表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/13

第6話 治せるから壊れていいわけじゃない

 翌朝。


 簡易宿の食堂は、昨日より少しだけ落ち着いていた。


 いや、宿そのものが落ち着いているわけではない。

 朝から冒険者らしい男たちが硬いパンを齧り、煮込みをすすり、今日の依頼について大声で話している。


 ただ、良樹の感覚が昨日より少しだけ慣れただけだった。


 木の卓。

 粗い椅子。

 獣の革鎧。

 壁に立てかけられた槍。

 腰に剣を下げた女。

 火と酒と煮込みの匂い。


 異世界だ。


 どう見ても異世界だ。


 それでも一晩寝ると、人間は多少慣れるらしい。

 慣れることが良いことかどうかは、まだ分からない。


「カレンさん、足を出してください」


 クラリスが穏やかに言った。


 食堂の隅の席で、カレンは少し慌てたように右足を引いた。


「あ、あの……ここで、ですか」


「はい。歩く前に確認しておきたいので」


「は、はい」


 カレンは少し恥ずかしそうに椅子へ座り直し、右足を差し出した。


 昨日、森で捻った足首だ。


 クラリスは膝をつき、包帯をほどく。

 白い指が、腫れの残りを確かめるように足首へ触れた。


 手つきは柔らかい。

 迷いがない。

 そして、妙に実戦的だった。


 顔色。

 腫れ。

 熱。

 可動域。

 痛みの出方。


 クラリスの指は、それらをひとつずつ確認しているように見えた。


「腫れは引いています。骨にも異常はありません。歩く分には問題ないと思います」


「よかった……」


 カレンがほっと息を吐く。


 クラリスはそこで、少しだけ目を細めた。


「ただし、走るのは控えてくださいね」


「は、はい」


「痛みがあれば、すぐ言ってください」


「はい。痛かったら、言います」


 カレンは素直に頷いた。


 昨日の夜とは、少し違う声だった。


 怖い。

 痛い。

 分からない。


 それを言葉にすることを、少しだけ覚えた声。


 良樹はパンをちぎりながら言った。


「そうしろ。痛いの黙ってると判断ミスる」


「はい」


 カレンはもう一度頷く。


 クラリスは、そんなカレンを見て、柔らかく微笑んだ。


「痛いと言えるのは、大事なことですから」


 カレンは少しだけ、クラリスを見た。


 クラリスさんは、そういうことをちゃんと言える人なのだと、カレンは思った。


 痛いなら、痛いと言っていい。

 怖いなら、怖いと言っていい。


 昨日、良樹に言われたことと、どこか似ていた。


 だから、少しだけ安心した。


   ◇


 朝食を終えた四人は、ギルドへ向かった。


 昨日の灰牙狼の痕跡調査。

 その報告を受けたガレスが、追加で話があると言っていたからだ。


 ギルドの集会所は、朝から騒がしかった。

 依頼板の前に人が集まり、受付では報酬の受け渡しが行われている。


 その奥の卓に、ガレスがいた。


 相変わらず、太い腕を組んでいる。

 顔も声も厳つい。

 だが昨日の荷崩れ以降、良樹を見る目には、少しだけ別の色が混じっていた。


 信用、というほどではない。

 使えるかもしれない、くらいだろう。


 良樹としては、それで十分だった。


「来たか」


「ああ」


 良樹は椅子に座る前に言った。


「昨日の灰牙狼か」


「話が早いな」


「それ以外で呼ばれる理由があんまりない」


 ガレスは低く笑い、卓の上に一枚の粗い地図を広げた。


 町。

 町道。

 東の森。

 昨日、良樹たちが入った浅層。


 そのさらに奥に、ガレスは太い指を置いた。


「昨日の報告を受けて、別の斥候を入れた」


「灰牙狼の群れが近づいていたの?」


 リシアが聞く。


「ああ。ただ、どうも妙だ」


「妙?」


「灰牙狼の縄張りが、浅層側へずれている。普通はそこまで下りてこない」


 良樹は地図を見た。


 群れが動く。

 町道側へ寄る。

 理由がある。


「押し出された?」


 良樹が言うと、ガレスが目を細めた。


「その可能性がある」


「奥に何か入ったのか」


「大型の足跡があった。人型だ」


 カレンの肩が、わずかに固くなった。


 リシアも表情を引き締める。


 クラリスだけは、穏やかな顔のまま地図を見ていた。


「種類は」


 良樹が聞く。


「まだ断定はできん。だが、トロルの可能性がある」


「トロル」


 良樹はその単語を繰り返した。


 もちろん、現代日本にトロルはいない。

 少なくとも良樹の知る工場にはいなかった。


 だが、この世界でその名前がどういう意味を持つかは、ガレスの顔を見れば分かった。


「強いのか」


「相手がトロルなら、小型でもお前らだけでやる相手じゃない」


 ガレスははっきり言った。


「小型でも、か」


「ああ。背丈が人間並みでも、骨と肉が違う。皮が厚い。しぶとい。棍棒を持ってりゃ、まともに受けた奴から潰れる」


「討伐依頼じゃねえんだな」


「違う。確認だ」


 ガレスは地図を叩いた。


「町道側へ出る前に、位置を見たい。灰牙狼が押し出されてるなら、町道に魔物が流れる。商人や採取に出る連中が危ない」


「見つけたら」


「戻れ」


 即答だった。


「相手がトロルなら、戦うな。見つけて戻れ。足跡だけでもいい。臭いでもいい。いると分かれば、別口で討伐を組む」


 良樹は頷いた。


「了解。見つけたら戻る」


「良樹」


 リシアが横から少しだけ心配そうに見た。


「分かってる。討伐じゃない。確認だ」


 良樹はそう返した。


 動かす前に、止め方を考えろ。


 父の声が、胸の奥で響いた気がした。


 今回の停止条件は明確だ。


 トロルを見つけたら戻る。

 戦わない。

 倒す必要はない。


