第5話 怖がり剣士と、戻るための斥候盤(挿絵有)
翌朝。
良樹は、簡易宿の狭い部屋で目を覚ました。
天井は低い。
壁は薄い。
階下からは、朝食の支度をする音が聞こえてくる。
現代日本のビジネスホテルとは比べものにならない。
だが、屋根がある。
壁がある。
寝る場所がある。
昨日の森と川と荷崩れを思えば、それだけで十分ありがたかった。
「……生きてるな」
良樹は小さく呟き、ベッドから身体を起こした。
全身が重い。
筋肉痛もある。
だが、折れてはいない。
動く。
次に、腰袋を確認した。
ドライバー。
ニッパー。
圧着ペンチ。
ラジオペンチ。
小型モンキー。
テスター。
ビット。
端子。
絶縁テープ。
ある。
全部ある。
良樹は、それを確認してから、ようやく息を吐いた。
「神か」
昨日と同じ言葉が出た。
いや、正確には昨日より重い。
工具があるということの意味が、昨日より分かってきたからだ。
胸の奥に意識を向ける。
そこに、盤があった。
この世界にきて初めて魔物から逃げた時は、もっと曖昧だった。
線がある。
接点がある。
コイルがある。
そんな感覚だけだった。
だが今は違う。
盤面が分かる。
線が分かる。
入力が分かる。
空きスペースが分かる。
詰まり具合が分かる。
もちろん、数値表示があるわけではない。
何ワットとか、何アンペアとか、そんな親切なものはない。
ただ、入るか。
詰まってきたか。
このまま足すと危ないか。
そういう現場感覚に近かった。
何度も触った制御盤の癖が、手に馴染んでくる感覚。
あの盤は端子台が狭い。
あの盤はダクトの余裕がない。
あの盤は増設するなら右下から逃がした方がいい。
そういう、図面だけでは分からない癖。
「……昨日より、見えるな」
良樹は自分の胸に手を当てた。
その瞬間、胸の奥から薄い箱のようなものが浮かび上がった。
「……おい」
思わず声が出た。
完全な実体ではない。
金属でもない。
だが、箱に見える。
端子台のようなものがある。
魔力線のようなものが走っている。
接点のようなものがある。
小さな入力ランプのような微光がある。
そして、空きスペースがある。
良樹には、それが盤にしか見えなかった。
扉が叩かれたのは、その時だった。
「良樹、起きてる?」
リシアの声だった。
「ああ。入っていいぞ」
扉が開き、リシアが顔を出した。
そして、すぐに足を止める。
彼女の青い瞳が、良樹の胸の前に浮かぶ薄い箱を見た。
「……それが、良樹の魔導盤?」
「たぶん、そうだ」
良樹は半透明の箱を見ながら答えた。
リシアは慎重に近づいた。
だが、手は出さない。
「魔法陣でも、術式でもないわね」
「俺には盤にしか見えねえ」
「盤……」
リシアは眉を寄せた。
「昨日までは、そんなにはっきり見えていなかったの?」
「ああ」
良樹は頷く。
「昨日、荷崩れの現場で無理やり使ったからだろうな」
「使ったから、分かるようになったの?」
「たぶんな」
良樹は薄い盤の端を見た。
「新しい機械も、触るまでは分からねえ。何度も動かして、止めて、異常出して、ようやく癖が見えてくる」
「魔法を機械扱いするの、本当に良樹らしいわね」
「俺にはそう見えるんだから仕方ねえだろ」
良樹はドライバーを手に取った。
昨日から、なんとなく分かっていた。
意識だけでも触れる。
線を引くことも、接点を置くことも、できないわけではない。
だが、不安定だった。
線が逃げる。
接点が滲む。
切る位置が決まらない。
繋ぐ感覚が曖昧になる。
良樹は、ドライバーの先を薄い盤の一点に近づけた。
すると、接点が安定した。
「……やっぱりな」
「何が?」
「これ、俺の工具じゃねえと駄目だ」
良樹はニッパーを握る。
線が見える。
切るべき場所が、少しだけはっきりする。
圧着ペンチを握る。
繋ぐ感覚が安定する。
「道具に、魔力が宿っているの?」
「分からん。けど、こいつらを通すと、盤が触れる」
良樹は腰袋を軽く叩いた。
「道具ってのは、使い慣れた手の延長だからな」
その言葉と同時に、父の声が胸の奥で蘇った。
上手くいかねえ時に道具のせいにする奴は、ド三流もいいところだ。
道具はな、ちゃんと使えば必ず使う人間に応えてくれる。
良樹は、少しだけ口元を歪めた。
「親父が言ってた」
「お父様が?」
「上手くいかねえ時に道具のせいにする奴は、ド三流もいいところだ、ってな」
「厳しい方ね」
「厳しいっつうか、口が悪い」
良樹はドライバーを回すように動かした。
「あと、道具はちゃんと使えば必ず使う人間に応えてくれる、とも言ってた」
接点が、かすかに光る。
良樹は息を整えた。
「よし。組むぞ」
「何を?」
「斥候盤だ」
◇
朝食後、良樹はリシア、カレン、クラリスの三人に斥候盤を見せた。
場所は宿の裏手だった。
人目が少なく、少しだけ開けている。
カレンは、良樹の胸の前に浮かぶ薄い箱を不思議そうに見ていた。
「せっこうばん……?」
「ああ」
良樹は頷く。
「前に出て、危険を拾って、戻るための盤だ」
カレンが瞬きをする。
「敵を倒す盤では、ないんですか」
「違う」
良樹は即答した。
