第7話 包囲網
トロルの一件から、数日が過ぎた。
大きな戦闘はなかった。
森の奥へ入る依頼も、ガレスに止められていた。
カレンの足を休ませる必要があったし、クラリスの折れた錫杖の代わりを探す必要もあった。
だから四人は、町で過ごした。
朝は同じ卓で飯を食い。
昼は買い物に出て。
午後には町外れで軽く身体を動かし、リシアの魔法を見たり、良樹の魔導盤を調整したりした。
夜になれば、良樹は工具を拭きながら盤の構成を考える。
慣れてきた。
それが、少しまずかった。
◇
市場は、昼前から人が多かった。
果物。
干し肉。
布。
革紐。
薬草。
安物の短剣。
使い込まれた鍋。
小さな魔石。
現代日本のホームセンターとはまるで違う。
けれど、必要なものを探して歩く感覚は、良樹にも少しだけ分かった。
良樹は、少し離れた店で金具を見ていた。
錆びた蝶番や、妙に雑な留め具が気になったらしい。
その少し離れた衣類屋で、リシア、カレン、クラリスの三人は足を止めていた。
カレンが、一枚の下着を手に取っていた。
手に取って、戻そうとして、戻さない。
別の色を見る。
また最初の下着を見る。
耳が少し赤い。
私は剣士だ。
カレンは、胸の中で小さく言い訳をした。
動けば、服も揺れる。
踏み込めば、裾も跳ねる。
訓練用のスカートは短い。
そうでないと、足が引っかかる。
今までも、ずっとそうだった。
だから、下着をちゃんと選ぶのは、おかしなことではない。
剣士として当然のことだ。
もし、見えてしまうなら。
もし、良樹さんの目に入ってしまうなら。
変ではないものがいい。
ちゃんとしていると思われるものがいい。
だから、仕方ない。
仕方ない、よね。
カレンは、そう自分に言い聞かせながら、淡い緑色の下着を手に取った。
リシアは、それを横目で見ていた。
普段のカレンなら、目立たないものを一つ選んで終わりだったはずだ。
必要なものを、必要なだけ。
それ以上に悩むような子ではない。
だが今日は違う。
色を見ている。
手触りを確かめている。
縁の刺繍を見ている。
しばらく迷って、また別の色を見る。
リシアは、少しだけ目を細めた。
――あの子、ひょっとして気を遣ってる?
良樹に見られたことを。
訓練中や、助けられた時のことを。
それから、お姫様抱っこで戻ってきたことを。
カレンは何も言わない。
誰にも相談しない。
ただ、おどおどしながら、真剣に選んでいる。
それが逆に強かった。
悪い言い方をすれば、色目を使おうとしている。
もっと悪い言い方をすれば、もう使い始めている。
しかも本人は、それをあまり分かっていない。
無自覚の攻撃は、止めにくい。
リシアは、ほんの少しだけ唇を結んだ。
良樹の最初を知っているのは、自分だ。
川へ撃ち込まれてきた良樹を、最初に見た。
半氷漬けにした。
最初に魔法を見せた。
良樹が魔力を回路として見る異質さを、最初に知った。
そのはずなのに。
最近の良樹の記憶には、カレンがいる。
腕の中にいたカレン。
怪我をして、守られて、可愛い女の子だと言われたカレン。
出遅れるわけにはいかない。
そう思った自分に、リシアは少し驚いた。
一方で、クラリスもカレンを見ていた。
淡い色の下着を手に取ったまま固まっているカレン。
恥ずかしそうに目を伏せているのに、手放さない。
クラリスは、穏やかに微笑んだ。
――カレンさん、思ったより攻めますね。
もちろん、本人は攻めているつもりなどないのだろう。
きっと、見られたいわけではない。
ただ、見られてしまった時に、ちゃんとしていたいだけ。
けれど、それは十分に女の子の戦い方だった。
良樹さんに見られた。
良樹さんが、可愛い女の子だと言った。
良樹さんが、自分を抱えて戻った。
その記憶を、カレンさんは大切にしている。
クラリスは、そっと自分の胸へ手を添えた。
自分にも、記憶はある。