 現場で目的が変わる仕事ほど、ろくなことにならない。


「クラリスさんは後衛でいいんだよな」


 良樹は確認した。


 クラリスは、いつもの柔らかな微笑みで頷く。


「はい。戦っていない時の私は、清楚な僧侶ですから」


 良樹は、一拍遅れて眉を寄せた。


「戦っていない時の、って何だ」


「言葉の綾です」


「今の、流していいやつか?」


 リシアが小さくため息をついた。


「良樹。たぶん、流さない方がいいわ」


「もう遅い気がしてきた」


 クラリスはただ、にこりと微笑んでいた。


   ◇


 東の森へ向かう道は、昨日よりも少しだけ重く感じた。


 カレンは歩けている。

 だが、右足を庇っているのは分かる。


 本人も分かっているのだろう。

 昨日のように前へ出ようとはしない。


 怖いからではない。

 今の自分の足で無理をすれば、戻れなくなると知っているからだ。


 良樹はその歩き方を見て、少しだけ安心した。


 怖さを分ける。

 名前を付ける。

 対策にする。


 昨日の夜、そう言った。


 カレンは、それをちゃんと持っている。


「カレン、足は」


「少し違和感はあります。でも、痛いというほどではありません」


「痛くなったら言え」


「はい」


 その返事に、クラリスが嬉しそうに目を細めた。


「よいことです。痛みを言えるのは、本当に大事ですから」


 森へ入る少し前、クラリスは良樹の背中を見ていた。


 作業用ツナギ。

 安全靴。

 腰袋。

 この世界ではひどく奇妙な格好。


 けれど、昨日の荷崩れで、彼は崩れた荷の下に人がいないかを見た。

 次に崩れるものを見た。

 誰を下げるべきかを見た。


 そして昨日の森では、カレンを抱えて戻った。


 首を揺らさないように。

 痛めた足を枝に当てないように。

 減速で身体が投げ出されないように。


 怪我人を、荷物のように扱わない人だった。


 粗い。

 不器用。

 口もあまり丁寧ではない。


 けれど、危険を軽く見ない。


 好ましい殿方だと、クラリスは思っている。


 だからこそ、できれば見せたくないものもあった。


 祈るためではない杖の使い方。

 癒やすためではない身体の使い方。

 痛みを、痛みとして数えなくなった自分。


 そういうものは、清楚な僧侶の袖の内側に隠しておきたかった。


 リシアは、良樹の最初を知っている。

 川へ撃ち込まれ、半氷漬けになった異邦人を、最初に拾った人。


 カレンは、昨日、良樹の腕の中にいた。

 必要な処置だった。

 それは分かっている。

 分かっているけれど、面白くなかった。


 自分も、見ていただきたいのでしょうね。


 そう思ってから、クラリスは小さく息を吐いた。


 清楚な僧侶としては、あまり褒められた考えではない。


 けれど。


 戦っていない時の自分は、清楚な僧侶なのだ。


   ◇


 森の浅層へ入ると、空気が変わった。


 昨日と同じ森のはずだ。

 だが、湿った土と木の匂いの奥に、別の臭いが混じっている。


 獣臭い。

 だが、狼とは違う。


 良樹は胸の奥の斥候盤へ意識を落とした。


 線は四本。

 前。

 左。

 右。

 後ろ。


 昨日と同じ。

 脚力補助を残すなら、今はこれが限界だ。


 カレンは前に出すぎない位置で周囲を見ている。

 リシアは杖を構え、すぐに魔法を撃てるようにしている。

 クラリスは少し後ろ。


 後衛。


 の、はずだった。


「あの……足跡があります」


 カレンが低い声で言った。


 良樹はそちらへ視線を向ける。


 湿った土に、深い跡が残っていた。


 大きい。

 狼ではない。

 人の足跡に近いが、幅が広く、沈み方が重い。


「狼じゃねえな」


「人型ですね」


 クラリスが静かに言った。


 彼女は足跡の横に膝をつき、土の崩れ方を見た。


「右足を少しかばっています」


「足跡からそこまで分かるのか」


「身体の使い方は、跡に出ますから」


 クラリスは穏やかに続ける。


「どこを庇って、どこに無理を逃がしているのかも、ある程度は分かります」

「ただ、弱っているというより、癖に近いかもしれません。片側に重心を残す歩き方です」


 その時、良樹の胸の奥で、小さな入力が立った。


 チッ。


 前方センサー。


 良樹は顔を上げた。


「反応あり。正面」


 ほとんど同時に、カレンの肩が強張った。


「あの……来ます」


 声が震えていた。


 だが、言葉は具体的だった。


「正面です。大きいです。たぶん、さっきの足跡の……」


 茂みが、低く揺れた。


 枝が折れる。

 重い足音。

 湿った土を踏む音。


 良樹は短く息を吐いた。


「当たりかよ」


 次の瞬間、木々の奥からそれが現れた。


 人型だった。


 背丈は、成人男性ほど。

 だが、人間ではない。


 肩が厚い。

 腕が太い。

 首が短い。

 肌は土を固めたように灰色がかり、ところどころ硬く盛り上がっている。


 右手には、粗く削った棍棒。


 目は濁っていた。

 その目が、四人を順に見た。


 リシア。

 カレン。

 良樹。


 そして、クラリスで止まる。


 白い法衣。

 細い肩。

 柔らかく微笑む顔。

 祈るための錫杖。


 外側だけを、舐めるように見ていた。


 良樹の背筋に、不快なものが走った。


 クラリスは、にこりと微笑んだ。


「そういう見られ方は、間に合っています」


 柔らかい声だった。


「ガワだけを見ていただくのは、慣れていますので」


「今それ言う場面か?」


 良樹が思わず言う。


「大事なことです」


「何がだよ」


「見る方にも、見る場所にも、資格はありますから」


 そう言った時には、クラリスの目から柔らかさが消えていた。


 トロルが唸る。