「敵を倒す盤じゃねえ。見つけて、戻るための盤だ」
クラリスが穏やかに微笑んだ。
「戻ることを重視されるのですね」
「斥候が戻ってこなかったら、情報が戻らねえだろ」
良樹は盤の空きスペースを見た。
「全部は入らねえ」
リシアが腕を組む。
「昨日の荷崩れの時は、線を八本張っていたわよね」
「あれは探索寄りに振ったからだ」
良樹は盤を指した。
「今回は脚も残す。前に出るし、戻る必要もある。腰のモーター、減速補助、姿勢補助、安全回路、停止系。そっちを積むと、索敵は削れる」
「どのくらい?」
「今の斥候盤だと、腰の魔導モーターと、その制御を並行で残したままなら、センサーは四本までだな」
「四本……」
カレンが小さく呟く。
「前、左、右、後ろ。最低限だ」
「八本から四本へ減るのね」
リシアが言う。
「ああ。今の携行盤じゃ、それが限界だ」
良樹は隠さなかった。
「能力が育てば、携行盤のサイズも少しずつ大きくなる気はする。昨日より盤の輪郭も見える。だから、いつかは脚と索敵をもっと両立できるかもしれねえ」
カレンが少しだけ目を上げる。
「いつかは、ですか」
「ああ」
良樹は頷く。
「でも、いつかできる、は設計条件じゃねえ」
「今できることだけで、生きて戻る方法を組む」
カレンは、その言葉を黙って受け止めた。
良樹はさらに説明を続けた。
「索敵を厚くすると脚が弱い」
「モーター出力を強くするとセンサーが薄い」
「安全回路を削れば入りそうだが、それはやらねえ」
カレンが顔を上げる。
「安全を削れば、強くなるんですか?」
「短い時間だけならな」
「……削るんですか?」
「削らねえよ」
良樹は、そこだけは即答した。
「戻れない斥候盤なんか、ただの片道切符だ」
カレンは、小さく息を飲んだ。
クラリスは、その横顔を見ていた。
良樹はさらに盤へ工具を当てる。
「あと、人を抱えて走る条件を入れる」
リシアがぴくりと反応した。
「人を抱えて?」
「ああ」
良樹はリシアを見た。
「私を抱えて逃げられないんですか、だろ」
リシアの顔が一瞬固まった。
「……言い方」
「お前が言ったんだろ」
「そうだけど」
リシアは少し頬を赤くした。
良樹は気にせず続ける。
「人を抱えて走るなら、出力を上げりゃいいってもんじゃねえ」
「首、腰、膝、全部持っていかれる」
「加速より減速。最高速より姿勢。そっちを優先した」
クラリスの目が、少しだけ細くなった。
怪我人の身体負荷。
首。
腰。
膝。
減速。
姿勢。
僧侶として、回復役として、聞き流せない言葉だった。
「良樹さんは、そういうところを見るのですね」
「見るだろ」
良樹は不思議そうに返した。
「怪我人を荷物扱いしたら、余計壊す」
クラリスは、柔らかく微笑んだ。
「はい。とても大事なことです」
その微笑みの奥で、彼女は良樹をもう一度見直していた。
初対面の時から、好ましい殿方だとは思っていた。
粗いけれど、誠実そうで。
危険を軽く見ない人で。
謝るべきところで謝れる人で。
そして昨日の荷崩れの時、良樹は派手に何かを見せようとはしなかった。
崩れた荷の下に人がいるか。
次に崩れるものはないか。
誰を下げるべきか。
どこを確認しなければならないか。
やるべきことを、やるべき順に見ていた。
その結果として、周囲の目が変わった。
ガレスの目も変わった。
怪しい異邦人。
よく分からない魔法の使い手。
それだけではなくなった。
必要な時に、必要なことを選べる人。
クラリスは、その変化を見ていた。
そして今、良樹は怪我人を運ぶ時の首や腰や膝を見ている。
やはり、好ましい方です。
クラリスはそう思い、胸の奥に小さな温度が灯るのを自覚していた。
◇
ギルドへ行くと、ガレスはすぐに良樹たちを呼んだ。
集会所は朝から人が多かった。
冒険者らしい者たちが、依頼板の前で話している。
剣、槍、弓、杖。
革鎧。
外套。
荷袋。
その中で、良樹のツナギと安全靴と腰袋はやはり浮いていた。
「来たか」
ガレスは、太い腕を組んでいた。
昨日の荷崩れの後から、彼の良樹を見る目は少し変わっている。
素性不明。
魔法も不明。
ただし探索・救助・危険確認には役立つ変な能力持ち。
そんな評価だろうと、良樹は思っていた。
「仕事か」
「話が早いな」
「報酬は?」
リシアが横から良樹を見た。
「良樹」
「いや大事だろ。俺、文無しだぞ。宿代も借金だぞ」
ガレスが低く笑った。
「出す。成功報酬と、調査内容次第で追加もある」
「受ける」
「早いわね」
「金がない」
良樹は即答した。
リシアは呆れたようにため息をつく。
ガレスは依頼書を机に置いた。
「東の森の浅層で、灰牙狼の新しい痕跡が出た」
「灰牙狼?」
「群れる狼型の魔物だ。単体なら新人でもどうにかなるが、群れだと厄介だ」
カレンの肩が、わずかに固くなった。
良樹はそれを見た。
カレンはすぐに気づき、少しだけ視線を伏せる。
怖いのを隠そうとしている。
だが、完全には隠せていない。
良樹は何も言わなかった。
ガレスは続ける。
「目的は群れの移動経路確認だ。町道に近づいていないかを見る。深追い禁止。討伐禁止。危険なら撤退」