良樹さんは見た。
胸を。
もちろん、状況は事故だった。
良樹さんに悪意がなかったことも分かっている。
けれど、見たことは事実です。
そして、綺麗だった、と言いました。
クラリスは、その記憶を否定するつもりはなかった。
自分の外見だけを見て寄ってくる男なら、これまでにもいた。
清楚な僧侶。
穏やかな女。
守られるべき回復役。
そういうものだけを見て、近づいてくる男はいた。
そして、自分の本性を見て離れていく男も、同じくらい見てきた。
杖で打つ。
関節を折る。
相手の呼吸を止める。
痛みを数えず、自分の身体を壊しながらでも前へ出る。
そこまで見た男は、大抵、目の色を変えた。
憧れではなく、怯えに。
けれど、良樹さんは違った。
胸を見た。
壊れた手も見た。
清楚な僧侶としての自分も見た。
自分を壊して戦う、自分の本性も見た。
そのうえで、良樹さんは普通に接してくれている。
普通に怒って。
普通に謝って。
普通に、隣にいようとしてくれる。
それが、クラリスにとっては何より危険だった。
逃がしません。
そう思ってから、クラリスは清楚に微笑んだ。
出遅れるわけには、いきませんね。
◇
午後。
町外れの訓練場で、カレンは木剣を構えていた。
右足は、歩く分には問題ない。
だが、走ることや強い踏み込みはまだ控えるべきだと、クラリスから言われている。
良樹は少し離れた位置で、それを見ていた。
剣のことは分からない。
間合いも、剣筋も、踏み込みの良し悪しも、専門家のようには見えない。
それでも、怪我人が無理をしているかどうかは見る。
痛みを隠していないか。
足を庇っていないか。
戻る時に身体が遅れていないか。
見るのは剣ではない。
戻れるかどうかだった。
「い、行きます」
「ああ。無理すんな。速さはいらねえ。痛みが出たら止める」
「はい」
カレンが動いた。
木剣が空を切る。
軽く前へ出て、戻る。
もう一度、角度を変えて身体を動かす。
良樹には、それが上手いのかどうかは分からない。
だが、動きの中で右足を気にしていることは分かった。
「痛いか」
「痛くはないです」
「怖いか」
「……少し、怖いです」
「ならいい。怖いなら、何が怖いか後で言え。痛みが出たらその場で言え」
「はい」
カレンは頷き、もう一度構えた。
今度は、低い木枠を避けるように動く。
跳ぶというほどではない。
足を上げ、身体を横へ逃がす程度の動きだ。
その瞬間、訓練用の短いスカートが、動きに合わせて跳ねた。
カレンは、自分の裾が捲れたことに気づいた。
「あっ」
反射的に、良樹の方を見る。
そこには、慌てて視線を横へ逸らした良樹がいた。
見た。
いや、見えてしまった。
カレンの顔が、一気に熱くなる。
また、見られた。
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
恥ずかしい。
恥ずかしくて、今すぐ木剣を置いてしゃがみ込みたい。
けれど。
良樹は笑っていなかった。
茶化してもいなかった。
すぐに目を逸らした。
見てしまったことを、軽く扱わない人だ。
それは分かっている。
分かっているから、余計に困る。
見られた。
でも、見て貰えた。
そんな言い方をしていいのか、カレンにはまだ分からない。
けれど、今日選んだものを、良樹が見た。
見られたいわけではない。
そう思っていた。
でも、もし見えてしまうなら。
ちゃんとしていたいと思った。
その、ちゃんとしていたいものを。
良樹さんは、見た。
その事実が、恥ずかしさとは別の熱を、胸の奥に残していた。
良樹は何も言わなかった。
カレンも何も言えなかった。
ただ、リシアが少し離れた場所から目を細めていた。
クラリスは、口元に手を添えたまま、穏やかに微笑んでいた。
「……続けられるか」
少し間を置いて、良樹が言った。
