ではなかった。

 泣き叫ぶこともできなかった。


 ただ、堪えようとして。

 堪えきれなくて。


 そのたびに、良樹の肩が小さく震えた。


 リシアの太ももに、温かいものが落ちた。


 ひとつ。


 また、ひとつ。


 やがてそれは、細く流れて、布に染み込んでいく。


 リシアは何も言わなかった。


 見なかったことにはしない。

 けれど、言葉にもしてやらない。


 ただ、さっき良樹の頬を打った手で、今度は良樹の髪をゆっくり撫でた。


「……ばか」


 小さく、それだけ言う。


 責めるためではなかった。

 慰めるためでもなかった。


 ただ、そう言わなければ、リシア自身も泣いてしまいそうだった。


 良樹の指が、リシアの服を弱く掴む。


 何かを言おうとしている。

 謝ろうとしている。


 リシアには、それが分かった。


 だから、先に止めた。


「謝らなくていい」


 良樹の喉が、小さく震える。


「今は、謝らなくていい」

「泣きなさい」


 良樹は答えられなかった。


 ただ、リシアの膝の上で、声を殺して泣いた。


   ◇


 泣き声は、少しずつ小さくなっていった。


 肩の震えも、弱くなっていく。


 リシアの服を掴んでいた指から、力が抜けた。

 呼吸が、少しだけ深くなる。


 クラリスが静かに良樹を診た。


 呼吸。

 脈。

 顔色。

 右腕。

 魔力焼け。


 そして、眠り。


「……眠りました」


 カレンは、泣きそうな顔で良樹を見ていた。


 リシアは、すぐには動かなかった。


 しばらく、良樹の頭を撫で続けた。


 叩いたのは自分だった。

 怒ったのも自分だった。

 泣かせたのも自分だった。


 だから、最初に受け止めるのは自分だと思った。


 けれど。


 リシアは、そっとカレンとクラリスを見る。


 カレンは、良樹を見ていた。

 触れたいのだと分かった。

 受け止めたいのだと分かった。


 クラリスも、良樹の呼吸を見続けていた。

 静かな顔をしているが、その手はわずかに膝の上で握られていた。


 二人とも、良樹を受け止めたい。


 でも、眠っている良樹を、リシアの膝から奪うようなことはしない。


 だから、リシアが言うしかなかった。


 リシアは、良樹の髪をもう一度撫でた。


 それから、小さな声で言った。


「……疲れたから」

「代わってくれる?」


 言い訳だった。


 本当に足は少し痺れていた。

 腕も重かった。

 張り詰めていた分、力も抜けていた。


 けれど、それだけではない。


 良樹を受け止めるのは、自分だけの役目ではない。


 この男を止めたのは、三人だ。

 この男を支えるのも、三人だ。


 カレンにも。

 クラリスにも。


 この弱い良樹を、受け止めてほしかった。


 カレンは、はっと顔を上げた。


「はい」

「代わります」


 声が少し震えていた。


 クラリスも静かに頷く。


「はい」

「起こさないように、ですね」


 リシアは小さく言った。


「そう」

「起こしたら、怒るわよ」


 カレンは真剣な顔で頷いた。


「はい」


 三人は、眠った良樹をそっと動かした。


 リシアが頭を支える。

 クラリスが首と右腕を見る。

 カレンが膝を整える。


「ゆっくり」


「はい」


「右腕、支えます」


「カレン、もう少しこっち」


「は、はい」


 声は潜められていた。


 良樹の頭が、カレンの膝へ移る。


 良樹は起きなかった。


 カレンは、自分が息を止めていたことに気づき、そっと吐いた。


「……良かった」


 それから、良樹の髪に触れようとして、少し迷う。


 迷って。


 そっと触れた。


「良樹さん」


 返事はない。


「怖かったですね」


 眠っている良樹は、何も言わない。


 カレンは、泣きそうな顔で微笑んだ。


「私も、怖かったです」


 一度、唇を結ぶ。


「でも」


 カレンは、眠る良樹を見た。


「良樹さんが怖い場所にいるなら」

「私が、見ます」


 良樹の寝息は変わらない。


 けれど、カレンはそれでよかった。


 怖い場所を見る子は、今、良樹の弱さを見ていた。

 無防備な顔。

 涙の跡。

 力の抜けた手。


 それでも、逃げなかった。


 しばらくして、カレンの膝が小さく震えた。


 カレンは耐えようとする。


「だ、大丈夫です」


 クラリスが静かに言った。


「大丈夫ではありません」


 カレンの肩が揺れる。


「支える側も、無理をしてはいけません」


 カレンは、少し悔しそうに目を伏せた。


 それでも、頷いた。


「……はい」

「クラリス、お願いします」


 クラリスは頷いた。


「はい」

「私の番です」


 クラリスは床に座った。