「調査だけか」
「ああ。お前らに討伐は求めん」
「なら受ける」
良樹は依頼書を見た。
文字は読める。
不思議だ。
だが今は突っ込まない。
気にする順番を間違えると死ぬ。
そう思って顔を上げた時、壁に掛かった古い肖像画が目に入った。
鎧を着た男。
片手に剣。
もう片方の手には、折れた旗。
「あれは誰の肖像画なんだ?」
良樹が聞くと、ガレスは少しだけ目を細めた。
「英雄だよ」
「英雄?」
「昔、この町を魔物の群れから守った男だ。冒険者上がりでな。今でも、このギルドでは手本みたいな扱いだ」
「英雄ねえ」
「興味なさそうだな」
「俺には縁がなさそうな単語だと思って」
リシアが横で言う。
「分からないわよ」
「やめろ。不穏なこと言うな」
ガレスは少し笑った。
「英雄ってのは、強いだけの奴じゃない」
良樹がガレスを見る。
「逃げずに残った奴だ」
「それと、戻ってきた奴だ」
「戻ってきた奴?」
「ああ」
ガレスは肖像画を見た。
「死んだ英雄の歌は多い。だが、ギルドで本当にありがたいのは、生きて戻って次を教える奴だ」
良樹は肖像画をもう一度見た。
戻ってきた奴。
その言葉だけを、胸の奥に置いた。
◇
東の森の浅層は、町からそう遠くなかった。
だが、道はすぐに細くなる。
舗装などない。
獣道程度の土の道が、木々の間を伸びている。
「木の上とかは無理だぞ」
良樹は森に入る前に言った。
リシアが瞬きをする。
「急に何?」
「一応言っとく。俺は猿じゃねえ。走れるのは道だ。せいぜい獣道。足場がなきゃ転ぶ」
「良樹なら、そのうち木の上も走るのかと思ったわ」
「走らねえよ。安全靴で木の枝走る馬鹿がいるか」
「少し安心したわ」
「俺を何だと思ってる」
「多分、異世界から来た変な人」
カレンは少し後ろで、森の奥を見ていた。
顔はおどおどしている。
だが、目は動いている。
足場。
木の影。
枝の揺れ。
戻る道。
良樹は、その視線を見た。
ただ怯えているだけではない。
見すぎている。
カレンは剣の柄に手を添えた。
「あの……私が先に見てきます」
リシアが眉を寄せる。
「一人で?」
「はい。前を見るのは、私の役目ですから」
「なら、俺も行く」
良樹が言うと、カレンは驚いたように振り向いた。
「良樹……さんは、戦いの素人ですよね」
「だから前には出ねえ」
「では、どうして」
「俺は機動索敵係だ」
良樹は胸の奥の盤に意識を落とす。
「お前が目で見る。俺は盤で拾う」
「それと、戻る道を見る」
「戻る道……」
「一人で前を見るのが偉いわけじゃねえ」
良樹はカレンを見る。
「見て、戻って、伝えるまでが偵察だ」
「戻るところまで仕事だ」
カレンは、その言葉を黙って聞いていた。
やがて、小さく頷く。
「分かりました」
リシアは少し心配そうに二人を見た。
「無茶しないでよ」
「するか」
「良樹のそれ、あまり信用できないのよね」
「評価が妥当で腹立つ」
クラリスが微笑む。
「カレンさん、痛みや違和感があれば、すぐ戻ってくださいね」
「はい」
カレンは深く息を吸った。
「行きます」
カレンが前に出る。
良樹はその少し後ろについた。
カレンが前を見る。
良樹が後ろと周囲を見る。
それが、この先行偵察の形だった。
◇
獣道は、思ったより悪かった。
木の根が出ている。
土が湿っている。
落ち葉の下に石が隠れている。
良樹は足元を見ながら、胸の奥の斥候盤を起動した。
ガヂン。
腰の左右に、半透明の魔導モーターが浮かび上がる。
モーター補助。
ただし低出力。
姿勢補助。
手動停止。
タイマー停止。
センサー四本。
前。
左。
右。
後ろ。
八本ではない。
立体探知でもない。
敵種判定などできない。
魔力を持つものが、線に触れたら拾う。
それだけだ。
「カレン、速すぎるな」
「あ、はい」
カレンはすぐに速度を落とした。
怖がりだと言ったくせに、足の置き方は正確だった。
踏み込む場所を選び、戻る足場を残している。
良樹はその後ろを追った。
倒木が道を塞いでいた。
カレンが先に越える。
短い戦闘用スカートが、枝を避ける動きに合わせて揺れた。
見えた。
見えてしまった。
良樹は即座に視線を横へ逃がした。
少し遅かった。
「……良樹……さん」
「悪い。不可抗力だ」
「見えました、よね」
「見えた。すまん」
「……」
「今は偵察中だ。気を抜くな」
「それを良樹……さんが言いますか」
「返す言葉もねえ」
カレンは耳まで赤くなったが、それ以上は引っ張らなかった。
前を見る。
それが今の役目だった。
しばらく進むと、カレンが足を止めた。
良樹も止まる。
「どうした」
「……嫌な感じがします」
「どこだ」
「前、少し右です」
良樹は盤を見る。
前方センサーに、かすかな入力。
チッ。
小さい。
枝葉ではない。
魔力を持つ何かが線に触れた。
「拾った」
「灰牙狼、かもしれません」
「数は?」
「分かりません」
「それでいい。分からないことを分かったふりするな」
カレンは小さく頷いた。
次の瞬間、右側の茂みが揺れた。
小型の魔物が飛び出す。
灰色の毛。
低い体勢。
狼に似ている。