声は、いつもより少しだけ硬い。
「つ、続けます……」
「無理なら止める」
「だ、大丈夫です。恥ずかしいだけなので……」
「それは大丈夫なのか」
「大丈夫じゃないです……でも、続けます」
「分かった」
良樹は短く頷いた。
「なら、服の動きも気にしろ。戦う時に装備がどう動くかは大事だ。視界を塞ぐ布、引っかかる裾、ずれる防具。全部事故要因になる」
「……はい」
「今のも、事故要因だ」
「はい……」
「俺にとっても」
「良樹さんにとっても……?」
「集中力が落ちる」
「っ……!」
言ってから、良樹は少しだけ後悔した。
「悪い。今の言い方は余計だった」
「い、いえ……」
カレンは真っ赤なまま、もう一度木剣を構えた。
良樹は息を吐いた。
前を見る。
足を見る。
戻る道を見る。
それ以外は見ない。
少なくとも、今は。
◇
訓練の後、クラリスは包帯と薬草を買い足すと言って、カレンを連れて出ていった。
カレンの足の具合を確認するついででもある。
本人はもう歩けると言っているが、クラリスはそこを信用しすぎない。
良樹としても、それはありがたかった。
宿の食堂の隅。
人の少ない卓で、良樹は魔導盤を開いていた。
半透明の盤。
魔力線。
接点。
保持。
停止。
出力を逃がすための細い道。
今は余計なことを考えている場合ではない。
索敵と逃走だけでは限界がある。
逃げるためには、相手を止める出力がいる。
ただ、出せばいいわけではない。
入れるか、切るか。
ゼロか、全開か。
そんな雑な形では危ない。
弱く入れる。
必要なら上げる。
危なくなる前に絞る。
止める時には、確実に止める。
出力を安全に維持して、なおかつ状況に合わせて変えられる方法がいる。
良樹はドライバーの先で、盤の中の一本の線を押さえた。
「ここで弱く入れて、保持して……いや、保持だけじゃ駄目だ。変えられねえと意味がねえ。出した後に変えられる形を――」
「良樹」
横から声がした。
リシアだった。
「そこ、何を見てるの?」
「出力を、安全に維持して、必要に応じて変えられる方法」
「……また難しいこと考えてるわね」
「難しくしねえと危ねえんだよ。入れるか切るかだけだと、間に合わねえことがある」
「また止める話?」
「止める話だ。ただ、止めるだけじゃなくて、途中を作りたい」
「途中?」
「ああ。弱く入れて、必要なら上げて、危なくなる前に止める。そういう形にしたい」
「本当に好きね、止めるの」
「好き嫌いじゃねえ。止まらないものは危ねえんだよ」
良樹が答えると、リシアは当然のように右隣へ座った。
当然のように。
少なくとも、そう見えるように。
肩が触れそうな距離だった。
リシアは少し前へ身を乗り出し、黒い横髪を指先で掬って耳の後ろへ流す。
魔導盤を覗き込むため。
少なくとも、そういう顔をしていた。
自分でも、少しだけ分かっていた。
今の仕草は、ただ邪魔な髪を払っただけではない。
良樹の視界に、自分が入る。
良樹の横で、良樹と同じものを覗き込む。
良樹がこちらを見た時に、ちゃんと女の子として見える角度を作る。
そんなことを、考えた。
考えてしまった。
リシアは、少しだけ耳が熱くなるのを感じた。
けれど、退かなかった。
「ここ、魔力の流れが戻ってるように見えるわね」
「戻してる。出力側へ流しっぱなしにしないためだ」
「良樹らしいわね」
「褒めてんのか」
「半分くらい」
「残り半分は何だ」
「呆れてる」
「だろうな」
リシアは盤を覗き込んでいた。
覗き込んでいた、はずだった。
けれど、気づけば視線は盤ではなく、良樹の横顔へ向いていた。
考え込むと眉間にしわが寄る。
説明しながら、もう次の線を見ている。
工具を持つ指だけは、妙に丁寧に動く。
変な人。
最初からそう思っていた。
川へ撃ち込まれてきて。
腰袋を確認して。
水浴び中の自分を見て。
半氷漬けにされて。
