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第68話 非常停止(挿絵有)

 群れは、もう群れではなくなっていた。


 エレメンタルキャノンの一撃で、小型の大半は消えた。

 残ったゴブリンやコボルドは左右へ散り、旧街道の端や草むらへ逃げ込もうとしている。


 中型のオークも、もう波ではない。

 足並みは崩れ、何体かは街道上の死骸に足を取られていた。


 トロルは数が少ない。

 だが、重い。

 倒れた仲間を踏み越え、前へ出ようとする。


 町へ向かう圧は落ちた。


 だから、防衛線は崩れなかった。


 若手冒険者と衛兵が、小型を二人一組で潰す。

 熟練冒険者が、散ったオークの足を止める。

 ガレス隊が、トロルの進行を受け流す。


 リシアは通常魔法で押し返した。


 火球で止める。

 風で崩す。

 水で滑らせる。

 土で進行線を歪める。


 エレメンタルキャノンは撃たない。

 撃てない。


 もう、射線には味方がいる。

 避難民の搬送路もある。

 ガレス隊が前にいる。

 冒険者たちが、敵と噛み合っている。


 ここから先は、大砲ではない。


 止める戦いだった。


「左、抜けます!」


 カレンが叫んだ。


 その声に、良樹は斥候盤の返りを見るより先に反応した。


「ガレス! 左土手!」


「聞こえてる!」


 ガレスが剣を振り、近くの盾持ちを二人動かす。


 カレンは、もうそこへ走っていた。


 青い服が土煙の中で揺れる。

 剣が、魔物の進行線へ置かれる。


 怖い場所に、先に置く。


 飛び込んできたコボルドの爪が、カレンの身体へ届く前に、剣へ当たった。


「っ……!」


 カレンの膝が沈む。

 だが、逃げない。


 剣で受けたのではない。

 剣を置いた。


 魔物の爪が、そこへ勝手にぶつかった。


「カレン!」


「大丈夫です!」


 カレンは叫ぶ。


 怖い。

 怖いに決まっている。

 けれど、目は逸らしていない。


 良樹は、自立盤からカレン用の線を絞って流す。


 押し込まない。

 身体の中に止めない。

 剣へ逃がす。


 カレンの剣先に、薄い光が走った。


「右へ逃がせ!」


「はい!」


 カレンが足をずらす。

 コボルドの力が横へ流れる。


 そこへ衛兵が槍を入れた。


 倒れる。


 カレンは息を吐いた。


「次、来ます!」


 その声に、今度はリシアが動いた。


「良樹、線を少しだけ!」


「ああ!」


 リシア用の個別インバータを開く。

 上げすぎない。

 火が先に立たないように。

 風を少し早く。

 水で崩れを受ける。

 土で支える。


 リシアの魔法が、前へ走る。


 火球ではない。

 火の壁でもない。


 前に出た冒険者の足元を邪魔しないよう、オークの膝だけを崩す小さな土の隆起。

 その直後、風が横から叩く。

 オークの巨体が、わずかに傾く。


 そこへ、別の冒険者が斧を入れた。


「よし!」


 良樹は短く言った。


 だが、息が重い。


 自立盤の三系統は生きている。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 それぞれに合わせ、必要なところへ流す。