一体。
だが、その後ろに気配がある。
「下がるぞ」
良樹が言った時には、カレンはもう剣を抜いていた。
狼が飛びかかる。
カレンは半歩だけ前に出た。
鋭い斬撃。
狼の進路が逸れる。
倒すためではない。
止めるための一撃。
うまい。
良樹がそう思った瞬間、左の足元が崩れた。
湿った土が、落ち葉ごと滑る。
良樹の体勢が崩れた。
「良樹……さん!」
カレンが反応した。
良樹の前へ入る。
狼の再突進を受け流す。
同時に良樹の進路を開ける。
その動きは正しかった。
ただ、足場が悪かった。
カレンの右足が、木の根と石の間に入った。
ぐき、と嫌な音がした。
「っ……!」
カレンの顔が歪む。
良樹は即座に前へ出た。
斥候盤を一瞬だけモーター出力へ寄せる。
腰の左右の魔導モーターが、淡く回る。
狼との距離を取る。
カレンの肩を掴み、後ろへ下げる。
「足か」
「だ、大丈夫です。歩けます」
「走れるか」
「……走るのは、少し」
「なら抱える」
「えっ」
「今は照れてる場合じゃねえ。戻るぞ」
良樹は迷わなかった。
いや、迷った。
歩かせるか。
肩を貸すか。
背負うか。
抱えるか。
その場に隠れるか。
リシアたちを呼ぶか。
斥候盤を索敵に寄せるか、モーターを残すか。
一瞬で全部迷った。
そして、抱えて戻るのが一番マシだと判断した。
良樹はカレンを横抱きに抱き上げた。
軽い。
いや、軽く感じるだけだ。
人ひとりの重さは、雑に扱っていいものではない。
首を支える。
腰を捻らせない。
痛めた右足首を外へ逃がす。
枝に当てない。
胸の奥で、斥候盤が鳴る。
ガヂン。
腰の左右に、半透明の魔導モーターがはっきりと浮かび上がる。
脚を速くするためだけのものではない。
抱えている相手ごと、身体を前へ運ぶための出力。
加速を抑える制御。
止まる時に投げ出さない減速。
膝を殺さない着地。
踏み外しを避ける姿勢補助。
モーターは音を立てない。
ただ、良樹の腰の横で薄く回り、魔力の線を脚へ送っていた。
走る。
ただし、飛ばない。
獣道を戻る。
来た道を、戻る。
偵察は、戻って初めて仕事になる。
カレンは、良樹の腕の中で息を詰めていた。
痛い。
怖い。
森の奥から何かが追ってくる気がする。
それでも、見えていた。
良樹の腰の左右に浮かぶ、半透明の輪。
昨日、リシアが「モーター」と呼んでいたもの。
良樹の世界の言葉で、身体を動かす力に近いもの。
それが、カレンを抱えた良樹の腰で淡く回っていた。
「怖いのか」
走りながら、良樹が短く聞いた。
「……怖いです」
「だろうな」
良樹は速度を上げなかった。
むしろ、足場を一つずつ見ているように、走り方を抑えた。
「安心しろ、なんて言えねえ。今も危ねえ」
「……はい」
「絶対安全だとは言えねえ」
「けど、お前を連れて帰ることだけは、俺が最後まで諦めねえ」
「……っ」
カレンの指が、良樹のツナギを弱く掴んだ。
けれど、身体が揺れるたび、その手はすぐに離れそうになる。
「振り落とされそうで怖いなら、俺にしっかり捕まっとけ」
「遠慮して落ちる方が危ねえ」
「は、はい……!」
カレンは、良樹の首元へ腕を回した。
ぎゅっと。
近い。
息がかかりそうなほど近い。
カレンは思わず、良樹の顔を見上げた。
良樹は、こちらを見ていなかった。
足元を見ている。
木の根を見ている。
戻る道を見ている。
前方の茂みを見ている。
照れてもいない。
笑ってもいない。
茶化してもいない。
本気で、自分を連れて帰ることだけを考えている顔だった。
この人は、私を見ていない。
けれど、私を置いていない。
そのことが、怖さよりも強く、カレンの胸を締めつけた。
「舌噛むなよ」
「……はい」
短く言われて、カレンは目を伏せた。
◇
「戻った!」
リシアの声が飛んだ。
良樹は獣道から飛び出すように戻ってきた。
腕の中には、カレンがいた。
いわゆる、お姫様抱っこだった。
良樹の腰の左右には、まだ半透明の魔導モーターが薄く浮いていた。
淡く回りながら、最後の減速を支えている。
リシアは、一瞬だけ言葉を失った。
クラリスも、柔らかな笑みを浮かべたまま、ほんの少しだけ目を細めた。
二人の胸の奥で、似たような音がした。
ただし、リシアはその音の名前をまだ知らなかった。
クラリスは、知っていた。
知っていたので、綺麗に微笑んだ。
リシアは、良樹の腕の中にいるカレンを見た。
怪我人だ。
分かっている。
あれは救助であって、甘い何かではない。
それも分かっている。
良樹は、カレンを荷物のようには抱えていなかった。
首が揺れないように。
痛めた足が枝に当たらないように。
止まる時に身体が投げ出されないように。
そういう抱え方だった。
腰のモーターも、ただ速く走るために回っているのではなかった。
加速を抑え、減速を支え、抱えた相手を揺らさないために動いていた。
だから、分かってしまう。
良樹は考えたのだ。
人を抱えて逃げるということを。
出力ではなく、減速と姿勢を。
怪我人を、荷物にしない方法を。
たぶん、きっかけは自分の言葉だ。
――私を抱えて逃げられないんですか!?