それでも最初に考えたのが、止め方だった人。
「リシア」
「……え?」
「盤、見てるんだよな」
「見てるわよ」
「じゃあ、なんで俺の顔見てた」
「……良樹が変な顔してたから」
「俺の顔は回路じゃねえぞ」
「似たようなものじゃない」
「どういう意味だよ」
「見てると、だいたい変なこと考えてるのが分かるって意味」
「異常表示扱いか、俺は」
「近いわね」
「近いのはそっちの距離だ」
そう言われて、リシアは一瞬だけ止まった。
そして、少しだけ顎を上げる。
「魔導盤を見るには、これくらい近くないと見えないの」
「見えてるだろ」
「見えない」
「何が」
「良樹が、何を見てるのか」
言ってから、リシアは少しだけ後悔した。
盤の話だ。
盤の話のはずだ。
けれど、言葉だけ聞くと、そうではない意味にも聞こえる。
良樹も、少し黙った。
「……盤の話よ」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんって何よ」
「最近、確認しないと事故ることが多い」
「何それ」
「俺にも分からん」
良樹は軽く息を吐き、魔導盤を閉じかけた。
「少し、火炎球の話を聞きたい」
「火炎球?」
「ああ。トロルの時、お前の火炎球は通ってた。でも止めきれなかった」
「……そうね」
リシアの声が少し沈む。
良樹はそれに気づいたが、慰めるような言葉は選ばなかった。
「通ったことが大事だ」
「効いてないわけじゃない」
「ただ、止める形になってなかった」
「止める形?」
「ああ。燃やすんじゃなく、止める」
「火炎球の中身がどうなってるか知りたい」
リシアは、少しだけ瞬きをした。
魔法のことを聞く相手として、良樹が自分を見ている。
カレンではなく。
クラリスでもなく。
自分を。
「分かった」
リシアは頷いた。
「私に分かる範囲で説明する」
◇
「火に変えるってのは、魔力そのものを変えてるのか? それとも術式側で火にしてるのか?」
「私の場合は後者。魔力をそのまま火にしているというより、術式の中で火属性へ変換してる」
「圧は?」
「撃つ直前にかける。最初から強く圧をかけすぎると、形が崩れるから」
「保持は?」
「外側を薄く固める感じ。完全に固めると着弾しても弾けない」
「なるほど。外殻と中身が別なのか」
「……今ので分かるの?」
「分かるところだけな」
その時、良樹は自分の右手に違和感を覚えた。
ドライバーを持っていない方の手。
指先から、半透明の線が伸びていた。
線、ではない。
何故か、直感で理解した。
これは接続ケーブルだ。
機械と制御装置を繋ぐための線。
こちらから何かを押しつけるものではなく、相手の中にある流れを読むためのもの。
先端は空中で揺れている。
どこにも繋がっていない。
けれど、何かを探しているように見えた。
「良樹?」
「……まだ分からん」
「何が?」
「何かが、開いた」
「何かって?」
「それも、まだ分からん」
リシアは、良樹の手元を覗き込んだ。
「良樹の魔力……だけど、少し違う」
「違う?」
「外へ出てるのに、攻撃でも防御でもない。何かに触ろうとしてるみたい」
「触る……いや、繋ぐ、か」
「繋ぐ?」
「まだ分からん」
良樹は、自分の指先から伸びる半透明の線を見た。
先端は空中で揺れている。
どこにも繋がっていない。
けれど、リシアの魔力へ向かおうとしているように見えた。
「リシア」
「何?」
「火炎球、組んでみてくれ。撃たなくていい。組むところだけでいい」
「……本当に変なこと考えてるでしょ」
「変なことだと思う」
「否定しないのね」
「できる材料がない」
リシアは杖を構えた。
火の魔力が集まる。
これまでも、良樹には魔力の流れのようなものは見えていた。
だが、今は違った。
線が見える。
入力。
供給。
属性変換。
圧縮。
保持。
射出。