「下がって! 牽制する!」


 リシアが杖を掲げた。


 火が集まる。

 赤い魔力が、球になる。


火炎球ファイアーボール!」


 火球が飛んだ。


 トロルの胸元で弾ける。

 炎が広がり、焦げた臭いが森に散った。


 トロルの上体が揺れる。


 効いている。


 だが、倒れない。


 リシアはすぐに次を放った。


氷閃槍アイシクルランス!」


 空気中の水気が凍り、鋭い氷の槍になる。

 それがトロルの肩へ突き立った。


 氷が広がる。

 片腕の動きが鈍る。


 それでも、トロルは前へ出た。


「……駄目。通ってるけど、浅い」


 リシアが悔しげに言う。


 良樹は歯を噛んだ。


 効いていないわけではない。

 火は皮を焼いた。

 氷は肩の動きを鈍らせた。


 だが、止まっていない。


 止まらない相手ほど、厄介なものはない。


 ガレスの言葉が、頭をよぎる。


 相手がトロルなら、小型でもお前らだけでやる相手じゃない。


 良樹は胸の奥の斥候盤へ意識を落とした。


 討伐じゃない。

 確認だ。

 戻る。


 カレンの足は本調子じゃない。

 リシアは魔法を撃った直後。

 クラリスは後衛。


 退避方向。

 脚力補助。

 姿勢補助。

 カレンを庇うルート。

 リシアの射線。

 クラリスの位置。


 逃げる準備を――


「カレンさん、下がってください」


 穏やかな声がした。


 良樹は顔を上げた。


 クラリスが、前に出ていた。


 白い法衣。

 木製の錫杖。

 静かな歩き方。


 戦っていない時の、清楚な僧侶。


 そのはずだった。


「良樹さんも、下がってください」


「クラリスさん?」


「ここは、私が止めます」


 良樹は一瞬、言葉を失った。


 止める。


 トロルを。

 僧侶が。


 クラリスは、ほんの少しだけ目を伏せた。


 見られることには、慣れていた。


 白い法衣を。

 清楚な顔を。

 柔らかい声を。

 癒やしの手を。


 ガワだけを見られることには、慣れていた。


 けれど、その奥を見せた後で、向けられる目にも覚えがある。


 あまり、こういうところは。

 好ましい殿方の前で、見せたくはないのですけれど。


 仕方ありませんね。


 諦めることには、慣れていた。


 クラリスは一度だけ、良樹の方を振り向いた。


「良樹さん。もし、できれば」


 少しだけ悲しげに、微笑む。


「私に、幻滅しないでくださいね」


 その笑みは、いつもの清楚なものに似ていた。

 けれど、どこか違った。


 見られたくないものを、これから見せる者の顔だった。


「止めるって、お前――」


「大丈夫です」


 クラリスは、トロルを見たまま微笑んだ。


「少し、護身術を習っていますから」


 その言葉と同時に、トロルが棍棒を振り上げた。


 成人男性ほどの背丈。


 ただし、成人男性ではない。


 肩が厚い。

 腕が太い。

 握られた棍棒は、人間の腕ほどもある。


 まともに受ければ、骨ごと持っていかれる。


「クラリスさん、下がれ!」


 良樹が叫ぶより早く、クラリスは半歩だけ前へ出た。


 しゃらん、と錫杖の輪が鳴る。


 白い杖が、トロルの棍棒の軌道へ滑り込んだ。


 受けた、のではない。


 ずらした。


 棍棒の勢いを横へ逃がし、トロルの手首を打つ。

 続けて、杖先が肘の内側へ入る。

 絡める。

 押す。

 引く。

 崩す。


 祈るための杖ではなかった。


 少なくとも、良樹にはそう見えなかった。


「……は?」


 思わず、声が漏れた。


 クラリスは、トロルの懐に入らない。

 だが、離れもしない。


 棍棒が振られるたび、白い錫杖が音を立てる。


 しゃらん。


 打つ。


 しゃらん。


 払う。


 しゃらん。


 突く。


 清らかな音とは裏腹に、杖の先端は容赦なくトロルの手首、肘、喉元、膝へ置かれていく。


 殺すためではない。


 止めるための動きだった。


 幻滅する余裕などなかった。


 良樹には、ただ分からなかった。


 目の前の清楚な僧侶と、トロルの動きを冷静に崩していく女が、どうして同じ人間なのか。


「クラリスさんって……」


 カレンが呆然と呟いた。


 リシアも言葉を失っている。


 トロルが低く唸った。


 苛立ったように、棍棒を大きく振りかぶる。


 クラリスは一歩下がらない。


 錫杖を斜めに置き、棍棒の根元へ入れる。

 軌道をずらす。

 流す。


 だが、相手は重かった。


 木製の錫杖が、嫌な音を立てた。


 ぱき、と。


 乾いた音だった。


 クラリスの杖が、半ばから折れていた。


 先端の輪が、遅れてしゃらりと鳴る。


「やはり、僧侶用の杖では駄目ですね」


 クラリスは、困ったように微笑んだ。


 良樹の頭が、一気に切り替わる。


 武器破損。

 相手はトロル。

 距離が近い。

 クラリスは僧侶。


 なら、下げる。


 強いかどうかではない。

 怪我をさせていい理由にはならない。


 俺が牽制。

 リシアに射線。

 カレンは足が本調子じゃない。


 なら――。


 良樹が一歩踏み出そうとした、その前で。


 クラリスは折れた錫杖を、静かに地面へ置いた。


 そして、半歩だけ足を引く。


 法衣の裾が、ふわりと揺れた。


 白い指が軽く開かれる。

 胸の前に置かれる。

 膝が沈む。

 肩から力が抜ける。


 祈りの姿勢ではなかった。


 どう見ても、殴る側の構えだった。


「……はぁ!?」


 良樹の声が、森に響いた。


 クラリスは答えない。


 目だけが冷えていた。


 トロルが棍棒を横へ振る。


 クラリスは後ろへ飛ばなかった。

 その場で身を沈め、棍棒の軌道の下を抜ける。