あの時の自分の声を、良樹は覚えていた。
覚えていて。
考えて。
組み込んで。
できるようにした。
それは、悪いことではない。
むしろ、良いことのはずだった。
なのに。
胸の奥が、少しだけざらついた。
理由は分からない。
分からないけれど、今それを考えている場合ではない。
カレンは怪我をしている。
良樹は周囲を見ようとしている。
だからリシアは、そのざらつきを胸の奥へ押し込めた。
一方で、クラリスは良樹の腕の中にいるカレンを見た。
まず、怪我を見た。
顔色。
呼吸。
右足首。
膝。
肩。
首。
次に、抱え方を見た。
乱暴ではない。
速く戻ってきたはずなのに、カレンの首は跳ねていない。
痛めた足も、枝に当たらないよう守られている。
減速のたび、身体が前へ投げ出されないよう支えている。
怪我人を、荷物として扱っていない。
クラリスは、少しだけ目を細めた。
ああ、やはり。
荷崩れの時も、そうだった。
良樹は、誰かを安心させるために大きな声を出したわけではなかった。
自分の力を見せるために、派手なことをしたわけでもなかった。
崩れた荷の下に人がいるか。
次に崩れるものはないか。
誰を下げるべきか。
どこを確認しなければならないか。
やるべきことを、やるべき順に見ていた。
その結果として、周囲の目が変わった。
ガレスの目も変わった。
怪しい異邦人。
よく分からない魔法の使い手。
それだけではない。
必要な時に、必要なことを選べる人。
クラリスは、その変化を見ていた。
そして今も、同じだった。
好ましいと思う殿方の腕の中に、別の女性がいる。
それが怪我人の搬送であっても。
必要な処置であっても。
面白くないものは、面白くない。
クラリスは、その感情を自覚していた。
だからこそ、綺麗に微笑んだ。
「良樹さん。カレンさんを、こちらへ。すぐ診ますね」
声は穏やかだった。
手つきも優しかった。
ただ、良樹の腕からカレンを受け取る動きだけが、ほんの少し早かった。
良樹はそれに気づかない。
「クラリスさん、右足首。たぶん捻ってる。骨までは分からん」
「リシア、後方警戒。俺は周辺を見る」
「カレン、痛い場所を言え。黙るな」
一瞬で、場が現場に戻った。
リシアは息を吐き、杖を構える。
「分かった。後方を見る」
クラリスはカレンを草の上へ座らせ、足首へ手を添えた。
「カレンさん、痛みますか」
「は、はい。右足首が……」
「膝は?」
「膝は、大丈夫だと思います」
「首や腰は?」
「大丈夫、です」
クラリスは頷き、治癒の光を灯す。
良樹は片膝をつき、胸の奥の盤へ意識を落とした。
斥候盤を、走行用から周辺検知へ寄せる。
だが、全部は張れない。
腰の魔導モーターと、その制御を残したままでは、線は四本が限界だった。
前。
左。
右。
後ろ。
最低限。
それでも、今はこれで見るしかない。
チッ。
小さな入力が立つ。
枝葉の揺れではない。
魔力を持つものが、線に触れた時だけ拾う。
良樹は息を止めて、線を見る。
チッ。
チッ。
入力は立つ。
だが、近づいてくる反応はない。
「……今のところ、追ってきてる反応はねえ」
良樹は低く言った。
「ただし、断定はしねえ。治療が終わるまで警戒は続ける」
「了解」
リシアが短く答える。
カレンは草の上に座らされ、ようやく自分の状況を理解し始めていた。
足首が痛い。
怖かった。
戻ってこられて、安心した。
それは本当だ。
でも、それとは別に、思い出してしまった。
さっき、見られた。
倒木を越えた時。
スカートが跳ねた時。
良樹はすぐに目を逸らした。
謝ってくれた。
笑わなかった。
だからこそ、余計に気になってしまう。
今日、自分は何を穿いていただろう。
そこまで考えた瞬間、カレンの顔がさらに熱くなった。
「カレンさん? 痛みが強いですか?」
「あ、いえ、痛いです。痛いんですけど、その……えっと」
言えるはずがなかった。
足首より先に、頭の中が熱いです、などと。
リシアはカレンの顔色を見て、少しだけ眉を寄せた。
「良樹」
「何だ」
「あなた、戻ってくる途中で何かした?」
「怪我人を抱えて走った」
「それは見れば分かる」
「じゃあ何だよ」
「……何でもない」
良樹はよく分からない顔をした。
クラリスは何も言わず、ただ微笑んでいた。
カレンの脈が、痛み以外の理由で少し早いことに、彼女は気づいていた。
◇
調査はそこで切り上げになった。
灰牙狼らしき痕跡。
浅層右手側の気配。
複数の可能性。
町道へ近づいているかは未確定。
深追いは危険。
それだけ持ち帰れば、依頼としては十分だった。
ギルドへ戻ると、ガレスは報告を聞いて頷いた。
「深追いしなかったのは正解だ」
「カレンが足を痛めた。続行は違う」
良樹はそう言った。
ガレスはカレンを見た。
「無理に奥へ行かなかっただけマシだ。偵察は戻ってなんぼだ」
その言葉に、カレンは少しだけ目を伏せた。
ガレスは報酬の一部を出した。
多くはない。
だが、良樹にとっては大きかった。
「宿代返済の第一歩だな」
良樹が言うと、リシアは呆れたように笑った。
「本当にそこはぶれないわね」
「金がないからな」
「知ってる」
その日は、それ以上の依頼は受けなかった。
カレンの足を休ませる必要がある。
良樹も斥候盤の負荷を確認したかった。
そして夜になった。
◇
夜の簡易宿は、昼間よりも少しだけ静かだった。
下の食堂からは、まだ酒の匂いと話し声が上がってくる。
笑い声。
椅子を引く音。
木製の杯が卓に置かれる音。
けれど二階の廊下まで来ると、それらは厚い壁の向こうの音になる。