それらが、ぼんやりした光ではなく、回路のように並んでいた。
「……見える」
「何が?」
「お前の魔法の、中身……いや、流れの一部だ」
リシアの指が、ほんの少しだけ止まった。
「火に変えるところがある」
「圧をかけてる」
「外側を丸めてる」
「最後に押し出す」
良樹は、見えたものをそのまま口にした。
リシアの表情が変わった。
「……合ってる」
「合ってるのか」
「合ってる。でも、それを見ただけで分かるのはおかしいわ」
「俺もそう思う」
リシアは、自分の魔法を見られているのだと理解した。
肌ではない。
服でもない。
身体でもない。
もっと奥。
自分が長い時間をかけて覚えた魔力の流し方。
属性へ変える癖。
圧をかける加減。
形を保つための感覚。
それを、良樹が見ている。
ぞくり、とした。
怖い、とは少し違う。
恥ずかしい、にも近い。
けれど、それだけではない。
自分の魔法を、この人が本気で見ている。
「そのまま、小さく出せるか。出力は落として」
「注文が多い」
「事故りたくねえ」
「良樹らしいわね」
リシアは小さく息を吐き、掌の前に魔力を集めた。
食堂で撃つわけにはいかない。
だから、火炎球そのものではなく、手元に小さな火の構成だけを組む。
赤い魔力が、掌の先に集まる。
「火炎球……の、手前」
小さな火球が、リシアの掌の前で揺れた。
その瞬間、良樹の視界で回路が動いた。
保持がかかる。
圧が内側へ溜まる。
外殻が形を保つ。
撃てば飛ぶ。
魔法が、動作した。
「見えた」
「本当に?」
「ああ。ただし、見えただけだ」
良樹は自分の手を見た。
「お前の魔法の流れは見えた」
「でも、俺が同じことをできるわけじゃねえ」
「回路図を見たからって、職人の手癖までコピーできるわけじゃない」
リシアは、少しだけ目を見開いた。
良樹は、自分の魔法を盗んだとは言わなかった。
読めたから使えるとも言わなかった。
見えたものと、できることを分けていた。
「もう一つ、氷閃槍も見せてくれ」
「いいけど……撃たないわよ」
「撃たなくていい。組むだけでいい」
リシアは頷き、今度は青白い魔力を集めた。
水気の集約。
冷却。
形状固定。
硬度維持。
射出準備。
それらが、良樹の視界に線として浮かび上がる。
「氷は……形を保つところが強いな」
「氷閃槍は、形が崩れるとただの氷の塊になるから」
「刺すためじゃなくても使えるかもしれねえ」
「どういうこと?」
「足を止める。地面と進路を縫う。敵そのものじゃなく、動きを止める」
リシアは目を細めた。
「また変なこと考えてるでしょ」
「たぶんな」
良樹は魔導盤へ視線を落とした。
「でも、必要だ」
「索敵と逃げだけじゃ、設計として足りねえ」
「逃げるためには、相手を止める出力がいる」
「攻撃魔法じゃなくて?」
「ああ」
良樹は、リシアの魔法の残光を見た。
「攻撃じゃねえ」
「止めるための出力だ」
◇
良樹は、読み出したばかりの火炎球と氷閃槍の流れを、魔導盤へ落とし込もうとしていた。
全部は無理だ。
リシアの火炎球そのものを再現できるわけではない。
氷閃槍をそのまま作れるわけでもない。
だが、属性変換の入口。
圧のかけ方。
外殻を保持する考え方。
形状を固定する考え方。
その一部だけなら、盤の中に仮置きできるかもしれない。
「ここが変換で、こっちが保持か……いや、俺の魔力で同じことをやるんじゃねえ。盤側で受ける形にしねえと」
「良樹」
リシアが横から覗き込む。
「それ、私の火炎球?」
「正確には、お前の火炎球を見て分かった一部だな。丸ごとコピーじゃねえ」
「できるの?」
「できるかどうかを今から試す」
「危なくない?」
「危ないから、まだ出力は繋がねえ」
完成ではない。
出力にも繋がっていない。
ただ、リシアの魔法から見えた考え方が、盤の端に薄く置かれただけだ。
赤い線。
青い線。