 法衣の裾を整える。

 膝を安定させる。


 三人でまた、良樹を起こさないように動かした。


 今度は少し慣れていた。

 声も小さく、動きも合っている。


 良樹の頭が、クラリスの膝へ移る。


 良樹は起きなかった。


 クラリスは、すぐに見る。


 首の角度。

 呼吸。

 右腕。

 魔力焼け。

 涙の跡。

 睡眠の深さ。


「大丈夫です」

「眠っています」


 クラリスは、良樹の額に手を添えた。


「良樹くん」


 返事はない。


「泣けましたね」

「眠れましたね」


 クラリスは、指先で良樹の髪を撫でた。


「次からは、壊れる前に呼んでください」


 一拍。


「治す前に」

「止めますから」


 良樹の呼吸が、少しだけ深くなった。


 クラリスは静かに微笑む。


「はい」

「今は、寝てください」


   ◇


 部屋には、しばらく良樹の寝息だけがあった。


 壊れた扉。

 床に散らばった紙。

 書きかけの停止条件。

 何度も書かれた非常停止。

 消し損ねたオマエノセイダ。

 机の上の事故記録。


 だが、打撃盤はもう浮いていない。


 リシアは、そばに座っていた。

 カレンは、水差しを手元へ置いた。

 クラリスは、良樹の呼吸を見続けていた。


 誰も、すぐには話さなかった。


 最初に口を開いたのは、カレンだった。


「……聞こえていました」


 リシアが顔を上げる。


「何が?」


 カレンは、少しだけ頬を赤くした。


「良樹さんが、オーガに言った言葉です」


 クラリスも、良樹の髪を撫でる手を止めないまま、静かに頷いた。


「私も、聞こえていました」


 リシアは、少しだけ目を伏せる。


「……あれね」


 三人とも、意識はあった。


 身体は動かなかった。

 声も出せなかった。

 痛みもあった。

 魔力も乱れていた。


 それでも、聞こえていた。


 よくも俺の女たちに手ぇ出しやがったな。


 普段の良樹なら、絶対に言わない。


 俺の女たち。


 聞こえは、たぶん良くない。

 人によっては、乱暴に聞こえるかもしれない。

 所有物のように聞こえるかもしれない。


 でも。


 三人には分かった。


 あれは、良樹の確かな本音だった。


 普段は理屈で隠している。

 確認期間だと言っていた。

 婚約者になっても、三人を大事にしすぎて、踏み込みすぎないようにしている。


 けれど、あの瞬間。


 リシアが倒れた。

 カレンが倒れた。

 クラリスが倒れた。


 その時、良樹の奥底から出てきた言葉は。


 俺の女たち。


 リシアは、少しだけ唇を尖らせた。


「……言い方は、最低だけどね」


 カレンは、頬を赤くしたまま俯く。


「でも」

「嬉しかった、です」


 クラリスは静かに微笑んだ。


「はい」

「良樹くんは、私たちをそう思ってくださっているのだと」


 リシアは黙った。


 頬が、少し赤い。


「……まあ」

「そうね」


 リシアは、眠っている良樹を見る。


「この馬鹿、ちゃんと私たちのこと好きなのよね」


 部屋の空気が、少しだけ甘くなった。


 良樹の寝息。

 涙の跡。

 リシアの膝に残った温かさ。

 カレンの膝に残った重み。

 クラリスの膝の上で眠る、無防備な良樹。


 三人は、良樹に愛されている。


 それを知っている。


 知ってしまった。


 だからこそ。


 リシアは、ゆっくり息を吐いた。


「だからこそ、ああなったのよね」


 甘くなりかけた空気が、静かに落ちた。


 カレンが顔を上げる。


「……はい」


 クラリスも、良樹の呼吸を見ながら頷いた。


「はい」


 良樹は、三人を愛している。


 だから、三人が倒れた時に壊れた。


 力に酔ったわけではない。

 英雄として覚醒したわけでもない。


 怒りを鍵にして、自分の安全装置を外した。


 三人を大切に思っていたから。

 三人を失うのが怖かったから。

 三人が傷つけられたことが、許せなかったから。


 良樹は、ああなった。


 リシアは言う。


「私たちが悪かった、って話じゃないわ」


 カレンは頷く。


「はい」

「私たちは、あの場でできることをしました」


 クラリスも静かに続けた。


「誰か一人が悪かったわけではありません」

「良樹くんも、私たちも、あの場で戦いました」


 リシアは、眠る良樹を見る。


「でも」

「もし、私たちにもっと力があったら」


 カレンの手が、膝の上で握られた。


「良樹さんが、あそこまで一人で壊れなくても済んだかもしれません」


 クラリスは、良樹の右腕へ視線を落とした。


 治したい。

 癒してあげたい。

 痛みを取って、眠らせてあげたい。


 けれど、そう思うたびに、胸の奥が痛んだ。