 白い法衣の裾が遅れて揺れた。


「シッ」


 低い蹴りが、トロルの膝を打つ。


 トロルの足がわずかに流れる。


 だが、倒れない。


 トロルが吠え、今度は棍棒を振り下ろした。


 地面が鳴る。


 クラリスは、その音の内側へ入った。


 短い打撃。

 掌底。

 肘。

 膝。


 どれも派手ではない。


 だが、入るたびにトロルの身体がわずかに揺れる。


 同時に、クラリスの身体にも衝撃が返っているはずだった。


 拳に。

 手首に。

 膝に。

 足裏に。


 それなのに、クラリスは顔色を変えない。


 痛みを我慢している、というより。


 最初から数に入れていないように見えた。


 それでも、トロルは止まらない。


 皮が厚い。

 筋肉が硬い。

 痛みに鈍い。


 リシアの火炎球も、氷閃槍も通った。

 クラリスの打撃も入っている。


 それでも、前へ出てくる。


「まだ立つのかよ……!」


 良樹が呻いた。


 トロルが再び棍棒を振りかぶる。


 大振り。

 力任せ。


 だが、速い。


 クラリスは逃げなかった。


 棍棒が振り下ろされる直前、彼女は一歩だけ内側へ入った。


 距離が消える。


 棍棒の先ではない。

 腕の根元。

 振り切る前の空白。


「シッ」


 右脚が跳ねた。


 法衣の裾が舞う。

 白い脚が、信じられないほど高く上がる。


 トロルの顎が跳ねた。


 良樹の視線が、一瞬だけ止まった。


 クラリスは、それに気づいた。


 気づいたまま、表情を崩さなかった。


 トロルの身体が揺れる。


 だが、まだ倒れない。


 クラリスの目が、さらに冷えた。


 一歩。


 彼女は踏み込んだ。


 この一撃を入れれば止まる。


 その代わり、拳には返る。


 クラリスは、それを分かっている顔をしていた。

 分かっていて、迷わなかった。


 拳を大きく引かない。

 振りかぶらない。


 ただ、トロルの胴へ拳を置く。


「フッ」


 短く、低い息だった。


 足。

 膝。

 腰。

 背中。

 肩。

 拳。


 全部が、一点へ乗る。


 派手な音はなかった。


 ただ、重いものが内側へ押し込まれるような、鈍い音がした。


 トロルの息が詰まった。


 一拍遅れて、巨体が折れる。


 膝が落ちる。

 棍棒が手から離れる。

 地面へ転がる。


 どさり、とトロルが崩れた。


 それでも、クラリスは構えを解かなかった。


 拳を引いたまま。

 片足を半歩引いたまま。

 肩の力を抜き、視線だけをトロルへ置いている。


 動くか。

 まだ立つか。

 腕が跳ねるか。

 棍棒へ手を伸ばすか。


 見る。


 しばらく、見る。


 やがて、トロルが完全に動かないと分かると、クラリスはようやく息を吐いた。


 すっと膝が伸びる。

 開いていた指が、祈る時のように揃う。


 冷えていた目に、いつもの柔らかさが戻っていく。


「……終わりました」


 声は、いつものクラリスだった。


 トロルが倒れた。


 だが、良樹の視線はそこに止まらなかった。


 白い指の付け根から、赤いものが落ちた。


 ぽたり。


 土の上に、小さな赤が広がる。


「……手」


 良樹の声が、低くなった。


 クラリスは、自分の拳を見下ろした。


「ああ」


 まるで、今気づいたと言わんばかりの声だった。


「平気です」


 いつもの柔らかい声。


「治せば済みますから」


 あまりにも自然な声だった。


 濡れた袖を乾かせば済むと言うような。

 服についた土を払えば済むと言うような。


 自分の拳を壊したことを、そういうものとして扱っている声だった。


 良樹の眉が、わずかに動いた。


 何かを言いかける。


 だが、森の奥で枝が鳴った。


 良樹は顔を上げた。


 ここはまだ安全圏ではない。

 トロルが倒れた。

 それだけだ。


 ほかに魔物がいないとは限らない。

 灰牙狼が近くにいる可能性も消えていない。

 カレンの足も本調子ではない。


 今ここで怒鳴るな。

 ここはまだ森だ。

 安全圏ではない。


 良樹は、喉元まで上がった言葉を一度飲み込んだ。


 説教より先に、撤収だった。


「……戻るぞ」


「良樹さん?」


「その手は後で見る」


「大丈夫ですよ。治せば済みます」


「後で見るっつった」


 良樹は短く言い、胸の奥の斥候盤へ意識を落とした。


 線を張る。

 前。

 左。

 右。

 後ろ。


 反応は薄い。


 だが、断定はしない。


「リシア、後方警戒」

「カレン、足に無理するな。俺の後ろ」

「クラリスさんは……」


 良樹は一瞬、クラリスの手を見た。


「後ろだ」


 クラリスは少しだけ目を丸くした。


 それから、いつものように微笑む。


「はい」


 良樹はその返事に、わずかに引っかかるものを覚えた。


 だが、今は飲み込んだ。


 全員を連れて戻る。


 まずは、それだった。


   ◇


 ギルドに戻ると、ガレスは報告を聞いて顔をしかめた。


「トロルで間違いないな」


「ああ」


 良樹は頷いた。


「背丈は人間くらいだった。だが、硬い。しぶとい。リシアの火と氷でも止まりきらなかった」


「火炎球と氷閃槍は当たったわ」


 リシアが悔しそうに言う。


「当たったし、通ってた。でも浅かった」


「なら、やはり討伐班を組む相手だな」


 ガレスは腕を組み、次にクラリスを見た。


「で」


 低い声だった。


「止めたのは、クラリスか」


 クラリスは穏やかに頷いた。


「はい」


「杖は」


「折れました」


「拳は」


「少しだけです」


「少しだけ、ねえ」


 ガレスのこめかみが、ぴくりと動いた。


 良樹は、その反応を見逃さなかった。