それでも良樹には、そこが次の入口に見えた。
リシアは、その赤と青の細い線を見ていた。
自分の火炎球ではない。
自分の氷閃槍でもない。
けれど、自分が魔法を組む時の考え方が、良樹の盤の中に入っている。
そのことが、少し怖いくらい嬉しかった。
その時、背後で扉が開いた。
「お待たせしました」
クラリスの声だった。
クラリスは部屋に入ってすぐ、少しだけ目を細めた。
良樹の前には魔導盤。
リシアは、そのすぐ隣。
盤の中には、先ほどまでなかったはずの赤と青の線が薄く走っている。
そしてリシアの顔が、少しだけ熱を持っていた。
「……何か、進みましたか?」
声は穏やかだった。
穏やかだったが、良樹はなぜか背筋に冷たいものを感じた。
「少しな。リシアの魔法を見てたら、火と氷の回路がちょっと見えた」
「見えた?」
「ああ。まだよく分からん。たぶん、魔導盤の補助機能みたいなやつだ」
「リシアさんの魔法を、ですか」
「そうだ」
「……そうですか」
クラリスは微笑んだ。
リシアさんの魔法を。
良樹さんが。
見た。
なるほど。
なるほど、です。
クラリスはそのまま、良樹を挟んでリシアと反対側に腰を下ろした。
「……クラリスさん?」
「はい」
「何で座った」
「魔導盤を見るためです」
「見えるのか?」
「詳しいことは分かりません」
「じゃあ何を見に来たんだ」
「良樹さんを」
「堂々と言うな」
クラリスは、にこりと微笑んだ。
「良樹さんは、ご自分のことになると少し雑ですから。集中している時ほど、肩や手首に力が入っていないか見ておく必要があります」
「今、盤の設計中なんだが」
「はい。ですから、邪魔にならないように座りました」
「左右を塞いでる時点で、わりと邪魔だぞ」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
クラリスは左側から、良樹の手元を覗いた。
リシアは右側から、魔導盤を覗いている。
二人の視線が、良樹の盤の上で一瞬だけ交差した。
「それにしても、今日は少し暑いですね」
クラリスが、穏やかな声で言った。
暑い。
確かに、宿の食堂は少し熱がこもっていた。
昼の火が残っているのか、煮込みの鍋の熱か、人の出入りが少ないせいか。
空気は少し重い。
だから、クラリスが法衣の胸元を少し緩めたこと自体は、不自然ではなかった。
不自然では、なかった。
白い指が布を摘まむ。
胸元がわずかに開く。
そこへ手で風を送るように、ぱたぱたと扇いだ。
良樹は見なかった。
見なかった。
見なかったことにした。
確認したら事故る。
しかし、確認したくないわけではない。
そこが一番まずかった。
煩悩退散。
空即是色。
色即是空。
さっきから仏教が過負荷である。
クラリスは清楚に微笑んでいた。
暑い。
それは事実だった。
ただ、どの席に座ってから暑くなるかは、少しだけ選べる。
リシアは横目でクラリスを見た。
暑い。
確かに暑い。
でも、今それをやる必要があったのか。
あるのだろう。
クラリスさんの中では。
あの人、清楚な顔で普通に攻める。
リシアは、また一つ学習した。
「あ、あの……戻りました」
カレンが遅れて入ってきた。
手には、クラリスに頼まれた包帯と小さな薬袋がある。
「何か、ありましたか?」
「リシアの魔法が少し見えた」
「見えた、ですか?」
「俺にもまだ説明しきれねえ」
「す、すごいです」
カレンは素直にそう言った。
けれど、ほんの少しだけ、リシアを見た。
リシアさんだけ。
その言葉は、声にはならなかった。
右はリシア。
左はクラリス。
良樹の隣は、もう埋まっている。
カレンはしばらく、椅子を持ったまま迷っていた。
前に出るのは怖い。
割り込むのも怖い。
けれど、離れた場所に座るのも、何だか負けた気がする。
負けた、という言葉が浮かんで、カレンは自分で少し驚いた。
