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第7話 包囲網

 トロルの一件から、数日が過ぎた。


 大きな戦闘はなかった。

 森の奥へ入る依頼も、ガレスに止められていた。

 カレンの足を休ませる必要があったし、クラリスの折れた錫杖の代わりを探す必要もあった。


 だから四人は、町で過ごした。


 朝は同じ卓で飯を食い。

 昼は買い物に出て。

 午後には町外れで軽く身体を動かし、リシアの魔法を見たり、良樹の魔導盤を調整したりした。

 夜になれば、良樹は工具を拭きながら盤の構成を考える。


 慣れてきた。


 それが、少しまずかった。


   ◇


 市場は、昼前から人が多かった。


 果物。

 干し肉。

 布。

 革紐。

 薬草。

 安物の短剣。

 使い込まれた鍋。

 小さな魔石。


 現代日本のホームセンターとはまるで違う。

 けれど、必要なものを探して歩く感覚は、良樹にも少しだけ分かった。


 良樹は、少し離れた店で金具を見ていた。

 錆びた蝶番や、妙に雑な留め具が気になったらしい。


 その少し離れた衣類屋で、リシア、カレン、クラリスの三人は足を止めていた。


 カレンが、一枚の下着を手に取っていた。


 手に取って、戻そうとして、戻さない。

 別の色を見る。

 また最初の下着を見る。

 耳が少し赤い。


 私は剣士だ。


 カレンは、胸の中で小さく言い訳をした。


 動けば、服も揺れる。

 踏み込めば、裾も跳ねる。

 訓練用のスカートは短い。

 そうでないと、足が引っかかる。


 今までも、ずっとそうだった。


 だから、下着をちゃんと選ぶのは、おかしなことではない。

 剣士として当然のことだ。


 もし、見えてしまうなら。

 もし、良樹さんの目に入ってしまうなら。


 変ではないものがいい。

 ちゃんとしていると思われるものがいい。


 だから、仕方ない。


 仕方ない、よね。


 カレンは、そう自分に言い聞かせながら、淡い緑色の下着を手に取った。


 リシアは、それを横目で見ていた。


 普段のカレンなら、目立たないものを一つ選んで終わりだったはずだ。

 必要なものを、必要なだけ。

 それ以上に悩むような子ではない。


 だが今日は違う。


 色を見ている。

 手触りを確かめている。

 縁の刺繍を見ている。

 しばらく迷って、また別の色を見る。


 リシアは、少しだけ目を細めた。


 ――あの子、ひょっとして気を遣ってる?


