第65話 治す前に止める(挿絵有)
カレンの講習が終わったあと、野原にはしばらく沈黙が残っていた。
草の匂い。
木剣を振ったあとの軽い土埃。
少し離れた場所に立てた的。
その周囲に残る、踏み込みの跡。
良樹は、まだカレンの剣を思い出していた。
怖い場所に、先に置く。
剣を斬るためだけのものとして見ていたわけではない。
ただ、良樹にとって剣は、どうしても武器だった。
敵を斬るもの。
相手を止めるもの。
危険なもの。
けれど、カレンは違った。
怖いから見る。
怖いから、先に置く。
怖いままでも、守れる。
良樹は、小さく息を吐いた。
「……怖いから先に置く、か」
言葉にすると、少しだけ胸の奥に残った。
リシアは、そんな良樹を横目で見た。
「また考えてる」
「考えるだろ」
「今のは大事だ」
「それは分かるけど」
「顔がもう、手記を開きたい顔なのよ」
良樹の肩が少しだけ揺れた。
「開いてねえ」
「今は、ね」
カレンは木剣を抱えたまま、少し照れたように目を伏せていた。
自分の講習は終わった。
良樹はちゃんと見てくれた。
剣先だけではなく、足も、腰も、目も。
怖い場所を見ることも。
それが嬉しかった。
だが、それ以上に。
次は、クラリスの番だった。
カレンは、そっとクラリスを見る。
クラリスは、いつもの白い法衣の裾を整えながら、静かに立っていた。
清楚な微笑み。
柔らかな目。
穏やかな姿勢。
だが、良樹を見る目だけは、少し違っていた。
いつものように優しい。
けれど、逃がさない。
良樹はその視線に気づき、少しだけ背筋を伸ばした。
「次は、クラリスか」
「はい」
クラリスは微笑んだ。
「私の番です」
「身体講習、だったな」
「はい」
「良樹くんの身体を見ます」
リシアが、すぐに半眼になった。
「言い方」
「身体を見るのが私の役目ですから」
「言い直しても、危険度が下がらないわね」
カレンは真っ赤になりながら、小さく頷いた。
「で、でも……クラリスの場合、本当に身体の話ですから」
「それが余計に危ないのよ」
リシアは額に手を当てた。
クラリスは、そんな二人を気にせず、良樹へ近づいた。
近い。
最初の一歩から、すでに近かった。
良樹は思わず半歩下がりかける。
「良樹くん」
「何だ」
「逃げないでください」
「まだ逃げてねえ」
「逃げる前の身体でした」
「そこまで見るな」
「見ます」
即答だった。
クラリスは、良樹の右手を取った。
手首。
肘。
肩。
順番に見る。
指先は細い。
触れ方は柔らかい。
だが、見る場所は正確だった。
「手首は少し硬いです」
「肘は外へ逃がしすぎています」
「肩は、力が入る前に上がりやすいですね」
「そこまで分かるのか」
「はい」
「良樹くんは、工具を使う身体です」
「拳で力を通す身体ではありません」
「ひどい言われ方だな」
「事実です」
容赦はなかった。
クラリスは、良樹の腕を少し持ち上げた。
肘の角度を見る。
肩の動きを見る。
そして、その腕を自分の胸元に抱え込むようにして支えた。
良樹の動きが止まった。
「クラリス」
「はい」
「近くねえか」
「近いです」
「認めるな」
「近くで見なければ、分からないことがあります」
リシアが低く言った。
「クラリス」
「あんた、かなり当たってるわよ」
「はい」
「はい、じゃないのよ」
カレンは両手で口元を押さえていた。
「あ、あの……クラリス」
「本当に、すごく近いです……」
「はい」
「この位置が一番安全です」
「安全って言葉、便利に使いすぎじゃない?」
リシアの声が低くなる。
クラリスは清楚に微笑んだ。
「良樹くんの関節にとっては、安全です」
「精神は?」
「鍛えてください」
「無茶を言うな」