何に。
誰に。
どうして。
分からない。
分からないけれど、ここで遠くに座るのは嫌だった。
「あ、あの……すみません」
「カレン?」
「後ろ、失礼します……」
「後ろ?」
カレンは椅子をそっと動かし、良樹の背後へ座った。
真正面ではない。
隣でもない。
けれど、少し身を乗り出せば、良樹の肩越しに魔導盤が見える位置。
良樹の背中が近い。
近いと思った瞬間、カレンは顔を赤くした。
「カレン、お前まで何してんだ」
「わ、私も、見ます」
「魔導盤を?」
「それも、です」
「それも?」
「えっと……戻る道とか、危なそうなところとか」
「この食堂でか」
「はい」
「食堂で戻る道を見るな」
「でも、逃げ道は大事です」
「正論で変なこと言うな」
良樹は深く息を吐いた。
右にリシア。
左にクラリス。
後ろにカレン。
逃げ道がない。
いや、逃げる必要はない。
ないはずだ。
ただ、真面目に魔導盤の設計をしたいだけなのに、なぜか自分が妙な配置の中心になっている。
「あ、あの……すみません。少し、見えなくて」
カレンが、良樹の後ろから身を乗り出した。
肩越しに魔導盤を覗き込むためだ。
右にはリシアがいる。
左にはクラリスがいる。
カレンが盤を見るには、後ろから覗くしかない。
仕方ない。
物理的に、仕方ない。
その結果、柔らかいものが二つ、良樹の後頭部に触れた。
良樹の手が止まった。
良樹の頭の中で、「ふにゅっ」という擬音が聞こえた気がした。
「……カレン」
「は、はい」
「今、後頭部に当たってる」
「っ……!」
カレンの顔が、一瞬で赤くなった。
「す、すみません……!」
「いや、謝るな。位置関係の問題だ」
「位置関係……」
「物理的に、そうなる」
「物理的に……」
「そうだ」
良樹は真顔で言った。
真顔で言った。
真顔で言うしかなかった。
煩悩退散。
空即是色。
色即是空。
いや、順番が逆だったか。
どっちでもいい。
今はそういう細かい宗派確認をしている場合ではない。
リシアは何も言わなかった。
言わなかったが、思った。
カレン。
それは強い。
わざとではない。
絶対にわざとではない。
カレンはそういう子ではない。
だからこそ、強い。
物理的に仕方ない。
見えないから身を乗り出しただけ。
後ろから覗き込むには、そうなるしかなかった。
そういう顔で、良樹の後頭部にあれを当ててくる。
ずるい。
いや、ずるくはない。
ずるくはないけれど、強い。
リシアは、ほんの少しだけ唇を結んだ。
クラリスは、口元へ手を添えて、穏やかに微笑んだ。
「物理的に仕方ない、というのは強いですね」
「クラリスさん」
良樹の声が低くなる。
「今それを評価しないでくれ」
「申し訳ありません。つい」
「ついで刺すな」
「刺したつもりはありません」
「今のは刺さった」
「では、以後気をつけます」
クラリスは清楚に微笑んだ。
絶対に、少し楽しんでいる。
良樹はそう思った。
「……全員、一回止まれ」
「止まるのは良樹の専門でしょ」
リシアが言った。
「うるせえ。今は俺の思考回路が止まりかけてんだよ」
「大丈夫ですか、良樹さん」
クラリスが心配そうに言う。
「誰のせいだと思ってる」
「暑さでしょうか」
「暑さだけじゃねえ」
「あ、あの……私も、離れます……」
「いや、カレンは悪くねえ。位置関係が悪い」
「位置関係……」
「そうだ。盤の位置を上げる。椅子も少し下げる。それで解決する」
良樹は魔導盤を少し上へ浮かせた。
問題は切り分ける。
感情ではなく、配置。
煩悩ではなく、レイアウト。
そうだ。
これはレイアウトの問題だ。
良樹は自分に言い聞かせた。
「……俺は魔導盤を設計してるんだよな?」
「そうよ」
「はい」
「そ、そうだと思います」
三方向から返事が来た。
良樹は額を押さえた。
「じゃあ何で、俺の周辺安全確認が一番忙しいんだ」
◇