 良樹に見られたことを。

 訓練中や、助けられた時のことを。

 それから、お姫様抱っこで戻ってきたことを。


 カレンは何も言わない。

 誰にも相談しない。

 ただ、おどおどしながら、真剣に選んでいる。


 それが逆に強かった。


 悪い言い方をすれば、色目を使おうとしている。

 もっと悪い言い方をすれば、もう使い始めている。


 しかも本人は、それをあまり分かっていない。


 無自覚の攻撃は、止めにくい。


 リシアは、ほんの少しだけ唇を結んだ。


 良樹の最初を知っているのは、自分だ。


 川へ撃ち込まれてきた良樹を、最初に見た。

 半氷漬けにした。

 最初に魔法を見せた。

 良樹が魔力を回路として見る異質さを、最初に知った。


 そのはずなのに。


 最近の良樹の記憶には、カレンがいる。

 腕の中にいたカレン。

 怪我をして、守られて、可愛い女の子だと言われたカレン。


 出遅れるわけにはいかない。


 そう思った自分に、リシアは少し驚いた。


 一方で、クラリスもカレンを見ていた。


 淡い色の下着を手に取ったまま固まっているカレン。

 恥ずかしそうに目を伏せているのに、手放さない。


 クラリスは、穏やかに微笑んだ。


 ――カレンさん、思ったより攻めますね。


 もちろん、本人は攻めているつもりなどないのだろう。

 きっと、見られたいわけではない。

 ただ、見られてしまった時に、ちゃんとしていたいだけ。


 けれど、それは十分に女の子の戦い方だった。


 良樹さんに見られた。

 良樹さんが、可愛い女の子だと言った。

 良樹さんが、自分を抱えて戻った。


 その記憶を、カレンさんは大切にしている。


 クラリスは、そっと自分の胸へ手を添えた。


 自分にも、記憶はある。


 良樹さんは見た。


 胸を。


 もちろん、状況は事故だった。

 良樹さんに悪意がなかったことも分かっている。


 けれど、見たことは事実です。

 そして、綺麗だった、と言いました。


 クラリスは、その記憶を否定するつもりはなかった。


 自分の外見だけを見て寄ってくる男なら、これまでにもいた。


 清楚な僧侶。

 穏やかな女。

 守られるべき回復役。


 そういうものだけを見て、近づいてくる男はいた。


 そして、自分の本性を見て離れていく男も、同じくらい見てきた。


 杖で打つ。

 関節を折る。

 相手の呼吸を止める。

 痛みを数えず、自分の身体を壊しながらでも前へ出る。


 そこまで見た男は、大抵、目の色を変えた。

 憧れではなく、怯えに。


 けれど、良樹さんは違った。


 胸を見た。

 壊れた手も見た。

 清楚な僧侶としての自分も見た。

 自分を壊して戦う、自分の本性も見た。


 そのうえで、良樹さんは普通に接してくれている。


 普通に怒って。

 普通に謝って。

 普通に、隣にいようとしてくれる。


 それが、クラリスにとっては何より危険だった。


 逃がしません。


 そう思ってから、クラリスは清楚に微笑んだ。


 出遅れるわけには、いきませんね。


   ◇


 午後。


 町外れの訓練場で、カレンは木剣を構えていた。


 右足は、歩く分には問題ない。

 だが、走ることや強い踏み込みはまだ控えるべきだと、クラリスから言われている。


 良樹は少し離れた位置で、それを見ていた。


 剣のことは分からない。

 間合いも、剣筋も、踏み込みの良し悪しも、専門家のようには見えない。


 それでも、怪我人が無理をしているかどうかは見る。

 痛みを隠していないか。

 足を庇っていないか。

 戻る時に身体が遅れていないか。


 見るのは剣ではない。


 戻れるかどうかだった。


「い、行きます」


「ああ。無理すんな。速さはいらねえ。痛みが出たら止める」


「はい」


 カレンが動いた。


 木剣が空を切る。

 軽く前へ出て、戻る。

 もう一度、角度を変えて身体を動かす。


 良樹には、それが上手いのかどうかは分からない。

 だが、動きの中で右足を気にしていることは分かった。


「痛いか」


「痛くはないです」


「怖いか」


「……少し、怖いです」


「ならいい。怖いなら、何が怖いか後で言え。痛みが出たらその場で言え」


「はい」


 カレンは頷き、もう一度構えた。


 今度は、低い木枠を避けるように動く。

 跳ぶというほどではない。

 足を上げ、身体を横へ逃がす程度の動きだ。


 その瞬間、訓練用の短いスカートが、動きに合わせて跳ねた。