 流しすぎない。

 跳ねさせない。

 戻りを見る。


 戦闘そのものより、止め方を見る。


 壊さない。

 押し込まない。

 燃料にしない。


 それを守るために、良樹の頭は常に焼けていた。


「良樹くん」


 クラリスの声がした。


「右肩、上がっています」

「呼吸も浅いです」

「一度、出力を落としてください」


「落とすと、リシアの風が遅れる」


「なら、半拍だけ」


「半拍」


 良樹はリシアを見る。


 リシアは、こちらを見ずに言った。


「受けるわ」

「落として」


「分かった」


 良樹は半拍だけ出力を落とした。


 その瞬間、リシアの風が少し揺れる。

 だが、崩れない。

 リシア自身が受けた。


 良樹の右肩から、わずかに力が抜ける。


 クラリスは頷いた。


「今ので少し戻りました」

「続けられます」


「助かる」


「助けるためにいます」


 クラリスはそう言って、すぐに負傷者の方へ走った。


 倒れた若い冒険者の腕を見る。

 骨ではない。

 筋を痛めている。

 すぐに治す。

 だが、戦線へ戻さない。


「治りました」

「でも、今日はもう剣を持たないでください」


「でも、まだ――」


「持たないでください」


 クラリスの声は穏やかだった。


 だが、逆らえる声ではなかった。


「治ったことと、壊れなかったことは違います」


 若い冒険者は、言葉を失った。


 クラリスはすぐに次を見る。


 負傷者。

 搬送路。

 良樹の肩。

 リシアの魔力。

 カレンの膝。


 全部を見ていた。


   ◇


「なあ!」


 若い冒険者の一人が、青い顔で叫んだ。


「こいつら、逃げてるんだろ!」

「なら、門を開けて通せば――」


「駄目だ!」


 ガレスが怒鳴るより先に、良樹が言った。


 良樹は土煙の向こうを見たまま、低く続ける。


「門の向こうが空の街道ならな」

「でも違う」

「門の向こうは町だ」


 若い冒険者が息を呑む。


「家がある」

「人がいる」

「治療所がある」

「逃げ遅れもいる」

「荷車もある」

「家畜の匂いもある」


 良樹は、斥候盤の返りを見る。


 散った小型。

 倒れた中型。

 まだ動く重い反応。


「魔物は列を作って通過しねえ」

「匂いで曲がる」

「音で暴れる」

「狭い路地で詰まる」

「一匹でも横へ逸れたら、市街地戦だ」


 良樹は短く息を吐いた。


「町の中で散られたら、こっちも散るしかない」

「今の人数でそれをやったら終わる」


 ガレスが頷いた。


「だから門は開けねえ」

「町に入る前に、流れを折る」


 良樹も頷く。


「逃がすなら、町の外だ」

「門の中じゃない」


 若い冒険者は、それ以上何も言わなかった。


 魔物は町を狙っているわけではない。


 逃げている。


 だが、逃げ道の出口に人間が立っている。

 町がある。

 防衛線がある。


 後ろから押され、前に進みたい魔物にとって、人間は獲物である前に障害物だった。


 噛む。

 殴る。

 踏み潰す。

 進む。


 ただ、それだけだ。


 そして。


 群れの奥にいたものが、ついに姿を現した。

 奥で、巨大な影が動いた。


   ◇


 オーガだった。


 普通の体型のオーガ。


 普通と言っても、人間から見れば十分すぎるほど大きい。

 良樹の倍以上の背丈。

 分厚い胸。

 丸太のような腕。

 重い足。


 だが、腕が異常に肥大しているわけではない。

 特別な角があるわけでもない。

 黒い外皮を持つ怪物でもない。


 ただ、オーガだった。


 人間より大きく。

 人間より重く。

 人間より強い。


 その普通が、普通に人間を潰せる。


 オーガの肩には、エレメンタルキャノンの傷があった。

 胸にも焼けた跡がある。

 片脚も少し引きずっている。


 それでも、止まっていない。


 群れは崩れた。

 小型は散った。

 中型は止められた。

 トロルもガレス隊が押さえている。


 だが、オーガだけが前へ出た。


 逃げ場を失い。

 進路を塞がれ。

 傷つけられ。

 防衛線を敵と認識した。


 赤い目が、良樹たちを見た。


「下がれ!」


 ガレスが叫んだ。


「正面で受けるな!」

「足を狙え!」

「横へ流せ!」


 冒険者たちが動く。


 だが、疲れている。


 最初からずっと戦っている。

 削っている。

 止めている。

 負傷者も出ている。


 オーガを受けるだけの余力は、もう薄い。


 良樹は斥候盤の返りを確認した。


 目の前のオーガ。

 一体。

 だが、強い。


 最後だ。


 あれを止めれば、町は守れる。


 良樹は斥候盤を畳む。


「リシア」


「分かってる」


「キャノンは」


「撃たない」


 即答だった。


「ここでは撃てない」

「味方ごと巻く」


「ああ」


 良樹は自立盤へ切り替えた。


 三系統。

 まだ繋がっている。


「通常魔法で足を止める」

「カレンは右前」

「クラリスは後ろで負荷を見る」

「俺は打撃盤を使う」


 三人の空気が変わった。


 リシアが良樹を見る。


「良樹」


「分かってる」

「出力は上げすぎない」

「右腕だけ」

「クラリスが見る」

「カレンは進行線」

「リシアは魔法で崩す」


 クラリスが静かに言った。


「良樹くん」

「打撃盤は、まだ完全ではありません」


「ああ」

「だから止めるために使う」

「倒すためじゃない」

「足を止める」

「姿勢を崩す」

「ガレス隊が入れる形にする」


 カレンは剣を握り直した。


「私は、どこに置けばいいですか」


「オーガの右前」

「ただし、受けるな」

「進行線に置くだけだ」

「踏み潰される場所には入るな」


「はい」


 リシアは杖を構える。


「私が左脚を崩す」

「カレンは右前」

「良樹は右腕で押す」

「クラリスは、私たちを見る」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「全員、無理をしたら止めます」