良樹は、自分にあてがわれた狭い部屋で腰袋を広げていた。
机の上には、布を敷いてある。
その上に、工具を一本ずつ並べていく。
ドライバー。
ニッパー。
圧着ペンチ。
ラジオペンチ。
小型モンキー。
テスター。
ビット。
端子。
絶縁テープ。
今日も、全部ある。
「……ありがてえな」
良樹は小さく呟き、ドライバーの柄を布で拭いた。
森の土が少し付いていた。
汗も付いている。
傷も増えた気がする。
魔導盤は胸の奥にある。
けれど、そこへ触るには工具が要る。
いや、正確には工具がある方が安定する。
ドライバーを当てれば、接点が見える。
ニッパーを握れば、切る線が分かる。
圧着ペンチを持てば、繋ぐ感覚が安定する。
理屈はまだ分からない。
だが、分からないものを分からないまま放っておくと、後で必ず怖くなる。
良樹は、ドライバーを机に置いた。
今日の斥候盤。
腰の魔導モーター。
減速補助。
姿勢補助。
手動停止。
タイマー停止。
過負荷遮断。
転倒時遮断。
抱えている相手がいる場合の出力制限。
そして、センサー四本。
前。
左。
右。
後ろ。
本当はもっと張りたかった。
第4話の荷崩れの時のように、八本張れれば安心感は違った。
だが、無理だった。
腰のモーターとその制御を残したまま、周辺検知も厚くするには、今の携行盤では容量が足りない。
四本。
最低限。
それでも、ないよりはずっといい。
「今できる範囲で、組むしかねえ」
そう言った時、扉が控えめに叩かれた。
こん、こん。
遠慮がちな音だった。
良樹は顔を上げる。
「誰だ」
「あ、あの……」
扉の向こうで、少し震えた声がした。
「カレン、です」
「入れ」
そう言ってから、良樹は机の上に広げた工具を見た。
危ないものはない。
ニッパーも刃は閉じている。
テスターのリードも丸めてある。
問題ない。
扉が、ゆっくり開いた。
カレンが立っていた。
昼間と同じ剣士の服ではない。
宿で借りたのか、簡素な上着を羽織っている。
膝上のスカートとニーハイはそのままだが、右足には薄く包帯が巻かれていた。
クラリスの治療で腫れは引いている。
それでも、完全ではないのだろう。
立ち方がわずかに左へ寄っていた。
良樹は椅子から立ち上がった。
「足はどうだ」
「あ、はい。クラリスさんが治してくださいました」
「まだ少し痛みますけど、歩けます」
「なら今日は無理すんな。明日も走るなよ」
「はい」
カレンは小さく頷いた。
それから、扉を閉めるか迷うように手を動かした。
良樹はそれを見て、少しだけ考える。
「開けたままでいい」
「あ……はい」
カレンは少しほっとしたように頷き、扉を少し開けたまま部屋へ入った。
そのあたりの警戒は、悪くない。
良樹は椅子に座り直す。
カレンには、もう一つの椅子を指した。
「座れ。足に体重かけるな」
「はい」
カレンは、おずおずと椅子に腰を下ろした。
座ってから、両手を膝の上で重ねる。
視線が落ちる。
上がる。
また落ちる。
何かを言いに来たのは分かる。
けれど、言葉にするまで少しかかりそうだった。
良樹は急かさず、ドライバーをもう一度手に取った。
「それで?」
「あの……」
カレンは、膝の上の手を少し握った。
「今日は、ありがとうございました」
良樹は手を止めた。
「私を、その……運んでくれて」
「助けてくれて、ありがとうございました」
カレンは深く頭を下げた。
良樹は、少しだけ困った。
礼を言われるのは苦手だ。
まして、今日のあれは礼を言われるためにしたことではない。
だが、礼を突っぱねるのも違う。
「……ああ」
良樹は短く答えた。
「礼は受け取っとく」
カレンは、少しだけ表情を緩めた。
「はい」
「ただ、あれはあの場で一番マシな手だっただけだ」
「一番マシな手、ですか」
「ああ」
良樹はドライバーを置き、指を一本立てた。
「歩かせたら足を悪化させる」
「肩を貸すと遅い」
「背負うと痛めた足の状態が見えねえ」
「脇に抱えると身体が揺れる」
「横抱きなら、首と腰と足首を支えられる」
「減速の時も、身体を前に投げ出さずに済む」
カレンは黙って聞いていた。
「だから、そうした」
「お姫様抱っこがどうとかじゃねえ」
「あの場では、あれが一番安全だった」
「……そう、だったんですね」
「そうだ」
良樹ははっきり言った。
そこは誤魔化すところではない。
実際、判断としては間違っていない。
少なくとも、あの時の状況では一番マシだった。
カレンは少し俯いた。
その頬が、ほんのり赤い。
「あの……」
「何だ」
「重く、ありませんでしたか」
「重かった」
「……」
カレンの肩が小さく落ちた。
良樹はすぐに続ける。
「人ひとり抱えて走ったんだ。重くて当たり前だろ」
「でも、運べる範囲だった」
「だから気にするな」
「あ、はい……」
「怪我人に重い軽いで謝られると困る」
「そこは考えるな」
「はい」
カレンは頷いた。
それでも、まだ何か言いたそうだった。
良樹は黙って待つ。
カレンは少しだけ唇を結び、やがて小さな声で言った。
「その……嫌では、ありませんでしたか」
「嫌?」
「私を、抱えて走るの」
良樹は一瞬黙った。
嫌。
嫌ではない。
必要だった。
あの場では一番マシな搬送姿勢だった。
歩かせるよりいい。
肩を貸すより速い。
背負うより足首を守れる。
横抱きなら、首も腰も支えられる。
そこまでは事実だ。
問題は、その先だった。
森の中では考えなかった。
いや、考えないようにしていた。
足場。
後方。
右足首。
減速。
センサー四本。
戻る道。
見るべきものは山ほどあった。
だが今、目の前でカレンが俯いている。