 カレンは、自分の裾が捲れたことに気づいた。


「あっ」


 反射的に、良樹の方を見る。


 そこには、慌てて視線を横へ逸らした良樹がいた。


 見た。


 いや、見えてしまった。


 カレンの顔が、一気に熱くなる。


 また、見られた。


 そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。


 恥ずかしい。

 恥ずかしくて、今すぐ木剣を置いてしゃがみ込みたい。


 けれど。


 良樹は笑っていなかった。

 茶化してもいなかった。

 すぐに目を逸らした。


 見てしまったことを、軽く扱わない人だ。


 それは分かっている。

 分かっているから、余計に困る。


 見られた。

 でも、見て貰えた。


 そんな言い方をしていいのか、カレンにはまだ分からない。


 けれど、今日選んだものを、良樹が見た。


 見られたいわけではない。

 そう思っていた。


 でも、もし見えてしまうなら。

 ちゃんとしていたいと思った。


 その、ちゃんとしていたいものを。

 良樹さんは、見た。


 その事実が、恥ずかしさとは別の熱を、胸の奥に残していた。


 良樹は何も言わなかった。

 カレンも何も言えなかった。


 ただ、リシアが少し離れた場所から目を細めていた。

 クラリスは、口元に手を添えたまま、穏やかに微笑んでいた。


「……続けられるか」


 少し間を置いて、良樹が言った。


 声は、いつもより少しだけ硬い。


「つ、続けます……」


「無理なら止める」


「だ、大丈夫です。恥ずかしいだけなので……」


「それは大丈夫なのか」


「大丈夫じゃないです……でも、続けます」


「分かった」


 良樹は短く頷いた。


「なら、服の動きも気にしろ。戦う時に装備がどう動くかは大事だ。視界を塞ぐ布、引っかかる裾、ずれる防具。全部事故要因になる」


「……はい」


「今のも、事故要因だ」


「はい……」


「俺にとっても」


「良樹さんにとっても……?」


「集中力が落ちる」


「っ……!」


 言ってから、良樹は少しだけ後悔した。


「悪い。今の言い方は余計だった」


「い、いえ……」


 カレンは真っ赤なまま、もう一度木剣を構えた。


 良樹は息を吐いた。


 前を見る。

 足を見る。

 戻る道を見る。


 それ以外は見ない。


 少なくとも、今は。


   ◇


 訓練の後、クラリスは包帯と薬草を買い足すと言って、カレンを連れて出ていった。


 カレンの足の具合を確認するついででもある。

 本人はもう歩けると言っているが、クラリスはそこを信用しすぎない。


 良樹としても、それはありがたかった。


 宿の食堂の隅。

 人の少ない卓で、良樹は魔導盤を開いていた。


 半透明の盤。

 魔力線。

 接点。

 保持。

 停止。

 出力を逃がすための細い道。


 今は余計なことを考えている場合ではない。


 索敵と逃走だけでは限界がある。

 逃げるためには、相手を止める出力がいる。


 ただ、出せばいいわけではない。


 入れるか、切るか。

 ゼロか、全開か。


 そんな雑な形では危ない。


 弱く入れる。

 必要なら上げる。

 危なくなる前に絞る。

 止める時には、確実に止める。


 出力を安全に維持して、なおかつ状況に合わせて変えられる方法がいる。


 良樹はドライバーの先で、盤の中の一本の線を押さえた。


「ここで弱く入れて、保持して……いや、保持だけじゃ駄目だ。変えられねえと意味がねえ。出した後に変えられる形を――」


「良樹」


 横から声がした。


 リシアだった。


「そこ、何を見てるの?」


「出力を、安全に維持して、必要に応じて変えられる方法」


「……また難しいこと考えてるわね」


「難しくしねえと危ねえんだよ。入れるか切るかだけだと、間に合わねえことがある」


「また止める話?」


「止める話だ。ただ、止めるだけじゃなくて、途中を作りたい」


「途中?」


「ああ。弱く入れて、必要なら上げて、危なくなる前に止める。そういう形にしたい」


「本当に好きね、止めるの」


「好き嫌いじゃねえ。止まらないものは危ねえんだよ」


 良樹が答えると、リシアは当然のように右隣へ座った。


 当然のように。


 少なくとも、そう見えるように。


 肩が触れそうな距離だった。


 リシアは少し前へ身を乗り出し、黒い横髪を指先で掬って耳の後ろへ流す。