「頼む」


 良樹は、自立盤の出力を絞った。


 三人への供給を、いったん下げる。


 良樹は右腕を開いた。


 胸の奥の盤が切り替わる。


 打撃盤。


 三枚目。


 右腕の外側に、半透明の機構が現れる。


 クランク。

 リンク。

 アーム。

 軸。

 動力伝達。


 昨日見たそれより、少し輪郭が濃い。

 だが、まだ理性の範囲内だった。


 出力三割。

 立ち上がり制限。

 停止確認。

 過負荷時、遮断。


 良樹は、自分に言い聞かせるように息を吐いた。


「動かす前に、止め方」


 右腕の外側で、機構が噛み合う。


「行くぞ」


 オーガが吠えた。


 空気が震える。


 リシアが左へ走った。

 カレンが右前へ入る。

 クラリスは一歩下がり、三人全員を見る。


 良樹は正面へ出た。


「良樹!」


 ガレスが叫ぶ。


「受けるなよ!」


「受けねえ!」


 良樹は叫び返した。


「止める!」


 リシアの土魔法が、オーガの左脚の前に隆起を作る。

 オーガはそれを踏み潰す。

 だが、一瞬だけ足運びが乱れた。


 カレンが右前へ剣を置く。


 オーガの視線が、わずかにそちらへ流れる。


 良樹は、その一瞬に右腕を振った。


 半透明のクランクが回る。

 リンクが伸びる。

 アームが押し出される。


 拳ではない。


 良樹の右腕の外側に組み上がった機構が、オーガの膝横を叩いた。


 ごん、と低い音がした。


 オーガの巨体が揺れる。


「入った!」


 リシアが叫ぶ。


「もう一回!」


「良樹くん、上げすぎないでください!」


 クラリスの声。


 良樹は歯を食いしばる。


「分かってる!」


 二撃目。


 今度は出力を少しだけ上げる。

 だが、上限内。


 機構が回る。

 リンクが伸びる。

 アームが押す。


 オーガの右脚が沈む。


 ガレス隊がそこへ入った。


「今だ!」


 剣が走る。

 槍が入る。

 オーガの脚に傷が増える。


 いける。


 良樹はそう思った。


 このまま削れる。

 このまま止められる。

 このままなら、町へは行かせない。


 だが、オーガの目が変わった。


 赤い目が、奥でぎらりと燃えた。


 それは、痛みではなかった。


 怒りだった。


「下がれ!」


 ガレスが叫んだ。


 オーガが、両腕を地面へ叩きつけた。


 ただの踏みつけではない。


 地面の下に溜まった魔力が、一気に跳ねた。


 土が割れる。

 石が跳ぶ。

 衝撃が円状に広がる。


「リシア!」


 良樹が叫ぶ。


 リシアは風で受けようとした。

 だが、間に合わない。


 地面から跳ねた石が、杖を弾いた。


「っ!」


 杖が手から離れる。


 次の瞬間、衝撃がリシアの身体を横から叩いた。


 リシアは地面を転がった。

 一度、二度。

 肩を打ち、背中を打ち、ようやく止まる。


 起き上がろうとして、息が詰まった。


 口元から、細い赤い筋が垂れる。


 魔力が乱れている。

 呼吸が浅い。

 杖へ手を伸ばそうとして、指先が震える。


 だが、届かない。


 リシアは、地面に倒れたまま動けなかった。


「リシア!」


 カレンが動く。


 だが、次の衝撃が右から来た。


 オーガの腕が、土砂を巻き上げながら横へ払われる。


 カレンは剣を置いた。

 怖い場所に、先に置いた。


 だが、重すぎた。


 剣が弾かれる。


「きゃっ……!」


 カレンの身体が浮いた。


 背中から地面に叩きつけられる。

 息が抜ける。

 目を見開いたまま、声が出ない。

 額から生暖かい血が流れる。


 喉の奥で、空気だけが引っかかった。


 指が剣を探した。


 けれど、身体が動かなかった。


 膝も、肩も、腕も。

 命令を出しているのに、返ってこない。


 カレンは地面に倒れたまま、ぴくりとも動けなかった。


「カレン!」


 クラリスが走る。


 その瞬間、三度目の衝撃が来た。


 地面が割れ、跳ねた石がクラリスの右肩を打った。


 鈍い音がした。


「っ……!」


 クラリスの身体が横へ弾かれる。


 白い法衣の右肩が裂けた。

 布の下から赤が滲む。


 続けて、砕けた石片が腕を掠めた。


 細い腕に、赤い線が走る。


 クラリスは治癒しようと左手を伸ばしかけた。

 だが、右肩が動かない。

 腕が上がらない。


 自分の身体を支えることもできず、地面に倒れる。


 それでも、良樹の方を見ようとする。


 だが、視界が揺れる。


 治す手が、動かない。


 クラリスもまた、地面に倒れたまま動けなかった。


 良樹の中で、音が消えた。


 戦場の音が遠くなる。


 ガレスの叫び。

 冒険者の声。

 オーガの咆哮。

 土煙。

 剣の音。


 全部が、遠い。


 見えたのは三人だけだった。


 口元に赤い筋を垂らし、杖へ手を伸ばしたまま倒れているリシア。

 地面に倒れ、剣へ指を伸ばしたまま起き上がれないカレン。

 右肩の法衣を裂かれ、赤を滲ませたまま倒れているクラリス。


 良樹は、三人を見た。


 見た。


 見てしまった。


 リシアの呼吸。

 カレンの指先。

 クラリスの右肩。

 血。

 土。

 動かない身体。


 全身の血が、冷たくなった。


 何だ、これは。


 喉の奥で、言葉にならないものが詰まった。


 何だ、これは。


 違う。

 こんなものではない。

 これは違う。

 こんなものを、見ていいはずがない。


 何だこれは。

 何だこれは。

 何だこれは。

 ナンダコレハ。


 誰も、立っていなかった。


 自立盤は、まだ生きていた。


 リシアへの線。

 カレンへの線。

 クラリスへの線。


 全部、生きている。


 だが。


 繋ぐ先が、動かない。


 リシアは杖を握れない。

 カレンは剣を上げられない。

 クラリスは治す手を動かせない。


 支える盤。

 三人を強くする盤。

 三人と一緒に戦うための盤。


 その意味が、一瞬で消えた。


 だが、線だけは残った。


 良樹は、息を吸った。


 吸ったはずだった。


 だが、肺に空気が入った感覚がなかった。


 オーガが、また前へ出る。


 三人のいる方へ。

 防衛線の方へ。

 町の方へ。


 良樹の右腕の外側で、打撃盤がまだ回っている。


 出力三割。

 立ち上がり制限。

 停止確認。


 そんなものが、遠く見えた。


 胸の奥に、別の入力が落ちた。


 リシアが傷ついている。

 カレンが倒れている。

 クラリスが血を流している。


 三人とも、動いていない。


 ――さねえ。


 良樹の視界が、黒く染まっていく。


 許さねえ。


「俺の女たちに手を出しやがった」


 それは、普段の良樹なら口にしない言葉だった。


 三人を所有物のように扱うことを、良樹は嫌う。

 守ると言いながら、相手の意思を奪うことも嫌う。


 けれど、その時だけは違った。


 理屈ではなかった。

 責任でもなかった。

 建前でもなかった。


 剥き出しの本音だけが、良樹の口から漏れた。


 良樹自身は、それに気づかなかった。


 許さねえ。


 あいつだけは、許さねえ。


 オマエノセイダ。


 挿絵(By みてみん)