「また、なのか」


 良樹が言うと、ガレスは面倒そうに頭をかいた。


「……最近は大人しかったのに、またやりやがったのか」


「また?」


「ああ」


 ガレスはクラリスを睨むように見た。


「昔からだ。治せるからって、怪我を勘定に入れねえ」


 クラリスは、少しだけ視線を伏せた。


 それは反省しているようにも見えた。

 慣れているようにも見えた。


「最近は、大人しくしていたのですけれど」


「その言い方がもう怪しいんだよ」


 ガレスはため息をついた。


「まあ、トロルの確認はできた。討伐班はこちらで組む」

「お前らは今日はもう休め」

「特にクラリス」


「はい」


 クラリスは素直に頷いた。


 良樹は、その横顔を見た。


 平気そうだった。


 いつものように。

 何も問題がないように。


 それが、良樹には妙に引っかかった。


   ◇


 その夜。


 宿の廊下は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。


 下の食堂からは、まだ冒険者たちの笑い声が聞こえている。

 酒の匂い。

 煮込みの匂い。

 木の床を踏む音。


 だが二階まで上がると、それらは少し遠くなる。


 良樹は、クラリスの部屋の前で足を止めた。


 右手を上げる。

 扉を叩こうとして、一度止まる。


 森で見た血が、頭に残っていた。


 白い指の付け根から、土の上へ落ちた赤。

 それを見て、本人は「ああ」と言った。


 今気づいたような声で。


 平気です。

 治せば済みますから。


 あの声が、良樹には引っかかっていた。


 怪我をしたことより。

 血が出たことより。


 その扱い方が、まずかった。


 良樹は短く息を吐き、扉を叩いた。


「クラリスさん」


 少し間があった。


「はい」


 中から、穏やかな声が返る。


「良樹だ。少しいいか」


「はい。どうぞ」


 扉を開けると、クラリスは椅子に座っていた。


 白い法衣は着替えている。

 髪も整っている。

 いつものように清楚で、穏やかだった。


 机の上には、折れた錫杖の一部が置かれている。

 半ばから折れた木。

 輪のついた先端。

 祈るための道具だったはずのもの。


 クラリスは良樹を見ると、柔らかく微笑んだ。


「どうされましたか」


 良樹は扉を閉めた。


「手、見せろ」


 クラリスは、少しだけ瞬きをした。


「もう治しましたよ」


「見せろ」


 短い声だった。


 クラリスは、良樹の顔を見た。


 怒っている。

 そう分かった。


 でも、その怒りがどこに向いているのか、まだ分からなかった。


 クラリスは静かに右手を差し出した。


 白い手だった。


 森で血が落ちた指の付け根には、傷ひとつ残っていない。

 腫れもない。

 裂けた皮膚もない。

 骨に異常があるようにも見えない。


 綺麗に治っている。


 だから、普通なら安心するところだった。


 良樹は安心しなかった。


 指を見る。

 拳を見る。

 手首を見る。

 皮膚を見る。

 治ったはずの場所を見る。


 治っている。


 だからこそ、余計に腹が立った。


「痛みは」


「ありません」


「今は、だろ」


「はい。今は、ありません」


「殴った時は」


「少しだけです」


「少しだけ、ねえ」


 良樹の声が低くなった。


 クラリスは、困ったように微笑んだ。


「良樹さん。そんなに怖い顔をしなくても、大丈夫です」

「もう治しましたから」


 その言葉で、良樹の中の何かが、はっきり音を立てた。


 カチリ、と。


 接点が入るように。


「治したから大丈夫じゃねえ」


 クラリスの笑みが、わずかに止まった。


「……はい?」


「治したから大丈夫じゃねえって言ってんだ」


 良樹は、クラリスの手を見たまま言った。


「痛みってのは、身体からの警報なんだよ」


 クラリスは、黙っていた。


「そこに負荷が入ってる」

「これ以上使うな」

「壊れる前に止まれ」

「身体がそう知らせてんだ」


 良樹の声は荒くない。

 だが、硬かった。


「警報を消して終わりにするな」

「鳴った理由を見ろ」


 クラリスは、差し出した右手を少しだけ引こうとした。


 良樹は離さなかった。


 強く握っているわけではない。

 逃がさないためではない。


 ただ、その手から目を逸らさないために、そこに置いていた。


「治せることと、壊していいことは別だ」


 クラリスの目が、少しだけ揺れた。


 良樹には、それが安全回路を治癒で無理やり短絡しているように見えた。


 異常信号が出た。

 だからリセットした。

 履歴は消えた。

 だから運転継続。


 そんなものは、復旧ではない。

 原因を見ない再起動だ。


 だが、そんな言葉をクラリスへ投げても意味がない。


 良樹は、自分の言葉へ直した。


「痛いってことは、そこで無理が起きたってことだ」

「血が出たってことは、そこが壊れたってことだ」

「治したからって、その事実が消えるわけじゃねえ」


「ですが」


 クラリスは、静かに言った。


「治りました」


「だから何だ」


 良樹は即答した。


 クラリスは少しだけ口を閉じた。


「良樹さん」


「何だ」


「私は僧侶です」

「怪我を治すのが役目です」


「それは知ってる」


「それに、私は戦えます」

「今日のように、誰かが危ない時に前へ出ることもできます」


「ああ」


「なら、私が少し傷つくことで、誰かが助かるなら――」


 その瞬間。


 良樹の手が動いた。


 考えるより先だった。


 クラリスの法衣の胸元を掴んでいた。


 白い布が、ぐしゃりと歪む。


 クラリスの目が、わずかに見開かれた。


 挿絵(By みてみん)