 魔導盤を覗き込むため。


 少なくとも、そういう顔をしていた。


 自分でも、少しだけ分かっていた。


 今の仕草は、ただ邪魔な髪を払っただけではない。


 良樹の視界に、自分が入る。

 良樹の横で、良樹と同じものを覗き込む。

 良樹がこちらを見た時に、ちゃんと女の子として見える角度を作る。


 そんなことを、考えた。


 考えてしまった。


 リシアは、少しだけ耳が熱くなるのを感じた。


 けれど、退かなかった。


「ここ、魔力の流れが戻ってるように見えるわね」


「戻してる。出力側へ流しっぱなしにしないためだ」


「良樹らしいわね」


「褒めてんのか」


「半分くらい」


「残り半分は何だ」


「呆れてる」


「だろうな」


 リシアは盤を覗き込んでいた。


 覗き込んでいた、はずだった。


 けれど、気づけば視線は盤ではなく、良樹の横顔へ向いていた。


 考え込むと眉間にしわが寄る。

 説明しながら、もう次の線を見ている。

 工具を持つ指だけは、妙に丁寧に動く。


 変な人。


 最初からそう思っていた。


 川へ撃ち込まれてきて。

 腰袋を確認して。

 水浴び中の自分を見て。

 半氷漬けにされて。

 それでも最初に考えたのが、止め方だった人。


「リシア」


「……え?」


「盤、見てるんだよな」


「見てるわよ」


「じゃあ、なんで俺の顔見てた」


「……良樹が変な顔してたから」


「俺の顔は回路じゃねえぞ」


「似たようなものじゃない」


「どういう意味だよ」


「見てると、だいたい変なこと考えてるのが分かるって意味」


「異常表示扱いか、俺は」


「近いわね」


「近いのはそっちの距離だ」


 そう言われて、リシアは一瞬だけ止まった。


 そして、少しだけ顎を上げる。


「魔導盤を見るには、これくらい近くないと見えないの」


「見えてるだろ」


「見えない」


「何が」


「良樹が、何を見てるのか」


 言ってから、リシアは少しだけ後悔した。


 盤の話だ。

 盤の話のはずだ。


 けれど、言葉だけ聞くと、そうではない意味にも聞こえる。


 良樹も、少し黙った。


「……盤の話よ」


「分かってる」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんって何よ」


「最近、確認しないと事故ることが多い」


「何それ」


「俺にも分からん」


 良樹は軽く息を吐き、魔導盤を閉じかけた。


「少し、火炎球の話を聞きたい」


「火炎球?」


「ああ。トロルの時、お前の火炎球は通ってた。でも止めきれなかった」


「……そうね」


 リシアの声が少し沈む。


 良樹はそれに気づいたが、慰めるような言葉は選ばなかった。


「通ったことが大事だ」

「効いてないわけじゃない」

「ただ、止める形になってなかった」


「止める形?」


「ああ。燃やすんじゃなく、止める」

「火炎球の中身がどうなってるか知りたい」


 リシアは、少しだけ瞬きをした。


 魔法のことを聞く相手として、良樹が自分を見ている。

 カレンではなく。

 クラリスでもなく。


 自分を。


「分かった」


 リシアは頷いた。


「私に分かる範囲で説明する」


   ◇


「火に変えるってのは、魔力そのものを変えてるのか? それとも術式側で火にしてるのか?」


「私の場合は後者。魔力をそのまま火にしているというより、術式の中で火属性へ変換してる」


「圧は?」


「撃つ直前にかける。最初から強く圧をかけすぎると、形が崩れるから」


「保持は?」


「外側を薄く固める感じ。完全に固めると着弾しても弾けない」


「なるほど。外殻と中身が別なのか」


「……今ので分かるの?」


「分かるところだけな」


 その時、良樹は自分の右手に違和感を覚えた。


 ドライバーを持っていない方の手。

 指先から、半透明の線が伸びていた。


 線、ではない。


 何故か、直感で理解した。


 これは接続ケーブルだ。


 機械と制御装置を繋ぐための線。

 こちらから何かを押しつけるものではなく、相手の中にある流れを読むためのもの。


 先端は空中で揺れている。

 どこにも繋がっていない。

 けれど、何かを探しているように見えた。


「良樹?」


「……まだ分からん」


「何が?」


「何かが、開いた」


「何かって?」


「それも、まだ分からん」


 リシアは、良樹の手元を覗き込んだ。


「良樹の魔力……だけど、少し違う」