良樹の声は、少しだけ掠れていた。
クラリスは腕を離さない。
「良樹くん」
「何だ」
「私は、良樹くんに触れられることを、怖いとは思っていません」
リシアとカレンが同時に息を呑んだ。
良樹も固まった。
クラリスは、良樹の腕を支えたまま続ける。
「ですが」
「壊れるのは怖いです」
その声は、静かだった。
「だから、見ます」
「治す前に」
「壊れる前に」
良樹の表情が、少しだけ変わった。
冗談ではない。
事故でもない。
いつものラブコメでもない。
クラリスは、本気で言っていた。
「治せるから、大丈夫ではありません」
「壊れた事実は、消えません」
「だから私は」
「治す前に、止めます」
風が、草を揺らした。
良樹は、しばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「……それ、現場の考え方だな」
「現場、ですか」
「ああ」
「壊れてから直せばいい、じゃねえ」
「壊さないように止める」
クラリスは少しだけ微笑んだ。
「はい」
「私は、良樹くんの身体の非常停止です」
リシアが額を押さえた。
「また婚約者が部品名になったわ」
カレンは小さく言った。
「でも、すごく大事な部品です」
「部品じゃねえ」
「安全装置だ」
良樹が言うと、クラリスの目がほんの少し揺れた。
「安全装置」
「ああ」
「外しちゃいけねえやつだ」
クラリスは、静かに頷いた。
「はい」
「外さないでください」
その言い方が少しだけ柔らかくて、良樹は返事に詰まった。
◇
良樹は、藤田の手記の内容を思い出していた。
軸。
歯車。
カム。
リンク。
クラッチ。
保持。
位置決め。
動力伝達。
魔導盤とは違う。
だが、根は近い。
良樹の魔導盤は、線を繋ぎ、流れを作り、制御するものだった。
藤田吾郎の《魔導工廠》は、力を形にする。
部品として現す。
動力を伝える。
藤田は言った。
良樹の力とは違う。
だが、繋がるかもしれない。
良樹は、ゆっくり右手を開いた。
「少しだけ、試したい」
リシアの目が細くなる。
「何を?」
「藤田さんの手記だ」
「魔導工廠の入口」
「リンクと、クラッチの真似事」
空気が変わった。
カレンが剣の柄に手を添える。
リシアは魔力の流れを見るように目を細める。
クラリスは、良樹の腕を支えたまま、さらに表情を真剣にした。
「良樹くん」
「ああ」
「分かってる」
「出力は最低」
「人に向けない」
「お前が身体を見る」
「リシアは魔力の流れ」
「カレンは周囲と退避方向」
「はい」
クラリスは頷いた。
「では、私は良樹くんの右腕を見ます」
「手首、肘、肩、腰」
「どこかに残れば止めます」
「ああ」
「止めてくれ」
良樹は右腕の外側に、意識を置いた。
魔導盤ではない。
線ではなく。
接点ではなく。
半透明の機械要素。
腕の外側に、細い棒のようなものが浮かぶ。
リンク。
まだ薄い。
輪郭も安定していない。
少し力を入れれば、草の上に溶けてしまいそうなほど不確かだった。
だが、そこに形はあった。
「……出た」
リシアが呟いた。
「良樹の盤と違う」
「流れじゃない」
「部品みたい」
「ああ」
「だから怖い」
「部品は、身体の都合を聞かねえ」
クラリスが、良樹の肘を支えた。
「今の角度は駄目です」
「もうか」
「はい」
「このままだと、肘ではなく肩に逃げます」
「痛みはねえぞ」
「痛くなってからでは遅いです」
即答だった。
良樹は言葉を飲んだ。
クラリスは、良樹の腕を胸元に抱え込むようにして、肘の角度を変える。
近い。
やはり、近い。
良樹の腕に、柔らかな感触がはっきりとあった。
「クラリス」
「はい」
「今、当たってる」
「はい」
「だから認めるな」
「この位置が一番、肩を守れます」