 治す前に止める。


 そう言ったのは、自分だった。


 なのに今回は、良樹が壊れかけてから、ようやく止めた。


「良樹くんが、安全装置を外す前に」

「私たちが、別の選択肢を渡せたかもしれません」


 クラリスは、唇を噛んだ。


「次は」

「壊れてから治すのではなく」

「壊れる前に、止めたいです」


 リシアは、小さく頷いた。


「あんた一人で抱えないで」

「私たちを頼りなさい」

「苦しいなら言いなさい」


 リシアは、良樹の寝顔を見た。


「それは言うわ」

「何度でも言う」


 そこで、少しだけ目を伏せる。


「でも、それだけじゃ駄目なのよ」


 カレンが、静かに続けた。


「頼ってほしいなら」

「頼られる私たちにならないと、いけないんですね」


 クラリスが頷く。


「はい」

「良樹くんが本当に苦しい時に」

「無意識でも、私たちへ手を伸ばせるように」


 リシアは、眠る良樹の顔を見る。


「一対一の付き合いなら」

「普通でよかったのかもしれないわね」


 カレンが瞬きをする。


「普通、ですか」


「ええ」

「恋をして」

「支えて」

「甘えて」

「喧嘩して」

「手を繋いで」

「時々泣いて」

「それでよかったのかもしれない」


 リシアは、クラリスの膝で眠る良樹を見た。


「でも、私たちは三人で良樹の隣にいることを選んだ」


 カレンの頬が、少し赤くなる。

 クラリスも静かに頷いた。


「良樹も、それを選んだ」


 リシアは続ける。


「なら、三人でいる意味が要る」


 カレンは、胸元で手を握った。


「三人で愛されるだけでは、足りない」


 クラリスが続ける。


「三人で守られるだけでも、足りません」


 リシアが言う。


「三人で、良樹を支えられないと駄目なのよ」


 カレンは、小さく息を吸った。


「良樹さんは、ぶっきらぼうです」


 リシアが少し笑う。


「ええ」


「口も悪いです」


「ええ」


 クラリスが微笑む。


「工具と停止条件ばかり見ています」


「本当にね」


 カレンは、眠る良樹を見る。


「でも」

「心優しい人です」


 リシアも、良樹を見る。


「そうね」

「馬鹿みたいに、優しいわ」


 クラリスは、良樹の髪を撫でた。


「だから、ああなりました」


 リシアは、ゆっくり頷いた。


「あのぶっきらぼうで」

「不器用で」

「工具と停止条件ばかり見てて」

「それでも、誰かを守るためなら自分の主幹を平気でバイパスする、心優しい馬鹿な英雄」


 リシアは言葉を切る。


「その男が、もう二度とあんなふうにならないように」


 カレンが頷く。


「良樹さんが、怒りに任せて安全装置を外す前に」

「私たちを頼れるように」


 クラリスが続ける。


「良樹くんが壊れてから治すのではなく」

「壊れる前に、止めます」

「今度こそ」


 三人は、眠る良樹を見た。


 良樹は英雄を目指している。


 なら、これからも同じような場面は起こる。


 誰かを守るために前へ出る。

 大切なものを傷つけられて怒る。

 自分を後回しにする。


 その時に、良樹を止められるのか。

 支えられるのか。

 頼られるのか。


 三人は、その問いから逃げられない。


 リシアは言う。


「私たちは」

「“英雄の妻”になるんじゃない」


 カレンが顔を上げる。


 クラリスも、静かにリシアを見る。


 リシアは、眠る良樹を見たまま続けた。


「“英雄”良樹の妻になるのよ」


 一拍。


「だったら」

「この心優しい馬鹿な英雄が、あんなふうにならないだけの力が要る」


 カレンは、強く頷いた。


「はい」


 クラリスも頷く。


「はい」


 三人の答えは、同じだった。


 良樹に頼れと言うなら。


 良樹が本当に頼れる自分たちにならなければならない。


 部屋には、良樹の寝息だけがあった。


 壊れた扉。

 散らばった紙。

 消えかけた非常停止の文字。

 書き潰された事故記録。

 もう浮いていない打撃盤。


 その真ん中で、良樹は眠っている。


 町を守った英雄ではなく。

 オーガを殴り倒した男でもなく。


 三人の前で泣き疲れて眠る、一人の男として。


 リシアはその顔を見た。

 カレンも見た。

 クラリスも見た。


 そして、三人は同じことを思っていた。


 この男に、頼れと言うのなら。


 この男が、本当に頼れる女にならなければならない。


 その夜。


 三人は、初めて少しだけ理解した。


 「英雄」良樹の妻になるということを。


 その時。


 眠っているはずの良樹の頬に、もう一度、涙が一筋流れた。


 挿絵(By みてみん)

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