「違う?」


「外へ出てるのに、攻撃でも防御でもない。何かに触ろうとしてるみたい」


「触る……いや、繋ぐ、か」


「繋ぐ?」


「まだ分からん」


 良樹は、自分の指先から伸びる半透明の線を見た。


 先端は空中で揺れている。

 どこにも繋がっていない。

 けれど、リシアの魔力へ向かおうとしているように見えた。


「リシア」


「何?」


「火炎球、組んでみてくれ。撃たなくていい。組むところだけでいい」


「……本当に変なこと考えてるでしょ」


「変なことだと思う」


「否定しないのね」


「できる材料がない」


 リシアは杖を構えた。


 火の魔力が集まる。


 これまでも、良樹には魔力の流れのようなものは見えていた。

 だが、今は違った。


 線が見える。


 入力。

 供給。

 属性変換。

 圧縮。

 保持。

 射出。


 それらが、ぼんやりした光ではなく、回路のように並んでいた。


「……見える」


「何が?」


「お前の魔法の、中身……いや、流れの一部だ」


 リシアの指が、ほんの少しだけ止まった。


「火に変えるところがある」

「圧をかけてる」

「外側を丸めてる」

「最後に押し出す」


 良樹は、見えたものをそのまま口にした。


 リシアの表情が変わった。


「……合ってる」


「合ってるのか」


「合ってる。でも、それを見ただけで分かるのはおかしいわ」


「俺もそう思う」


 リシアは、自分の魔法を見られているのだと理解した。


 肌ではない。

 服でもない。

 身体でもない。


 もっと奥。


 自分が長い時間をかけて覚えた魔力の流し方。

 属性へ変える癖。

 圧をかける加減。

 形を保つための感覚。


 それを、良樹が見ている。


 ぞくり、とした。


 怖い、とは少し違う。

 恥ずかしい、にも近い。

 けれど、それだけではない。


 自分の魔法を、この人が本気で見ている。


「そのまま、小さく出せるか。出力は落として」


「注文が多い」


「事故りたくねえ」


「良樹らしいわね」


 リシアは小さく息を吐き、掌の前に魔力を集めた。


 食堂で撃つわけにはいかない。

 だから、火炎球そのものではなく、手元に小さな火の構成だけを組む。


 赤い魔力が、掌の先に集まる。


火炎球ファイアーボール……の、手前」


 小さな火球が、リシアの掌の前で揺れた。


 その瞬間、良樹の視界で回路が動いた。


 保持がかかる。

 圧が内側へ溜まる。

 外殻が形を保つ。

 撃てば飛ぶ。


 魔法が、動作した。


「見えた」


「本当に?」


「ああ。ただし、見えただけだ」


 良樹は自分の手を見た。


「お前の魔法の流れは見えた」

「でも、俺が同じことをできるわけじゃねえ」

「回路図を見たからって、職人の手癖までコピーできるわけじゃない」


 リシアは、少しだけ目を見開いた。


 良樹は、自分の魔法を盗んだとは言わなかった。

 読めたから使えるとも言わなかった。


 見えたものと、できることを分けていた。


「もう一つ、氷閃槍も見せてくれ」


「いいけど……撃たないわよ」


「撃たなくていい。組むだけでいい」


 リシアは頷き、今度は青白い魔力を集めた。


 水気の集約。

 冷却。

 形状固定。

 硬度維持。

 射出準備。


 それらが、良樹の視界に線として浮かび上がる。


「氷は……形を保つところが強いな」


「氷閃槍は、形が崩れるとただの氷の塊になるから」


「刺すためじゃなくても使えるかもしれねえ」


「どういうこと?」


「足を止める。地面と進路を縫う。敵そのものじゃなく、動きを止める」


 リシアは目を細めた。


「また変なこと考えてるでしょ」


「たぶんな」


 良樹は魔導盤へ視線を落とした。


「でも、必要だ」

「索敵と逃げだけじゃ、設計として足りねえ」

「逃げるためには、相手を止める出力がいる」


「攻撃魔法じゃなくて?」


「ああ」


 良樹は、リシアの魔法の残光を見た。


「攻撃じゃねえ」

「止めるための出力だ」


   ◇


 良樹は、読み出したばかりの火炎球と氷閃槍の流れを、魔導盤へ落とし込もうとしていた。


 全部は無理だ。

 リシアの火炎球そのものを再現できるわけではない。

 氷閃槍をそのまま作れるわけでもない。


 だが、属性変換の入口。

 圧のかけ方。

 外殻を保持する考え方。

 形状を固定する考え方。


 その一部だけなら、盤の中に仮置きできるかもしれない。