リシアが半眼になった。
「クラリス」
「本当に、身体確認よね?」
「はい」
「身体確認です」
「……あんた、だいぶ強いわね」
「強くありません」
「今、少し恥ずかしいです」
「少し?」
「かなり、かもしれません」
カレンは耳まで赤くなっていた。
「でも、離さないんですね……」
「はい」
「良樹くんの肩が先です」
その言葉だけは揺れなかった。
良樹は、リンクへ意識を戻した。
細く。
外側へ。
身体に押し込まない。
肩へ残さない。
肘を固めない。
クラリスの指が、良樹の手首に添えられる。
「そこです」
「今の形なら、通ります」
「ただし、まだ少し遊びがあります」
「遊び?」
「先端が、跳ねます」
「……なるほど」
良樹は、リンクの先端を意識した。
小さな遊び。
しなり。
戻り。
藤田式の機械要素は、完全な剛体ではない。
魔力で形を保っている以上、良樹の制御が甘ければ、わずかに跳ねる。
「一度切る」
「反応を見る」
「はい」
「ゆっくり切ってください」
良樹は、出力を落とした。
落とすつもりだった。
だが、リンクの先端が、ぴしりと震えた。
「あ」
良樹の声が落ちる。
中途半端に残った張力が、リンク先端を跳ねさせた。
細い半透明の先端が、クラリスの法衣の裾へ触れる。
触れただけなら、よかった。
だが、その先端は裾の折り返しに絡んだ。
「え」
クラリスが目を瞬く。
「悪い、切る」
良樹は反射的に操作した。
切る。
離す。
戻す。
そのつもりだった。
だが、藤田式のリンクは、まだ良樹の手に馴染んでいなかった。
逆操作のつもりで入れた魔力が、回収ではなく、巻き上げの方向へ入る。
「――あ」
今度の声は、クラリスだった。
絡んだリンクが、上へ動いた。
ぐい、と。
法衣の裾が、引かれる。
「ちょ、良樹くん」
「待て、今――」
待てではなかった。
待つべきだった。
だが良樹は焦っていた。
焦ったまま、もう一段魔力を切った。
それがさらに悪かった。
中途半端に張っていたリンクが、上向きに弾けた。
ばさり、と。
クラリスのスカートが、大きく持ち上がった。
白い法衣の奥。
普段なら絶対に見えない場所。
黒いレース。
そして、赤。
情熱の真っ赤な薔薇。
良樹の視界に、入った。
入ってしまった。
クラリスの顔が、一瞬で赤くなる。
「――っ」
クラリスは、良樹の腕を止めたまま固まった。
止めなければならない。
でも隠したい。
良樹くんの肩を壊したくない。
でも見られたくない。
でも今離すと危ない。
でも恥ずかしい。
その全部が、顔に出ていた。
「ク、クラリス、裾!」
リシアの声が飛んだ。
カレンも真っ赤になって両手で顔を覆う。
「ク、クラリス……!」
良樹は反射的に視線を逸らそうとした。
「悪い、俺は――」
「動かないでください!」
クラリスの声が、珍しく裏返った。
良樹が止まる。
「いや、でも――」
「今、逃げると肩が入ります!」
「肩が入るって何だ」
「壊れる方向です!」
片手は良樹の腕。
もう片方の手だけで、クラリスは必死にスカートを押さえた。
押さえた。
だが、遅かった。
明らかに遅かった。
クラリスの顔は、耳まで赤い。
いつもの清楚な微笑みはどこにもない。
ただ、恥ずかしがっている女の子だった。
「……み、見ましたか」
「見てねえ」
良樹は即答した。
即答が早すぎた。
「良樹」
リシアの声が低い。
「今の即答は駄目よ」
「見てねえ」
「……あんた、何を見たの」
良樹は、視線を空へ逃がしたまま硬直していた。
答えてはいけない。
色を言えば終わる。
形を言っても終わる。
見ていないと言えば、たぶんもっと終わる。
だから良樹は。
現場判断としては最悪の逃げ方を選んだ。