 良樹の中で、安全を見る回路が焼け落ちた。


 残ったのは、絶望と怒りと、憎悪だった。


 黒く染まった視界の中で、許せないものだけが見えていた。


 リシアを傷つけたもの。

 カレンを倒したもの。

 クラリスに血を流させたもの。


 あいつ。


 あいつだけが、見えていた。


 良樹の右肩が、軋んだ。


 それは、もう打撃盤ではなかった。


 いや。


 さっきまで良樹には、打撃盤として見えていたものだった。


 入力。

 出力。

 戻り線。

 停止条件。

 過負荷確認。


 そういう形に置き換えることで、良樹は自分の力を制御していた。


 だが、今は違った。


 制御するための形が、崩れていく。


 それは、単なる打撃盤の出力上昇ではなかった。


 良樹は、盤を同時に出せないと思っていた。


 斥候盤。

 自立盤。

 打撃盤。


 それぞれを切り替えなければならない。

 同時には使えない。

 そういう制限なのだと、良樹は思っていた。


 だが、違った。


 使えなかったのではない。


 使わせなかったのだ。


 良樹自身が。


 無意識に。


 役割を分けていたはずの考え方が、混ざる。

 出力の区別が曖昧になる。

 停止条件が見えなくなる。

 非常停止が届かなくなる。


 そんなものは危ない。


 現場の奥に染みついた良樹の本能が、そう判断していた。


 だから、ロックしていた。


 同時運用を。

 自分自身で。


 そのロックが、外れた。


 外したのではない。


 怒りで、憎悪で、外れた。


 良樹は、力に酔っていたわけではない。


 酔うほどの余裕など、どこにもなかった。


 誇りもない。

 高揚もない。

 勝利の予感もない。


 ただ、怒っていた。


 リシアを傷つけた。

 カレンを倒した。

 クラリスを傷つけた。


 憎悪が、入力だった。


 許さねえ。


 その一つだけが、良樹の中で保持されていた。


 そして、その怒りが鍵になった。


 良樹自身が無意識に越えないようにしていた境界。

 同時運用は危ない。

 出力の区別が曖昧になる。

 停止条件が見えなくなる。

 非常停止が届かなくなる。


 だから閉じていたはずの安全側の限界。


 それが、外れた。


 魔力が増えたのではない。

 良樹が強くなったのでもない。


 世界から引き込んでいた。


 主幹ブレーカーをバイパスして。

 安全回路を通さず。

 停止条件も持たないまま。


 引き込んだ魔力を、そのまま出力へ充てていた。


 良樹には、それをもう盤として見られなかった。


 打撃盤。

 自立盤。

 端子台。

 インバータ。

 安全回路。


 そう呼んでいたものは、良樹が力を扱うために置いた名前だった。


 だが、その名前が剥がれていく。


 止めるために分けていたはずの考え方が、混ざる。

 支えるための線が、焼ける。

 戻すための線が、途切れる。


 クランク。

 リンク。

 アーム。

 軸。


 それらは、良樹の理解を待たなかった。


 制御を待たなかった。

 停止条件を待たなかった。

 過負荷確認を待たなかった。


 形にする力だけが、前に出た。


 右肩が、軋む。


 半透明の青い魔力が、右肩の付け根から濁り始めた。


 血を混ぜたような赤が走る。

 焦げた配線のような黒が滲む。

 赤と黒が混ざり合い、半透明だった輪郭を内側から塗り潰していく。


 ばち、と紫電が弾けた。


 青は消えた。


 右肩から先に、悍ましい異形が形を取っていく。


 血の赤と、焦げた黒を混ぜ合わせたような、どす黒い腕。

 人の腕とは思えないほど太く、長く、歪んだ右腕。


 クランクのようなものが、内側で荒く噛み合う。

 リンクのようなものが、骨ではない場所を伸びる。

 アームのようなものが、筋肉ではない場所で膨れ上がる。

 軸のようなものが、黒く焼けるように光る。


 その表面を、紫電が這った。


 それは、良樹が作ったものではなかった。


 作れてしまったものでもなかった。


 制御を失った力が、良樹の憎悪に押し出されて形を取ったものだった。


 良樹の目から、黒い炎のような魔力が吹き上がった。


 赤ではない。

 怒りの赤ではない。


 黒。


 焼け焦げた配線のような。

 絶縁が溶けた盤内のような。

 本来、光ってはいけない場所が燃えているような黒だった。


「良樹!」


 ガレスの声が飛んだ。


「良樹、止まれ!」

「それ以上は上げるな!」


 だが、良樹は振り返らなかった。


 聞こえていなかった。


 リシアの声も。

 カレンの声も。

 クラリスの声も。


 本当なら、良樹が一番聞きたかったはずの声が、そこにはなかった。


 三人は倒れていた。


 杖へ手を伸ばしたまま、リシアは起き上がれない。

 剣へ指を伸ばしたまま、カレンは身体を返せない。

 右肩を押さえたまま、クラリスは治す手を動かせない。


 だから、良樹を止める声は届かなかった。


 届くはずの声が、なかった。


 良樹の中にあるのは、ただ一つだった。


 許さねえ。


 入力。

 条件確認。

 インターロック。

 インバータ制御。

 過負荷確認。

 非常停止。

 出力。


 いつもの順番は、なかった。


 主幹ブレーカーを通らない。

 非常停止も通らない。

 インターロックも見ていない。

 過負荷も拾っていない。


 世界から引き込んだ魔力を、入力から出力へ。


 ただ一本。


 許さねえ、という線だけが、良樹の中で焼けるように繋がっていた。


   ◇


 オーガが殴りかかった。


 良樹は避けなかった。


 赤黒い異形腕が開く。

 裂けるように広がる。

 骨ではない節が重なる。


 盾。


 そう呼ぶしかない形だった。


 悍ましい右腕が、オーガの拳の進行線へ置かれる。


 カレンが何度も見せた、怖い場所へ先に置く動き。

 その形だけを、怒りが真似ていた。


 オーガの拳が、その盾にぶつかった。


 衝撃が走る。