「ここが変換で、こっちが保持か……いや、俺の魔力で同じことをやるんじゃねえ。盤側で受ける形にしねえと」


「良樹」


 リシアが横から覗き込む。


「それ、私の火炎球?」


「正確には、お前の火炎球を見て分かった一部だな。丸ごとコピーじゃねえ」


「できるの?」


「できるかどうかを今から試す」


「危なくない?」


「危ないから、まだ出力は繋がねえ」


 完成ではない。

 出力にも繋がっていない。


 ただ、リシアの魔法から見えた考え方が、盤の端に薄く置かれただけだ。


 赤い線。

 青い線。


 それでも良樹には、そこが次の入口に見えた。


 リシアは、その赤と青の細い線を見ていた。


 自分の火炎球ではない。

 自分の氷閃槍でもない。


 けれど、自分が魔法を組む時の考え方が、良樹の盤の中に入っている。


 そのことが、少し怖いくらい嬉しかった。


 その時、背後で扉が開いた。


「お待たせしました」


 クラリスの声だった。


 クラリスは部屋に入ってすぐ、少しだけ目を細めた。


 良樹の前には魔導盤。

 リシアは、そのすぐ隣。

 盤の中には、先ほどまでなかったはずの赤と青の線が薄く走っている。


 そしてリシアの顔が、少しだけ熱を持っていた。


「……何か、進みましたか?」


 声は穏やかだった。


 穏やかだったが、良樹はなぜか背筋に冷たいものを感じた。


「少しな。リシアの魔法を見てたら、火と氷の回路がちょっと見えた」


「見えた?」


「ああ。まだよく分からん。たぶん、魔導盤の補助機能みたいなやつだ」


「リシアさんの魔法を、ですか」


「そうだ」


「……そうですか」


 クラリスは微笑んだ。


 リシアさんの魔法を。

 良樹さんが。

 見た。


 なるほど。


 なるほど、です。


 クラリスはそのまま、良樹を挟んでリシアと反対側に腰を下ろした。


「……クラリスさん?」


「はい」


「何で座った」


「魔導盤を見るためです」


「見えるのか?」


「詳しいことは分かりません」


「じゃあ何を見に来たんだ」


「良樹さんを」


「堂々と言うな」


 クラリスは、にこりと微笑んだ。


「良樹さんは、ご自分のことになると少し雑ですから。集中している時ほど、肩や手首に力が入っていないか見ておく必要があります」


「今、盤の設計中なんだが」


「はい。ですから、邪魔にならないように座りました」


「左右を塞いでる時点で、わりと邪魔だぞ」


「そうでしょうか」


「そうだよ」


 クラリスは左側から、良樹の手元を覗いた。


 リシアは右側から、魔導盤を覗いている。


 二人の視線が、良樹の盤の上で一瞬だけ交差した。


「それにしても、今日は少し暑いですね」


 クラリスが、穏やかな声で言った。


 暑い。


 確かに、宿の食堂は少し熱がこもっていた。

 昼の火が残っているのか、煮込みの鍋の熱か、人の出入りが少ないせいか。

 空気は少し重い。


 だから、クラリスが法衣の胸元を少し緩めたこと自体は、不自然ではなかった。


 不自然では、なかった。


 白い指が布を摘まむ。

 胸元がわずかに開く。

 そこへ手で風を送るように、ぱたぱたと扇いだ。


 良樹は見なかった。


 見なかった。


 見なかったことにした。


 確認したら事故る。

 しかし、確認したくないわけではない。


 そこが一番まずかった。


 煩悩退散。

 空即是色。

 色即是空。


 さっきから仏教が過負荷である。


 クラリスは清楚に微笑んでいた。


 暑い。


 それは事実だった。


 ただ、どの席に座ってから暑くなるかは、少しだけ選べる。


 リシアは横目でクラリスを見た。


 暑い。

 確かに暑い。


 でも、今それをやる必要があったのか。


 あるのだろう。

 クラリスさんの中では。


 あの人、清楚な顔で普通に攻める。


 リシアは、また一つ学習した。


「あ、あの……戻りました」


 カレンが遅れて入ってきた。


 手には、クラリスに頼まれた包帯と小さな薬袋がある。


「何か、ありましたか?」


「リシアの魔法が少し見えた」


「見えた、ですか?」


「俺にもまだ説明しきれねえ」


「す、すごいです」


 カレンは素直にそう言った。


 けれど、ほんの少しだけ、リシアを見た。


 リシアさんだけ。


 その言葉は、声にはならなかった。


 右はリシア。

 左はクラリス。


 良樹の隣は、もう埋まっている。