「……情熱の真っ赤な薔薇」
沈黙。
野原の風が、草を揺らした。
リシアが、ゆっくりと目を細める。
「見たのね」
「見てねえ」
「今、詩にしたじゃない」
「情報を抽象化しただけだ」
「見た情報を抽象化したのね」
「誘導尋問やめろ」
その時だった。
スカートを押さえたまま震えていたクラリスが、顔を真っ赤にして声を上げた。
「良樹くん……!」
良樹の肩が跳ねる。
「私の下着の柄を、そのまま言わないでください!」
完全に、終わった。
カレンが両手で顔を覆った。
「が、柄……」
リシアは額を押さえた。
「詩じゃなかったのね」
「実況だったのね」
「違う」
良樹は即答した。
「何が違うのよ」
「実況ではない」
「比喩だ」
クラリスが、涙目のまま言った。
「比喩になっていません……!」
リシアが深く頷く。
「現物照合済みの比喩ね」
「やめろ」
「良樹」
「何だ」
「最低よ」
「分かってる」
「でも、今の最低さは少し芸術点が高いわ」
「評価するな」
クラリスは、スカートを押さえたまま、ますます小さくなった。
「……薔薇は」
消えそうな声だった。
「まだ、咲かせるつもりではありませんでした……」
良樹は、何も言えなかった。
リシアも黙った。
カレンも、顔を覆ったまま固まっている。
クラリスは、まだ良樹の腕を離していなかった。
顔は真っ赤。
目は潤んでいる。
裾を押さえる手は震えている。
それでも、良樹の腕は離さない。
肩。
肘。
手首。
すべてを元の位置へ戻すまで、離さない。
ようやくリンクが消え、良樹の腕から余計な力が抜けた。
クラリスは、肩の逃げを確認した。
肘の角度を確認した。
手首に残った張りを確認した。
それから、やっと両手でスカートを押さえた。
遅い。
あまりにも遅い。
「……確認、終了です」
リシアは額を押さえた。
「順番がおかしいのよ」
クラリスは、まだ赤い顔のまま答えた。
「いいえ」
「順番は、間違えていません」
「間違えてるわよ」
「恥ずかしいです」
「とても」
そこは、はっきり認めた。
「ですが」
「良樹くんの身体が先です」
その一言だけは、震えていなかった。
良樹は、視線を逸らしたまま、低く言った。
「……悪かった」
「完全に俺のミスだ」
「リンクの可動域を見誤った」
「解除方向も間違えた」
「裾の巻き込みも想定してなかった」
「はい」
「良樹くんのミスです」
クラリスの声は、いつもより小さかった。
けれど容赦はなかった。
「再発防止する」
「お願いします」
リシアが腕を組む。
「まず裾巻込み防止ね」
カレンが真っ赤な顔で小さく頷いた。
「尊厳保護インターロックも、必要だと思います……」
「その名称はやめろ」
良樹は言ったが、否定する力は弱かった。
リシアは低く言う。
「備考欄には?」
「書かねえ」
「何を?」
「何も」
「薔薇は?」
「絶対に書かねえ」
クラリスが、両手で顔を覆った。
「言わないでください……」
◇
しばらくして。
事故の処理は、ようやく終わった。
記録には残さない。
記憶については努力する。
薔薇については、絶対に口にしない。
その三点で、ひとまず話は落ち着いた。
落ち着いた、ということにした。
クラリスはまだ少し赤い顔のまま、法衣の裾を整えていた。
「……では、続けましょう」
リシアが目を剥いた。
「続けるの?」
「はい」
「事故はありましたが、試験そのものは必要です」
「クラリス、あんた本当に強いわね」
「強くはありません」
「今も、とても恥ずかしいです」
クラリスは、そう言ってから良樹を見た。
「ですが」
「恥ずかしいことと、必要なことは別です」
良樹は、深く頭を下げた。
「悪かった」
「次は可動域を限定する」
「巻き込まない」