 良樹の顔は近かった。


 怒っていた。


 本気で。


「その言い方をやめろ」


 低い声だった。


「少し傷つく?」

「誰かが助かるなら?」

「お前、自分が何言ってるか分かってんのか」


 クラリスは、息を止めた。


「お前は今日、トロルを止めた」

「それは助かった」

「俺も、リシアも、カレンも助かった」


 良樹はそこで、一度だけ息を吸った。


「でもな」

「だからって、お前が壊れていい理由にはならねえんだよ」


 クラリスの喉が、小さく動いた。


「私は、壊れてなど――」


「壊してただろ」


 良樹は遮った。


「あの最後の打撃」

「拳に返るって分かってただろ」

「分かってて入れただろ」


 クラリスは黙った。


「その前もだ」

「掌底も、肘も、膝も、蹴りも」

「入るたびに、お前の身体にも返ってたはずだ」

「なのに顔色ひとつ変えなかった」


 良樹の声が、少しだけ荒くなる。


「痛くなかったんじゃねえ」

「痛みを数に入れてねえだけだろ」


 クラリスの目が揺れた。


 それは、図星を突かれた顔だった。


「治せば済む?」

「慣れてるから問題ない?」

「違うだろ」


 良樹は、掴んだ布越しにクラリスを見ていた。


「お前は自分を治してるんじゃない」

「自分を使い潰す許可証に、回復魔法を使ってるだけだ」


 部屋の空気が止まった。


 クラリスは、何も言わなかった。


 良樹も、すぐには言葉を継がなかった。


 白い法衣。

 細い肩。

 柔らかい声。

 清楚な僧侶。


 そして、トロルの棍棒をずらした杖。

 折れた錫杖を置いた指。

 拳を血で濡らしても平気だと言った声。


 全部が、良樹の中で繋がっていた。


「お前を使い潰すな」


 良樹は言った。


「助けた相手に、お前が壊れるところまで背負わせるな」


 クラリスの唇が、わずかに震えた。


「……幻滅、されましたか」


 小さな声だった。


 森で前に出る前と、同じ声だった。


 良樹は眉を寄せた。


「幻滅じゃねえ」


「……怖かったから、ですか」


「違う」


 良樹は即答した。


「お前が怖かったんじゃねえ」

「お前が、自分を壊すことに慣れすぎてるのが怖かったんだよ」


 クラリスは、良樹を見た。


 清楚な僧侶として見られることには慣れていた。


 白い法衣を。

 柔らかい微笑みを。

 癒やしの手を。

 外側だけを見られることには慣れていた。


 そして、その奥を見せた時。

 祈るためではない杖の使い方。

 癒やすためではない身体の使い方。

 痛みを数えずに前へ出る自分。


 それを見せた後で、向けられる目にも覚えがあった。


 引かれる。

 怖がられる。

 便利に使われる。

 遠ざけられる。


 どれも、初めてではなかった。


 だから、諦めることにも慣れていた。


 けれど。


 良樹の目は、そのどれでもなかった。


 怖がっているのではない。

 強さに感心しているのでもない。

 便利だと見ているのでもない。


 怒っていた。


 クラリスが壊れたことに。


 クラリス自身よりも、ずっと強く。


「あの」


 クラリスが、小さく言った。


「良樹さん」


「何だ」


「手が」


「手?」


「その……」


 クラリスの視線が、そっと下がった。


 良樹も釣られて、自分の手元を見た。


 自分の右手が、クラリスの法衣の胸元を掴んでいる。


 しかも、かなり強く。


 布が寄っている。

 襟元が少し開いている。

 白い首筋と、胸元の影が見えている。


 完全に、まずい。


 良樹の脳内で、異常ランプが一斉に点いた。


「うおっ!?」


 良樹は弾かれたように手を離した。


「悪い!」

「いや、今のは本当に悪い!」

「すまん!」


 良樹は全力で頭を下げた。


 クラリスは、乱れた胸元を片手で押さえた。


 頬が少し赤い。


 だが、怒っている顔ではなかった。


「……見ましたか」


 静かな声だった。


 良樹は固まった。


 ここで嘘をつくべきか。

 いや、嘘は駄目だ。

 見たものは見た。

 不可抗力だろうが、見たことは事実だ。


 良樹は、ものすごく嫌な汗をかきながら言った。


「見た。悪い」


「そうですか」


 クラリスは、少しだけ目を伏せた。


「どう、でしたか」


「……」


 良樹は天井を見た。


 答えるな。

 これは答えるな。

 どう考えても罠だ。

 罠というか、事故後の二次災害だ。


 だが、黙るのも違う。

 嘘も違う。


 良樹は、腹を括った。


「綺麗だった」


 言った瞬間、自分を殴りたくなった。


「違う」

「いや、違わねえけど、今見るべきはそこじゃねえ」


 クラリスは、ぽかんとした。


 それから、ほんの少しだけ笑った。


 清楚な笑みだった。

 けれど、どこか年頃の女性らしい、柔らかい恥じらいが混じっていた。


「違わないのですね」


「今そこ拾うな」


「大事なことです」


「大事だけど、今じゃねえ」


 良樹は自分の顔を片手で覆った。


 それから、もう一度クラリスを見た。


「俺が一番見たのは、そこじゃねえ」