 受けた。

 だが、逃がしていない。


 良樹の肩へ。

 肘へ。

 背中へ。

 良樹は口から血を吐く。

 しかし止まらない。


 全部返っている。


 カレンの顔から血の気が引いた。


 違う。


 カレンは、声にならないまま思った。


 私の剣は、あんなふうに良樹さんへ返さない。


 盾が閉じた。


 次の瞬間、右腕の先が薄く伸びた。


 手刀ではない。


 剣だった。


 赤黒い異形腕の先端が、刃のように歪む。

 紫電が、濁った輪郭に沿って走る。


 オーガの脇腹が裂けた。


 鋭い。

 速い。

 恐ろしいほどに強い。


 だが、カレンは震えた。


 怖い場所に置いていない。

 守るために置いていない。

 良樹が、怖い場所へ自分から入っている。


 良樹さん。


 そこは、怖い場所です。

 そこに、自分から入ってはいけません。


 何度も心の中で叫ぶ。


 けれど、声にならない。


 赤黒い右腕が、今度は裂けるように開いた。


 掌の奥に、四つの光が走る。


 火。

 水。

 風。

 土。


 エレメンタルキャノンではない。

 あれほど広く撃てば、味方ごと巻く。


 だが、良樹の右腕はそれを細く絞った。


 エレメンタルストライク。


 小さな貫通弾が、牽制のようにばら撒かれる。


 光が連続して走った。


 オーガの胸を穿つ。

 腹を削る。

 太腿を撃つ。

 腕の外皮を砕く。


 一発一発は、致命傷ではない。

 だが、重い。

 速い。

 避けきれない。


 オーガの巨体が、わずかに止まった。


 リシアは、息を呑んだ。


 形は分かる。

 意味も分かる。


 エレメンタルキャノンの出力を、細い貫通弾に絞っている。


 自分がいつか辿り着くかもしれない形。


 けれど、違う。


 あれは、自分の魔法じゃない。


 整えていない。

 戻していない。

 反動を逃がしていない。


 撃つたびに、良樹の右腕が焼けている。


 あれは駄目だ。


 リシアは、息を呑んだまま思った。


 あんな撃ち方をしたら、良樹が壊れる。


 オーガが左腕を上げた。


 良樹の右腕が、その瞬間を見た。


 掌の奥で、四属性がもう一度集まる。


 今度は散らさない。


 一点。


 ただ一点。


 火が芯を作る。

 水が圧を保つ。

 風が通り道を絞る。

 土が弾体を固める。


 エレメンタルキャノンの威力を、エレメンタルストライクの細さまで圧縮した貫通弾。


 それが、撃ち出された。


 光が、オーガの左肩を抜いた。


 肉が裂けた。

 骨が砕けた。

 左腕が、だらりと落ちる。


 周囲の冒険者たちが息を呑んだ。


 だが、リシアの顔は青ざめていた。


 良樹の右腕の内側で、黒く焼けた軸のようなものが震えている。

 クランクのようなものが、紫電を散らしながら軋んでいる。

 右肩から、赤黒い魔力が漏れている。


 違う。


 それは到達ではない。


 暴走だった。


 オーガが吠えた。


 左腕は使えない。

 それでも右拳がある。


 巨体が前へ出る。


 良樹の右腕は、拳を握った。


 今度は刃ではない。

 盾でもない。

 貫通弾でもない。


 杭のような形。


 オーガの肘へ。

 肩へ。

 膝へ。


 関節。

 重心。

 壊れる場所。


 クラリスが見せた身体の読み方に似ていた。


 だが、その杭の中を、さらに四属性の衝撃が走る。


 外から殴る。

 内側へ衝撃を通す。


 技ではなかった。


 良樹は、杭のように歪んだ右腕を、ただオーガの内側へ無理矢理叩き込んでいた。


 小型のエレメンタルキャノンを、拳の先で炸裂させているようなものだった。


 オーガの膝が砕けた。


 同時に、良樹の右肩が跳ねた。


 クラリスは目を見開いた。


 違う。


 クラリスは、右肩の痛みに息を詰めながら思った。


 止める打撃ではない。

 壊れる前に止める拳ではない。

 相手だけを見ている。

 自分の右腕を見ていない。


 それは、打撃ではない。


 良樹くんの身体を、弾薬にしている。


 誰も、感激しなかった。


 良樹が自分たちの力を使っている。

 そんなふうには、誰一人思わなかった。


 あれは、三人の形をした事故だった。


 これまで良樹が読み出し、教わり、繋いできたもの。

 まだ試験も終わっていない形。

 まだ安全側に落とし込めていない理解。


 それが、怒りで外れた制限の向こうから、強すぎる出力を伴って噴き出している。


 完成ではない。

 到達でもない。


 暴走だった。


 リシアの魔法。

 カレンの剣。

 クラリスの打撃。


 その全部が、止め方を失って、良樹の右腕で燃えている。


 あれは駄目だ。


 止めなければならない。


 オーガを倒すためではない。

 町を守るためだけでもない。


 良樹を、生かすために。


   ◇


 リシアは、杖を支えに立とうとした。


 だが、足が震える。

 胸の奥が痛い。

 魔力の流れも乱れている。


 立てない。


 そう思った瞬間。


 端子台の線が、熱を持った。


「っ……!」


 リシアの身体に、良樹の魔力が流れ込む。


 いつもの供給ではない。

 細く絞られた、リシアに合わせた魔力ではない。


 荒い。

 熱い。

 強すぎる。


 けれど、流れている。


 リシアを守ろうとする線だけは、まだ切れていない。


 リシアは理解した。


 良樹は暴走している。

 止まれていない。

 けれど、三人を守ろうとする意識だけは残っている。


 そのせいで、壊れた回路にまで動力が流れている。


「……馬鹿」


 リシアは歯を食いしばった。


「こんな流し方、したら……」


 身体は動く。


 だが、治ったわけではない。


 動けるだけだ。


 異常な魔力で、無理やり動作可能域まで押し上げられているだけ。


 隣で、カレンも地面に倒れたまま指を動かした。


「痛い……」

「でも、動きます……」