「跳ねさせない」
「上方向へ逃がさない」
「それから、出力も一段下げる」
「何を試すの?」
リシアが聞いた。
良樹は少しだけ目を細めた。
「藤田さんの手記にあった」
「回転を、直線に変える」
「回転を、直線に?」
「ああ」
「クランクだ」
リシアは少し考えた。
「また知らない言葉が出たわね」
「軸を回す」
「その回転を、腕を押し出す動きに変える」
「ただし、直結しない」
「インバータを噛ませる」
「立ち上がりを絞る」
「加速を絞る」
「戻りも制御する」
カレンが、的の方を見た。
「拳を、押し出すんですか」
「ああ」
「ただし、身体そのものを無理に動かすんじゃない」
「身体の外側に機構を置く」
「その機構が、拳の動きに添う」
クラリスが静かに言った。
「外側で支えて、内側を壊さない」
「そうだ」
「お前が前に言ってたやつに近い」
クラリスの目が、少しだけ真剣になる。
「誰で試しますか」
良樹は自分の右手を見た。
「まず俺で――」
「駄目です」
即答だった。
「まだ何もしてねえ」
「する前に止めました」
「なぜだ」
「良樹くんは、拳の逃がし方を知りません」
「手首、肘、肩、腰」
「どこかに残します」
「信用がない」
「あります」
「だから、壊れる前に止めています」
良樹は黙った。
リシアが小さく笑う。
「良樹」
「今回は従いなさい」
カレンも頷いた。
「クラリスの方が、身体の使い方は分かると思います」
良樹は、少しだけ息を吐いた。
「……分かった」
「クラリス」
「いけるか」
クラリスは、右手をゆっくり握った。
「はい」
「ただし、出力は最低から」
「肩へ残るなら即停止」
「手首に違和感が出ても即停止」
「それと」
「それと?」
クラリスは、少しだけ赤くなった。
「今度は、裾に近づけないでください」
良樹は真顔で頷いた。
「絶対に近づけない」
◇
良樹は、クラリスの右腕の外側に、ごく薄い機構を展開した。
軸。
円盤。
そこから伸びる短い腕。
さらに、その先へ繋がる細いリンク。
半透明の機械要素が、クラリスの肘から拳の外側に沿って浮かぶ。
魔導盤とは違う。
線ではない。
接点ではない。
ただ流すだけの魔力でもない。
そこには、力を伝える形があった。
「……これが、藤田さんの」
良樹は小さく呟いた。
「《魔導工廠》の入口だ」
リシアは、魔力の流れを見ていた。
「良樹の盤より、形が硬い」
「流れというより、部品みたい」
「ああ」
「だから怖い」
「制御をミスると、身体じゃなくて機械の都合で動く」
カレンは剣の柄に手を添え、周囲を確認する。
「射線、前方だけです」
「的の後ろに人影なし」
「右へ逃がす場所もあります」
「助かる」
クラリスは、静かに拳を構えた。
いつもの清楚な僧侶の顔ではない。
氷の制圧者の顔でもない。
身体を知る者の顔だった。
「良樹くん」
「回してください」
「いくぞ」
「最低出力」
「立ち上がり、遅く」
「加速制限」
「戻り線、確保」
半透明の軸が、ゆっくり回った。
回転が、短い腕を押す。
短い腕が、リンクを押す。
リンクが、クラリスの拳の外側へ力を渡す。
クラリスの拳が、前へ出た。
遅い。
だが、重い。
ただの腕力ではなかった。
ただの魔力でもなかった。
回転を直線へ変えた力が、拳の軌道に沿って、前へ押し出された。
クラリスは、肩を抜いた。
肘を固めない。
腰を逃がす。
膝を沈める。
力を受けるのではなく、通す。
「……入ります」
クラリスが言った。
次の瞬間、拳が的に触れた。
どん、と。
派手な爆発ではなかった。
けれど、木板の中心が、深くへこんだ。
藁束が後ろへ押され、杭が地面の中でぎしりと鳴る。
クラリスの拳は、止まっていた。
手首は折れていない。