「……え?」


「お前が何をできるかでもない」

「どれだけ強いかでもない」

「清楚かどうかでもない」


 良樹は、クラリスの右手を見た。


「その手だ」

「お前が平気な顔で壊した手だ」


 クラリスの表情が止まった。


「綺麗だとか、そういうのも見えた」

「悪い。見えたのは事実だ」

「でも、俺が放っておけなかったのはそこじゃない」


 良樹は言った。


「お前が、自分の壊れたところを見てなかったことだ」


 クラリスは、治ったはずの右手を見た。


 傷はない。

 血もない。

 痛みもない。


 けれど、良樹の言葉を聞くと、森で落ちた赤が、もう一度そこに戻ってくるような気がした。


「私は……」


 クラリスは、ゆっくりと言った。


「痛みには、慣れています」


「慣れるな」


「ですが、慣れていないと、前へ出られません」


「慣れる場所を間違えるな」


 良樹は即答した。


「怖さに慣れるのは分かる」

「痛みがある中で動くことも、必要な時はあるんだろう」

「でも、痛みを無視するのに慣れるな」

「壊れることを、作業の一部みたいに扱うな」


 クラリスは何も言えなかった。


 良樹は続ける。


「俺は、クラリスさんが戦えることに怒ってるんじゃない」

「強いことにも怒ってない」

「助けてくれたことには感謝してる」


「では」


「怪我をしてるのに、治せば済むって平然と言ったことに怒ってる」


 クラリスの胸の奥が、きゅっと締まった。


「……そんなに、おかしいことでしょうか」


「おかしい」


 良樹は迷わなかった。


「自分の身体を、自分じゃないみたいに扱うな」

「治せるからって、壊れた事実をなかったことにするな」

「お前は道具じゃねえだろ」


 クラリスは、息を止めた。


 道具ではない。


 そう言われたことが、胸の奥でゆっくり響いた。


 便利な僧侶。

 治せる人。

 止められる人。

 いざとなれば前に出られる人。

 壊れても治せる人。


 そういう役割なら、いくつもあった。


 だが。


 道具ではない、と怒られたことは。


 あまり、覚えがなかった。


「……良樹さん」


「何だ」


「私は、良樹さんのことを好ましく思っています」


 良樹は固まった。


「……今、それ言う場面か?」


「はい」


 クラリスは、静かに微笑んだ。


 まだ頬は少し赤い。

 胸元も片手で押さえたままだ。

 叱られた直後で、心も揺れている。


 それでも、言葉はまっすぐだった。


「大事なことです」


「何がだよ」


「私は、私を見て幻滅しなかった方を、好ましく思っています」

「そして、私が役に立ったことではなく、私が壊れたことを見て怒ってくださった方を」

「好ましく思わない理由が、ありません」


 良樹は言葉に詰まった。


「……それは、俺が怒鳴ったからか」


「いいえ」


 クラリスは首を振った。


「私を見てくださったからです」


「……見た?」


「はい」


 クラリスは、治ったはずの右手をそっと握った。


「清楚な僧侶の私も」

「好ましい殿方に見せたくなかった私も」

「痛みを、痛みとして数えなくなっていた私も」


 少しだけ、声が震えた。


「その全部を見て」


 クラリスは、良樹を見上げた。


「私を、私のまま怒ってくださったからです」


 良樹は、何も言えなかった。


 怒るつもりで来た。

 説教するつもりで来た。

 胸倉まで掴んでしまった。

 見てはいけないものまで見てしまった。


 なのに。


 クラリスは、そんな良樹に向かって、好ましいと言った。


 処理が追いつかない。


 魔導盤どころではない。

 ブレーカーどころでもない。

 主幹から煙が出そうだった。


「……俺は、別に大したことはしてねえ」


 やっと出た言葉は、それだった。


 クラリスは、ゆっくり首を振った。


「大したことです」


「怒鳴っただけだ」


「怒ってくださいました」


「胸倉掴んだ」


「はい」


「それは本当に悪かった」


「はい。驚きました」


「すまん」


「ですが」


 クラリスは、少しだけ微笑んだ。


「怒られたことの方が、驚きました」


 良樹は、苦い顔をした。


「普通は怒るだろ」


「そうでしょうか」


「そうだろ」


「では、私はあまり普通に怒られてこなかったのかもしれませんね」


 その言い方が、妙に軽かった。


 軽いからこそ、重かった。


 良樹は眉を寄せた。


「クラリスさん」


「はい」


「これからは、痛かったら言え」


 クラリスは瞬きをした。


「私が、ですか」


「そうだよ」


「私は、治せますよ」


「関係ねえ」


 良樹は即答した。


「治せるやつほど言え」

「治せるから黙るな」

「自分で治せるからって、怪我した事実を隠すな」


 クラリスは、少しだけ困ったように笑った。


「良樹さんは、厳しいですね」


「厳しくしてるつもりはねえ」


「では?」


「普通の話をしてる」


 良樹は、クラリスの右手をもう一度見た。


「痛いなら痛いって言え」

「怖いなら怖いって言え」

「壊れそうなら、壊れそうって言え」