 カレンは青ざめていた。


「良樹さんの魔力が、足に……」

「剣じゃなくて、私の身体を押しています……」


 クラリスも、右肩を押さえながら顔を歪めた。


「これは、治癒ではありません」


 クラリスは息を呑む。


「壊れた場所へ、動力を流しています」

「止めるべき場所へ」

「動かしてはいけない場所へ」


 三人は、同時に理解した。


 良樹は、まだ三人を守ろうとしている。


 だが、その守り方が、もう壊れている。


 このままでは、良樹も、三人も壊れる。


 リシアは、黒い炎を目から吹き上げる良樹を見た。


 あれは、良樹ではない。


 いや。


 良樹だ。


 怒っている。

 守ろうとしている。

 許せないものを、全部自分の中で焼いている。


 だからこそ、止めなければならない。


「止めなきゃ」


 リシアは、唇の端の血を拭った。


「私たちのところに」

「あいつを、連れて帰らなきゃ」


 カレンは、剣を支えに立った。


 怖い。


 良樹の右腕が怖い。

 荒れた魔力が怖い。

 近づけば、自分が潰れるかもしれない。


 けれど。


 良樹が、あのまま戻ってこないこと。


 それだけは、もっと怖かった。


「怖いです」


 カレンは震えながら言った。


「でも」

「良樹さんがいなくなるより」

「怖いことなんて、ありません」


 クラリスは、自分の右肩を押さえた。


 痛い。

 治っていない。

 動かしていい身体ではない。


 それでも、立つ。


 良樹の右肩が、壊れかけている。

 魔力回路が焼けている。

 身体が悲鳴を上げている。


 治す前に、止める。


 壊れる前に、止める。


 それが、自分の役目だ。


「絶対に」


 クラリスは、静かに言った。


「何があっても」

「神に逆らってでも」


 その目から、清楚な柔らかさが消えた。


「良樹くんが壊れるのを」

「止めます」


 ガレスが叫んだ。


「待て!」

「今の良樹に近づくな!」


 リシアは振り返らなかった。


「近づくんじゃないわ」


 リシアは言った。


「割り込むのよ」


 カレンが、剣を握り直す。


「良樹さんの盤に」

「私たちは、もう繋がっています」


 クラリスも一歩前へ出た。


「良樹くんの非常停止は」


 クラリスは言った。


「私たちです」


 ガレスが目を見開く。


「お前ら、今は――」


「今だからよ」


 リシアが遮った。


「あいつは、自分じゃ止まれない」


 カレンが一歩出る。


「怖い場所に、先に置きます」


 クラリスも続く。


「壊れる前に、止めます」


 三人は、荒れた魔力の中へ入った。


   ◇


 オーガは、まだ倒れていなかった。


 左腕は死んだ。

 膝も砕けかけている。

 身体中に傷がある。


 それでも、最後の力で右拳を振り上げた。


 狙いは、良樹だけではない。


 その後ろ。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。

 崩れかけた防衛線。

 負傷者。

 町へ続く道。


 良樹は避けなかった。


 もう、避けるという判断が残っていなかった。


 あるのはただ、許さねえ、という感情。

 あるいは、憎悪だけだった。


 オーガの右拳が振り下ろされる。


 良樹の右腕が、形を変えた。


 盾ではない。

 剣でもない。

 貫通弾でもない。

 クラリスの打撃でもない。


 右手が、握られる。


 ただ、握られる。


 そこには術もへったくれもなかった。


 怒りに任せた、右拳。


 許さねえ。


 その入力だけで、巨大な右拳が形を取った。


 オーガの右拳と、良樹の赤黒い異形腕がぶつかった。


挿絵(By みてみん)


 衝突。


 空気が破裂した。


 骨が砕ける音がした。

 外皮が割れる音がした。

 異形腕の内側で、クランクのようなものが悲鳴のような紫電を放った。


 良樹の足が地面に沈む。

 膝が軋む。

 肩が焼ける。


 だが、下がらない。


 許さねえ。


 俺の女たちに手を出した。

 リシアを傷つけた。

 カレンを倒した。

 クラリスを傷つけた。


 許さねえ。


 オーガの拳に、亀裂が入った。


 良樹の赤黒い異形腕が、押し返す。


 クランクのようなものが噛み合う。

 リンクのようなものが伸びる。

 アームのようなものが押す。

 軸のようなものが力を伝える。


 だが、それは制御ではない。


 怒りが、力の形をしていただけだった。


「ッおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 良樹が獣のように叫んだ。


 悍ましい右腕が、さらに押し込む。


 オーガの右拳が砕けた。

 腕が折れた。

 肩が潰れた。


 巨体が大きく傾く。


 良樹は踏み込んだ。


 赤黒い異形腕が、真っ直ぐオーガの胸へ入る。


 押す。

 叩く。

 潰す。


 オーガの巨体が、後ろへ倒れた。


 地面が揺れた。


 土煙が上がる。


 オーガは、倒れた。

 もう、動かなかった。


 だが、良樹は止まらなかった。


 止まる条件が、なかった。


 敵を倒したら停止。

 対象の進行が止まったら停止。

 危険が消えたら停止。

 負荷上限で遮断。


 そんな条件は、どこにもない。


 あるのは、ひとつだけ。


 許さねえ。


 その対象は、もう地面に伏している。


 それでも、許さねえ、は消えなかった。


 オマエノセイダ。


 その入力だけが、まだ消えなかった。


 オーガは倒れている。

 もう、動かない。

 町へ進む力もない。


 それでも、その言葉は消えなかった。


 オマエノセイダ。


 その先にいたのは、もうオーガではなかった。


 三人を傷つけた。


 あそこまで通した。

 止められなかった。

 守ると言いながら、守り切れなかった。


 許さねえ。


 三人を傷つけた俺を許さねえ。


挿絵(By みてみん)