 カレンはしばらく、椅子を持ったまま迷っていた。


 前に出るのは怖い。

 割り込むのも怖い。

 けれど、離れた場所に座るのも、何だか負けた気がする。


 負けた、という言葉が浮かんで、カレンは自分で少し驚いた。


 何に。

 誰に。

 どうして。


 分からない。


 分からないけれど、ここで遠くに座るのは嫌だった。


「あ、あの……すみません」


「カレン?」


「後ろ、失礼します……」


「後ろ?」


 カレンは椅子をそっと動かし、良樹の背後へ座った。


 真正面ではない。

 隣でもない。

 けれど、少し身を乗り出せば、良樹の肩越しに魔導盤が見える位置。


 良樹の背中が近い。


 近いと思った瞬間、カレンは顔を赤くした。


「カレン、お前まで何してんだ」


「わ、私も、見ます」


「魔導盤を?」


「それも、です」


「それも?」


「えっと……戻る道とか、危なそうなところとか」


「この食堂でか」


「はい」


「食堂で戻る道を見るな」


「でも、逃げ道は大事です」


「正論で変なこと言うな」


 良樹は深く息を吐いた。


 右にリシア。

 左にクラリス。

 後ろにカレン。


 逃げ道がない。


 いや、逃げる必要はない。

 ないはずだ。


 ただ、真面目に魔導盤の設計をしたいだけなのに、なぜか自分が妙な配置の中心になっている。


「あ、あの……すみません。少し、見えなくて」


 カレンが、良樹の後ろから身を乗り出した。


 肩越しに魔導盤を覗き込むためだ。

 右にはリシアがいる。

 左にはクラリスがいる。

 カレンが盤を見るには、後ろから覗くしかない。


 仕方ない。


 物理的に、仕方ない。


 その結果、柔らかいものが二つ、良樹の後頭部に触れた。


 良樹の手が止まった。


 良樹の頭の中で、「ふにゅっ」という擬音が聞こえた気がした。


「……カレン」


「は、はい」


「今、後頭部に当たってる」


「っ……!」


 カレンの顔が、一瞬で赤くなった。


「す、すみません……!」


「いや、謝るな。位置関係の問題だ」


「位置関係……」


「物理的に、そうなる」


「物理的に……」


「そうだ」


 良樹は真顔で言った。


 真顔で言った。


 真顔で言うしかなかった。


 煩悩退散。

 空即是色。

 色即是空。


 いや、順番が逆だったか。

 どっちでもいい。

 今はそういう細かい宗派確認をしている場合ではない。


 リシアは何も言わなかった。


 言わなかったが、思った。


 カレン。

 それは強い。


 わざとではない。

 絶対にわざとではない。

 カレンはそういう子ではない。


 だからこそ、強い。


 物理的に仕方ない。

 見えないから身を乗り出しただけ。

 後ろから覗き込むには、そうなるしかなかった。


 そういう顔で、良樹の後頭部にあれを当ててくる。


 ずるい。

 いや、ずるくはない。

 ずるくはないけれど、強い。


 リシアは、ほんの少しだけ唇を結んだ。


 クラリスは、口元へ手を添えて、穏やかに微笑んだ。


「物理的に仕方ない、というのは強いですね」


「クラリスさん」


 良樹の声が低くなる。


「今それを評価しないでくれ」


「申し訳ありません。つい」


「ついで刺すな」


「刺したつもりはありません」


「今のは刺さった」


「では、以後気をつけます」


 クラリスは清楚に微笑んだ。


 絶対に、少し楽しんでいる。


 良樹はそう思った。


「……全員、一回止まれ」


「止まるのは良樹の専門でしょ」


 リシアが言った。


「うるせえ。今は俺の思考回路が止まりかけてんだよ」


「大丈夫ですか、良樹さん」


 クラリスが心配そうに言う。


「誰のせいだと思ってる」


「暑さでしょうか」


「暑さだけじゃねえ」


「あ、あの……私も、離れます……」


「いや、カレンは悪くねえ。位置関係が悪い」


「位置関係……」


「そうだ。盤の位置を上げる。椅子も少し下げる。それで解決する」


 良樹は魔導盤を少し上へ浮かせた。


 問題は切り分ける。

 感情ではなく、配置。

 煩悩ではなく、レイアウト。


 そうだ。

 これはレイアウトの問題だ。


 良樹は自分に言い聞かせた。


「……俺は魔導盤を設計してるんだよな?」


「そうよ」


「はい」


「そ、そうだと思います」


 三方向から返事が来た。


 良樹は額を押さえた。