「助ける側だからって、壊れていいわけじゃねえ」


 クラリスは、しばらく黙っていた。


 その沈黙は、拒絶ではなかった。


 ただ、自分の中にない言葉を、どう受け取ればいいのか分からない沈黙だった。


 やがて、クラリスは小さく頷いた。


「……努力します」


「努力じゃなくて約束しろ」


「厳しいですね」


「そこは厳しくする」


 クラリスは、少しだけ笑った。


「分かりました」


 そして、良樹の目を見た。


「約束します」

「痛い時は、痛いと言います」

「怖い時は、怖いと言います」

「壊れそうな時は……」


 そこで、少しだけ言葉が止まる。


 クラリスは、治ったはずの右手を握った。


「壊れそうな時は、止まります」


「違う」


「違うのですか?」


「止まれない時は、俺たちに言え」


 クラリスの目が、また揺れた。


「……私が?」


「ああ」


「止めてほしいと?」


「そうだ」


 良樹は当然のように言った。


「自分で止まれない時のために、周りがいるんだろ」


 クラリスは、何も言わなかった。


 その言葉が、胸の奥へ深く沈んでいく。


 自分で止まれない時のために、周りがいる。


 そんなふうに考えたことはなかった。


 誰かを助けるために、自分が前へ出る。

 誰かが傷ついたら、自分が治す。

 誰かが止められないなら、自分が止める。


 それは、できる。


 ずっとやってきた。


 だが、自分が止まれない時に、誰かへ止めてほしいと言うことは。


 ひどく、難しい。


 難しいのに。


 少しだけ、胸が温かかった。


「良樹さん」


「何だ」


「やはり、私はあなたを好ましく思っています」


「二回目だぞ」


「はい。確認です」


「何の」


「私の気持ちの」


「俺の処理が追いつかねえんだよ」


 クラリスは、くすりと笑った。


「では、今日はここまでにしておきます」


「そうしてくれ」


「ただし」


「ただし?」


「幻滅されていないのなら、私は少し安心しました」


 良樹は、少しだけ目を伏せた。


「幻滅はしてねえ」


「はい」


「ただ、怒ってる」


「はい」


「まだ怒ってるからな」


「分かっています」


 クラリスは穏やかに頷いた。


「でも、嬉しいです」


「怒られて嬉しがるな」


「怒られたから嬉しいのではありません」


 クラリスは言った。


「壊れるなと、言っていただけたからです」


 その言葉に、良樹は返せなかった。


 怒りが少しだけ、行き場を失った。


 代わりに、妙な痛みが胸に残る。


「……今日は休め」


「はい」


「手は使うな」


「もう治っていますよ」


「使うな」


「はい」


「本当に使うなよ」


「はい」


「念のため明日の朝も見せろ」


「はい」


 クラリスは素直に頷いた。


 良樹は扉へ向かった。


 手をかける前に、一度振り向く。


「クラリスさん」


「はい」


「助かった」


 クラリスは、少しだけ目を見開いた。


「でも、壊れるな」


 それだけ言って、良樹は部屋を出た。


 扉が静かに閉まる。


 廊下の音が遠ざかる。


 クラリスは、しばらくその扉を見ていた。


 胸元を押さえていた手を、ゆっくり離す。

 乱れた法衣を整える。


 それから、右手を見た。


 傷はない。

 血もない。

 痛みもない。


 けれど、そこには確かに、今日壊した事実があった。


 今までなら、治した時点で終わっていた。

 終わったことにしていた。


 けれど、良樹は終わらせなかった。


 誰かが助かったことではなく。


 トロルを止めたことでもなく。


 傷が治ったことでもなく。


 良樹は、クラリスを見ていた。


 清楚な僧侶としての自分も。

 好ましい殿方に見せたくなかった自分も。

 治せるからと、自分を壊すことに慣れてしまった自分も。


 その全部を見て。


 私を、私のまま怒ってくれた。


 クラリスは、そっと右手を胸元へ当てた。


 そこに痛みはない。


 だが、痛みとは違うものがあった。


 温かくて。

 少し苦しくて。

 自分でもまだ、名前をつけきれないもの。


「……良樹さん」


 小さく、名前を呼ぶ。


 呼んだだけで、胸の奥が静かに揺れた。


 好ましい殿方。


 そう思っていた。


 今も、そう思っている。


 けれど、それだけでは足りなくなりそうだった。


 こんなにも本気で、壊れるなと言われたのは、初めてだった。


 クラリスは、もう一度右手を見た。


 明日の朝、良樹はまたこの手を見ると言った。


 傷のない手を。

 治った手を。

 それでも、壊れた事実を忘れない手を。


 そのことが、なぜか少しだけ嬉しかった。


 クラリスは静かに目を閉じた。


 誰かが助かったからではなく。

 役に立ったからでもなく。

 治せたからでもなく。


 自分が壊れたことを、見てくれた人がいる。


 その人に、壊れるなと怒られた。


 なら。


 次に痛い時は。


 痛いと、言ってみようと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