その瞬間、遅れて思い出した。
腕の中のカレンは、柔らかかった。
近かった。
汗と草と革の匂いに混じって、女の子の匂いがした。
正直に言えば、役得だった。
そこを無かったことにするほど、良樹は枯れていない。
良樹は、短く息を吐いた。
「嫌では、なかった」
「……そう、ですか」
「むしろ、その」
カレンが顔を上げる。
「むしろ?」
「役得ではあった」
「……」
「……」
沈黙が落ちた。
部屋の外から、階下の笑い声が遠く聞こえる。
カレンの顔が、目に見えて赤くなっていった。
良樹も、自分で言ってから少しだけ後悔した。
だが、言ったこと自体は撤回しなかった。
「今のは、下品な意味じゃねえ」
「いや、まったく無いと言うと嘘になるが」
「う、嘘には、しないんですね……」
「嘘ついてもしょうがねえだろ」
良樹は視線を少し外した。
「ただ、そこを目的にしたわけじゃない」
「あの場では、抱えて戻るのが一番安全だった」
「それは本当だ」
「はい……」
「でも、まあ」
良樹は、少しだけ言葉を選んだ。
「可愛い女の子を抱えて、何も思わないほど枯れてもいない」
「か、かわ……」
カレンの声が裏返った。
良樹は片手で額を押さえた。
「悪い。言い過ぎた」
「い、いえ」
カレンは慌てて首を振った。
「嫌では、ないです」
「……そうか」
「はい」
「その、少し……恥ずかしいですけど」
「俺もだ」
「良樹……さんも?」
「当たり前だろ」
「こっちは二十八の男だぞ」
「安全確認と姿勢制御で頭を埋めてなきゃ、普通に処理落ちする」
「しょり、おち……?」
「今のは忘れろ」
カレンは、少しだけ笑った。
本当に小さな笑みだった。
けれど、森で足を痛めた時の震えとは違う。
良樹は、その笑みを見て少しだけ安心した。
カレンはすぐに視線を伏せた。
そして、何かを思い出したように、耳まで赤くした。
「どうした」
「い、いえ」
「足が痛むのか」
「違います」
「じゃあ何だ」
「違うんです」
「違うしか言ってねえぞ」
カレンは膝の上で手を握った。
倒木を越えた時のことを思い出していた。
スカートが揺れた。
良樹が後ろにいた。
見えてしまった。
良樹はすぐに目を逸らした。
謝ってくれた。
笑わなかった。
それだけなら、まだよかった。
その後、抱えられた。
腕の中にいた。
助けられた。
運ばれた。
しかも今、可愛い女の子と言われた。
今日、自分は何を穿いていただろう。
そこまで考えた瞬間、カレンはさらに顔を赤くした。
「カレン」
「はいっ」
「本当に痛いんじゃねえだろうな」
「痛いです。痛いですけど、それは、その……別です」
「別?」
「別です」
「そうか」
良樹は深く追及しなかった。
分からないことは気になる。
だが、今のカレンを掘ると地雷を踏む気がした。
地雷を見つけたら、まず踏まない。
現場の基本である。
良樹は、軽く咳払いした。
「……話を戻すぞ」
「はい」
「今日は怖かっただろ」
カレンの表情が、少しだけ変わった。
照れの赤みが残ったまま、目の奥に別の色が戻る。
森の暗さ。
足を痛めた瞬間の感覚。
動けないと分かった時の冷たさ。
奥から何かが来るかもしれないという想像。
カレンは、膝の上の手を握った。
「怖かったです」
「ああ」
「足を痛めた時、歩けないって分かって」
「森の奥から何かが来る気がして」
「私、置いていかれるかもしれないって、思いました」
「そりゃ怖い」
良樹は即答した。
カレンが顔を上げる。
「良樹……さんは」
「ん?」
「怖く、なかったんですか」
「怖かったに決まってんだろ」
迷う必要はなかった。
「魔物は怖えし、森は分からねえし、足場は悪い」
「お前は怪我してる」
「モーター補助はまだ信用しきれねえ」
「センサーだって四本しか張れなかった」
「怖くねえ要素の方が少ねえよ」
「でも、良樹……さんは、来てくれました」
「迷ったぞ」
「え?」
「歩かせるか」
「肩を貸すか」
「背負うか」
「抱えるか」
「その場に隠れるか」
「リシアたちを呼ぶか」
「斥候盤を索敵に寄せるか、モーターを残すか」
良樹は机の上の工具を見た。
並べた工具は、どれも静かだった。
「一瞬で全部迷った」
「で、抱えて戻るのが一番マシだと思った」
「だからやった」
カレンは、じっと良樹を見ていた。
「怖くても、動けるんですね」
「違う」
「違う、んですか」
「ああ」
「怖いから、分けるんだよ」
「分ける……」
良樹は、机の上の端子を一つ指で押した。
「怖いものを、怖いものの塊のまま持つな」
「森が怖い」
「魔物が怖い」
「怪我が怖い」
「戻れないのが怖い」
「誰かを守れないのが怖い」
ひとつずつ、指を折る。
「全部まとめて持つと、でかすぎて手に負えねえ」
「だから分ける」
カレンは黙って聞いていた。
「足場が悪いのか」
「敵の間合いが分からねえのか」
「戻る道が見えねえのか」
「誰を庇うと逃げ遅れるのか」
「どこまでなら踏み込めるのか」
「どこから先は戻れねえのか」
良樹は、カレンを見る。
「ひとつずつ見ろ」
「名前を付けろ」
「そうすれば、対策にできる」
「見たら……怖くなくなるんですか」
「ならねえよ」
良樹は即答した。
「怖いもんは怖い」
「俺だって、初めの頃はマグネットひとつ交換するだけでも手が震えた」
「まぐねっと……?」
「分からねえだろうけどよ」
「機械を動かす部品だ」
「間違えたら機械が勝手に動く」
「人が怪我する」
「設備が壊れる」
「だから怖い」
良樹は、自分の手を見た。
今は震えていない。
だが、震えたことがないわけではない。