 その入力が残っている限り、良樹は止まれなかった。


 赤黒い異形腕が、もう一度振り上げられる。


 倒れたオーガへ向けて。


 あるいは、良樹自身へ向けて。


 どちらでもよかった。


 オーガも。

 止められなかった自分も。

 守れなかった自分も。


 その時の良樹には、等しく憎かった。

 


 魔力が荒れる。

 地面の土が浮く。

 近くにいた冒険者が、思わず後ずさる。


「良樹!」


 リシアが叫んだ。


 届かない。


「良樹さん!」


 カレンが叫ぶ。


 届かない。


「良樹くん!」


 クラリスが叫ぶ。


 届かない。


 巨大な拳が、振り下ろされようとしていた。


 倒れたオーガへ。

 或いは良樹自身へだったのかもしれない。

 そして、その余波は周囲へ広がる。


 近づけば危険。

 止めれば町を守った英雄を止めることになる。

 誰も動けない。


 だが、三人は動いた。


 カレンは、震える膝に力を込めた。


 怖い。


 目の前の良樹が怖い。

 赤黒い異形腕が怖い。

 紫電を散らす右肩が怖い。

 近づけば、自分が壊れるかもしれない。


 けれど、それよりも怖いものがあった。


 良樹が、怖いものになってしまうこと。


 自分に、怖くてもいいと言ってくれた人。

 怖い場所を見られることを、役目だと言ってくれた人。

 大好きな人。


 だから。


 良樹さん。

 怖いものにならないでください。


 帰ってきてください。


 私の傍で。

 いつもの顔で笑っていてください。


 お願いです。


 リシアは、血の味が残る唇を噛んだ。


 本当に、あんたは馬鹿だ。


 こんなになるまで怒るなんて。

 こんなところまで自分を焼くなんて。


 どれだけ私たちのことが好きなのよ。


 そんなに好きなら。

 そんなに大事なら。


 もっと普段から言いなさいよ。


 リシアは、震える足に力を込めた。


 良いわ。


 絶対に連れ戻す。


 あんな黒い炎の中から。

 あんな赤黒い腕の奥から。

 あんたを、絶対に連れ戻す。


 そして言わせてやる。


 リシアが好きだって。

 もう一度、ちゃんと聞いてみせる。


 絶対に。


 絶対によ。


 クラリスは、右肩の痛みに息を詰めた。


 良樹くん。


 良樹くん。


 覚えていますか。


 私に、壊れるなと怒ってくれた日のことを。


 あの日から、きっと。


 私にとって、壊れてはいけない理由は、良樹くんそのものでした。


 治したから大丈夫ではない。

 壊れた事実は消えない。


 そう怒ってくれた人がいたから。


 私は、自分を壊れたままにしないでいられた。


 なのに。


 今、良樹くんが壊れたら。


 私も、きっと壊れたままになってしまう。


 嫌。


 嫌です。


 そんなのは、嫌です。


 クラリスは、動かないはずの右肩に力を込めた。


 止めなければ。


 止めてみせる。


 良樹くんのために。


 私のために。


 治す前に。


 壊れる前に。


 今度は、私が止めます。


   ◇


 良樹には、まだ何も聞こえていなかった。


 許さねえ。


 許さねえ。


 オマエノセイダ。


 三人を傷つけた俺を許さねえ。


 それだけが、良樹の中で回っている。


 赤黒い異形腕が振り下ろされる。


 その進行線へ、カレンが入った。


 剣で受けるためではない。


 良樹の意識が、殴れない場所に自分を置くために。


 怖い場所に、先に置く。


 今度は、剣ではなかった。


 自分自身だった。


 巨大な拳が、カレンの前で迫る。


 カレンは震えていた。


 怖い。

 怖いに決まっている。


 でも、目を逸らさない。


「良樹さん」


 声は震えていた。


「私は、ここです」


 拳は止まらない。


 だが、ほんのわずかに揺れた。


 その一瞬に、リシアが割り込む。


 リシアは魔力を押し返さなかった。


 押し返せば、良樹ごと壊れる。


 だから、逃がした。


 荒れた出力の横に、自分の風を入れる。

 燃える線を、横へ逃がす。

 火を消すのではなく、暴れる熱を通す道を作る。


「あんたが自分を焼くなら」


 リシアは歯を食いしばった。


「私が、その出力を逃がすわよ……!」


 良樹の赤黒い異形腕が、さらに揺れる。


 だが、まだ止まらない。


 最後に、クラリスが良樹の右肩へ触れた。


 痛む腕で。

 自分の肩も壊れかけているのに。

 それでも、触れた。


 右肩。

 肘。

 手首。

 魔力の流れ。

 異形腕の負荷。


 全部が、壊れる直前だった。


「良樹くん」


 クラリスの声は、震えていた。


 怒っていた。

 泣きそうだった。

 それでも、静かだった。


「治す前に、止めます」


 良樹の中に、別の信号が入った。


 リシアの魔力。

 カレンの恐怖。

 クラリスの手。


 三つの入力。


 許さねえ。


 その信号しかなかった良樹の中へ、別の線が割り込む。


 自立盤。


 三人へ繋ぐ盤。

 三人を支える盤。

 三人と一緒に戦うための盤。


 良樹は、それを切ったつもりだった。


 いや、切れてしまったと思った。


 三人が動けなくなった瞬間、その意味は消えたと思った。


 だが、完全には切れていなかった。


 三人の線は、まだ良樹の奥に残っていた。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 三つの線が、焼けた安全回路の代わりに、良樹の奥へ割り込む。