「じゃあ何で、俺の周辺安全確認が一番忙しいんだ」


   ◇


 その日の終わり。


 訓練場から宿へ戻る途中、カレンは少しだけ遅れて歩いていた。


 良樹は前を歩いている。

 リシアはその隣。

 クラリスは少し後ろから、全員の歩き方を見ている。


 カレンは、自分のスカートの裾を少しだけ押さえた。


 今日、見られた。

 訓練中に。

 動きの中で。

 事故だった。


 良樹さんは、すぐに視線を逸らした。

 笑わなかった。

 茶化さなかった。


 でも、見た。


 見ていた。


 カレンは、胸の前で手を握った。


「あ、あの……良樹さん」


「何だ」


 良樹が振り返る。


 リシアも振り返った。

 クラリスも、静かに視線を向けた。


 カレンは顔を赤くした。


 それでも、聞いた。


「今日、何色でしたか」


「緑」


 反射だった。


 聞かれた。

 記憶にあった。

 答えた。


 現場で寸法や線番を聞かれた時と同じだった。

 余計な判断を挟まず、確認済みの情報を返す。


 だから、良樹は答えた。


 緑、と。


 次の瞬間、頭の中で主幹ブレーカーが落ちた。


「……しまった」


 リシアの足が止まっていた。

 クラリスの微笑みが、ほんの少し深くなっていた。

 カレンは、耳まで真っ赤になっていた。


「良樹」


 リシアの声が低い。


「今、何を聞かれて、何を答えたか分かってる?」


「分かってる」


「分かってるのね」


「分かったのは答えた後だ」


「最低の時差ね」


「返す言葉もねえ」


 カレンは俯いたまま、両手をぎゅっと握った。


 恥ずかしい。

 恥ずかしくて、今すぐ地面に埋まりたい。


 けれど。


 見ていた。

 覚えていた。

 良樹さんは、嘘をつかなかった。


 今日、選んだ。

 迷って、選んだ。

 見られたいわけではない。

 でも、もし見えてしまうなら、ちゃんとしていたかった。


 そして良樹さんは、覚えていた。


 カレンは、真っ赤になりながら、ほんの少しだけ勝った気がした。


 リシアは思った。


 やられた。


 おどおどしている。

 恥ずかしがっている。

 今にも消えそうなくらい赤くなっている。


 なのに、ちゃんと良樹に答えさせた。


 カレンは弱くない。

 少なくとも、この方面では、まったく弱くない。


 クラリスは、口元へ手を添えた。


 カレンさん。

 恐ろしい子です。


 などと、清楚な僧侶らしくないことを思った。


 止めることはできた。

 茶化すこともできた。


 けれど、リシアはしなかった。

 クラリスもしなかった。


 今の一言が、カレンにとってどれほどの勇気だったか。

 二人とも、それは分かってしまったからだ。


 良樹は額を押さえた。


「……俺は魔導盤のことを考えてたはずなんだが」


「そうね」


 リシアが冷たく言った。


「でも、別の何かが勝手に動いたみたいね」


「やめろ。今その例えは刺さる」


「良樹さん」


 クラリスが穏やかに言った。


「はい」


「煩悩にも、停止条件は必要ですね」


「本当にそうだな」


 良樹は深く息を吐いた。


 索敵。

 逃走。

 停止条件。

 出力を安全に変える方法。

 赤と青の仮の線。


 考えなければならないことは山ほどある。


 だが今、最優先で必要なのは、自分の煩悩に対する非常停止かもしれなかった。


 それでも。


 良樹は、胸の奥に浮かぶ魔導盤を思い出す。


 赤い線。

 青い線。

 リシアの魔法から見えた、まだ動かない仮の回路。


 逃げる盤は作った。

 戻る盤も作った。

 けれど、相手が止まってくれなければ逃げ切れない。


 索敵と逃げだけでは、設計として足りない。


 攻撃ではない。

 敵を殺すための火力ではない。


 仲間を逃がすために。

 追ってくる足を止めるために。

 危ない相手を、こちらへ届く前に制限するために。


 止めるための出力がいる。


 良樹は、誰にも聞こえないくらい小さく呟いた。


「攻撃じゃねえ」

「止めるための出力だ」


 右にはリシアがいた。

 少し後ろにはカレンがいた。

 そのさらに後ろで、クラリスが全員の歩き方を見ていた。


 包囲されている。


 そう思った。


 逃げ道を塞がれているようで。

 けれど、なぜか悪くはなかった。


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