「一流の職人ほど、何が怖いかよく知ってる」
良樹は、工具の並んだ机へ視線を落とした。
「どこで指を持っていかれるか」
「どこで感電するか」
「どこで足を滑らせるか」
「どこで人が死ぬか」
カレンは、息を止めるように聞いていた。
「分かってるから、止める」
「分かってるから、確認する」
「分かってるから、手順にする」
良樹は、カレンを見た。
「怖さが分かるのは、悪いことじゃねえ」
「怖いものを知らねえ奴の方が、よっぽど危ねえ」
カレンの瞳が揺れた。
「手順に……」
「ああ」
良樹は頷く。
「潰せる怖さと、今は抱えるしかない怖さを分ける」
「足場が悪いなら、通る場所を変える」
「戻れないのが怖いなら、戻る道を先に見る」
「敵の位置が分からねえなら、センサーを張る」
「怪我人を抱えるなら、加速より減速を優先する」
カレンは、包帯の巻かれた右足を見た。
「そうやって怖さをひとつずつ潰していくとな」
良樹は、少しだけ声を低くした。
「今度は、やらなかった時が怖くなってくる」
「やらなかった時……」
「ああ」
「足場は見た」
「戻る道も見た」
「やれる手順もある」
「それなのに、怖いからって動かなかったら」
「後でずっと残る」
カレンは息を止めた。
「“あの時、やれたんじゃねえか”ってな」
部屋の中が、少しだけ静かになった。
外の食堂の声が遠い。
「俺は、それが怖い」
「怖いものは残ってた」
「今日だって全部潰せたわけじゃない」
「センサーは四本しかなかった」
「モーター補助も完璧じゃない」
「森の奥も分からない」
良樹は、カレンをまっすぐ見た。
「でも、お前を置いて戻る方が、俺には怖かった」
「あの場で抱えて戻る手順はあった」
「やるべきだと思った」
「なら、やらなかった時の方が怖い」
カレンは、何も言わなかった。
ただ、膝の上の手を強く握っていた。
良樹は続ける。
「だから、怖がるなとは言わねえ」
「怖いなら、何が怖いか言え」
「足場が悪い」
「前が嫌な感じだ」
「戻れない気がする」
「俺の位置が邪魔だ」
「何でもいい」
「言えば、俺も盤に入れられる」
「盤に……」
「お前の怖いは、俺には設計条件になる」
カレンは、その言葉を胸の中で繰り返した。
設計条件。
自分が恥じていた怖さ。
剣士なのに、前に出るのが怖い自分。
魔物を見ると、間合いも、戻る道も、失敗した時のことも、全部見えてしまう自分。
それは、欠陥だと思っていた。
でも、良樹は違うと言った。
怖いものを、怖いもののままにするな。
分けろ。
名前を付けろ。
対策にしろ。
怖いは消えなくていい。
扱えるようにすればいい。
「……私」
カレンは、ようやく口を開いた。
「今日、怖かったです」
「ああ」
「森の奥が怖かったです」
「足を痛めた時、もう戻れないかもしれないと思いました」
「良樹……さんの後ろについていく時も、前を見るのが怖かったです」
「倒木を越える時も、足場を間違えたらどうしようって思いました」
そこまで言って、また顔が赤くなる。
倒木。
スカート。
見られた。
余計な記憶まで戻ってきた。
「……倒木のことは、別の意味でも少し怖かったです」
良樹は一瞬考え、すぐに理解した。
「あれは悪かった」
「い、いえ」
「不可抗力、ですから」
「不可抗力でも、見たことは事実だ」
「そこも嘘にはしないんですね……」
「したら余計悪いだろ」
カレンは、困ったように笑った。
少しだけ。
本当に少しだけ。
「良樹……さんは、変な人です」
「最近よく言われる」
「でも」
カレンは顔を上げた。
「少し、分かった気がします」
「怖いものを、怖いもののままにしないこと」
「分からないまま、抱え込まないこと」
「ちゃんと言うこと」
「ああ」
「次は、もっと早く言います」
「怖いですって」
「何が怖いのか、ちゃんと言います」
「それでいい」
良樹は頷いた。
「怖いまま前に出るなら、戻る道は俺が見る」
「ただし、無茶はするな」
「戻れない踏み込みは、斥候じゃねえ」
「片道切符だ」
「はい」
カレンは、膝の上の手を緩めた。
それから、もう一度深く頭を下げる。
「今日は本当に、助けてくれてありがとうございました」
「……ああ」
良樹は少しだけ視線を逸らした。
「礼は受け取った」
「はい」
カレンは立ち上がった。
右足に体重をかけすぎないよう、ゆっくりと。
良樹はそれを見て、椅子から腰を浮かせかけた。
だが、カレンは小さく手を上げて制した。
「大丈夫です」
「今度は、ちゃんと歩けます」
「そうか」
「でも痛みが出たらすぐ言え」
「はい」
カレンは扉のところまで歩いた。
そこで一度振り返る。
「良樹……さん」
「何だ」
「その……役得、でしたか」
良樹は固まった。
カレンの顔は赤い。
けれど、ほんの少しだけ笑っていた。
良樹は、しばらく黙った後、息を吐いた。
「掘り返すな」
「俺が落ちる」
カレンは、今度こそ小さく笑った。
「はい」
「おやすみなさい」
「ああ」
「おやすみ」
扉が閉まる。
足音が遠ざかっていく。
良樹はしばらく、閉まった扉を見ていた。
それから、椅子に座り直す。
机の上には、まだ拭き終えていない工具が残っていた。
良樹はドライバーを手に取る。
怖いものを、怖いもののままにするな。
そう言ったのは自分だ。
なら、この妙に落ち着かない感覚にも、いずれ名前を付けなければならないのかもしれない。
良樹はそこまで考えて、首を振った。
「……今はいい」
今は工具を拭く。
そう決めて、ドライバーをもう一度布で拭いた。
布の上で、金属の先端が小さく光った。