 共通ブレーカー。


 それは、良樹が三人を壊さないために作ったものだった。


 今度は、三人の入力が良樹を壊さないために、それを落とした。


 がちん。


 電磁接触器が落ちるような音がした。


 クランクが止まる。

 リンクが止まる。

 アームが止まる。


 巨大な拳が、カレンの目の前で止まった。


 拳ひとつ分もない距離。


 カレンの髪が、荒れた魔力の余波で揺れていた。


 それでも、拳は止まった。


 止まった。


挿絵(By みてみん)


 赤黒い異形腕に、ひびが入る。


 一筋。

 二筋。

 無数。


 ひびの奥で、かすかに青い光が戻りかける。


 けれど、それは形を保てなかった。


 そして、砕けた。


 紫電と赤黒い魔力の破片が、夕暮れの空へ散った。


 良樹の右腕が、元の大きさへ戻る。


 身体が傾く。


 クラリスが支えようとした。

 だが、クラリス自身も崩れかけている。


 リシアが反対側から支える。

 カレンも、剣を捨てて良樹の前へ戻った。


 四人が、土煙の中で崩れるように膝をついた。


   ◇


 良樹は、最初にカレンを見た。


 自分の目の前に立っていた。


 震えていた。

 顔は青い。

 それでも、逃げていなかった。


 次に、リシアを見た。


 唇の端に血があった。

 魔力を受け流したせいで、肩で息をしていた。


 最後に、クラリスを見た。


 右肩を痛めている。

 それでも、良樹の右肩に手を置いたまま、泣きそうな顔で睨んでいた。


 良樹は、掠れた声で言った。


「……何、してんだ」


 リシアが、息を乱しながら答えた。


「非常停止」


 カレンも、震える声で続ける。


「良樹さんの、非常停止です」


 クラリスが、良樹の肩から手を離さずに言った。


「外さないでくださいと、言いました」


 良樹は、言葉を失った。


 何が起きたのか。


 自分が何をしたのか。


 大型を倒した。

 それは分かる。


 だが、そのあと。


 止まれなかった。


 自分で止まれなかった。


 良樹の喉が、ひゅっと鳴った。


 右腕が痛い。

 肩が痛い。

 膝も、腰も、焼けるように痛い。


 だが、それよりも。


 三人が目の前にいた。


 自分を止めるために、あの拳の前へ入った。


「……すまねえ」


 良樹は言った。


 声が、掠れていた。


「でも」


 言葉が詰まる。


 リシアを見た。

 カレンを見た。

 クラリスを見た。


 傷ついている。

 自分を止めるために、さらに傷ついた。


 それでも、三人は良樹を見ていた。


 責めるためではない。


 逃がさないために。


 壊さないために。


 良樹は、やっと言葉を絞り出した。


「……どうしても、許せなかった」


 三人は、何も言わなかった。


 その言葉が、魔物だけに向いていないことを、三人は分かっていた。


 リシアは、良樹の胸ぐらを掴むように服を握った。


「……嬉しくないわけじゃないわよ」


 声が震えていた。


「でも」

「あんな守られ方は嫌」


 カレンは、涙を浮かべながら首を振った。


「良樹さんが怒ってくれたことは……嬉しいです」

「でも、良樹さんが壊れるのは嫌です」


 クラリスは、良樹の右肩をそっと押さえた。


 痛む場所。

 壊れかけた場所。


 そして、静かに言った。


「許せなかったことは、分かります」

「でも、良樹くんが止まれなくなることは、許しません」


 良樹は、何も言い返せなかった。


 返せる言葉がなかった。


 ただ、三人の手が、自分をまだ掴んでいることだけが分かった。


   ◇


 少し離れた場所で、ガレスはそれを見ていた。


 町を守った男。

 オーガを止めた男。

 巨大な右腕で魔物の拳を砕いた男。


 周囲の冒険者たちは、良樹を英雄として見ている。


 当然だった。


 あれは英雄の光景だった。


 だが、ガレスは見ていた。


 あの右腕は、止まっていなかった。


 オーガを倒したあとも、止まらなかった。


 三人が入らなければ、良樹は止まれなかった。


 それが何を意味するのか、ガレスには完全には分からない。


 魔導盤のことも。

 共通ブレーカーのことも。

 非常停止のことも。


 だが、分かることはある。


 あれは、ただの勝利ではなかった。


 あれは、危うい何かだった。


 それでも、ガレスは何も言わなかった。


 今、この場に必要なのは、町を救った英雄の話だった。


 制御を失いかけた危うい男の話ではない。


 ガレスは、剣を地面に突き立てた。


 そして、戦場に残る冒険者たちへ向かって声を上げた。


「防衛線、維持!」

「残敵確認!」

「負傷者を治療所へ回せ!」

「旧街道側、再確認!」

「勝ったと思って背中を向けるな!」


 冒険者たちが動き出す。


 町は、まだ完全には静かになっていない。


 だが、滅ぶ形ではなくなった。


 オーガは倒れた。

 群れは崩れた。

 防衛線は残った。


 町は守られた。


 そして、その中心で。


 良樹は三人に支えられたまま、土の上に膝をついていた。


 英雄と呼ばれるには、十分すぎる光景だった。


 けれど、四人だけが知っていた。


 その拳は、止まらなかった。


 三人が非常停止にならなければ、良樹は自分を壊すまで止まれなかった。


 良樹は、まだ三人の手を感じていた。


 リシアの魔力。

 カレンの震え。

 クラリスの手。


 三つの線が、焼け焦げた自分の奥に残っている。


 良樹は、かすかに息を吐いた。


「……外さねえよ」


 その声は小さかった。


 戦場の喧騒に紛れるほど、小さかった。


 それでも、三人には届いた。


 リシアが、少しだけ目を伏せる。

 カレンが、泣きそうな顔で頷く。

 クラリスが、良樹の肩を押さえたまま、静かに微笑む。


 非常停止。


 外してはいけない安全装置。


 それはもう、盤の中だけにあるものではなかった。


 良樹のすぐ隣に、三人分、確かに立っていた。


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