その日の終わり。
訓練場から宿へ戻る途中、カレンは少しだけ遅れて歩いていた。
良樹は前を歩いている。
リシアはその隣。
クラリスは少し後ろから、全員の歩き方を見ている。
カレンは、自分のスカートの裾を少しだけ押さえた。
今日、見られた。
訓練中に。
動きの中で。
事故だった。
良樹さんは、すぐに視線を逸らした。
笑わなかった。
茶化さなかった。
でも、見た。
見ていた。
カレンは、胸の前で手を握った。
「あ、あの……良樹さん」
「何だ」
良樹が振り返る。
リシアも振り返った。
クラリスも、静かに視線を向けた。
カレンは顔を赤くした。
それでも、聞いた。
「今日、何色でしたか」
「緑」
反射だった。
聞かれた。
記憶にあった。
答えた。
現場で寸法や線番を聞かれた時と同じだった。
余計な判断を挟まず、確認済みの情報を返す。
だから、良樹は答えた。
緑、と。
次の瞬間、頭の中で主幹ブレーカーが落ちた。
「……しまった」
リシアの足が止まっていた。
クラリスの微笑みが、ほんの少し深くなっていた。
カレンは、耳まで真っ赤になっていた。
「良樹」
リシアの声が低い。
「今、何を聞かれて、何を答えたか分かってる?」
「分かってる」
「分かってるのね」
「分かったのは答えた後だ」
「最低の時差ね」
「返す言葉もねえ」
カレンは俯いたまま、両手をぎゅっと握った。
恥ずかしい。
恥ずかしくて、今すぐ地面に埋まりたい。
けれど。
見ていた。
覚えていた。
良樹さんは、嘘をつかなかった。
今日、選んだ。
迷って、選んだ。
見られたいわけではない。
でも、もし見えてしまうなら、ちゃんとしていたかった。
そして良樹さんは、覚えていた。
カレンは、真っ赤になりながら、ほんの少しだけ勝った気がした。
リシアは思った。
やられた。
おどおどしている。
恥ずかしがっている。
今にも消えそうなくらい赤くなっている。
なのに、ちゃんと良樹に答えさせた。
カレンは弱くない。
少なくとも、この方面では、まったく弱くない。
クラリスは、口元へ手を添えた。
カレンさん。
恐ろしい子です。
などと、清楚な僧侶らしくないことを思った。
止めることはできた。
茶化すこともできた。
けれど、リシアはしなかった。
クラリスもしなかった。
今の一言が、カレンにとってどれほどの勇気だったか。
二人とも、それは分かってしまったからだ。
良樹は額を押さえた。
「……俺は魔導盤のことを考えてたはずなんだが」
「そうね」
リシアが冷たく言った。
「でも、別の何かが勝手に動いたみたいね」
「やめろ。今その例えは刺さる」
「良樹さん」
クラリスが穏やかに言った。
「はい」
「煩悩にも、停止条件は必要ですね」
「本当にそうだな」
良樹は深く息を吐いた。
索敵。
逃走。
停止条件。
出力を安全に変える方法。
赤と青の仮の線。
考えなければならないことは山ほどある。
だが今、最優先で必要なのは、自分の煩悩に対する非常停止かもしれなかった。
それでも。
良樹は、胸の奥に浮かぶ魔導盤を思い出す。
赤い線。
青い線。
リシアの魔法から見えた、まだ動かない仮の回路。
逃げる盤は作った。
戻る盤も作った。
けれど、相手が止まってくれなければ逃げ切れない。
索敵と逃げだけでは、設計として足りない。
攻撃ではない。
敵を殺すための火力ではない。
仲間を逃がすために。
追ってくる足を止めるために。
危ない相手を、こちらへ届く前に制限するために。
止めるための出力がいる。
良樹は、誰にも聞こえないくらい小さく呟いた。
「攻撃じゃねえ」
「止めるための出力だ」
右にはリシアがいた。
少し後ろにはカレンがいた。
そのさらに後ろで、クラリスが全員の歩き方を見ていた。
包囲されている。
そう思った。
逃げ道を塞がれているようで。
けれど、なぜか悪くはなかった。