肘も流れていない。
肩も上がっていない。
力だけが、前へ抜けていた。
良樹は息を呑んだ。
「……入った」
リシアも、目を見開いていた。
「今の」
「魔法じゃないわね」
カレンが小さく言う。
「剣でも、拳でもないです」
「でも、拳でした」
クラリスは、ゆっくり息を吐いた。
「壊さずに、届きました」
良樹は、クラリスの手首を見る。
「痛みは」
「ありません」
「肩は」
「少し重いです」
「ですが、残ってはいません」
「肘は」
「大丈夫です」
良樹は、そこでようやく息を吐いた。
「……成功だな」
「はい」
「ただし」
クラリスは、良樹を見た。
「一人では駄目です」
良樹は頷いた。
「ああ」
「一人でやったら、たぶん肘か肩を壊してた」
「はい」
クラリスは、まだ少し赤い顔で微笑んだ。
「だから、私が見ます」
「治す前に」
「壊れる前に」
良樹は、クラリスを見た。
さっきまでの事故を思い出しそうになって、すぐに視線を戻す。
今見るべきは、そこではない。
拳。
肩。
呼吸。
身体の使い方。
そして、クラリスの役割。
「……分かった」
「藤田さんの術を試す時は」
「お前が要る」
クラリスの目が、少しだけ揺れた。
「はい」
良樹は、短く続けた。
「治せるからじゃねえ」
「壊さないために」
クラリスは、今度こそ静かに微笑んだ。
「はい」
「それが、私の役目です」
リシアは、少しだけ息を吐いた。
「結局、ちゃんと講習になったわね」
「途中、尊厳保護インターロックが落ちたがな」
良樹がぼそりと言う。
カレンが慌てて言った。
「落ちたというより、未実装だったと思います……」
「実装する」
良樹は真顔で答えた。
クラリスは、まだ赤みの残る顔で、そっと法衣の裾を押さえた。
「お願いします」
「強く、お願いします」
「分かった」
良樹は頷いた。
「裾巻込み防止」
「可動域制限」
「解除方向確認」
「上方向逃がし禁止」
「あと、尊厳保護インターロック」
リシアが半眼になる。
「結局その名前、採用するの?」
「仮称だ」
「仮称で済ませる顔じゃないわね」
カレンは、少しだけ笑った。
クラリスも、小さく笑った。
笑ったあと、右手を見た。
さっき、機械の力が通った手。
壊れなかった。
痛めなかった。
だが、確かに届いた。
藤田吾郎の手記。
良樹の魔導盤。
クラリスの身体。
三つが、ほんの少しだけ繋がった。
良樹は、的に残ったへこみを見ていた。
派手な破壊ではない。
だが、意味は大きい。
魔導盤だけではない。
魔導工廠だけでもない。
制御して、機構を動かす。
機構を、身体に沿わせる。
身体を、壊さずに力を通す。
それは、英雄への道程の、また別の入口だった。
良樹は、もう一度クラリスを見る。
「クラリス」
「はい」
「今日は助かった」
「色々と」
クラリスの顔が、また少し赤くなった。
「色々、の中身は聞きません」
「聞かない方がいい」
「はい」
リシアが、じとっと良樹を見る。
「良樹」
「何だ」
「二度と詩に逃げるんじゃないわよ」
「努力する」
「努力じゃなくて確約しなさい」
「善処する」
「一番信用できない返事ね」
クラリスは、法衣の裾を押さえたまま、静かに微笑んだ。
「大丈夫です」
「次は、私ももっと早く押さえます」
「次を想定するな」
良樹が言う。
クラリスは少しだけ首を傾げた。
「再発防止とは、次を想定することでは?」
「正論で逃げ道を塞ぐな」
「逃がしません」
その声は柔らかい。
けれど、逃がさない。
良樹は空を見上げた。
今日の空も、やはり青かった。
ただし、今日の良樹は何も言わなかった。
言えば、また何かが終わる気がしたからだ。
そして、その判断だけは、今日一番正しかった。




